現代一覧

第1096話 2015/11/24

正倉院の毛製宝物の材質

 本日、大阪市天王寺区のホテルアウィーナ大阪で開催された繊維応用技術研究会に出席し、奥村章(おくむら・あきら)さん(消費科学研究所・技術顧問)の講演「正倉院の毛製宝物の材質を調べる」の座長をさせていただきました。
 講師の奥村さんは北海道大学農学部を卒業後、大阪府立産業技術総合研究所に勤務され、平成21〜24年の秋の正倉院開封期間中に特別材質調査の調査員として、毛製宝物の筆、伎楽面、伎楽衣装、毛氈(もうせん)、鞆、馬具など117点の材質を調査されました。ちなみに、正倉院は校倉造りとされていますが、「北倉」と「南倉」のみが校倉作りで、「中倉」は板倉造りで、内部は二階建てだそうです。現在、正倉院内部は空で、宝物は「西宝庫」に保管されているとのこと。
 その調査結果や調査方法などの体験談をお聞かせいただいたのですが、走査電子顕微鏡(SEM)やソフトX線透視画像により明らかとなった新知見など、とても興味深いものでした。とりわけ、従来はカシミアに似た故品種の山羊やアンゴラ山羊(モヘア)とされていた毛氈(フェルト生地)の材質が、実は羊毛であったという素材判定結果は新聞でも報道され、今年の正倉院展でも展示され注目されたところです。
 奥村さんの調査成果は画期的なものとされ、「正倉院の毛製品宝物の調査は、今後50年はしなくてもよい」との高い評価がなされたそうです。「古田史学の会」講演会の講師としてお呼びする機会があればと思います。
 歴史研究における最新の科学分析技術の進化発展に比べると、旧来の大和朝廷一元史観から未だ抜け出すことができない日本古代史学界の後進性には絶望感を覚えました。


第1092話 2015/11/13

「とーとーたらり、とーたらり」

 奄美大島出身の歌手、城南海(きずき・みなみ)さん(25歳)のニューアルバム「尊々加那志〜トウトガナシ〜」を購入したのですが、奄美大島の方言で「尊々加那志〜トウトガナシ〜」とは「大切なあなた」「尊い人」という意味とのこと。そこで、謡曲「翁」などで歌われる意味不明のフレーズ「とーとーたらり、とーたらり」の「とーとー」とは「尊い」「大切な」という意味ではないかと思いつきました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が謡曲に滅法詳しいので、先日、朝来市の赤淵神社訪問のおり、おたずねしました。やはり「とーとーたらり」は「翁」で謡われるものの、意味は諸説有るが不明とのことでした。
 インターネットで調べたところ、「とーとー」は「尊い」とする説があり、その発音からも現代語の「とおとい」と共通したものと思われました。「たらり」は「きらり」とひかるという説があり、「大切なもがきらきら光っている」という意味でしょうか。沖縄や奄美大島で「たらり」という方言があれば、それは有力説となりそうですが、ご存じの方があればご教示ください。
 いずれにしても、「とーとーたらり」で始まる「翁」などの謡曲の歌詞の淵源は南方系のようです。しかし、時代の流れの中で、意味不明となってしまった歴史的背景が問題となります。このテーマも古田先生が提起された言素論で解明できれば面白いのですが、引き続き検討したいと思います。


第1091話 2015/11/11

『記紀九州』創刊号の鳩山邦夫議員の発言

 久留米市の福島雅彦さんから『記紀九州』創刊号(平成27年11月10日、梓書院)を御贈呈いただきました。表紙にはかわいい女の子のイラストとともに、「古事記・日本書紀からひもとく九州王朝説」「九州から見直す日本の歴史!!」とあり、九州王朝説をコンセプトとした雑誌です。このような雑誌が九州王朝のお膝元の筑後地方から発信される時代になったようです。古田先生が生きておられれば、きっと目を細めて喜ばれたことと思います。
 同書では福島雅彦さんのほか大矢野範義さんらが独自のを「邪馬台国」論や「九州王朝」論を展開されています。また、“マンガでわかる「九州王朝説」”と銘打たれた平沢弘明さんの「まほろば!」も掲載されており、企画にも工夫がこらされています。
 なかでも注目した企画は、冒頭に掲載された衆議院議員の鳩山邦夫さん(福岡6区)のインタビュー記事です。鳩山さんは編集子からの「古代九州王朝の議論につきましてお話をお聞きします。」という質問等に答えるかたちで、次のように述べられておられます。

