考古学一覧

第810話 2014/10/25

同時代「九州年号」史料の行方

 今日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)が見えられ、拙宅近くの喫茶店で2時間以上にわたって意見交換を行いました。主なテーマは『古代に真実を求めて』18集で特集する「盗まれた『聖徳太子』伝承」についてでしたが、19 集のテーマ「九州年号」についても最新の発見や仮説について論議しました。お互いに取り組まなければならない研究課題が次から次に出てくるという状況で、 もっと多くの研究者が古田学派には必要と感じました。
 わたし自身もやりたいけれども忙しくて手が回らない調査などがあり、今回、読者のみなさんのご協力を得るためにも、行方不明になったり未調査の同時代 「九州年号」史料を紹介し、手伝っていただける方があれば是非お願いしたいと思います。それは次のような史料です。

(1)「白鳳壬申」骨蔵器。『筑前国続風土記附録』(巻之六 博多 下)の「官内町・海元寺」に次のように記されており、現在では行方不明になっています。是非、さがして下さい。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕(かん)一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」

(2)「大化元年」獣像。『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)の「大行事八幡社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」

(3)「白雉二年」棟札・木材。『太宰管内志』(豊後之四・直入郡)の「建男霜凝日子神社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年ら造営する由、書付けてありしと云」

 この他にも、江戸時代の諸史料に紹介された「同時代九州年号史料」が見えますが、別の機会に紹介したいと思います。ぜひ、上記の三件について九州の方に調査していただければ幸いです。何らかの発見があれば、『古代に真実を求めて』19集の「九州年号」特集で紹介したいと思いま す。


第808話 2014/10/23

「老司式瓦」から

 「藤原宮式瓦」へ

 図書館で山崎信二著『古代造瓦史 -東アジアと日本-』(2011年、雄山閣)を閲覧しました。山崎さんは国立奈良文化財研究所の副所長などを歴任された瓦の専門家です。同書は瓦の製造技術なども丁寧に解説してあり、良い勉強になりました。
 同書は論述が多岐にわたり、理解するためには何度も読む必要がある本ですが、その中でわたしの目にとまった興味深い問題提起がありました。それは次の一節です。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突然一斉に変化するのであ る。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生じたことは間違いないと ころである。」(258頁)

 このように断言され、「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。 (中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」とされたのです。ここに大和朝廷一元史観に立つ山崎さんの学問的限界を見て取ることができます。すなわち、逆に「筑前から大和に影響を及ぼした」とする可能性やその検討がスッポリと抜け落ちているのです。
 九州の考古学者からは観世音寺の「老司1式」瓦が「藤原宮式」よりも先行するという見解が従来から示されているのですが、奈良文化財研究所の考古学者には「都合の悪い指摘」であり、見えていないのかもしれません。ちなみに、山崎さんが筑前・肥後・大和の3地域の「有機的関連」と指摘されたのは軒瓦の製作 技法に関することで、次のように説明されています。

 「筑前では、「老司式」軒瓦に先行する福岡市井尻B遺跡の単弁8弁蓮華文軒丸瓦・丸瓦・平瓦では板作りであるが、観世音寺の老司式瓦では紐作りとなり、筑前国分寺創建期の軒平瓦では板作りとなる。
 肥後では、陣内廃寺出土例をみると、創建瓦である単弁8弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦では板作りであり、老司式瓦では紐作りとなり、その後の均整唐草文軒平瓦の段階でも紐作りが存続している。
 大和では、飛鳥寺創建以来の瓦作りにおいて板作りを行っており、藤原宮の段階において、初めて偏行唐草文軒平瓦の紐作りの瓦が多量に生産される。また、藤原宮と時期的に併行する大官大寺塔・回廊所用の軒平瓦6661Bが紐作りによっている。」(258頁)

