考古学一覧

第753話 2014/07/27

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(3)

 森郁夫さんの『一瓦一説』は一元史観による理解や解説に立ってはいますが、「瓦」という考古学事実についてはとても勉強になります。たとえば「わが国最古の瓦」(200ページ)では、昭和53年(1978)に福岡県の神ノ前窯(太宰府市吉松字神ノ前)から、日本最古の瓦が出土したことが次のように 紹介されています。

 「その瓦が出土した窯は須恵器生産の窯であり、軒丸瓦や丸瓦、平瓦が出土したというのである。軒丸瓦の瓦当面には文様が施されていない。無文なのである。(中略)
 瓦とともに出土した須恵器の年代から六世紀末葉を若干さかのぼる、飛鳥寺に先行する時期であるとのことであった。」
 「神ノ前で生産された瓦の供給先は当初はっきりしなかったのだが、県内の発掘調査が進んだ結果、那珂遺跡(福岡市博多区那珂)から同様の瓦が出土したことによってそこで使用されたことが分かった。」

 このように、わが国最古の瓦は九州王朝の中枢である太宰府で生産され、同じく中枢の博多湾岸で使用されていたのです。この考古学的事実も九州王朝説にとって有利な事実です。瓦の受容と生産が九州王朝で6世紀末頃に開始されたということになりますが、北部九州の須恵器編年が通説よりも50~100年ほど遡る可能性がありますので、実際はもう少し早い時期に九州王朝は瓦の生産を開始したのではないでしょうか。更に、瓦は主に寺院建築に使用されていますから、仏教の伝来も仏寺の建築も北部九州が先行したことを、この最古の瓦は示唆しているように思われます。


第752話 2014/07/26

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(2)

 太宰府の観世音寺創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)や、『勝山記』(鎮西観音寺造)『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳十年(六七〇)の創建とする記事が発見され、観世音寺創建が白鳳十年(六七〇)であることが史料的に明らかになってい ました。
 森郁夫著『一瓦一説』では、観世音寺創建瓦の同笵品瓦の発見により、観世音寺の創建が川原寺や崇福寺と同時期(7世紀後半頃)と見なしうることが示唆されています(瓦当文様の比較から、大和の本薬師寺創建と同時期とされています。この点、別に論じます)。したがって文献と考古学の一致(シュリーマンの法則)からしても、ほぼ確実に観世音寺創建年を白鳳10年(670)と見なして良いと思います。
 ところが、この観世音寺創建年を認めてしまうと、近畿天皇家一元史観にとって耐え難い大問題が発生します。それは太宰府の地元の考古学者、井上信正さんの調査研究により、観世音寺よりも太宰府条坊都市の成立の方が早いことが明らかとなっていることから、日本初の条坊都市とされている藤原京(694年遷都)よりも太宰府の条坊成立の方が先となってしまうからなのです。このことは九州王朝説の立場からは当然ですが、「九州王朝や古田説はなかった」とする一 元史観論者や学界にとっては大問題なのです。すなわち、大和朝廷の都(藤原京)よりも、「地方都市」太宰府の方が先に条坊が造営されたこととなり、我が国 初の条坊都市が太宰府になってしまうからです。
 このことを「洛中洛外日記」などで何度もわたしは指摘してきましたが、一元史観論者や学界は無視を決め込んでいます。この「洛中洛外日記」を見ておられる一元史観論者の皆さんに敢えて申し上げます。どの一元史観論者よりも早く、最初に「古田説・九州王朝は正しい」と言った学者は研究史や後世に名を残せますよ。よくよくお考えください。(つづく)