 (前略)私は「邪馬台国九州説」を強く支持しています。また、『古事記』や『日本書紀』の研究を通して、古代王朝が邪馬台国と関係があるのかないのかという問題は、重要な問題であります。日本の古代史の時代が北部九州で展開されたという可能性を考察するこのような議論は、日本の古代史を再考察する上でも重要で、興味深い取り組みであると考えています。
 私は、このような「九州王朝論」の取り組みが成功して新しい日本史研究が出現すると期待しています。そして、将来、日本史の教科書が「九州王朝論」の成果を取り入れて書き換えられていくと期待しています。(後略)

 鳩山議員の言葉通り、歴史教科書に古田説・多元史観が採用される日が一日もはやく来るよう、「古田史学の会」は頑張っていきたいと思います。

(補記)『記紀九州』を発刊された梓書院(福岡市)は、安本美典責任編集『季刊邪馬台国』を発行されている出版社です。


第1090話 2015/11/10

「古田武彦先生追悼講演会」のご案内済み

 10月14日に御逝去された古田先生の追悼講演会を、来年1月17日(日)、大阪市浪速区の「大阪府立大学なんばサテライト(I-siteなんば)」にて執り行うことといたしましたので、取り急ぎご案内申し上げます。
 年内に京都で開催すべく検討を進めてきましたが、時節柄会場や宿泊施設の確保が困難なため、「古田史学の会」が予定していました新年講演会の会場をそのまま利用し、「古田武彦先生追悼講演会」とすることにしました。なお、『古田史学会報』などでご案内したとおり、新井宏氏にご講演いただきます。
 既に、松本深志高校時代の教え子、北村明也様(古田史学の会・松本)や御遺族(古田光河様)らのご臨席のご承諾もいただいています。また、東北大学の御後輩で日本思想史学会前会長の佐藤弘夫教授からもメッセージをいただけるはこびです。
 ご来賓や式次第などの詳細は決まり次第、ご報告いたします。古田先生とのお別れに多くの皆様にご臨席賜りますよう、お願い申しあげます。なお、主催は「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)」「多元的古代研究会」「古田史学の会」の三団体で、ミネルヴァ書房様協賛での開催となります。

古田武彦先生追悼講演会のご案内

期日 2016年 1月17日(日)午後1時から4時30分まで
場所

大阪府立大学I-siteなんば2階C会議場
          カンファレンスルーム

住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル2階
大阪府立大学I-siteなんばの交通アクセスはここから。

南海電鉄難波駅なんばパークス方面出口より
       南約800m 徒歩12分
地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より
       南約1,000m 徒歩15分
地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)
    1号出口より東約450m 徒歩7分

講演
1).追悼式 午後1時〜2時30分
2). 古代史講演会 午後3時〜4時30分

  「鉛同位体比から視た平原鏡から三角縁神獣鏡」
      新井 宏氏

 銅鏡に含まれる鉛同位体の分析から、「三角縁神獣鏡の大部分は複製を含めた国産である」とされている冶金学者で『理系の視点からみた「考古学」の論争点』などの著書があります。
(韓国国立慶尚大学招聘教授)

 

なお終了後、懇親会(別途申込)も実施されます。

参加費

無料


第1089話 2015/11/08

「死んだら地獄に行きたい」

 親鸞は当時としてはかなり長寿で、90歳で没しました(1173〜1262)。これは数え年ですから、満年齢では89歳となり、古田先生も親鸞と同年齢で亡くなられたことに気づきました。もしかすると、古田先生はこの親鸞の没年齢を意識されていたのかもしれません。というのも、KBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録(8月27日)で、米團治さんの質問に対して次のように答えておられるのです。