 ここでいわれている「板作り」「紐作り」というのは瓦の製作技法のことで、紐状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「紐作り」で、板状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「板作り」と呼ばれています。山崎さんの指摘によれば、初期は「板作り」技法で、その後に「紐作り」技法へと変化するのですが、その現象が筑前・肥後・大和で「突然一斉に変化する」という事実に着目され、この3地域は有機的な関連を持って生じたと断定されたのです。
 この事実は九州王朝説にとっても重要であり、九州王朝説でなければ説明できない事象と思われるのです。列島の中心権力が筑紫から大和へ交代したとする九州王朝説であれば、うまく説明できますが、山崎さんらのような大和朝廷一元史観では、なぜ筑前・肥後と大和にこの現象が発生したのかが説明できませんし、 現に山崎さんも説明されていません。
 影響の方向性もおかしなもので、なぜ大和から筑前・肥後への影響なのかという説明もなされていません。わたしの研究によれば影響の方向は筑紫から大和です。なぜなら観世音寺の創建が670年(白鳳10年)であることが史料(『勝山記』他)から明らかになっていますし、これは観世音寺の創建瓦「老司1式」 が「藤原宮式」よりも古いという従来の考古学編年にも一致しています。
 したがって、筑前・肥後・大和の瓦製作技法の「有機的相互関連」を示す「突然の一斉変化」こそ、王朝交代に伴い九州王朝の瓦製作技法が大和に伝播し、藤原宮大極殿造営(遷都は694年)のさいに採用されたということになるのです。このように、山崎さんが注目された事実こそ、九州王朝説を支持する考古学的史料事実だったのです。


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第802話 2014/10/15

「川原寺」銘土器

の思想史的考察

 明日香村の「飛鳥京」苑地遺構から出土した土器(坏・つき)に記された銘文が話題になっています。新聞記事などによると次のような文が記されています。

 「川原寺坏莫取若取事有者??相而和豆良皮牟毛乃叙(以下略)」

 和風漢文と万葉仮名を併用した文章で、インターネット掲載写真を見たところ、杯の外側にぐるりと廻るように彫られています。文意は「川原寺の杯を取るなかれ、もし取ることあれば、患(わずら)はんものぞ(和豆良皮牟毛乃叙)~」という趣旨で、墨書ではなく、土器が焼かれる前に彫り込まれたようですから、土器職人かその関係者により記されたものと思われます。ということは、当時(7世紀後半頃か)の土器職人は「漢文」と万葉仮名による読み書きができたわけですから、かなりの教養人であることがうかがわれます。
 川原寺の杯を盗るなという警告文ですから、当時も土器を盗む者がいたこと、そして盗む者も「漢文」と万葉仮名の警告文を理解できる程度の教養の持ち主であったことになります。
 恐らくこの「警告文」はこの土器1個だけのためではなく、川原寺に納品する多数の土器を代表して記されたのではないでしょうか。盗難抑止用に全ての土器にこうした不吉な「警告文」を記したら、それら全ての土器がお寺での実用に耐えられませんから、納品に当たり、一番見えやすい場所に梱包された「警告文付き土器」という性格のように思われます。従って、この1個はお寺での実用品とはならず、どういうわけか苑地で使用され、廃棄されたのではないかと推測しています。
 この土器の銘文は当時の土器職人や泥棒の識字力がうかがえるという意味において貴重ですが、わたしが最も注目したのが当時の飛鳥の人々の思想性についてでした。盗難抑止の「警告」として、飛鳥の権力者による「律令」などに基づく法的罰則ではなく、川原寺の宗教的権威や「わずらい」という精神的「脅迫」に頼っているという事実です。当時の飛鳥の人々にとっては「国家権力」よりも宗教的権威・畏れの方が影響力が強かったこと(効果的)を前提とする「警告文」ではないでしょうか。この点、日本思想史学の観点からも貴重な土器なのです。
 さて、そうなると「飛鳥京」苑地で川原寺から持ち出されたこの土器を使用した人は、川原寺の宗教的権威を畏れなかったのでしょうか。わたしの想像では、川原寺での使用をもともと前提としていない「警告」用のこの土器を川原寺からもらい受けたのではないでしょうか。そうでなければ、「警告文」付きの「わず らう」かもしれないこの土器を、他者の目をはばからずに使用することなどできなかったと思うのです。貴族の集う苑地に不吉な「警告文」付きの杯を使用するのですから、川原寺から盗んだのではなく、正式にもらい受けたと自他共に認められていたのではないかと思います。
 以上、「川原寺」銘土器について考察してきましたが、わたしはまだ実物を見ていませんから、この目で見たうえで改めて見解を述べたいと思います。現時点ではわたしの作業仮説(思いつき)にすぎないと、ご理解ください。実物を見ることができれば、更に多くの知見や理解が得られると思います。楽しみです。


