2023年07月一覧

第3073話 2023/07/19

『飯詰村史』に記された「庄屋 長三郎」

 「洛中洛外日記」3068話(2023/07/14)〝秋田孝季の父、橘左近の痕跡調査(1)〟で、『東日流外三郡誌』を編纂した和田長三郎吉次の実在を論じ、五所川原市飯詰の和田家菩提寺長円寺にある和田家墓石(文政十二年・1829年建立)や過去帳にその痕跡「和田氏」「長三郎」があったことを紹介しました。今回、ある調査(注①)のために『飯詰村史』を再読していたら、江戸時代の飯詰村のことを記した史料に「庄屋 長三郎」と書かれていることに改めて気付きました。

 30年ほど前、和田家文書調査のため、わたしは五所川原市や弘前市、青森市の図書館で現地の関係資料を探し求めました。そうして入手した史料の一つが昭和25年に発行された『飯詰村史』(同コピー)でした。『飯詰村史』は当地の高名な歴史家である福士貞蔵氏(注②)が編纂したものですが、昭和22年の夏に和田家の天井裏に吊してあった木箱が落下し、その中にあった和田家文書の一つ『諸翁聞取帳』が転載されており、和田家文書が古くからあったことを証明する貴重な書物でした。

 同書には、『東日流外三郡誌』を編纂した和田長三郎吉次と思われる人物の名前が記された江戸時代の史料が『安政二年 神社微細調社司由緒書上帳』(安政二年は1855年)が転載されていました。それには飯詰村の稲荷宮について次のように書かれていました。

 「稲荷宮 社司 和田壹岐
草創年號不詳 元禄年中御竿帳表
一、堂  社 二尺一寸、三尺、板造
一、雨  覆 二間、三間、板造
上飯詰村ニ而建立致來候
一、鳥  居 一ヶ所
一、御 棟 札 文政九丙戌年九月  庄屋 長三郎
嘉永三庚戌年十一月 庄屋 多吉
一、御 神 樂 年々六月十日定例執行仕候
一、御 供 米 無御座候
一、社堂田畑 無御座候
一、社  地 四間、五間
一、境  内 八間、五間
社司七代目元禄年中和田但馬代より所持罷有候」

 上飯詰村の稲荷宮の「文政九丙戌年九月」(1826年)の棟札に書かれている「庄屋 長三郎」こそ、当時、「長三郎」を襲名していた和田家の当主「和田長三郎吉次」に当たります。和田家は吉次の代で没落したようで、「嘉永三庚戌年十一月」(1850年)の棟札には「庄屋 多吉」とあるように、庄屋職が他家「多吉」に変わったことと整合します。社司の「和田壹岐」は安政二年(1855年)の人物であれば、和田喜八郎家とは別の和田氏と思われます。なお、和田壹岐の名前は和田家文書中に散見されますが、この「和田壹岐」も襲名されており、年代的に対応しているのかは精査が必要です。ちなみに、この稲荷宮をわたしは現地で見た記憶が微かにあります。田圃の中にある小さな祠でした。

 このように、和田家が江戸時代には飯詰の庄屋だったことが、和田家文書以外の史料に遺っていたわけです。この記事の部分にわたしは傍線を引いており、調査当初から気付いていたのですが、この史料事実が「和田長三郎吉次」実在のエビデンスであることまでは理解が至らなかったようです。今回の再読により、改めて気付くことができて幸いでした。

(注)
①飯詰の旧家、北屋名兵衛(飯塚名兵衛)の御子孫より、なぜ北屋(屋号)が飯塚名兵衛と名乗ったのかの問い合わせがあり、『飯詰村史』に書かれている経緯を調査した。村史によれば、宝暦五年に飯詰・金木両組の大庄屋を命じられた北屋名兵衛は苗字帯刀を許され、住んでいた地名の飯塚(高舘城址)を苗字にしたとある。

②福士貞蔵氏は優れた歴史研究者であり、戦後、和田家文書を最も早く実見し、世に紹介された人物でもある。和田喜八郎氏の話によると、文書が天井裏から落下した翌日に、福士氏に見せたとのこと。福士氏も諸論文で和田家から文書が出たことを述べている。

