考古学一覧

第2075話 2020/02/05

松江市出土の硯に「文字」発見(1)

 報道によれば、島根県松江市田和山遺跡から出土した弥生時代の硯に「文字」の痕跡が発見されたとのことです。その写真を見たところ、わたしも文字(漢字)のように思われましたが、松江市埋蔵文化財調査室による「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある」とする見解もありますので、今後の科学的分析が待たれます。

 墨(カーボンブラック:煤)の他にも黒色無機顔料(鉱石)や天然タンニン(ポリフェノール)の鉄錯体、アスファルトなども黒色色素として使用可能ですので、赤外線撮影だけで「墨書ではなく汚れ」と判断するのはあまり科学的判断とは言えません。

 もしこれが文字だとしたら、メディアで紹介された学者の見解にとどまらず、もっと重要なテーマへと進展します。(つづく)

【毎日新聞WEB版から転載】
毎日新聞2020年2月1日 17時53分(最終更新 2月2日 01時18分)
弥生時代「すずり」に最古の文字か
松江の田和山遺跡から 慎重な意見も

 松江市の田和山遺跡で出土した弥生時代中期後半(紀元前後)の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが、文字(漢字)の可能性が高いとの研究成果を明らかにした。石製品は国産のすずりと判断しており、国内で書かれた文字ならば従来の確認例を200〜300年さかのぼって最古となる。一方で、偶然の着色など慎重な意見があり、文字使用の起源を巡って議論を呼びそうだ。
福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らのグループ。岐阜県大垣市で1日にあった学会で久住氏が発表した。
田和山遺跡は弥生時代の環濠(かんごう)遺跡。石製品は約8センチ四方の板状で、出土時は砥石(といし)とされていた。研究者グループは材質や形状を調べ、現地で採れる石製で、擦った痕跡があるくぼみなどから国産のすずりと判断した。
さらに裏の中央部に黒っぽい文様が上下二つあり、岡村秀典(中国考古学)、宮宅潔(中国古代史)両京都大教授らに画像の分析を依頼。中国・漢の時代の木簡に記された隷書に形が類似しており、上は「子」、下は「戊」などを墨書きした可能性があるとの結論を出した。
これまで国内の文字確認例は、三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)の土器に刻まれた「竟(鏡)」、貝蔵(かいぞう)遺跡(三重県松阪市)の土器に墨書きされた「田」などがあるが、いずれも2〜3世紀だった。
九州から近畿にかけて近年、弥生時代のすずりとみられる遺物が相次いで見つかり、古墳時代より数百年早い時代に中国・朝鮮半島との交易を背景に北部九州から文字文化が流入した説が出ていた。久住氏は「国産すずりならば国内で書かれた最古の文字。倭人(わじん)(当時の日本人)ではなく渡来系の人々が書いた可能性もある」としている。
一方、松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの結論を受け、石製品を赤外線で撮影するなどして調査。同室は「赤外線ではっきり写らず、墨書ではなく汚れの可能性もある。今後の研究に期待したい」と慎重な見方をしている。【大森顕浩】

 岡村秀典・京都大教授の話 実物を見ていないが、画像で見る限り隷書の2文字に見える。石製品の中央付近に書いており、人名の可能性がある。国産の石製品なら倭人の名前で、物の私有意識が芽生えていたことになり、日本史の大問題となる。

 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の話 これまで見つかった3世紀ごろの文字はいずれも1文字で、記号かもしれない。しかし、2文字なら名前やえとなどの意味を持つ。中国からの文化伝来が予想以上に早いことになる。

 武末純一・福岡大教授(考古学)の話 私自身も弥生時代に外交文書や交易で文字が使われた可能性があると考えている。ただ、赤外線撮影の結果などから、今回は文字かどうか決めがたい。判断は慎重であるべきだ。

