考古学一覧

第768話 2014/08/17

シュリーマンが見た日本

 お盆休みの読書の最後の一冊として『シュリーマン旅行記 清国・日本』 (1998年、講談社学術文庫・石井和子訳)を読みました。10年ほど前に読んでいた本ですが、昨今の日本社会の食品偽装とか万引き事件などのニュースに接するたびに、昔の日本社会や日本人が持っていた倫理観が、現代では大きく変わってしまったと感じ、もう一度読み直すことにしました。
 ご存じの通り、シュリーマンはトロイ遺跡を発見した考古学者として有名で、その著書『古代への情熱』は歴史研究者であれば是非とも読んでいただきたい一冊です。シュリーマンはトロイ遺跡発見の6年前(1865年)に来日しており、その旅行記が『シュリーマン旅行記 清国・日本』です。
 シュリーマンは幕末の日本について、考古学者らしい観察力と西洋人としての視点から、その国情を記しています。特に日本人の誠実な倫理観と、他方、宗教心がうすいことを矛盾と感じ、困惑しています。クリスチャンとしてのシュリーマンの持つ「宗教心」と当時の日本人特有の「宗教心」が異なっていたため、 シュリーマンには理解できなかったのかもしれません。日本人の誠実さとして、次のようなエピソードが記されています。

 「船頭たちは私を埠頭の一つに下ろすと「テンポー」と言いながら指を四本かざしてみせた。労賃として四天保銭(13スー)を請求したのである。これには大いに驚いた。それではぎりぎりの値ではないか。シナの船頭たちは少なくともこの四倍はふっかけてきたし、だから私も、彼らに不平不満はつきものだと考えていたのだ。(中略)
 日曜日だったが、日本人はこの安息日を知らないので、税関も開いていた。二人の官吏がにこやかに近づいてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に届くほど頭を下げ、三十秒もその姿勢を続けた。
 次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて、「ニッポンムスコ」(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な対応だった。彼らはふたたび深々とおじぎをしながら、「サイナラ」(さ ようなら)と言った。」(第四章「江戸上陸」、78~79頁)
 「彼ら(役人)に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである。」(第六章「江戸」、146頁)

 この他にも日本のことを次のように記しています。

 「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。」(第四章「江戸上陸」、87頁)
 「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では 女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。」(第七章「日本文明論」、167頁)

 シュリーマンが今日の日本社会を見たら、その旅行記に何と記すのでしょうか。次のように、また記してくれるでしょうか。

 「・・・・この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる。」(第六章「江戸」、126頁)

 明日から、またハードワークの日々が続きます。ファンモンの「ヒーロー」を聴きながら頑張ります。


第765話 2014/08/14

都塚古墳と蘇我氏

 新聞やテレビニュースで、明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であったことが最近の発掘調査で明らかになったことが報道されています。近くにある石舞台古墳が蘇我馬子の墓とされていることから、都塚古墳は馬子の父の蘇我稻目の墓ではないかとする見解も出されており興味深く感じています。
 都塚古墳の階段状の墳形は国内では珍しく、同様の形状を持つ古墳としては、岡山県真庭市の大谷1号墳(五段の方墳)が知られていましたが、都塚古墳は7~8段あったのではないかと見られているようです。もし、石舞台古墳や都塚古墳が蘇我氏の墓であったとすれば、現在は失われている石舞台古墳の墳形も階段状であったのかもしれません。基底部は吹石の痕跡から方形であったことが判明しています。封土が失われた理由は不明ですが、人為的なものを感じさせます。自然の風雨だけであれほど完全に封土が失われるとは考えにくいからです。
 前方後円墳が主流であった時代、飛鳥の地に異形ともいえる階段式方墳が天皇家をもしのぐような有力者だった蘇我氏の墓とすれば、蘇我氏は近畿天皇家とは 異質の豪族であったと考えられます。古田学派内でも蘇我氏に関して様々な見解・仮説が提起されてきました。たとえば「古田史学の会」草創期の会員(元副代表)であった山崎仁礼男さんはその著書『蘇我王国論』(1997年、三一書房)で、『日本書紀』は「蘇我王国」の歴史が換骨奪胎されたものとする作業仮説を発表されました。あるいは蘇我氏は九州王朝から飛鳥に派遣された近畿天皇家への「お目付役」とするアイデアも古田学派内から出されています。
 蘇我氏と九州王朝との関係から、「古田史学の会」でも様々な調査検討が試みられてきました。たとえば「電話帳」検索で全国の「蘇我」さんの分布を調べて みたところ、全国16件中、4件が大分県でした(西村秀己さんの調査による)。また、今回の都塚古墳の報道を聞いて、わたしは何故「都塚」という名称が付けられたのかも気になっています。古田学派内での多元史観による「蘇我氏」「階段状方墳」の研究が期待されます。


