現代一覧

第885話 2015/02/28

巨大古墳vs神籠石山城・水城

 関西の考古学者と積極的に意見交換を続けられている服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)によると、「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者の根本的な理由は、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿にあることから、古墳時代における列島内の中心権力者が畿内にいた証拠であり、弥生時代もそうであったはずということのようです。そのため、巨大前方後円墳の始原を畿内の古墳時代前期の纒向型前方後円墳であるとみなし、その編年を弥生時代(卑弥呼の時代、3世紀前半)に編年操作しようとしていると思われます。
 何度も指摘してきましたが、「邪馬台国」畿内説なるものは、『三国志』倭人伝に記された倭国中心国名を改竄し(邪馬壹国→邪馬台国)、その方角も改竄し(南→東)、その距離(12000余里)も無視し、倭国の文物(鉄・絹・銅鏡)も無視・軽視するなどの研究不正のオンパレードで、およそ学説(学問的仮説)と呼べる代物ではありません。
 普通の人間の理性からすれば、これほど倭人伝の内容と大和盆地の地勢・遺物が異なっていれば、倭人伝の邪馬壹国とは別の王権が畿内や関西にあったと考えるのが学問的論理的とわたしは思うのですが、彼らはそうした思考が「苦手」なようです。その「苦手」な理由については別に考察したいと思います。
 とは言え、列島内最大規模の巨大古墳群が近畿(大和ではなく河内が中心)にあり、北部九州よりも「優勢」という指摘は古墳時代の考古学事実に基づいており、その点は検討に値する指摘です。古田先生はこの問題についていくつかの反論をされていますが、当時の倭国は朝鮮半島で軍事的衝突を繰り返しており、巨大古墳を作る余裕はなく、逆にあればおかしいとされています。従って、巨大古墳を造った勢力は朝鮮半島で戦っていた倭国の中心勢力ではないとされました。
 巨大古墳を古代における土木事業という視点からすれば、同様に北部九州にある神籠石山城(複数)や水城(複数)の大規模土木事業の存在に注目しなければなりません。たとえば太宰府を防衛している大水城(全長1.2km、高さ13m、基底部幅80m。博多湾側の堀は幅60m)は土量は384000立法メートル、10tonダンプで64000台分に相当するとされています。動員された作業員は延べ110万人は下らないと見られています。この太宰府の北西の大水城の他に小水城や、久留米市には有明海側からの侵入を防ぐために上津荒木(こうだらき)の水城も造られています。
 神籠石山城群も太宰府や筑後「国府」を防衛するように要衝の地に点々と築城されています(雷山・高良山・阿志岐山・杷木・女山・帯隈山・おつぼ山・鹿毛馬・御所ケ谷・唐原など)。直方体の大石を石切場から山頂や中腹に運搬し、山を取り囲むように巡らせ、その列石上には土塁を盛り、前には木柵を設け、列石の内側には倉庫や水源、そして水門まで造営されています。これだけでもいかに巨大な土木事業であるかをご想像いただけると思います。大量の大石を石切場から山頂に運搬するだけでも、専用道路が必要ですから現代でもかなり大変な巨大土木事業といえるでしよう。おそらく水城や神籠石山城の造営は近畿の巨大前方後円墳以上の規模ではなかったでしょうか。
 この他に太宰府の北側には大野城、南側には基肄城が造営されていますから、北部九州には列島内最大規模の古代土木事業の痕跡があるのです。お墓と防衛施設とでは、どちらが「都」に相応しいか言うまでもないでしょう。近畿の巨大古墳群を自説の根拠にしたいのであれば、北部九州の巨大防衛施設にも言及すべきです。両者を比較した上で、列島内の中心権力者の都の所在を学問的論理的に提起すべきです。それが学問というものです。


第883話 2015/02/26

倭人はお酒好きで

   美人が多い?

 今日の午前中は二日市市にある福岡県工業技術センターを訪問し、同センターの堂ノ脇靖巳さんと旧交を暖めました。堂ノ脇さんはタンパク質のトリプトファン発色反応をウールやシルクに応用し、染料による染色ではなく、ウールやシルクそのものを化学反応で発色させ、衣料品に用いるという画期的な技術(中小企業庁長官賞受賞)を開発された優れた化学者です。十数年前、京都大学で開催された繊維学会でお会いして以来、同郷の化学者同士として、あるいはビジネスでもおつきあいをさせていただいています。
 午後からは新幹線「さくら」で大阪まで戻り、繊維応用技術研究会(事務局:大阪府立産業技術研究所)の理事会に出席しました。理事会の皆さんと夕食をご一緒したのですが、話題が古代史にも及び、盛り上がりました。理事全員が科学研究者ですので、様々な観点から『三国志』倭人伝の記事について持論が展開されました。特に拝聴したのが花王のヘアケア研究所のKさんの次のご意見でした。

