金石文一覧

第402話 2012/04/07

『真実の東北王朝』復刻

 ミネルヴァ書房から古田武彦古代史コレクションとして『真実の東北王朝』が復刻されました。「洛中洛外日記」第390話でもふれましたが、『真実の東北王朝』は大変思い出深い一冊です。
 今回の復刻版には、新たに和田家文書のカラー写真が掲載されており、虫食いだらけの和田家文書を見ることができ、戦後偽作説がいかに荒唐無稽なものか、読者にも実感できることでしょう。
 また巻末資料として、田中巌さん(東京古田会会員)の論稿「多賀城碑の里程等について」が収録されており、同書で示された古田説とは異なる説が展開されています。古田先生が自著の復刻版にこうした他者の論稿を収録されることは珍しいことです。しかも、自説と異なる内容ですから尚更です。それだけ田中さんの論稿が優れていることと、自説と異なっていても紹介するという古田先生の学問的度量の広さを感じます。
 『真実の東北王朝』は古田史学の多元史観における、東北王朝という新概念が提起された記念すべき一冊です。ともすると多元史観を九州王朝と大和朝廷との関係のみで理解される論者も見受けられますが、それは多元史観という学説の矮小化にもつながりかねませんので注意が必要です。そうした意味でも、『真実の東北王朝』は学問的に貴重な意義を持っていますので、まだ読んでおられない方には、この復刻版は時宜にかなっており必読です。


第342話 2011/10/09

「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)

昨日行われた古田先生の記念講演会「俾弥呼とは誰か」(主催:ミネルヴァ書房)は大盛況でした。定員350名の会場に約430名が来場されたとのこと。 遠く山形県や九州から来られた人や、90歳の古田史学の会々員の方も、これが最後になるかもしれないと出席されていました。
講演終了後のサイン会には50名近くの人が列を作り、講演でお疲れのはずにもかかわらず古田先生は長時間かけて一人一人丁寧にサインされていました。ファンや読者を大切にされる古田先生のお姿を見て、あらためて本当に立派な先生だなあと感激しました。
会場には正木裕さん(会員)ご夫妻も見えておられ、正木さんから「庚寅鉄刀の正体がわかりましたよ。あれは四寅剣(しいんけん)です。」と貴重な情報をいただきました。正木さんによると、四寅剣は干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、 570年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前3時~5時)に作られたのであれば四寅剣になるとのことでした。これが、 月と日と時だけが寅の場合は三寅剣とよばれるそうです。
わたしは四寅剣のことは全く知らなかったのですが、この話しを聞いてなるほどと納得しました。それは銘文にある「時」という字が不要のように思われ、疑問点として残っていたからです。
わたしは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」という銘文を「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」と第 341話では読んだのですが、この「庚寅の日の時に」という読解にちょっと変な表現だなと感じていたのです。むしろ、「時」の一字がなければ「庚寅の日に」とすっきりした読みが可能となるからです。
ところがこれが四寅剣であれば、「大歳庚寅正月六日庚寅の日と時に」と読んで、四つの寅が重なったことを、すなわち四寅剣であることを示すために「時」の一字が必要不可欠となり、銘文としても過不足ないものとなるのです。
こうした理解から、この鉄刀は四寅剣、正確には「四寅刀」であることわかり、この鉄刀の史料性格がより明らかになったと思われます。朝鮮半島では古代から 中近世にかけて四寅剣が数多く作られたようで、四寅剣は国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです。この点、正木さんから関西例会や会報で詳細な報告がなされると思います。
今回なお残された問題として、この「大歳庚寅」四寅刀が朝鮮半島で作られたものか、日本列島で作られたものかというテーマがありますが、鉄の成分分析などで明らかになればと期待しています。また四寅剣の様式など、朝鮮半島のものとの比較も必要となるでしょう。引き続き調査検討を深めたいと思います。正木さんの御教示に感謝いたします。


