2023年06月09日一覧

第3037話 2023/06/09

律令制都城論と藤原京の成立(3)

 新庄宗昭さんが『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)で発表された諸仮説の大半については、わたしも同意見です。他方、新庄説のなかでも最も賛成できないテーマが、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期(新庄説)とするのか、天武期(通説)とするのかです。最大で約30年もの差異がありますので、考古学的出土物(エビデンス)により、どちらが妥当かは明らかになると思います。

 藤原宮と藤原京の造営経緯を簡単に言えば、藤原京条坊造営開始が先行し、一旦造った条坊道路や側溝などを埋め立てて、その上に藤原宮(大宮土壇)が造営されています。通説ではその年代を、天武期に条坊の造営が開始され、持統期に藤原宮が創建されたとします。

この年代観の根拠となったのが、藤原宮下層から出土した干支木簡です。「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記した木簡が三点あり、天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)に相当します。これらの木簡は藤原宮下層の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮下層条坊道路を掘削して造られたことが判明しています。従って、下層条坊の造営開始は天武十三年以前と考えることができ、更に下層遺構出土土器が藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しています。

 更に下層条坊遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されたことがわかっています。また、下層条坊の側溝出土土器(須恵器坏B)の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。考古学エビデンスである干支木簡(683~684年)や年輪年代(682年伐採)、出土土器(須恵器坏B)編年に基づけば、下層条坊の造営は天武期頃とするのが適切であり、孝徳期・斉明期とするのはさすがに無理とわたしは考えています(注③)。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
③古賀達也「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3036話 2023/06/09

実在した「東日流外三郡誌」編者

―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―

 6月17日(土)の午前中に開催される「古田史学の会」関西例会で(午後は『九州王朝の興亡』出版記念講演会)、わたしは「和田家文書の明治写本と大正写本」というテーマを発表します。内容は、昭和61年頃にテレビ東京で放送された、文書所蔵者の和田喜八郎氏が登場する番組「みちのく黄金伝説の謎を求めて」(注①)の紹介がメインです。同番組中に五所川原市飯詰の長円寺(注②)にある和田家の墓石が映っており、同墓石や長円寺の過去帳を古田先生と調査したときのことを思い出しました。

 和田家文書偽作論者は「和田家は明治22年以前は飯詰村には住んでいなかった」と主張していましたが、現地調査により和田家が江戸時代から飯詰にあったことを確認できました(注③)。和田氏宅の近くにある長円寺に和田家墓地があり、文政十二年(1829年)に建てられた墓石が存在します。その表には四名の戒名と内三名の没年が彫られています。次のように読めました。
()内は古賀注。

慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)

裏面は次のようです。

文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏

壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(1829)に建立した墓碑でしょう。

 他方、長円寺の過去帳(原本は火災で焼失したとのこと。五所川原市教育委員会によるコピー版によった。)には「智昌良恵信士 文化十年十一月 下派 長三郎」「安昌妙穏信女 同年(文化十四年)十月下派 長三郎」との記載があり、墓石の戒名・没年と一致しています。長円寺御住職の説明では、「下派」とは「下派立(しもはだち)」の略であり、「長三郎」は喪主とのこと。ちなみに、和田家当主は「長三郎」を襲名しており、この長三郎は「和田氏」墓石との関連から、和田長三郎のことであり、時代からして和田吉次のこととなります。下派立とは長円寺や和田家がある旧地域名のことです。こうして飯詰村下派立に和田家が江戸時代から住んでいたことを金石文(和田家墓石)と長円寺過去帳の一致から証明できたのです。

 この他、同過去帳には「和田権七」や明治の「和田長三郎(末吉か)」の名前も見え、和田家歴代当主の名前が、和田家文書の記事と一致していることも確認できました(注④)。

 この調査は和田家が江戸時代から当地にあったことを証明するために行ったのですが、このことは、東日流外三郡誌の編者の一人、和田長三郎吉次の実在を意味しており、当調査の重要性に改めて気付くことができました。もう一人の編者、秋田孝季についても調査を続けています。

(注)
①「土曜スペシャル ミステリアス・ジャパン みちのく黄金伝説の謎を求めて」、テレビ東京・キネマ東京作成。MCは中尾彬氏。
②長円寺は曹洞宗の寺院で、和田家宅の近傍にある。
③古賀達也「和田家文書現地調査報告 和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年。
④長三郎吉次→長三郎権七→長三郎末吉→長作→元市→喜八郎。