現代一覧

第433話 2012/07/03

『「九州王朝」の研究』(仮称)の出版企画

先日、ミネルヴァ書房の田引さんとお会いし、新たな書籍出版の企画について話し合いました。田引さんからは、古田史学に基づいた各地の遺跡や遺 物・博物館などの「歴史散歩」ガイドブックを古田史学の会で編集してほしいとの御提案をいただきました。もちろん大賛成ですので、古田史学の会の役員会に はかることをお約束しました。
田引さんとの打ち合わせの結果、まずは「九州編」から始めることになりそうです。来年秋には脱稿して欲しいとのことですので、編集チーム作りと現地会員 への協力要請を行い、取り上げるスポットの選考を行うことになるでしょう。「九州編」が成功したら、次は「近畿編」「東海編」「関東編」「東北・北海道 編」「中国・四国編」などへと発展できれば素晴らしいと思います。従来から、古田史学による遺跡の紹介・解説をした書籍発行への要望が大きかったので、是 非、実現できればと思います。
わたしからは、昨年末発行していただいた『「九州年号」の研究』の姉妹編として、『「九州王朝」の研究』(仮称)の発行を提案しました。前著は「九州年 号」という切り口で九州王朝の実像に迫りましたが、『「九州王朝」の研究』では、多面的な視点から九州王朝の全体像に迫りたいと考えています。具体的に は、この20年間での九州王朝研究における優れた論文を採録し、九州王朝史年表や新たに発表される最新の論稿も掲載したいと考えています。
完成まで数年かかると思いますが、皆さんのご協力をお願いします。


第407話 2012/04/22

鹿島神は地震の神様

最近、地震研究者の都司嘉宣さん(つじよしのぶ・元東京大学地震研究所)の研究を知る機会がありました。都司さんは高名な地震学者ですが、地震の歴史を調査研究するという、歴史地震学という分野でも活躍されています。
中でもわたしが感心したのは、フィールドワークを大切にされているという研究姿勢です。「歴史は脚にて知るべきものなり。」(秋田孝季)に通じるもので す。具体的な研究テーマとしては、地震の神様の研究に注目しました。鹿島神社が地震の神様として信仰されているという指摘と、その神様の全国分布調査に は、古田史学と相通じるものを感じたのです。
その都司さんの論文『歴史地震』第八号掲載の「地震神としての鹿島信仰」(1992年)を是非読みたいと願っています。どこの図書館にあるか調査中です。
広瀬・竜田の神が風や水の神様であり、日本書紀の天武紀などによく現れるのは有名ですが、地震の神様の存在など、祭神研究以外にその神様の効能研究という分野も面白いものだと思いました。どなたか、研究されてみてはいかがでしょうか。
なお、都司さんは古田先生が立ち上げた「国際人間観察学会」に もご協力いただいており、同会会報「Phonix」No.1(2007)にも寄稿されています(Similarity of the distributions of strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka plain and the ancient Kawachi Lagoon)。本会ホームページからも閲覧できますので、英語に堪能な方は是非ご覧ください。


第401話 2012/04/03

Youtubeに古田先生の動画掲載

 「古田史学の会」総務の大下隆司さんから古田先生のラジオ放送の様子がYoutubeに掲載されているとの連絡が入りましたので、ご紹介します。
 昨年、西宮のローカルFM局「さくらFM」で12回に分けて古田先生の「日本の本当の歴史」の収録が行われ、順次放送されていますが、ようやく10回分 まで放送がおわり、その収録風景がYoutubeに掲載されました。タイトルは次の通りです。

 “伊藤恭と輝く瞳ラジオ~日本の本当の歴史第1回「北と南の潮流」”
Youtubeで「古田武彦」を入力すると第1回~第10回までの分が出てきます。第11回目と第12回目は4月に放送され、放送が終わったら順次掲載される予定です。

「日本の本当の歴史」

1, 「北と南の潮流」
2, 「磯を求めて」
3, 「二倍年歴」
4, 「俾弥呼の実像(その1)」
5, 「俾弥呼の実像(その2)」
6, 「俾弥呼の実像(その3)」
7 , 「崇神天皇の時代」
8 , 「倭の五王と磯城宮」
9 , 「東北王朝」
10, 「日出ずる処の天子」
11,「九州年号」
12, 「”大化の改新”の虚実」

