考古学一覧

第789話 2014/09/22

所功『年号の歴史』を読んで(1)

「洛中洛外日記」775話で所功編『日本年号史大事典』の「建元」と「改元」について批判し、 古田先生の九州年号説に対して「学問的にまったく成り立たない」(15頁)と具体的説明抜きで切り捨てられていることを紹介しました。他方、同じく所功著の『年号の歴史〔増補版〕』(雄山閣、平成二年・1990年)では古田先生の九州年号説に対する批判が展開されています。

 所さんの九州年号説批判は古田説の根幹である九州王朝説には正面から検証するのではなく、そこから展開された九州年号に「焦点」を当て、その出典が信用できないというものです。その上で、次のように批判されています。

「もしもその“古代年号”(九州年号のこと。古賀注)が、ごくわずかでも六~七世紀の金石文なり奈良・平安時代の文献などに見出されるならば、当 然検討しなければならないであろう。しかし今のところ、そのような傍証史料は皆無であり、それどころか古田氏が高く評価される中国側の史書にも“古代年号”はまったくみえず、いわば“まぼろしの「九州年号」”とでも評するほかあるまい。」(26頁)

 この文章は「昭和五十八年八月三十日稿」(1983年)とされていますから、その後の九州年号金石文や木簡の発見・研究について、所さんはご存じなかったものと思われます。拙稿「二つの試金石」(『「九州年号」の研究』所収)などで紹介してきましたが、茨城県岩井市出土の「大化五子年(699)」土器や滋賀県日野町の「朱鳥三年戊子(688)」鬼室集斯墓碑などの九州年号金石文の存在をご存じなかったようです。

 更に、芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」木簡の発見に より、「白雉元年」が「壬子」の年となる『二中歴』などに記されている九州年号「白雉」が実在していたことが明白となりました。そのため、大和朝廷一元史 観の研究者たちはこの木簡に触れなくなりました。触れたとしても「壬子年」木簡と紹介するようになり、「元」の一字を故意に伏せ始めたようです。すなわち、学界はこの「元壬子年」木簡の存在が一元史観にとって致命的であることに気づいているのです。

 所さんも年号研究の大家として、これら九州年号金石文・木簡から逃げることなく、正々堂々と論じていただきたいものです。


第786話 2014/09/18

倭国(九州王朝)遺産・遺跡編

 今回の「倭国(九州王朝)遺産」は遺跡編です。すでに失われた遺跡も含めて、九州王朝にとって重要な遺跡を認定してみたいと思います。

〔第1〕太宰府条坊都市と「政庁」(紫宸殿)
 太宰府に条坊があったかどうか不明とされてきた時代もありましたが、現在では考古学的発掘調査により条坊跡がいくつも発見されており、疑問の余地はありません。その上で、条坊がいつ頃造営されたのかが検討されてきましたが、井上信正さんの研究により7世紀末頃には既に存在していたとする説が地元の考古学 者の間では有力視されています。さらに井上さんの緻密な研究の結果、大宰府政庁2期遺構や観世音寺創建よりも条坊の造営の方が早いということも判明しまし た。
 こうした一元史観に基づいた研究でも太宰府条坊都市の成立が藤原京と同時期かそれよりも早いという結論になっているのですが、わたしたち古田学派の研究によれば太宰府条坊都市の成立は7世紀初頭(618年、九州年号の倭京元年)まで遡ります。従って、わが国初の条坊都市は通説の藤原京ではなく、九州王朝の首都太宰府となります。
 大宰府政庁遺跡は3期に区分されていますが、2期が九州王朝の紫宸殿と思われます。「紫宸殿」や「大裏(内裏)」という字地名が残っており、同地はいわゆる「政庁」ではなく、九州王朝の天子の宮殿と見なすべきです。ただ、規模が王宮にしては小さいので、天子が日常的に生活する館は別にあった可能性もあり ます。
 2期の造営年代は使用されている瓦が主に老司2式とされるもので、観世音寺の造営と同時期かやや遅れた頃と推定されます。観世音寺の創建年を九州年号の白鳳十年(670)とする史料が複数発見されたことから、政庁2期の造営もその頃と考えられます。九州王朝の首都遺構ではありますが、まだまだ研究途上ですので、古田学派内での論議と解明が期待されます。