「文字使用の起源」数百年さかのぼるか

 松江市の田和山遺跡で出土した紀元前後の石製品にある文様について、福岡県の研究者グループが「文字の可能性がある」と発表。国内の文字使用の起源が数百年さかのぼるという驚くべき内容で、波紋を呼ぶだろう。
出土遺物などから文字の本格的使用は3世紀ごろの古墳時代以降というのが定説だが、弥生時代から文字が使われていた可能性は以前から指摘されていた。紀元57年に中国から贈られたとされ、福岡市・志賀島で出土した「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」金印をはじめ、銘文のある中国・前漢の銅鏡など漢字が記された中国製の遺物は倭国内に存在した。また、中国の史書「魏志倭人伝」では倭国に外交文書を点検する部署があったという記述がある。研究者の中には「日常的な交易の記録にも用いられた」という見方もある
もある。
しかし、国内で書かれた文字史料はこれまで、大城(だいしろ)遺跡(津市)で出土した「奉」とみられる字が刻まれた土器など2〜3世紀以降にしか確認できなかった。
このギャップを埋めたのが、筆記用具のすずりに着目した近年の調査研究だ。端緒は大陸への「玄関口」である北部九州に位置する福岡県糸島市の三雲・井原遺跡。2016年に1〜2世紀のすずりとみられる破片が確認され、文字使用との関連で一気に注目された。
福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄・文化財主事、柳田康雄・国学院大客員教授らによるグループはこれを受け、全国の遺跡の出土品を精査。従来砥石(といし)や用途不明などとされていた石製品のうち、墨をすり潰すために研石で擦った痕跡などから北部九州を中心に山陰、近畿などの100点以上がすずりで、最古は紀元前1世紀と判断した。
ただ、すずりは筆記用具に過ぎず、文字使用の確実な証拠とするには異論もあった。
研究者グループは、今回確認されたのが2文字である点も強調する。漢字が記されていても、人々が具体的な意味を示すものと認識しなければ「文字」とは言えない。この点で「子」「戊」などの連なった字とすれば「えとや人名など意味があるもの」(柳田氏)になる可能性がある。
一方、今回発表された内容について、文字かどうか慎重な意見が出ている。
石製品を発掘した松江市埋蔵文化財調査室は研究者グループの指摘を受け、「文字ならば大ごとになる」として赤外線撮影を実施。ただ、肉眼で見えた文様は、赤外線写真で鮮明に写らなかった。同室は「墨ならば赤外線でよりはっきり写る。墨以外なのか、そもそも文字なのか分からない」とする。
久住氏は「墨が剥落して赤外線で見えにくい可能性がある」などと反論するが、松江市側はあくまで一研究者グループの見解として「今後の議論を待つ」姿勢だ。2〜3世紀よりさかのぼる文字の直接的な痕跡が、他にも今後確認されるかが焦点となる。
倭国に文字(漢字)をもたらしたのが渡来人だった可能性は高いが、伝来はいつまでさかのぼり、倭人にどのように受容されていったのか。文明の礎である文字の起源を巡る論争は尽きそうにない。【大森顕浩】


第2073話 2020/01/30

難波京朱雀大路の造営年代(8)

 都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年を推定するにあたり、安定した暦年との対応が可能な遺構として、前期難波宮と観世音寺をわたしは重視しています。というのも、いずれも九州王朝によるものであり、創建年も「29.2cm尺」の前期難波宮が652年(白雉元年)、「29.6〜29.8cm尺」の観世音寺が670年(白鳳十年)とする説が史料根拠に基づいて成立しているからです。更に、年代が経るにつれて尺が長くなるという一般的傾向とも両者の関係は整合しています。
 しかし、意外なことに大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺とそれよりも先に造営された太宰府条坊(井上信正説)の設計尺は、前者が29.6〜29.8cm、後者が29.9〜30.0cmと、わずかですがより古い条坊設計尺の方が大きいのです。ただし、両者の尺の推定値には幅がありますから、より正確な復元研究が必要で、現時点では不明とすべきかもしれません。しかしながら、652年に造営された前期難波宮設計尺(29.2cm)よりも大きいことから、前期難波宮と太宰府条坊の造営の先後関係については自説(太宰府条坊の造営を七世紀前半「倭京元年」頃とする)の見直しを迫られています。
 自説の見直しや撤回は学問研究においては避けられないことです。なぜなら、「学問は自らが時代遅れとなることを望む領域」(マックス・ウェーバー『職業としての学問』)だからです。わたしはこの言葉が大好きです。(おわり)