米團治さん「まだまだ先生、研究を続けられますよね。」
古田先生「まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思います。」

 このとき、古田先生は笑いながら答えておられましたので、冗談とわたしは受け止めていました。
 似たようなお話ですが、近年、古田先生は講演で「死んだら地獄に行きたい」と言われるようになりました。地獄には現世で浮かばれなかった人々、恨みをいだいた人々が行っているはずだから、そうした人々の声こそ聞いてみたいという、先生ならではの学問的好奇心に基づいたロジックと、わたしは受け止めていました。しかし、そう言われる先生の思いは、もっともっと深いところにあったのではないかと考えるようになりました。
 古田先生が「日本人の魂の古典」といわれた、『歎異抄』(親鸞の言葉を弟子の唯円が記したもの)の中に、その「地獄に行きたい」の真意をうかがうヒントがあったのです。その『歎異抄』の中でも、先生のお気に入りだった第二条に次の有名な親鸞の言葉があります。

 「たとい法然聖人にだまされて、念仏して地獄に落ちてしまっても、少しも後悔するはずはないのです。その理由は、ほかの行にはげんでも、仏になる身が、念仏したために地獄に落ちるのでしたら、確かに「聖人にだまされて」という後悔もしましょうが、どんな行もおよびがたい、わたしの身だから、どうあろうと、もう地獄はきまりきったすみかだ。」(古田武彦訳。『人と思想 親鸞』清水書院)

 親鸞が「もう地獄はきまりきったすみかだ。」と言い切った『歎異抄』のこの言葉を、青年の日から晩年まで親鸞研究を続けられた古田先生が「地獄に行きたい」というとき、意識されなかったはずはありません。その親鸞が行った地獄に古田先生は行きたいと言われたのではなかったでしょうか。
 わたしは主に日本古代史を古田先生から学びましたが、おりにふれて親鸞や鎌倉仏教、そして思想史についてもお話をうかがいました。そうした先生の言葉を「洛中洛外日記」などでこれからもご紹介していきたいと思います。

参考 親鸞流罪記録について


第1088話 2015/11/07

蕉門の離合の迹を辿りつつ

 31歳のとき、古田先生の門を叩いて30年近くになりました。古田先生が亡くなられてから、先生との思い出が次から次へとよみがえります。
 嵐のような和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングがおき、先生とわたしは週刊誌などでも名指しで叩かれ、兄弟子と慕っていた多くの人々が先生から離れていく様を、わたしは30代から40代の若き日に目の当たりにしました。そのような最中、古田先生と二人だけで三重県津市に行きました。1997年10月のことです。
 その年、『奥の細道』芭蕉自筆本とされるものが現れ、津市の美術館で展示されると聞き、先生と二人で訪問したのです。『奥の細道』の開かれたページを二人でガラス越しに1時間以上も食い入るように見つめました。その筆跡を目に焼き付けるためです。後日、持ち主(古美術商)から、直接すべてのページを見せていただける機会が訪れるのですが、そのときはガラス越しに見ることが唯一の観察手段でした。このような機会を通して、わたしは先生から古文書研究の執念と方法を学びました。
 津市へ向かう列車の中で、わたしは先生から一冊の本をいただきました。『許六 去来 俳諧問答』(岩波文庫、横沢三郎校註。1954年)です。その本には次のような一文が添えられていました。

「-蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章等)-
変る人々多き中、変らぬ心
をお寄せいただくこと、この生涯最大
の幸と存じます。
   一九九七、十月十九日 津紀行中
古賀達也様  古田武彦」

 芭蕉没後にその弟子たちは離合を続けました。中には、「門戸を張らんが為に師を軽侮して己の優位を示そうとする者」まで出ます(同書「解説」より)。偽作キャンペーンが吹き荒れるなか、古田先生がこの本を下さったお気持ちは、痛いほどわかりました。先生亡き今、その思いをより切実に受け止めています。
 この岩波文庫の小さな一冊は今も大切に持っています。わたしの宝物の一つとして。