 *考古学的報告書などの用語は「大宰府」が使用されていますので、考古学的遺跡名としての「大宰府政庁」などについては、現地名や九州王朝の役所名の「太宰府」ではなく、「大宰府」を使用し、使い分けています。

〔第2〕水城(大水城・小水城・上津荒木水城)
 九州王朝の首都太宰府を防衛する国内最大規模の防塁施設が水城です。『日本書紀』天智三年条(664年)の記事により、水城は白村江戦(663年)後の 造営と通説では理解されていますが、理科学的年代測定(14C同位体測定)によれば、それよりもかなり早くから造営が開始されていたことが判明していま す。
 通常知られている水城(大水城)以外にも太宰府方面への侵入を防衛するために小水城も造営されています。さらには有明海側からの侵入を防ぐための上津荒木(こうだらき)水城が久留米市にあります。これら水城は「倭国(九州王朝)遺産」に認定するに値する規模で、現在でもその偉容を見ることができます(上津荒木水城は今ではほとんど残っていません)。
 ちなみに、この水城は鎌倉時代の元寇でも太宰府防衛に役だったことが知られています。

〔第3〕神籠石山城群
 水城と共に、九州王朝の首都太宰府や近隣の筑後国府・肥前国府を囲繞するような防衛施設(水源を内部に持ち、住民の収容も可能な大規模施設)としての神籠石山城群は九州王朝を代表する遺跡です。直方体の切石が山の中腹を取り囲む列石遺構は同じ規格で造営されていることから、統一権力者によるものと、一元史観の研究者からも指摘されてきました。瀬戸内海方面にも神籠石山城がいくつか点在しており、九州王朝の勢力範囲がうかがえます。
 水城や神籠石山城群の造営という超大規模土木事業は九州王朝の実力を推し量ることができます。文句なしの「倭国(九州王朝)遺産」です。

〔第4〕大野城
 太宰府の真北にある大野城は、首都防衛と水城が敵勢力に突破された場合、「逃げ城」としての機能も併せ持っています。大規模で頑強な「百間石垣」はその代表的な遺構ですが、山内にある豊富な水源や倉庫遺構群は長期の籠城戦にも耐えうる規模と構造になっています。首都太宰府の人々にとっては水城や神籠石山城とともに心強い防衛施設だったことを疑えません。逆から考えれば、当時の九州王朝や「都民」にとって恐るべき外敵の存在(隋や新羅、あるいは近畿天皇家)もうかがえます。
 近年の発掘や研究成果よれば、出土した木柱の年輪年代測定の結果、大野城が白村江戦(663年)以前に造営されていたことは確実です。このことは同時に 大野城が防衛すべき条坊都市太宰府もまた白村江戦以前から存在していたという論理的帰結へと至ります。従って、一元史観の通説で日本初の条坊都市とされてきた藤原京(694年遷都)よりも太宰府条坊都市の方が早いということになるのです。このことも多元史観・九州王朝説でなければ合理的で論理的な説明はできません。

〔第5〕基肄城(基山)
 太宰府の北にある大野城に対して、南方には基肄城(基山)があり、首都を防衛しています。基肄城は交通の要衝の地に位置し、現代でも麓を国道3号線と JR鹿児島本線が走っています。山頂からの眺めもよく、北は太宰府や博多湾方面、南は筑後や有明海方面、東は甘木や朝倉方面が望めます。また、太宰府条坊 都市の中心部の扇神社(王城神社)がある「通古賀(とおのこが)」は、真北(北極星)と基山山頂を結んだ線上にあり、太宰府条坊都市造営にあたり、基肄城 は「ランドマーク」の役割を果たした可能性もあります。九州王朝にとって重要な山城であったこと、これを疑えません。

〔第6〕筑後国府跡(含む曲水宴遺構・久留米市)
 倭の五王の時代、九州王朝は筑後に遷宮していたとする研究をわたしは発表したことがあります。筑後国府は3期にわたり位置を変えながら長期間存続していたことが判明しています。中でも「曲水宴」遺構は珍しく、九州王朝の中枢にふさわしい遺構です。高良山神籠石や高良大社なども、九州王朝中枢にふさわしいものでしょう。ちなみに高良大社の御祭神の玉垂命を祖先に持つ稻員家が九州王朝の王族の末裔であることは既に述べてきたとおりです。

