考古学一覧

第633話 2013/12/12

「はるくさ」木簡の出土層

 「洛中洛外日記」第420話で、難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡、すなわち万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土していたと述べました。

 このことについて、するどい研究を次々と発表されている阿部周一さん(「古田史学の会」会員、札幌市)からメールをいただきました。その趣旨は「はるくさ」木簡は前期難波宮整地層からではなく、その整地層の下の層から出土したのではないかというご指摘でした。私の記憶では、大阪歴史博物館の学芸員の方から、「前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土」とお聞きしていましたので、もう一度、大阪歴博の積山洋さんにおうかがいしてきました。

 積山さんの説明でも、同木簡は前期難波宮造営のために谷を埋め立てた整地層からの出土とのことでしたが、念のために発掘を担当した大阪市文化財協会の方をご紹介していただきました。大阪歴博の近くにある大阪市文化財協会を訪れ、ご紹介いただいた松本さんから詳しく同木簡の出土状況をお聞きすることができ ました。

 松本さんのお話しによると、同木簡が出土したのは第7層で、その下の第8層は谷を埋め立てた層で、埋め立て途中で水が流出したようで、その水により湿地層となったのが第7層とのことでした。水の流出により一時休止した後、続いて埋め立てられたのが第6層で、通常この層が前期難波宮「整地層」と表記されて いるようでした。しかし、第6層、第7層、第8層からは同時期(640~660年)の土師器・須恵器が出土していることから、いずれも前期難波宮造営時代 の地層とのことでした(埋め立てに何ヶ月、あるいは何年かかったかは遺構からは不明)。
松本さんからいただいた当該報告書『難波宮跡・大阪城跡発掘調査(NW06-2)報告書』にも、第6層を「整地層」、第7層を「湿地の堆積層」、第8層を「谷の埋め立て層」と表記されており、いずれも七世紀中頃の須恵器・土師器の出土が記されています。

 以上のことから、結論としては「はるくさ」木簡の出土は、前期難波宮造営の為に谷を埋め立てた整地層からとしても必ずしも間違いではなさそうですが、正確には「整地の途中に発生した湿地層からの出土」とすべきようです。この湿地層にあったおかげで同木簡は腐らずに保存されたのでした。

 阿部さんのするどいご指摘により、今回よい勉強ができました。感謝申し上げます。学術用語はもっと用心して正確に使用しなければならないと、改めて思いました。


第626話 2013/11/30

「学問は実証よりも論証を重んじる」(5)

 観察の結果、確認した「大化五子年」という直接証拠(一次史料)に基づく「実証」結果と、『二中歴』などの後代史料(二~三次史料)を史料根拠として成立したそれまでの九州年号論の「論証」結果が一致しない今回の場合、とるべき学問的態度として、わたしは次の三つのケースを検討しました。
 第一は、これまでの九州年号論(主に史料批判や論証に基づく仮説体系)を見直し、「大化五子年」土器に基づいて九州年号原型論を再構築する。第二は、「大化五子年」土器が誤りであることを論証する。第三は、これまでの九州年号論と「大化五子年」土器の双方が矛盾なく成立する新たな仮説をたて論証する。 この三つでした。
 一緒に「大化五子年」土器を調査した安田陽介さんが主張されたのが第一の立場で、後代史料よりも同時代金石文や同時代史料に立脚して九州年号原型論を構築すべきというものでした。これは歴史学の方法論として真っ当な考えですが、わたしはこの立場をとりませんでした。何故なら、他の九州年号金石文(鬼室集 斯墓碑銘「朱鳥三年戊子」など)や『二中歴』を中心とする九州年号群史料の史料批判の結果、成立し体系化されてきた、それまでの九州年号論の優位性は簡単には崩れない、覆せないと判断していたからでした。
 第二の立場もまた取り得ませんでした。同土器が地元の考古学者により7世紀末から8世紀初頭のものと編年されており、同時代金石文であることを疑えなかったからです。また、「同時代の誤刻」(古代人が干支を一年間違って記した)とする、必要にして十分な論証も不可能と思ったからです。
 その結果、わたしがとった立場は第三のケースを史料根拠に基づいて論証することでした。そして結論として、「大化五子年」土器が出土した地域では、九州王朝中枢で使用されていた暦とは干支が一年ずれた別の暦が使用されていたとする史料根拠に基づいた仮説を提起、論証したのでした。詳しくは『「九州年号」 の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房刊)所収の拙論「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」をご参照ください。
 この「大化五子年」土器のケースのように、同時代金石文という直接証拠を検証したうえでの「実証」と、それまでの「論証」がたとえ対立していたとしても、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を貫くことが、いかに大切かをご理解いただけるのではないでしょうか。「論証」を重視したからこそ、古代日本における「干支が一年ずれた暦の存在」という新たな学問的視点(成果)を得ることもできたのですから。(つづく)