第751話 2014/07/24

森郁夫著

『一瓦一説』を読む

 今朝の京都は祇園祭の山鉾巡行(後祭)のため、観光客が見物席の場所取りであふれていました。今年は山鉾巡行が二回になりましたので、観光収入は増えると思いますが、混雑でバスが遅れたりしますので、住んでいる者にはちょっと大変です。
 今日は愛知県一宮市に仕事で来ていますが、ちょうど「一宮七夕祭り」の日で、駅前はイベントで賑やかです。女子高生によるキーボード演奏などもあり、わ たしも若い頃にバンド活動をやっていましたので、生演奏には今でも興味をひかれます。わたしはリードギターを担当していましたが、主にスクウェアやカシオ ペアの曲を好んで演奏していました。30年ほど昔の話しです。

 さて、今回は森郁夫著の新刊『一瓦一説 瓦からみる日本古代史』(淡交社)をご紹介します。あとがきによると、森郁夫さんは昨年五月に亡くなられ たとのことで、同書は最後の著書のようです。古代の瓦についての解説がなされた本で、近畿天皇家一元史観にたったものですが、考古学的遺物という「モノ (瓦)」がテーマですので、考古学的史料事実と一元史観というイデオロギーとの齟齬が見られ、興味深い一冊です。
 なかでもわたしが注目したのが、飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦についての関連を示した次の解説です。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。 そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかる のである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために 天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 観世音寺の創建瓦(老司式)と川原寺や崇福寺の瓦に同笵品があるという指摘には驚きました。九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家 の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという指摘が正しけれ ば、この考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。
 しかもそれら寺院の建立年代は、川原寺(662~667)、崇福寺(661~667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定されていますから、観世 音寺のほうがやや遅れるのです。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係を考える上で重要な問題を含んでいるようです。(つづく)


第749話 2014/07/22

倭人伝の下賜品

「金八両」

 7月の関西例会では安随さんの発表以外にも、なかなか面白いアイデアが正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)から出されました。倭人伝に記された中国から倭国への下賜品「金八両」に関するアイデアです。
 『三国志』倭人伝には中国(魏)から倭国への下賜品として、各種絹製品の他に「金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤」等の記載がありま す。正木さんはこの「金八両」という記事に注目され、この「八両」という半端な量になった理由を考えられました。そしてその重量を調べられ、八両は約 110gに相当し、志賀島の金印(漢委奴国王)の重量とほぼ同じであることに気づかれたのです。この一致が偶然ではないのではないかというのが、今回正木さんが提起されたアイデアです。
 もちろん、偶然なのか何らかの理由があるのかは論証困難ですから、いずれとも断定はできませんが、わたしは面白いアイデアだと思いました。ちなみに古田先生は、このとき下賜された「金八両」で鍍金されたのが、糸島郡二丈町の一貴山銚子塚古墳から出土した「黄金鏡」ではないかと考えておられます。黄金鏡など、日本列島での出土例は極めて少ないことから、その可能性はあると思います。「黄金鏡」の鍍金の科学的成分分析により、産地が特定できれば面白いと思います。


第744話 2014/07/13

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)

 この「邪馬台国」畿内説は学説に非ずシリーズも一応今回で最後になりますが、『三国志』倭人伝に記された女王国(邪馬壹国)の所在地を考える上で、倭国の「文字文化」という視点を紹介したいと思います。
 倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 以上のように倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国か らは「上表」文が出されていることがわかります。従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたのです。おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことを疑えません。従って、日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡 が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説「学説」に値します。そうした地域はどこでしょう か。やはり、北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。
 筑前中域には次のような「文字」受容の痕跡である遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有すのは糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。この地域を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。
 最後に、「邪馬台国」畿内説論者をはじめとする筑前中域説以外の考古学者へ発せられた古田先生の次の一文を紹介して、本シリーズを締めくくります。

 あの筑前中域の出土物、その質量ともの豊富さ、多様さは、日本列島の全弥生遺跡中、空前絶後だ。そして倭人伝に記述された「もの」と驚くほどピッタリ一致して齟齬をもたなかったのである。
  (中略)
 そうすればわたしは、その“信念の人”の前に、静かに次の言葉を呈しよう。“あなたのは、考古学という科学ではない。考古学という「神学」にすぎぬ”と。
 (古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、86頁)