是非見て下さい。


第399話 2012/04/01

本居宣長の門人たち

わたしが本居宣長に興味を抱いた理由は、その学問的業績だけではなく、江戸時代には在野の研究者であった宣長やその学説 が、明治維新後には新政府の学問の主流となったという歴史事実にありました。わたしたち古田学派が将来の日本において歴史学の主流となるために、何をしな ければならないのか、何が必要なのかを考えるための参考として、本居宣長に興味を抱いたのです。
今回、本居宣長記念館を訪問し、同記念館編集の『本居宣長の不思議』という本を購入しました。本居宣長の人生や学問がわかりやすくまとめられており、初 心者にも読みやすい良本です。この本の最後の方に宣長の門人一覧と現在の県別の門人数が記されています。三重県の220人を筆頭に北は北海道から南は宮崎 県までのべ513人の分布図と氏名が記されており、宣長の名声が全国に広がっていたことがわかります。
「古田史学の会」の会員数も約500名ですから、偶然とは言え不思議な縁を感じます。もちろん、江戸時代と現代では交通手段も情報量や伝達速度も比較になりませんが、在野にある古田学派にとって励まされるものではないでしょうか。
この国で古田史学・多元史観がどのように認められ受け入れられるのかは、今のわたしにはわかりませんが、体制や世俗に迎合するのではなく、真実と学問が 持つ力を信じて、研究活動と宣伝顕彰を進めていきます。そして、百年後には「古田武彦記念館」が作られるよう頑張っていきたいと思っています。


第391話 2012/03/03

和田家文書の「稲作伝播」伝承

第370話「東北水田稲作の北方ルート伝播」で佐々木広堂さんらの論文をご紹介しました。東北地方への稲作は沿海州から伝播したという説ですが、その佐々木さんから一枚のファックスが届きました。その 中で、東北への稲作が九州からではなく、中国から伝わったとする伝承が和田文書に記されていることが指摘されていました。
このことを既に佐々木さんは『古代に真実を求めて』第9集(明石書店、2006年)に掲載された「東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北 部・ロシア沿海州から伝わったーー封印された早生品種と和田家文書の真実」で発表されています。わたしはその論文の内容の詳細を忘れていたのですが、 佐々木さんからのファックスで紹介していただき、再読しました。
同論文によれば、和田家文書の『東日流六郡誌大要』(八幡書店、554頁)に次のような記事があります。
「耶馬台族が東日流に落着せしは、支那君公子一族より三年後の年にて、いまより二千四百年前のことなり。~彼等また稲作を覚りし民なれど持来る稲種稔らず。支那民より得て稔らしむ。」
津軽に耶馬台族の持ってきた稲は実らず、支那の民より得た稲は実った、という記事ですが、おそらく日本列島の西南部(近畿か九州)から伝来した稲は寒さ で実らず、支那(大陸)の稲は早生種であったため、寒い津軽でも実ったという伝承が記されているのです。弥生時代の青森へ、大陸の早生種が伝来したという 佐々木さんの説と同じことが和田家文書に記されていたのです。
もちろん、和田家文書にはこの他にも津軽への稲作伝来に関する様々な異説が記されていますが、それらの中に佐々木さんの研究結果と同じ伝承が残っていた ことは驚きです。稲作の伝来一つをとっても、和田家文書の伝承力・記録量は素晴らしいものがあります。偽作論などに惑わされることなく、学問的な和田家文 書の史料批判と研究が期待されます。