第798話 2014/10/04

火山列島の歴史と悲劇

 御嶽山噴火により大勢の犠牲者が出ました。心よりご冥福をお祈りします。火山列島に住むわたしたち日本人の悲劇と言わざるを得ませんが、噴火予知連絡会々長の東大教授のテレビでの発言と態度には驚きを通り越し、怒りさえ覚えました。
 マスコミは噴火を「予知できない」ということを問題にしているようですが、それはおかしいと思います。今回の悲劇は「予知できない」ことが問題ではなく、「予知した」ことが問題の本質です。当時、御嶽山は「レベル1」(安全に登山できる)と「予知」されていたのです。しかし、事実は連絡会々長の東大教授がテレビで開き直っていたように、御嶽山の噴火は「予知できない」ということだったのですから、予知できないのにレベル1と「予知した」ことが問題の本質なのです。レベル1という「予知」を信じて登山した多くの方々が犠牲となれらたのですから。(日本の火山で比較的「予知できる」のは北海道の有珠山など わずかのようです)
 学者はできないことをできると言ってはなりません。わからないことをわかると言ってはなりません。安全ではないものを安全と言って福島原発は爆発したのですから、御用学者がどれほど社会に悲劇をもたらすのかを日本人は知ったはずです。噴火を予知できないのなら、「レベル1」などと言ってはならず、「レベ ル」付けすることをも、真の学者なら「予知できないのだから、してはならない」と言うべきなのです。
 その東大教授が国からどのくらい「お金」をもらっているのかは知りませんが、あまりにも不誠実です。学者としての倫理観を疑わざるを得ません。少なくともわたしが見たテレビ放映では一言も謝罪していませんでした。「予知できないのだから登山した者の自己責任」と言わんばかりの口調でした。
 さらに不可解なのがマスコミの姿勢です。何の犯罪も犯しておらず、誰一人として被害にあっていないにもかかわらず、小保方さんや笹井さんに対しては叩きに叩き、小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し全治二週間の怪我を負わせ、笹井さんを自殺に追い込みました。NHKや関西民放、毎日新聞を筆頭とするそのマスコミは、御嶽山噴火で大勢の犠牲者を出したのに相手が東大教授だと、見て見ぬふりです。「理研を解体しろ」と言ったのなら「予知連絡会を解体しろ」と言うべきです。NHK・マスコミの見識を疑います。
 日本列島の歴史が火山噴火と深くかかわってきたことを古田先生はたびたび指摘されてきました。たとえば、世界最古の土器「縄文式土器」が日本列島で誕生したことは偶然ではなく、火山の影響によるとの論理的仮説を発表されました。すなわち、火山の熱が土を堅くするという「天然の窯」の現象を見る機会があった日本列島の人々だからこそ、火山をお手本にして他の地域に先駆けて土器を造ることができたのではないかと古田先生は考えられたのです。
 そしてその縄文式土器が中南米(ペルー・エクアドル・他から出土しています)まで伝播したのも、火山噴火により日本列島から船で中南米まで脱出した縄文人がいたことが発端になったのではないかと考えられました。
 また、古代文明が筑紫や出雲で花開いた理由の一つが、南九州での火山噴火により西日本の広い地域に火山灰(アカホヤなど)が降り注いだことではないかとされました。その火山灰の被害をまぬがれたのが西日本では北部九州(筑紫)と出雲地方だったからです。
 古代史で火山といえば『隋書』イ妥国伝の「阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接す」の一文が有名でしょう。火山噴火の様子がリアルに表現されています。このように九州王朝は火山と「共存」してきたのです。歴史学でも火山学でも、真実を語る真の研究者・学者が御用学者に取って代わり、日本の学問 の主流となる日を目指して、わたしたち古田学派は歩んでいきたいと思います。