第2072話 2020/01/29

難波京朱雀大路の造営年代(7)

 今回のシリーズでは、使用尺の違いに着目して、前期難波宮造営勢力や造営工程を考察しました。この視点や方法論により、都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年や造営勢力の異同を推定することが可能なケースがあり、古代史研究に役立てることができそうです。
 ただし、そのためにはいくつかの条件とどのような手段で暦年とリンクさせ得るのかという課題がありますので、このことについて説明します。まず、この方法を安定して使用する際には次の条件を満たす必要があります。

①対象遺構が王朝を代表するものであること。例えば宮都や宮都防衛施設、あるいは王朝により創建された寺院などであること。これは使用尺が王朝公認の尺であることを担保するための条件です。
②使用尺の実寸を正確に導き出せるほどの精度を持った学術調査に基づいていること。かつ、必要にして十分な測定件数を有すこと。
 この点、藤原京からは造営当時のモノサシが出土しており、かつその尺(29.5cm)が出土遺構から導き出した数値(整数)に一致しているという理想的な史料状況です。

 このようにして導き出された使用尺の実寸を利用して、その遺構の相対編年が可能となるケースがあります。というのは、尺は時代や権力者の交替によって変化していることが知られており、一般的には年代を経るにつれて長くなる傾向があります。この傾向を利用して、遺構造営使用尺の差による相対編年が可能となります。このことは「洛中洛外日記」でも何度か取り上げたことがあり、七世紀の都城造営尺について次の知見を得ています。

【七〜八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年・九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳10年) 29.6〜29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9〜30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された「小尺」(天平尺)とされる。

 各数値はその出典が異なるため、有効桁数が統一できていません。精査の上、正確な表記に改めたいと考えています。この不備を、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からのご指摘により気づきました。(つづく)


第2071話 2020/01/28

難波京朱雀大路の造営年代(6)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という現象の発生理由が(B)のケース、すなわち造営に関わった勢力が異なっており、前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営したのだとすれば、都市設計と造営工程の常識的な理解として次の展開が推定されます。

(1)難波京造営にあたり、最初に都市のグランドデザインとして、宮殿の位置とそれに繋がる中央道路(朱雀大路)や条坊区画が決定される。この決定は九州王朝(倭国)によりなされた。

(2)その都市設計や条坊造営は、「尺(29.49cm)」を採用する勢力が担当した。

(3)難波京条坊の設計尺(29.49cm)と藤原宮・京の設計尺(29.5cm)がほぼ同じであることから、難波京条坊と藤原宮・京の設計や造営は同一勢力によりなされたと考えられる。藤原京が近畿天皇家の都であることから、難波京条坊の設計・造営を担当したのも近畿天皇家(後の大和朝廷)などの在地勢力と考えるのが穏当である。

(4)その条坊都市設計に基づいて、条坊区画内に前期難波宮やその周辺官衙が築造された。その築造は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が担当した。この勢力とは、九州王朝が動員した「番匠」(『伊予三島縁起』に見える)のことと思われる。