1.倭人伝には女性のヘアスタイルに関する記事があることから、倭人の女性はおしゃれに興味があり、その結果、おそらく美人が多かったのではないか。
2.倭人はお酒が好きと書いてあるので、「邪馬台国」はお酒好きの地方にあったはず。
3.「博多美人」という言葉はあるが「奈良美人」というのは聞いたことがない。
4.博多と奈良に出張で行くことがあるが、博多の人の方が圧倒的に「飲兵衛」が多い。
5.従って、「邪馬台国」九州説(博多説)に賛成する。

 以上のような持論を開陳されました。学問的な論証としては「問題」が少なくないのですが、ヘアケアの専門家らしい視点だと思いました。
 言われてみれば、倭国へのプレゼントとして倭人伝に特記されている「鏡」(倭人の好物)や「錦」(シルク製品)など、いずれも女性が喜びそうなプレゼントです。そして当時の倭国は女王卑弥呼・壹与の時代ですから、女性が喜ぶような品々を中国側は意図して贈ったのかもしれません。学問的かどうか全く自信はありませんが、このような視点が古代史研究にあってもよいのではないでしょうか。
 花王のKさんに、そのご意見を「洛中洛外日記」に書いてもよいかと確認したところ、「OK」のご返事をいただいたものの、奈良県での花王の化粧品の売り上げが落ちたら申しわけないような気持ちです。あくまで食事の席での個人的見解ですので、大目に見てあげてください。なお、理事会に同席され、Kさんやわたしの会話を聞いておられた業界誌のS社長から、今の話を自社の雑誌のコラムに連載して欲しいとのご要望をいただきました。もちろん、わたしの返事は「OK」でした。


第877話 2015/02/19

竜田関が守る都

 「前期難波宮」

 今日は朝から東京で仕事です。夕方までには仕事を終えて、名古屋に向かいます。今はお客様訪問の時間調整と休憩のため、八重洲のブリジストン美術館のティールーム(Georgette)でダージリンティーをいただいています。同美術館では五月からの改築工事を前にして「ベスト・オブ・ザ・ベスト」というテーマで美術館所蔵名画の展覧会が開催されています。改築に数年かかるとのことで、このお気に入りのティールームともしばらくの間、お別れです。

 さて、古代の「関」で有名なものに「竜田関(たつたのせき)」があります。河内から大和に入るルートとして大和川沿いの道(竜田越)があるのですが、そこに設けられたのが「竜田関」です。その比定地は河内側ではなく大和側にあります(「関地蔵」が残っています)。ということは、関ヶ原と同様に、守るべき都から見て、峠の外側(下側)に「関」はあるはずですから、この竜田関は大和方面から河内に侵入する「外敵」に対しての「関」ということになります。そして、河内方面にあった都とは「前期難波宮」しかありませんから、竜田関は前期難波宮防衛の為の施設であり、「外敵」として大和方面からの侵入者を想定していることになります。
 このことに気づかれたのが服部静尚さん(古田史学の会『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)です。すなわち、竜田関は九州王朝の副都「前期難波宮」を大和(方面)の勢力から防衛するために設けられた「関」ではないかとされたのです。
 この服部説には説得力があります。もし、前期難波宮が「大和朝廷」の都であったとしたら、自らの故地であり勢力圏でもある大和との間に「関」を造る必要性は低く、もし造るとしても河内方面からの大和への侵入を防ぐ位置、すなわち河内側に「関」を作るのが理の当然ですが、どういうわけか大和側に竜田関は造られたのです。従って、この竜田関の「位置」は「前期難波宮」九州王朝副都説を支持しているのです。少なくとも、大和朝廷一元史観では合理的な説明ができません。
 このような竜田関の位置関係から、次のように言えるでしょう。すなわち、九州王朝は副都「前期難波宮」の造営に伴って、大和からの侵入に備えたのです。このことから、九州王朝は「大和朝廷」を無条件で信頼していたわけではないこともわかります。
 この「関」についての服部論文が『古代に真実を求めて』18集に掲載されますので、是非、ご一読ください。