第795話 2014/09/29

沖ノ島の三角縁魚文帯神獣鏡

 内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真や『通典』のコピーを送っていただいた齊藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)から、今年8月に東京の出光美術館で開催された「宗像大社国宝展」の展示品図録が送られてきました。9月の関西例会後の懇親会で同展示会についてお聞きしていましたが、その図録を早速送っていただきました。有り難いことです。
 「海の正倉院」と呼ばれる沖ノ島ですが、古田先生も早くから注目され、『ここに古代王朝ありき — 邪馬一国の考古学』(朝日新聞社・1979年)の「第四部第二章 隠された島」で取り上げられています。
 同図録で注目したのが沖ノ島出土と旧個人蔵(伝沖ノ島出土)の2面の三角縁魚文帯神獣鏡でした。解説では古墳時代(四世紀)の国産鏡とされています。 「魚文帯」という鏡をわたしは初めて知ったのですが、今まで見た記憶がありませんから、珍しい文様ではないでしようか。インターネットで検索したところ、 佐賀県伊万里市の杢路寺(むくろじ)古墳から出土した三角縁神獣鏡の外帯に「双魚」と「走獣」が配置されており、これも三角縁魚文帯神獣鏡の一種といえるのかもしれません。杢路寺古墳は4世紀末頃の前方後円墳とされていますから、沖ノ島の三角縁魚文帯神獣鏡とほぼ同時代のようです。
 魚の文様がある三角縁神獣鏡は、古田先生が『ここに古代王朝ありき』で取り上げられた「海東鏡」があります(大阪府柏原市・国分神社蔵)。しかし、魚は一匹だけでその位置も外帯ではありませんから三角縁魚文帯神獣鏡とはいえません。
 もしこの珍しい三角縁魚文帯神獣鏡が沖ノ島や伊万里市など北部九州に特有のものであれば、それは九州王朝との関係を考えなければなりません。魚の銀象嵌で有名な江田船山古墳の鉄刀も、共通の意匠としてとらえることが可能かもしれません。おそらく海洋や漁労に関わる王者のために作られた鏡ではないでしょう か。三角縁魚文帯神獣鏡については引き続き調査したいと思います。


第794話 2014/09/28

東海道新幹線開業50周年雑感

 今年の10月で東海道新幹線は開業50周年を迎えます。わたしが小学生のときの開業で「夢の超特急ひかり号」のテレビ映像は今でもよく覚えています。今は出張で年間100回以上は新幹線を利用していますが、早いし安全で快適ですから、新幹線はとても重宝しています。
 お聞きしたところでは、古田史学の会の水野代表は現役時代(日本ペイント)に新幹線の塗料の開発に関わられ、試作車両の塗装に立ち合い、開業初日に乗車されたとのこと。時速200kmで走る車体の塗装ですから、衝撃に耐える厚みや、日光(紫外線)に耐える耐光堅牢度、そして風雨にさらされても錆びない、 汚れにくい、洗浄で汚れが落ちやすいなどという、かなり困難な諸条件をクリアさせなければなりませんから、とても困難な塗料開発と塗装技術開発だったことがうかがわれます。わたしも仕事で染料や機能性色素開発に関わっていますから、50年前の化学技術水準を考えると、そのご苦労が忍ばれます。
 東海道新幹線の「東海道」という名称は古代の官道に由来しているのですが、その出発点が近畿ですので、九州王朝滅亡後に近畿天皇家による命名と考え来ました。しかし、前期難波宮九州王朝副都説により、7世紀中頃(評制施行時期)であれば九州王朝による命名とできるかもしれません。肥沼孝治さん(古田史学 の会・会員、所沢市)が九州王朝による古代官道造営説を研究されています。この命名主体について、古田学派内での研究の進展が期待されます。


第789話 2014/09/22

所功『年号の歴史』を読んで(1)

「洛中洛外日記」775話で所功編『日本年号史大事典』の「建元」と「改元」について批判し、 古田先生の九州年号説に対して「学問的にまったく成り立たない」(15頁)と具体的説明抜きで切り捨てられていることを紹介しました。他方、同じく所功著の『年号の歴史〔増補版〕』(雄山閣、平成二年・1990年)では古田先生の九州年号説に対する批判が展開されています。