第761話 2014/08/08

『肥後国誌』の

  寺社創建伝承

 「洛中洛外日記」757話において、7世紀前半における寺院の「九州の空白」 問題を指摘しました。考古学的痕跡からの指摘でしたが、九州の現地伝承を記した史料には7世紀前半以前における創建伝承を持つ寺院の存在が少なからず見え ます。たとえば平野雅曠著『倭国王のふるさと 火ノ国山門』(平成8年、熊本日日新聞情報文化センター)には『肥後国誌』に見える次の寺社創建記事を紹介されています。ちなみに、平野氏(故人)は「古田史学の会」草創期の会員で、古田学派における熊本の重鎮でした。

○山鹿郡中村手永 久原村の一目神社
 「当社ハ継体帝善記四年十一月四日高天山ノ神主祭之」(善記四年:525年)

○山鹿の日輪寺
「俗説ニ当寺ハ敏達天皇ノ御宇、鏡常三年百済国日羅大士来朝ノ時、当国ニ七伽藍ヲ建立スル其一ニテ、初メ小峰山日羅寺ト称シ法相宗ナリ」(鏡常三年:583年。『二中歴』では「鏡當」)

○上益城郡鯰手永 小池村の項
 「常楽寺飯田山大聖院  ・・・。寺記ニ云。推古帝ノ御宇、吉貴年中、聖徳太子ノ建立ト云伝ヘ・・・」(吉貴年中:594~600年。『二中歴』では「告貴」)

○下益城郡砥用手永 甲佐平村の項
 「福成寺亀甲山  ・・・。推古帝ノ御宇吉貴元年、湛西上人ノ開基。」(吉貴元年:594年。『二中歴』では「告貴」)

 このように熊本県北部に6世紀の寺社創建伝承が分布しており、中でも「聖徳太子建立」伝承から、多利思北孤の時代の創建伝承が「聖徳太子」伝承に置き換えられていることがわかります。おそらくこの山鹿や益城地方は『隋書』国伝に記された阿蘇山の噴火を見た隋使の行路で はないかと考えられます。
 6世紀末の吉貴(告貴)年間の創建であれば、法隆寺若草伽藍創建と同時期にあたりますから、その時代の瓦や土器が出土すれば、考古学的証拠と史料が一致し、九州王朝における寺院創建の可能性が高まります。地元の皆さんで現地調査や考古学的発掘調査報告書を調べていただければありがたいと思います。