第875話 2015/02/17

松浦光修編訳

『【新釈】講孟余話』を読む

 今朝は加古川行きのJR新快速の車中で松浦光修編訳『【新釈】講孟余話』(PHP研究所、2015年1月)を読んでいます。『講孟余話』は吉田松陰の主著として有名です。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の影響もあり、約20年ぶりに吉田松陰の本を読んでいます。
 前回の「花燃ゆ」は松陰が野山獄で囚人に対して『孟子』の講義を行っている場面でしたが、この『孟子』講義が出獄後も家人らを対象にして続けられ、その講義録が『講孟余話』です。松陰の生き様や思想が綴られており感動的な内容ですが、中でも下田の獄舎での金子重之助(松陰とともに密航しようとした人物)とのことを記した「尽心」上・首章の記述は、学問を志す一人として胸を打たれました。その原文を抜粋します。

 「余(松陰)、甲寅の歳、渋木生(金子重之助の変名)と下田獄に囚はる。僅か半坪の檻に両人座臥す。日夜、無事なるに因(よ)りて番人に頼み、『赤穂義臣伝』・『三河後風土記』・『真田三代記』など、数種を借りて相共に誦読す。時に両人、万死自ら期す。今日の寛典に処せらるべきこと、夢にだも思はざることなり。
 因りて余、渋木生に語り云はく、「今日の読書こそ真の学問と云ふものなり(中略)
 両人獄に在る時、固(もと)より他日の大赦は夢にも知らぬことなり。然れども道を楽しむは厚く、学を好むの至り、斯(かく)の如し。今、吾が輩両人、亦(また)此の意を師とすべし」と云へば、渋木生も、大(おおい)に喜べり。」『講孟余話』(「尽心」上・首章)※()内は古賀による。

 畳一畳の狭い獄舎に繋がれ、死罪になる身にもかかわらず、このような状況だからこそ「真の学問」が行えると、松陰は金子重之助に中国の故事をあげて説明しているシーンの回想です。下田の獄舎での講義を松陰は他の囚人にも聞こえるように大声で行い、この講義を聞いた多くの囚人が感激したと松陰は記しています。この『講孟余話』執筆時も松陰は萩の自宅で謹慎の身でした。
 この獄舎での松陰の行いは、南アフリカのマンデラ大統領が長期の獄中生活にあっても他の囚人への教育活動を続け、「マンデラ大学」と称されていたことと相通じるもので、たいへん感慨深い話です。ですから、山口県の人々(安倍総理も)が今も吉田松陰のことを「松陰先生」と敬愛の念を込めて呼ぶことは深く理解できるのです。
 現代日本では、学問や歴史の真実よりも、お金・地位・名誉が大切な御用学者による御用史学が跋扈しています。このような時代だからこそ、わたしたち古田学派は吉田松陰のように「真の学問」が行えるのであり、それは大いに喜ぶべきことと思われるのです。


第870話 2015/02/13

古代における「富の再分配」

 極端な富の集中と格差拡大に警鐘を打ち鳴らした『21世紀の資本』ですが、その対策として著者のトマ・ピケティ氏は富裕層への国際的な累進課税を提案されているとのこと。
 確かマルクスが言っていたと記憶していますが、資本主義のメカニズムは、労働者の賃金を「労働力の再生産」が可能なレベルまで引き下げるとされています。「労働力の再生産」とは労働者夫婦が二人以上の子供(将来の労働力)を産み育てることで、これが不可能なほどまで賃金が下がると、労働人口が減少し、社会や国家がいずれ消滅し、商品を購買するマーケットさえも縮小します。そのため、労働者の最低賃金は本人が生きていくだけではなく、子供二人以上を養えるレベルが必要であり、同時にそのレベルまで賃金は下がるとマルクスは指摘しています。十代の頃に読んだ本の記憶ですから、正確ではないかもしれませんが、本質的な指摘だと青年の頃のわたしの心を激しく揺さぶった記憶があります。
 『21世紀の資本』ブームの影響を受けて、古代日本において「富の再分配」は行われたのか、行われていたとすればそれはどのようなものだったのか、というようなことをこの数日考えています。
 『日本書紀』『続日本紀』には、天災や不作のときには当該地域の「税」を免除する記事が見えますが、これは「富の再分配」とは異なります。国家の制度、あるいは習慣などによる政策的な「富の再分配」として、どのようなものがあったのでしょうか。公共事業(都や宮殿、大仏・寺院の造営など)の実施により、権力が蓄えた富を消費するという経済活動も、ある意味では「富の再分配」を促しますが、もっと直接的な「富の再分配」はなかったのでしょうか。
 『続日本紀』には高齢者(70歳や80歳)に対して、ときおり「褒美」が出された記事がありますが、国家が行う経済政策としての「富の再分配」にしては規模が小さいように思われます。このようなことは「古代経済学史」ともいうべき学問分野かもしれません。どなたかご教示いただければ幸いです。