 所さんの九州年号説批判は古田説の根幹である九州王朝説には正面から検証するのではなく、そこから展開された九州年号に「焦点」を当て、その出典が信用できないというものです。その上で、次のように批判されています。

「もしもその“古代年号”(九州年号のこと。古賀注)が、ごくわずかでも六~七世紀の金石文なり奈良・平安時代の文献などに見出されるならば、当 然検討しなければならないであろう。しかし今のところ、そのような傍証史料は皆無であり、それどころか古田氏が高く評価される中国側の史書にも“古代年号”はまったくみえず、いわば“まぼろしの「九州年号」”とでも評するほかあるまい。」(26頁)

 この文章は「昭和五十八年八月三十日稿」(1983年)とされていますから、その後の九州年号金石文や木簡の発見・研究について、所さんはご存じなかったものと思われます。拙稿「二つの試金石」(『「九州年号」の研究』所収)などで紹介してきましたが、茨城県岩井市出土の「大化五子年(699)」土器や滋賀県日野町の「朱鳥三年戊子(688)」鬼室集斯墓碑などの九州年号金石文の存在をご存じなかったようです。

 更に、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」木簡の発見に より、「白雉元年」が「壬子」の年となる『二中歴』などに記されている九州年号「白雉」が実在していたことが明白となりました。そのため、大和朝廷一元史 観の研究者たちはこの木簡に触れなくなりました。触れたとしても「壬子年」木簡と紹介するようになり、「元」の一字を故意に伏せ始めたようです。すなわち、学界はこの「元壬子年」木簡の存在が一元史観にとって致命的であることに気づいているのです。

 所さんも年号研究の大家として、これら九州年号金石文・木簡から逃げることなく、正々堂々と論じていただきたいものです。


第786話 2014/09/18

倭国(九州王朝)遺産・遺跡編

 今回の「倭国(九州王朝)遺産」は遺跡編です。すでに失われた遺跡も含めて、九州王朝にとって重要な遺跡を認定してみたいと思います。

〔第1〕太宰府条坊都市と「政庁」(紫宸殿)
 太宰府に条坊があったかどうか不明とされてきた時代もありましたが、現在では考古学的発掘調査により条坊跡がいくつも発見されており、疑問の余地はありません。その上で、条坊がいつ頃造営されたのかが検討されてきましたが、井上信正さんの研究により7世紀末頃には既に存在していたとする説が地元の考古学 者の間では有力視されています。さらに井上さんの緻密な研究の結果、大宰府政庁2期遺構や観世音寺創建よりも条坊の造営の方が早いということも判明しまし た。
 こうした一元史観に基づいた研究でも太宰府条坊都市の成立が藤原京と同時期かそれよりも早いという結論になっているのですが、わたしたち古田学派の研究によれば太宰府条坊都市の成立は7世紀初頭(618年、九州年号の倭京元年)まで遡ります。従って、わが国初の条坊都市は通説の藤原京ではなく、九州王朝の首都太宰府となります。
 大宰府政庁遺跡は3期に区分されていますが、2期が九州王朝の紫宸殿と思われます。「紫宸殿」や「大裏(内裏)」という字地名が残っており、同地はいわゆる「政庁」ではなく、九州王朝の天子の宮殿と見なすべきです。ただ、規模が王宮にしては小さいので、天子が日常的に生活する館は別にあった可能性もあり ます。
 2期の造営年代は使用されている瓦が主に老司2式とされるもので、観世音寺の造営と同時期かやや遅れた頃と推定されます。観世音寺の創建年を九州年号の白鳳十年(670)とする史料が複数発見されたことから、政庁2期の造営もその頃と考えられます。九州王朝の首都遺構ではありますが、まだまだ研究途上ですので、古田学派内での論議と解明が期待されます。

 *考古学的報告書などの用語は「大宰府」が使用されていますので、考古学的遺跡名としての「大宰府政庁」などについては、現地名や九州王朝の役所名の「太宰府」ではなく、「大宰府」を使用し、使い分けています。