第1085話 2015/10/30

古田先生の絶筆、徴兵検査と「赤紙」の狭間で

 夜、帰宅すると、友好団体の「多元的古代研究会」の会報「多元」No.130号が届いていました。友好団体間で行っている機関紙交流用に送っていただいたものです。
 今号は一面に古田先生の遺影と訃報が掲載され、2頁目には古田先生による「遺稿・真実と虚偽2」が掲載されていました。半頁ほどの短いものでしたが、末尾には「二〇一五、一〇月十二日脱稿」と執筆日が付されており、先生が亡くなられた14日の二日前の日付であることから、これは先生の絶筆ではないでしょうか。字数が少ないことから、すでにこの日には体調がすぐれなかったのかもしれません。心が痛みます。
 しかし、短文ではありますが、その内容は現在の日本国がおかれた状況を危惧した、古田先生の心の奥底からの訴えであり、後生にのこされた「遺言」のような気がしてなりません。
 その前半は、義兄(井上嘉亀氏)から聞かれた、満州に取り残された日本人婦女子に対するソ連兵の組織的集団強姦事件の話であり、後半は徴兵を目前にした旧制広島高校での生徒たちの会話(何のために死ぬのか。死ねるのか。)です。いずれのお話も、わたしは何度も先生からお聞きしたことがあり、先生としては死ぬ前にどうしてもこれだけは何度でも伝えておきたかったことに違いありません。「多元」から後半部分を引用させていただきます。

 日本はすでに負けることを知っていた。戦時中だ。一晩中、旧制広島高校で議論した。
 「わたしたちはどうしたらいい?」
 「今、アメリカが、極東から沖縄まで、唯一独立国である日本国を、植民地にしようとしている。」
 「その日本国を植民地にするために、狙っているのがアメリカだ。」
 「しかし、わたしたちが“アジアのために”戦って負けたら、次は必ず〈アジアが独立する〉ときが来る。」
 「そのために“戦う”のなら、〈戦う意味がある〉のではないか。」
 夜を徹して、議論した。それが結論だった。
  〔二〇一五年一〇月十二日脱稿〕

 おそらくこのとき、古田青年は徴兵検査を終え、「赤紙」(徴収礼状)が来るのを待っていた時期と思います。というのも、わたしは古田先生から次のようなお話を聞いたことがあるからです。

 「わたしは徴兵検査を受けて、『赤紙』が来る前に敗戦を迎えた最後の世代でした。東北大学に進むので、徴兵延期の特例が認められていたのですが、それを潔しとできなかったので、徴兵延期申請をせずに徴兵検査を受けました。帝国大学生なら徴兵延期のうえ、下士官として兵役につくこともできましたが、わたしはそれを選ばずに、二等兵として兵役につく覚悟でした。」

 古田先生らしい、不正を嫌う実直なお人柄がよくうかがわれるお話でした。今回の「多元」の絶筆を読み、この先生のお話を思い出しましたので、ここに紹介させていただきます。


第1084話 2015/10/29

「邪馬壹国」説、

昭和44年「読売新聞」が紹介

 「洛中洛外日記」1078話で、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』の最初の書評「批判と研究」(『週間読売』昭和47年1月)が池田大作氏により発表されたことを紹介しました。『「邪馬台国」はなかった』の元となった最初の論文、すなわち古田先生の「邪馬壹国」説が最初に発表されたのは東京大学の『史学雑誌』で、昭和44年、古田先生が43歳のときです。それは「邪馬壹国」という論文で、その年の日本古代史分野では最も優れた論文と高く評価されました。
 その「邪馬壹国」説を最初に紹介した読売新聞の記事を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)が見つけて下さり、その記事を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が活字データにしていただきましたので、ご紹介します。
 今、読んでみてもかなり正確な内容の記事です。当時の新聞記者の優秀さがうかがわれます。現在のように記者クラブなどで政府や官邸から流される発表をそのまま記事にする記者とは大違いです。それと同時に、この記事はある程度の学力(北畠親房や新井白石の業績を知っている)がないと深く理解できません。当時の新聞読者(国民)の学問レベルも新聞記者と同様に高かったように思われます。
 正木さんからのメールには次のような的確な感想が付されており、こちらもご紹介します。