第869話 2015/02/12

トマ・ピケティ

『21世紀の資本』ブーム

 フランスの経済学者トマ・ピケティ著『21世紀の資本』がブームとなっているようで、700頁の分厚い経済学の本が国内で既に13万部も売れているのには驚きです。大勢の人が並んで買うようなモノには、ブームが過ぎた頃にしか手を出さないというクセがわたしにはあるので、まだ同書を読んでいません。しかし、ちょっとは気になりますので、同書が特集された『週間ダイアモンド』2/14号を京都駅の書店で購入し、新幹線の車中で読みました。
 同書の核心は先進国の税務当局などが公表した公式データに基づいて、資本収益率(r)が経済成長率(g)を常に上回ることを「実証」した点にあるようで、平たく言えば「資本」の持ち主は労働者の所得よりも常に富を増やすことができる。つまり、金持ちはより金持ちになるということですので、たしかに「格差」が広がっている今の日本で売れるのも理解できます。
 詳細な内容は読んでいないのでわかるはずもないのですが、著者のピケティは15年間かけて世界各国の200年以上にわたるデータを実証的に調査分析したというのですから、この点はすごいと思います。古田先生が『三国志』全文から「壹」と「臺」を全て抜き出して、両者が間違って混用された例はないことを実証的に証明された方法に相通じるものを感じました。そういう意味では、学問分野は異なりますが、古田学派の研究者なら読んでおくべき本かもしれませんね。


第857話 2015/01/24

『三国志』のフィロロギー

 「長里への原文改訂」

 『三国志』に長里が混在する論理性とその理由についてフィロロギーの視点や学問の方法について縷々説明してきましたが、今回はちょっと息抜きに現代中国における『三国志』の「長里への原文改訂」についてご紹介します。
 『三国志』が短里で編纂されていることは動かないものの、長里が混在する可能性やその論理性について、15年ほど前から古田先生と検討を進めていまし た。そのときのエピソードですが、『三国志』の次の記事は長里ではないかと古田先生に報告しました。
 『三国志』ほう統伝(注)中の裴松之注に「駑牛一日行三十里」とあり、短里では1日に約2.4kmとなり、牛が荷を引く距離としても短すぎるので、これ は長里の例(約13km)ではないかと考えました。このことを古田先生に報告したところ、先生は怪訝な顔をされ、その記事は「三十里」ではなく、「三百里」ではないかと言われたのです。再度わたしが持っている『三国志』(中華書局本。1982年第2版・2001年10月北京第15次印刷)を確認したのですが、やはり「三十里」とありました。ところが古田先生の所有する同書局本1959年第1版では「駑牛一日行三百里」とあるのです。最も優れた『三国志』 版本である南宋紹煕本(百衲本二四史所収)でも「三百里」でした。なんと、中華書局本は何の説明もなく「三十里」へと第2版で原文改訂していたのでした。
 この現象は、現代中国には「短里」の認識が無いこと、そして長里の「三百里」では約130kmとなり、牛の1日の走行距離として不可能と判断したことが うかがえます。その結果、何の説明もなく「三百里」を「三十里」に原文改訂したのです。こうした編集方針の中華書局本を学問研究のテキストとして使用することが危険であることを痛感したものです。同時に、「駑牛一日行三百里」が『三国志』が短里で編纂されている一例であることも判明したのでした。
 この例を含めて『三国志』等に混在した「長里」「短里」について考察した次の拙稿が本ホームページに収録されていますので、ご参照下さい。(つづく)
 古賀達也「短里と長里の史料批判 —  『三国志』中華書局本の原文改定」(『古田史学会報』No.47、2001年12月)
 ※(注)ほう統伝のホウは、广編に龍。


第818話 2014/11/08

初参加、八王子セミナー(実況同時記録)

 今日は八王子大学セミナーハウスでの「第11回古代史セミナー・古田武彦先生 を囲んで」に初参加しました。久しぶりにお会いする懐かしい方々と旧交を暖めることができました。古田先生のご子息の古田光河さん(ふるたこうが)や主催されている荻上紘一さん(大妻女子大学・学長)ともご挨拶することができました。ちなみに、光河さんは一目見て、先生のご子息とわかりました。参加者も 100名を超え、盛況です。
 古田先生の講演は「日本古代史新考自由自在・その七」と銘打たれ、資料に記された講演テーマは次の通りです。

