古田武彦一覧

第1848話 2019/03/03

「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)

昨日届いた「多元的古代研究会」の機関紙『多元』No.150に、安藤哲朗会長による連載記事「怠惰な読書日記」に興味深い調査結果が報告されていました。古田先生の『「邪馬台国」はなかった』から「論証」と「実証」という二つの言葉の使用例を検索され、「論証」が21例、「実証」が1例であったとのこと。「実証」が1例しかないことにはちょっと驚きましたが、「論証は学問の命」と先生は言っておられましたので、「論証」という言葉が多用されていることはよく理解できます。それにしても、大変な検索作業を行われた安藤さんに拍手を贈りたいと思います。そこで、次のようなお礼メールを送りました。

【メールから転載】
多元的古代研究会
安藤様 和田様
 『多元』No.150 届きました。ありがとうございます。
 安藤さんの「論証」と「実証」の調査結果を興味深く拝読しました。わたしも似たような印象は持っていましたが、数えたことはありませんでした。
 哲学では実証主義は否定され、反証主義へと移りつつあるようですが、反証主義も反証可能性の有無の判断が簡単ではないため、未だ論争が続いているようです。
 他方、古田先生は「実証精神」「実証的」という言葉をポジティブな意味で使用されており、哲学での定義とは異なるようです。この点、簡単ではありませんが、勉強を続けたいと思います。
 また、「学問の方法」や「古田史学」の定義はややもすると抽象論となりかねず、用心して行わないと学問的に有意義なものにはならないように思います。この点、古田先生のように具体的に論じていきたいと考えています。(以下、略)
【転載終わり】

 20世紀前半にヨーロッパで行われた哲学における「実証主義」批判と「論理実証主義(論理経験主義)」の登場については本シリーズで紹介してきましたが、その「論理実証主義」も真理探究における限界が指摘され、それを乗り越える試みとしてカール・ポパーにより「反証主義」が提案されました。
 ところが古田先生は必ずしもこうした西洋哲学の定義で「実証主義」を使用されている様にも思われません。わたしの知る限り、古田先生は「実証精神」「実証的」という用語をポジティブな文脈で使用されることが多いのです。
 他方、古田学派の論者の中には、「史料事実に基づく実証」こそが証明方法の基本であり、従って「論証よりも実証が重要」として、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」を否定しようとされる方もあります。学問研究には「史料事実に基づく実証」もあれば、「史料事実に基づく論証」もあります。その上で、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉(立場)が成立しています。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは「実証を軽視する」という意味ではないと、わたしは繰り返し注意を促しているのですが、なかなか理解していただけないようです。(つづく)

《ウィキペディアでの解説(抜粋)》
○反証主義(英:Falsificationism)とは、知識を選別するための、多数ある手続きのうちのひとつ。知識に対する形而上学的な立場のうちのひとつ。
 具体的には、(1)ある理論・仮説が科学的であるか否かの基準として反証可能性を選択した上で、(2)反証可能性を持つ仮説のみが科学的な仮説であり、かつ、(3)厳しい反証テストを耐え抜いた仮説ほど信頼性(強度)が高い、とみなす考え方。


第1846話 2019/02/28

「わが説にななづみそ」(『玉勝間』本居宣長)

 『玉勝間』の「師の説になづまざる事」の一節は次のような書き出しで始まっています。

 「おのれ古典を説(と)くに、師の説と違(たが)えること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふことも多かるを、いとあるまじきことゝ思ふ人多かめれども、これすなはちわが師の心にて、常に教へられしは、後に良き考への出来たらんには、必ずしも師の説に違ふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし。こはいと尊き教へにて、わが師の、世に優れ給へる一つ也。」(『玉勝間』岩波文庫、上巻92頁)
 ※原文の平仮名を一部漢字に改めました。以下、同じ。(古賀)

 宣長は、古典の研究において、師(賀茂真淵・他)と異なる説になることが多いが、これはもっと良い説があれば師の説にこだわることはないという師の教えによるものであり、この教えこそ師が優れていることの一つであると述べています。こうした考えが、「師の説にななづみそ」の根拠となっているわけです。ところが宣長は、この考えを更に一歩押し進めて、次節の「わが教え子に戒(いまし)めおくやう」で次のように記しています。その全文を紹介します。

