考古学一覧

第2307話 2020/12/02

古田武彦先生の遺訓(16)

周代史料の史料批判(優劣)について〈中篇〉

 主な周代史料には伝世史料(『春秋左氏伝』『周礼』『国語』『竹書紀年』など)、金文(殷周の青銅器に記された文字)、竹簡(精華簡『繋年』など)があります。これらの史料批判として、一般論としては竹簡や金石文などの考古史料が確かな史料として位置づけられるのですが、それほど単純ではないことがわかってきました。
 これはわたしの初歩的なミスだったのですが、当初、『竹書紀年』は出土竹簡に基づいており、信頼性が高いと思っていました。ところが調べてみると、それはとんでもない誤解でした。『竹書紀年』については『中国古代史研究の最前線』(注①)に次のような解説があります。

〝『竹書紀年』は西晋の時代に(注②)、当時の汲郡(今の河南省衛輝市)の、戦国魏王のものとされる墓(これを汲冢と称する)から出土した竹簡の史書であり、夏・殷・周の三王朝及び諸候国の晋と魏に関する記録である。体裁は『春秋』と同様の年代記で、やはり記述が簡潔である。(中略)
 ただし『竹書紀年』は後に散佚したとされており、現在は他の文献に部分的に引用された佚文が見えるのみである。その佚文を収集して『竹書紀年』を復元しようとする試みが清代より行われている。その佚文や輯本(佚文を集めて原書の復元を図ったもの)を便宜的に古本(こほん)『竹書紀年』と称する。
 これに対して、南朝梁の沈約のものとされる注が付いた『竹書紀年』が現存しているが、こちらは一般的に後代に作られた偽書であるとされる。これを古本に対して今本(きんぽん)『竹書紀年』と称する〟157頁

 この説明によれば、今ある『竹書紀年』は三世紀の出土後に散佚し、その千年以上後の清代になって収集されたものであり、元の姿をどの程度遺しているのか、用心してかからなければならない伝世史料なのでした。
 金文についても同様で、同時代金石文と単純にとらえることができないこともわかりました。殷周の青銅器の中には古美術商ルートで出回ったものも少なくなく、偽造の可能性がついてまわります。次に出土であってもその遺構の編年の問題があります。というのも、その時代における青銅器の偽造、あるいは模造という可能性があり、殷周時代との同時代性の確認が必要です。
 このような「周代史料」の実態がわかってきましたので、それでは最も信頼できる史料は何なのかという課題について熟慮しました。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②西晋(265~316年)。


第2283話 2020/11/04

古田武彦先生の遺訓(9)

精華簡『繋年(けいねん)』の史料意義

 佐藤信弥さんは『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)で、金文(青銅器の文字)による周代の編年の難しさについて、次のように指摘されています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟108頁

 そのような一例として、「精華簡『繋年(けいねん)』」のケースについて紹介します。
 精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、精華大学OBから2008年に同大学に寄贈されたものです。2388点の竹簡からなる膨大な史料で、放射性炭素同位体年代測定法によると紀元前305±30年という数値が発表されています。ですから、出土後に散佚し、清代になって収集編纂された『竹書紀年』とは異なり、戦国期後半の同時代史料といえるものです。
 この精華簡のうち、138件からなる編年体の史書を竹簡整理者が便宜的に『繋年』と名付け、2011年に発表しました。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全23章のうち第1章から第4章までに西周の歴史が記されています。
 先の『中国古代史研究の最前線』によれば、従来、西周が東遷して東周となった年代は紀元前770年とされてきたのですが、この新史料『繋年』に基づいて次々と異説が発表されました。たとえば『繋年』の記事に対する解釈の違いにより、周の東遷年を前738年とする説(注①)や前760年とする説(注②)があり、「東遷の紀年や、『繋年』の記述をふまえたうえで、東遷の実相がどうであったかという問題は、やはり今後も議論され続けることになるだろう。」(注③)とされています。
 このように、二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)を導入していない、学界の周代暦年研究は未だ混沌とした状況にあるようです。『史記』や『竹書紀年』『春秋左氏伝』などの史料事実(周王らの年齢・在位年・紀年など)をそのまま〝是〟とするような実証的手法では、結論は導き出させないのではないでしょうか。このことを改めて指し示した新史料『繋年』の持つ意義は小さくありません。
 なお、『繋年』については、小寺敦さんにより全章の原文と訓読、現代語訳などが発表されています(注④)。300頁近くの長文の論文ですので、少しずつ読み進めているところです。(つづく)