第743話 2014/07/12

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(6)

 今週は東京から埼玉・新潟・石川・福井をぐるっと出張しました。心配していた台風8号の影響もそれほど受けずに、無事、仕事を終えることができました。京都に戻り、今日は自宅でくつろいでいますが、京都は祇園祭の準備が町中で進められています。今年は山鉾巡行が二回行われます(「前祭」と「後祭」で巡行されます)。

 「邪馬台国」畿内説が学説の体をなしていないことは、これまでの説明でご理解いただけたものと思いますが、文献史学では 成立しない畿内説に対して、物(出土物・遺跡)を研究対象とする、ある意味では「理系」に近い考古学の分野では、どういうわけか畿内説論者が少なくありま せん。これは一体どういうことでしょうか。
 『三国志』倭人伝を基礎史料とする文献史学の結論として、畿内説は学説として成立しない場合でも、考古学的に畿内説が成立するケースが無いわけではありません。それは、倭人伝に記された倭国の文物の考古学的出土分布が畿内が中心となっていれば、畿内を倭国の中心とする理解は考古学的には成立します。この ケースに限り、考古学者が畿内説に立つのは理解できますが、考古学的事実はどうでしょうか。
 まず倭人伝に記された倭国の文物には次のようなものがあります。

(金属)「銅鏡百枚」「兵には矛・盾」「鉄鏃」
(シルク)「倭錦」「異文雑錦」

 遺物として残りやすい金属器として、中国から贈られた「銅鏡百枚」について、弥生時代の遺跡からの銅鏡の出土分布の中心 は糸島・博多湾岸です。「鉄鏃」を含む鉄器や製鉄遺構も弥生時代では北部九州が分布の中心です。畿内(奈良県)の弥生時代の遺跡からはこれらの金属器はほとんど出土が知られていません。シルクの出土も弥生時代の出土は北部九州が中心です。
 このように考古学的事実も畿内説は成立しないのです。「邪馬台国」論争の基礎史料である倭人伝の記述と考古学的出土事実が畿内説では一致しないのに、畿内説を支持する考古学者が少なくないという考古学界の状況は全く理解に苦しみます。物(遺物・遺跡)を研究対象とする考古学は、近畿天皇家一元史観(戦後 型皇国史観)ではなく、「自然科学」としての観測事実や出土事実にのみ忠実であるべきだと思うのですが、畿内説を支持しなければならない、何か特別な事情でもあるのでしょうか。わたしは、それを学問的態度とは思いません。(つづく)


第742話 2014/07/10

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(5)

 今朝は長岡から金沢・小松・福井へと向かっていますが、雨の影響で列車が遅れており、お客様との約束の時間に間に合うだろうかとひやひやしています。

 『三国志』倭人伝には行程記事・総里程記事以外にも女王国の所在地を推定できる記事があります。この記事も畿内説論者は知ってか知らずか、古田先生からの指摘があるにもかかわらず無視しています。こうした無視も学問的態度とは言い難いものです。
 倭人伝冒頭には畿内説を否定する記事がいきなり記されています。次の記事です。

 「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。」

 倭人の国、倭国は帯方(ソウル付近とされる)の東南の大海の中にある島国であると記されています。中国人は倭国を島国と認識していたのですが、九州島は文字通り「山島」でぴったりですが、本州島はこの時代には島なのか半島なのかを認識されていた痕跡はありません。本州島を島と認識するためには津軽海峡の存在を知っていることが不可欠ですが、『三国志』の時代に中国人が津軽海峡を認識していた痕跡はないのです。
 従って、倭人伝冒頭のこの記事を素直に理解すれば、倭国の中心国である女王国(邪馬壹国)が九州島内にあったとされていることは明白です。ですから、倭人伝は冒頭から畿内説が成立しないことを示しているのです。畿内説論者は自説の成立を否定するこの記事の存在を、古田先生が指摘してきたにもかかわらず、 無視してきました。こうした態度も学問的とは言えません。ですから、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではないことを、倭人伝冒頭の記事も指し示しているのです。(つづく)