第758話 2014/08/03

河内平野の弥生王墓

 先日、大阪歴史博物館で開催されている特別展「大阪遺産・難波宮」を見てきました(8月18日まで、火曜日休館)。山根徳太郎氏による昭和29年 の難波宮第一次調査から60周年を記念して開催されたもので、山根氏が書いた書簡や実測図なども展示されており、日本の考古学の歴史を垣間見ることができました。有名な「はるくさ」木簡や年輪セルロース酸素同位体法で測定された難波宮出土木柱などタイムリーな展示もありました(レプリカ展示もあります)。
 わたしの一番の目的は、四天王寺創建瓦と同笵品とされた前期難波宮下層出土瓦を筆頭とする各地の軒丸瓦の観察でした。会場で販売されている資料集は最新の研究成果に基づく内容が掲載されており、お勧めの一冊です。
 今回、歴博ではとても興味深い展示が常設展示でありました。「河内平野の弥生王墓」(9月1日まで)で、大阪市平野区から出土した弥生時代の大型墳丘墓 (紀元前1世紀)の加美遺跡の展示です。時代と場所からすると「銅鐸国(狗奴国など)」の権力者の墳丘墓と思われます。
 墳丘規模は南北26m、東西15m、高さ3mもあり、弥生時代の墳丘簿としては河内平野最大とのことです。23基の木棺が見つかっており、甕棺が主流の吉野ヶ里遺跡など北部九州の弥生墳丘墓とは全く趣が異なっています。出土土器もわたしが知っている弥生の土器とは文様や色調が違い、倭国と銅鐸国との違いを知ることができました。
 加美遺跡からは銅鏡や銅剣・銅鉾などは出土していませんが、ガラス製の勾玉・丸玉や銅釧が出土しています。こうした副葬品も北部九州とは異なっており、倭国と銅鐸国との文化の差を感じることができました。この展示もお勧めです。


第757話 2014/08/02

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(7)

 森郁夫さんの『一瓦一説』からは多くの知見と、それ以上に多くの疑問を得ることができました。知見については紹介してきたとおりですが、最後に最大の疑問点について指摘したいと思います。それは7世紀前半における「九州の空白」問題です。
 畿内・近畿では7世紀初頭から寺院の建立が盛んになり、飛鳥寺や法隆寺若草伽藍、四天王寺(天王寺)などの遺構や瓦も出土しています。ところが九州では7世紀中頃から後半(白鳳時代)の寺院(観世音寺など)や廃寺跡は知られていますが、7世紀前半の寺院跡や瓦の出土が明確ではありません。7世紀初頭と言えば、仏教に帰依した輝ける天子、多利思北孤の時代ですから、北部九州にこの時代の寺院が多数あってほしいところですが、そうではないのです。この7世紀前半における「九州の空白」問題は九州王朝説にとって解決しなければならない重要かつ深刻なテーマなのです。
 可能性の問題としては、今後北部九州からも出土するかもしれませんし、瓦や土器の編年そのものが近畿とは異なっており、7世紀後半と編年されてきた廃寺跡が7世紀前半だったということもあるかもしれません。しかしながら、観世音寺創建に関して史料(文献)も瓦(考古学)の編年も7世紀後半(670)と一致しており、したがって7世紀前半の編年がそれほどずれているとも考えにくいのです。
 この7世紀前半の寺院「九州の空白」問題は、前期難波宮問題と同様に九州王朝説にとって突き刺さったトゲなのです。多元史観・九州王朝説論者の真価が問われる問題です。今回、森さんの『一瓦一説』により、この問題の重要性を深く再認識することができました。これからこの問題について深く深く考えたいと思 います。


第756話 2014/08/01

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(6)