 五所川原市図書館には福士文庫があり、氏の直筆資料を収蔵している。30年前に同館を訪れたとき、京都から福士氏の調査に来たと、わたしが来館目的を告げると、同館の方は大層喜ばれ、福士氏を敬愛していることが会話からうかがわれた。ちなみに『飯詰村史』は、これまでわたしが読んだ村史の中では最も優れたものの一つであり、福士氏の執筆姿勢や村史編纂の情熱に感銘を受けたものである。和田家文書研究者には必読の一冊である。

【写真】福士貞蔵氏と『飯詰村史』

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

飯詰村史(昭和24年編集)

飯詰村史(昭和24年編集)


第3072話 2023/07/18

秋田孝季の父、橘左近の痕跡調査(3)

 『東日流外三郡誌』を編纂した秋田孝季の実在証明に取り組まれたのが太田斉二郎さん(古田史学の会・会員、当時副代表)でした。『東日流外三群誌』の末尾には「秋田土崎住 秋田孝季」と記されている例が多く、孝季が秋田土崎(今の秋田市土崎)で『東日流外三群誌』を著述したことがわかっていました。そのことに着目した秋田県出身の太田さんは、現地調査により秋田市土崎に橘姓が多いことを発見されたのです。秋田県や秋田市には全国的に見れば、橘姓はそれほど多く分布していません。むしろ少ないと言った方がよいかもしれません。ところが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していたのです(注①)。

 和田家文書によれば、秋田孝季のもともとの名前は橘次郎孝季(注②)だったのですが、孝季の母親が秋田家三春藩主に「後妻」として入ったことにより秋田孝季と名乗るようになったとされています。ですから、孝季の実家の橘家があった秋田土崎で『東日流外三群誌』を初めとした膨大な和田家文書の執筆に孝季は専念できたのです。

 また、秋田土崎には孝季の支援者もいたようで、藤本光幸さんの解説文(注③)には、孝季は「秋田土崎湊の由利家で浪人していた」とあり、現代の「由利」姓の分布について調べたところ、秋田県が最も多いことがわかりました(注④)。次の通りです。

【由利】姓 人口 約3,700人 順位 3,411位
〔都道府県順位〕
1 秋田県 (約900人)
2 北海道 (約500人)
3 東京都 (約300人)
4 京都府 (約200人)
5 宮城県 (約200人)

〔市区町村順位〕
1 秋田県 湯沢市 (約600人)
2 宮城県 大崎市 (約120人)
3 秋田県 横手市 (約100人)
4 兵庫県 豊岡市 (約90人)
5 京都府 京丹後市 (約90人)

 以上のように、秋田市土崎地区の「橘」さん、秋田県の「由利」さんの濃密分布は秋田孝季実在の傍証であり、和田家文書と両苗字分布の一致は偽作説の成立を困難としています。

 この秋田市土崎の「橘」さんを調査し、家系図やお寺の過去帳などに秋田孝季やその父親の橘左近の名前が記されていないかを調べたいと願っていたのですが、秋田県在住の青年Tさんに協力して頂けることになりました。長崎出島と秋田土崎での「橘左近」調査に期待しています。(おわり)

(注)

①太田斉二郎「孝季眩映〈古代橘姓の巻〉」『古田史学会報』24号、1998年。
古賀達也「洛中洛外日記」392話(2012/03/05)〝秋田土崎の橘氏〟

②「橘」は本姓、「次郎」は通称。苗字は不詳だが、和田家文書では孝季親子の苗字を意図的に伏せた可能性を考えるべきとする日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)の指摘がある。

③藤本光幸「『和田家文書』について」『和田家資料1 奥州風土記 陸奥史風土記 丑寅日本記全 丑寅日本史総解 丑寅日本雑記全』北方新社、1992年。

④「日本姓氏語源辞典」 https://name-power.net/


第3071話 2023/07/17

秋田孝季の父、橘左近の痕跡調査(2)

 中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)は久留米大学の公開講座に毎年のように参加されている熱心な方です。その御縁で、講演後に夕食をご一緒することになりました。今年の食事会でも久留米大学の福山先生らとともに楽しい一夕を過ごしました。