第341話 2011/10/02

「大歳庚寅」銘鉄刀の目的

福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄刀の銘文について検討考察をすすめてきましたが、いよいよ最終段階に入りたいと思います。それは、この鉄刀が作られた目的(史料性格)についてです。
実は、この鉄刀の銘文はちょっとへんなのです。「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」とあるだけで、その前後には銘文はないようですが、これ では鉄刀を作った年月日が記されているだけで、そのことにどんな意味があるのか銘文からは不明なのです。
銘文を持つ古代の鉄刀(剣)はいくつか出土していますが、欠損のため一部しか銘文が残っていないものはともかく、その他は基本的に何のためにその鉄刀 (剣)が作られたかという制作目的や史料性格を銘文からうかがい知ることが可能です。ところが、この「大歳庚寅」銘鉄刀には、それら制作意図や鉄刀を与え る目的などがわからないのです。
一応、わたしは大歳干支表記や九州年号改元年との一致などから、新倭王即位と改元を記念して作られたものとする理解をえましたが、銘文そのものには製作 年 月日ぐらいしか記されていないのです。わたしにはこのことが不思議に思えたのですが、マスコミの発表などを読む限りは、このような点に触れた記事はないよ うです。
そこでわたしは、そうした鉄刀制作者の意図とその授与の目的を銘文から読みとれないかと考え続けてきました。そして、そのキーワードを見つけたのです。 それは、銘文の後半部分「作刀凡十二果(練)」の部分です。新聞などの説明では、この部分を「全てよく練り鍛えた刀」という意味に読んでいますが、この解 釈には納得できません。
通常、鉄刀(剣)などの銘文での常套句は「百練」です。例えば、国内では最も古い後漢の年号を持つ「中平」銘鉄刀は「百練」と記されていますし、有名な 七支刀も「百練」、稲荷山古墳出土鉄剣銘も「百練利刀」、江田船山古墳出土鉄刀でも百練よりは少ないのですが「八十練」です。
これらの銘文が示すように優れた鉄剣・鉄刀を表す常套句(実際そのくらい練ったのかもしれませんが)は「百練」「八十練」であり、「大歳庚寅」銘鉄刀の よ うに「十二果練」では、鉄刀の出来を誉めているのか、けなしているのかわからないような回数ではないでしょうか。そこで、新聞発表などでは「凡十二果 (練)」を「全てよく練り鍛えた刀」などと、苦し紛れの解釈になったのではないかとにらんでいます。
そこでわたしは、「十二」を練った回数ではなく、鉄刀の数と理解しました。次のような読解です。「大歳庚寅正月六日庚寅の日の時に、十二本の刀すべてを作り練り果たした。」
このように「十二」を鉄刀の本数と見れば、数的に無理のない妥当なものとなります。すなわち、新倭王は即位改元にあたり、十二本の鉄刀を作り、その記念 すべき日に作った刀であることを象嵌し、恐らく九州王朝内の有力12氏族の長に与えたのでしょう。そしてその内の1氏族の子孫の墓が元岡古墳群だったので す。
そうすると次に問題となるのが、何故12本なのかということです。もちろん、九州王朝直属の有力氏族の数が12氏族だったという場合もあるかもしれませ んが、それだとちょっと少ないように思われます。従って、逆に積極的に12本(12氏族)が選ばれたと考えた場合、それはどのような場合でしょうか。
わたしには一つのアイデア(作業仮説)があります。それは、藤原宮のように12の門が当時の九州王朝の王宮にあったとすれば、藤原宮と同様にそれら各門 を1氏族で守ることになり、合計12氏族で王宮防衛にあたることになります。このように理解すれば、防衛任務の責任者に武力の象徴でもある「鉄刀」を下賜 することは、充分にあり得ることですし、宮門防衛氏族の象徴(証明)としてこの「大歳庚寅」銘鉄刀が自他共にその役割を認めることになるのです。
従って、王宮防衛氏族としてその任務と名誉は子孫に受け継がれたはずですから、7世紀中頃の古墳から出土したことも肯けます。おそらく、7世紀中頃には 王宮防衛の任務を解かれたため、その時点で古墳に埋納されたものと思われます。あるいは、新たな王宮防衛の「証明」物が与えられたのかもしれませんが、そ れよりもその氏族が任務を解かれたため、子孫に引き継ぐことなく埋納した可能性が高いのではないでしょうか。
更に、この7世紀中頃に王宮防衛の任務を解かれたという仮説に基づくならば、一体何が九州王朝で起こったのでしょうか。これも想像の域を出ませんが、九 州王朝の副都前期難波宮の完成(652年・九州年号の白雉元年)と関係があるのではないかとにらんでいます。難波の副都完成にあたり、王宮防衛の任務の一 部が関西の氏族と交替になったため、元岡古墳群被葬者の氏族が任務から外れたのではないでしょうか。
これらは想像の域を出ませんが、「大歳庚寅」銘鉄刀が大和朝廷から下賜されたとする、大和朝廷一元史観の説よりは説得力があると自負しています。