 「吾に従ひて物学ばむともがらも、わが後に、又良き考へのいで来たらむには、必ずわが説になゝづみそ。わが悪しき故(ゆえ)を言ひて、良き考へを拡めよ。全ておのが人を教ふるは、道を明らかにせむぞ、吾を用ふるには有ける。道を思はで、いたづらにわれを尊まんは、わが心にあらざるぞかし。」(『玉勝間』岩波文庫、上巻93頁)

 学問研究において良い説があるのであれば、宣長は自らが師の説になづまないだけではなく、わたしの説にもなづむなと弟子らに述べているのです。そして、学問(道)のことを思わずに、いたずらに師(宣長)を尊ぶのはわたしの望むところではないとまで言い切っています。実に公明正大であり、自説よりも学問と真実探求の方が大切とする、宣長の偉大さがうかがわれる文章です。この本居宣長の言葉を〝学問の金言〟として伝えてこられた村岡先生と古田先生の真摯な姿勢を、わたしたち古田学派の研究者は正しく受け継ごうではありませんか。
 なお、引用した岩波文庫の『玉勝間』は1934年の発行で、校訂者は村岡典嗣先生です。冒頭の解説文も村岡先生の手になるもので、「昭和九年五月十三日」の日付が記されています。


第1845話 2019/02/27

「そしらむ人はそしりてよ」(『玉勝間』本居宣長)

 古田先生の恩師、村岡典嗣先生が本居宣長研究で名声を博されたことは有名です。名著『本居宣長』を何と二十代のとき(明治44年[1911]、27歳)、しかも仕事(『日独新報』記者)の傍ら困窮生活の中で執筆、上梓されています。そのまっすぐな生き様は古田先生の人生を見ているかのようです。見事な師弟と言わざるを得ません。お二人の先生に学ぶべく、「洛中洛外日記」で本居宣長の『玉勝間』の一節「そしらむ人はそしりてよ」を今回のタイトルに選びました。
 村岡先生が本居宣長の学問の姿勢に深く共感されていた痕跡は、各著作に残されています。また、古田先生が学問の金言としてわたしたちに紹介されていた本居宣長の言葉「師の説にななづみそ」は、本居宣長の『玉勝間』が出典ですが、この言葉は村岡先生も大切にされていたものです。この思想を古田先生は村岡先生から受け継がれたものと思われます。
 『玉勝間』には「師の説になづまざる事」という一節があり、次のような言葉が記されています。

 「そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし」(『玉勝間』岩波文庫、上巻93頁)

 宣長が師の説とは異なる説を述べたことに対して、師の教えに背くものとして他の弟子から非難されていたようです。そのような声に対して「そはせんかたなし」として、他人からの非難を恐れて真実追究の〝道を曲げ、古(いにしえ)の意を曲げる〟ことが師の心に適うものであろうかと宣長は反論しています。
 畏(おそ)れながら、わたしにはこの宣長の言葉(気持ち)は痛いほどよくわかります。昨年11月に開催された「八王子セミナー」の席上で、ある発表者から、古賀は古田説と異なる説(前期難波宮九州王朝副都説)を発表しているとして激しく非難されたことがありました。わたしの説がどのような根拠と理由により間違っているのかという学問的批判であれば大歓迎なのですが、「古田先生の説とは異なる」という理由での非難でした。このときのわたしの心境がまさに「そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし」だったのです。
 他方、そうした非難とは全く異なり、古田先生の〝学問の原点〟の一つとして本居宣長の「師の説にななづみそ」があると発表された方もありました。どちらの姿勢・発言が古田先生の学問を正しく受け継いでいるのかは言うまでもないことでしょう。(つづく)