 その折、和田家文書が話題にのぼり、偽作説への反証として『東日流外三郡誌』を編纂した秋田孝季実在の証明が有効であることを説明しました。その具体的な方法として、孝季のお父さんの橘左近が長崎出島でオランダ通詞をしていたとのことなので、通詞のリストなどから実在を証明できる可能性があり、長崎市に住んでいる中村さんに調査を依頼しました。

 そうしたら、早速、現地の史料情況の解説や幕末頃の通詞一覧(万記帳)コピーが送られてきました。長崎市の図書館や資料館を巡り、調査を開始されたのですが、当初、思っていたよりも江戸期のオランダ関連資料が残されていることがわかりました。「橘左近」調査は始まったばかりですが、これから何が出てくるのか楽しみです。(つづく)


第3070話 2023/07/16

『九州倭国通信』No.211の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.211が届きました。同号には拙稿「古代寺院、『九州の空白』」を掲載していただきました。
拙稿は、七世紀初頭の阿毎多利思北孤の時代、九州王朝は仏教を崇敬する国家であったにもかかわらず、肝心の北部九州から当時の仏教寺院の出土が不明瞭で、七世紀後半の白鳳時代に至って観世音寺などの寺院建立が見られるという、九州王朝説にとっては何とも説明し難い考古学的状況であることを指摘し、他方、現地伝承などを記した後代史料(『肥後国誌』『肥前叢書』『豊後国誌』『臼杵小鑑拾遺』)には、聖徳太子や日羅による創建伝承を持つ六世紀から七世紀前半創建の寺院が多数記されていることを紹介したものです。
また、同号に掲載された沖村由香さんの「線刻壁画の植物と『隋書』の檞」は興味深く拝読しました。国内各地の古墳の壁に線刻で描かれた植物について論究されたものです。その研究方法は手堅く、導き出された結論も慎重な筆致の好論でした。各地の古墳に描かれた同じような葉について追究された結果、それは『隋書』俀国伝に記された倭人の風習として、食器の代わりに使用する「檞」に着目され(注)、それはアカガシであるとされました。なかなか優れた着眼点ではないでしょうか。

(注)『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
「俗、盤俎(ばんそ)無く、藉(し)くに檞(かし)の葉を以てし、食するに手を用(も)ってこれを餔(くら)う。」


第3069話 2023/07/15

賛成するにはちょっと怖い仮説

 本日、東淀川区民会館で「古田史学の会」関西例会が開催されました。わたしは久留米大学で追加発表した「吉野ヶ里出土石棺 被葬者の行方」を報告しました。今回の例会では、とても興味深く重要な研究が発表されました。
その一つが上田さんによる河内国分寺研究でした。柏原市にある河内国分寺周辺からは七世紀創建の多くの寺院が出土しており、当地は言わば九州王朝時代における仏教先進地と指摘されたことです。この地域について、わたしは不勉強でしたので驚くことばかりでした。九州王朝と大和朝廷による多元的国分寺という視点での更なる解明が期待されました。

 もう一つ、九州王朝王家の姓の変遷(倭姓→阿毎姓)を歴代中国史書から導き出し、九州王朝内で〝王統〟の変化があったとする日野さんの研究も注目されました。『宋書』に見える倭の五王は「倭」姓の氏族(物部氏とするのが有力)であり、『隋書』俀国伝に見える「阿毎」姓の王家とは異なる氏族とする仮説です。従来の古田説にはなかったテーマであり、賛成するにはちょっと怖い仮説ですが、検討すべき視点と思われました。

 7月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔7月度関西例会の内容〕
①河内国分寺について (八尾市・上田 武)
②宣化の詔について (茨木市・満田正賢)
③二つの大国主神譜 (大阪市・西井健一郎)
④吉野ヶ里出土石棺 被葬者の行方 (京都市・古賀達也)
⑤荷札木簡の干支表示と貢進國分布 (京都市・岡下英男)
⑥俀国伝と阿蘇山(姫路市・野田利郎)
⑦倭国の君主の姓について (たつの市・日野智貴)
⑧「神武」即位年と「皇暦・二倍年暦」 (川西市・正木 裕)

