2023年01月一覧

第2914話 2023/01/12

「司馬史観」批判の論文を紹介

 「洛中洛外日記」2912話(2023/01/10)〝司馬遼太郎さんと古田先生の思い出〟で紹介した、古田先生の「司馬史観」批判ですが、先生から聞いたのは20年以上も昔のことです。記憶は鮮明に残っているのですが、このことを活字化した論稿を探しました。というのも、先生は真剣な表情で語っておられましたので、これは重要テーマであり、文章として遺されているのではないかと考えたからです。ちなみに、わたしの記憶では次のような内容(大意)でした。

 〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟

 20年以上も昔の会誌や講演録から探しだすのは大変な作業で、通常ですと数日かかるのですが、幸いにも今回はすぐに見つけることができました。『現代を読み解く歴史観』に収録された「教育立国論 ――全ての政治家に告ぐ」という論文中にあったのです(注①)。関係個所を転載します。

 〝ここで、一言すべきテーマがある。「昭和の戦争」を「無謀の戦争」として非難し、逆に、明治を理想の時代のようにたたえる。司馬遼太郎などの強調する立場だ。後述するように、それも「一面の真理」だ。だが、反面、いわゆる「昭和の愚戦」否、「昭和の暴戦」をリードしていたのは、まぎれもなく、「明治生れの、愚かしきリーダー」だったのである。この点もふくめて、後に明らかにしてゆく。〟『現代を読み解く歴史観』98頁

 〝では、わたしたちが今なすべきところ、それは何か。「教育立国」この四文字、以外にないのである。
明治に存在した、負(マイナス)の面、それは「足軽たちのおぼっちゃん」が、諸大名の「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った。当然、「見識」も「我慢」も知らぬ“おぼっちゃん”たちが、「昭和の愚劣にして悪逆」な戦争をリードした。少なくとも、「命を張って」食いとめる勇気をもたなかった。「昭和の愚劣と悪逆」は、「明治生まれの世代」の責任だ。この一点を、司馬遼太郎は「見なかった」あるいは「軽視」したのである。〟同上、101頁

 ほぼ、わたしの記憶と同趣旨です。また、〝「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った〟という表現(語り口)も、はっきりと記憶しています。これをわたしは〝明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達〟という表現に代えて記しました。

 これからも、古田先生から聞いた貴重な話題については、わたしの記憶が鮮明なうちに書きとどめ、先生の思想や業績を後世に伝えたいと願っています(注②)。幸い、「市民の古代研究会」時代からの同志がご健在で、その方々への確認もできますので、この作業を急ぎたいと思います。最後に、古田先生の「司馬史観」批判を『現代を読み解く歴史観』に収録し刊行された、東京古田会と平松健さん(同書編集担当)に感謝いたします。

(注)
①古田武彦『現代を読み解く歴史観』ミネルヴァ書房、2013年。
②なかでも30年前に行った和田家文書調査(津軽行脚)は、古田先生をはじめ当地の関係者がほとんど物故されており、当時の情況の記録化が急がれる。


第2913話 2023/01/11

観世音寺の和風寺号と漢風寺号

先週の多元的古代研究会主催のリモート研究会で、藤田さんによる『元興寺伽藍縁起』の講読がありました。活字本だけではなく写本(写真版)に基づく解説で、活字本には文字の改変がなされた部分があることを教えていただき、とても勉強になりました。
飛鳥に創建された元興寺の元々の名称は法興寺とも飛鳥寺ともされており、寺名の変遷については諸説があります。そのときの質疑応答では、飛鳥池遺跡(天武期の層位)から出土した木簡に「飛鳥寺」と記されたものがあることを参加者(岩田さん)から紹介されました。わたしからも紹介しましたが(注①)、「飛鳥寺」の銘文を持つ七世紀末頃(694年)の金石文もあります。「法隆寺観音像造像記銅板(奈良県斑鳩町)」に次の銘文があり、「飛鳥寺」が見えます。