第625話 2013/11/26

「学問は実証よりも論証を重んじる」(4)

 「洛中洛外日記」第624話で紹介した「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の事例は、実証(文字判読結果)そのものの不備・誤りを、学問的論証結果を重視したために実施した再調査により発見できたという、比較的わかりやすいケースでした。その意味では「足利事件」も、論理的に考えて冤罪であるとする弁護団の主張が受け入れられ、科学技術が進歩した時点でDNA再鑑定したことにより、当初の鑑定の誤りを発見できたのであり、よく似たケースといえます。
 しかし、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を理解するうえで、わたしはもっと複雑な学問的試練に遭遇したことがありました。今回はそのことについて紹介します。
 それは「大化五子年」土器の調査研究の経験です。茨城県岩井市から江戸時代(天保九年、1838年)に出土した土器に「大化五子年二月十日」という線刻文字があり、地元の研究者から専門誌に発表されていました。学界からは無視されてきた土器ですが、古田先生は九州年号「大化」が記された本物の同時代金石文ではないかと指摘されていました(『日本書紀』の大化五年(649)の干支は「己酉」で、その大化年間(645~649)に「子」の年はない)。
 ところが、九州年号史料として最も原型に近いと考えていた『二中歴』によれば、大化五年(699)の干支は「己亥」で、「子」ではありません。翌年の700年の干支が「庚子」であり、干支が1年ずれていたのです。もし、この土器が同時代金石文であり、「大化五子年」と間違いなく記されていたら、『二中歴』の九州年号を原型としてきたこれまでの九州年号研究の仮説体系や論証が誤っていたということになりかねません。そこでわたしは1993年の春、古田先生・安田陽介さんと共に茨城県岩井市矢作の冨山家を訪問し、その土器を見せていただき、手にとって観察しました。
 観察の結果、「子」の字が意図的な磨耗によりほとんど見えなくなっていることがわかりました。おそらく、『日本書紀』の大化五年の干支「己酉」とは異なるため、出土後に削られたものと思われました。しかしよく見ると、かすかではありましたが、「子」の字の横棒が残っており、やはり「子」であったことが確認できました。この土器は同地域の土器編年により、7世紀末頃のものとされていることから、まさに同時代金石文なのです。そうした第一級史料が『二中歴』 などの後代史料と異なっているため、同時代史料を優先するという歴史学の方法論からすれば、従来の九州年号研究による諸仮説や論証が間違っていたことにな るのです。すなわち、ここでも「大化五子年」土器という「実証」結果が、それまでの九州年号論という「論証」結果と対立したのです。(つづく)


第624話 2013/11/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」(3)

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を深く実感できた学問的経験が、わたしにはありました。それは「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の発見のときです。
 長期間にわたる九州年号研究の成果として、『二中歴』(鎌倉時代初期成立)に見える「年代歴」の九州年号群が最も真実に近いとする原型論が史料批判や論証の結果、成立したのですが、その「白雉」年号の元年は壬子の年(652)で、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(650)とは二年の差がありました。従って、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」は本来の九州年号「白雉」を2年ずらして盗用したものとする結論に至りました。
 ところが、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡に「三壬子年」という紀年銘があり、奈良文化財研究所の「木簡データベース」では『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子(652)の木簡とされ、『木簡研究』に掲載された「報告書」でも「白雉三年壬子(652)」とされていました。この発掘調査報告書(実証) を読んだわたしは驚きました。これまでの九州年号研究の成果(論証)を否定し、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」が正しいとする内容だったからです。しかも、 同時代の木簡という第一級史料だけに、鎌倉時代初期成立の『二中歴』よりもはるかに有力な「実証力」を有する「直接証拠」なのです。
 永年の九州年号研究の結果、成立した仮説(論証)と、同時代史料の木簡の記述(実証)とが対立したのですから、わたしがいかに驚き悩んだかはご理解いただけることと思います。そこで、わたしが行ったのは、「論証」結果を重んじ、「実証(木簡)」の方の再検証でした。兵庫県教育委員会に同木簡の実見・調査の許可申請を行い、調査団を組織し光学顕微鏡や赤外線カメラを持ち込み、2時間にわたり調査しました。その結果、それまで「三」と判読されていた字が、実は「元」であったことを確認できたのでした。
 このときの経験により、わたしは村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を心から実感できたのでした。(つづく)