《正木さんからのメール》
 茂山さんから昭和44年の古田先生の史学雑誌への発表をとりあげた読売新聞の記事を頂きました。記事を添付しましたが、見にくいので記事起ししました。 東大榎、京大上田、松本清張という「巨頭」がこぞって大きく評価しており、いかに大きな衝撃だったかがわかります。
 今日の「古田無視」の状況がどのような経過でもたらされたのか、その理由・背景に何があったのか、学問的にも大きな研究課題になろうかと思います。
 正木拝

《昭和四十四年十一月十二日読売新聞》

(大見出し)邪馬臺ヤマタイ国ではなく邪馬壹ヤマイチ国
 後漢書こそ三国志を誤記

(中見出し)古代史の根源に波紋
(*魏志倭人伝と後漢書の写真、古田先生の写真を掲載)

(リード)三世紀の日本にあったのは、邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国だったーヤマタイの発音からヤマトを想定したわが国の古代史の序章を白紙に戻させるような研究論文が、この秋、突然、学術専門誌に発表され、歴史学会に大きな波紋を投じている。
 京都の市立洛陽工業高校古田武彦教諭(四三)が五年間を費やした労作。これまで三国志の魏志倭人伝(当時の日本の情勢が書かれている)に出てくる邪馬壹国の「壹」は「臺」の書き誤りというのが定説になっていたが、古田教諭は「壹が正しく、臺の誤記ではない」という結論に達したという。ヤマタイ国について独自の推理を展開してきた松本清張氏は「大きな盲点をつかれた」と”古田研究”を高く評価しており、学会でも「もう一度出発点に戻らなければ」と古代史の”再点検”をうながす声が起こっている。

(小見出し)近畿、九州論争根拠を失う

(記事)これまでヤマタイ国の根拠とされてきたのは、五世紀の中国の史書、後漢書に出てくる「邪馬臺国」で、それ以後の史書も後漢書にならって同じ表記をしており、三世紀に書かれた三国志の「邪馬壹国」の方が書き誤りとされてきた。
 古田教諭の研究は、史学会代表者榎一雄東大教授の推薦で、同会の機関紙「史学雑誌」最近号に「研究ノート」として発表された。
 そのポイントは、女王ヒミコが統治する国についての最古の文献である三国志には「邪馬壹国」とあり、北畠親房、新井白石から今日にいたるまで「これは臺の誤記」という説がうのみにされてきたが、科学的に検討すると「壹」と「臺」の書き間違いは考えられないーというもの。
 三国志の「邪馬壹国」と、後漢書の「邪馬臺国」とを比較、検討した結果、文献上、字形上、発音上、次のような点が明らかであるとしている。
 ①三国志の文中には合計八十六個の「壹」の字が使われている。しかし、一つとして混同は認められない。一方、後漢書は、三国志の文面をもとにしながら「女子の多い国」などと才気走った修飾があちこちに見られ、誤記の可能性はむしろ後漢書の方こそ強い。②三国志が書かれた三世紀当時の「臺」の字には「天子の宮殿」という意味がある。また邪、馬、奴などはいずれも蔑称(べっしょう)で邪馬という蔑称の下に「臺」の字を使うはずがない③後漢書の「邪馬臺国」には、唐時代の学者李賢(七世紀)の注として「案ずるに今の名、邪馬惟(ヤマイ)の音の訛(なまり)なり」とあり、唐代になっても邪馬惟だったと思われる④仮に一歩譲って「邪馬臺国」が存在したとしても、発音は濁った「ダイ」であって「台(タイ)」にはならず、これを「ヤマト」と類推するには飛躍がありすぎる。
 つまりヤマタイ国は、それこそ”まぼろし”だったというわけで、八世紀の古事記、日本書紀に初めて現れる大和朝廷をヤマタイ国と結びつける従来の古代史は、それ以前の糸をぷっつりと断ち切られることになるし、発音からきた福岡県山門(やまと)郡説も、根拠を失ってしまう。
 これまでの学会は、ヤマタイ国近畿説、北九州説に分かれながらも、ヤマタイ国の存在そのものは疑わなかったが、その根源にいきなりメスを当てられたかっこう。いまのところ「結論的には賛成しかねるが、新しい研究方向を示し、大きな波紋を投ずるものと思って推薦した」(東大榎教授)「三国志自体の信ぴょう性という問題は残る。しかし従来の研究の重大な弱点を指摘してくれた」(京都大上田正昭助教授)など、専門学者の反応はさまざまだが、それぞれ大きなショックを受けたことは間違いなさそうだ。