〔第7〕鞠智城
 九州王朝研究で検証がまだ進んでいないのが鞠智城です。おそらく九州王朝による造営と思うのですが、古田学派内での調査検討はこれからです。あえて認定することにより、今後の研究を促したいと思います。

〔第8〕岩戸山古墳(八女古墳群)
 現在異論のない九州王朝の王(筑紫君磐井)の墓が岩戸山古墳です。おそらく八女丘陵に点在する石人山古墳・鶴見山古墳などは九州王朝の歴代の王の墓であることは確実と思われます。さらには三潴地方の御塚古墳なども倭の五王の墓ではないかと考えています。これらも含めて認定します。

〔第9〕装飾壁画古墳(珍塚古墳・竹原古墳・他)
 北部九州の装飾壁画古墳も九州王朝を代表する遺跡です。中でも珍塚古墳や竹原古墳の壁画は古田先生の研究により、その謎が解き明かされつつあり、貴重なものです。

〔第10〕宮地嶽古墳
 巨大な横穴式石室を持つ宮地嶽古墳は、その超豪華な副葬品(金銅製馬具・他)と共にダブル認定です。これも異論はないと思います。その石室内で九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞が舞われていたことも「倭国(九州王朝)遺産」にふさわしいエピソードです。

 以上の他にも認定するにふさわしい遺跡は数多くありますが、とりあえず「遺跡編」はここまでとします。なお、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮も候補の対象ですが、検証過程の仮説ですので、今回は認定しませんでした。(つづく)


第783話 2014/09/12

最古の「銅鐸出土」記録

 9月10日のテレビニュースで、岡山県総社市の集落跡の神明遺跡から弥生時代中期(紀元前2世紀頃)の銅鐸1個が出土したと報道されていました。同集落遺跡は弥生後期(紀元前後頃)とのことですから、その銅鐸は造られてから200年ほどして埋納されたことになります。古田説によって考えると、神武東侵により侵攻された銅鐸圏の人々によって埋納されたのかもしれません。学術発掘による出土ですから今後の調査検討が待たれます。
 銅鐸の出土記録としては、古くは『続日本紀』の和銅六年条(713)に大倭国宇太郡から出土した銅鐸が献上された記事が見えます。この時代、銅鐸は献上品とされるほど珍しく貴重なものだったことがうかがえます。
 更に古くは『扶桑略記』の天智七年(668)正月条に滋賀県の崇福寺建立時に高さ五尺五寸の「宝鐸」が出土したという記事があり、この記事をもって最古の「銅鐸出土」記録とする見解もあります。ちなみに『扶桑略記』にも『続日本紀』和銅六年条の銅鐸出土献上記事が記載されています。
 『扶桑略記』の銅鐸出土記事が歴史事実とすれば、それでは何故その記事が『日本書紀』に収録されなかったのかという疑問が残されます。この点、わたしが提起してきた「九州王朝の近江遷都」説に立てば、九州王朝による崇福寺建立と銅鐸(宝鐸)出土事件ということになり、大津市から出土した穴太廃寺や南滋賀廃寺建立記事と同様に、『日本書紀』には採用されなかったという理屈で説明できるのではないでしょうか。そして、もしこの推定が正しければ、『扶桑略記』 には九州王朝系史料に基づく記事が他にもあるかもしれません。今後の楽しみな研究テーマです。


第769話 2014/08/20

都塚古墳と大谷1号墳

(岡山県真庭市)

