九州王朝の高安城(4)
高安城が難波副都防衛のための、大阪平野・大阪湾から明石海峡まで見通せる「監視施設(物見櫓)」とする仮説を支持する史料根拠があります。『日本書紀』天武紀に見える次の記事です。
「是の日に、坂本臣財等、平石野に次(やど)れり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚(や)きて、皆散亡す。仍(よ)りて城の中に宿りぬ。會明(あけぼの)に、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多(さわ)に至る。顕(あきらか)に旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(672)七月条
「壬申の乱」の一場面ですが、高安城を制圧した天武軍(坂本臣財ら)が翌朝に大津道と丹比道から進軍する近江朝軍を発見したことが記されています。この記事から高安城が「監視施設(物見櫓)」の機能を有する位置にあることがわかります。
なお、この記事には続きがあり、進軍する近江朝軍に対して坂本臣財は高安城を下山して交戦しますが、「衆少なくして距(ふせ)ぐこと能わず」退いたと記されています。すなわち、高安城には大軍がいなかった、宿営できなかったようです。せいぜい「守備隊」程度の兵士が高安城に「見張り番」として、通常は置かれていたと推定できます。この推定が正しければ、高安城は、大規模な大野城や「神籠石」山城とは目的が異なっていることになります。恐らく高安城の性格は難波副都の地勢に対応したものと思われます。
拙論「『要衝の都』前期難波宮」(『古田史学会報』一三三号)にて詳述しましたが、九州王朝の副都として前期難波宮が造営された上町台地は、後に摂津石山本願寺や大阪城が置かれたように、歴史的にも有名な要衝の地です。三方を海や河内湖に囲まれているため、南側の防御を固めればよく、しかも上町台地北端の最高地付近に造営された前期難波宮は、周囲からその巨大な容貌を見上げる位置にあり、王朝の権威を見せつけるのにも適しています。
したがって、このような難波副都防衛のために高安城に「見張り番」を常駐させれば、瀬戸内海からの海上船団や南から難波大道を北上する集団を発見することが可能です。すなわち、三方を海や湖で囲まれた難波副都にとって必須である南の守りの一環として高安城を築城したと考えることができるのです。(つづく)