 以上のような造営工程が考えられます。条坊都市の区画割りと平地の造成、谷の埋め立てなどのような膨大な労働力が必要とされる整地作業を、九州王朝が近畿天皇家を初めとする在地の豪族に命じたのではないでしょうか。その在地勢力の使用尺(29.49cm)と宮殿を築造した勢力の使用尺(29.2cm)がなぜ異なるのかという疑問は未だに解決できませんが、同一宮都の造営に二つの異なる尺が採用されたという事実は、前期難波宮九州王朝複都説であれば説明が可能です。他方、前期難波宮を近畿天皇家(孝徳であろうと天武であろうと)の王宮とする説では説明困難です。
 このように、高橋さんから教えていただいた、二つの異なる尺が前期難波宮造営期には併存していたという考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しているのです。(つづく)


第2070話 2020/01/25

難波京朱雀大路の造営年代(5)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という問題に対する高橋さんの説明により、前期難波宮造営尺と難波京条坊造営尺は前期難波宮造営時期(七世紀中頃)に併存していたことがわかり、わたしの疑問は解決されました。
 一つの宮都造営に二つの異なる「尺」が使用されているという前期難波宮・京の考古学的事実に対して、わたしは次の二つのケースを想定していました。

(A)造営時期が異なっている。前期難波宮を「尺(29.2cm)」で築造した後に「尺(29.49cm)」で条坊を区画し、条坊都市を造営した。
(B)造営に関わった勢力が異なっている。前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営した。

 高橋さんの二つの異なる尺が前期難波宮造営時期に併存していたという考古学的事実を根拠とする見解は有力です。その知見を知り、わたしが想定した二つのケースのうち、(A)が否定されたため、孝徳期に限っては(B)が妥当であることが分かったのです。このことは前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しています。(つづく)


第2069話 2020/01/24

難波京朱雀大路の造営年代(4)

 今回の「新春古代史講演会2020」での高橋さんの講演で、わたしは大きな刺激と数々の考古学的知見を得ました。中でも、前期難波宮や難波京条坊の造営時期と発展段階について抱いていた論理上の作業仮説が考古学的発掘調査結果と整合していたことがわかり、これは大きな成果でした。しかし、わたしは更に重要な事実を高橋さんからお聞きすることができました。それは、以前から「解」が見つからずに悩んできたテーマ、すなわち前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という難問についてです。そのことについて質疑応答のときに高橋さんにおたずねしたのです。
 高橋さんの回答は次のようなものでした。

①前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)が異なっていることを根拠に、条坊造営を天武朝のときとする意見がある。
②しかし、両尺が前期難波宮造営時期に併存していた痕跡がある。
③それは、前期難波宮と同時期の七世紀中頃に造営された西方官衙の位置が条坊造営尺(29.49cm)により区画されていたことが判明したことによる。

 このような高橋さんの説明により、わたしの疑問は氷解したのです。(つづく)


第2068話 2020/01/23

難波京朱雀大路の造営年代(3)

 「新春古代史講演会2020」での高橋さんの講演で、わたしは次の指摘に注目しました。

①前期難波宮は七世紀中頃(孝徳朝)の造営。
②難波京には条坊があり、前期難波宮と同時期に造営開始され、孝徳期から天武期にかけて徐々に南側に拡張されている。
③朱雀大路造営にあたり、谷にかかる部分の埋め立ては前期難波宮の近傍は七世紀中頃だが、南に行くに連れて八世紀やそれ以降の時期に埋め立てられている。