 階段状の方墳として明日香村の都塚古墳がマスコミに取り上げられていますが、 その報道内容が「初めての発見」とか「日本唯一」のようなものもあり、昨今の「地球温暖化」や「異常気象」報道のような扇動的・感情的な非科学的「受けねらい」の表現が蔓延しているように、メディアの報道姿勢に疑問を感じざるを得ません。
 「洛中洛外日記」765話で紹介しましたように、石積みを伴う階段状の方墳は岡山県真庭市の大谷1号墳が従来から知られており、都塚古墳が「新発見」「日本唯一」ではありません。『岡山県の歴史散歩』(2009年、山川出版社)によれば、大谷1号墳は7世紀後半の一辺約22mの方墳で、吉備地方におけ る代表的な終末期古墳とされています。斜面を利用した3段築成の墳丘の前面に2段の外護列石をもつ構造で、合計5段の階段状列石の方墳とのことです。石切 横穴式石室から家形陶棺とともに見事な金銅装双龍環頭太刀などが出土しています。
 付近には定(さだ)北古墳(7世紀中頃の一辺約25mの方墳)、定東古墳・定西古墳(7世紀前半から中頃の一辺約15~25mの方墳)、さらには定4号墳と定5号墳(小規模な方墳)などがあり、これらの古墳は外護列石をもつ段構造の方墳という共通性があり、吉備地方を代表する豪族の墓と見られています。
 こうした階段状の列石をもつ方墳という共通性が都塚古墳と真庭市の大谷1号墳などに見られるのですが、明日香(蘇我氏)と吉備との関係も検討が必要かもしれません。
 なお、岡山県赤磐市には方形の3段石積みの構造物の熊山遺跡があり、都塚古墳や大谷1号墳との関係が気になります。熊山遺跡は一辺約11.7mで、戒壇説・墳墓説・経塚説などがあるようで、謎につつまれた遺跡です。同類の遺跡が熊山山中には大小30数基確認されているそうです。このように吉備地方には方 形の階段構造の古墳・構造物の伝統があり、明日香や他の地域との比較など、科学的・学問的な報道が期待されます。


第768話 2014/08/17

シュリーマンが見た日本

 お盆休みの読書の最後の一冊として『シュリーマン旅行記 清国・日本』 (1998年、講談社学術文庫・石井和子訳)を読みました。10年ほど前に読んでいた本ですが、昨今の日本社会の食品偽装とか万引き事件などのニュースに接するたびに、昔の日本社会や日本人が持っていた倫理観が、現代では大きく変わってしまったと感じ、もう一度読み直すことにしました。
 ご存じの通り、シュリーマンはトロイ遺跡を発見した考古学者として有名で、その著書『古代への情熱』は歴史研究者であれば是非とも読んでいただきたい一冊です。シュリーマンはトロイ遺跡発見の6年前(1865年)に来日しており、その旅行記が『シュリーマン旅行記 清国・日本』です。
 シュリーマンは幕末の日本について、考古学者らしい観察力と西洋人としての視点から、その国情を記しています。特に日本人の誠実な倫理観と、他方、宗教心がうすいことを矛盾と感じ、困惑しています。クリスチャンとしてのシュリーマンの持つ「宗教心」と当時の日本人特有の「宗教心」が異なっていたため、 シュリーマンには理解できなかったのかもしれません。日本人の誠実さとして、次のようなエピソードが記されています。

 「船頭たちは私を埠頭の一つに下ろすと「テンポー」と言いながら指を四本かざしてみせた。労賃として四天保銭(13スー)を請求したのである。これには大いに驚いた。それではぎりぎりの値ではないか。シナの船頭たちは少なくともこの四倍はふっかけてきたし、だから私も、彼らに不平不満はつきものだと考えていたのだ。(中略)
 日曜日だったが、日本人はこの安息日を知らないので、税関も開いていた。二人の官吏がにこやかに近づいてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に届くほど頭を下げ、三十秒もその姿勢を続けた。
 次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて、「ニッポンムスコ」(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な対応だった。彼らはふたたび深々とおじぎをしながら、「サイナラ」(さ ようなら)と言った。」(第四章「江戸上陸」、78~79頁)
 「彼ら(役人)に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである。」(第六章「江戸」、146頁)

 この他にも日本のことを次のように記しています。

 「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。」(第四章「江戸上陸」、87頁)
 「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では 女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。」(第七章「日本文明論」、167頁)

 シュリーマンが今日の日本社会を見たら、その旅行記に何と記すのでしょうか。次のように、また記してくれるでしょうか。

 「・・・・この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる。」(第六章「江戸」、126頁)