第1844話 2019/02/26

紀元前2世紀の硯(すずり)出土の論理

 福岡県久留米市の犬塚幹夫さんから吉報が届きました。紀元前2世紀頃の「国産の硯」が糸島市と唐津市から出土していたという新聞記事(2019.02.20付)の切り抜きが送られてきたのです。朝日新聞・毎日新聞・西日本新聞の福岡版です。記事量は毎日新聞が一番多かったのですが、学問的には西日本新聞の解説が最も優れていました。同記事のWEB版を本稿末尾に転載しましたので、ご覧ください。
 今回の出土遺跡は福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と佐賀県唐津市の中原(なかばる)遺跡で、弥生中期中頃(紀元前100年頃)と編年されています。今回の新聞報道を受けて、〝やはり弥生中期まで遡ったか〟と、わたしは驚きと同時に論理的納得性を感じました。それは「天孫降臨」の時期との関係で、重要な問題を惹起させるものだからです。
 古田説によると天孫降臨は弥生時代の前期末から中期初頭とされています。その理由はこの時期に西日本の遺跡から金属器が出土し始めることから、日本列島に金属器で武装した集団が侵入した痕跡と見なし、それを記紀に見える「天孫降臨」事件のことと理解されたことによります。ただし、弥生時代の編年がより古くなる学界の動向もあり、その実年代は再検討が必要とされました。
 今回の硯の時代が弥生中期中頃と編年されていることから、それは早ければ「天孫降臨」の50年後、遅くても100年後頃と推定できます。そうであれば、金属器で武装した天孫族(倭人)はその頃から文字(漢字)を使用していた可能性が高まったことになります。もちろん彼らは前漢鏡に記された文字の意味も理解していたであろうし、自らも漢字漢文を初歩的ではあれ受容し、自らの名前や歴史を漢字漢文で記そうとしたであろうことも、当然の論理の帰結と思われるのです。
 この漢字を受容していた天孫族が、「天孫降臨神話」に登場する神々の名前を漢字表記していたとなると、記紀に見える神々の漢字表記の中には「天孫降臨」時代に成立していたものがあるのではないでしょうか。少なくとも、そうした可能性をも意識した文献史学の研究方法の確立が必要となりました。すなわち、今回の硯の発見は、記紀研究等において、そうした学問的配慮を要求する時代の幕開けを告げたのです。

【西日本新聞 WEB版】2019年02月20日 06時00分
弥生中期に硯製造か
糸島、唐津の遺跡 国学院大の柳田氏発表「国内最古級」

 弥生時代中期中ごろに国内で板状硯(すずり)を製造した痕跡を福岡県糸島市と佐賀県唐津市の遺跡の遺物から確認した、と国学院大の柳田康雄客員教授が19日発表した。柳田教授によると弥生時代中期中ごろは紀元前100年ごろで、国内最古級。中国で同様の硯が現れる時期と重なり、世界でも「最古級」の国産板状硯の存在は、日本での文字文化の受容がかなり早かったことを示唆し、弥生時代像を大きく変える可能性もある。
 硯は、中国では自然石を利用した石硯が紀元前200年ごろの前漢初期に出現したとされる。長方形の板状硯は石を薄くはいで形を整え、木の板にはめ込んで使用した。近年、北部九州を中心に弥生時代から古墳時代初頭にかけての硯が相次いで確認されている。
 硯の製造が判明したのは、糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と唐津市の中原(なかばる)遺跡。潤地頭給遺跡からは工具とみられる石鋸(いしのこ)2片と、厚さ0.6センチ、長さ4.1センチ以上、幅3.6センチ以上の硯未完成品の一部が出土。中原遺跡では厚さ0.7センチ、長さ19.2センチ、幅7,2センチ以上の大型硯未完成品をはじめ、小型硯の未完成品、石鋸1片、墨をするときに使う研石の未完成品があった。いずれも柳田教授が過去の出土品の中から見つけた。
 従来、前漢が朝鮮半島北部に楽浪郡を設置(紀元前108年)したことが朝鮮半島や日本に文字文化が広がるきっかけとなったと考えられてきた。今回の発表で、硯の出現が楽浪郡設置よりも古くなる可能性もあるが、柳田教授は楽浪郡を経由せずに文化が日本に波及した可能性も想定する。
 九州大の溝口孝司教授(考古学)は、硯の製造時期について「もう少し証拠を固める必要がある」としながらも、硯の確認が相次ぐ状況を踏まえ「柳田氏の調査は尊重すべき情報。今後、竹簡や硯を置いた台など、硯以外の文字関連遺物がないか、慎重に調べる必要がある」と話す。柳田教授は24日に奈良県である研究会で、今回の結果を報告する。
=2019/02/20付 西日本新聞朝刊=


第1842話 2019/02/20

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)

 前回までは『大宰府の研究』掲載の考古学論文を中心に紹介してきましたが、同書にはちょっと趣が異なる論文もあります。森弘子さん(福岡県文化財保護審議会会員)の「筑紫万葉の風土 ―宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか―」です。これは古代歌謡学とでもいうべきジャンルの論文ですが、わたしはこのサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」に興味を引かれ、読み始めました。