第741話 2014/07/09

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(4)

 今日の新潟地方は大雨・雷・土砂崩れと難儀な出張になりました。各地で被害が出ているようで心配です。

 「邪馬台国」畿内説論者による、『三国志』倭人伝の行程記事の改竄(研究不正)について説明を続けてきましたが、彼らの 研究不正は他にもあります。それは自説にとって決定的に不利な記事(基礎データ)を無視(拒絶)するという研究不正です。この方法が許されると、たとえば 裁判などでは冤罪が続出することでしょう。学問としては絶対にとってはならない手法です。理系論文で自説を否定する実験データを故意に無視したり、隠したりしたら、これも即アウト、レッドカード(退場)ですが、日本古代史学界では集団で研究不正を黙認していますから、「古代史村」から追放される心配はなさそうです。
 倭人伝には行程記事以外にも女王国の所在地を示す総里程記事(距離情報)が明確に記されています。次の通りです。

 「郡より女王国に至る万二千余里」

 「郡」とは帯方郡(ソウル付近と考えられています)のこと、女王国は邪馬壹国のことですが、その距離が12000里余りとありますから、1里が何メートルかわかれば、単純計算で女王国の位置の検討がつきます。少なくとも、北部九州か奈良県のどちらであるかはわかります。 「古代中国の里」の研究によれば、倭人伝の「里」は漢代の約435mとする「長里」説と、周代の約77mとする「短里」説の二説があり、それ以外の有力説はありません。それでは倭人伝の記事(基礎データ)に基づいて単純計算してみましょう。

短里 77m×12000里=924000m=924km
長里 435m×12000里=5220000m=5220km

 短里の場合は北部九州(博多湾岸付近)となりますが、長里の場合は博多湾岸はおろか奈良県(畿内)もはるかに通り越し、 太平洋の彼方に女王国はあることになってしまいます。従いまして、倭人伝の総里程記事(基礎データ)に基づくのであれば、倭人伝は短里を採用しており、女王国の位置は北部九州(博多湾岸付近)と見なさざるを得ません。短里であろうと長里であろうと、間違っても奈良県(畿内)ではありません。
 この基礎データに基づく小学生でもできるかけ算が、少なくとも義務教育を終えたはずの畿内説論者にできないはずはありませんから、彼らは自説を否定する 基礎データ(12000余里)を無視・拒絶するという、非学問的な態度をとっていることは明白です。これは研究不正であり、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではない証拠の一つなのです。(つづく)


第740話 2014/07/08

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(3)

 今朝は新幹線で東京に向かっています。午後、さいたま市で仕事をした後、夜は新潟県長岡市に入ります。週末まで出張が続きますので、帰りに大型の台風8号と遭遇しそうです。
 先日の四国講演では、能島(のしま)上陸・クルージングを楽しんだり、阿部誠一さん(古田史学の会・四国の新会長、今治市)の彫刻アトリエを見せていただいたりと貴重な体験をさせていただきました。瀬戸内海の海流の速さや、小島・岩礁の多さも瀬戸内海の特徴ですが、自分の目で見ることにより瀬戸内海航行が難しいことを実感しました。
 阿部さんのアトリエには多数のブロンズ像や塑像が所狭しと並べられており、芸術家の情熱とその作品の迫力に圧倒されました。少女像や裸婦像を得意とされておられ、高松市の公園にも阿部さんの作品が立てられているほどの著名な彫刻家です。今まで造った作品は500点以上とのことで、近年は古田史学の勉強や活動に時間がとられ、作品製作のペースが落ちたそうです。古田先生の銅像も造りたいので、先生の写真をたくさん撮っておいてほしいと頼まれました。

