考古学一覧

第1359話 2017/03/26

前畑土塁は「羅城」「関」「遮断城」?

 「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録されている井上信正さん(太宰府市教育委員会)の「前畑遺跡の版築土塁の検討と、城壁事例の紹介」は示唆に富んだ好論でした。
 中でも前畑土塁の性格について、中国や朝鮮の羅城や城郭との比較により、太宰府防衛のための「水城・前畑土塁は羅城と捉えるよりむしろ『関』に連なる遮断城とみた方がよいのではないか。」との指摘は興味深いものでした。その根拠は、「羅城」は条坊都市を囲んだ城壁を意味するとのことで、水城・前畑土塁は太宰府条坊都市よりもはるかに広大な領域を囲んでいることから、「羅城」との表現は適当ではないとされました。また、水城や前畑土塁には古代官道が通過していることから「関」の役割も果たしており、さらに和歌に「水城の関」と表現された例もあり、「『関』に連なる遮断城」とする井上さんの見解に説得力を感じました。
 井上論文では前畑土塁の築造年代についても次のように推定されています。

 「出土品から時期判定ができないのは残念だが、その構築方法を観察すると、扶余羅城・水城と比べて退化(あるいは手抜き)しているように見え、後出する可能性もあろう。」(41頁)

 ここでの「構築方法」とは土塁基盤(地山)と版築土塁の間に黒褐色粘土を挟む工法のことで、水城や前畑土塁に共通したものです。こうした視点から、井上さんは前畑土塁の築造時期を水城と同時期かそれよりも遅れる可能性を指摘されています。したがって、先に紹介した放射性炭素年代測定や「筑紫地震(679年)」の痕跡とあわせて判断すると、7世紀後半で679年以前の築造とする理解が有力と思われるのです。(つづく)

《ご案内》6月18日(日)、井上信正さんをお招きして「古田史学の会」大阪講演会を開催します。参加費無料。井上さんの御講演を関西でお聞きできる貴重な機会です。
 会場:エル大阪(大阪市中央区北浜)
 日時:6月18日(日)13:20〜16:00 (16:00〜17:00 会員総会)
 懇親会(夕食会):17:30〜(当日、参加受付)


第1358話 2017/03/25

前畑遺跡土塁に地震の痕跡

 「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録された「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」によれば、出土した炭片の放射性炭素年代測定値から、土塁の築造時期は「試料い」cal AD238-354(弥生時代終末〜古墳時代3〜4世紀)よりも新しいということがわかるのですが、他の収録論文によれば推定築造年代の下限もわかるようです。
 同資料集に収録された松田順一郎さん(史跡鴻池新田会所管理事務局)の「前畑遺跡の土塁盛土にみられる変形構造」に、この土塁には地震による変形の痕跡があることを次のように紹介されています。

 「土塁上部東西両肩部の破壊にかかわるせん断面、土塊の移動と、初生の薄層積みおよび土塊積み盛土構造の層理・葉理の変形は、多方向で繰り返す応力によって発達しており、部分的には液状化をともなうと考えられるので、過去の地震動で生じた可能性が高い。」

 そして強度が震度6以上と推定されることから、その地震は「筑紫地震(679年)」とされ、当土塁が築造されたのは679年以前とされました。

 「本地域においてそのような強度で発生した古代の地震として679年の「筑紫地震」の記録がある。その後にはとくに強い地震の記録はなく、土塁の構築年代はそれ以前と考えられる。」

 先の放射性炭素年代測定値と「筑紫地震」の痕跡により、土塁の造営年代を4世紀頃から679年の間にまで絞り込むことができたのでした。(つづく)