 というのも、わたしは『古今和歌集』に見える阿倍仲麻呂の有名な歌、「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に いでし月かも」の「みかさの山」は奈良の御蓋山(標高約二八三m)ではなく太宰府の東にそびえる三笠山(宝満山、標高八二九m)のこととする古田説を支持する論稿を発表し、その中で万葉集に見える「みかさ山」も、通説のように論証抜きで奈良の御蓋山とするのではなく、筑紫の御笠山(宝満山)の可能性も検討しなければならないとしていたからです。森弘子さんの論文のサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」を見て、わたしと同様の問題意識を持っておられると思い、その論証と結論はいかなるものか興味を持って読み進めました。

 論文冒頭に、「秀麗な姿で聳える『宝満山』」「宝満山は古くは『竈門山』とも『御笠山』とも称し」と紹介された後、「筑紫万葉」とされる『万葉集』の歌を分析されています。古代歌謡に対する博識をいかんなく発揮されながら論は進むのですが、論文末尾に結論として次のように記されています。

 「宝満山の歌が一首も万葉集にないのは、たまたまのことかも知れない。しかしやはりこの山が、歌い手である都から赴任した官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかったということであろう。」(557頁)万葉集になぜ宝満山が歌われていないのかという鋭い問題意識に始まりながら、論じ尽くした結果が「たまたまのことかもしれない」「官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかった」では、何のための論文かと失礼ながら思ってしまいました。宝満山が御笠山という別名を持っていたことまで紹介されていながら、『万葉集』に見える「みかさ山」の中に宝満山があるのではないかという疑問さえ生じない。すなわち、『万葉集』に「みかさ山」とあれば疑うことなく「奈良の御蓋山」のこととしてしまう、この〝凍りついた発想〟こそ典型的な大和朝廷一元史観の「宿痾」と言わざるを得ないのです。(つづく)

※「みかさ山と月」に関しては次の拙稿や「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。

平城宮朱雀門で観月会 みかさの山にいでし月かも??(『古田史学会報』28号、1998年10月)
○「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』43号、2001年4月)
○〔再掲載〕「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』98号、2010年6月)
○三笠の山をいでし月 -和歌に見える九州王朝の残映-(『九州倭国通信』193号、2019年1月)
○「洛中洛外日記」
第731話 「月」と酒の歌
第1733話 杉本直治郞博士と村岡典嗣先生(1)


第1834話 2019/02/09

『古田史学会報』150号のご案内

 『古田史学会報』150号が発行されました。冒頭の服部論稿を筆頭に谷本稿など注目すべき仮説が掲載されています。

 服部さんは、太宰府条坊都市の規模が平城京などの律令官僚九千人以上とその家族が居住できる首都レベルであることを明らかにされ、太宰府が首都であった証拠とされました。この論理性は骨太でシンプルであり強固なものです。管見では古田学派による太宰府都城研究において五指に入る優れた論稿と思います。

 谷本さんの論稿は、『後漢書』に見える「倭国之極南界也」の古田説に対する疑義を提起されたもので、これからの論議が期待されます。わたしは「『論語』二倍年暦説の史料根拠」と「〈年頭のご挨拶に代えて〉二〇一九年の読書」の二編を発表しました。後者は古田先生の学問の方法にもかかわるソクラテス・プラトンの学問についての考察です。これもご批判をいただければ幸いです。

 今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』150号の内容
○太宰府条坊の存在はそこが都だったことを証明する 八尾市 服部静尚
○『後漢書』「倭国之極南界也」の再検討 神戸市 谷本 茂
○『論語』二倍年暦説の史料根拠 京都市 古賀達也
○新・万葉の覚醒(Ⅱ)
-万葉集と現地伝承に見る「猟に斃れた大王」- 川西市 正木 裕
○稲荷山鉄剣象嵌の金純度-蛍光X線分析で二成分発見- 東村山市 肥沼孝治
○〈年頭のご挨拶に代えて〉二〇一九年の読書 古田史学の会・代表 古賀達也
○各種講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1833話 2019/02/03

「実証主義」から「論理実証主義」へ(2)

 今朝は大阪へ向かう京阪特急の車内で書いています。本日、大阪市のドーンセンターで開催する「古田史学の会」新春古代史講演会の講師、山田春廣さんを宿泊ホテルまでお迎えに行きます。山田さんは昨日のうちに千葉県鴨川市から来阪されています。『日本書紀』景行紀の謎の記事「東山道十五国都督」について解明された山田さんの新説を講演していただくことになっており、わたしも楽しみにしています。