「法隆寺観音像造像記銅板」(奈良県斑鳩町)
(表) 甲午年三月十八日 鵤大寺德聡法師 片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師 三僧所生父母報恩 敬奉觀世音菩薩
像依此小善根 令得无生法忍 乃至六道四生衆生 倶成正覺
(裏) 族大原博士百済在王此土王姓

このように、寺号には和風寺号として「鵤(いかるが)大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」があり、たとえば「鵤大寺」には漢風寺号「法隆寺」が『日本書紀』に見え、複数の名前を持つことが知られています。後代になると「山号」も称されるようになりますが、法隆寺のように山号を持たない寺院もあります。この和風と漢風の寺号に注目しているのですが、一般的には和風寺号は地名に関係しているものがあり、鵤寺や飛鳥寺は所在地名に関係するものです。
古代(七世紀頃)において、寺名に和風と漢風の双方を持つのが一般的であれば、九州王朝の代表的寺院にも和風と漢風の両寺号を持っていたと考えることができます。そこで、まず検討の対象となるのが太宰府の観世音寺(白鳳十年[670年]創建。注②)と難波の天王寺(現・四天王寺、倭京二年[619年]創建。注③)です。現在の観世音寺の名称は「清水山(せいすいざん)観世音寺」とされており、和風寺号は見えません。天王寺は現在では「荒陵山(あらはかさん)四天王寺」で、ここにも和風寺号は見えません。
そこで、古典を根拠に類推すれば、次の和風寺号候補があげられます。

○観世音寺 「清水(しみず・きよみず)寺」 典拠『源氏物語』玉蔓の巻「大弐の御館の上の、清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、みかどの行幸にやはおとれる。」
○天王寺 「難波(なにわ)寺」 典拠『二中歴』年代歴「倭京 二年難波天王寺聖徳造」

「難波」は上町台地の地名として伝わっていますが、「清水」という地名としては観世音寺域には伝わっていないようです。ただ『源氏物語』に基づいて、江戸時代の黒田藩士・加藤一純により、観世音寺五重塔心礎の傍らに「清水記碑」が建てられており、当地に清水が湧き出していたことを伝えています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2418話(2021/03/22)〝七世紀「天皇」「飛鳥」金石文の紹介〟
同「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
②同上「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」『東京古田会ニュース』192号、2020年。
③『二中歴』年代歴に「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とある。「倭京」は九州年号で、元年は618年。『日本書紀』には「四天王寺」の創建を推古元年(593年)とする。次の拙稿を参照されたい。
同上「九州王朝の難波天王寺建立」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。


第2912話 2023/01/10

司馬遼太郎さんと古田先生の思い出

今年は司馬遼太郎さん(注①)の生誕百年とのこと。恐らく様々な記念番組が企画されるのではないでしょうか。古田先生は生前に司馬さんとお付き合いがあり、何度か司馬さんのことについて話されたことがありました。司馬さんも『週間朝日』に連載された「司馬遼太郎からの手紙・四七回」で古田先生との出会いの様子を記しており、そのことを『古田史学会報』で紹介したことがあります(注②)。
先生が文京区本郷にお住まいのとき(注③)、何度か訪問したことがあり、そのおりに司馬さんのことを聞いた記憶があります。司馬さんのご自宅の本棚には古田先生の著書が並んでいることや、「司馬史観」に対する見解などをお聞きしました。
「司馬史観」を単純化して言えば〝明治の政治家は良かったが、昭和の政治家はダメ〟というものですが、古田先生の視点は少々異なっていました。日本の近現代史について、先生とお話ししたことはあまり多くないのですが、「司馬史観」を批判して、次のように語られました。

〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟(大意。古賀の記憶による)