(一)松本深志講演(十月四日)の展開
  「深志から始まった九州王朝」
(二)日本考古学界の「通説」について
  福永伸哉講演(2014.4.12)
  『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会刊(2005.8.10)(大冊)
(三)トマス・ペインの『コモンセンス』(1776)と“A serious thought ”(1775)辛辣な思想
(四)秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)
(五)宗教と国家の死滅 — 表裏一体の「天国と地獄」「神と悪魔」論
(六)真実と人間の誕生

 講演に先立ち、荻上さんのご挨拶があり、当セミナーが11回を迎えられたことは歴史的なことであり、最近、古田先生の学問が受け入れられつつあり、先生には少しでも長くご研究を続けてほしいと述べられました。司会進行も荻上さんが担当です。
 講演は朝日新聞社OBの茂山さんからのお手紙を古田先生が紹介され、戦後まもなく親鸞研究に入った理由「自分が生きていくうえで、いかに生きるべきか」の説明から始められました。
 次いで、古代史研究(『三国志』倭人伝)に入るきっかけとなった松本清張さんの『陸行水行』や『中央公論』連載の「古代史疑」との出会いを紹介されました。
 次に、大阪大学の福永伸哉さんの「三角縁神獣鏡」魏鏡説(倭国向け特鋳説。だから中国から出土しなくてもよい、とする珍説。これだとA国から出土しなくても何でもA国製とできる「万能の論理」。もちろん学問の「禁じ手」です。古田学派の皆さんは真似しないようにしてください。:古賀注)を紹介され、学問として成り立たないことを批判されました。三角縁神獣鏡は日本製であり、3世紀の日本列島を知る上で貴重な鏡てあるとされました。
 次に、『コモンセンス』の「厳粛な思い」に記された英国による残虐な植民地支配(東インド)を批判した部分を示され、トマス・ペインの思想性を評価されました。更に勝者(連合軍)が敗者(日本)を有罪にした「東京裁判」や靖国神社問題にも触れられました。あわせて、秋田孝季の素晴らしい思想性を評価さ れ、和田家文書が真作であることを強調されました。また、和田家文書の秋田孝季による天地創造についての文とその思想について紹介されました。
 最後に、京都府向日市寺戸の五塚原古墳(全長約90m、前方後円墳)の第5次発掘調査現地説明会資料を示し、古墳の下に弥生時代の何かがあり、それを壊してこの古墳が造られているとのことでした。おそらく、弥生時代の銅鐸による祭祀跡があったのではないかとされました。

 ここで先生がお疲れとのことで、一旦、休憩となりましたので、その間に懐かしい方々にご挨拶まわりしました(まるで古田学派の同窓会のようでした)。

 再開後、最初のテーマは考古学的事実(ピラミッド建設・壊された銅鐸など)の「解釈」(学問の方法)についてでした。天皇陵古墳などの下に何があったか。そこには銅鐸文化の祭祀跡・遺跡があるのではないかと、天皇陵古墳をその下まで発掘する必要性をうったえられました。そ の際、周濠の水も入れ替えて魚が住めるようにきれいにすべきとも述べられました。
 次いで、テーマは神籠石山城へと移り、神籠石山城に囲まれた地こそ、都にふさわしい場所であり、この神籠石山城の分布は九州王朝説でなければ説明できないと指摘されました。
 更にテーマはギリシア神話に及び、太陽神アポロはアテネから北西のオリンポス山に行ったのではなく、オリンポス山の真東に位置するトロイから出発したのではないかとされ、その「トロイ神話」をアテネが取り込み、ギリシア神話として書き換えたのではないかとする仮説を発表されました。これは九州王朝神話を 『日本書紀』が盗用したことと同じ現象です。なお、来年4月にはギリシア旅行が企画されており、古田先生も参加されます(別途紹介予定。平成27年4月1 日~8日、旅行費用約33万円)。
 博多と信州の地を結んでいる歌として、『古今和歌集』巻十七の次の歌を紹介されました。

 「をそくいづる 月にもある哉 あしひきの山のあなたも 惜しむべら也」(877)筑紫太宰府の歌
 「わが心なぐさめかねつ さらしなや をばすて山に てる月を見て」(878)信州の歌