 今回、「洛中洛外日記」で新たに取り上げようとしている、〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡先生の言葉や思想の由来についてですが、20世紀前半にヨーロッパ(ウィーン学団など)で行われた哲学における「実証主義」批判と「実証主義」の対案として出された「論理実証主義」の影響を村岡先生は受けられたのではないかと、わたしは推察しています。というのも、村岡先生は早稲田大学で波多野精一教授の下で西洋哲学を専攻されており、当時のヨーロッパでのこうした哲学論争のことをご存じなかったとは考えられないからです。
 ウィキペディアなどによると、19世紀フランスの思想家オーギュスト・コントが提唱したとされる「実証主義」に対して、その限界が問題視された1920年頃から新たに「論理実証主義」(論理経験主義)が「ウィーン学団」と称される研究者たちから論議・提案されてきました。瞬く間に「論理実証主義」は西洋の哲学界や科学界に広まりました。その最中に村岡先生は欧州遊学されているのです。村岡典嗣著「日本學者としての故チャンブレン教授」(昭和10年。『続日本思想史学』〔昭和14年、1939年〕所収)によれば、次のようにスイス・ジュネーブでのチャンブレン教授との出会いが記されており、村岡先生がヨーロッパを訪問されていたことがわかります。

 「二月十五日、瑞西のジュネエヴで、八十五歳の高齢で永眠したチャンブレン教授については、我國でも十七日の諸新聞に訃が報ぜられて、すでに紙上に、ゆかりある追悼者によっての傳記、閲歴の紹介などを見た。吾人も亦、一九二三年の五月、獨逸遊學中伊太利に旅した途次ジュネエヴを訪うた時、恰かも教授の住まへるレエマン湖畔のホテル・リッチモンドに宿り合せ、二十一日の午後、日本風にいはば三階の、第三十六號の教授の居室を訪ねて、面談する幸ひを得た些かの機縁を有する。」(『続日本思想史学』357頁、岩波書店)

 この翌年の大正13年(1924)には、村岡先生は広島高等師範から東北帝国大学(法文学部教授、日本思想史科を開設)に移られるのですが、この「獨逸遊學」中に「論理実証主義」に触れられたのではないでしょうか。むしろ、ヨーロッパを席巻し始めた新たな思想潮流を学ぶために「獨逸遊學」されたのではないかとさえ思われるのです。そして、この「論理実証主義」との出会いが刺激となって、〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という言葉が生まれたのではないかと、わたしは推定しています。(つづく)

《ウィキペディアでの解説(抜粋)》
○「実証主義」(じっしょうしゅぎ、英: positivism、仏: positivisme、独: Positivismus)は、狭い意味では実証主義を初めて標榜したコント自身の哲学を指し、広い意味では、経験的事実に基づいて理論や仮説、命題を検証し、超越的なものの存在を否定しようとする立場である。

○「論理実証主義」(ろんりじっしょうしゅぎ、英: Logical positivism)とは、20世紀前半の哲学史の中で、特に科学哲学、言語哲学において重要な役割を果たした思想ないし運動。論理経験主義(英: Logical Empiricism)、科学経験主義とも言う。
 1920年代後半のウィーンでエルンスト・マッハの経験主義哲学の薫陶を受けたモーリッツ・シュリックを中心に結成したウィーン学団が提唱した。経験論の手法を現代に適合させ、形而上学を否定し、諸科学の統一を目的に、オットー・ノイラート、ルドルフ・カルナップなどのメンバーで活動したウィーンを中心とした運動である。その特徴は、哲学を数学、論理学を基礎とした確固たる方法論を基盤に実験や言語分析に科学的な厳正さを求める点にあり、その後の認識論及び科学論に重大な影響を与えた。


第1832話 2019/02/01

「実証主義」から「論理実証主義」へ(1)

