現代一覧

第1314話 2016/12/30

「戦後型皇国史観」に抗する学問

 藤田友治さん(故人、旧・市民の古代研究会々長)が参加されていた『唯物論研究』編集部からの依頼原稿をこの年末に集中して書き上げました。市民の日本古代史研究の「中間総括」を特集したいとのことで、「古田史学の会」代表のわたしにも執筆を依頼されたようです。
 今日が原稿の締切日で、最後のチェックを行っています。論文の項目と最終章「古田学派の運命と使命」の一部を転載しました。ご参考まで。

「戦後型皇国史観」に抗する学問
-古田学派の運命と使命-
一.日本古代史学の宿痾
二.「邪馬台国」ブームの興隆と悲劇
三.邪馬壹国説の登場
四.九州王朝説の登場
五.市民運動と古田史学
六,学界からの無視と「古田外し」
七.「古田史学の会」の創立と発展
八.古田学派の運命と使命
(前略)
 「古田史学の会」は困難で複雑な運命と使命を帯びている。その複雑な運命とは、日本古代の真実を究明するという学術研究団体でありながら、同時に古田史学・多元史観を世に広めていくという社会運動団体という本質的には相容れない両面を持っていることによる。もし日本古代史学界が古田氏や古田説を排斥せず、正当な学問論争の対象としたのであれば、「古田史学の会」は古代史学界の中で純粋に学術研究団体としてのみ活動すればよい。しかし、時代はそれを許してはくれなかった。(中略)
 次いで、学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。
古田氏が邪馬壹国説や九州王朝説を提唱して四十年以上の歳月が流れたが、古代史学者で一人として多元史観に立つものは現れていない。古田氏と同じ運命に耐えられる古代史学者は残念ながら現代日本にはいないようだ。近畿天皇家一元史観という「戦後型皇国史観」に抗する学問、多元史観を支持する古田学派はこの運命を受け入れなければならない。
 しかしわたしは古田史学が将来この国で受け入れられることを一瞬たりとも疑ったことはない。楽観している。わたしたち古田学派は学界に無視されても、中傷され迫害されても、対立する一元史観を批判検証すべき一つの仮説として受け入れるであろう。学問は批判を歓迎するとわたしは考えている。だから一元史観をも歓迎する。法然や親鸞ら専修念仏集団が国家権力からの弾圧(住蓮・安楽は死罪、法然・親鸞は流罪)にあっても、その弾圧した権力者のために念仏したように。それは古田学派に許された名誉ある歴史的使命なのであるから。
本稿を古田武彦先生の御霊に捧げる。
(二〇一六年十二月三十日記)


第1312話 2016/12/22

上賀茂神社の「白馬節会」

 今朝、京都駅に向かう京都市バスの中で、京都市交通局が発行しているリーフレット「おふたいむ」を読みました。2017年新年号で表紙には上賀茂神社の社殿風景が掲載され、同神社の新年の神事「白馬節会」の紹介記事がありました。そこには次のように記されていました。

 「1月中は多彩な行事が予定されており、元日から5日までの天候のよい日には、10時から15時頃まで神馬「神山号」が登場。7日の10時からは白馬奏覧神事(はくばそうらんしんじ)が行なわれる。これは年始に白馬を見ると一年の邪気が祓われるという宮中行事『白馬節会(あおうまのせちえ)』にちなんだものだ。」

 「白馬節会」と書いて「あおうまのせちえ」と訓むのですが、これは古代から行われている伝統行事です。「白馬節会」という言葉は古代史研究においてときおり古典で目にしており、「白馬」と書いて「あおうま」と訓むことに興味をひかれていました。その理由には諸説あるようで、わたしにも当否はわかりませんが、わたしの専門分野である染料化学や染色化学では、偶然のことかもしれませんが思い当たる節があります。
 テキスタイル業界では白い衣服をより白く見せる技術として蛍光増白剤を用いたり、黄ばみをごまかすために反対色の青色染料で薄く染色するという裏技があります。人間の目では黄色よりも青色の方が白っぽく感じるという性質を利用したものです。そこで古代でも濃度によっては「青」を「白」と感じていたのかもしれず、そのため「白馬」を「あおうま」と呼んだのではないかと考えています。もちろん史料根拠を見つけたわけではありませんので、今のところ思いつき(作業仮説)に過ぎません。
 色彩に関する日本語には不思議な表現が少なくありません。たとえば「緑の黒髪」という表現。これでは髪の色が「緑」なのか「黒」なのかはっきりしない表現です。「青息吐息」もそうです。青い色した「息」など見たことがありません。寒い日に吐く息は「白」だと思うのですが、先の「白馬節会」と同様に「白」を「あお」とする表現です。日本語は不思議ですね。


第1311話 2016/12/17

東大入試問題「古代」編に解答例

 「洛中洛外日記」1307話「東大入試問題『古代』編に注目」で紹介した次の問題に対する同書の解答例を転載します。

【問題】
 次の文章を読み、左記の設問に答えよ。

 西暦六六〇年百済が唐・新羅の連合軍の侵攻によって滅亡したとき、百済の将鬼室福信は日本の朝廷に援軍を求め、あわせて、日本に送られて来ていた王子余豊璋を国王に迎えて国を再興したい、と要請した。日本の朝廷はこれに積極的に応え、翌年豊璋に兵士を従わせて帰国させ、王位を継がせた。次いで翌六六二年には、百済軍に物資を送るとともに、みずからも戦いの準備をととのえた。六六三年朝廷はついに大軍を朝鮮半島に送り込み、百済と連携して唐・新羅連合軍に立ち向かい、白村江の決戦で大敗するまで、軍事支援をやめなかった。

 設問
 このとき日本の朝廷は、なぜこれほど積極的に百済を支援したのか。次の年表を参考にしながら、国際的環境と国内的事情に留意して5行(一五〇字)以内で説明せよ。

六一二 隋、高句麗に出兵する(→六一四)。
六一八 隋滅び、唐起こる。
六二四 唐、武徳律令を公布する。高句麗・新羅・百済の王、唐から爵号を受ける。
六三七 唐、貞観律令を公布する。
六四〇 唐、西域の高昌国を滅ぼす。
六四五 唐・新羅の軍、高句麗に出兵する。以後断続的に出兵を繰り返す。
六四八 唐と新羅の軍事同盟成立する。
六六〇 唐・新羅の連合軍、百済を滅ぼす。
六六三 白村江の戦い。
六六八 唐・新羅の連合軍、高句麗を滅ぼす。
(1992年度の東大入試に出題)

 【解答例】
 7世紀には隋・唐が中国を統一し、律令を完成させて国域の拡大を進めた。こうして国際的緊張が高まると、朝庭は百済の復興を支援して朝鮮半島での拠点の確保に努めた。また、国内でも改新の詔で掲げた目標が豪族の反発で進まない状況に、中央集権国家の建設を進めたい朝庭は、軍事動員により権力の集中を図ろうとした。

 著者によるこの解答例や同書解説を読むと、東大がこのレベルの解答を150字以内で過不足なく書ける学生を求めていることがわかります。恥ずかしながら、わたしが受験生の年齢の時、到底このような解答は書けなかったでしょう。なお解答例に見られるよう、古代も現代も国家が軍事動員(戦争)を行う理由が、国際環境と国内事情の双方にあることがわかります。
解答例の「朝庭」を「九州王朝」とすれば、それなりに優れた解答と思われますが、「大化改新詔」を『日本書紀』の記述通り7世紀中頃と理解していることは、古代史学界の大勢の見解(通説)を反映したものと思われます。しかし現在の古田学派の研究状況からすると、『日本書紀』孝徳紀に記された「改新詔」は九州年号の大化期(695〜703年)に公布されたものと九州年号「常色」の改新詔が混在しているとする正木裕説が有力ですから、この点は解答例の認識とは異なります。
 最後に同書の解答例を援用しながら九州王朝説による解答例をわたしなりに考えてみました。次の通りですが、もっと優れた解答例があると思いますので、皆さんも考えてみられてはいかがでしょうか。

【九州王朝説による解答例】
 7世紀には隋・唐が中国を統一し、国域の拡大(侵略)を進めた。こうして国際的緊張が高まると、倭国(九州王朝)は自国防衛と同盟国百済復興のため朝鮮半島に大軍を派兵した。国内では評制など中央集権国家の建設を進め、首都太宰府の防備を固め副都難波京を造営し、唐や新羅からの侵略に備えた。


第1307話 2016/12/10

東大入試問題「古代」編に注目

 先日、新幹線車内で読もうと京都駅の売店で『東大のディープな日本史【古代・中世編】』(相澤理著)を買いました。同書冒頭に紹介されている古代史の入試問題が注目されたので購入したものです。それは次の問題です。

次の文章を読み、左記の設問に答えよ。

 西暦六六〇年百済が唐・新羅の連合軍の侵攻によって滅亡したとき、百済の将鬼室福信は日本の朝廷に援軍を求め、あわせて、日本に送られて来ていた王子余豊璋を国王に迎えて国を再興したい、と要請した。日本の朝廷はこれに積極的に応え、翌年豊璋に兵士を従わせて帰国させ、王位を継がせた。次いで翌六六二年には、百済軍に物資を送るとともに、みずからも戦いの準備をととのえた。六六三年朝廷はついに大軍を朝鮮半島に送り込み、百済と連携して唐・新羅連合軍に立ち向かい、白村江の決戦で大敗するまで、軍事支援をやめなかった。

設問
 このとき日本の朝廷は、なぜこれほど積極的に百済を支援したのか。次の年表を参考にしながら、国際的環境と国内的事情に留意して5行(一五〇字)以内で説明せよ。

六一二 隋、高句麗に出兵する(→六一四)。
六一八 隋滅び、唐起こる。
六二四 唐、武徳律令を公布する。高句麗・新羅・百済の王、唐から爵号を受ける。
六三七 唐、貞観律令を公布する。
六四〇 唐、西域の高昌国を滅ぼす。
六四五 唐・新羅の軍、高句麗に出兵する。以後断続的に出兵を繰り返す。
六四八 唐と新羅の軍事同盟成立する。
六六〇 唐・新羅の連合軍、百済を滅ぼす。
六六三 白村江の戦い。
六六八 唐・新羅の連合軍、高句麗を滅ぼす。

 この問題は1992年度の東大入試に出題されたもので、わたしはこの中の「日本の朝廷」という表現に注目しました。通常であれば大和朝廷一元史観により「大和朝廷」とされるところですが、「日本の朝廷」という表現であれば、古田史学・九州王朝説にとっても穏当な設問として受け取れるのです。この問題を作成した人がそこまで考えて「日本の朝廷」という表現としたのかどうかはわかりませんが、さすがは東大の入試問題だと、妙に感心しました。
 1992年といえば、古田先生の九州王朝説が発表され学界に激震を与えて20年近く経ち、それに太刀打ちできず古田説無視を始めた頃ですから、入試問題も九州王朝説の存在を意識したうえで作られたものかもしれません。
 このような問題が高校生に出されたのですから、東大は、歴史の丸暗記ではなく自分で歴史事件の背景や事情を考えることができる学生を募集していることがわかります。一元史観の牙城として東大は表面的には微動だにしていません。しかし、インターネット時代の現代において、いつまで古田説無視が通用するでしょうか。(つづく)


第1244話 2016/08/02

「誰も知らなかった古代史」セッションのご案内

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が主催されている「誰も知らなかった古代史」セッションをご案内します。身近でフレンドリーな催しですから、初心者にもわかりやく、とても楽しい企画です。ご参加をお勧めします。

○第8回 9月23日(金)18時30分〜20時
「本当の邪馬「台」国」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長)

(場所)森ノ宮キューズモール(大阪市 中央区森ノ宮中央二丁目一番。JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩5分)の2階「まちライブラリー」。定員30名(参加費ドリンク代500円)。
※参加申し込みはメール babdc106@jttk.zaq.ne.jp まで。

○第7回 8月26日(金)18時30分〜20時
「こわくてゆかいな漢字」
【カタリスト】張莉さん(大阪教育大学特任准教授)

(場所)森ノ宮キューズモール(大阪市 中央区森ノ宮中央二丁目一番。JR大阪環状線森ノ宮駅西徒歩5分)の2階「まちライブラリー」。定員30名(参加費ドリンク代500円)。
※参加申し込みはメール babdc106@jttk.zaq.ne.jp まで。


第1239話 2016/07/28

理系の学会での論争

 今日は大阪で開催された繊維応用技術研究会に参加しました。同会の理事をしているので、座長なども仰せつかっています。
 今回の講演で最も面白かったのが、澤田和也さん(大阪成蹊短期大学教授)による「再生医療用材料としての動物毛由来タンパク質」で、豚の組織(心臓の弁など)を人間に移植する際に、界面活性剤で豚の細胞を構造タンパク(繊維質)から完全に除去しておくと免疫による拒否反応を押さえられるという研究でした。この「脱細胞化」した構造タンパクを人体に移植すると、その周りに人間の細胞が形成され、損傷した部位を再生できるというもので、この研究が完成すると、再生医療に大きく役立ちます。
 澤田さんの研究は更に進展し、豚の構造タンパクの代わりにコラーゲンやウールのケラチンを使用する方法、そして患者自らの毛髪から取り出したケラチンを使用することも検討されているとのこと。自らの毛髪ですとコストも安く、拒否反応も起こらないということでした。
 わたしは分子生物学は全くの素人ですが、とても刺激的な講演でした。分野が異なっても最先端研究は興味深く、面白いものです。本日の講演プログラムは下記の通りで、最後の上甲先生(椙山女学園大学教授、繊維応用技術研究会々長)のご発表で座長をさせていただきました。
 そこで発表された、繊維への染料の染色挙動に関する新仮説は、わたしが学んできた定説や実際の経験とは異なる部分を含んでいたので、その新仮説を証明する上において、提示された実験系の設定や実験条件は適切なのかという疑問をわたしはぶつけました。時間切れのため、その討論は二次会のお蕎麦屋さんでも続きました。
 このように理系の学会では理詰めの論争を行いますし、仮説と証明方法の因果関係の妥当性なども検討の対象とされます。しかし、実験データの改竄などはありえません。もし自説に都合良くデータを改竄したり、どうとでも言えるような都合の良いデータ解釈を行い、自説の根拠に使用するなどということは、まず起こりません。そんなことをしたら、即アウト、レッドカードです。ところが日本古代史学界は「邪馬壹国」を「邪馬台国」に、「南に至る」を「東に至る」にというデータ(倭人伝原文)改竄がほぼ全員で当たり前のように行われています。本当に不思議な学界というほかありません。

〔講演プログラム〕
①再生医療用材料としての動物毛由来タンパク質 澤田和也(大阪成蹊短期大学教授)
②静電気について(基礎編) 平井学(大阪府立産業技術総合研究所)
③X線による毛髪や羊毛の構造解析 伊藤隆司(花王株式会社)
④走査型プローブ顕微鏡による毛髪・羊毛の観察について 名和哲平(ホーユー株式会社)
⑤羊毛繊維の実用染色における染色温度と酸の作用 上甲恭平(椙山女学園大学教授)

 わたしのfacebookに、澤田さんの講演風景、澤田さん、上甲先生、京都大学原子炉実験所の川口昭夫さんらとの上本町のお蕎麦屋さんでの二次会風景を掲載していますので、ご覧ください。


第1234話 2016/07/17

大盛況!東海学園高校でのサマーセミナー

 本日開催された東海学園高校での「愛知サマーセミナー2016」は教室が満席となるほどの参加があり、大盛況でした。「教科書に書けない古代史」と銘打って、わたしからは「邪馬台国」の真実、石田敬一さんからは「教科書に書けない九州年号」、林伸禧さんからは「推古紀の真実」の講義がなされました。
 参加者の半数は高校生で、みんな熱心に聴いておられました。高校の元歴史の先生も参加されておられ、初めて聴く古田史学に共鳴していただけました。お住まいは伊丹市とのことなので、「古田史学の会」関西例会をご紹介しました。
 高校生の感想文もなかなか立派な内容でした。コピーをいただいたら、「洛中洛外日記【号外】」にてご紹介したいと思います。この子たちの中から、将来の古田史学を継承する研究者が出ることを願っています。終了後は近くの中華料理店で反省会を兼ねて打ち上げ行いました。来年も、「古田史学の会」の行事として参画したいと思います。


第1220話 2016/07/02

日本学術振興会で講演しました

 昨日は午前中に大阪で代理店社長さんと面談した後、午後は京都に戻り、京都駅前のキャンパスプラザ京都で開催された日本学術振興会(学振)繊維・高分子機能加工第120委員会で講演しました。
 学振での講演は初めてなので、会場受付で参加者リストを入念にチェックし、コンペティター企業の名前が無いことを確認しました。先週、大阪の森ノ宮で行った「誰も知らなかった古代史セッション」とほぼ同じジャンルを取り扱うのですが、発表の仕方は全く異なります。「機能性色素」の歴史や概要、今後の展開など、同じようなテーマですが、一般参加者向けには、なるべくわかりやすく面白く話すように心がけるのですが、学会や業界の関係者相手の場合は、学術的に正確な発表が求められます。同時に企業機密を守りながら、会社や製品をさりげなく宣伝しなければなりませんから、かなり神経を使います。ですから、最初に必ず参加者リストをチェックしなければならないのです。
 冒頭、第120委員会の大内秋比古先生(日本大学教授)のご挨拶の後、村田機械・ホーユーなどの企業研究者、仕事でご協力いただいている椙山女学園大学の桑原里実さんや京都市産業技術研究所の早水さんらが講演され、わたしは一番最後に「機能性色素の概要とテキスタイルへの展開」という演題で講演しました。おかげさまで、「面白かった」と好評でした。
 講演会後の懇親会では多くの方と名刺交換したのですが、湘南工科大学教授の幾多信生先生から、「古賀さんの洛中洛外日記はいつも拝見しています」といきなり言われ驚きました。幾多先生は古田先生の大ファンで著作はほとんど読んだとのこと。更に、大阪府立大学の黒木宣彦先生から染色化学を学ばれたとのことで、わたしも社内研修で最晩年の黒木先生の講義を受けており、化学でも黒木研の同門であることがわかり、一気にうち解けることができました。更にとどめとして、幾多先生が湘南工科大学付属高校の校長をされていたとき、わたしが開発した近赤外線吸収染料を使用した赤外線透撮防止スクール水着を同校指定水着に採用されたとのことで、わたしは感謝感激でした。本当に二重三重の不思議なご縁でした。
 幾多先生との歓談は二次会でも続き、隣に座られていた学振120委員会委員長の大内秋比古先生(日本大学教授)に対して、わたしと幾多先生の二人がかりで古田説(短里・二倍年暦など)の説明を続けました。最後はお酒の勢いもあり、三人とも有機合成化学の専攻でしたから学生時代の実験の失敗談(ジアゾ化反応時の爆発事故、有機溶剤の火災事故など)に花が咲きました。わたしのfacebookにそのときの写真を掲載していますのでご覧ください。
 こうして初めの学振講演会は忘れ難い一日となりました。いろんな分野で古田先生の熱烈なファンとお会いした経験は少なくないのですが、わたしの関わっている学会や業界にもおられたことに、嬉しさもひとしおでした。


第1218話 2016/07/01

第1234話 2016/07/17 大盛況!東海学園高校でのサマーセミナー

愛知サマーセミナー2016に参加します

終了しました。

 「古田史学の会・東海」が毎年参加されている「愛知サマーセミナー2016」に今年も参加し、高校生に古田史学・多元史観の講義を行います。
 わたしは昨年初めて参加したのですが、高校生(社会人・中学生も参加)を相手に楽しく講義できました。何よりも参加された高校生・中学生の意識の高さに驚かされました。受講後に書いていただいたアンケート結果(感想文)を見ても、子供たちが古田史学や邪馬壹国説・九州王朝説を学校では習わない新しい古代史として真面目に受け止めていたことがよくわかりました。(昨年のアンケート結果は「洛中洛外日記【号外】2015/07/19 愛知サマーセミナー受講者の感想文」でご紹介しました。)
 「愛知サマーセミナー2016」の日時・会場などは次の通りです。詳細は主催者のホームページをご覧ください。

 「古田史学の会・東海」担当の講義
■日時 7月17日(日) 13:10〜14:30 14:50〜16:10
■会場 東海学園高校 2号館3階104教室(定員42人)
  地下鉄鶴舞線「原」駅下車 2番出口から徒歩約12分
  または市バス「平針南住宅」下車、徒歩約3分
 ※東海学園大学の門からは入場できません。高校側から入場してください。
■テーマ 教科書が教えない古代史「邪馬台国の真実」
■講師 古賀達也(古田史学の会・代表)、「古田史学の会・東海」のメンバー

第1002話 2015/07/19 愛知サマーセミナーで講義

第1005話 2015/07/22「愛知サマーセミナー」の成果と特長

第1006話 2015/07/22「愛知サマーセミナー」の反省点


第1213話 2016/06/19

張莉さん正木さん講演会のご報告

 本日、大阪府立大学なんばキャンパスにて「古田史学の会」定期会員総会と記念講演会を開催しました。総会に先だって、張莉さん(漢字学者、大阪教育大学特任准教授)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)が講演されました。演題は次の通り。

 張莉さん:「食」と「酒」の漢字
 正木裕さん:漢字と木簡から魏志倭人伝の短里を解明する

 張莉さんは中国天津のご出身で、天津といえば天津飯と天津甘栗が有名ですが、張莉さんは天津飯は日本に来て初めて食べたとのことです。また、天津甘栗の栗は天津産ではなく河北省産で、天津港から出荷されたため「天津甘栗」と呼ばれたようです。
 講演では「食」や「飲」の字の意味と成立過程を金文や甲骨文字にまで遡って説明していただき、初めて知ることばかりでした。他方、日本語の「うまい」の語原が「熟(う)む」、「おいしい」は「美(い)し」、「まずい」は「貧しい」が語原であることなども初めて知りました。中国ご出身の張莉さんから日本語の語原を教えていただくのも不思議な感覚でしたが、張莉さんが白川静先生のお弟子さんであることを思えば、納得がいきます。最後まで興味深く聴講しました。
 正木さんからは『三国志』の里単位が1里=75〜77mの短里であり、里程記事が実際の地図でも短里で一致することが確認できるとされ、実例をあげて説明されました。さらに古代中国の数学書『周髀算経』や竹簡(張家山漢簡、1983年出土)に記された「二年律令」などからも証明でき、そして短里の成立が殷代以前に遡ることにも言及されました。これら正木さんの研究は古代中国における短里に関する最先端研究です。
 講演会後に行われた会員総会も全ての議案が承認され、新たに冨川ケイ子さんが全国世話人に選ばれました。場所を代えて行われた懇親会も盛り上がり、夜遅くまで親睦を深めました。参加された皆さん、お疲れさまでした。そして、ありがとうございます。これからも「古田史学の会」へのご協力をよろしくお願い申しあげます。


第1193話 2016/05/27

別冊宝島『邪馬台国とは何か』の読み方

 別冊宝島『古代史再検証 邪馬台国とは何か』が発刊されました。今朝、京都駅で購入し、久留米に向かう新幹線の車中で読みました。わたしへのインタビュー記事「古田史学から見た『邪馬壹国』」が掲載されているので購入したのですが、現在の「邪馬台国」研究動向と学問的水準を把握するのに役立ちました。たまにはこうした一般の古代史ファン向けの雑誌を読むのもいいものだと思いました。
 わたしのインタビュー記事を担当された常井宏平(とこい・こうへい)さんは若いフリーライターですが、その卓越した理解力と文章力により、二時間に及んだ雑多なわたしの話を要領よく、かつ説得力のある見事な記事にまとめられていました。感謝したいと思います。
 またカラー写真がふんだんに掲載されており、買って損はしない一冊といえます。たとえば中国の洛陽から発見された三角縁神獣鏡や志賀島の金印、平原遺跡の漢式鏡のカラー写真などもあり、史料的にも値打ちがあります。
 他方、「邪馬台国」畿内説にとどめを刺す重要な史料が、偶然とは思えない「配慮」によるものか、掲載されていませんでした。たとえば『三国志』倭人伝の版本写真が何ページかに散見するのですが、肝心要の「南至る、邪馬壹国」という部分は見事に掲載されていないのです。わたしのインタビュー記事以外は全論者・全頁が何の説明もなく「邪馬台国」と原文改訂(研究不正)した表記となっています。この事実こそ「邪馬台国とは何か」の答えになっているのかもしれません。すなわち「邪馬台国は研究不正の所産。みんなで隠せ邪馬壹国」という「答え」です。しかしながら「古田史学・邪馬壹国説」をわたしへのインタビュー記事として掲載されたのですから、これは編集者の学問的良心と受け止めたいと思います。もちろん、古田ファンにも売れるというビジネス的判断かもしれませんが、この点は出版ビジネスですから、わたしは否定しません。
 更に巻末に綴じ込み付録「邪馬台国出土品 邪馬台国の謎を解く6つのアイテム」として、「銅鏡」「金印」「銅剣・銅矛」「銅鐸」「玉類」「骨角器」の美しい写真が掲載されているのですが、なぜ「鉄器」と「絹」がないのでしょうか。恐らくこの二つのアイテムの圧倒的濃密出土地域が福岡県であることから、この事実を掲載してしまえば、そもそも考古学的にも畿内説は存在不可能となってしまい、「邪馬台国とは何か」という「古代史再検証」企画が成立しなくなるのです。これは出版ビジネスとしては避けたいところでしょう。わたしも仕事でマーケティングに関わっていますから、ピジネスとして理解できないこともありません。なお、鉄器と絹の福岡県と奈良県の出土分布比較グラフは本文中にはあり、全く触れられていないということではありません。しかし、巻末の「謎を解くアイテム」に取り上げられていないことには、意図的なものを感じざるを得ません。あえて編集者の立場に立って考えれば、錆びてぼろぼろの鉄器や腐食寸前のシルクでは、カラーグラビアとしてはインパクトに乏しく、そのため不採用になったのかもしれません。
 最後にこの本の読み方について述べてみます。様々な説が紹介され、各論者の意見が記されているのですが、それらのほとんどは「ああも言えれば、こうも言える」「(史料・考古学)事実はともかく、わたしはこう考えてみたい」「倭人伝中の自説に不都合な記事は信用できない。しなくてよい」「その位置は永遠の謎」「むしろ、わからなくてもよい」といった類のものか、どうとでもいえる抽象論で、およそ学問的論証レベルに達しているようには思えません(少数の例外記事を除いて)。
 そして、そうした文章を延々と読まされる読者には知的フラストレーションが溜まりに溜まります。そんなときに古田史学・邪馬壹国説のページに到着し、そこで初めて、学問的論証とは何か、邪馬壹国という倭人伝原文の史料事実(真実)を知るといった演出効果が施されています。その意味では、とてもよい古代史ファン向けの一冊ではないでしょうか。わたしはお勧めします。


第1175話 2016/04/29

日本国王子の囲碁対局の勝敗

 『旧唐書』には日本国王子の囲碁対局の勝敗については記されていませんが、『杜陽雑編』(9世紀末成立)などに次のような逸話が残されています。

「皇帝の命で対局する顧師言はプレッシャーがかかる中、三十数手目に鎮神頭という妙手を打ち、勝ちました。日本国王子は唐の役人に顧師言は唐で何番目に強いのかとたずねると、三番目とのこと。実際は一番だったのですが、これを聞いた日本国王子は小国の一番は大国の三番に勝てないのかと嘆きました。」(古賀による要約)

 この逸話が史実かどうかはわかりませんが、それほどの妙手で顧師言が勝ったのなら、『旧唐書』にそのことが記されてもいいように思いますので、後世に潤色されたものかもしれません。
 日本列島に囲碁が伝来したのがいつ頃かはわかりませんが、『隋書』「イ妥国伝」には「棋博を好む]との記事が見えますから、その頃には九州王朝では囲碁が盛んだったと思われます。   『万葉集』(巻9、1732番・1733番)にも題詞に「碁師の歌二首」が見えます。ただしこの「碁師」の解釈については諸説あり、棋士のこととする見解は定説にはなっていないようですが、わたしは字義通り棋士とするのが真っ当な理解と考えています。(つづく)