 「邪馬台国」畿内説論者が『三国志』倭人伝の原文(基礎データ)の文字を「南」から「東」に改竄(研究不正)していることを指摘しましたが、彼らはもう一つの改竄(研究不正)にも手を染めています。それはより悪質で本質的な改竄で、こともあろうに倭国の中心 である女王国の名称を原文の邪馬壹国から邪馬台国(邪馬臺国)にするというもので、理系の人間には信じられないような大胆な改竄(研究不正)です。今回は この研究不正の動機について解説します。
 既に述べましたように、邪馬壹国の位置を博多湾岸の東方向とするために、「南」を「東」に改竄しただけでは畿内説「成立」には不十分なので、畿内説論者は女王国の国名をヤマトにしたかったのです。実は改竄(研究不正)はこの国名改竄の方が先になされました。畿内説論者の研究不正の順序はおおよそ次のよう なものでした。

(1)倭国の中心国は古代より天皇家がいたヤマトでなければならない。(皇国史観という「信仰」による)
(2)ところが倭人伝には邪馬壹国とあり、ヤマトとは読めない。(「信仰」と史料事実が異なる)
(3)「壹」とあるのは誤りであり、「壹」の字に似た「臺(台)」が正しく、中国人が間違ったことにする。(証拠もなく古代中国人に責任転嫁する。「歴史冤罪」発生)
(4)「邪馬臺国」を正しいと、皆で決める。(集団による改竄容認・研究不正容認)
(5)しかしそれでも「邪馬臺国」ではヤマトとは読めない。(改竄・研究不正してもまだ畿内説は成立しない)
(6)「臺」は「タイ」と発音するが、同じタ行の「ト」と発音してもよいと、論証抜きで決める。
(7)「臺」を「ト」と読むことにするが、同じタ行の「タ」「チ」「ツ」「テ」とは、この場合読まないことにする。(これも論証抜きの断定)
(8)こうしてようやく「邪馬臺国」を「ヤマト国」と読むことに「成功」する。
(9)この「ヤマト国」は奈良県のヤマトのことと、論証抜きで決める。(自らの「信仰」に合うように断定する)

 これだけの非学問的な改竄や論証抜きの断定を繰り返した結果、「邪馬台国」畿内説という研究不正が「完成」したのです。ですから、畿内説は学説ではありません。学問的手続きを経たものではなく、研究不正の所産なのです。
 ここまでやったら、「毒を食らわば皿まで」で、先の「南」を「東」に改竄することぐらい平気です。しかも集団(古代史学界)でやっていますから、恐いものなしでした。ところが、「信仰」よりも歴史の真実を大切にする古田武彦という歴史学者の登場により、彼らの研究不正が白日の下にさらされたのです。(つづく)


第739話 2014/07/06

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(2)

 一昨日は愛知県一宮市で開催された繊維機械学会記念講演会で「機能性色素」を テーマに講演し、昨日は「古田史学の会・四国」主催の講演を行いました。テーマは「九州年号史料の出現と展望」で、その後の懇親会も含めて活発な質疑応答がなされました。「古田史学の会・四国」での講演はこれまで何回もさせていただきましたが、質問内容などが年毎に深く鋭いものになっており、「古田史学の 会・四国」が発展している様子を感じとれました。
 今日は合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会・事務局長)のご案内で能島(のしま)上陸・潮流クルージングに参加します。能島は村上水軍の拠点で、「海城」として唯一国の史跡に指定されています。今回、特別に能島上陸・潮流クルージングが企画されたとのことで、合田さんのおすすめもあり参加することにしました。