(注)
①吉本道雅「精華簡繋年考」『京都大学文学部研究紀要』第52巻、2013年。 
②水野卓「精華簡『繋年』が記す東遷期の年代」『日本秦漢史研究』第18号、2017年。
③佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。167~168頁。
④小寺敦「精華簡『繋年』訳注・解題」『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年。


第2255話 2020/10/08

『纒向学研究』第8号を読む(3)

 柳田康雄さんが「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)において、「弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである」と主張されていることを紹介しましたが、この他にも貴重な提言をなされています。たとえば次のようです。

〝中国三国時代以後に研石が見られないのは固形墨の普及と関係することから、倭国では少なくとも多くの研石が存在する古墳前期までは膠を含む固形墨が普及していないことが考えられる。したがって、出土後水洗されれば墨が剥落しやすいものと考えられる。〟(41頁)

〝何よりも弥生石器研究者に限らず考古学に携わる研究者・発掘調査担当者の意識改革が必要である。調査現場での選別や整理作業での慎重な水洗の重要性は、調査担当者のみにらず作業員の熟練が欠かせないことを今回の出土品の再調査でもより一層痛感した。出土品名の誤認に始まり、不用意に水洗された結果付着していたはずの黒色や赤色付着物が失われている。(中略)
 原始時代とされている弥生時代において、文字だけではなく青銅武器や大型銅鏡を製作できる土製鋳型技術が出現し継続しているはずがないという研究者が多い現実がある(柳田2017c)。また、遺跡・遺物を観察・分類できる能力(眼力)を感覚的だと軽んじ、認識・認知や理論という机上の操作で武装する風潮が昨今の考古学者には存在する。このような考古学の基礎研究不足は、研究を遅滞し高上(ママ)は望めない。基礎研究不足のまま安易に科学分析を受け入れた、その研究者のそれまでの研究成果はなんだったのだろう、旧石器捏造事件を想起する。修練された感覚的能力なくして、遺跡・遺物を研究する考古学という学問は存在意義があるのだろうか。大幅に弥生時代の年代を繰り上げた研究者や博物館などの施設は、それまでの考古学の基礎研究では弥生時代の年代が決定できなかったことを証明している。考古学研究の初心に戻りたいものだ。これはデジタル化に取り越されたアナログ研究者のぼやきだけで済むのだろうか。〟(43頁)

 弥生編年の当否はおくとしても、柳田さんの指摘や懸念には共感できる部分が少なくありません。この碩学の提言を真摯に受け止めたいと思います。(おわり)

(注)『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。


第2253話 2020/10/06

『纒向学研究』第8号を読む(2)

 柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)によれば、弥生時代の板石硯の出土は福岡県が半数以上を占めており、いわゆる「邪馬台国」北部九州説を強く指示しています。なお、『三国志』倭人伝の原文には「邪馬壹国」とあり、「邪馬台国」ではありません。説明や論証もなく「邪馬台国」と原文改定するのは〝学問の禁じ手(研究不正)〟であり、古田武彦先生が指摘された通りです(注②)。
 古田説では、邪馬壹国は博多湾岸・筑前中域にあり、その領域は筑前・筑後・豊前にまたがる大国であり、女王俾弥呼(ひみか)がいた王宮や墓の位置は博多湾岸・春日市付近とされました。ところが、今回の板石硯の出土分布を精査すると、その分布中心は博多湾岸というよりも、内陸部であることが注目されます。それは次のようです。

〈内陸部〉筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)

〈糸島・博多湾岸部〉糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)
 ※この他に、豊前に相当する北九州市20例と築城町8例(研石1)も注目されます。

 しかも、弥生中期前半頃に遡る古いものは内陸部(筑紫野市、筑前町)から出土しています。当時、硯を使用するのは交易や行政を担当する文字官僚たちですから、当然、倭王の都の中枢領域にいたはずです。内陸部に多いという出土事実は古田説とどのように整合するのか、あるいは今後の発見を期待できるのか、古田学派にとって検討すべき問題ではないでしょうか。
 柳田さんは次のように述べて、教科書の改訂を主張されています。