第598話 2013/09/21

「二年」銘刻字須恵器を考える

 本日、ミネルヴァ書房主催の古田先生の自伝刊行記念講演会に行ってきました。遠くから見えられた懐かしい方々ともお会いでき、楽しい一日となりました。東京古田会の藤沢会長や多元的古代研究会の和田さん、福岡からは上城さん、埼玉からは肥沼さんも見えられ、挨拶を交わしました。
 古田先生も三角縁神獣鏡の三角縁に関する新説の発表など、お元気に講演されました。ミネルヴァ書房の杉田社長と席が隣だったこともあり、二倍年暦に関する本を早く出すようご助言をいただきました。

 中国出張から帰国した19日のテレビニュースなどで、石川県能美市の和田山・末寺山古墳群から出土した5世紀末の須恵器2点に、「未」と「二年」の文字が刻まれていることが確認されたとの報道がありました。当初、わたしは「未」と「二年」が本体と蓋のセットとなった須恵器 に刻字されていたと勘違いしていました。もしセットとしての「未」と「二年」であれば、二年が未の年である九州年号の正和二年丁未(527)ではないかと考えたのですが、報道では5世紀末の須恵器とありますから、ちょっと年代が離れています。
 その後、インターネットで詳細記事を読みますと、「未」と「二年」の刻字須恵器は別々であることがわかりましたので、正和二年丁未とするアイデアは根拠を失いました。それから、今日までずっとこの「二年」の意味付けに悩んでいたのですが、古田先生の講演を聞きながら突然あるアイデアが浮かんだのです。
 もし、ある年号の「二年」ということであれば、暦年を特定するためにその年号を記すか、干支を記す必要があります。そうでなければ「二年」だけでは暦年を特定できず、「二年」と記しても、それを見た人にはどの年号の二年か判断がつかず、意味がないからです。たとえば、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した 「元壬子年」木簡の場合は、元年が壬子の年ですから、九州年号の白雉元年壬子(652)と特定でき、「元壬子年」と記す意味があるのです。ところが今回確認された須恵器には「二年」とあるだけですので、刻字した人が何を知らせたかったのか、その人の「認識」を考え続けました。
 そして、「二年」だけでも暦年を特定でき、刻字した人も、それを見た人にも共通の暦年を認識できるケースがあることに気づいたのです。それは最初の九州年号の二年に刻字されたケースです。具体的には、『二中歴』によれば「継体二年」(518)のケースです。その他の九州年号群史料によれば「善記二年」(523)となります。すなわち、倭国で初めての年号の時代であれば、「二年」の年は一つしか無く、刻字した人にも、それを読んだ人も、倭国(九州王朝) が建元した最初で唯一の年号の「二年」と理解せざるを得ないのです。
 おそらく、倭国(九州王朝)が初めて年号を制定・建元したことは国中に伝わっていたでしょうから、この須恵器に「二年」と刻字した人も建元されたばかりの九州年号を強烈に意識していたと思われます。こうしたケースにのみ、「二年」という表記だけで具体的な暦年特定が可能となり、意味を持つのです。
 編年上でも継体二年(518)であれば、6世紀初頭であり、須恵器の編年の5世紀末とそれほど離れていません。もちろん、これは九州王朝説多元史観に立った理解と仮説であり、他に適当な仮説が無ければ有力説となる可能性があるのではないでしょうか。まだ当該須恵器を実見していませんし、遺構の状況や性格も報道以上のことはわかりませんので、現時点では一つの作業仮説として提起したいと思いますが、いかがでしょうか。