○関西例会・遺跡めぐり運営の提案(正木事務局長)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
8/19(土) 会場:都島区民センター ※JR京橋駅北口より徒歩10分。


第3068話 2023/07/14

秋田孝季の父、橘左近の痕跡調査(1)

 『東日流外三郡誌』を編纂した秋田孝季や和田長三郎吉次の実在を否定するという偽作論者の主張に対して、古田先生とわたしは津軽行脚を続け、両者の痕跡を探し続けました。和田長三郎吉次の痕跡は幸運にも恵まれて、わりと早く見つけることができました(注①)。

 五所川原市飯詰の和田家菩提寺、長円寺に和田家の墓石(文政十二年・1829年建立。注②)と過去帳があり、過去帳(原本は火災で焼失。五所川原市教育委員会によるコピー版によった)には「智昌良恵信士 文化十年十一月 下派 長三郎」「安昌妙穏信女 同年(文化十四年)十月下派 長三郎」との記載があり、墓石の戒名・没年と一致していました。「下派」とは「下派立(しもはだち)」の略であり、長円寺や和田家がある旧地域名。「長三郎」は喪主。和田家当主は「長三郎」を襲名しており、この長三郎は「和田氏」墓石との関連から、和田長三郎のことであり、時代からすると和田吉次に相当します。同過去帳には「和田権七」や明治の「和田長三郎(末吉か)」の名前も見え、和田家歴代当主の名前が、和田家文書の記事と一致することを確認できました。

 その後、もう一人の編者、秋田孝季実在の痕跡調査を行いましたが、こちらはまだ進んでいません。そこで、孝季の父親「橘左近」(注③)の痕跡調査を始めました。和田家文書によれば橘左近は長崎出島でオランダ通詞を勤めていたとありますので、その方面から実在を確認できないかと考えてきました。しかし、長崎まで行っての調査は容易ではありません。しかも、現地のどこにどのような史料があり、閲覧が可能かさえも簡単にはわかりません。そうしたとき、力強い助っ人が現れました。中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)です。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3036話(2023/06/09)〝実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―〟
②墓石には次の文が見える。()内は古賀注。
〔表面〕
「慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)」
〔裏面〕
「文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏」
壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(1829)に建立した墓碑であろう。
③『和田家資料4 北斗抄』p.477~478の「孝季系譜」による。

参考 令和5年(2023)2月18日  古田史学会関西例会

和田家文書調査の思い出 — 古田先生との津軽行脚古賀達也


第3067話 2023/07/13

『隋書』俀国伝に記された

         都の位置情報 (7)

 『隋書』俀国伝冒頭では、俀国の位置を百済・新羅の東南と記しているにもかかわらず、大業四年(608年)の隋使の行程記事には、「東」へ至るという方角記事はあっても、「南」に至るという記事がありません。これでは「東南」方向には行けませんので、方角が記されていない竹斯国や十餘国は「南」方向とするのが妥当な読解と考えました。その理解を後押しするのが、俀国の都「邪靡堆」のことを説明した次の記事です。

 「都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。」

 俀国の都とされた「邪靡堆」とは、『三国志』魏志倭人伝にある「邪馬臺」のことであるとの説明文です。実際には「邪馬壹国」と倭人伝にはあるのですが、ここでは『後漢書』の「邪馬臺国」表記(注①)が採用されています。倭人伝に記された女王卑弥呼が都した邪馬壹国の位置情報は次のように記されています。