第390話 2012/03/01

好評!「古田武彦コレクション

 ミネルヴァ書房より、同社の「新刊案内」3月号が送られてきました。そこに「ミネルヴァ書房の売れ行き良好書」というランキングコーナーがあり、人文科学のベストファイブが紹介されているのですが、なんと古田先生の『古代は沈黙せず』が4位、福與篤著・古田武彦解説『漫画「邪馬台国」はなかった』が5位と、古田先生関係書籍が二つもランキング入りしていました。古田先生の根強い人気と、ミネルヴァ書房の「古田武彦コレクション」シリーズが好評であることがうかがえます。
 この「新刊案内」によると、「古田武彦・古代史コレクション10」として『真実の東北王朝』が刊行されるとのこと。この本はわたしにとって、いろんな意 味で思い出深い一冊です。学問的には多賀城碑の史料批判や、東北王朝の提起など、古田史学・多元史観にとって重要な本なのですが、古田先生が初めて著書で 和田家文書『東日流外三群誌』を紹介された本でもあります。
 和田家文書偽作キャンペーンが勃発したとき、この『真実の東北王朝』と古田先生はマスコミも含めた偽作論者からの猛烈なバッシングを受けました。邪馬壱 国説・九州王朝説に対して、学問的に有効な反論ができなかった一元史観の学者たちが、ここぞとばかりに古田叩きを始めたのです。今から思い出しても、それ はひどいものでした。
 そのとき、古田先生の支持者や、支持団体の中からも古田叩きに同調する人物が何人も現れました。あるいは、中立を装いながら、実は古田先生から距離をお きはじめた自己保身の輩(やから)もいました。このとき、わたしはまだ三十代でしたが、「兄弟子」と思っていた多くの人々が古田先生から離れていくのを眼 前にして、「何という人たちだ。恩知らずにもほどがある。」と怒りに身を震わせたものでした。
 こうしたことが一因となって、わたしは水野さんらと共に「古田史学の会」を立ち上げ、古田先生と一緒に偽作キャンペーンや大和朝廷一元史観と戦うことを 決意し、自分の半生を古田史学に捧げる道を選びました。そして、今はその時の決断が正しかったと実感しています。運命(使命)と行動を共にする
 多くの同志と出会えたからです。これも「偽作キャンペーン」「古田バッシング」のおかげと、皮肉ではなく本気で思っています。あの試練を経て、「古田史学の会」が誕生し、古田学派は力強く発展したからです。


第389話 2012/02/26

パソコンがクラッシュ

永年愛用してきたデスクトップパソコンが、昨日とうとうクラッシュしてしまいました。バックアップしていないデータが大 量に失われれてしまい、どのような問題が発生するか調査しています。当面はインターネット用に使っているノートパソコンとテキスト入力専用機のポメラで対応していきます。
ミネルヴァ書房より発刊予定の二倍年暦に関する既報論文のデータも失われましたが、こちらは「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」に掲載してい ましたので、そこからデジタルデータを取り出せます。思わぬところでホームページが役立ちました。
発行予定の二倍年暦の本ですが、古田先生と相談の結果、私の論文と大越邦生さんが現在書かれている論文とで構成することになっています。まだ具体的な書名や発刊時期は決まっていませんが、古典に記された古代人の長寿の謎に、二倍年暦という視点で解明したものとなるでしょう。こちらも『「九州年号」の研究』同様に後世に残る一冊になればと願っています。


第383話 2012/02/10

ジャパン・ヤーン・フェア

昨日今日と、愛知県一宮市で開催され第9回ジャパン・ヤーン・フェアを見学してきました。一宮市は繊維織物の町として有名で、羊毛加工では日本一の生産地です。おそらくきれいな水に恵まれた地であったため、繊維加工が明治以降に盛んになったものと思われます。
今回の第9回ジャパン・ヤーン・フェアでも、ご当地(尾州)の繊維加工技術が世界一のレベルであることを実感させる、すばらしい織物や衣服が展示されて いました。中にはどうやってこんな複雑な構造を持った生地ができるのだろうかと、素人には想像もできない斬新な織物やニットの展示もありました。
弥生時代の日本列島において、絹織物の先進地域が北部九州(博多湾岸や佐賀県吉野ヶ里)であることは著名です。三国志倭人伝では中国からの下賜品や倭国 からの献上品に絹織物が多数記されています。たとえば「紺地句文錦」「白絹」などで、これら中国絹が出土した弥生遺跡は福岡県の須久岡本遺跡ですし、倭国 産の絹の出土も福岡県と佐賀県だけです。近畿の弥生遺跡からは出土していません。
「邪馬台国」論争で、しばしば「考古学的には近畿説で決まり」などと口走る方がいますが、わたしには全く理解不能な妄言としか思えません。倭人伝に記さ れた倭国の様々な文物(鉄器・銅矛などの青銅器鋳型・弥生時代の銅鏡・他)の出土は、北部九州・糸島博多湾岸を中心とした分布を示しています。考古学が学 問であり科学であるのならば、そしてその考古学者に学問的理性と良心があるのならば、「考古学的にも邪馬壱国は博多湾岸で決まり」と言うほかないはずなの です。
ジャパン・ヤーン・フェアを見学しながら、そのようなことを改めて感じました。日本古代史学も、はやく尾州の織物産業のように、世界レベルになってほし いものです。そのためには「日本古代史村」も現代日本の繊維産業のように、世界との競争原理にさらされる必要があるようです。