 森郁夫さんの『一瓦一説』の「前期難波宮下層遺構出土の瓦 創建四天王寺の瓦の可能性」(67~70ページ)で紹介されている、法隆寺若草伽藍や四天王寺創建瓦と前期難波宮下層遺構出土瓦が同笵品であるとの指摘について、九州王朝説の立場から考察してみます。
 森さんは同著で、前期難波宮下層遺構出土の瓦の方が創建四天王寺の瓦よりも古いとされました。その根拠は『扶桑略記』などの史料に見える四天王寺移転伝承によられたものです。当初、四天王寺は「玉造」(大阪城付近)に創建され、後に現在地(天王寺区)である「荒墓」に移転されたとする伝承が諸史料に見え、従来から注目されてきました。その伝承を根拠に、森さんは前期難波宮下層出土の同笵瓦を四天王寺出土同笵瓦よりも先と判断されたのです。
 それに反して、大阪歴史博物館の展示(大阪遺産難波宮展、本年6~8月)では、同笵瓦の文様のくずれ具合から、前期難波宮下層出土瓦よりも比較的くずれや変形が少ない四天王寺瓦の方がより古いとされています。すなわち、大阪歴博は考古学的出土事実に基づいて先後関係を判断し、他方、森さんは後代史料の伝承を優先されたのでした。
 そこでわたしは大阪歴博を訪問し、学芸員の李陽浩さんにこのことに関する見解をお聞きしました。李さんも森さんの『一瓦一説』の内容をよくご存じで、懇切丁寧に考古学者らしい論理的な解説をしていただきました。李さんの見解は次のようなものでした。

(1)同笵瓦の文様のくずれ具合から判断すれば、四天王寺瓦の方が笵型の劣化が少なく、前期難波宮下層出土瓦よりも古いと判断できる。
(2)この点、法隆寺若草伽藍出土の同笵瓦は文様が更に鮮明で、もっとも早く造営されたことがわかる。
(3)しかしながら、用心深く判断するのであれば、三者とも「7世紀前半」という時代区分に入り、笵型劣化の誤差という問題もあり、文様劣化の程度によりどの程度厳密に先後関係を判定できるのかは「不明」とするのが学問的により正確な態度と思われる。
(4)史料に「創建年」などの記載があると、その史料に引っ張られることがあるが、考古学的には出土品そのものから判断しなければならない。
(5)前期難波宮下層から出土する瓦は数が少なく、その地に寺院があったとするには問題が多い。別用途のために瓦が他から持ち込まれたとする可能性を排除できない。

 おおよそ、以上のような解説がなされました。わたしは学問的に誠実な考古学者らしい判断と思いました。ちなみに、大阪歴博の展示解説では法隆寺若草伽藍を607年(『日本書紀』による)、四天王寺を620年頃の創建とされています。四天王寺創建年は『日本書紀』の記事ではなく、瓦の編年に基づいたと記されていました。『二中歴』の倭京二年(619)難波天王寺創建記事とほぼ一致していることから、歴博によるこの時代のこの地域の瓦の編年精度が高いことがうかがわれました。
 ただ、(5)の出土瓦の少なさについては、四天王寺への移転のとき、距離的にも近いので瓦もそのまま再利用されたため、という可能性も考えておいた方が良いのではと思います。
 四天王寺瓦の編年により四天王寺創建が620年頃とされたことにより、『二中歴』「年代歴」の九州年号細注にある「倭京二年(619)に難波天王寺を聖徳が建てる」という記事との一致が注目されます。すなわち、考古学と文献の一致から、創建年や『二中歴』の記事が歴史事実であったと考えられ、この論理性は同時に九州年号(倭京)の存在が歴史事実であることも指し示します。更に、「難波天王寺」の「難波」が摂津難波の「難波」であることも当然の帰結となる でしょう。そして、九州王朝に「聖徳」と呼ばれた有力者がいたということも示しています。『二中歴』には天王寺を造営したと記されており、移転・移築とは考えにくいので、九州王朝が造営したのが天王寺(現・四天王寺の場所)であり、玉造に造営されたとされる「四天王寺」とは別ではないかと、今のところ考え ています。
 これらの論理的帰結として、7世紀初頭の難波は九州王朝の有力者(聖徳)が寺院(天王寺。現・四天王寺)を建立するほどの九州王朝と深い関係(直轄支配領域)を有す地域ということが言えるでしょう。こうしたことが背景となって、652年(九州王朝の白雉元年)には副都(前期難波宮)を造営するに至ったと思われます。


第755話 2014/07/29

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(5)