 『隋書』「イ妥国伝」の「有阿蘇山其石無故火起接天」の「火」は阿蘇山による自然の火ではなく(天然の火は「災」と表記 される)、人間が起こす「火」であり、神籠石での祭祀の場の火ではないかとされました。従って、「日出ずる処の天子」とは阿蘇山下の天子、九州王朝の天子 であると主張されました。
 「宗教と国家の死滅」のテーマでは、「天国と地獄」「神と悪魔」は相対概念であるとされ、宗教と国家には誕生と終わりがあるとする秋田孝季の思想を紹介されました。

 ここで質疑応答となり、先の『隋書』の文の後段に、その火を「俗以為異」(俗、もって異となす)と表現されているので、 人間による火ではなく、噴火の火ではないかとする質問が出されました。古田先生は噴火の火ではないと返答されました。この時点で、かなりお疲れのご様子で、心配です。
 邪馬壹国の邪馬はいわゆる「山」のことではなく、「国名」ではないかとの質問に対して、博多湾から筑後にいたる領域名と返答されました(このことは『「邪馬台国」はなかった』で、卑弥呼の居た中心領域の国名は「邪馬」国と既に説明されています:古賀注)

 ここで再度休憩となり、参加者が宿泊施設に入りました。わたしは荷物も少ないので、そのまま会場に残り、この執筆中の「洛中洛外日記」のチェック・校正を行いました。

 質疑応答が再開され、信州の八面大王の安曇野の住みかの名称が「神籠石の岩屋」とされていますが、九州と関係するのかという質問が出されました。古田先生は、九州と長野県に関連する名称と思われると返答。
 この後、以前に出されていた質問(複数)に対して回答されましたが、その中で『隋書』「イ妥国伝」に見える「秦王国」について、信濃のことではないかとする新たなアイデアを紹介されました。『日本書紀』天武紀にある「信濃遷都計画」記事について、九州王朝によるものではないかとされ、「秦王」も「シナノ」の音に近いことなどから、「秦王国」を信濃とする視点を得られたとのことでした。
 前期難波宮九州王朝副都説の是非についての質問に対し、今後検討しなければならない問題と回答されていたのが印象的でした。
 神籠石山城がいつ頃から建設が始まったのかという質問には、倭の五王の時代や多利思北孤の時代には有明海側からの防衛も必要になったと説明されました。
 平将門が神のお告げにより「新王」と称したとされていますが、これも九州王朝に淵源・関係するのではないかという質問に対し、面白いご意見なので深めてほしいと返答されました。
 その後は質問よりも「決意表明」や「意見発表」が続き、いろいろと考えさせられました。というところで、夕食の時間になりました。
 食後に古田先生の控え室にうかがい、『古代に真実を求めて』18集掲載用の古田先生へのインタビュー(古田・家永論争の思い出)の打ち合わせを行いました。光河さんや『古代に真実を求めて』編集責任者の服部静尚さんも同席されました。

 午後7時からは「夜の部」の始まりです。入り口で缶酎ハイが参加者に配られ、いよいよセミナーも佳境に入るのかと思い、 気を引き締めました。各人のデスクの上にはお菓子も用意されており、初参加のわたしには驚くことばかりです。さすがに先生のお話をお酒を飲みながら聞くのは、わたしにはできませんでしたので、缶酎ハイはそのまま持ち帰ることにしました。

 「夜の部」では、倭人伝や親鸞研究についての最新情報の紹介から始められました。そして、秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)をテーマに講演され、和田家文書の寛政原本の調査発見について、現在は絶好のチャンスであると話されました。和田喜八郎さんの祖 父・長作さんが隠した寛政原本がどこかにあるはずで、それら寛政原本の本来の持ち主は総理大臣の安倍さんであると言えないこともないと指摘されました。和田家文書は秋田孝季が書いた「安倍文書」というべきものというのが、その理由です。つまり、三春藩の秋田家(安倍・安藤一族の子孫)が孝季に命じて安倍・ 安藤の歴史を綴らせた文書が「和田家文書」として現在まで伝わっているわけです。
 次のテーマは「紫宸殿」地名。「紫宸殿」「大極殿」などという地名は誰かが勝手につけられるものではないとされ、太宰府や愛媛県にある「紫宸殿」地名も歴史事実(九州王朝の実在)の痕跡とされました。
 「宗教と国家の死滅」をテーマとして、宗教にも国家にも始まりがあり、終わりがあるというのが秋田孝季の思想であり、これは正しいと思うと述べられまし た。そして、原水爆は人間が作ったものであり、国家がこれを使用できると考えられているが、これは間違っていると指摘されました。人間が作った宗教や国家に、原水爆や原発で人間を殺す権限が与えられているとは思えないとされました。もはや人類は戦争をできる時代ではないと主張され、宗教や国家が原水爆や原 発を自由に作ってもよいという思想はもはや時代遅れと述べられました。
 更に先生の思考は深く深く進まれ、地獄に落ちる方法を考えているうちに、天国と地獄、神と悪魔とかの概念は本来同じもの、表裏一体ではないかと考えるようになったとのこと。