 「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所、水行十日陸行一月。」

 古田説(注②)によれば、博多湾岸にあった不彌国の南に女王の都、邪馬壹国があるとする記事です。不彌国は邪馬壹国の〝玄関〟に相当し、その南に七万餘戸の大国「邪馬壹国」が隣接しています。従って、『隋書』の読者が先の「邪靡堆」解説記事を読めば、この倭人伝の一節に至り、都の「邪靡堆」は南方向にあるとの読解が妥当であることを確認できるようになっているわけです。もちろん『隋書』編纂者もそのように読者が認識することを期待して、「則魏志所謂邪馬臺者也」との説明文を記したのです。
従って、隋使の行路は糸島博多湾岸付近(竹斯国)に上陸した後、東へ向かい秦王国に至り、その後は南方向に十餘国を経て、海岸に達したと理解するのが最も妥当な解釈です(注③)。その結果、阿蘇山の噴火が見える肥後に至ることが可能となります。もし南以外の方向に進めば隋使は阿蘇山の噴火を見ることなどできません。この阿蘇山の記事も、隋使の進行方向が南であることを強く支持しているのです。なお、十餘国を経て着いた海岸を、当初わたしは有明海と考えていましたが、もっと南の不知火海方面かも知れません。十餘国という国の数を考えると、筑後の海岸(有明海北部)よりも肥後の海岸(有明海南部~不知火海)がより妥当かもしれません。この点、今後の検討課題にしたいと思います。(おわり)

(注)
①『後漢書』倭伝に次の記事が見える。
「倭は韓の東南大海の中にあり、山島に依りて居をなす。(中略)その大倭王は、邪馬臺国に居る。」
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
③この行路理解を実際の地図に当てはめると、旧西海道と一致するようである。糸島博多湾岸に上陸し、福岡市から筑紫野市へ、そして朝倉街道を東に向かい、うきは市方面に至り、その後、久留米市から南の八女市方面へ抜け、肥後に至るというルートを想定できる。恐らく、隋使は鞠智城を経由し、阿蘇山の噴煙を眺めながら肥後国府(熊本市)に至ったのではあるまいか。そして、有明海南部から不知火海付近の海岸に達したと思われる。


第3066話 2023/07/12

九州王朝宝冠の出土地

久留米大学公開講座の講演では、柳澤家所蔵の九州王朝の宝冠(注①)を紹介しました。男女一対の恐らくは金銅製の見事な宝冠であり、九州王朝の王族クラスのものと思われます。1999年6月19日、わたしは古田先生と筑紫野市の柳澤義幸さんのご自宅を訪問し、この宝冠を拝見しました(注②)。このときの写真を講演会でご披露し、出土地は太宰府近辺の古墳からと聞いただけで、詳細は不明と説明しました。
講演会終了後、福岡市から参加されたYさんから、出土地のことを記した本があることを教えて頂きました。本日、そのYさんからお電話をいただき、『豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へ』(注③)という本に、朝倉郡筑前町夜須松延の鷲尾古墳から出土したことが記されているとのことでした。
筑前町夜須松延の地名を聞き、同地が九州王朝倭王の子孫が居住した地とする史料「松野連系図」の存在をわたしは知っていましたので、この情報の信憑性を強く感じました(注④)。現在、鷲尾古墳の調査報告書を探していますが、どうも〝未調査〟のようです。
「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」によれば、五世紀の倭王「武」の次代「哲」の傍注に「倭国王」とあり、三代後の「牛慈」の傍注に「金刺宮御宇服降/為夜須評督」、四代後の「長提」の傍注には「小治田朝 評督/居筑紫国夜須評松狭野」と見え、「哲」から「長提」は六世紀初頭から評制の時代にかかる七世紀中頃の人物と考えられ、当地に九州王朝の王族が居住していたことがうかがえます。この系図の記事と柳澤家所蔵の宝冠が無関係とは思えません。引き続き、調査します。教えて頂いたYさんに感謝します。

(注)
①古田武彦『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、平成五年(1993)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古賀達也「古田先生と『三前』を行く」『古田史学会報』33号、1999年。
③平山昌博『豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へ』梓書院、2003年。
④古賀達也「洛中洛外日記」24322450話(2021/04/12~05/06)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(1)~(12)〟