 森郁夫さんの『一瓦一説』を多元史観・九州王朝説の視点から読んでみますと、いろいろな問題が発見でき、なかなかの好著だと思います。中でも考えさせられたのが四天王寺創建瓦に関する部分でした。「前期難波宮下層遺構出土の瓦 創建四天王寺の瓦の可能性」(67~70ページ)などで紹介されてい る、法隆寺若草伽藍創建瓦と四天王寺創建瓦、そして前期難波宮下層遺構出土瓦が同笵品であるとの指摘には、深く考えさせられました。
 森さんの指摘によれば、これら同笵瓦のなかでは、若草伽藍の瓦が最も鮮明な文様であり、四天王寺出土の同笵瓦は文様に傷や変形があるとのこと。すなわち 笵型(木製)の痛みが進んだ文様となっている四天王寺瓦が、文様の鮮明な若草伽藍瓦よりも笵型の使用時期が後である痕跡を示しているとされました。考古学的事実に基づいた判断(近畿天皇家一元史観というイデオロギーとは一応無関係に成立)ですから、説得力があります。
 法隆寺若草伽藍は『日本書紀』によれば推古15年(607)に創建され、天智9年(670)に消失したとあります(現・法隆寺は九州王朝滅亡後の和銅年間頃に他から移築されたもの)。四天王寺(『二中歴』では「天王寺」)の創建は『二中歴』「年代歴」によれば九州年号の倭京2年(619)とあり、同笵瓦 の先後関係と一致しています。
 『二中歴』の記事から難波天王寺(四天王寺)は九州王朝の「聖徳」(利歌彌多弗利か)により建立されたと考えていますので、そうすると近畿天皇家の「聖 徳」(厩戸皇子)が建立したとされる法隆寺若草伽藍創建に使用された瓦当笵を九州王朝は天王寺創建瓦に再利用したこととなります。
 こうした同笵瓦の状況から、法隆寺若草伽藍と天王寺との関係性や、瓦当笵の使い回しなど九州王朝説の立場からどのような理解や説明が可能なのか、重要な課題です。ちなみに法隆寺若草伽藍の様式は天王寺と同様式の四天王寺式(南北に金堂や塔等が並ぶ)であることがわかっており、この一致も見落とせません。


第754話 2014/07/28

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(4)

 「洛中洛外日記」751話で、 観世音寺の創建瓦と同笵の瓦が飛鳥の川原寺、近江の崇福寺から出土していることが森郁夫著『一瓦一説』で紹介されていることを記しました。その観世音寺の 創建瓦は老司1式と呼ばれるもので、同笵とされる軒丸瓦の瓦当文様は「複弁蓮華文」と称されています。この複弁蓮華文軒丸瓦の最初は川原寺と一般的にはされているようで、川原寺の創建年には諸説ありますが、森さんは「天智朝」の頃、具体的には「近江遷都」する前の662~667年頃とされています。
 ところが複弁蓮華文軒丸瓦は近江大津の寺院(南滋賀廃寺・穴太廃寺・崇福寺・園城寺前身廃寺)の方が早いとする考古学者もいます。大津市歴史博物館編 『近江大津になぜ都は営まれたのか』(平成16刊)に掲載されている林博通さんの講演録「大津宮とその時代」には次のような説明がなされています。

 「南滋賀廃寺・穴太廃寺などで出土する軒瓦の系統を整理したものが、図34になります。A系統とB系統に整理できまして、A系統というのは、複弁 蓮華文軒丸瓦といいまして、じつは大津京時代頃に初めて使われ始める瓦です。一般には、大和の川原寺が最初だという意見が大半ですけれども、川原寺の瓦作りの技法が大津京のこれらの寺院のA系統瓦にはまったく認められないことなどから、私は、大津京で使われた方が古いだろうというふうに考えています。」 (84ページ)