第380話 2012/02/02

聖徳太子と九州年号

先日、NHKのBS放送で聖徳太子の特別番組が放送されたそうです。事前に何人かの会員の方からその番組のことをお知ら せいただいたのですが、あいにく我が家のテレビではBS放送は映らず、同番組を見ることができませんでした。放送を見た人のお話では、あいかわらず近畿天 皇家一元史観による「陳腐」な内容だったようです。
ちょうど良い機会ですので、聖徳太子と九州年号が意外と関係が深いというテーマについてご紹介したいと思います。
たとえば後代に編纂された『聖徳太子伝』などの聖徳太子の伝記類には、九州年号の「金光」「勝照」「端政」などが散見されます。おそらく、九州王朝の天 子・多利思北弧やその太子、利歌彌多弗利の九州年号付きで記された年代記を盗用する際、九州年号がそのまま残されたものと推察しています。
さらに、法隆寺にも九州年号が記された文書が存在しているようなのです。それは「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているもので、X写真によれば、その箱の中 に3枚の文書が入っており、それらは聖徳太子と善光寺如来との間で交わされた書簡とされています。その内、1通は国立東京博物館に明治時代の写しが現存し ています。他の2通の内容は不明です。
法隆寺側は「御文箱」を永久に封印する方針とのことなので、その聖徳太子の書簡を見ることはできないのですが、残りの2通に九州年号が記されている可能 性が濃厚なのです。そこで、何とかその往復書簡の内容を調べたいと思い、わたしは善光寺側の史料を調査したのですが、なんと善光寺側はそれら書簡を公開し ていたのでした。
詳しくは拙論「九州王朝仏教史の研究」(『「九 州年号」の研究』に収録)を読んでいただきたいのですが、聖徳太子からの手紙に「命長七年」という九州年号が記されていたのです。すなわち、聖徳太子と善 光寺如来の往復書簡とは九州王朝の天子と善光寺との書簡だったのです。おそらく、それら書簡が法隆寺移築時か後に法隆寺にもたらされ、聖徳太子の書簡とし て伝来されたようです。
このように聖徳太子と九州年号は結構関係が深いのですが、こうした史料状況は聖徳太子伝説の多くが九州王朝の伝承だった可能性を強く感じさせるのです。


第375話 2012/01/15

「これから出る本」

昨日の賀詞交換会に相模原市から参加された冨川ケイ子さんから面白いパンフレットをいただきました。「これから出る本」(2012年No.2、日本書籍出版協会)というもので、近々発刊される本を紹介するものです。
その歴史図書の欄に『「九州年号」の研究』が紹介されていたのですが、同じ欄に久保常晴著『日本私年号の研究(新装版)』(吉川弘文館、14700円) も掲載されていました。この本は九州年号研究者であれば知らない人はいないという一冊なのです。九州年号偽作説に立っていますが、九州年号史料をが多数紹 介されており、史料調査に大変役立ちました。わたしが研究を始めた20年前には既に市販されていませんでしたので、京都府立総合資料館で長時間閲覧したも のでした。
このような古代や中世の逸年号の研究書が復刻発刊されるということに驚きましたが、おそらく九州年号に対する興味が古代史ファンに広がっている反映だと 思われます。古田説や九州王朝説が確実に浸透していることが、このことからもうかがえます。2012年が古田史学にとって画期となる年となる予感がしてい ます。


第373話 2012/01/13

『「九州年号」の研究』編集後記

 今日は大阪で仕事をしています。お昼休みを利用して、紀伊国屋書店(本町店)をのぞいてきました。もちろん目的は『「九州年号」の研究』がおいてあるかどうかの確認です。その結果は、幸いなことに何と古代史コーナーに平積みで並んでいました。ありがたいことです。わたしは紀伊国屋書店が大好きになりそうです。
 ミネルヴァ書房の田引さんの話では、『「九州年号」の研究』は順調に売れているそうです。そこで、田引さんのご了承を得ましたので、『「九州年号」の研究』の編集後記を転載します。まだお読みになっていない方に、同書の概要をご理解いただけると思いますので。