第566話 2013/06/23

近江遷都の年代と土器編年

 先日の古田史学の会・全国世話人会のおり、小林副代表から、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛 鳥博物館 館報16』(2012年12月)のコピーをいただきました。白石さんは前期難波宮の造営年代を孝徳期よりも新しいとする考古学者の一人ですの で、その根拠を知りたいと思っていました。今回、同論文を読んで、白石さんの主張の根拠を知ることができ、有意義でした。
 白石さんは「飛鳥編年」という土器編年により、5~10年の精度で7世紀中頃の編年が可能とする立場ですが、土器の相対編年を『日本書紀』などの記事を根拠に暦年にリンクさせるという手法を採用されています。この方法の当否は別に論じたいと思いますが、同論文に大変興味深い指摘がありました。
 それは大津宮の土器編年とのミスマッチの指摘です。『日本書紀』天智紀によれば、大津宮への遷都は天智6年(667)とされていますが、大津宮(錦織遺 跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(645~655頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。この指摘が正しければ、「飛鳥編年」か『日本書紀』の記事のどちらかが、あるいは両方が間違っていることになります。
 そこで改めて紹介したいのが九州年号史料として著名な『海東諸国紀』に見える白鳳元年(661)の「近江遷都」記事です。「近江遷都」が『海東諸国紀』 では『日本書紀』よりも6年早く記されているのです。すなわち、白石さんの指摘にあった大津宮下層土器編年に対しては、『海東諸国紀』の記事「白鳳元年 (661)遷都」の方がうまく整合するのです。わたしはこの『海東諸国紀』の九州年号記事を根拠に、「九州王朝の近江遷都」という仮説を発表しています が、考古学的土器編年からも支持されることになれば興味深いと考えています。大津宮調査報告書を実見したいと思います。
 なお、白石さんは前期難波宮天武朝造営説と、わたしは思っていたのですが、白石論文には「天武朝までは下らないとしても、孝徳朝までは遡らないのである。」とされており、どうやら斉明朝造営説か天智朝造営説に立っておられるようです。


第565話 2013/06/21

第565話 2013/06/21

「i-siteなんば」に古田先生をご案内します済み

 6月16日に「i-siteなんば」で「古田史学の会」会員総会を開催しました。総会に先立って、竹村順弘さんと正木裕さんによる記念講演が行わ れました。両氏ともプロジェクターでスクリーンに映し出された画像を駆使した、わかりやくインパクトのある講演でした。古代史の講演もIT機器を使用する 時代となったものです。講演テーマは次の通りでした。

○竹村順弘さん 古田武彦著作集で綴る史蹟百選・九州編
○正木 裕さん 周王朝から邪馬壱国、そして現代へ・・倭人伝の官職名と青銅器・・

 午前中は古田史学の会・全国世話人会を開催しました。北海道からは今井俊圀さん、四国からは合田洋一さんに遠路はるぱるお越しいただきました。 「古田史学の会・東海」は当日同会の総会が重なったため、今回は残念ながら欠席されました。昼食は「i-siteなんば」3階ライブラリーにある「古田武 彦書籍コーナー」の前でとりました。このコーナーには古田先生の著書がほとんど集蔵されており、今後の古田史学研究の拠点として有意義に活用されることで しょう。
 正木裕さんの発案で、古田先生を「i-siteなんば」にお連れして、「古田武彦書籍コーナー」をご案内することとなりました。日時は6月29日(土) の午後で、2時頃からは古田先生を囲んで、著書の思い出などを語っていただけることになりました。ご都合のつかれる方は、是非ご参加ください。


第563話 2013/06/07

JR長岡駅の火焔土器

 今朝はJR長岡駅にいます。これから東京へ向かい、一仕事してから京都に帰ります。この長岡駅には何度も来たことがあるのですが、新幹線の待合室 の隣に火焔土器のレプリカが飾ってあることに気づき、しっかりと観察しました。説明版には4500年前の縄文時代のもので、昭和11年に出土し、現在は長岡市が所蔵しているとあります。
 今までこうした火焔土器を当然のように「縄文式土器」と理解していたのですが、レプリカを観察する限り、「縄文」は皆無で、恐らく人間の手と指で作り出 された文様・造形美でした。ですから、火焔土器を縄文式土器と考えていたのは、わたしの全くの思い違いでした。より学問的に表現するのなら、「火焔文時代」の「火焔土器」であり、「火焔土器文明」の象徴的文物と位置づけるべきでしょう。もしかすると、既にそうした認識が考古学ではなされているのかもしれ ませんが、わたしの不勉強により知りません。
 新潟県にこうした「火焔土器文明」が発生した背景は何でしょうか。どのような「富」がそれを成立させたのでしょうか。環日本海交易の中心拠点だったのでしょうか。また、こうした文明圏の人々の生活の基礎となった食べ物は何だったのでしょうか。興味はつきません。


第562話 2013/05/26

難波宮出土の百済土器

 先日、久しぶりに大阪歴史博物館を訪れ、最新の報告書に目を通してきました。前期難波宮整地層から筑紫の須恵器が出土していたことを報告された寺井誠さんが、当日の相談員としておられましたので、最新論文を紹介していただきました。
 その報告書は『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)掲載の「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(寺井誠)です。難波(上 町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られていますが、その出土事実に基づいて、その史的背景を考察された論文です。もちろ ん、近畿天皇家一元史観に基づかれたものですが、その中に大変興味深い記事がありました。