 この林さんの見解が正しければ、複弁蓮華文軒丸瓦は白鳳元年(661年、『海東諸国記』による)の近江遷都に伴って建立されたと考えられる南滋賀廃寺などでの使用が最初ということになります。南滋賀廃寺は大津宮の北側にあり、両者の南北の中心軸はほぼ一致していることから、大津宮と密接な関係を 持った寺院であることは明白です。しかも、その伽藍配置(西に金堂、東に塔、等)が観世音寺と同じで、この一致は偶然とは思えません。ともに九州王朝との関係が深い寺院ではなかったでしょうか。ちなみに川原寺の伽藍配置も似ています。
 複弁蓮華文軒丸瓦の最初の使用が大津宮の南滋賀廃寺などで白鳳元年(661)頃とすれば、太宰府の観世音寺創建は白鳳10年(670)ですから、まず近 江大津で使用開始された複弁蓮華文軒丸瓦が、その後、同型の瓦当笵とともに大和の川原寺や筑紫の観世音寺創建に使用されたとする理解に至ります。白村江戦 前後にまたがる時代の近畿と九州王朝の関係を考える上で、この複弁蓮華文軒丸瓦の変遷や瓦当笵の移動は一つのヒントになるかもしれません。


第753話 2014/07/27

森郁夫著

『一瓦一説』を読む(3)

 森郁夫さんの『一瓦一説』は一元史観による理解や解説に立ってはいますが、「瓦」という考古学事実についてはとても勉強になります。たとえば「わが国最古の瓦」(200ページ)では、昭和53年(1978)に福岡県の神ノ前窯(太宰府市吉松字神ノ前)から、日本最古の瓦が出土したことが次のように 紹介されています。

 「その瓦が出土した窯は須恵器生産の窯であり、軒丸瓦や丸瓦、平瓦が出土したというのである。軒丸瓦の瓦当面には文様が施されていない。無文なのである。(中略)
 瓦とともに出土した須恵器の年代から六世紀末葉を若干さかのぼる、飛鳥寺に先行する時期であるとのことであった。」
 「神ノ前で生産された瓦の供給先は当初はっきりしなかったのだが、県内の発掘調査が進んだ結果、那珂遺跡(福岡市博多区那珂)から同様の瓦が出土したことによってそこで使用されたことが分かった。」

 このように、わが国最古の瓦は九州王朝の中枢である太宰府で生産され、同じく中枢の博多湾岸で使用されていたのです。この考古学的事実も九州王朝説にとって有利な事実です。瓦の受容と生産が九州王朝で6世紀末頃に開始されたということになりますが、北部九州の須恵器編年が通説よりも50~100年ほど遡る可能性がありますので、実際はもう少し早い時期に九州王朝は瓦の生産を開始したのではないでしょうか。更に、瓦は主に寺院建築に使用されていますから、仏教の伝来も仏寺の建築も北部九州が先行したことを、この最古の瓦は示唆しているように思われます。


第752話 2014/07/26

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(2)

 太宰府の観世音寺創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)や、『勝山記』(鎮西観音寺造)『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳十年(六七〇)の創建とする記事が発見され、観世音寺創建が白鳳十年(六七〇)であることが史料的に明らかになってい ました。
 森郁夫著『一瓦一説』では、観世音寺創建瓦の同笵品瓦の発見により、観世音寺の創建が川原寺や崇福寺と同時期(7世紀後半頃)と見なしうることが示唆されています(瓦当文様の比較から、大和の本薬師寺創建と同時期とされています。この点、別に論じます)。したがって文献と考古学の一致(シュリーマンの法則)からしても、ほぼ確実に観世音寺創建年を白鳳10年(670)と見なして良いと思います。
 ところが、この観世音寺創建年を認めてしまうと、近畿天皇家一元史観にとって耐え難い大問題が発生します。それは太宰府の地元の考古学者、井上信正さんの調査研究により、観世音寺よりも太宰府条坊都市の成立の方が早いことが明らかとなっていることから、日本初の条坊都市とされている藤原京(694年遷都)よりも太宰府の条坊成立の方が先となってしまうからなのです。このことは九州王朝説の立場からは当然ですが、「九州王朝や古田説はなかった」とする一 元史観論者や学界にとっては大問題なのです。すなわち、大和朝廷の都(藤原京)よりも、「地方都市」太宰府の方が先に条坊が造営されたこととなり、我が国 初の条坊都市が太宰府になってしまうからです。
 このことを「洛中洛外日記」などで何度もわたしは指摘してきましたが、一元史観論者や学界は無視を決め込んでいます。この「洛中洛外日記」を見ておられる一元史観論者の皆さんに敢えて申し上げます。どの一元史観論者よりも早く、最初に「古田説・九州王朝は正しい」と言った学者は研究史や後世に名を残せますよ。よくよくお考えください。(つづく)