 明日から、またハードワークの日々が続きます。ファンモンの「ヒーロー」を聴きながら頑張ります。


第765話 2014/08/14

都塚古墳と蘇我氏

 新聞やテレビニュースで、明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であったことが最近の発掘調査で明らかになったことが報道されています。近くにある石舞台古墳が蘇我馬子の墓とされていることから、都塚古墳は馬子の父の蘇我稻目の墓ではないかとする見解も出されており興味深く感じています。
 都塚古墳の階段状の墳形は国内では珍しく、同様の形状を持つ古墳としては、岡山県真庭市の大谷1号墳(五段の方墳)が知られていましたが、都塚古墳は7~8段あったのではないかと見られているようです。もし、石舞台古墳や都塚古墳が蘇我氏の墓であったとすれば、現在は失われている石舞台古墳の墳形も階段状であったのかもしれません。基底部は吹石の痕跡から方形であったことが判明しています。封土が失われた理由は不明ですが、人為的なものを感じさせます。自然の風雨だけであれほど完全に封土が失われるとは考えにくいからです。
 前方後円墳が主流であった時代、飛鳥の地に異形ともいえる階段式方墳が天皇家をもしのぐような有力者だった蘇我氏の墓とすれば、蘇我氏は近畿天皇家とは 異質の豪族であったと考えられます。古田学派内でも蘇我氏に関して様々な見解・仮説が提起されてきました。たとえば「古田史学の会」草創期の会員(元副代表)であった山崎仁礼男さんはその著書『蘇我王国論』(1997年、三一書房)で、『日本書紀』は「蘇我王国」の歴史が換骨奪胎されたものとする作業仮説を発表されました。あるいは蘇我氏は九州王朝から飛鳥に派遣された近畿天皇家への「お目付役」とするアイデアも古田学派内から出されています。
 蘇我氏と九州王朝との関係から、「古田史学の会」でも様々な調査検討が試みられてきました。たとえば「電話帳」検索で全国の「蘇我」さんの分布を調べて みたところ、全国16件中、4件が大分県でした(西村秀己さんの調査による)。また、今回の都塚古墳の報道を聞いて、わたしは何故「都塚」という名称が付けられたのかも気になっています。古田学派内での多元史観による「蘇我氏」「階段状方墳」の研究が期待されます。


第761話 2014/08/08

『肥後国誌』の

  寺社創建伝承

 「洛中洛外日記」757話において、7世紀前半における寺院の「九州の空白」 問題を指摘しました。考古学的痕跡からの指摘でしたが、九州の現地伝承を記した史料には7世紀前半以前における創建伝承を持つ寺院の存在が少なからず見え ます。たとえば平野雅曠著『倭国王のふるさと 火ノ国山門』(平成8年、熊本日日新聞情報文化センター)には『肥後国誌』に見える次の寺社創建記事を紹介されています。ちなみに、平野氏(故人)は「古田史学の会」草創期の会員で、古田学派における熊本の重鎮でした。

○山鹿郡中村手永 久原村の一目神社
 「当社ハ継体帝善記四年十一月四日高天山ノ神主祭之」(善記四年:525年)

○山鹿の日輪寺
「俗説ニ当寺ハ敏達天皇ノ御宇、鏡常三年百済国日羅大士来朝ノ時、当国ニ七伽藍ヲ建立スル其一ニテ、初メ小峰山日羅寺ト称シ法相宗ナリ」(鏡常三年:583年。『二中歴』では「鏡當」)

○上益城郡鯰手永 小池村の項
 「常楽寺飯田山大聖院  ・・・。寺記ニ云。推古帝ノ御宇、吉貴年中、聖徳太子ノ建立ト云伝ヘ・・・」(吉貴年中:594~600年。『二中歴』では「告貴」)

○下益城郡砥用手永 甲佐平村の項
 「福成寺亀甲山  ・・・。推古帝ノ御宇吉貴元年、湛西上人ノ開基。」(吉貴元年:594年。『二中歴』では「告貴」)

 このように熊本県北部に6世紀の寺社創建伝承が分布しており、中でも「聖徳太子建立」伝承から、多利思北孤の時代の創建伝承が「聖徳太子」伝承に置き換えられていることがわかります。おそらくこの山鹿や益城地方は『隋書』国伝に記された阿蘇山の噴火を見た隋使の行路で はないかと考えられます。
 6世紀末の吉貴(告貴)年間の創建であれば、法隆寺若草伽藍創建と同時期にあたりますから、その時代の瓦や土器が出土すれば、考古学的証拠と史料が一致し、九州王朝における寺院創建の可能性が高まります。地元の皆さんで現地調査や考古学的発掘調査報告書を調べていただければありがたいと思います。