 高橋さんが示された難波京条坊や朱雀大路の造営時期やその発展段階の概要には説得力があり、異論はないのですが、朱雀大路のグランドデザインや造営過程については、なお解決しなければならない問題があるように感じています。というのも、朱雀大路にかかる谷の埋め立ては八世紀段階以降のものがあるとされますが、他方、遠く堺市方面まで続く「難波大道」の造営を七世紀中頃とする調査結果があることから、全ての谷の埋め立ては遅れても、朱雀大路とそれに続く「難波大道」は前期難波宮造営時には設計されていたのではないでしょうか。
 二〇一八年二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「七世紀の難波から飛鳥への道」で、前期難波宮の朱雀門から真っ直ぐに南へ走る「難波大道」を七世紀中頃の造営とする次のような考古学的根拠の解説を聞きました。
 通説では「難波大道」の造営時期は『日本書紀』推古二一年(六一三)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に七世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、二〇〇七年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から七世紀中頃の土器(飛鳥Ⅱ期)が出土したことにより、設置年代は七世紀中頃、もしくはそれ以降で七世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉四年(六五三年、九州年号の白雉二年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。
 この「難波大道」遺構(堺市・松原市)は幅十七mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは三mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。
 この「難波大道」の造営時期と高橋さんの指摘がどのように整合するのかが課題のように思われるのです。(つづく)


第2063話 2020/01/12

「九州古代史の会」新春例会・新年会に参加

 帰省を兼ねて、本日の「九州古代史の会(木村寧海代表)」新春例会と新年会に参加しました。会場はももち文化センター(福岡市早良区)、講演テーマは下記の通りでした。中でも古賀市の考古学者、甲斐孝司さんによる船原古墳出土品(馬具など)の最新技術による調査解析方法の説明は圧巻でした。恐らく世界初の技術と思われますが、それは次のようなものでした。

 ①遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロのカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
 ②次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この①と②で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
 ③そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
 ④遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

 このような作業により船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元でき、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存され、研究者に活用されるという、最先端で最高水準の発掘調査方法が、甲斐さんら現地の発掘担当者と九州大学の協力チームにより、それこそ手探りで作り上げられたことが報告されました。
 福岡市天神の平和楼で開催された新年会でも甲斐さんを交えて、考古学の最先端テーマや作業仮説について質疑応答が続けられ、とても有意義な集いとなりました。講師の皆さんをはじめ、「九州古代史の会」の方々に厚く御礼申し上げます。
 二次会でも前田さん(九州古代史の会・事務局長)、金山さん(九州古代史の会・役員)、講師の山下さん、古くからの友人である松中さん(九州古代史の会、古田史学の会の会員)と夜遅くまで天神の居酒屋で歓談し、親睦を深めることができました。

(1)考古学資料に見る天孫降臨
  講師 山下孝義さん(九州古代史の会・幹事)
(2)広開土王碑の中の「倭」
  講師 木村寧海さん(九州古代史の会・代表)
(3)鹿部田淵遺跡・船原古墳について
  講師 甲斐孝司さん(古賀市教育委員会 文化課業務主査)


第2062話 2020/01/11

久しぶりの「銅鐸博物館」(滋賀県野洲市)訪問

 先日、数年ぶりに滋賀県野洲市にある「銅鐸博物館」を訪れました。交通の便はあまり良くありませんが、古代史ファンには是非訪れて欲しい博物館の一つです。野洲市からは国内最大の銅鐸を始め大量の銅鐸が出土しており、同館には多くの銅鐸が展示されています。
 弥生時代の二大青銅器圏の一つ、銅鐸圏の王権についての研究は『三国志』倭人伝のような史料がありませんから、その全容は謎のままです。古田説によれば神武東征を史実とされています。すると、『古事記』『日本書紀』の神武東征説話などに銅鐸圏の王者と思われる人物が見えます。『古代に真実を求めて』23集に掲載予定の拙稿「神武東征譚に転用された天孫降臨神話」にも記していますが、神武記の東征説話に見える、神武と戦った登美毘古こそ銅鐸圏の有力者と思われます。拙稿では神武東征記事中の「天神御子」説話は天孫降臨神話からの転用であることを論証しましたが、登美毘古との戦闘記事は「天神御子」説話ではないことから、神武等と銅鐸圏勢力との戦闘であると考えられます。
 同様に古田先生が『盗まれた神話』で論証されたように、垂仁紀に見える「狭穂彦王・狭穂姫命」も銅鐸圏の王者であることから、銅鐸圏では「地名+ヒコ(ヒメ)」が王者の名称として使用されていたようです。従って、弥生時代の武器型祭器圏と銅鐸圏はともに「ヒコ(ヒメ)」などの倭語(古代日本語)を使用していたことがわかります。更に、磯城県主(しきのあがたぬし)などの大和盆地内の豪族名から、その行政単位に九州王朝と同じ「県」が使用されていたことも推定できます。
 このように『古事記』『日本書紀』などを根拠とした、銅鐸圏の実態解明が期待できます。どなたか多元史観・古田史学による本格的な銅鐸圏研究をされませんか。


