「筑前國字小名取調帳」
那珂郡横手村の字「国分寺」
〝熊野神社社殿下に卑弥呼の墓がある〟とした古田先生の仮説を検証するために、明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注①)を精査していたら、那珂郡横手村に「国分寺」という字地名がありました。以前に気付いてはいたのですが、そのことが持つ意味まではわからず、筑前国の国分寺は太宰府にあるので、国分寺が所有する田畑でもあったのだろうかと考えていました。しかし、現在では多利思北孤による告貴元年(594年)の国府寺(国分寺)建立詔という仮説(注②)が成立していますので、この横手村の字地名「国分寺」は九州王朝(倭国)による筑前国府寺(国分寺)の痕跡ではないかと推測しています。
そうであればその痕跡が筑前の地誌に残っていないかと調査したところ、『筑前国続風土記拾遺』(注③)の那珂郡井尻村に次の記事がありました。ちなみに、井尻村は横手村の隣村です。両村の位置は現在の福岡市南区内です。
「地禄天神社
産神なり。所祭埴安命なり。祠は村の東二町斗林中に在。また村中に熊野社有。共に鎮座の年歴詳ならず。
○村の東南藤崎人家の後に大塚といふ塚あり。いかなる人を葬しや詳ならす。又熊野権現の後廣藪を開き溝を掘たりしか、百姓惣吉といふ者塚の際より鉾の鎔範を堀出たり。石型長三尺斗。上下合せてあり。石質温石の如し。須玖村にある鎔範の類なり。其側より炭屑多く出たり。然れはいにしへ此所にて銅鉾を鑄たりしなるへし。此辺土中より古瓦多く出る。むかし大寺なと有し址なるへきか。」『筑前国続風土記拾遺 上巻』325頁
この最後にある「此辺土中より古瓦多く出る。むかし大寺なと有し址なるへきか。」が横手村の字地名「国分寺」の痕跡ではないでしょうか。古瓦が多く出土したという「(井尻)村の東南藤崎」とは、隣接する横手村の北側に当たることが次の両村の記事によりわかります。
「横手村
(前略)村の西に那珂川あり。上ハ下曰佐・三宅兩村より流来り、下ハ三宅・井尻兩村の間にいる。」
「井尻村
(前略)村の西に那珂川あり。上ハ三宅・横手村より流れ来りて末は三宅・五十川兩村の境にいる。」
従って、横手村と井尻村に跨がる大寺があったのではないでしょうか。その大寺こそ、字地名「国分寺」に遺された九州王朝による筑前国府寺(国分寺)ではないかと想像しています。現時点では断定することなく、引き続き調査したいと思います。
(注)
①『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。
②古賀達也「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
同「洛中洛外日記」1025話(2015/08/15)〝九州王朝の「筑紫国分寺」は何処〟
同「『告期の儀』と九州年号『告貴』」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
③広渡正利校訂・青柳種信著『筑前国続風土記拾遺 上巻』文献出版、平成五年(1993年)。