前期難波宮と藤原宮の整地層須恵器
前期難波宮造営を天武期とする説の史料根拠は『日本書紀』天武12年条 (683)に見える「副都詔」とよばれる記事です。都や宮殿は2~3ヶ所造れ、まずは難波に造れ、という詔勅記事なのですが、このとき既に難波には孝徳紀 に造営記事が見える前期難波宮がありますから、この副都詔は問題視され、前期難波宮の「改築」を命じた記事ではないかなどの「解釈」が試みられてきました。
他方、小森俊寛さんらからは天武紀の副都詔の方が正しいとし、出土須恵器の独自編年を提起され、前期難波宮を天武期の造営とされたのです。こうして『日 本書紀』の二つの難波宮造営記事(天武紀の副都詔は「造営命令」記事)のどちらが史実であるかの論争が文献史学と考古学の両分野の研究者により永く続けら れてきました。
この論争に「決着」をつけたのが、前期難波宮遺構から出土した「戊申年(648)木簡」と水利施設出土木枠の年輪年代測定値(634)でした。須恵器の 相対編年をどれだけ精密に行っても絶対年代(暦年)を確定できないことは自明の理ですが、暦年とリンクできる干支木簡と伐採年年輪年代測定値により、前期 難波宮整地層出土土器をクロスチェックするという学問的手続きを経て、前期難波宮とされる『日本書紀』孝徳紀の造営記事の確かさが検証され、現在の定説と なったのです。
したがって、この定説よりも小森説が正しいとしたい場合は、そう主張する側に干支木簡や年輪年代測定値以上の具体的な科学的根拠を提示する学問的義務があるのですが、わたしの見るところ、この提示ができた論者は一人もいません。
さて、問題点をより明確にするために、もし天武紀の副都詔(前期難波宮天武期造営説)が仮に正しかったとしましょう。その場合、次の考古学的現象が見られるはずです。すなわち、前期難波宮造営は683年以降となり、その整地層からは680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。同様に680年代頃か ら造営されたことが出土干支木簡から判明している藤原宮整地層からも680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。すなわち、両宮殿は同時期に造営開始されたこととなるのですから、その整地層出土土器様式は似たような「様相」を見せるはずです。ところが、実際の出土須恵器を報告書などから見てみます と、前期難波宮整地層の主要須恵器は須恵器杯HとGで、藤原宮整地層出土須恵器はより新しい須恵器杯Bで、両者の出土土器様相は明らかに異なるのです。
藤原宮造営は出土干支木簡から680年代には開始されており、須恵器編年と矛盾せず、干支木簡によるクロスチェックも経ており、これを疑えません。した がって、藤原宮整地層と出土土器様式や様相が異なっている前期難波宮整地層は「時期が異なる」と見なさざるを得ないのです。ですから、既に繰り返し指摘し ましたように、その土器様式編年と共に「戊申年木簡」や年輪年代測定値により、7世紀中頃とクロスチェックを経ている前期難波宮は藤原宮よりも「古い」と いうことは明白なのです。
この前期難波宮と藤原宮の整地層出土土器様式・様相の不一致という考古学的事実は、前期難波宮天武期造営説を否定する決定的証拠の一つなのです。(つづく)