第2050話 2019/12/04

古代の九州と信州の諸接点

 『東京古田会ニュース』189号の橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「古田武彦の『八面大王論』(幷私論)」に触発され、古代史に関わりそうな九州と信州の接点について、わたしが知るところの事物や研究テーマを紹介します。
 直近では、「洛中洛外日記」1720話(2018/08/12)「肥後と信州の共通遺伝性疾患分布」において、遺伝性の病気の集積地が熊本県と長野県に特異な分布を示していることを紹介しました。もちろん、その原因が古代にまで遡るのかは不明ですが、不思議な分布状況で注目しています。この病気のことは「洛中洛外日記」読者のSさん(長崎県在住の医師)からお知らせいただいたもので、それは家族性アミロイドポリニューロパチーという遺伝性の病気です。なぜか熊本県と長野県に大きな分布が見られ、その分布事実は両者に血縁的関係があることを示唆しているようなのです。
 次に、これはわたしが発見したのですが、熊本県天草市と長野県岡谷市に「十五社神社」という神社が濃密分布していることです。御祭神は異なるようですが、「十五社神社」という名称の一致が九州と信州の特定地域に濃密分布しているのは偶然とは考えにくいことです。
 更に、筑後一宮で有名な高良大社の御祭神「高良玉垂命」を祀る「高良神社」が信州に濃密分布していることが従来から指摘され、その調査が信州の古田学派の研究者により精力的に進められています。近年では、信州以外(淡路島・他)にも「高良神社」の分布が発見されており、今後の研究の進展が期待されます。
 また、古代系図として有名な「異本阿蘇氏系図」中に信州の有力者である「金刺氏系図」が繋がっていることも知られています。これは両地域の関係が古代に遡ることを示す貴重な史料です。
 この他にも、信州に遺る「安曇(あずみ)」地名や「お船祭り」など北部九州の安曇族との関係を感じさせるものが散見されます。橘高さんが紹介された「八面大王」を「ヤメ大王」のこととし、九州王朝の筑紫君薩野馬や磐井のこととする仮説も提唱されており、検討が必要です。まさに多元史観・古田史学の出番と言えるのではないでしょうか。

「洛中洛外日記」の信州と九州関連記事タイトル】
 422話 2012/06/10 「十五社神社」と「十六天神社」
 483話 2012/10/16 岡谷市の「十五社神社」
 484話 2012/10/17 「十五社神社」の分布
1065話 2015/09/30 長野県内の「高良社」の考察
1240話 2016/07/31 長野県内の「高良社」の考察(2)
1246話 2016/08/05 長野県南部の{筑紫神社」
1248話 2016/08/08 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話 2016/08/21 神稲(くましろ)と高良神社
1720話 2018/08/12 肥後と信州の共通遺伝性疾患分布