第758話 2014/08/03

河内平野の弥生王墓

 先日、大阪歴史博物館で開催されている特別展「大阪遺産・難波宮」を見てきました(8月18日まで、火曜日休館)。山根徳太郎氏による昭和29年 の難波宮第一次調査から60周年を記念して開催されたもので、山根氏が書いた書簡や実測図なども展示されており、日本の考古学の歴史を垣間見ることができました。有名な「はるくさ」木簡や年輪セルロース酸素同位体法で測定された難波宮出土木柱などタイムリーな展示もありました(レプリカ展示もあります)。
 わたしの一番の目的は、四天王寺創建瓦と同笵品とされた前期難波宮下層出土瓦を筆頭とする各地の軒丸瓦の観察でした。会場で販売されている資料集は最新の研究成果に基づく内容が掲載されており、お勧めの一冊です。
 今回、歴博ではとても興味深い展示が常設展示でありました。「河内平野の弥生王墓」(9月1日まで)で、大阪市平野区から出土した弥生時代の大型墳丘墓 (紀元前1世紀)の加美遺跡の展示です。時代と場所からすると「銅鐸国(狗奴国など)」の権力者の墳丘墓と思われます。
 墳丘規模は南北26m、東西15m、高さ3mもあり、弥生時代の墳丘簿としては河内平野最大とのことです。23基の木棺が見つかっており、甕棺が主流の吉野ヶ里遺跡など北部九州の弥生墳丘墓とは全く趣が異なっています。出土土器もわたしが知っている弥生の土器とは文様や色調が違い、倭国と銅鐸国との違いを知ることができました。
 加美遺跡からは銅鏡や銅剣・銅鉾などは出土していませんが、ガラス製の勾玉・丸玉や銅釧が出土しています。こうした副葬品も北部九州とは異なっており、倭国と銅鐸国との文化の差を感じることができました。この展示もお勧めです。


第757話 2014/08/02

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(7)

 森郁夫さんの『一瓦一説』からは多くの知見と、それ以上に多くの疑問を得ることができました。知見については紹介してきたとおりですが、最後に最大の疑問点について指摘したいと思います。それは7世紀前半における「九州の空白」問題です。
 畿内・近畿では7世紀初頭から寺院の建立が盛んになり、飛鳥寺や法隆寺若草伽藍、四天王寺(天王寺)などの遺構や瓦も出土しています。ところが九州では7世紀中頃から後半(白鳳時代)の寺院(観世音寺など)や廃寺跡は知られていますが、7世紀前半の寺院跡や瓦の出土が明確ではありません。7世紀初頭と言えば、仏教に帰依した輝ける天子、多利思北孤の時代ですから、北部九州にこの時代の寺院が多数あってほしいところですが、そうではないのです。この7世紀前半における「九州の空白」問題は九州王朝説にとって解決しなければならない重要かつ深刻なテーマなのです。
 可能性の問題としては、今後北部九州からも出土するかもしれませんし、瓦や土器の編年そのものが近畿とは異なっており、7世紀後半と編年されてきた廃寺跡が7世紀前半だったということもあるかもしれません。しかしながら、観世音寺創建に関して史料(文献)も瓦(考古学)の編年も7世紀後半(670)と一致しており、したがって7世紀前半の編年がそれほどずれているとも考えにくいのです。
 この7世紀前半の寺院「九州の空白」問題は、前期難波宮問題と同様に九州王朝説にとって突き刺さったトゲなのです。多元史観・九州王朝説論者の真価が問われる問題です。今回、森さんの『一瓦一説』により、この問題の重要性を深く再認識することができました。これからこの問題について深く深く考えたいと思 います。


第756話 2014/08/01

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(6)

 森郁夫さんの『一瓦一説』の「前期難波宮下層遺構出土の瓦 創建四天王寺の瓦の可能性」(67~70ページ)で紹介されている、法隆寺若草伽藍や四天王寺創建瓦と前期難波宮下層遺構出土瓦が同笵品であるとの指摘について、九州王朝説の立場から考察してみます。
 森さんは同著で、前期難波宮下層遺構出土の瓦の方が創建四天王寺の瓦よりも古いとされました。その根拠は『扶桑略記』などの史料に見える四天王寺移転伝承によられたものです。当初、四天王寺は「玉造」(大阪城付近)に創建され、後に現在地(天王寺区)である「荒墓」に移転されたとする伝承が諸史料に見え、従来から注目されてきました。その伝承を根拠に、森さんは前期難波宮下層出土の同笵瓦を四天王寺出土同笵瓦よりも先と判断されたのです。
 それに反して、大阪歴史博物館の展示(大阪遺産難波宮展、本年6~8月)では、同笵瓦の文様のくずれ具合から、前期難波宮下層出土瓦よりも比較的くずれや変形が少ない四天王寺瓦の方がより古いとされています。すなわち、大阪歴博は考古学的出土事実に基づいて先後関係を判断し、他方、森さんは後代史料の伝承を優先されたのでした。
 そこでわたしは大阪歴博を訪問し、学芸員の李陽浩さんにこのことに関する見解をお聞きしました。李さんも森さんの『一瓦一説』の内容をよくご存じで、懇切丁寧に考古学者らしい論理的な解説をしていただきました。李さんの見解は次のようなものでした。