古田先生らしい骨太の歴史観であり、「司馬史観」を超えるものではないでしょうか。司馬さんの生誕百年にあたり、この話を先生からお聞きしたことを思い出しました。

(注)
①司馬遼太郎(しば りょうたろう、大正12年(1923年)8月7日~平成8年(1996年)2月12日は、日本の小説家、フィクション作家、評論家。位階は従三位。本名は福田定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
司馬の作り上げた歴史観は、「司馬史観」と評される。その特徴としては日清・日露戦争期の日本を理想視し、(自身が参戦した)太平洋戦争期の日本を暗黒視する点である。人物においては、高評価が「庶民的合理主義」者の織田信長、西郷隆盛、坂本龍馬、大久保利通であり、低評価が徳川家康、山県有朋、伊藤博文、乃木希典、三島由紀夫である。この史観は、高度経済成長期にかけて広く支持を集めた。(ウィキペディアより抜粋)
②古賀達也「事務局だより」『古田史学会報』37号(2000年4月4日)。
③昭和薬科大学(東京都町田市)の教授に就任した時代。学問研究のため、東京大学図書館・史料室などに近い本郷に居したと聞いている。


第2911話 2023/01/08

九州王朝の末裔、「筑紫氏」「武藤氏」説

九州王朝研究のテーマの一つとして、その末裔の探索を続けてきました。その成果として高良玉垂命・大善寺玉垂命が筑後遷宮時の九州王朝(倭国)の王とする研究(注①)を発表し、その末裔として稲員家・松延家・鏡山氏・隈氏など現代にまで続く御子孫と遭遇することができました。他方、七世紀になって筑後から太宰府に遷都した倭王家(多利思北孤ら)の末裔については調査が進んでいませんでした。
古田説によれば、筑紫君薩野馬などの「筑紫君」が倭王とされていますので、古今の「筑紫」姓について調査してきました。調査途中のテーマですが、筑紫君の末裔について記した江戸期(幕末頃)の史料『楽郊紀聞』を紹介します。同書は対馬藩士、中川延良(1795~1862年)により著されたもので、対馬に留まらず各地の伝聞をその情報提供者名と共に記しており、史料価値が高いものです。そこに、「梶田土佐」(未詳)からの伝聞情報として、筑紫君の後裔について次の記事が見えます。

「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞こえたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子共をつれて黒田長政殿にも嫁ぎし由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上(梶田土佐話)。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁。(注②)

ここに紹介された筑紫上野介は戦国武将として著名な筑紫広門のことです。この筑紫氏が「往古筑紫ノ君の末」であり、その子孫が筑前黒田藩に仕え、「只今二軒ある」としています。この記事に続いて、校注者鈴木棠三氏による次の解説があります。

「*筑紫広門。椎門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。両度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁

この解説によれば、「中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した」とあることから、現在、九州地方での「武藤」さんの分布が佐賀市や柳川市にあり(注③)、この人達も九州王朝王族の末裔の可能性があるのではないかと推定しています。これまで九州王朝の末裔調査として「筑紫」さんを探してきましたが、これからは「武藤」さんの家系についても調査したいと思います。

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②『楽郊紀聞』中川延良(1795~1862年)、鈴木棠三校注、平凡社、1977年。
③「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
〔武藤〕姓 人口 約86,800人 順位 245位
【都道府県順位】
1 東京都 (約8,800人)
2 岐阜県 (約6,900人)
3 埼玉県 (約6,500人)
4 神奈川県 (約6,400人)
5 愛知県 (約6,200人)
6 福島県 (約6,000人)
7 茨城県 (約4,700人)
8 千葉県 (約4,700人)
9 北海道 (約3,700人)
10 秋田県 (約3,600人)

【市区町村順位】
1 岐阜県 岐阜市 (約2,100人)
2 福島県 二本松市 (約1,200人)
3 岐阜県 関市 (約800人)
3 秋田県 秋田市 (約800人)
5 岐阜県 郡上市 (約800人)
5 山梨県 富士吉田市 (約800人)
5 茨城県 常陸太田市 (約800人)
8 秋田県 大仙市 (約800人)
9 群馬県 高崎市 (約800人)
10 佐賀県 佐賀市 (約700人)