 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他 地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1~2四半期に搬入さ れたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」(18頁)

 百済や新羅土器の出土数が他地域を圧倒しているという考古学的事実が記されており、特に百済土器の出土が難波に集中しているというのです。この考古学的事実が正しければ、多元史観・九州王朝説にとっても近畿天皇家一元史観にとっても避け難く発生する問題があります。
 古代における倭国と百済の緊密な関係を考えると、その搬入品の土器は権力中枢地か地理的に近い北部九州から集中して出土するはずですか、近畿天皇家の 「都」があった飛鳥でもなく、九州王朝の首都太宰府や博多湾岸でもなく、難波に集中して出土しているという事実は重要です。この考古学的事実をもっとも無 理なく説明できる仮説が前期難波宮九州王朝副都説であることはご理解いただけるのではないでしょうか。
 『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記された白雉改元の舞台に百済王子が現れているという史料事実からも、その舞台が前期難波宮であれば、同整地層から百済 土器が出土することと整合します。従って文献的にも考古学的にも、九州年号「白雉」改元の宮殿を前期難波宮とすることが支持されます。すなわち、九州王朝 副都説の考古学的傍証として百済土器を位置づけることが可能となるのです。


第561話 2013/05/25

豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測している のですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問 的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎 神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、 地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれてい るものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2~4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも 古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地 点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。


第555話 2013/05/05

筑後川の一線
 今日は特別な「子供の日」です。長嶋監督と松井選手の国民栄誉賞表彰式をテレビで見ています。わたしは巨人ファンではありませんが(西鉄時代からのライオンズファンです)、長嶋さんと松井さんの受賞を心よりお祝い申しあげたいと思います。
            

 九州王朝史研究において、その歴史を概観するうえで古田先生の重要な論文があります。「『筑後川の一線』を論ず」(『東
アジアの古代文化』61号、1989)です。古田学派でもあまり知られていない小論文ですが、筑後川を挟んでの九州王朝王都の移動変遷に関する重要論文で
す。
             
 その要旨は、弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に中心領域が移動するというもので、その根拠としてそれぞれ
の時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷するという指摘です。その理由として、主敵が弥生時代は南九州の
勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられています。
               この「筑後川の一線」という指摘に基づいて、わたしは「九州王朝の筑後遷宮」
いう仮説を提起しました。そして、高良大社の玉垂命こそ古墳時代の倭国王(倭の五王ら)であったとする論文を発表しました。古田先生も「『筑後川の一線』
を論ず」において、「弥生と古墳と、両時代とも、同じき『筑後川の一線』を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは『主敵方
向』のみだ。この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇し
くも、まさに相対応しているようである。」とされています。

            

 毎年、五月五日には拙宅の前を上御霊神社の子供御輿が通ります。少子化の時代、元気な子供たちのお祭りを見ると、心が和みます。


第554話 2013/05/02

「五十戸」から「里」へ(3)

 『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の造籍記事などを根拠に、わたしは「さと」の漢字表記が「五十戸」とされたの が、同年(九州年号の白雉元年)ではないかと考えました。 この問題に関連した論稿が阿部周一さん(古田史学の会々員・札幌市)より発表されています。 『「八十戸制」と「五十戸制」について』(『古田史学会報』113号。2012年12月)です。阿部さんは一村を「五十戸」とする「五十戸制」よりも前 に、一村「八十戸」とする「八十戸制」が存在し、七世紀初頭に「八十戸制」から「五十戸制」に九州王朝により改められたとされました。『隋書』国伝の 次の記事を史料根拠とする興味深い仮説です。

「八十戸置一伊尼翼、如今里長也。」

 おそらくは九州王朝の天子、多利思北弧の時代に一村の規模を八十戸から五十戸へと再編され、その「五十戸」という規模を 表す漢字が、後の「さと」の漢字表記とされる原因になったと考察されています。この「五十戸(さと)」が683年頃に「里(さと)」へと表記が変更された ことは既に紹介したとおりです。この阿部説が正しければ、「五十戸」の訓みが「さと」ですから、「八十戸」の訓みは「むら」だったのかもしれません。木簡 などで「八十戸」表記が見つかれば、より有力な仮説となることでしょう。これからの研究の進展が楽しみです。