〔第2〕水城(大水城・小水城・上津荒木水城)
 九州王朝の首都太宰府を防衛する国内最大規模の防塁施設が水城です。『日本書紀』天智三年条(664年)の記事により、水城は白村江戦(663年)後の 造営と通説では理解されていますが、理科学的年代測定(14C同位体測定)によれば、それよりもかなり早くから造営が開始されていたことが判明していま す。
 通常知られている水城(大水城)以外にも太宰府方面への侵入を防衛するために小水城も造営されています。さらには有明海側からの侵入を防ぐための上津荒木(こうだらき)水城が久留米市にあります。これら水城は「倭国(九州王朝)遺産」に認定するに値する規模で、現在でもその偉容を見ることができます(上津荒木水城は今ではほとんど残っていません)。
 ちなみに、この水城は鎌倉時代の元寇でも太宰府防衛に役だったことが知られています。

〔第3〕神籠石山城群
 水城と共に、九州王朝の首都太宰府や近隣の筑後国府・肥前国府を囲繞するような防衛施設(水源を内部に持ち、住民の収容も可能な大規模施設)としての神籠石山城群は九州王朝を代表する遺跡です。直方体の切石が山の中腹を取り囲む列石遺構は同じ規格で造営されていることから、統一権力者によるものと、一元史観の研究者からも指摘されてきました。瀬戸内海方面にも神籠石山城がいくつか点在しており、九州王朝の勢力範囲がうかがえます。
 水城や神籠石山城群の造営という超大規模土木事業は九州王朝の実力を推し量ることができます。文句なしの「倭国(九州王朝)遺産」です。

〔第4〕大野城
 太宰府の真北にある大野城は、首都防衛と水城が敵勢力に突破された場合、「逃げ城」としての機能も併せ持っています。大規模で頑強な「百間石垣」はその代表的な遺構ですが、山内にある豊富な水源や倉庫遺構群は長期の籠城戦にも耐えうる規模と構造になっています。首都太宰府の人々にとっては水城や神籠石山城とともに心強い防衛施設だったことを疑えません。逆から考えれば、当時の九州王朝や「都民」にとって恐るべき外敵の存在(隋や新羅、あるいは近畿天皇家)もうかがえます。
 近年の発掘や研究成果よれば、出土した木柱の年輪年代測定の結果、大野城が白村江戦(663年)以前に造営されていたことは確実です。このことは同時に 大野城が防衛すべき条坊都市太宰府もまた白村江戦以前から存在していたという論理的帰結へと至ります。従って、一元史観の通説で日本初の条坊都市とされてきた藤原京(694年遷都)よりも太宰府条坊都市の方が早いということになるのです。このことも多元史観・九州王朝説でなければ合理的で論理的な説明はできません。

〔第5〕基肄城(基山)
 太宰府の北にある大野城に対して、南方には基肄城(基山)があり、首都を防衛しています。基肄城は交通の要衝の地に位置し、現代でも麓を国道3号線と JR鹿児島本線が走っています。山頂からの眺めもよく、北は太宰府や博多湾方面、南は筑後や有明海方面、東は甘木や朝倉方面が望めます。また、太宰府条坊 都市の中心部の扇神社(王城神社)がある「通古賀(とおのこが)」は、真北(北極星)と基山山頂を結んだ線上にあり、太宰府条坊都市造営にあたり、基肄城 は「ランドマーク」の役割を果たした可能性もあります。九州王朝にとって重要な山城であったこと、これを疑えません。

〔第6〕筑後国府跡(含む曲水宴遺構・久留米市)
 倭の五王の時代、九州王朝は筑後に遷宮していたとする研究をわたしは発表したことがあります。筑後国府は3期にわたり位置を変えながら長期間存続していたことが判明しています。中でも「曲水宴」遺構は珍しく、九州王朝の中枢にふさわしい遺構です。高良山神籠石や高良大社なども、九州王朝中枢にふさわしいものでしょう。ちなみに高良大社の御祭神の玉垂命を祖先に持つ稻員家が九州王朝の王族の末裔であることは既に述べてきたとおりです。