第751話 2014/07/24

森郁夫著

『一瓦一説』を読む

 今朝の京都は祇園祭の山鉾巡行(後祭)のため、観光客が見物席の場所取りであふれていました。今年は山鉾巡行が二回になりましたので、観光収入は増えると思いますが、混雑でバスが遅れたりしますので、住んでいる者にはちょっと大変です。
 今日は愛知県一宮市に仕事で来ていますが、ちょうど「一宮七夕祭り」の日で、駅前はイベントで賑やかです。女子高生によるキーボード演奏などもあり、わ たしも若い頃にバンド活動をやっていましたので、生演奏には今でも興味をひかれます。わたしはリードギターを担当していましたが、主にスクウェアやカシオ ペアの曲を好んで演奏していました。30年ほど昔の話しです。

 さて、今回は森郁夫著の新刊『一瓦一説 瓦からみる日本古代史』(淡交社)をご紹介します。あとがきによると、森郁夫さんは昨年五月に亡くなられ たとのことで、同書は最後の著書のようです。古代の瓦についての解説がなされた本で、近畿天皇家一元史観にたったものですが、考古学的遺物という「モノ (瓦)」がテーマですので、考古学的史料事実と一元史観というイデオロギーとの齟齬が見られ、興味深い一冊です。
 なかでもわたしが注目したのが、飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦についての関連を示した次の解説です。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。 そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかる のである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために 天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 観世音寺の創建瓦(老司式)と川原寺や崇福寺の瓦に同笵品があるという指摘には驚きました。九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家 の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという指摘が正しけれ ば、この考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。
 しかもそれら寺院の建立年代は、川原寺(662~667)、崇福寺(661~667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定されていますから、観世 音寺のほうがやや遅れるのです。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係を考える上で重要な問題を含んでいるようです。(つづく)


第749話 2014/07/22

倭人伝の下賜品

「金八両」

 7月の関西例会では安随さんの発表以外にも、なかなか面白いアイデアが正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)から出されました。倭人伝に記された中国から倭国への下賜品「金八両」に関するアイデアです。
 『三国志』倭人伝には中国(魏)から倭国への下賜品として、各種絹製品の他に「金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤」等の記載がありま す。正木さんはこの「金八両」という記事に注目され、この「八両」という半端な量になった理由を考えられました。そしてその重量を調べられ、八両は約 110gに相当し、志賀島の金印(漢委奴国王)の重量とほぼ同じであることに気づかれたのです。この一致が偶然ではないのではないかというのが、今回正木さんが提起されたアイデアです。
 もちろん、偶然なのか何らかの理由があるのかは論証困難ですから、いずれとも断定はできませんが、わたしは面白いアイデアだと思いました。ちなみに古田先生は、このとき下賜された「金八両」で鍍金されたのが、糸島郡二丈町の一貴山銚子塚古墳から出土した「黄金鏡」ではないかと考えておられます。黄金鏡など、日本列島での出土例は極めて少ないことから、その可能性はあると思います。「黄金鏡」の鍍金の科学的成分分析により、産地が特定できれば面白いと思います。