(1)同笵瓦の文様のくずれ具合から判断すれば、四天王寺瓦の方が笵型の劣化が少なく、前期難波宮下層出土瓦よりも古いと判断できる。
(2)この点、法隆寺若草伽藍出土の同笵瓦は文様が更に鮮明で、もっとも早く造営されたことがわかる。
(3)しかしながら、用心深く判断するのであれば、三者とも「7世紀前半」という時代区分に入り、笵型劣化の誤差という問題もあり、文様劣化の程度によりどの程度厳密に先後関係を判定できるのかは「不明」とするのが学問的により正確な態度と思われる。
(4)史料に「創建年」などの記載があると、その史料に引っ張られることがあるが、考古学的には出土品そのものから判断しなければならない。
(5)前期難波宮下層から出土する瓦は数が少なく、その地に寺院があったとするには問題が多い。別用途のために瓦が他から持ち込まれたとする可能性を排除できない。

 おおよそ、以上のような解説がなされました。わたしは学問的に誠実な考古学者らしい判断と思いました。ちなみに、大阪歴博の展示解説では法隆寺若草伽藍を607年(『日本書紀』による)、四天王寺を620年頃の創建とされています。四天王寺創建年は『日本書紀』の記事ではなく、瓦の編年に基づいたと記されていました。『二中歴』の倭京二年(619)難波天王寺創建記事とほぼ一致していることから、歴博によるこの時代のこの地域の瓦の編年精度が高いことがうかがわれました。
 ただ、(5)の出土瓦の少なさについては、四天王寺への移転のとき、距離的にも近いので瓦もそのまま再利用されたため、という可能性も考えておいた方が良いのではと思います。
 四天王寺瓦の編年により四天王寺創建が620年頃とされたことにより、『二中歴』「年代歴」の九州年号細注にある「倭京二年(619)に難波天王寺を聖徳が建てる」という記事との一致が注目されます。すなわち、考古学と文献の一致から、創建年や『二中歴』の記事が歴史事実であったと考えられ、この論理性は同時に九州年号(倭京)の存在が歴史事実であることも指し示します。更に、「難波天王寺」の「難波」が摂津難波の「難波」であることも当然の帰結となる でしょう。そして、九州王朝に「聖徳」と呼ばれた有力者がいたということも示しています。『二中歴』には天王寺を造営したと記されており、移転・移築とは考えにくいので、九州王朝が造営したのが天王寺(現・四天王寺の場所)であり、玉造に造営されたとされる「四天王寺」とは別ではないかと、今のところ考え ています。
 これらの論理的帰結として、7世紀初頭の難波は九州王朝の有力者(聖徳)が寺院(天王寺。現・四天王寺)を建立するほどの九州王朝と深い関係(直轄支配領域)を有す地域ということが言えるでしょう。こうしたことが背景となって、652年(九州王朝の白雉元年)には副都(前期難波宮)を造営するに至ったと思われます。


第755話 2014/07/29

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(5)