 「これからは倭国の先進地域であるイト国・ナ国の王墓などに埋葬されてもよい長方形板石硯であるが、いまだに発見されていない。いずれ発見されるものと信じるが、今回の集落での発見は一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆しているだけでも研究の成果だと考えている。青銅武器や銅鏡の生産を実現し、一定階級段階での地域交流に文字が使用されている弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである。」(43頁)

 大和朝廷一元史観に基づく通説論者からも、このような提言がなされる時代に、ようやくわたしたちは到達したのです。(つづく)

(注)
①『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)


第2252話 2020/10/06

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(4)

 大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただいたもう一つの古い土器、サン・ペドロ複合遺物(San Pedro complex)の土器については当該論文(注)を入手し、その写真を見ることができました。サン・ペドロ土器はバルディビアの南側約40kmほどのところにあるリアル・アルト(Real Alto)遺跡で発見され、そこはバルディビアと同じ太平洋岸に位置しています。ですから、広い意味では同一領域(エクアドル太平洋岸)と考えてもよいように思います。
 論文によればサン・ペドロ土器の中で最も古いものは、バルディビア土器1層とその下の無土器時代層の間から出土しており、バルディビア土器よりも古いとされています。掲載された写真によれば、その文様は単純な〝線刻〟であり、比較的進化した文様を持つバルディビア土器よりも素朴で古いと見てよいと思われました。
 以上の理解が正しければ、バルディビア土器の誕生が縄文土器の伝播によるとする場合、最初にリアル・アルトへ伝播し、その後に北部のバルディビアへも広がり、あの多彩なバルディビア土器群へ発展したと考えることもできます。あるいは、アマゾン川下流域の土器が南米大陸を横断してリアル・アルトへ伝播したのかもしれません。
 いずれにしても、このような新知見を取り入れて、「縄文人が太平洋を渡り、縄文土器がバルディビアに伝播した」とするメガーズ説の修正発展、あるいは大胆な見直しを含む再検証が必要な時代を迎えたようです。(おわり)

(注)〝New data on early pottery traditions in South America: the San Pedro complex, Ecuador〟Article in Antiquity June 2019 Yoshitaka Kanomata , Jorge Marcos , Alexander Popov , Boris Lazin & Andrey Yabarev


第2251話 2020/10/06

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(3)

 縄文人が太平洋を渡り、縄文土器がバルディビアに伝播したとするメガーズ説の論点の一つ、「バルディビア土器が南北アメリカで最古の土器」については検証が必要と大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただきました。1995年の「縄文ミーティング」当時も小林達雄さん(国学院大学教授)は、コロンビアのサン・ハシント(San Jacinto)出土土器とアマゾン川流域の貝塚出土土器がバルディビア土器より古いと指摘されていました。しかしその詳細をわたしは知りませんでした。
 今回、大原さんから教えていただいたのは、次の二つの出土事例でした。一つは、ブラジル北部アマゾン川下流のサンタレン(Santarém)の先史時代の貝塚出土土器。もう一つはバルディビアの南数十kmにあるサン・ペドロ複合遺構(San Pedro complex)から出土した土器です。中でもサンタレン出土土器は約8000年から7000年前のものとされており、南米では突出して古いものです(注)。
 サンタレン出土土器の写真をわたしはまだ見ていませんので、断定はできませんが、バルディビア土器の文様は、「太平洋を渡った縄文土器」と「南米大陸を横断したサンタレン土器」の、どちらの伝播・影響によるのかがこれからは問われることでしょう。(つづく)

(注)アンナ・C・ルーズベルト、ルパート・ハウズリー「ブラジルアマゾンの先史時代貝塚からの第8ミレニアム土器」(〝Eighth Millennium Pottery from a Prehistoric Shell Midden in the Brazilian Amazon〟Science 254、1992)では、その土器の年代について次のように報告(要約)されている。
 「西半球でこれまでに発見された最も初期の土器は、ブラジルのアマゾン川下流サンタレン(Santarém)近くの先史時代の貝塚から発掘された。木炭・貝殻・土器の校正済み加速器放射性炭素年代測定と、出土土器の熱ルミネセンス年代測定では、約8000年から7000年前を示した。」(古賀訳)


第2250話 2020/10/05

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(2)