『「九州年号」の研究』編集後記

 古田武彦先生が日本古代史学の分野に多元史観を提唱され、その中核をなす九州王朝説はそれまでの大和朝廷一元史観の閉塞を打ち破り、真実の古代史像をわたしたちの眼前に示されたのであるが、その主要テーマの一つが九州王朝(倭国)の年号「九州年号」であった。
 以来、古田先生を初め古田説支持者による九州年号研究は、各地に遺存する九州年号や九州年号史料の調査発掘という第一段階を経て、その年号立ての原形論研究という第二段階へと発展したのであるが、『二中歴』所収「年代歴」の九州年号が最も原形に近いとする一定の「結論」を迎えた後は、その九州年号に基づいた九州王朝史の究明というテーマを中心とする第三段階へと進んだ。本書はその第三段階での主たる研究論文などにより構成されている。
 本書には、正木裕さんと冨川ケイ子さんの秀逸の論文を収録できた。お二人は「古田史学の会」における優れた研究者であり、わたしも関西例会などで繰り返し意見を闘わし、共に研究を進めてきた学問的同志である。
 正木さんの、九州年号を足がかりとした『日本書紀』の史料批判による九州王朝史復原研究は、近年の古田学派における質量ともに優れた業績である。冨川さんによる、明治時代における九州年号研究の発掘は、古写本「九州年号」の実在を鮮明にしたものであり、同写本の再発見をも期待させるものである。
 最近の十年間における最も大きな九州年号研究の成果といえば、やはり「元壬子年」木簡の「発見」であろう(芦屋市三条九ノ坪遺跡、一九九六年出土)。当初、この木簡は『日本書紀』の白雉年号にあわせて「三壬子年」と解読されてきたが、わたしたちによる再検査により、その文字は「元壬子年」であり、『二中 歴』などに記されている九州年号の白雉元年壬子(六五二)に相当する九州年号木簡であることが判明したのである。
 同木簡の写真と赤外線写真(大下隆司さん撮影)を本書冒頭に掲載した。九州王朝や九州年号を認めない大和朝廷一元史観の古代史学界はこの九州年号木簡の 「発見」に対して、今も黙殺を続けているが、それでこの木簡が消えて無くなるわけではない。九州王朝と九州年号の真実の歴史の「生き証人」として、この木 簡は古代史学界を悩ませ続けるに違いない。
 本書の序文は「古田史学の会」代表水野孝夫さんからいただいた。水野さんもまた「古田史学の会」草創の同志であり、人生の先輩でもある。本書を「古田史学の会」の事業として出版することに御賛同いただいたものであり、感謝に堪えない。古田先生からは巻頭論文を新たに書き下ろしていただいた。ありがたい御配慮である。
 わたしが古田武彦先生の著作に感銘し、その門を叩いたのは今から二五年前のことである。以来、古田先生の学説や学問の方法に学び、主たる研究テーマの一 つとして九州年号の研究に没頭してきた。その二五年間の集大成ともいうべき本書を上梓することにより、学恩に僅かでも報いることができれば、まことに幸いとするところである。
二〇一一年七月二四日記    古賀達也


第372話 2012/01/11

八重洲ブックセンター

東京から名古屋に向かう新幹線の車中にいます。今日のお昼に、東京駅八重洲口にある有名な書店、八重洲ブックセンターに 寄りました。目的は『「九州年号」の研究』がおいてあるかの確認です。というのも、正月明けに名古屋の知人から、名古屋駅ビルにある大型書店の三省堂に 『「九州年号」の研究』が並んでいないとの連絡があったからです。それでちょっと心配になり、出張を利用して八重洲ブックセンターに行くことにしました。
四階(だったと思います)の古代史コーナーに古田先生のコーナーがあり、そこに『「九州年号」の研究』が先生の著作とともに並んでいました。「古田史学 の会」の会誌『古代に真実を求めて』も全巻そろえてあり、改めて古田先生の人気と存在感を実感したしだいです。(名古屋に着いてから駅ビル11階にある三省堂書店ものぞきましたが、『「九州年号」の研究』があり一安心でした。)
「古田史学の会」の事業の一環として、来年度からは『「九州年号」の研究』の全国主要図書館や大学図書館への寄贈も検討していきたいと思います。大和朝 廷一元史観に風穴をあけるため、古代史ファンの目に入る場所へ「九州王朝」説や「九州年号」説を届けたいと考えています。皆様のご協力もよろしくお願いい たします(ご近所の図書館へ推薦してください)。