【小地域順位】
1 山梨県 富士吉田市 小明見 (約300人)
2 群馬県 太田市 龍舞町 (約300人)
3 山梨県 富士吉田市 下吉田 (約300人)
4 茨城県 常陸太田市 春友町 (約300人)
5 福岡県 柳川市 明野 (約200人)
6 千葉県 印西市 和泉 (約200人)
7 群馬県 北群馬郡吉岡町 下野田 (約200人)
8 神奈川県 逗子市 桜山 (約200人)
8 岐阜県 郡上市 相生 (約200人)
8 茨城県 那珂市 本米崎 (約200人)


第2910話 2023/01/07

「井真成」の村、熊本県産山村

2005年から始めた「洛中洛外日記」第1回のテーマは「井真成(いのまなり)異見」でした。当時、中国で発見された「井真成墓誌」が注目され、井真成の出身地について諸説が出ました。古田先生は、「井(wi)」は上古音の「倭(wi)」に由来するのではないかとされました。すなわち、倭国(九州王朝)の王族か関係者の末裔の可能性を示唆され、その傍証として、現代の苗字の「井」さんの分布が熊本県阿蘇郡の産山村・南小国村・一ノ宮町に濃密であることに着目されました。
同研究は大きな進展を見せることもなく今日に至っていますが、昨年末に物理学者の上村正康先生から次のメールが届きました。要約して紹介します。

古賀達也様
本日(12/26)の朝日新聞夕刊(福岡地区)社会面の大きな記事(「全国の井さん集まれ 産山村村おこし」)を見て、古賀さんにお知らせ致したくメールいたしました。この記事は、九州地区だけではないでしょうか。
記事を見てすぐ思い出したのは、2004年に中国で発見された在唐の日本留学生「井真成」墓誌の発見報道です。この墓誌の重要性から、大きな話題になりました。古賀さんも「洛中洛外日記」の第1話(2005/06/11)で「井真成(いのまなり)異見」を発表されています。
というわけで、古賀さんからこの産山村の「全国いーさん祭り準備委員会」実行委員長(村商工会 会長)井博明さんに連絡を取られて解説・宣伝されたら如何でしょうか。
厳寒に向かいます。ご自愛ください。良い年をお迎えください。来年もよろしくお願いいたします。
12月26日 上村正康

上村先生は九州大学教授時代の頃から古田先生の支持者です。1991年に福岡市で開催された物理学の国際学会のバンケットスピーチでは、邪馬壹国説・九州王朝説を紹介され(注①)、参加各国の物理学者の関心を集めました。上村先生とは「市民の古代研究会」時代からのお付き合いで、近年では2019年7月に博多駅でお会いし、旧交を温めました(注②)。
このメールをいただいたことがきっかけとなり、「井(いい)(い)」姓について改めて考えてみました。以前から気になっていたのですが、江戸幕府大老の井伊直弼で有名な彦根藩の井伊家も本来は「井(いい)」だったのではないでしょうか。同家系図(注③)によれば始祖を「大織冠鎌足」としており、そこからは九州王朝との関係はうかがえません。しかし、鎌足を始祖とする北部九州の氏族(注④)が散見されますので、系図の信頼性も含めて検討が必要と思われます。なお、「井伊」さんの最濃密分布地は愛媛県であり、その由来も知りたいところです。
もう一つ気になっていることがあります。現代の「井」さんの最濃密分布地は阿蘇郡産山村とその近隣ですが、小分布が長崎県対馬市にあります。壱岐・対馬は天孫族の故地ですから、この分布にも歴史的背景があるように思います。こうしたことも九州王朝説に基づく研究と解明が必要です。

(注)
①1991年11月に福岡市で開催された物理学国際学会の晩餐会で、古田説を英語で紹介(GOLD SEAL AND KYUSHU DYNASTY:金印と九州王朝)した。
②古賀達也「洛中洛外日記」第1938話(2019/07/13)〝物理学者との邂逅、博多駅にて〟
③「井伊系図」『群書類従系図部集 第五』1985年。
④菊池氏、星野氏、他。


第2909話 2023/01/06

舒明紀十一年条「伊豫温湯宮」の不思議

「古田史学の会」会員や「洛中洛外日記」読者から、毎日のように情報や質問が届き、とても勉強になっています。昨年末には、白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)から興味深い質問が届きました。それは、舒明紀十一年(639年)十二月条に見える「伊豫温湯宮」を天皇の宮殿と考えてもよいかというもので、ちょっと意表を突かれました。