第2031話 2019/11/01

難波京朱雀大路から大型建物と石組溝が出土

 前期難波宮九州王朝複都説に反対する論者からは、七世紀中頃の難波宮の存在を否定したり、上町台地上の日本列島内最大級の遺構(古墳時代〜前期難波宮時代)を矮小化する見解が未だに見られるのですが、そうした見解に対して考古学的出土事実は〝ノー〟を示し続けています。その新たな発見が『葦火』195号(2019年10月、大阪市文化財協会編集)に掲載されましたので紹介します。
 『葦火』195号で「難波京朱雀大路跡で古代の大型建物と石組み遺構を発見」という記事が発表されました。今回の出土地点は前期難波宮朱雀門(南門)から南へ約800mのところ(天王寺区城南寺町)で、豊臣秀吉が城下町として整備した古い寺町が残っているため、これまであまり発掘調査が進んでいない地域です。そこから、掘立柱建物1棟と南北方向の石組み溝が発見されました。建物の全体の規模は不明ですが、柱の規模から一般の建物としては大型のものとされています。
 石組みは、建物の西側を通る朱雀大路の(幅32.7m)よりも東側にあるため、朱雀大路の側溝ではなく、建物敷地内の溝と思われます。石組み溝内や柱抜き取り穴から七世紀中〜後葉の時期の須恵器や土師器、遺物が出土しており、溝と建物は前期難波宮の時期のものと考えられます。石組に使用された石材は前期難波宮の北西官衙の水利施設の暗渠に使用されたものと共通する、六甲や播磨地域を含む山陽帯の花崗岩が用いられていました。
 更にもう一つ大きな発見がありました。同遺構の前期難波宮造営時期かそれ以前に遡る可能性のある層位から、「奉」と推定される文字が刻まれた「陶硯」が出土したのです。土器に記された「奉」の文字としては、日本では最も古い事例になりそうとのことです。新羅でも陶器に「奉」の文字を刻む例があることから、新羅から伝わった祭祀文物とみる説もあるそうです。そして、次のように指摘されています。

 「硯の出土は、文書を扱う人が周辺で活動していたことを物語ります。今回見つかった建物が建てられる以前に、周辺に重要な施設があった可能性も想定する必要がありそうです。」(大庭重信・協会学芸員)

 わたしが前期難波宮九州王朝複都説を発表して以来、この十年間も前期難波宮や難波京が国内最大規模の王都・王宮であることを支持する出土が続いています。この考古学的事実を九州王朝説ではどのように説明できるのかという考究を続けた末の結論が、前期難波宮九州王朝複都説であることを是非ご理解いただきたいと願っています。


第2029話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(5)

 本シリーズ冒頭で、ご町内の北村美術館庭園(四君子苑)で多くの石造物(五輪塔・多層石塔・石仏など)を拝観させていただいたことを紹介しましたが、そのとき、わたしが最も関心を払ったのが古そうな三重石塔の年代でした。というのも、満月寺五重石塔の年代検討のため、わたしは日本各地の鎌倉時代の多層石塔をインターネットで調査し、その様式による年代観を勉強していたからです。ですから、その年代観がどの程度のものか、北村美術館の石塔で確かめたいと考えたわけです。その結果、その三重石塔は鎌倉時代のものと判断し、美術館の方に確認したところ、ほぼ当たっていました(鎌倉前期頃とのこと)。
 わたしがインターネットで調査した多層石塔は次のものでした(ネットで写真を見ることができます。付されていた解説も一部転載しました)。こうした同時代の他の多層石塔の様式からも、満月寺五重石塔の造立年代を鎌倉時代後期の「正和四年乙卯」(1315)とすることは極めて妥当との結論に至りました。と同時に、九州年号「正和四年」(529)とするのは困難というのが学問的判断と思われます。(おわり)

【以下、転載】
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kanto.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(1)東日本(関東以北)の石塔巡拝

○元箱根賽の河原層塔(神奈川県箱根町元箱根)
 初層軸部(塔身)は、四方に輪郭をとり、二字づつの梵字を刻んである。写真の塔身左側から四仏の不空成就(アク)と釈迦(バク)、正面は観音(サ)と四仏の阿弥陀(キリーク)と続き、さらに左回りで、地蔵(カー)と四仏の宝生(タラーク)、四仏の阿しゅく(ウーン)と薬師(バイ)がセットになって彫られているのである。金剛界四仏だけでは事足らず、信仰の対象として馴染み深い釈迦、観音、地蔵、薬師という仏たちまで彫り込んだ意欲には脱帽であろう。
 基礎正面の中央輪郭部に、正和三年(1314)という鎌倉後期の年号が彫られているそうである。残欠塔とはいえ、関東には鎌倉時代の在銘層塔は数基しかなく、まことに貴重な存在なのである。