第3065話 2023/07/09

大雨警報下の久留米大学公開講座

本日は一年ぶりに久留米大学公開講座(御井キャンパス)で講演させていただきました(注①)。数日前から続く大雨で山陽新幹線が運休しそうでしたので、前日から福岡入りし、大野城市の弟の家に泊めてもらいました。午前中には山陽新幹線(広島博多間)が止まりましたので、この判断は良かったようです。心配された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からはお電話をいただきました。わたしからは久留米大学の福山先生にお電話し、前日から福岡に着いていることをお知らせし、公開講座が予定通り開催されるのかを確認したところ、金曜日に大学側で検討した結果、大雨のピークは過ぎるだろうとの判断で開催するとのことでした。
福岡県内各地は大雨警報下でしたが、熱心な受講者約40名ほどが参加されました。そして、大雨の中、参加していただいたお礼に急遽追加したテーマ「吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方」を後半30分に発表しました。このタイミングで久留米まで来て、吉野ヶ里出土石棺について触れなければ、古田史学の名折れですので、石棺から被葬者や副葬品が出なかったことは学問的に重要な意味を持ち、新たな学問研究がその出土事実から始まると、その意義を説明しました(注②)。
「古田史学の会」書籍担当の仕事として、過剰在庫になっていた『俾弥呼と邪馬壹国』を数冊持ち込んだのですが、中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)や菊池哲子さん(久留米市)のご協力もいただき、おかげさまで完売できました。終了後は福山先生・中村さん・菊池さんと久留米の居酒屋で懇親会を行い、大雨警報下での楽しい一日を過ごすことができました。ありがとうございます。

(注)
①演題は「京都(北山背)に進出した九州王朝 ―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―」。同レジュメを本稿末尾に転載した。
②古賀達也「洛中洛外日記」3034話(2023/06/07)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1) ―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―〟
同「洛中洛外日記」3035話(2023/06/08)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2) ―蓋裏面に刻まれた「×」印―〟
同「洛中洛外日記」3047話(2023/06/20)〝吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (1)〟
同「洛中洛外日記」3049話(2023/06/22)〝吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (2) ―〝被葬者・副葬品不在墓〟の論理―〟

【転載 久留米大学公開講座レジュメ】
京都(北山背)に進出した九州王朝
―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―
古賀達也(古田史学の会・代表)

九州王朝史(倭国興亡の歴史)を概観する際の基本史料として歴代中国史書がある。なかでも『宋書』倭国伝に見える倭王武の上表文は倭国の軍事侵攻について触れており、注目されてきた。他方、『日本書紀』にも神武東征記事や景行紀に「東山道都督」記事が見え、これらは九州王朝(倭国)の東国侵攻の痕跡と思われる。

「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」『宋書』倭国伝
「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」『日本書紀』景行天皇五五年条

こうした九州王朝による東方侵攻が史実であれば、その痕跡や伝承が各地に遺されているはずである。そこで文献や考古学的出土事実を精査したところ、京都市(北山背)の古代寺院遺構の造営を担ったとされる秦(はた)氏は、『隋書』俀国伝に見える秦王国出身の有力氏族であり、九州王朝の軍事氏族とする理解に至った。

「明年(608年)、上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望 羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。」『隋書』俀国伝

俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について、古田武彦氏は筑後川流域とした。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)

筑後川流域に秦王国があったとする説だが、筑後川流域という表現では南方向の久留米市などを含むため、二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、更に杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先のうきは市エリアを秦王国とするのが穏当ではあるまいか。現在でも秦(はた)を名字とする人々が、うきは市に濃密分布していることも注目される(注②)。
また、秦王という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見える。

「太秦公宿禰
秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)」(注③)

太秦公宿禰は秦の始皇帝の子孫とする記事で、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の時代(五世紀頃か)には秦王と呼ばれていたと記されている。七世紀になると、広隆寺(蜂岡寺)を創建した秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)が現れる。『日本書紀』は次のように伝える。

〝十一月一日。皇太子(厩戸皇子=「聖徳太子」)、諸々の大夫に語りて言う。
「私には尊い仏像が有る。誰かこの像を得て、恭拜せよ。」
時に秦造河勝、前に進みて言う。
「私が拝み祭る。」
すぐに仏像を受け取り、それで蜂岡寺を造る。〟『日本書紀』推古天皇十一年(603年)

この推古十一年条に見える蜂岡寺は京都市右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある広隆寺とされている。同寺の推定旧域内からは七世紀前半に遡る瓦が出土している。他方、北野廃寺(京都市北区)からも広隆寺よりも古い飛鳥時代の瓦が出土しており、その遺構を蜂岡寺とする見解もある。もう一つ注目されるのが皇極紀三年条に見える次の記事だ。

〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
「これは常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
「新しい富が入って来た。」
都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。時の人は歌を作りて言う。
太秦(禹都麻佐)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
この虫は常に橘の木になる。あるいは曼椒(山椒)になる。その虫は長さが四寸あまり。その大きさは親指ほど。その虫の色は緑で黒い点がある。その形は、蚕に似る。〟『日本書紀』皇極天皇三年(644年)

秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多を討ったという記事で、その理由が〝都の人も鄙の人も、常世の虫〟を崇め私財を投じていることに対する、言わば「宗教弾圧」譚だ。都人までもが〝常世の虫〟を崇めており、ただならぬ事態が倭国(九州王朝)で発生していたことがうかがえる。しかも北山背の豪族(葛野の秦造河勝)が駿河の豪族(大生部多)を征討したというのだから、これは倭国(九州王朝)による大規模な東国征服の一端に他ならない。『日本書紀』の記述によれば7世紀前半の事件であり(注④)、それは『隋書』俀国伝に見える多利思北孤と利歌彌多弗利の時代となり、都とは太宰府(倭京)のことと考えられる。
九州王朝の天子、多利思北孤や次代の利歌彌多弗利の事績が聖徳太子伝承として伝わっていることが諸研究により判明しており(注⑤)、北山背地域や東近江に遺る聖徳太子と関係する寺院伝承も同様の視点で見直されている(注⑥)。本年の公開講座では、九州王朝の東征(列島支配の拡大)の痕跡について、考古学と文献史学の両面から解説する。

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。ミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、名字「秦」の人口と分布は次のようである。
人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、1962年。
④『日本書紀』では九州王朝の事績を年次をずらして転用しているとする指摘が日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)よりなされている。秦造河勝の東征記事の実年代についても検討が必要である。
⑤古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
⑥古賀達也「近江の九州王朝 ―湖東の「聖徳太子」伝承―」『古田史学会報』160号、2020年。


第3064話 2023/07/08

『隋書』俀国伝に記された

         都の位置情報 (6)

 『隋書』俀国伝に記された、大業四年(608年)の隋使の行程記事(注)の要点は次の通りです。()内は進行方角です。

百済→竹島→都斯麻国→(東)一支国→竹斯国→(東)秦王国→十餘國→海岸
※古田説では、具体的に国名が記された「百済→竹島→都斯麻国→(東)」を主線行路、国名が記されていない「→十餘國→海岸」を傍線行路とする。

 百済から一支国や秦王国へは進んだ方角は東とありますが、竹斯国や十餘國への方角が記されておらず、都が置かれている「邪靡堆」がどの方角にあるのか、この記事(位置情報)だけでは読者には不明です。そこで、わたしが注目したのが俀国伝冒頭に記された(1)と(3)の二つの位置情報です。「洛中洛外日記」3060話で指摘したことですが、読者は俀国伝を初めから読み始め、俀国に対する認識を構成するはずです。この視点はフィロロギーの基本的な学問の方法でもあります。従って、読者は行程記事の前にある、次の俀國とその都「邪靡堆」の記事(位置情報)を読んでいるはずです。

(1) 俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(3) 都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。

 (1)は俀国伝冒頭に記された俀国の位置情報で、読者が最初に目にする俀国に関する位置情報です。すなわち、俀国は百済や新羅の「東南」にある島国という印象的なフレーズであり、最初に得たこの認識(位置情報)で、読者は後に続く俀国伝の行程記事などの内容を判断するはずです。もちろん編纂者も、読者がそのように理解できるように(それ以外の理解をしないように)という前提で俀国伝を執筆したはずです。ときの天子に上程する正史であるからには、当然の配慮でしょう。

 この視点で先の行程記事を読むとき、百済からの進行方向を示す方角が一支国と秦王国の「東」しかないことに読者は気づき、方角が示されていない竹斯国と十餘國と海岸は「南」方向ではないかと考えるのではないでしょうか。もし、百済から「東」方向にしか行かないのであれば、百済や新羅の「東南」にあると冒頭に記された俀國とその都に行き着けないからです。