「十二月の己巳の朔、壬午(14日)に、伊豫温湯宮(いよのゆのみや)に幸(いま)す。」

翌年の夏四月、伊豫からの帰還記事が見えますから、これらの記事が正しければ舒明は四ヶ月も伊豫温湯宮にいたわけで、飛鳥の宮を留守にしていたことになります。

「夏四月の丁卯の朔、壬午に(16日)、天皇、伊豫より至(かへ)りおはしまし、便(すで)に厩坂宮(うまやさかのみや)に居(ま)します。」舒明紀十二年(640年)夏四月条

岩波の『日本書紀』頭注によれば、伊豫温湯宮を「松山市道後温泉にあった宮」、厩坂宮については「大和志は古蹟未詳とする」とあります。伊豫温湯宮とあることから、伊予国内の温泉地にある宮と解さざるを得ませんので、道後温泉にあった宮とすることは理解できますが(注)、そのような近畿天皇家の宮殿の造営記事は見えませんし、近畿には有馬温泉があるのですから、わざわざ船旅を経て伊予の温泉に行く理由も不明です。この記事が、九州王朝系史料からの転用であったとすれば、九州には太宰府の近隣に二日市温泉があり、豊後には別府温泉があるのに、わざわざ豊予海峡を渡り、伊豫温湯宮に四ヶ月も天子(天皇)がいた理由が、やはり不明です。
このように、白石さんが着目された「伊豫温湯宮」は不思議な記事なのです。そもそも、伊豫温湯宮に四ヶ月もいた天皇とは誰なのでしょうか。その天皇が帰ったとされる厩坂宮はどこにあったのでしょうか。おそらく九州王朝系の「天皇」と「厩坂宮」に関する記事の転用ではないかと思いますが、それでも九州王朝の天子の行動としては、その理由がよくわかりません。もしかすると九州王朝の天子(ナンバーワン)の下の天皇(ナンバーツー)の行動記事(湯治か)かもしれません。その場合、伊予を拠点としていた当地の(九州王朝から任命された)「天皇」と解すれば、有馬温泉でも別府温泉でもなく、伊豫温湯宮だったことの説明がしやすくなりますし、四ヶ月の長期滞在もあり得ることです。
なお、天皇の伊予来湯伝承を九州王朝によるものとする合田洋一さんの先行研究(『葬られた驚愕の古代史』他)があります。これからの白石さんの研究を待ちたいと思います。

(注)愛媛県には道後温泉の他にも古い温泉(西条市本谷温泉、今治市鈍川温泉)があり、「伊豫温湯宮」を道後温泉と断定するものではありません。


第2908話 2023/01/05

古田先生が生涯貫いた在野精神 (3)

『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年)に寄稿者として名を連ねている高田かつ子さん(多元的古代研究会・前会長)から教えていただいた次の逸話があります。それは古田先生が昭和薬科大学に教授として招聘されるときの話だそうです。

〝今から十二年前の昭和五十九年三月、上京していらっしゃった古田先生と池袋の喫茶店でお目にかかった。昭和薬科大学に教授として招かれたので、東京での拠点を探しに上京されたとのことであった。
「まだ迷っているのですよ。」
なぜ、と問いかける私に、大学教授という社会的に地位のある職に就くことは堕落に通じることではないかと心配しているのだとおっしゃる。それをお聞きして私はストンと胸に落ちるものがあった。それは、こういう話をお聞きしていたからであった。
昭和二十三年、先生は東北大学を卒業してすぐ、信州松本の深志高校に奉職された。深志での四年間は、教師として人間として、生徒と共に遊んで学んで育っていった原点でもあったとおっしゃる。そして昭和二十七年、あとどうなるか全く分からずに「やめます」と言って去る日、松本駅に見送りに来ていた人達の中から一人の青年が、動きだした列車と共に走りながら「堕落するなよ!」と叫んだというのである。
「堕落するなよ」、それは都会へ行って落ちぶれるなという意味ではもちろんない。エリート面してしまうなよ、雲の上のようなインテリになってしまうなよ、というのが彼の言う「堕落するなよ」という意味であることは先生にはすぐ分かったそうである。先生が最初に教えた三つ年下の生徒で、付き合いが深かったせいでもあるとおっしゃる。
(中略)
大学教授になってからの先生の行動は堕落とはおよそ対局にあるものであった。和田家文書にしてもしかり。大学教授としての地位に甘んじることなく研究に打ちこんでいらしたことは周知の事実である。〟「志の人・古田武彦に乾杯」(注)