 森郁夫さんの『一瓦一説』を多元史観・九州王朝説の視点から読んでみますと、いろいろな問題が発見でき、なかなかの好著だと思います。中でも考えさせられたのが四天王寺創建瓦に関する部分でした。「前期難波宮下層遺構出土の瓦 創建四天王寺の瓦の可能性」(67~70ページ)などで紹介されてい る、法隆寺若草伽藍創建瓦と四天王寺創建瓦、そして前期難波宮下層遺構出土瓦が同笵品であるとの指摘には、深く考えさせられました。
 森さんの指摘によれば、これら同笵瓦のなかでは、若草伽藍の瓦が最も鮮明な文様であり、四天王寺出土の同笵瓦は文様に傷や変形があるとのこと。すなわち 笵型(木製)の痛みが進んだ文様となっている四天王寺瓦が、文様の鮮明な若草伽藍瓦よりも笵型の使用時期が後である痕跡を示しているとされました。考古学的事実に基づいた判断(近畿天皇家一元史観というイデオロギーとは一応無関係に成立)ですから、説得力があります。
 法隆寺若草伽藍は『日本書紀』によれば推古15年(607)に創建され、天智9年(670)に消失したとあります(現・法隆寺は九州王朝滅亡後の和銅年間頃に他から移築されたもの)。四天王寺(『二中歴』では「天王寺」)の創建は『二中歴』「年代歴」によれば九州年号の倭京2年(619)とあり、同笵瓦 の先後関係と一致しています。
 『二中歴』の記事から難波天王寺(四天王寺)は九州王朝の「聖徳」(利歌彌多弗利か)により建立されたと考えていますので、そうすると近畿天皇家の「聖 徳」(厩戸皇子)が建立したとされる法隆寺若草伽藍創建に使用された瓦当笵を九州王朝は天王寺創建瓦に再利用したこととなります。
 こうした同笵瓦の状況から、法隆寺若草伽藍と天王寺との関係性や、瓦当笵の使い回しなど九州王朝説の立場からどのような理解や説明が可能なのか、重要な課題です。ちなみに法隆寺若草伽藍の様式は天王寺と同様式の四天王寺式(南北に金堂や塔等が並ぶ)であることがわかっており、この一致も見落とせません。


第754話 2014/07/28

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(4)

 「洛中洛外日記」751話で、 観世音寺の創建瓦と同笵の瓦が飛鳥の川原寺、近江の崇福寺から出土していることが森郁夫著『一瓦一説』で紹介されていることを記しました。その観世音寺の 創建瓦は老司1式と呼ばれるもので、同笵とされる軒丸瓦の瓦当文様は「複弁蓮華文」と称されています。この複弁蓮華文軒丸瓦の最初は川原寺と一般的にはされているようで、川原寺の創建年には諸説ありますが、森さんは「天智朝」の頃、具体的には「近江遷都」する前の662~667年頃とされています。
 ところが複弁蓮華文軒丸瓦は近江大津の寺院(南滋賀廃寺・穴太廃寺・崇福寺・園城寺前身廃寺)の方が早いとする考古学者もいます。大津市歴史博物館編 『近江大津になぜ都は営まれたのか』(平成16刊)に掲載されている林博通さんの講演録「大津宮とその時代」には次のような説明がなされています。

 「南滋賀廃寺・穴太廃寺などで出土する軒瓦の系統を整理したものが、図34になります。A系統とB系統に整理できまして、A系統というのは、複弁 蓮華文軒丸瓦といいまして、じつは大津京時代頃に初めて使われ始める瓦です。一般には、大和の川原寺が最初だという意見が大半ですけれども、川原寺の瓦作りの技法が大津京のこれらの寺院のA系統瓦にはまったく認められないことなどから、私は、大津京で使われた方が古いだろうというふうに考えています。」 (84ページ)

 この林さんの見解が正しければ、複弁蓮華文軒丸瓦は白鳳元年(661年、『海東諸国記』による)の近江遷都に伴って建立されたと考えられる南滋賀廃寺などでの使用が最初ということになります。南滋賀廃寺は大津宮の北側にあり、両者の南北の中心軸はほぼ一致していることから、大津宮と密接な関係を 持った寺院であることは明白です。しかも、その伽藍配置(西に金堂、東に塔、等)が観世音寺と同じで、この一致は偶然とは思えません。ともに九州王朝との関係が深い寺院ではなかったでしょうか。ちなみに川原寺の伽藍配置も似ています。
 複弁蓮華文軒丸瓦の最初の使用が大津宮の南滋賀廃寺などで白鳳元年(661)頃とすれば、太宰府の観世音寺創建は白鳳10年(670)ですから、まず近 江大津で使用開始された複弁蓮華文軒丸瓦が、その後、同型の瓦当笵とともに大和の川原寺や筑紫の観世音寺創建に使用されたとする理解に至ります。白村江戦 前後にまたがる時代の近畿と九州王朝の関係を考える上で、この複弁蓮華文軒丸瓦の変遷や瓦当笵の移動は一つのヒントになるかもしれません。