 以上で先生の講義は終わり、質疑応答が再開されました。安藤昌益と和田家文書の思想は共通しているように思うが関係はないのかという質問が出され、両者が知り合いであったという直接的な証拠は見ていないが、関係はあると考えられると返答されました。
 炭素同位体年代測定に関する新知見はないかという質問には、稲作の年代測定で博多湾岸や松浦半島が古く、次いで高知県足摺近辺が古く、その後に大和が古いとなっていることが紹介されました。なぜ足摺近辺が古いのか不明とされているが、古田説では足摺が倭人伝に見える侏儒国とされ、このことと無関係ではないと説明されました。

 午後8時30分になり、ようやくセミナーは終了となりました。古田先生がお疲れになられたのではと心配しましたが、無事お開きです。連日の出張で、わたしも疲れましたが、ご高齢の古田先生のお姿には改めて深く感銘しました。
 その後、門限の10時までラウンジで多元的古代研究会の皆さん、古田史学の会・四国や関西の皆さんと古代史論議を続け、とても楽しく貴重な時間を過ごすことができました。文字通り「古代史自由自在」の一日でした。これから、お風呂に入り就寝します。


第804話 2014/10/17

「反知性主義」に抗して

        なにをなすべきか

 佐藤優さんの『「知」の読書術』に指摘されているように、「反知性主義者」(大和朝廷一元史観の日本古代史学界)は「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもない」のであれば、わたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。

 佐藤さんは同書の中で、レーニンの『なにをなすべきか』(わたしも青年時代に読んだことがありますが、恥ずかしながら深く理解できませんでした)をはじめ、さまざまな著作を紹介し、最終的に「中間団体を再建することが重要だ」と指摘され、その中間団体とは「宗教団体や労働組合、業界団体、地域の寄り合いやサークルなどのこと」とされています。そして次のように締めくくられました。

 「フランスの哲学者シャルル・ド・モンテスキュー(1689~1755)は、三権分立を提唱した人物として知られていますが、彼はまた中間団体の重要性を指摘しています。すなわち、国家の専制化を防ぐには、貴族や教会といった中間団体が存在することが重要だということを言っているのです。
中間団体が壊れた国では、新自由主義によってアトム化した個人が国家に包摂されてしまいます。そうなると、国家の暴走に対する歯止めを失ってしまう。その手前で個人を包摂し、国家の暴走のストッパーともなる中間団体を再建することこそ、現代の最も重要な課題なのです。」(99頁)

 ここで佐藤さんが展開されている現代政治や国家問題とは次元やスケールは異なりますが、わたしたち「古田史学の会」もこうした中間団体の一つのように思われます。そうであれば、「市民の古代研究会」の分裂により組織的に縮小再出発した「古田史学の会」を少なくとも当時の規模程度(会員数約1000名)にまで「再建」することも重要課題として浮上してきそうです。そのための新たな施策も検討していますが、これからも全国の会員や 古田ファンの皆さんのお力添えが必要です。「古田史学の会」役員会などで検討を重ね、実現させたいと願っています。

(只今、東北出張からの帰りの新幹線の車中ですが、冠雪した美しい富士山が見え、心が癒されます。)