 縄文人が太平洋を渡り、縄文土器が伝播したとするメガーズ説の論点と根拠はおおよそ次のようなものでした。

①5000年前の土器がエクアドル海岸部のバルディビアから出土している。それに続く他の遺跡からは5600年前に遡る土器が出土しており、これは南北アメリカで最古の土器である。
②進化した文様を有しているバルディビア土器は、無土器時代の地層の上からいきなり出土することから、同土器は当地で独立発達したものではなく、より古い土器文明の歴史を有する他地域からの伝播と考えざるを得ない。
③調査の結果、日本列島の縄文土器の文様に類似していることが判明した。しかも、縄文土器の方が古く、数千年の土器発展の歴史を有しており、縄文土器がバルディビアに伝播したと考えざるを得ない。
④縄文土器の伝播の結果、文様が似たバルディビア土器が生まれた。土器の形態などは一部に類似する部分もあるが、全体としては似ていない。しかし、伝播の根拠として基本とすべきは文様であり、その他の形態などは、生活様式などの差により、必ずしも似るとは限らない。
⑤太平洋は文明を遮断するものではなく、むしろ文明を繋ぐ海流の道である。このことを証明する植物の伝播などの根拠もある。

 メガーズさんとお会いした25年前(1995年)は、アメリカ考古学会の内外でバルディビア土器について伝播説と独立発達説とで激しい論争が続いていました(注①)。中でも、④については日本の考古学者からも批判されていた論点でした。更に、コロンビアのサンハシントやアマゾンから、バルディビアよりも古い土器の出土が報告され始めたこともあり、①についても見直すべきであるとの次のような指摘が縄文土器研究者の小林達雄さん(国学院大学教授)から出されていました(注②)。

 「その前に、サン・ハシントですか。今度はそっちと比べなければいけなくなったわけですね、そっちのほうが古いわけですから。こっちの土器がどこから来たかというときには、焦点はそっちに移るわけで、それと比べなければいけない、ということになるわけです。」(『海の古代史』192頁)
 「それからアマゾン川のほうに、やっぱり六〇〇〇年前ぐらいだと思うんですけれども、相当厚い貝層が遺っているんですが、そこから土器が出て、それがやっぱり六〇〇〇年前くらいなんです。そういうことを重ね合わせていくと、まだまだ土器の起源というものを、外にすぐに求めるというようなやり方よりも、内部でもう少し見ていくほうがいいんじゃないかという気がするんです。」(同193頁)

 小林さんはバルディビア土器はアメリカ大陸内に発生源があったと考えた方がよいとの見解ですが、同時に、サン・ハシントの土器が縄文土器に似ていることも述べておられます。

 「さらに、土器なんかも、相当、縄文に近いのが、立体的で、サンハシントのやつは突起に近いやつがあったりしますね。そういった意味では、もっともっとバルディビアの土器なんかより、そういう意味では似ていると思いますね。」(同212頁)

 わたしもサン・ハシントの土器が縄文土器にそっくりなので驚いたのですが、しかし、縄文土器の伝播とするにはまだ問題もありました。メガーズさんもサン・ハシント遺跡の写真を持参され、「これに似た遺跡が日本にないか」と古田先生にたずねられていました。(つづく)

(注)
①古田武彦訳著『倭人も太平洋を渡った コロンブス以前の「アメリカ発見」』(創世記、1977年)に伝播説を批判した論稿「様式と文化交流の間」(ジョン・マラー)が掲載されている。原著の編集者は、Carroll L.Riley J.Charles Kelley Campbell W.Pennington Robert L.Rands。
②古田武彦著『海の古代史』(原書房、1996年)


第2249話 2020/10/04

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)

 古田武彦先生の名著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)の中で異彩を放つテーマがあります。倭人が中南米にあった裸国・黒歯国まで太平洋を渡って交流していたというテーマです。この部分の削除を編集者から要請されたり、ご友人からも掲載に反対されたとのことですが、古田先生はそれを拒否されました。
 その後、倭人の太平洋横断を支持する研究がアメリカでもなされていたことがわかりました。アメリカの考古学者、クリフォード・エバンズ(Clifford Evans)夫妻の研究によれば、エクアドルのバルディビア遺跡から出土した土器の文様が日本列島の縄文土器に類似していることから、縄文人が太平洋を渡り、縄文土器の文様が伝播したとされました。この研究を知った古田先生は自説を支持するものとして評価され、古田武彦訳著『倭人も太平洋を渡った コロンブス以前の「アメリカ発見」』(創世記、1977年)を刊行されました。
 1995年11月にはエバンス夫人(Betty Jane Meggers 1921-2012、アメリカ合衆国考古学会副会長)が来日され、古田先生を始め各界の専門家との「縄文ミーティング」に出席されました。その内容は古田武彦著『海の古代史』(原書房、1996年)に掲載されていますのでご参照下さい。わたしは古田先生のご配慮により、録音係として同ミーティングに同席させていただきました。今でも、通訳の女性の博識を鮮明に記憶しています。メガーズ博士が話される考古学用語や出席者の多方面の専門用語を見事に訳されていました。日本語訳について確認されたのは「〝point〟は〝やじり〟でよろしいですね」の一回だけでした。出席者の各分野の専門用語を淀むことなく英訳され、ミーティング終了時には参加者一同から拍手が贈られたほどです。