〔第7〕鞠智城
 九州王朝研究で検証がまだ進んでいないのが鞠智城です。おそらく九州王朝による造営と思うのですが、古田学派内での調査検討はこれからです。あえて認定することにより、今後の研究を促したいと思います。

〔第8〕岩戸山古墳(八女古墳群)
 現在異論のない九州王朝の王(筑紫君磐井)の墓が岩戸山古墳です。おそらく八女丘陵に点在する石人山古墳・鶴見山古墳などは九州王朝の歴代の王の墓であることは確実と思われます。さらには三潴地方の御塚古墳なども倭の五王の墓ではないかと考えています。これらも含めて認定します。

〔第9〕装飾壁画古墳(珍塚古墳・竹原古墳・他)
 北部九州の装飾壁画古墳も九州王朝を代表する遺跡です。中でも珍塚古墳や竹原古墳の壁画は古田先生の研究により、その謎が解き明かされつつあり、貴重なものです。

〔第10〕宮地嶽古墳
 巨大な横穴式石室を持つ宮地嶽古墳は、その超豪華な副葬品(金銅製馬具・他)と共にダブル認定です。これも異論はないと思います。その石室内で九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞が舞われていたことも「倭国(九州王朝)遺産」にふさわしいエピソードです。

 以上の他にも認定するにふさわしい遺跡は数多くありますが、とりあえず「遺跡編」はここまでとします。なお、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮も候補の対象ですが、検証過程の仮説ですので、今回は認定しませんでした。(つづく)


第783話 2014/09/12

最古の「銅鐸出土」記録

 9月10日のテレビニュースで、岡山県総社市の集落跡の神明遺跡から弥生時代中期(紀元前2世紀頃)の銅鐸1個が出土したと報道されていました。同集落遺跡は弥生後期(紀元前後頃)とのことですから、その銅鐸は造られてから200年ほどして埋納されたことになります。古田説によって考えると、神武東侵により侵攻された銅鐸圏の人々によって埋納されたのかもしれません。学術発掘による出土ですから今後の調査検討が待たれます。
 銅鐸の出土記録としては、古くは『続日本紀』の和銅六年条(713)に大倭国宇太郡から出土した銅鐸が献上された記事が見えます。この時代、銅鐸は献上品とされるほど珍しく貴重なものだったことがうかがえます。
 更に古くは『扶桑略記』の天智七年(668)正月条に滋賀県の崇福寺建立時に高さ五尺五寸の「宝鐸」が出土したという記事があり、この記事をもって最古の「銅鐸出土」記録とする見解もあります。ちなみに『扶桑略記』にも『続日本紀』和銅六年条の銅鐸出土献上記事が記載されています。
 『扶桑略記』の銅鐸出土記事が歴史事実とすれば、それでは何故その記事が『日本書紀』に収録されなかったのかという疑問が残されます。この点、わたしが提起してきた「九州王朝の近江遷都」説に立てば、九州王朝による崇福寺建立と銅鐸(宝鐸)出土事件ということになり、大津市から出土した穴太廃寺や南滋賀廃寺建立記事と同様に、『日本書紀』には採用されなかったという理屈で説明できるのではないでしょうか。そして、もしこの推定が正しければ、『扶桑略記』 には九州王朝系史料に基づく記事が他にもあるかもしれません。今後の楽しみな研究テーマです。


第769話 2014/08/20

都塚古墳と大谷1号墳

(岡山県真庭市)