 さて、「邪馬台国」畿内説が「研究不正」の上で成り立っていることを「洛中洛外日記」738話で指摘しましたが、畿内説 論者が何故『三国志』倭人伝の「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記事の「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄(研究不正)したのか、そ の「動機」について解説したいと思います。
 倭人伝には邪馬壹国の位置情報としていくつかの記述がありますが、行程記事の概要は朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸と進み、その南、邪馬壹国に至るとあります。したがって、どのように考えても邪馬壹国(女王国)は博多湾岸の南方向にあることは明確ですから、「南」を「東」に改竄しなければ、方角的に奈良県に邪馬壹国を比定することは不可能です。そこで、「南」を「東」とする改竄(研究不正)に走ったのです。
 しかし、それだけでは畿内説にとっては不十分です。というのも、改竄(研究不正)により、邪馬壹国を博多湾岸よりも「東」方向にできても、それだけでは 四国や本州島全域が対象地域となってしまい、「畿内」(奈良県)に限定することはできないからです。そこで、畿内説論者はもう一つの改竄(研究不正)を強 行しました。(つづく)


第738話 2014/07/05

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(1)

 今日は早朝の新幹線と特急を乗り継いでで松山市へ向かっています。「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演するためです。移動時間を利用して、前々から書きたかったテーマ、「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」の執筆を始めたいと思います。

 世にいう「邪馬台国」論争は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているはずですが、マスコミや一元史観の学者・研究者では、あいもかわらず「邪馬台国」論争が続けられています。中でも困ったものが「邪馬台国」畿内説という非学問的な「臆説」「珍説」です。そもそも畿内説というものが学問的仮説、すなわち「学説」と言うに値するでしょうか。わたしは畿内説は学説ではないと考えていますが、なぜ学説ではないかということを「洛中洛外日記」で数回に分けて説明することにします。
 たとえば理系の新発見や研究について、新たな仮説を発表する場合、実験データや観測データ、測定データ等の提示が不可欠です。さらにそれらの再現性を担保するために、実験方法や測定・分析方法も開示します。
 企業研究の場合は、それらデータも含めて「発見・発明」そのものを隠します。そもそも企業が自らの経営資源(ヒト・モノ・カネ)を投入して得た新知見を発表(無償で教える)して公知にすることは普通しません(特許出願は例外)。
 しかし、学者や研究者は人類の幸福や社会の発展のために自らの発見や仮説・アイデアを公知(論文発表など)にします。そしてその仮説が他の研究者による追試や利用(コピペもOKです。理系論文には著作権が発生しません)されながら、広く公知となり、真理であればやがて安定した学説として認められます。
 その際、各種データの改竄や捏造は「研究不正」としてやがては明らかとなり、そのような学者・研究者は省みられなくなり学界から淘汰されます。意図的な改竄や捏造ではなく、単純ミスやデータの取り違えは、残念ながら完全には無くなりませんので、その場合は訂正するか、訂正により仮説そのものが成立しなくなった場合は仮説が撤回されます。悪意のないミスであれば、信頼感は揺らぎますが、学界はそのこと自体をそれほど神経質にとがめることはありませんでし た。それよりも、少々不完全・未熟であっても様々な仮説やアイデアを自由に発表しあえる環境のほうが科学の発展にプラスと受け止められてきたものです。で すから、学生や若い研究者の不慣れで未熟な発表でも、温かい目で許容し、ほめたり、励ましたり、助言を与えたりしたものです。こうした研究環境の中で、若 い研究者は成長し、荒削りだけども若さゆえの既成概念にとらわれない画期的な仮説が発表され、そうした青年からの刺激を受けて科学は発展してきたのです。ノーベル賞受賞研究の多くが20代30代の頃の研究成果であることも、このこと裏付けています。
 ところが、近年では学者や研究者が「お金」や自らの「出世」「地位」のために研究するという変な時代になってしまいましたので、「お金」「出世」「地位」に目がくらんで、研究不正(悪意のある意図的なデータ改竄・捏造)を行うケースが発生するようになりました。その結果、科学や研究は大きく傷つきまし た。それに追い打ちをかけたのがマスコミによる無分別なバッシング報道です。悪意のない単純ミスまでもを「研究不正」としてバッシングし始めたのです。小保方さんはその犠牲者だと、わたしは思います。先日も、ある化学系学会の集まりでご年輩の化学者(その分野では日本を代表する方。わたしは若い頃、その方が書いた本や論文で有機合成化学を学びました)が、「あんなにマスコミや理研がバッシングしたら、若い研究者が育たない。才能を潰してしまう」と嘆いておられました。わたしも同感です。
 それでは「邪馬台国」論争のような文献史学ではどうでしょうか。『三国志』倭人伝を基礎史料(データ)として仮説や論理を組み立て、その優劣を競うわけですが、その場合でも学問としては理系と同様ですから、必要にして十分な調査・証明なしでの史料(データ)の意図的な改竄・捏造は許されません。結論その ものに影響する改竄などもってのほかです。このことは容易にご理解いただけることでしょう。
 ところが、「邪馬台国」畿内説はこのデータの改竄を平然と行い、しかも結論(女王国の所在地)そのものに影響をあたえる改竄を行っています。たとえば、 倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるのを「東、邪馬台国に至る」というように、「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄し、「邪馬台国」なるものをでっち上げ、方向を南ではなく東として、むりやりに「邪馬台国」畿内説を提起しているのです。もし、これと同じことを理系の研究論文で行ったら、即アウト、レッドカード(退場)です。それ以前に、論文掲載を拒否されるでしょう。ところが、一元史観の日本古代史学界は「集団」でこの研究不正を行い、「集団」でこの研究不正を容認しているのです。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白です。マスコミがなぜこの研究不正をバッシングしないのか「不思議」ですね。(つづく)