【縄文ミーティング出席者】
 1995年11月3日(金) 全日空ホテル(東京都港区赤坂)
ベティー・J・メガーズ博士
大貫良夫(東京大学理学部教授)
鈴木隆雄(老人総合研究所疫学室長)
田島和雄(愛知ガンセンター疫学部長)
古田武彦(昭和薬科大学教授)〈司会〉
 ※所属・肩書きは当時のもの。

 議論が白熱すると、通訳を待たずに全員が英語で話し出すという一幕もあり、主催者の藤沢徹さん(故人・東京古田会々長)から、「この内容は日本語で書籍化しますので、日本語で話して下さい」と注意がなされたほどです。通訳の女性は、皆が英語で話している間は一休みできてホッとされていました。わたしの英語力では専門用語はもとより、メガーズさんの英語はほとんど理解できませんでした。ときおり耳に入る〝migration〟という言葉に、縄文人や土器の「移動」について論議されているのだなあと推測していました。
 ところが、南米でバルディビア土器よりも古い土器の発見が続いていることを最近になって大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただき、従来のメガーズ説について検証が必要であることを知りました。(つづく)


第2248話 2020/10/03

『纒向学研究』第8号を読む(1)

 今日も京都府立図書館へ行き、司馬遷の『史記』などを読んできました。とりわけ、探していた『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)が同館にあることがわかり、掲載されている柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」をコピーしてきました。同論文は、近年、発見が続いている弥生時代の板石硯についての最新かつ網羅的な報告書であり、研究者には必読の論文です。
 同論文では柳田さんや久住猛雄さんによる、板石硯の調査結果が報告されており、中でもその出土分布は示唆的でした。両氏らが発見した弥生時代・古墳時代前期の硯・研石の総数は現時点で200個以上で、出土地は次の通りです。

○福岡県 糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)、春日市3例、筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)、北九州市20例、築城町8例(研石1)。
 ※福岡県合計123例以上。
○佐賀県 唐津市4例(研石1)、吉野ヶ里町2例(研石1)、基山町1例。
○長崎県 壱岐市11例(研石4)。
○大分県 日田市1例。
○熊本県 阿蘇市2例。
 ※福岡県以外の九州合計21例。
○広島県 東広島市2例。
○岡山県 10例(研石2)。
○島根県 松江市8例(研石1)、出雲市2例、安来市3例。
○鳥取県 鳥取市3例。
○石川県 小松市20例。
○兵庫県 丹波篠山市1例。
○大阪府 泉南市1例、高槻市3例。
○奈良県 田原本町2例、桜井市1例、橿原市1例、天理市5例。
 ※九州以外合計62例。

 ただしこれらの発見は、柳田・久住両氏の「行動範囲内」であり、「関心のある研究者が少ない地域は希薄」とのことです。板石硯の出土分布は北部九州、特に福岡県が圧倒的に多く、弥生時代の倭国の文字受容先進地域が福岡県にあったことがわかります。そのことは魏志倭人伝に記された邪馬壹国の所在地が福岡県に存在したことを示しています。(つづく)


第2244話 2020/09/27

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(4)

 久住猛雄さんの論文「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(注①)には日本列島における文字受容に関する、これからの考古学への重要な指摘と提言が含まれています。例えば次の様な指摘です。

 (硯に書かれた文字は)〝当時(漢代)の木簡・竹簡の平均的なサイズである幅10~13mmのものに書かれてもおかしくないサイズである。ある程度書きなれた隷書体の文字に、当時の平均的木簡サイズの文字が存在することは、当時の日本列島において、漢代簡牘を模倣したような幅の狭い「木簡」が、存在した可能性を提起する。〟(94頁)