 階段状の方墳として明日香村の都塚古墳がマスコミに取り上げられていますが、 その報道内容が「初めての発見」とか「日本唯一」のようなものもあり、昨今の「地球温暖化」や「異常気象」報道のような扇動的・感情的な非科学的「受けねらい」の表現が蔓延しているように、メディアの報道姿勢に疑問を感じざるを得ません。
 「洛中洛外日記」765話で紹介しましたように、石積みを伴う階段状の方墳は岡山県真庭市の大谷1号墳が従来から知られており、都塚古墳が「新発見」「日本唯一」ではありません。『岡山県の歴史散歩』(2009年、山川出版社)によれば、大谷1号墳は7世紀後半の一辺約22mの方墳で、吉備地方におけ る代表的な終末期古墳とされています。斜面を利用した3段築成の墳丘の前面に2段の外護列石をもつ構造で、合計5段の階段状列石の方墳とのことです。石切 横穴式石室から家形陶棺とともに見事な金銅装双龍環頭太刀などが出土しています。
 付近には定(さだ)北古墳(7世紀中頃の一辺約25mの方墳)、定東古墳・定西古墳(7世紀前半から中頃の一辺約15~25mの方墳)、さらには定4号墳と定5号墳(小規模な方墳)などがあり、これらの古墳は外護列石をもつ段構造の方墳という共通性があり、吉備地方を代表する豪族の墓と見られています。
 こうした階段状の列石をもつ方墳という共通性が都塚古墳と真庭市の大谷1号墳などに見られるのですが、明日香(蘇我氏)と吉備との関係も検討が必要かもしれません。
 なお、岡山県赤磐市には方形の3段石積みの構造物の熊山遺跡があり、都塚古墳や大谷1号墳との関係が気になります。熊山遺跡は一辺約11.7mで、戒壇説・墳墓説・経塚説などがあるようで、謎につつまれた遺跡です。同類の遺跡が熊山山中には大小30数基確認されているそうです。このように吉備地方には方 形の階段構造の古墳・構造物の伝統があり、明日香や他の地域との比較など、科学的・学問的な報道が期待されます。


第768話 2014/08/17

シュリーマンが見た日本

 お盆休みの読書の最後の一冊として『シュリーマン旅行記 清国・日本』 (1998年、講談社学術文庫・石井和子訳)を読みました。10年ほど前に読んでいた本ですが、昨今の日本社会の食品偽装とか万引き事件などのニュースに接するたびに、昔の日本社会や日本人が持っていた倫理観が、現代では大きく変わってしまったと感じ、もう一度読み直すことにしました。
 ご存じの通り、シュリーマンはトロイ遺跡を発見した考古学者として有名で、その著書『古代への情熱』は歴史研究者であれば是非とも読んでいただきたい一冊です。シュリーマンはトロイ遺跡発見の6年前(1865年)に来日しており、その旅行記が『シュリーマン旅行記 清国・日本』です。
 シュリーマンは幕末の日本について、考古学者らしい観察力と西洋人としての視点から、その国情を記しています。特に日本人の誠実な倫理観と、他方、宗教心がうすいことを矛盾と感じ、困惑しています。クリスチャンとしてのシュリーマンの持つ「宗教心」と当時の日本人特有の「宗教心」が異なっていたため、 シュリーマンには理解できなかったのかもしれません。日本人の誠実さとして、次のようなエピソードが記されています。

 「船頭たちは私を埠頭の一つに下ろすと「テンポー」と言いながら指を四本かざしてみせた。労賃として四天保銭(13スー)を請求したのである。これには大いに驚いた。それではぎりぎりの値ではないか。シナの船頭たちは少なくともこの四倍はふっかけてきたし、だから私も、彼らに不平不満はつきものだと考えていたのだ。(中略)
 日曜日だったが、日本人はこの安息日を知らないので、税関も開いていた。二人の官吏がにこやかに近づいてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に届くほど頭を下げ、三十秒もその姿勢を続けた。
 次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて、「ニッポンムスコ」(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な対応だった。彼らはふたたび深々とおじぎをしながら、「サイナラ」(さ ようなら)と言った。」(第四章「江戸上陸」、78~79頁)
 「彼ら(役人)に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである。」(第六章「江戸」、146頁)

 この他にも日本のことを次のように記しています。

 「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。」(第四章「江戸上陸」、87頁)
 「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では 女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。」(第七章「日本文明論」、167頁)

 シュリーマンが今日の日本社会を見たら、その旅行記に何と記すのでしょうか。次のように、また記してくれるでしょうか。

 「・・・・この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる。」(第六章「江戸」、126頁)

 明日から、またハードワークの日々が続きます。ファンモンの「ヒーロー」を聴きながら頑張ります。