古田先生が昭和薬科大学に奉職されるにあたってのエピソードで、生涯、在野精神を貫かれた先生らしい話です。この話を伝えた高田かつ子さんは、その後病に倒れられました(2005年5月7日没)。亡くなる二日前の言葉が遺されていますので、最後に紹介します。

「古田先生より先には死ねない。まだ死んでいる場合ではないんだ。きっと先生が亡くなった後はみんなが我が物顔に先生の説を横取りしてとなえ始める人が出できて大変だろうから、その時には私が証人にならなければ。(村本寿子さん談)」

(注)『古代に真実を求めて 古田武彦古稀記念特集』第二集、明石書店、1998年。


第2907話 2023/01/04

古田先生が生涯貫いた在野精神 (2)

『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年)の末尾の資料紹介(古田先生の略歴・著作・論文・他)に、先生を紹介した新聞記事(発行日不明。朝日新聞か)「野に学者あり」のコピーが収録されています。「燃えたぎらす論争の炎」「批判できねば学問終わり」という見出しとともに次の記事が見えます。

〝古田氏の業績は古代の分野だけではない。親鸞研究では、早くからその名が知られていた。にもかかわらず、終始「素人」を名のる。大学からのさそいも、一貫してことわり続けている。
「現代の日本では、研究機関に所属すること、それはどこかの学閥の中に組み込まれることになる。となると、師や仲間うちの批判はきわめてむつかしい。非学問的理由で、先学を批判できないとしたら、学問の進歩もなければ面白味もない」
在野の弁を明快にこう語る。
(中略)
古田氏は、過去に一度だって、研究機関に職を得たことはなかった。それゆえ、学問のためとあらば、どんな大家であろうと、教えをこうた人であろうと、遠慮会釈なく俎上(そじょう)に乗せる。学問の本筋とは元来そうしたものであるべきだと固く信じている。しかし、あまりの批判の厳しさに、それとなく忠告してくれる人もいるが、彼はいつもそれに笑って答える。
「遠慮して批判を避けるようなときが来れば、在野にいる意味もない。私の学問も終わるときです」。〟(つづく)


第2906話 2023/01/03

古田先生が生涯貫いた在野精神 (1)

来週の14日(土)に東京古田会主催の和田家文書研究会で、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」を発表させていただくことになり、準備のために30年以上昔の資料を読み直しています。その手始めに読んだのが『古田武彦とともに』創刊第1集(古田武彦を囲む会編、1979年。B5版68頁)です。同誌には「会員頒布」とあり、今でも入手困難な一冊です。同誌には古田説に出会った感動と悦びに満ちた会員の論稿で溢れており、当時の熱気が伝わってきます。
中谷義夫会長による「会報発行の所感」に続いて、古田先生の「母なる探求者 ―孤独の周円―」が掲載されています。その冒頭には次のように記されています。

「わたしには不思議である。
これはたった一人で歩みはじめた、孤独な探求の道であった。現代の学界はこれをうけ入れず、今までいかなる博学の人々も、このように語ったことはなかった。そういう断崖に切り立った小道を、わたしはひとり歩みつづけてきたのだ。
それが今、ふと見まわすと、わたしのまわりには、数多くのなつかしい人々が見える。そしてうしろからもヒタヒタと足音がする。いや、前にも、もう、一歩、二歩歩きはじめている若者たちの姿が見えているようにさえ思えるのである。荒野の中に多くの道を切り開きつつすすむ人々の群れのように。――これはどうしたことであろうか。
思うに、わたし個人は、とるに足らぬ一介の探求者である。長い時間の中で、うたかたのように浮んでは消えてゆくひとつのいのちだ。そのわたしをささえ、とりまいているこれらの人々こそ、真の探求者、真の母体なのではあるまいか。わたしは母なる探求者をこの世で代理し、いわばその〝手先〟をつとめる者にすぎぬ。わたしにはそのように思われるのである。」