〝田和山遺跡457資料の「文字」板石硯の発見により、板石硯は文字書写用に使われた可能性が極めて高くなったし、木簡に書かれるような「文字」が存在していたことが判明した。したがって今後、弥生時代中期中頃以降の有機質遺物が遺るような遺跡においては、「木簡」が遺存している可能性を視野に入れて、発掘調査することが不可欠である。なお当時は「膠」使用以前の墨であるから、墨書の遺存度が悪いことも想定する必要がある。今後の注意深い調査により、まさに「歴史」が書き換えられることになるだろう。〟(95頁)

 「弥生木簡」出土を予見した久住さんの指摘は論理的と思われます。こうした考古学的予見と論理性は文献史学へも激震を与えます。
 わたしは、「洛中洛外日記」2076話(2020/02/06)〝松江市出土の硯に「文字」発見(2)〟において、銅鐸圏(銅鐸国家)での文字使用を予見し、1844話(2019/02/26)〝紀元前2世紀の硯(すずり)出土の論理〟では、福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と佐賀県唐津市の中原(なかばる)遺跡(弥生中期中頃、紀元前100年頃)から出土した「硯」を論拠に、「天孫降臨」の50年後、遅くても100年後頃には天孫族(倭人)は文字(漢字)を使用していた可能性があり、彼らは自らの名前や歴史を漢字漢文で記そうとしたであろうと指摘しました。
 したがって、天孫族が「天孫降臨神話」の神々の名前を漢字表記していたとなれば、記紀に見える神名漢字表記の中には「天孫降臨」時代に成立したものがあるという可能性を前提にした文献史学の研究方法が必要となります。
 久住さんらの一連の板石硯・文字発見と考古学的予見は、文献史学の常識と論理構成の見直しを迫った歴史的研究業績ではないかとわたしは思います。(おわり)

(注)
①久住猛雄「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(『古代文化』Vol.72-1 2020.06)


第2243話 2020/09/27

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(3)

 田和山遺跡出土板石硯(弥生時代中期後半~後期初頭、紀元前後)に文字(「子戊」と判読)が書かれていることを発見された久住猛雄さんは「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(注①)において、同硯とほぼ同時期(弥生時代中期後半頃)の「文字」痕跡を有する福岡県久留米市塚崎東畑遺跡出土の「丹塗磨研土器」を紹介されています。そのような土器がわたしの故郷の久留米市から出土(1987年)していたことを全く知りませんでしたので、わたしは昨日京都府立歴彩館で「墨書状痕跡」を持つ同土器の資料紹介(注②)を閲覧しました。
 その掲載写真によれば、それは美しい朱色に塗られた高坏の脚部中程部分で、杯部と脚部は失われています。その残存部分に縦書きで一文字(「門」「内」「田」か)と四文字(一字目は「今」「令」か。他は不詳)の文字らしき黒色の〝墨書状痕跡〟がうっすらと肉眼でも見えるのです。説明では、同土器の墨書状痕跡は、土器の整形がなされた後、丹が塗られる前に施されており、高坏が製作された当時のものである可能性が極めて高いと判断されています。そして、「現在までに日本列島で確認されている最古の墨書土器となる。」とも記されています。なお、「墨書状」の黒色色素は墨(炭素)ではなく、マンガン系顔料と分析されたことが久住論文に紹介されています。
 この「墨書状痕跡」を持つ丹塗磨研土器の存在により、田和山遺跡出土板石硯の「文字」は孤立していないと久住さんは指摘されています。これらの発見により、弥生時代中期頃に倭人が文字を受容し、外交や交易に使用していたことは決定的になったと思われます。しかし、柳田さんや久住さんらのこの発見は発表当初は考古学界から無視されたようで、そのことが久住論文には次の様に記されています。

〝457資料(板石硯)裏面における「文字」の存在も含めて、その事実を同年(2019年)11月に発表した。ところが、柳田(柳田康雄さん・国学院大客員教授)の発表に対する学会の反応は冷淡であり、重大な公表にも関わらず事実上無視されてしまった。〟〔92頁〕※()内は古賀による注。