 大和朝廷一元史観では、「十餘國」と「海岸」を秦王国から更に東方向に進んだところの瀬戸内海諸国と摂津難波と解釈するしか、自説を維持できないのですが、これでは俀国伝冒頭に「俀國在百濟新羅東南」とある位置情報と行程記事の進行方角とが齟齬をきたします。「東南」方向にある島国と最初に書いてあるのですから、行程記事中の進行方角の記載がない竹斯国と十餘國と海岸は「南」方向と読者は理解するほかありません。そして、この理解を後押しする記事が、行程記事(5)の前に記された俀國の都「邪靡堆」の位置情報(3)なのです。(つづく)

(注)『隋書』俀國伝に記された、大業四年(608年)隋使の行程記事。
「上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。」


第3063話 2023/07/07

『隋書』俀国伝に記された

         都の位置情報 (5)

 『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識に関する次の(5)の記事には、ある問題点がありました。このことについて説明します。

(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。

 このうち、俀國の都への行路記事は次の部分です。

(a) 度百濟行至竹島南望羅國。
(b) 經都斯麻國逈在大海中。
(c) 又東至一支國。
(d) 又至竹斯國。
(e) 又東至秦王國
(f) 又經十餘國達於海岸。 ※古田説では傍線行路とする。

簡略化すると次のような行程です。()内は進行方角です。

百済→竹島→都斯麻国→(東)一支国→竹斯国→(東)秦王国→十餘國→海岸

 わたしはこの行程記事を読んで不審に思いました。これでは第一読者である唐の天子には、俀國の都がどこにあるのか理解不能と思えたのです。なぜなら、百済から一支国や秦王国へは進んだ方角は東とあるのですが、竹斯国や十餘國への方角が記されておらず、これでは都が置かれている「邪靡堆」がどの方角にあるのかわからないからです。現在のわたしたちであれば、手元に世界地図や日本地図がありますから、恐らくこのへんではないかと想像でき、現代の情報に基づき諸説を提案できますが、当時の読者は『隋書』俀国伝の記事から得られる位置情報に基づいて考えなければなりません。他方、『隋書』編纂者は〝読めばわかるはず〟〝読めばわかるように書いている〟と考えていたはずです。そうでなければ史書編纂者として失格だからです。

 そこで、わたしが重視したのが、「洛中洛外日記」3060話で指摘した〝読者は俀国伝を初めから読み始め、俀国に対する認識を構成するはず〟と考えるフィロロギーの基本的な学問の方法でした。この視点により注目したのが、読者が(5)の行程記事の前に読んだであろう(1)と(3)の俀國とその都「邪靡堆」の記事(位置情報)の存在です。(つづく)


第3062話 2023/07/06

『隋書』俀国伝に記された

        都の位置情報 (4)

 『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識に関する(1)~(5)の記事の中で異質な内容を持つのが(5)です。それは俀国の都へ向かう大業四年(608年)の隋使の行路記事です。

(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。

 この記事の解釈により、『隋書』俀国伝と大和朝廷一元史観の通説がかろうじて〝対応〟しています。というのも、『隋書』俀国伝に記された地名などで場所が特定できるのは、都斯麻國(対馬)・一支國(壱岐)・竹斯國(筑紫)・阿蘇山で、いずれも九州島内と周辺の島に限られており、大和や近畿の地名、九州から近畿に向かう途中の地名は皆無です。ですから、俀国伝を大和朝廷一元史観の根拠にすることはそもそも無理なのです。

 そこで考え出されたのが、古田先生が「傍線行路」とされた「又經十餘國達於海岸」を〝瀬戸内海を通って摂津難波の海岸に達した〟とする〝苦肉の解釈〟でした。この記事を利用するしか、隋使が向かった都を近畿地方に持って行けなかったのですが、この解釈について古田先生は次のように批判しています。

〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。

 ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟

 このように、(5)の記事を通説の根拠に使用することは困難です。しかし、この記事には他にも問題点がありました。(つづく)

(注)古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁。