観世音寺一覧

第1392話 2017/05/11

『二中歴』研究の思い出(5)

 『二中歴』九州年号細注の二つの寺院建立記事のもう一つが太宰府の観世音寺創建です。

「白鳳」(661〜683年)「対馬銀採観世音寺東院造」

 白鳳年間に観世音寺を東院が造ったという内容ですが、倭京二年の「難波天王寺」のように地名が付けられていませんから、九州王朝の人々であれば観世音寺だけでそれとわかる有名寺院ということと解さざるを得ませんから、九州王朝の都の代表的寺院の筑紫の観世音寺と思われます。
 『続日本紀』にも天智天皇がお母さんの斉明天皇のために造らせたとありますから、天智期に建立されたという細注記事そのものに矛盾はありません。ところが、飛鳥編年に基づく一元史観の通説によれば観世音寺の創建は8世紀初頭頃とされており、細注記事とは異なっていました。
 一方、考古学的には観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、7世紀後半に編年されてきたもので、これは細注記事と整合していました。ただ、近年は、この老司Ⅰ式を藤原宮の瓦の新式と類似しており、7世紀末頃から8世紀初頭へと新しく編年する論稿が出されています。この点は当該論文を精査したうえで、別に論じたいと思います。
 白鳳は23年間続いていることもあり、『二中歴』細注記事では創建年に幅がありました。そのため、より詳しく観世音寺創建年を記した史料を探していたところ、『勝山記』『日本帝皇年代記』に「白鳳十年」(670)と具体的年次が記されていたことが発見されました。このように、『二中歴』細注による観世音寺造営記事が他の史料や考古学編年と対応していることが明らかとなったわけです。(つづく)


第1375話 2017/04/23

7世紀後半の「都督府」

 「洛中洛外日記」1374話において、「都督」や「都督府」を多元的に考察する必要を指摘し、太宰府の都府楼跡を倭の五王時代(5世紀)の都督府とすることは考古学的に困難であることを説明しました。他方、7世紀後半に太宰府都府楼跡に「都督府」がおかれたとする説が発表されています。わたしの知るところでは次の二説が有力です。
 一つは古田先生による九州王朝下の「都督」「都督府」説です。『なかった 真実の歴史学』第六号(ミネルヴァ書房、2009年)に収録されている「金石文の九州王朝--歴史学の転換」によれば、7世紀後半の「評の時代」に九州から関東までに分布している「評」「評督」を統治するのが「都督」であり、太宰府にある「筑紫都督府」(太宰府都府楼跡、『日本書紀』天智紀)であるとされました。
 もう一つは、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による、唐の冊封下の「筑紫都督府」とする理解です(「『近江朝年号』の研究」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』所収)。白村江戦の敗戦で唐の捕虜となった筑紫君薩夜麻が唐軍と共に帰国したとき、唐から筑紫都督(倭王)に任命され、太宰府政庁(筑紫都督府)に入ったとする仮説です。
 両説とも根拠も論証も優れたものですが、同時に解決すべき課題も持っています。古田説の場合、7世紀中頃の評制施行の時期に太宰府都府楼跡の遺構である大宰府政庁Ⅱ期の朝堂院様式の宮殿はまだ造営されていません。同遺構の造営年代は観世音寺創建と同時期の670年頃(白鳳10年)と考えられますので、650年頃に評制を施行したのはこの宮殿ではありません。670年以降であれば筑紫都督府が太宰府政庁Ⅱ期の宮殿としても問題ありませんが、評制施行時期では年代的に一致しないという問題があるのです。
 この点、正木説は薩夜麻が帰国にあたり唐から都督に任命されたとするため、大宰府政庁Ⅱ期の遺構と時代的には矛盾はありません。しかし、古田説のように「評督」の上位職の「都督」との関係性については説明されていません。この点、古田説の方が有利と言えるでしょう。
 仮に両説を統合する形で新たな仮説が提示できるかもしれませんが、その場合でも「評制」を施行した「都督府」(都・王宮)はどこなのかという課題に答えなければなりません。「難波朝廷天下立評給時」(『皇太神宮儀式帳』延暦二三年・八〇四年成立)という記事を重視すれば、7世紀中頃に全国に「評制」を施行し、「評督」を統治した「都督府」は当時の難波朝廷(前期難波宮)という理解が可能ですが、用心深く検討や検証が必要です。


第1365話 2017/04/07

大宰府政庁造営年代の自説変更の思い出

 古代史研究において、自説の誤りに気づき、撤回したり変更することは悪いことではありません。そうした経緯をたどりながら学問や研究は進展するからです。ただ残念ながら、自説への批判を感情的に受け入れられなかったり、自説への思いこみが強く、自説が間違っていることに気づかない人が多いのも古代史研究ではよくみられることです。恥ずかしながら、わたし自身にもそうした経験がありますので、心したいと思います。
 わたしは大宰府政庁Ⅱ期造営年代について、自説を変更した経験があります。当初、太宰府条坊都市と大宰府政庁Ⅱ期は九州王朝の都として同時期に造営されたもので、その年代を7世紀初頭の「倭京元年(618)」が有力と考え、「よみがえる倭京(太宰府)-観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年6月)という論文で発表しました。しかし、この説には当初から問題点がありました。それは観世音寺が創建される白鳳年間まで、大宰府政庁Ⅱ期の東側に位置するその地が50年近く“更地”のままで放置されたことになるという点でした。この不自然な状況をうまく説明できず、わたし自身もその理由がわからなかったのです。もし、この点を誰かに指摘されたら、わたしは困ってしまったことでしょう。
 そうしたときに知ったのが、井上信正さんの大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建よりも条坊都市の成立が早いという新説でした。この井上説を知って、わたしは太宰府条坊都市はそれまで通りに7世紀初頭の造営、大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺は7世紀後半の白鳳年間とする現在の説に変更したのです。これにより、先の「観世音寺敷地の50年間更地」問題が回避されたのでした。
 この画期的な井上説はわたしの説だけではなく、大和朝庭一元史観に基づく考古学編年にも大きな影響を与えました。そしてそれ以降、一元史観では解決できない様々な矛盾が現れるのですが、そのことは別の機会にご紹介します。


第1295話 2016/11/04

井上信正説と観世音寺創建年の齟齬

 今朝は新幹線で豊橋市方面に向かっています。今日は蒲郡地区の顧客訪問を行い、明日は豊橋技術科学大学で開催される中部地区の化学関連学会で招待講演を行います。講演テーマは機能性色素の概要と金属錯体化学の歴史と展望(用途開発)などについてです。化学系学会等の講演はこれが年内最後となり、その後は今月26〜27日の熊本県和水町と福岡市での古代史講演に向けて準備を始めます。一昨日も京都市産業技術研究所で講演したのですが、今年は講演回数がちょっと多すぎたように感じますので、来年はもう少し落ち着いたペースに戻したいと思っています。

 拙稿「多元的『信州』研究の新展開」を掲載していただいた『多元』136号(多元的古代研究会)を新幹線車内で精読していますが、大墨伸明さん(鎌倉市)の「大宰府の政治思想」に太宰府条坊に関する井上信正説が紹介され、自説に援用されていることに注目しました。わたしも以前から井上信正さんの太宰府条坊の編年研究に関心を寄せてきましたので、古田学派の研究者に井上説が注目されだしたことは喜ぶべきことです。
 井上説の核心は太宰府条坊の北側にある政庁や観世音寺の区画と条坊都市の規格(小尺と大尺)が異なっており(そのため観世音寺の南北中心軸は条坊道路と大きくずれている)、政庁・観世音寺よりも条坊都市の方が先に造営されていることを考古学的に明らかにされたことです。その上で、井上さんは政庁2期の成立時期を通説通り8世紀初頭(和銅年間頃)、条坊都市の成立はそれよりも早い7世紀末とされました。その結果、太宰府条坊都市と藤原京(新益京)とは同時期の造営とされました。
 この井上説は大和朝廷一元史観にとっては「致命傷」になりかねないもので、わが国初の大和朝廷による条坊都市とされている藤原京と地方都市に過ぎない太宰府条坊都市が同時期に造営された理由を説明しにくいのです。ですから井上説は多元史観・九州王朝説にとって刮目すべきものです。
 政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立が早いとする井上説に賛成ですが、その年代については井上説では説明困難な問題があります。それは観世音寺の創建年についてです。『続日本紀』などにも観世音寺は天智天皇が亡くなった斉明天皇のために造営させたという記事があり、どんなに遅くても670年頃には大宰府政庁2期宮殿の位置と共に方格地割を決め、造営を開始していなければなりません。そうすると観世音寺以前に太宰府条坊都市が造営されたとする井上説により、条坊都市造営の年代は更に遡って、遅くても7世紀前半頃となります。その結果、太宰府条坊都市は藤原京よりも早く、わが国最古の条坊都市ということになるのです。この論理的帰結は九州王朝説にとっては当然のことですが、大和朝廷一元史観の学界にとって受け入れ難いものなのです。このような大和朝廷一元史観にとって「致命傷」となる論理性を持つ井上説は学界に受け入れられないのではと、わたしは危惧しています。
 他方、文献史学から観世音寺創建年を見ますと、九州年号の白鳳年間とする『二中歴』や、白鳳10年(670)とする『日本帝皇年代記』『勝山記』があります。観世音寺創建瓦の老司1式瓦の編年も藤原京に先行するとされてきましたから、文献史学と考古学の双方が観世音寺創建年を670年頃と、一致した結論を示しています。その上で井上説の登場により、太宰府条坊都市の造営は7世紀前半頃となり、わが国最古の条坊都市は九州王朝の都、太宰府ということになるのです。井上説が一元史観の学界に受けいれられることを願ってやみません。


第1228話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(2)

 太宰府の般若寺跡は条坊内(左郭14条4坊)にあった古代寺院とされており、もともとは筑紫野市の塔原廃寺に「甲寅年」(654年、九州年号の白雉3年。『上宮聖徳法王帝説』裏書による)に蘇我日向により創建されたものが、奈良時代に太宰府市朱雀地区(旧大字南字般若寺)に移転されたとする説が通説となったようです。もちろん、移転されたとするのは一元史観による解釈にすぎず、「移転」の痕跡が考古学的事実に基づいて証明されたわけではありません。
 なぜこのような移転説が採用されたのでしょうか。わたしの推定では、太宰府条坊造営が井上説でも7世紀末頃(藤原京造営と同時期)とされているため、654年には存在しないはずの条坊に沿った寺院など造営できないとされたのではないでしょうか。しかし、地名として残っているのは太宰府市の「般若寺」であり、塔原廃寺跡のある場所の地名は「塔原(とうばる)」であって「般若寺」ではなく、その廃寺を般若寺とするのはかなり恣意的な判断と言わざるを得ません。
 地名と考古学的事実の指し示すところ、太宰府市の字地名「般若寺」から、条坊と同じ南北方位軸をもった寺院跡が出土しているのですから、7世紀には造営されていた太宰府条坊都市の中に般若寺が創建されたとする理解が最も真っ当で無理のないものでしょう。わたしの研究では、太宰府条坊都市は九州年号の倭京元年(618年)頃に造営されたと考えていますから、その後に般若寺が条坊内に創建されたことになります。
 そこで注目されるのが、般若寺跡から出土した最も古い瓦が、なんと観世音寺と同じ複弁八葉蓮華文軒丸瓦の「老司1式」瓦なのです(わたしのfacebookの写真を参照ください)。もしこの「老司1式」瓦が般若寺の創建瓦とすれば、その創建年は観世音寺と同時期の670年(白鳳10年)頃となり、「甲寅年」(654年)よりやや遅れます。今のところ、これ以上のことはわかりませんが、九州王朝の都、太宰府に観世音寺と般若寺が条坊内に存在していたことになり、九州王朝史研究の新たな手がかりになります。


第1227話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(1)

 太宰府市の著名な考古学者、井上信正さんの論文「大宰府条坊の基礎的考察」(『年報太宰府学』第5号、平成23年)を読んでいて、興味深い問題に気づきました。この論文は太宰府条坊研究において考古学的には大変優れたものですが、大和朝廷一元史観との「整合性」をとるために非常に苦しい表現や矛盾点を内包しています。
 たとえば観世音寺の創建について「創建年代が天智朝に遡る可能性がある観世音寺」(p.90)と冒頭に紹介されています。他方、井上さんが発見されたように、太宰府条坊区画とその北部に位置する政庁2期・観世音寺・朱雀大路の主軸はずれており、条坊区画の造営が先行したと考えられることから、政庁2期などを7世紀末〜8世紀第1四半期、条坊区画はそれ以前とされました(p.88)。この表現からすると、観世音寺は天智朝の頃なのか、7世紀末〜8世紀第1四半期とされるのか混乱しており、意味不明です。
 井上さんの理解としては太宰府条坊区画は7世紀末頃の造営で、藤原京造営と同時期であり、政庁2期や観世音寺はそれ以後の造営とされています。しかし、そうすると観世音寺が天智天皇の発願により660〜670年頃に造営開始されたとする史料事実や伝承と矛盾してしまいます。この明白な矛盾の存在について井上論文では触れられていません。もし、観世音寺造営を660〜670年頃としてしまうと、自身の研究成果により条坊区画の造営が7世紀前半にまで遡ってしまい、わが国初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が古くなってしまうのです。これでは大和朝廷一元史観に不都合なため、その点を曖昧にし、矛盾を内包した不思議な論文となってしまうのです。
 この井上説が内包する重大な「矛盾」については、これまでも指摘してきましたが、今回、発見したのは同じく太宰府条坊内にある般若寺の創建年についての問題です。(つづく)


第1223話 2016/07/07

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《二の矢》について解説します。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 6〜7世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。このことはほとんどの九州王朝説論者が賛成するところでしょう。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。

 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論されている記事を読んだときでした。この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。

 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を50年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を7世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には6世紀末から7世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳10年〔670〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。7世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから解釈変更によって否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解にはわたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元史観論者を説得することもできず、彼らの「6〜7世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、その事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元史観論者との「他流試合」で勝つためにはこの頑固で強力な《二の矢》から逃げることはできません。

 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が6世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。

 また別の角度からの研究として、従来は8世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により7世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に記されています。

 こうした研究は、ようやくその研究成果が現れ始めた段階です。このテーマは7世紀における土器編年の再検討という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学も避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。(つづく)


第1186話 2016/05/13

「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)

 「洛中洛外日記」第1179話「観世音寺の創建年と瓦の相対編年」において、「百済から阿弥陀如来像がもたらされたとすれば、その時期は百済滅亡の660年よりも以前となりますから、白鳳10年創建とする史料とよく整合するのです。(中略)九州王朝説に立てば、文献・現地伝承や創建瓦(老司1式)などの編年とも矛盾しない、白村江戦(663)以前に造営が開始され、白村江戦後の白鳳10年(670)に完成したとする理解が可能です。」と記したのですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から疑義が寄せられました。
 百済滅亡以前に九州王朝へ贈られた阿弥陀如来像が10年以上も後の白鳳10年に建立された観世音寺の本尊とされたことについて、「史料とよく整合する」と記した部分が意味不明とされたようです。たしかにここは説明が足りないなと、わたしも懸念を抱いていた箇所でもあり、その心裏を見透かされたような御指摘でしたので、さすがは正木さんと感服しました。
 観世音寺創建について、わたしは次のように考えてきました。

1.九州王朝(倭国)と同盟関係にあった百済から阿弥陀如来像が贈られてきた。その正確な時期と理由は不明(検討中)。
2.その後、百済は滅亡し、同盟国である倭国は百済復興のため唐・新羅連合軍と朝鮮半島で戦い、白村江戦で敗北し、倭王薩夜麻は捕らわれる。
3.太宰府では従来の条坊都市の北部に異なった尺度による条坊を追加造成し、そこに太宰府政庁2期の宮殿と、その東に観世音寺の建設を行う。
4.そしてようやく白鳳10年(670)に観世音寺が落成し、百済から贈られた阿弥陀如来像を本尊として安置した。
5.このように白村江戦敗北や薩夜麻の捕囚などの大事件が続発したため、さらには条坊の追加造成などもあったので、観世音寺創建が遅れた。

 以上のようにわたしは考えていますので、百済滅亡前に贈られた阿弥陀如来像のための寺院(観世音寺)建立に10年以上かかったのも当然としたのです。
 今回の正木さんからのご指摘を得て、貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)について新たな疑問点が浮かんできました。
 それは観世音寺式伽藍配置の特徴として金堂は東向きであり、これは仏教信仰形態(阿弥陀信仰)の影響を受けたとされているにもかかわらず、観世音寺を「鎮護国家の寺」とされたことです。仏教思想や国家と仏教との関係について勉強中なのですが、阿弥陀信仰というものは「鎮護国家」とは少し異なるように思うのです。王家や王族の菩提を弔う「菩提寺」のような性格ではないでしょうか。この点、観世音寺式寺院の阿弥陀信仰と「鎮護国家」を関連付ける積極的な理由が不明です。この点、わたしも勉強したいと思います。
 なお、つい最近になって知ったのですが、摂津の四天王寺(『二中歴』年代歴に見える「難波天王寺」)の創建当時の本尊も阿弥陀如来像だったとする史料があるようなのです(調査中)。わたしは四天王寺(天王寺)も九州王朝の太子、利歌彌多弗利による創建と考えていますから、九州王朝は7世紀初頭において、阿弥陀信仰を受容しており、その影響は観世音寺にまで続いていたと考えられるのではないでしょうか。(つづく)


第1182話 2016/05/05

「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)からご紹介いただき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からコピーを送っていただいた貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)を何度も読み返しました。大和朝廷一元史観に依ってはいますが、なかなかの好論文でした。考古学論文は出土事実という科学的基礎データに基づいていますから、文献史学ほど支離滅裂とはなりにくい(「邪馬台国」畿内説のような史料改竄・無視という「研究不正」がしにくい)ということもあって、勉強になることが多々あります。
 今回の貞清さん高倉さんの論文は二つの考古学的事実に基づいてその意義付けを行うというもので、その二つの考古学事実の紹介と切り口は見事でした。それは古代における観世音寺式伽藍配置の寺院が日本列島に12箇所発見されていること、その古いものは西日本に多くあり、大宰・総領の支配地域や古代山城の分布と多くが重なっていることです。
 まず観世音寺式伽藍配置の特徴とは回廊内の西側に金堂があり、東側に塔があるというもので、しかも金堂は東向きであり、これは仏教信仰形態(阿弥陀信仰)の影響を受けているとされています。その代表的寺院として太宰府の観世音寺があることから、「観世音寺式」と称されています。わたしもこの観世音寺式伽藍配置に注目していたこともあって、蝦夷国の多賀城にあった多賀城廃寺やその南の郡山廃寺、そして近江の崇福寺や飛鳥の川原寺が同様・類似の伽藍配置を持つことから、九州王朝や近畿天皇家、蝦夷国が国家中枢地域に観世音寺式寺院を共通して建立していたことに触れたことがありました(「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年)。
 そして同論文において最も光彩を放つ考古学的指摘が、7世紀における大宰や総領がおかれた地域に古代山城と観世音寺式寺院がセットで存在するという視点です。このアイデアは貞清さんが以前から論文発表されてきたもので、今回は『日本考古学』という権威のある学会誌に発表するため、高名な考古学者の高倉さんとの共同執筆(ラストオーサーは高倉さん)という形態をとられたのではないでしょうか。同論文で貞清さんは次のように記されています。

 「(観世音寺式伽藍配置の寺院遺跡)12のなかで創建年代の先行する西日本の9寺院の分布における共通点(図6)として、総領(大宰)のおかれた国ないし地域に多くが分布していること、そして総領(大宰)が管轄したとされる西日本地域に分布する古代山城の分布とも類似していることが挙げられる。その典型が大宰府の付属寺院である観世音寺にみられる。(中略)つまり、国家にとって特に重要とされた地には、総領(大宰)がおかれ、軍事的要衝地でもあるために後に山城が築かれたということである(表3)。そして、そこに観世音寺式をとる寺院(観世音寺)が建立されたということになる。」(p.34)

 このように指摘され、図6にはその分布図が示されています。この観世音寺式寺院・総領(大宰)・古代山城の三点セットに「鎮護国家」という意義付けを見いだされたわけで、この点は素晴らしい視点だと思いました。まさに同論文の「明」にあたります。しかし残念かな、同時に「暗」もくっきりと浮かび上がっているのです。すなわち、その「鎮護国家」の重要な三点セットが畿内(奈良・大阪)には無いという考古学事実です。福岡県(筑紫)と岡山県(吉備)には濃密に分布・プロットされていることとは対照的に、畿内はほぼ「空白」なのです。
 従って、先入観を廃してこの三点セットの論理性により、作成された考古学的分布図を読みとるなら、「鎮護国家」の中枢領域は筑紫であり、次いで吉備ということになり、「鎮護」されるべき最高「国家」権力者は最濃密分布を持つ筑紫(太宰府)にいた、と理解されるべきなのです。せっかくここまで優れた視点と分布図を作成しながら、大和朝廷一元史観の呪縛から考古学者(貞清さんら九州の考古学者でさえも)は逃れられないのです。「残念」というほかありません。(つづく)


第1179話 2016/05/03

観世音寺の創建年と瓦の相対編年

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から紹介いただいた貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)ですが、京都市立図書館や府立総合資料館になかったため、研究仲間にメールで協力を求めたところ、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から香川県立図書館にあるのでコピーして送りますと、ただちに返事がありました。ありがたいことです。そして本日、速達でその論文コピーが届きました。
 この論文を読みたかった理由の一つが、ネットに掲載された「要旨」によると、観世音寺を天智期の創建としていたことです。観世音寺は天智天皇の発願により造営が開始され、8世紀初頭に完成したとするのが通説でしたから、何か新たな根拠や研究によって創建年を天智期にされたのではないかと思ったからです。わたしは『二中歴』などの複数の史料が観世音寺創建年を白鳳年間あるいは白鳳10年(670)としていることと、創建瓦が老司1式であり、7世紀中頃の創建とされる奈良の川原寺とほぼ同時期、少なくとも藤原宮よりも古く編年できることから、観世音寺白鳳10年創建説は揺るがないと考えてきました。そこでこの論文も天智期創建説に立っているようでしたので興味を持った次第です。
 そこで同論文を一読しましたが、一元史観に立ってはいるものの大変興味深い好論文でした。そのことについては別に詳述しますが、観世音寺の創建年について、天智天皇の発願により670年頃から造営開始され684年にはひととおり完成していたとする高倉洋彰さんの説に依っていることがわかりました。従って、新知見に基づいたものではありませんでした。この高倉さんの説が学界でどのように受け止められているのかは知りませんが、少なくとも通説ではないと思います。
 『本朝世紀』や筑前の地誌によると、観世音寺の本尊は百済から贈られた阿弥陀如来像とされており、戦国時代に島津の軍勢により鋳つぶされたと記されています。観世音寺の金堂は東に向いていることから、阿弥陀信仰(西方浄土思想)に基づいているとする説(菱田哲郎氏の説)ともよく対応しています。ですから、百済から阿弥陀如来像がもたらされたとすれば、その時期は百済滅亡の660年よりも以前となりますから、白鳳10年創建とする史料とよく整合するのです。本尊は百済から660年よりも以前に届いているのに、斉明天皇没後(661年)以降に天智天皇の発願により造営が開始されたとする通説では年代が全くあわないのです。
 九州王朝説に立てば、文献・現地伝承や創建瓦(老司1式)などの編年とも矛盾しない、白村江戦(663)以前に造営が開始され、白村江戦後の白鳳10年(670)に完成したとする理解が可能です。この理解を文献と考古学編年と現地伝承が一致して支持しているのです。そうしますと、九州の瓦編年の基準の一つとなっている老司式瓦の編年は、少なくとも通説よりも20年ほど古くなり、それに基づいて編年された九州の他の寺院や遺跡の編年も軒並み古くなる可能性が高いのです。
 なお、わたしの観世音寺創建年研究については「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年6月)か『古代に真実を求めて』12集(2009年)収録の同論文をご参照ください。


第1178話 2016/05/01

観世音寺式寺院の意義に新説か

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から、次の論文を御紹介いただきました。貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)です。同論文の紹介は多元的「国分寺」研究サークルのホームページに掲載されていますので、ご参照ください。

 日本考古学協会ホームページ掲載の同論文要旨を読むと、観世音寺を天智期の寺院と認識されているような筆致です。通説では観世音寺の造営は7世紀末頃から始まり、8世紀初頭に完成とされてきましたが、わたしは各史料に九州年号「白鳳10年」の造営とする記事があることなどから、670年造営説を唱えてきました(『二中歴』には白鳳年間の造営とある)。高倉さんは太宰府や観世音寺の研究で著名な考古学者ですので、近年ではどのような見解に立たれているのか関心があります。

 同論文が掲載されている『日本考古学』30号が京都市立図書館や府立総合資料館にないようですので、コピー入手の協力要請を研究仲間にお願いしました。読んだら報告します。以下、日本考古学協会ホームページからの一部転載です。

『日本考古学』30号 (2010)
鎮護国家の伽藍配置
貞清 世里・高倉 洋彰
Ⅰ. 観世音寺式伽藍配置の設定
Ⅱ. 観世音寺式伽藍配置をとる寺院
Ⅲ. 分布からみた観世音寺式伽藍記置の特徴
Ⅳ. 東西南北の仏法守護
Ⅴ. 東西南北端に配置された観世音寺式伽藍配置をとる寺院の意義

日本考古学協会の機関紙『日本考古学』30号
貞清世里&高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」
http://archaeology.jp/journal/con30abs.htm


第843話 2014/12/28

もう一つの納音(なっちん)付き九州年号史料

熊本県和水町の石原家文書から発見された納音(なっちん)付き九州年号史料のことを「洛中洛外日記」で何回か紹介してきましたが、納音(なっちん)付九州年号史料をもう一つ「発見」しましたので、ご紹介します。
この年末の休みを利用して、机の上や下に山積みになっている各地から送られてきた書籍や郵便物を整理していましたら、山梨県の井上肇さんからの『王代記』のコピーが出てきました。日付を見ると昨年の10月19日となっていますから、一年以上放置していたことになります。一度は目を通した記憶はあるのですが、他の郵便物と一緒にそのままにしておいたようです。
井上さんからは以前にも『勝山記』コピーをご送付いただき、その中にあった「白鳳十年(670)に鎮西観音寺をつくる」という記事により、太宰府の観世音寺創建年が白鳳10年であったことが明確になったということがありました。本日、改めて『王代記』を読み直したところ、九州年号による「年代記」に部分的ですが納音が記されていることに気づきました。
解題によればこの『王代記』は山梨市の窪八幡神社の別当上之坊普賢寺に伝わったもので、書写年代は「大永四年甲申(1524)」とされています。今回送っていただいたものは「甲斐戦国史料叢書 第二冊」(文林堂書店)に収録されている影印本のコピーです。
前半は天神七代から始まる歴代天皇の事績が『王代記』として九州年号とともに記されています。後半は「年代記」と称された「表」で、九州年号の善記元年(522)から始まり、最上段には干支と五行説の「木・火・土・金・水」の組み合わせと、一部に納音が付記されています。所々に天皇の事績やその他の事件が書き込まれており、この点、石原家文書の納音史料とは異なり、年代記の形式をとっています。しかし、ともに九州年号の善記から始まっていることは注目されます。すなわち、納音と九州年号に何らかの関連性をうかがわせるのです。
個別の記事で注目されるのが、「年代記」部分の金光元年(570)に記された次の記事です。

「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

なお、この記事は『王代記』本文には見えませんから、別の史料、おそらくは九州王朝系史料からの転載と思われます。ちなみに、「天下熱病」により、九州年号が金光に改元されたのではないかと正木裕さんは指摘されており、そのことを「洛中洛外日記」340話でも紹介してきたところです。
引き続き、『王代記』の研究を進めたいと思います。ご提供いただいた井上肇さんに御礼申し上げます。