第1357話 2017/03/24

前畑遺跡筑紫土塁の炭片の年代

 久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)よりいただいた「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」(西海道古代官衙研究会編、2017年1月22日)に前畑遺跡筑紫土塁の盛土から出土した炭片の炭素同位体比年代測定値が掲載されていました。
 同誌に収録されている「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」(筑紫野市教育委員会 小鹿野亮、海出淳平、柳智子)によれば、「土塁の基盤および土塁を構成する盛土堆積物より出土した炭片」3点の放射性炭素年代測定の結果(補正値)として、「試料こ」cal BC0-cal AD89(弥生時代後期)、「試料い」cal AD238-354(弥生時代終末〜古墳時代3〜4世紀)、「試料き」cal BC696-540(弥生時代前期)と紹介されています。
 紀元前7世紀から紀元4世紀までのかなり年代に差があります。これらの測定値から、土塁築造にあたり使用した土に古い時代の炭片が含まれていたことがわかります。従って、放射性炭素年代測定の結果がそのまま土塁の築造年代を意味しないことをご理解いただけると思います。この炭片の測定値から論理的に言えることは、土塁の築造時期は「試料い」calAD238-354(弥生時代終末〜古墳時代3〜4世紀)よりも新しいということであり、築造年代はそれ以外の根拠(出土土器編年など)に依らねばなりません。
 「理科学的年代測定値」をそのまま測定サンプルを採取した遺物・遺構の成立年代とすることは科学的ではないのです。(つづく)


第1356話 2017/03/18

九州王朝の大尺と小尺

 本日の「古田史学の会」関西例会では、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表された古代の「高麗尺」はなかったとするテーマで、九州王朝「尺」についてわたしとの質疑応答が続きました。その討論を経て、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により北朝尺(30cm弱)を採用したとの見解に収斂しました。その根拠として太宰府条坊区画(約90m=300尺)があげられます。しかしながら、大宰府政庁や観世音寺などの北部エリアの新条坊区画が太宰府条坊都市の区画と「尺」単位が微妙に異なる点についてはその事情が「不明」で、引き続き、検討することになりました。この点については、6月の「古田史学の会」会員総会記念講演会の講師・井上信正さん(太宰府市教育委員会)にもお聞きしようと思います。
 前期難波宮の条坊単位も北朝尺(30cm弱)によっているようですので、九州王朝は7世紀初頭から前期難波宮造営の7世紀中頃までは北朝尺で、大宰府政庁・観世音寺の新条坊エリア造営の670年(白鳳10年)頃にはそれとはやや異なった「尺」を用いたと考えられます。大宝律令の大尺と小尺は九州王朝が採用していた北朝尺と南朝尺を反映したものではないでしょうか。服部さんの発表と討論によって、九州王朝「尺」に対する認識が深まりました。
 3月例会の発表は次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕
①「東山道十五国」の比定 -山田春廣説の紹介-(高松市・西村秀己)
②高麗尺やめませんか(八尾市・服部静尚)
③師木の波延から追う神武帝と国号日本の原姿(大阪市・西井健一郎)
④6〜7世紀の王墓と継躰天皇陵(神戸市・谷本茂)
⑤晋書の西南夷とは(茨木市・満田正賢)
⑥「帝王本紀」・「帝紀」について(東大阪市・萩野秀公)
⑦『神功紀』が語る「八十梟帥討伐譚は邇邇芸命らの肥前討伐譚からの盗用」(川西市・正木裕)
⑧全盛期の九州王朝を担った筑後勢力 -筑後は倭国の首府だった-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 2/25 久留米大学で正木氏、服部氏が講演・7/08 久留米大学で古賀が講演予定・2/22NHKカルチャーセンターで谷本氏が講義・2/23「古代史セッション」(森ノ宮)で笠谷和比古氏(日本国際日本文化センター名誉教授)が講演・筑紫野市「前畑遺跡筑紫土塁」保存の署名協力要請・『唯物論研究』138号発刊と内容説明・『古田史学会報』投稿要請・西村竣一氏(東京学芸大学元教授・日本国際教育学会元会長)の訃報・6/18「古田史学の会」会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会(エルおおさか)・「古田史学の会」関西例会5〜7月会場変更の件(ドーンセンター)・3/27「古代史セッション」(森ノ宮)で正木氏が講演予定・今月の新入会員情報・『多元』に古賀論稿が掲載・その他

○服部編集長から『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』発刊の報告。(出版記念講演会を東京・福岡などで開催を企画中)


第1354話 2017/03/16

敷粗朶の出土状況と水城造営年代

 『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ 平成13・14年』によると、敷粗朶が検出された水城遺構について次のような説明がなされています。
 敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていたことが従来の発掘調査により知られていました(3層の敷粗朶を発見)。ところが平成13年の発掘調査では、発掘地の地表から2〜3.4m下位に厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見されました。それは敷粗朶と積土(10cm)を交互に敷き詰めたものです。また、以前に発見されていた敷粗朶は水城土塁と平行方向に敷かれていましたが、今回のものは直角方向に敷かれていました。その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による1.5mの敷粗朶層が、400年もかけて築造されたものとは思えない出土状況です。単純計算では約4mm/年の築造ペースとなりますが、これはありえないでしょう。
 敷粗朶層最上層からサンプリングされた粗朶の炭素同位体比年代測定の中央値660年を重視すると、敷粗朶層の上の積土層部分(1.4〜1.5m)の築造期間も含め、水城の造営年代(完成年)は7世紀後半頃となり、『日本書紀』に記された水城造営を天智3年(664)とする記事と矛盾しないことになります。このことは、水城を白村江戦以前のかなり早い時期から長期間を要して造営されたと考えてきた従来の九州王朝説からすると意外ですが、引き続き検討したいと思います。(つづく)


第1355話 2017/03/17

敷粗朶のサンプリング条件と信頼性

 水城造営年代の判断材料の一つとなる敷粗朶とその炭素同位体比年代測定値について、さらに深く検討してみましょう。『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』によると、地表から2m下位に敷粗朶最上層があり、以下、11層の敷粗朶が発見されました。その統一された工法や1.5mの厚さに11層あることなどから、恐らく短期間に造営されたと考えざるを得ない遺構状況を示していることは既に指摘した通りです。
 粗朶の測定サンプルは3点で、その内の1点は地表から発掘を続けて最初に発見された敷粗朶最上層からのサンプルで、「GL-2m」とネーミングされています。測定の中央値が660年とされたものです。最上層敷粗朶面の写真も開示されており、確実に最上層の粗朶と断定できるサンプリング条件であり、サンプルの信頼性も高いものです。
 その他の2点について、内倉稿では「中層430年±」と「最下層240年±」と表記されているのですが、調査報告書では「坪堀1中層第2層」「坪堀2第2層」とネーミングされており、「坪堀」という狭い範囲での発掘で、しかも位置が異なります。層位についてもどちらが深いのか具体的な説明もなく、相対的な深度もよくわかりませんでした。考古学の専門家であればわかるのかもしれませんので、この点、引き続き調査します。ただ、最上層の粗朶とは発掘方法(サンプリング方法)が異なることは間違いないようです。このことが、サンプルの信頼性に差をもたらしているかもしれません。
 いずれにしましても、短期間に築造された敷粗朶層からの3サンプルの測定がこれほど異なっているのですから、そのサンプルや測定結果の信頼性が疑われるのも当然です。特に敷粗朶最上層の「GL-2m」とは発掘方法が異なる「坪堀1中層第2層」「坪堀2第2層」のサンプルに問題があるのではないかとする判断は妥当なものです。従って、本来なら測定結果からサンプルに疑義が生じた時点で、他のサンプル(合計32サンプルが採取されています)の測定を実施すべきです。もし、わたしの勤務先の製品検定において、これほどの不自然な測定値が出たら、再測定やサンプル数を増やしての追加測定を行うよう指示したでしょう。ですから、調査報告書に「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」(142頁)と記されていることはよく理解できます。当時は予算的な問題があったのかもしれませんが、九州歴史資料館が再度これらの粗朶サンプルの測定を実施されることを希望します。(つづく)


第1353話 2017/03/15

敷粗朶による水城の造営年代

 水城造営年代の根拠となる炭素同位体比年代測定値には先に紹介した木樋以外に、基底部補強に使用された敷粗朶があり、九州歴史資料館が測定しています。
 内倉さんの『多元』掲載論稿にもその測定値が紹介されていますが、出典文献が明示されていませんので、わたしが調査したところ、『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』(九州歴史資料館、二〇〇三年)の「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」と「9 水城第三五次調査(出土粗朶 年代測定)」にサンプリングの状況や方法とともに詳しく記されていました。
 内倉稿によると、水城から出土した敷粗朶の年代測定値として最上層出土を中央値660年、中層出土を中央値430年、最下層出土を中央値240年と紹介され、「太宰府都城は五世紀中ごろには完成」の根拠の一つとされているようです。しかし、内倉稿にはこれら敷粗朶の出土位相やサンプリング条件などが記されていませんし、どの調査報告書によるのか出典も不明でした。従って、内倉稿だけを読むと、水城築造に当たり使用された敷粗朶の年代測定値から、水城は3世紀頃から延々と築造され、400年程かけて7世紀中頃に完成したと思ってしまいそうです。当初、わたしも内倉稿により、そのように理解していました。(つづく)