(小見出し)説得力十分だ

(記事)松本清張氏の話「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」


第1082話 2015/10/25

桂米團治さんのブログに古田先生の訃報

 KBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」に古田先生と出演させていただいたことなどがご縁となり、桂米團治師匠には何かとお気遣いいただいています。その米團治師匠のオフィシャルブログに古田先生の訃報が掲載されています。これも有り難いことです。米團治師匠のご了解をいただきましたので、転載紹介させていただきます。

「五代目 桂米團治ブログ」より転載

2015.10.16 《古田武彦さん、逝去》
 10月14日(水)、歴史学者の古田武彦さんがお亡くなりになりました。享年89歳。
 常に文献に偏見なく向き合い、独自の解釈で古代史学界に“喝”を入れた先生──。
 私はただただ古田武彦著書の一愛読者だったのですが、今年、ひょんなことからKBS京都ラジオの私の番組へ古田武彦さんをお招きすることが叶ったのです。
 かなりのご高齢で、もう講演活動もされておられない状況である中、無理を承知で打診してみたところ、「出ます!」というご快諾の返事をいただきました。
 8月29日(土)、ご長男の光河さんに付き添われてスタジオ入りした先生は、明瞭なお声で私のインタビューに応じて下さいました。
 お弟子さんの古賀達也さんも加わっての古代史談義は、なんと二時間以上続いたのです!
 私が少しでも論理に合わないことを言えば賺さず「いや、それは違う」と質され、どんな質問にも丁寧に答えて下さいました。
 逆に、私の話す内容に賛同された時など、スタジオに響き渡るような声で「その通り!」と絶叫されました(*^o^)/
 「これからはどんな研究をなさりたいですか」との私の問いかけに対しては、「やるだけのことはやりました。もう思い残すことはありません。あとは弟子たちが頑張ってくれるでしょう」との返答。
 9月に入り、その模様が三週にわたり紹介されましたが、それが古田武彦さんの最後の放送となりました。
 先生の遺志は必ずや「古田史学の会」の皆さんが受け継いで下さることでしょう。
 勇気と感動を与えて下さり、本当に本当にありがとうございました!    ご冥福をお祈り致します。


第1078話 2015/10/20

池田大作氏の書評「批判と研究」

 古田先生が生前に親交をもたれていた各界の人士にご連絡をとっていますが、ご返信も届きはじめました。17日には創価学会名誉会長の池田大作氏から、知人を介して次の御伝言をいただきましたのでご紹介します。

 「ご生前の御功績をしのび、仏法者として懇ろに追善させていただきました。くれぐれもよろしくお伝え下さい。」(池田大作)

 古田先生と池田大作氏との交流は『「邪馬台国」はなかった』の発刊時にまで遡ります。同書は昭和46年11月に発行されています。わたしが古田先生からお聞きしたことですが、『「邪馬台国」はなかった』の書評を最初に発表されたのが池田大作氏で、それ以来、古田先生の著作が刊行されると贈呈し、そのたびに読書感想を交えた丁重なお礼状や池田氏の著作が届くという間柄になられたとのこと。先生のご自宅で池田氏のサイン入りの写真集なども見せていただいたことがあります。
 池田大作氏の書評は昭和47年1月15日の『週間読売』に掲載された「批判と研究」というものです。それは次のような文で始まります。