第340話 2011/10/01

「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元

 前話で紹介した「大歳庚寅」鉄刀銘文について、ちょっと気にかかる点がありました。それは「大歳庚寅正月六日庚寅日時作凡十二果(練)」という短い文に年干支と日付干支の両方が記され、しかも共に「庚寅」という点です。
 もちろん、古代金石文において年干支と日付干支の両方が記されている例はあるのですが、鉄刀の背という狭いスペースに象嵌という手の込んだ技術で作刀の時期を記す場合、年干支「大歳庚寅」と「正月六日」という日付表記で事足りるのに、わざわざ「正月六日庚寅」と日付干支まで丁寧に記されていることに、作刀者の強い意志と意図を感じるのです。しかも、年干支と同じ「庚寅」なのですから、これも偶然とは考えにくいと思います。
 日付干支が「庚寅」となる「正月六日」にたまたま作刀したのではなく、年干支と同じ「庚寅」となる「正月六日」を作刀日に選んだ可能性が濃厚なのです。 それほど「庚寅」という干支を意識したのです。その理由をわたしなりに考えてみました。それは九州年号「金光」への改元との関わりです。
 この鉄刀銘の庚寅が570年であることは確実ですが、この同じ年に九州年号が「和僧」から「金光」へと改元されているのです。この「金光」との関係で作刀日を「庚寅」にしたのではないでしょうか。古代中国では陰陽五行説(諸説あります)に基づいて鏡や刀の作成日を選んだり、吉祥句として記したりしている 例が少なくありませんが、この「庚寅」という干支も陰陽五行説によれば、庚は「金」と「陽」に相当し、寅も「陽」に相当するとされています。この「金」と 「陽」に基づいて、あるいは因果関係は逆かもしれませんが、「金光」という年号が制定されたように思われるのです。
 従来わたしは、九州年号の「金光」は九州王朝への金光経伝来を記念して制定された年号ではないかと考えていました。しかし、この推測には弱点がありました。それは『二中歴』年代歴の「金光」年号細注に何も記されていないということでした。ご存じのように、『二中歴』年代歴の九州年号の細注には仏教関連記事が少なからずあり、たとえば、「端政」の細注には「唐より初めて法華経渡る」とあり、「仁王」には「唐より仁王経渡る」、「僧要」には「唐より一切経三 千余巻渡る」などの仏教経典伝来記事がありますが、「金光」にはないのです。
従って、今回の鉄刀銘文の考察のように、一応、金光経伝来とは別に、陰陽五行説との関連で「金光」年号を捉えることができたのは、新たな理解(作業仮説)として有益と思われました。
 こうした仮説が正しければ、この「大歳庚寅」象嵌鉄刀は、前年の倭王崩御に伴い、新倭王が即位し、「大歳庚寅正月六日庚寅」に「和僧」から「金光」へと九州年号が改元されたことを記念して作られたのではないかという考えへと進まざるを得ないのですが、いかがでしょうか。
 なお、「大歳庚寅」(570)に即位した倭王は、多利思北孤の前代の倭王(玉垂命・襲名するため一人ではない)の可能性が濃厚です。『太宰管内志』(筑後国大善寺玉垂宮)によれば、玉垂命は端政元年(589)に崩御したとありますから、金光元年(570)即位の倭王は当時の玉垂命と推定できます。この時、 九州王朝の都となる太宰府条坊都市は未完成で、それ以前の筑後遷宮期の倭王ですから、本拠地は筑後です。
 恐らく、新倭王(玉垂命)の即位と「金光」への改元を記念して作られた「大歳庚寅」象嵌鉄刀が、九州王朝直属の有力者へ配られ、その内の一つが今回出土した鉄刀ではないでしょうか。
 (追補)第339話を読んだ正木裕さんからメールが届き、『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」という記事があり、前代の倭王の死因はこの熱病と関係しているのではないかという御指摘を得ました。大変面白い記事です。他の九州年号史料の調査が待たれます。


第327話 2011/07/23

野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇

 7月16日の関西例会で、わたしは野中寺の弥勒菩薩銘にある「中宮天皇」を九州王朝の天子 (薩夜麻)の奥さんのこととする、仮説以前のアイデア(思いつき)を発表しました。中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
 造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智5年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。
 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。 そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。(不改常典については別に紹介したいと思います)
まだまだアイデアレベルの作業仮説ですので、間違っているかもしれませんが、皆さんのご意見を聞くために発表しました。
7月例会の発表は下記の通りですが、西村さんの隼人研究のための現地調査報告は歴史研究の王道とも言うべき取り組みで、「歴史は脚にて知るべきものなり」(秋田孝季)を実践されたものです。また、岡下さんの作成された資料は、鏡の銘文の裏文字・左文字を抜粋されたもので、なかなかの労作です。今後の銘文研究に役立つことが期待されます。
〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 竹村順弘氏作成資料の解説(向日市・西村秀己)
2). 鹿児島旅行の報告(隼人調査)(向日市・西村秀己)
3). 女多男少(京都市・岡下英男)
4). 『古鏡銘文集成』の裏文字銘文(京都市・岡下英男)
5). 古代大阪湾の新しい地図 難波(津)は上町台地になかった(豊中市・大下隆司)
6). 古田史学の会総会出席雑感メモ(豊中市・木村賢司)
7). 伊勢王と明日香皇子の歌(川西市・正木裕)
8). 百済大寺・高市大寺・大官大寺について(川西市・正木裕)
9). 中宮天皇と不改常典(京都市・古賀達也)
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田氏近況・会務報告・役行者伝説の山々は大隅半島か・他(奈良市・水野孝夫)