第1352話 2017/03/12

炭素同位体比年代測定による水城の造営年代

 太宰府条坊の造営年代を判断する上で、同時期に築造されたと思われる水城について検討してみます。幸いに水城からは炭素同位体比年代測定データが存在します。一つは水城基底部の敷粗朶(三層)、もう一つは基底部に埋設された木樋です。
 構造物としての水城は、土塁、濠、導水管として埋設された木樋、東西に置かれた門やそこを通過する官道、中央を貫流する御笠川などで構成されます。土塁は上下に分かれ、上層は版築工法によるものです。下部の基底部の積土の単位は厚く、最下層付近には軟弱な地盤に対する積土の基礎強化を目的とした、枝葉を敷き詰めた敷粗朶工法がみられます。
 濠は、土塁の博多側の外濠、太宰府側の内濠とからなり、外濠は土塁に平行する形で幅約六〇m。内濠は土塁と平行する形で一部確認されていますが、全体の規模は不明です。
 この内濠から取水して外濠へ水を流し込むため、木樋が基底部に埋設されています。土塁幅と同じく約八〇mにわたる大規模なもので、複数発見されています。板材を繋ぎ合わせるための加工方法や、大型の鉄製カスガイを使用するなど高度な建築技術がみられます。
 水城の東西には門が置かれ、官道が敷設されていたことが分かっています。水城の中央を流れる御笠川については、貯水、あるいは交通機能を持っていたと考えられています。
 わたしが注目するのが基底部に埋設された木樋です。内倉武久さんの『太宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房、二〇〇〇年)によれば、観世音寺に保管されていた水城の木樋の炭素同位体比年代測定が九州大学の故坂田武彦氏によりなされており、西暦四三〇年±三〇年とのこと。この測定は一九七四年にまとめられたものなので、「最新データで測定値を補正してみると五四〇年ごろになりそうだ。」(一九三頁)と内倉さんは記されています。わたしも年輪年代値による補正表(注)で補正したところ、約五四五年頃となりましたので、内倉さんの補正とほぼ同じ年代を示しました。
 この補正により、木樋のサンプリングした部分の年輪の年代が五四〇年頃ということがわかります。水城の木樋はかなり大きなものですから、年輪のどの位置からのサンプリングなのか不明ですが、伐採年は五四〇年より数十年新しい可能性を有しています。少なく見積もってもこの木樋に使用した木材の伐採年は六世紀後半となるでしょう。そうすると六世紀後半の木材を使用した木樋を基底部に埋設し、その後に版築工法による土塁や門を築造するわけですから、水城の完成は六世紀後半から七世紀初頭以降となります。
 こうした木樋の炭素同位体比年代測定値から判断すると、水城は七世紀前半に造営された太宰府条坊都市防衛のため同時期に築造されたと考えて問題ありません。この場合、太宰府条坊都市造営を七世紀前半とするわたしの理解と整合します。(つづく)

(注)『鞠智城 第13次発掘調査報告』(平成4年3月、熊本県教育委員会)所収「二一表」


第1351話 2017/03/11

太宰府都城の造営年代

 太宰府都城の年代を論じる場合、現在の研究水準からすれば、条坊都市、その北部の政庁や観世音寺、水城、大野城、基肄城などを個別に年代を判断しなければなりません。「都城」というからには、それら全てを含みますから、学術論文であれば丁寧に分けて論じる必要があることは言うまでもないでしょう。
 わたしは太宰府条坊都市部分の成立を七世紀前半(倭京元年〔六一八〕が有力候補)、北部エリアの大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺などを七世紀後半(白鳳十年〔六七〇〕頃)の成立と考えていますが、残念ながらそれらの遺構から出土した木材等の炭素同位体年代比測定のデータの存在を知りません。まだ測定されていないのかもしれません。
 大野城については出土した柱の炭素同位体比年代測定がなされており、650年頃とする測定値が発表されています(西日本新聞 2012年11月 23日)。このことから、大野城は大宰府政庁Ⅱ期と同時期に造営されたと考えることができそうです。その規模と城内に点在する倉庫遺構の存在から、大野城は太宰府政庁の北の守りと条坊都市住民の為の逃げ城の性格を有しているようです。
 他方、博多湾方面からの敵の侵入から太宰府を防衛する為の水城は条坊都市とほぼ同時期の造営と考えていますので、水城の造営年代を炭素同位体比年代測定値を参考に検討してみることにします。(つづく)