 「最近評判になっている『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、朝日新聞社)という書物を一読した。はなはだ衝撃的な題名であるが、推論の方法は堅実であり、説得的なものがある。読んでいて、あたかも本格的な推理小説のような興味を覚えた。これが好評を博す理由もよく理解できる。」

 そして古田先生の邪馬壹国説を正確に要領よく紹介され、九州説の東大と近畿説の京大との学閥問題にも触れられます。さらには古田史学・フィロロギーの方法論と同一の考え方を示され、最後を次のように締めくくられています。

 「『批判』はどこまでも厳密であるべきだ。なればこそ『批判』にあたっては、偏見や先入観をできるかぎり排除して、まず対象そのものを冷静、正確に凝視することが大切であろう。そもそも『批判の眼』が歪んでいれば、対象はどうしても歪んだ映像を結ばざるをえないのだろうから--。」

 この池田氏の「批判と研究」は学問的にも大変優れた内容です。この書評は『きのうきょう』(聖教文庫81、聖教新聞社、1976年)に収録されています。
 わたしがこの書評の存在を古田先生からお聞きしたのは、「古田史学の会」創立後ですから、今から15年ほど前のことと思います。そのとき先生はうれしそうなお顔で次のように言われました。

 「池田さんとお会いしたことはないのですが、是非、会ってみたいという気持ちと、このまま書簡と書籍を交換するだけの間柄を大切にしたいという気持ちの両方があります。」

 こうして、古田先生は池田大作氏とはお会いされることはないまま逝かれました。


第1077話 2015/10/17

悲しみと励ましの関西例会

本日の関西例会はいつもとは少し異なり、重苦しい雰囲気が感じられました。というよりも落ち込んでいるわたしを皆さんにおもんばかっていただいたためでした。
 お昼休みに開催した「古田史学の会」役員会では古田先生のご逝去により、「偲ぶ会」の検討や『古代に真実を求めて』追悼特集について打ち合わせを行いました。午後の部の冒頭では参加者全員で黙祷しました。
 例会後の懇親会には桂米團治さんが駆けつけていただきました。米團治さんはは住吉での落語会を終えた後、懇親会に参加していただいたものです。 有り難いことです。今日は姫路市で落語会とのことでした。これからの米朝一門を立派に牽引されていかれることでしょう。皆さんに励まされた一日でした。
 10月例会の発表は次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
①本朝皇胤紹運録の中の九州年号(八尾市・服部静尚)
②新唐書日本伝の史料批判(八尾市・服部静尚)
③「副葬」は「廃棄」である(京都市・岡下英男)
④仮説、「国伝」(姫路市・野田利郎)
⑤盗まれた九州王朝の「難波宮」と「吉野宮」の歌(川西市・正木裕)
⑥「ニギハヤヒの位置付け」及び「神武の東征はなかった」の補足(東大阪市・萩野秀公)
⑦六国史の「皇祖母」(高松市・西村秀己)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(10月14日22時13分、西京区の桂病院にてご逝去)・史跡ハイキング(関大博物館・他)・「最勝会」の研究・高橋崇『藤原氏物語 栄華の謎を解く』・水野孝夫「泰澄と法蓮」会報74号・その他


第1076話 2015/10/15

古田武彦先生ご逝去の報告

 古田武彦先生が昨日ご逝去されました(享年89歳。10月14日午後10時13分、搬送先の桂病院にて)。謹んで皆様にご報告申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 なお、古田先生の御遺命により、葬儀は執り行われず、ご親族によるお別れがなされます。「古田史学の会」としましては、友誼団体ともご相談の上、「お別れ会」(仮称)を執り行います。日時・会場など詳細が決まりましたら改めてご報告申し上げます。
 また、「九州年号特集」を予定していました『古代に真実を求めて』19集(来春発行)は「古田武彦先生追悼号」に変更させていただきます。
 先生の御遺志と学問、古田史学・多元史観をこれからも継承発展させることをお誓い申し上げます。

 平成27年(2015)10月15日
         古田史学の会 代表 古賀達也

古田武彦研究年譜を掲載