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第798話 2014/10/04

火山列島の歴史と悲劇

 御嶽山噴火により大勢の犠牲者が出ました。心よりご冥福をお祈りします。火山列島に住むわたしたち日本人の悲劇と言わざるを得ませんが、噴火予知連絡会々長の東大教授のテレビでの発言と態度には驚きを通り越し、怒りさえ覚えました。
 マスコミは噴火を「予知できない」ということを問題にしているようですが、それはおかしいと思います。今回の悲劇は「予知できない」ことが問題ではなく、「予知した」ことが問題の本質です。当時、御嶽山は「レベル1」(安全に登山できる)と「予知」されていたのです。しかし、事実は連絡会々長の東大教授がテレビで開き直っていたように、御嶽山の噴火は「予知できない」ということだったのですから、予知できないのにレベル1と「予知した」ことが問題の本質なのです。レベル1という「予知」を信じて登山した多くの方々が犠牲となれらたのですから。(日本の火山で比較的「予知できる」のは北海道の有珠山など わずかのようです)
 学者はできないことをできると言ってはなりません。わからないことをわかると言ってはなりません。安全ではないものを安全と言って福島原発は爆発したのですから、御用学者がどれほど社会に悲劇をもたらすのかを日本人は知ったはずです。噴火を予知できないのなら、「レベル1」などと言ってはならず、「レベ ル」付けすることをも、真の学者なら「予知できないのだから、してはならない」と言うべきなのです。
 その東大教授が国からどのくらい「お金」をもらっているのかは知りませんが、あまりにも不誠実です。学者としての倫理観を疑わざるを得ません。少なくともわたしが見たテレビ放映では一言も謝罪していませんでした。「予知できないのだから登山した者の自己責任」と言わんばかりの口調でした。
 さらに不可解なのがマスコミの姿勢です。何の犯罪も犯しておらず、誰一人として被害にあっていないにもかかわらず、小保方さんや笹井さんに対しては叩きに叩き、小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し全治二週間の怪我を負わせ、笹井さんを自殺に追い込みました。NHKや関西民放、毎日新聞を筆頭とするそのマスコミは、御嶽山噴火で大勢の犠牲者を出したのに相手が東大教授だと、見て見ぬふりです。「理研を解体しろ」と言ったのなら「予知連絡会を解体しろ」と言うべきです。NHK・マスコミの見識を疑います。
 日本列島の歴史が火山噴火と深くかかわってきたことを古田先生はたびたび指摘されてきました。たとえば、世界最古の土器「縄文式土器」が日本列島で誕生したことは偶然ではなく、火山の影響によるとの論理的仮説を発表されました。すなわち、火山の熱が土を堅くするという「天然の窯」の現象を見る機会があった日本列島の人々だからこそ、火山をお手本にして他の地域に先駆けて土器を造ることができたのではないかと古田先生は考えられたのです。
 そしてその縄文式土器が中南米(ペルー・エクアドル・他から出土しています)まで伝播したのも、火山噴火により日本列島から船で中南米まで脱出した縄文人がいたことが発端になったのではないかと考えられました。
 また、古代文明が筑紫や出雲で花開いた理由の一つが、南九州での火山噴火により西日本の広い地域に火山灰(アカホヤなど)が降り注いだことではないかとされました。その火山灰の被害をまぬがれたのが西日本では北部九州(筑紫)と出雲地方だったからです。
 古代史で火山といえば『隋書』イ妥国伝の「阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接す」の一文が有名でしょう。火山噴火の様子がリアルに表現されています。このように九州王朝は火山と「共存」してきたのです。歴史学でも火山学でも、真実を語る真の研究者・学者が御用学者に取って代わり、日本の学問 の主流となる日を目指して、わたしたち古田学派は歩んでいきたいと思います。


第794話 2014/09/28

東海道新幹線開業50周年雑感

 今年の10月で東海道新幹線は開業50周年を迎えます。わたしが小学生のときの開業で「夢の超特急ひかり号」のテレビ映像は今でもよく覚えています。今は出張で年間100回以上は新幹線を利用していますが、早いし安全で快適ですから、新幹線はとても重宝しています。
 お聞きしたところでは、古田史学の会の水野代表は現役時代(日本ペイント)に新幹線の塗料の開発に関わられ、試作車両の塗装に立ち合い、開業初日に乗車されたとのこと。時速200kmで走る車体の塗装ですから、衝撃に耐える厚みや、日光(紫外線)に耐える耐光堅牢度、そして風雨にさらされても錆びない、 汚れにくい、洗浄で汚れが落ちやすいなどという、かなり困難な諸条件をクリアさせなければなりませんから、とても困難な塗料開発と塗装技術開発だったことがうかがわれます。わたしも仕事で染料や機能性色素開発に関わっていますから、50年前の化学技術水準を考えると、そのご苦労が忍ばれます。
 東海道新幹線の「東海道」という名称は古代の官道に由来しているのですが、その出発点が近畿ですので、九州王朝滅亡後に近畿天皇家による命名と考え来ました。しかし、前期難波宮九州王朝副都説により、7世紀中頃(評制施行時期)であれば九州王朝による命名とできるかもしれません。肥沼孝治さん(古田史学 の会・会員、所沢市)が九州王朝による古代官道造営説を研究されています。この命名主体について、古田学派内での研究の進展が期待されます。