第1350話 2017/03/10

炭素同位体比年代測定値の性格

 友好団体「多元的古代研究会」の機関紙『多元』No.138に掲載された内倉武久さんの「太宰府都城は五世紀中ころには完成していた」を興味深く拝見しました。内倉さんが太宰府都城の成立を五世紀中頃とされた根拠は炭素同位体比年代測定(14C)データという「実証」でした。よい機会ですので、古代史研究に使用する際の炭素同位体比年代測定値の性格について整理しておきたいと思います。
 古代遺跡や遺物の年代判定において、従来の土器や瓦の相対編年に対して、理化学的年代測定が科学技術の進歩とともにますます重視されるようになりました。炭素同位体比年代測定もその一つですが、絶対年代の判断材料になるという長所と同時に留意すべき弱点も持っています。従ってこの弱点や限界を正確に理解しておかないと、誤判断が避けられません。
 わたしの本業は化学ですが、勤務先の品質保証部で製品検定などにも携わってきた経験もあります。そのとき、機器分析や化学分析において様々な弱点や欠点に配慮しながら品質評価をしてきました。中でも、必要とされる評価基準に機器の精度や管理は適切なのか、測定するサンプルは製品全体を正しく代表しているのか、母集団に対してサンプル数は妥当なのか、分析担当者の技能は十分なのか、その技能水準の判定は確かかなど、実に多くの項目や課題をクリアしなければなりませんでした。その上で出された分析値を信用してよいのかどうかを勘と経験を交えて判断するのですから、理化学的分析能力と職人芸の両方が必要でした。理科学的分析と「勘と経験」では矛盾するようですが、機械による測定値を無条件に信用してはならないということは、同じような仕事の経験をお持ちの方であればご理解いただけるのではないでしょうか。
 理化学的年代測定全般を含め、特に炭素同位体比年代測定も同様で、それで出された年代をそのままサンプルやサンプル採取した遺物・遺跡の年代と判断することは危険です。ちょっと考えただけでも次のような問題をはらんでいるからです。

1.測定年代値は幅を持っており、たとえば西暦500年±50年のような表記がなされます。従って、年輪年代測定や年輪セルロース酸素同位体比測定のようにピンポイントで暦年を特定できません。
2.酸素同位体比については新たな補正値が報告されており、その補正が適切になされているか確認しなければなりません。
3.サンプルが木材の場合、年輪の最内層と最外層では年輪の数だけ年代幅があります。従って、木材のどの部分からサンプリングしたのかが明示されていない測定データは要注意です。木材が大きければそれだけサンプリング箇所の年代と伐採年との年代差発生の原因となります。
4.その点、米(炭化米)のような一年草は年代幅がなく、比較的年代判定に有利です。水城築造に使用された敷粗朶のような小枝の場合も年輪の数が少ないので、これも比較的年代判定に有利です。
5.炭化木材のように年輪の外側から焼失した炭からのサンプリングの場合、当然のこととして伐採年よりも焼けた年輪の数だけ古く測定値が出ます。したがって、炭による測定値はそのまま遺物・遺跡の年代とするのは危険です。
6.古代においては木材の再利用や、廃材の再利用は一般的に行われます。従って、測定値が伐採年か再利用時なのかの判断が必要です。その判断ができない場合は遺跡の年代判定に炭素同位体比年代測定値を採用してはいけません。
7.以上の問題点をクリアできても、その測定値から論理的に言えることは、そのサンプルの遺物・遺跡は測定値よりも「古くならない」ということであり、測定値の年代は参考値にとどまるという論理的性格を有しています。
8.従って、炭素同位体比年代測定は遺物・遺跡の年代判定の参考にはできるが、その他の年代判断方法(年輪年代や土器編年など)による総合的判断を加え、より適切な年代判定を行う必要があります。