第737話 2014/06/29

好太王碑文の罫線

 「洛中洛外日記」735話の「『広開土王碑』改竄論争の終焉」において、古典研究会編『汲古』第65号掲載の武田幸男氏「広開土王碑『多胡碑記念館本』の調査報告」を紹介しましたが、同論稿はとても勉強になりました。
 たとえば、同碑文の行間や天地に罫線があることを初めて知りました。好太王碑文の拓本はほぼ全面が石灰塗布により字形を「復元」したものが多く、その石 灰塗布により罫線が埋められたため、拓本には罫線が消えているので、わたしは同碑文に罫線があることを知りませんでした。金石文研究においては「実物を見 る」という作業が重要であることを改めて認識させられました。
 もう一つ勉強になったことに、好太王碑文拓本の種類についての現在の研究状況についてでした。わたしは石灰塗布による拓本ぐらいしか知らなかったのです が、武田稿によれば「石灰拓本」以外にも石灰塗布以前の「原石拓本」(水谷悌二郎本)、そしてその「原石拓本」によって釈文し、全て手で書き上げた「墨水 廓填本」(酒勾景信本)があるとのことです。「石灰拓本」は何種類もあるようで、塗布した石灰の一部が剥離し、その程度により各「石灰拓本」の文字に異同 が発生します。その違いに着目して、各拓本の成立時期の先後関係を考察したのが武田稿です。
 特にわたしが驚いたのは酒勾景信本が手書きの「墨水廓填本」とされていることでした。酒勾大尉が持ち帰った好太王碑文は「石灰拓本」(「双鈎」本:ふちどり文字。石碑の面に紙をあて、字の輪郭を墨でふちどって字形を作るやり方。)と聞いていましたので、「墨水廓填」の定義も含めて再勉強の必要を感じてい ます。
 今回この「洛中洛外日記」を書くにあたり、古田先生の『失われた九州王朝』を始め、藤田友治さんの『好太王碑論争の解明』(1986年、新泉社)などを 再読しました。わたしが古田史学に出会った頃の書籍ですので、とても懐かしく思いました。1985年に中国の集安まで行き、好太王碑を現地調査されている 古田先生や藤田友治さん(故人)高田かつ子さん(故人)の写真などもあり、感慨深いものがありました。