 このように学会から無視された理由を「注」で次の様に説明されています。

〝令和元年度九州考古学会においては、「板石硯」そのものに対する懐疑派が少なくなかったためと、本来は板石硯研究を牽引していた武末純一が、柳田や筆者が次々に板石硯を認定することに対する疑念を表明したことにその原因の一つがある。ましてや、弥生時代後期初頭に列島で書かれた「文字」が存在するなどというのは「常識外」と受け取られた。また柳田が「文字」釈読の一案として、干支の「壬戌」(西暦2年)という案も示したことが、「出来過ぎている」ととらえられたことも一因らしい。〟〔97頁〕

 この久住さんの感想は示唆に富んでいます。恐らくは古田史学・九州王朝説も学界からは「常識外」「出来過ぎている」ととらえられているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①久住猛雄「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」(『古代文化』Vol.72-1 2020.06)
②酒井芳司「塚崎東畑遺跡出土丹塗磨研土器の墨書状痕跡について」(『九州歴史資料館研究論集』31、2006年)。同土器は「未報告」とある。


第2242話 2020/09/26

田和山遺跡出土「文字」板石硯の画期(2)

 『古代文化』(Vol.72-1 2020.06)に掲載された久住猛雄さんの「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」の冒頭に次の一文があります。

〝近年注目されている「板石硯」は、漢~晋代の「長方形板石硯」を日本列島あるいは朝鮮半島において模倣作製したものである。日本列島では、前漢中期前葉の長方形板石硯出現直後の須玖Ⅰ式新相に早くも受容と模倣が開始されていることが判明している。その後、弥生時代中期後半から後期にかけて西日本に広がり、弥生時代終末期以降には伊勢湾岸およびそれ以東に波及するということも指摘され、弥生時代だけではなく古墳時代全期間を通じて存在することも予想されている。〟(同書90頁)

 先に紹介した毎日新聞WEB版(2020年2月1日)にも、「九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり」とあり、弥生時代の硯の出土は筑紫(福岡市西新町遺跡・他)と出雲(松江市田和山遺跡)だけとわたしは思っていたのですが、西日本から伊勢湾岸以東にまで出土例があるとのことでした。そこでその具体的な出土状況を知りたいと思っていたところ、次の奈良新聞の記事がありました。現在、記事に紹介されている柳田康雄さん(国学院大客員教授)の論文(「纏向学」紀要)入手を試みています。

 本稿執筆のため京都府立歴彩館で図書閲覧していたところ、岡下英男さん(古田史学の会・会員、京都市)とお会いしました。岡下さんは聖徳太子関連資料調査のため来館したとのこと。他の図書館で「古田史学の会」の会員さんと出会うことはほとんどないのですが、歴彩館ではたまにあります。京都府立大学図書館と隣接していることもあって、歴史関連文献の調査閲覧に便利なことも、その一因かもしれません。(つづく)

【奈良新聞WEB版(2020.04.24)から転載】
石製の硯、150例以上 ―弥生時代から文字文化浸透か―
国学院大の柳田客員教授「纏向学」紀要で発表

 弥生時代中期中ごろから古墳時代中期までの石製品を調べた結果、硯(すずり)の可能性があるものが全国で150例以上あることが分かったと、柳田康雄国学院大学客員教授(考古学)が発表した。確認事例は西日本各地に分布し、多くが地域の拠点集落で出土していることから、「当時、交易にも文字文化が浸透していたことが推測できる」としている。
 纒向学研究センター(桜井市)の紀要で研究成果を報告した。
 柳田客員教授は、扁平(へんぺい)な板状石材で製作された「方形板石硯」と呼ばれる石製品の確認調査を実施。中国・前漢中期から出現したもので、日本では島根県や福岡県で発見されるなど確認事例が増えている。
 これまで砥石(といし)と考えられてきた石製品も、摩滅による窪みの形状や墨とみられる黒色、赤色の付着物から硯と判断。福岡県を中心に北部九州から近畿・北陸までで150例以上あることを確認した。
 県内では、纒向遺跡(桜井市)で平成26年に出土した石製品(縦約11センチ、幅約7センチ、厚さ約1センチ)をはじめ、唐古・鍵遺跡(田原本町)や布留三島遺跡(天理市)、新堂遺跡(橿原市)出土の計10例を挙げている。
 大半は拠点集落とみられる遺跡から見つかっており、柳田客員教授は「一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆している」と指摘。「国内では弥生時代から、外交文書だけでなく貿易交流にも文字が使われていたことが考えられる」と話している。