 以上のことは極めて単純で常識的なことですから、理系の人間でなくてもご理解いただけるものと思います。
 また、最先端の理化学的分析結果であれば信頼できるとされた時代もありましたが、足利事件のように当時としては最先端のDNA鑑定結果(実証)を採用した判決によって悲劇的な冤罪事件が発生した経験もあり、現在では最先端技術はそれだけ未完成部分が多い不安定な技術と理解されるようになりました。他方、「和歌山毒物カレー事件」では最先端科学装置スプリング8による砒素の分析結果を根拠に有罪判決が出されましたが、その分析値に対する判断が誤っているとする京都大学の学者による指摘もなされるようになりました。(つづく)


第1348話 2017/03/07

石の宝殿(生石神社)の九州年号「白雉五年」

 今日は仕事で兵庫県加古川市に行ってきました。お昼休みに時間が空きましたので、出張先近くにある石の宝殿で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。どうしても行っておきたい所でしたので、短時間でしたが石の宝殿を見学しました。
 有名な史跡ですので説明の必要もないかと思いますが、同神社の案内板に書かれた御由緒によれば、御祭神は大穴牟遅と少毘古那の二神で、創建は崇神天皇の御代(97年)とのことです。
 特に興味を引かれたのが、孝徳天皇より白雉五年に社領地千石が与えられたという伝承です。この白雉五年が九州年号による伝承であれば656年のこととなります。この「白雉五年」伝承を記した出典があるはずですので、これから調査することにします。


第1337話 2017/02/14

金印と志賀海神社の占い

 志賀島の金印「漢委奴国王」が本来は糸島の細石神社にあったものだったとする伝承の存在を古田先生が紹介されています。そのこととは直接関係はありませんが、志賀島の志賀海神社が金印を神寳にしようとしていたという記録の存在を知りました。
 本年1月、「九州古代史の会」主催の井上信正さんの講演を聴きに福岡市に行ったとき、早く会場についたので会場近くの図書館で時間待ちをしました。そのおり、福岡地方史研究会の『会報』第24号(昭和60年4月)に掲載されていた塩屋勝利さんの「『漢委奴国王』金印をめぐる諸問題(上)」が眼に留まりました。天明4年(1784)2月に志賀島村叶の崎から発見された金印の発見当時の史料紹介と考察ですが、今まで知らなかったことが記されており、興味深く拝読しました。
 中でも、志賀島の志賀海神社が、発見された金印を同社の神寳にしようと占ったが、良い結果が出なかったので断念し、黒田藩に提出したことが記されていました。志賀海神社宮司阿曇家本『筑前国続風土記附録』にみえる次の記事です。

「明神の境地より得たる故、神寳とせん事を占ひしに神鬮下らざる事再三也といふ。故に府呈に呈けしとなり」 *古賀注 「府呈」の「呈」は衍字か。

 わたしの持っている『筑前国続風土記附録』活字本にはこの記事が見つかりませんので、志賀海神社宮司阿曇家本にのみ付記された記事で、志賀海神社内の記録に基づいているのかもしれません。いずれにしても志賀海神社は金印が志賀島から出土したと認識していることがわかります。
 金印を発見したとされる志賀島村の百姓甚兵衛については記録がなく不審とされてきましたが、寛政二年(1790)の『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳』中冊に同名の「甚兵衛」が見えるとのこと。さらに『粕屋郡志』(粕屋郡役所編、1923年刊)には、「村の農坂本甚兵衛」と姓名が記されていることが紹介されています。
 そして、甚兵衛のその後の消息が不明になった理由として、地元の「甚兵衛火事」伝承と関係があるのではないかとされています。伝承では「甚兵衛火事」は1811年(文化8年)とされているが、藩の記録では見あたらず、1809年(文化6)の火災のことで、甚兵衛は火元の責任を取って志賀島を去ったと思われるとされています。少なくとも地元に「甚兵衛」と呼ばれる人物がいた証拠にはなりそうで、興味深い伝承です。
 金印は志賀島で発見されたのではないとする意見の根拠の一つとして、志賀島村叶の崎付近には弥生時代の遺跡が見つからないということが指摘されています。しかし、金印が弥生時代に埋納されたという根拠もなく、歴代の倭王に相続された可能性も考えられ、そうであれば弥生時代の遺跡の存在の有無は関係ありません。中国からもらった金印が倭王一代のみで埋納されるとするのも、やや違和感があります。金印について、引き続き調査検討したいと思います。

(追記)本稿執筆の夜、古田先生に本稿の内容を報告する夢を見ました。先生がうれしそうにメモを取られているところで眼が覚めました。