○城願寺五重塔(神奈川県湯河原町)
 塔身(初重軸部)は、周辺に関東様式ともいえる輪郭を巻き、金剛界四仏の梵字を彫り込んでいる。写真に写っているのは、アク(不空成就)である。やや力の無い書体である。
 各層の屋根は、軒裏に垂木型が刻んであり荘重なシルエットを創出している。軒の反りは鎌倉風の剛健な様式で美しい。相輪の存在が記された本があったが、現在は失われてしまったようだ。塔身に嘉元二年(1304)という、貴重な鎌倉後期の年号が刻まれているのである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-chugoku.html
石塔紀行(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(10)中国・四国・九州(大分以外)の石塔巡拝

○薬師寺七重塔(広島県尾道市因島原ノ町)
 正和四年(1315)鎌倉後期に建てられた石塔で、全体にほぼ完存する秀麗な遺構と言えるだろう。
 基礎には輪郭を巻いた中に格狭間を彫り、塔身には金剛界四仏の種子が刻まれている。梵字の彫りは、この時代にしては華奢で、同じ鎌倉後期でも次掲の光明院塔に比べると、鎌倉の豪快さはかなり失われてしまっているようだ。
 それでも、笠や相輪の優美さは見事で、軒の反りや厚さには鎌倉後期の特徴を十分に見ることが出来る。屋根の裏に一重の垂木型が彫り出されており、繊細な美意識も感じ取れる。笠の幅の逓減率も理想的で全てが美しいのだが、優等生だがやや個性に欠ける、といった評価が出来るのかもしれない。
 基礎は低いが、背の高い塔身(初層軸部)には、輪郭の巻かれた中に金剛界四仏が薄肉彫りされている。各仏の名称は方位から推測するしかないが、いずれもほのぼのとした情緒に満ちた彫像である。

○青目寺五重塔(広島県府中市本山町)
 やや摩滅しているが、四面に胎蔵界四仏の種子(梵字)が薬研彫りされている。
 各層の屋根を見ると、軸部と一体に作られていることと、軒の厚さや反り具合が何とも大らかに造られていることに気が付く。のびのびとした表現は鎌倉後期以後の様式通の範疇からは抜けており、案の定案内板によれば、基礎正面に「正応五年(1292)」という鎌倉後期の初めの年号が刻まれているのだった。
 相輪が失われているのは残念だが、全体に漂う飛び切りの古塔ならではのオーラのような雰囲気が感じられて感動した。各層の屋根はそれぞれが上の軸部と一体となる彫り方で、適度な厚さのある軒は緩やかな反りを示している。五層の屋根の幅の逓減率が自然なので、見るからに品位のある落ち着いた姿をしている。
 塔身東面の仏像(阿閦如来か)の下に、寛元元年(1243)という鎌倉中期の銘が入っているそうだったが、肉眼では判然としなかった。各部の特徴が、いかにもこの魅力的な造立銘に相応しい佇まいであることに感動した。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kyoto-n.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(5) 京都(北部)の石塔巡拝

○金輪寺五重塔(京都府亀岡市宮前町)
 延応2年(1240)という鎌倉前中期の作との事だが、総体的に古調を示していて格調高い。特に反りの少ない笠の緩やかさは、石塔寺のイメージにも似て素晴らしい。初層軸部に四方仏が彫られ、その下の基礎石には梵字の四方仏が彫られていた。梵字にはアやアンが見られることから胎蔵界四仏だろう。