この『古田武彦とともに』は『市民の古代 古田武彦とともに』から『市民の古代』へと変わり、「古田武彦を囲む会」は後に「市民の古代研究会」へと改名します。ちなみに、『古田武彦とともに』第1集には、「古田史学の会」という会名のもとになった「古田史学」という呼称が散見します。たとえば朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』を出版した米田保さんの「『「邪馬台国」はなかった』誕生まで」には次のようにあります。

「こうして図書は結局第十五刷を突破し、つづけて油ののった同氏(古田先生のこと)による第二作『失われた九州王朝』(四十八年)第三作『盗まれた神話』(五十年二月)第四作(同年十月)と巨弾が続々と打ち出され、ここに名実ともに古田史学の巨峰群の実現をみたのである。」

「市民の古代研究会」で九州年号研究を牽引した丸山晋司さんの「ある中学校の職員室から」には次のように「古田学派」という言葉が使用されています。

 「自分がもし社会科の教師になっていたら、受験前の生徒達に古田説をどう教えられるのか考えただけでもゾッとする。故鈴木武樹氏の提唱した「古代史を入試に出させない運動」は、我々古田学派にこそ必要なのではないかと思ったりもする。それでないと、社会科の教師の自由な研究はよほどの読書家・探求者にしか望めない。教師はそうであってはならない。けれど頭の中までかなり束縛されているのも教師だと思う。」

「古田史学」や「古田学派」の語は、この『古田武彦とともに』第1集が初出あるいは早期の使用例ではないかと思います。(つづく)


第2905話 2023/01/01

令和四年の回想「新時代の予感」

「古田史学の会」の皆さん、「洛中洛外日記」読者の皆さん、古田ファンの皆さん、古代の真実を愛する皆さん、新年のご挨拶を申し上げます。令和四年(2022)は内外ともに衝撃的で暗い事件が多く、恐らく歴史の転換点の年として記憶されるのではないでしょうか。ここでは古田史学と「古田史学の会」に焦点を絞って令和四年を振り返ってみます。
もっとも象徴的で印象に残ったことが二つあります。一つは、奈良新聞に正木さんの講演記事が大きく掲載されたことです。これは偶然でも僥倖でもなく、関係者による数年にわたる地道な努力の賜物です。このことに深く感謝しています。
二つ目は、インターネットを利用したリモート会議システム(zoom、skype)の研究会活動への採用です。このシステムのおかげで、わたしは多元的古代研究会や東京古田会の例会などに参加させていただくことができ、関東や東北他方の研究者と学問的交流と信頼関係を深めることができました。わたし自身も多くのことを学ぶことができ、今まで知らなかった優れた研究者との出会いも続いています。わたしも研究発表のご依頼をいただくこともあり(注)、自らの研究や認識を見直すよい機会にもなっています。また、「古田史学リモート勉強会」を開催し、今まで機会がなかった遠方の研究者との交流をわたしも始めました。
この二つの事例は、十年前であれば想像もできなかったことであり、わたしたちが歴史の転換点に立っていることを暗示しているように思います。今、このときが新時代なのかもしれません。
最後にわたし個人のことですが、定年退職後二年を経て、ようやく体調が改善しました。定年前十年間のハードワークがたたり、身体はぼろぼろでしたので、養生を続けて薬の服用を全てやめることができました。これからは学問研究と「古田史学の会」の運営、古田学派全体への貢献に尽力する所存です。皆さんのご支援、ご教導をお願いいたします。

(注)本年1月と3月の東京古田会主催「和田家文書研究会」で発表予定です。