 先月、多元的古代研究会の安藤哲朗会長と電話でお話しする機会がありました。年始のご挨拶を兼ねて、多くの意見交換を行うことができました。その中で〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡典嗣先生の言葉も話題となりました。安藤さんのお話によれば、〝このような言葉は古田先生の著書にも書かれておらず、古田先生から聞いたというのは古賀の嘘だ〟と信じておられる方がいるとのこと。このような虚偽情報を真に受けている方が未だにおられることに驚きました。と同時に、わたしの説明(反論)が不十分だったことを反省しました。
 今から三十数年前に古田先生の門を叩いて以来、わたしはこの〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡先生の言葉を古田先生から何度もお聞きしましたし、古くからの古田ファンや支持者(不二井伸平さん、西村秀己さん他)も聞いておられますから、まさか〝古賀の嘘〟と言われるとは夢にも思いませんでした。また、この言葉は古田先生の著作にも記されており、〝古田先生の著作に書かれていない〟と言われる方は、古田先生の著作を全て読んでおられないようです。多元的古代研究会の機関紙『多元』142号(2017年11月)の一面に掲載された拙稿「論証は学問の命(古田武彦)」でも次の古田先生の著書にこの言葉が記されていることを紹介しています。

○「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」1982年(昭和57年)、東北大学文学部『文芸研究』100〜101号所収。
 同論文はこの翌年『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版)に収録。
【以下、当該部分を引用】わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。(村岡典嗣)』と。
○『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)巻末の「日本の生きた歴史(十八)」2013年。
【以下、当該部分を引用】わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。「実証より論証の方が重要です。」と。

 このように、先生は著作中でも30年の永きにわたり、この言葉を綴っておられるのです。古くからの古田先生の支持者や近年の「日本の生きた歴史」の読者であればこの事実を知らないはずはありません。
 しかし、今回「洛中洛外日記」で新たに取り上げたいのは、〝学問は実証よりも論証を重んずる〟という村岡先生の言葉や思想の由来についてです。安藤さんとの会話の中で、「この言葉の意味について関西ではどのような検討や論議が行われているのか知りたい」とのご要望をいただき、わたしは「今年になって面白い問題に気づきましたので、もう少し勉強してからご説明することにします」と返答しました。その面白い問題とは20世紀前半にヨーロッパ(ウィーン学団など)で行われた「実証主義」批判と「実証主義」の対案として出された「論理実証主義」の研究経緯についてでした。(つづく)


第1816話 2019/01/03

新年の読書『職業としての学問』(4)

 ソクラテスやプラトンの学問の方法について深く具体的に知りたいと願っていたのですが、マックス・ウェーバーが『職業としての学問』で触れていることに気づきました。次の部分です。

 〝かの『ポリテイア』におけるプラトンの感激は、要するに、当時はじめて学問的認識一般に通用する重要な手段の意義を自覚したことにもとづいている。その手段とは、概念である。それの効果は、すでにソクラテスにおいて発見されていた。(中略)だが、ここでいうその意義の自覚は、ソクラテスのばあいが最初であった。かれにおいてはじめていわば論理の万力(まんりき)によって人を押えつける手段が明らかにされたのであり、ひとたびこれにつかまれると、なんびともこれから脱出するためにはおのれの無智を承認するか、でなければそこに示された真理を唯一のものとして認めざるをえないのである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、37頁)

 ここに記された「学問的認識一般に通用する重要な手段」としての「概念」という表現は難解です。しかし、「いわば論理の万力によって人を押えつける手段」ともあることから、「論理の万力」とは論理による証明、すなわち他者を納得させうる「論証」のことではないかと思います。
 もし、この理解が妥当であればソクラテスやプラトンの学問の方法論とは「論証」に関わることではないでしょうか。そうであれば、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉や岡田先生の「論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも」、そして古田先生がよく語っておられた「論証は学問の命」という言葉に示された「論証」、すなわち「論理の力」(論理の万力(まんりき)こそがソクラテスやプラトンの学問の方法論の象徴的表現なのではないでしょうか。
 プラトンが著した『ポリテイア』、すなわち『国家』を新年の読書の一冊に選んだ理由はこのことを確かめることが目的でした。もちろん、まだ結論は出ていません。


第1815話 2019/01/03

新年の読書『職業としての学問』(3)

 古田先生が学問について語られるとき、東北大学時代の恩師で日本思想史学を創立された村岡典嗣先生(むらおか・つねつぐ、1884-1946)の次の言葉をよく紹介されていました。

 「学問は実証よりも論証を重んずる」

 この村岡先生の言葉は、近年では2013年の八王子セミナーでも古田先生が述べられ、注目を浴びました。『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』巻末の「日本の生きた歴史(十八)」にそのことを書かれたのも2013年11月です。1982年(昭和57年)に東北大学文学部「文芸研究」100〜101号に掲載された「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」にもこの村岡先生の言葉が「学問上の金言」として紹介されています。同論文はその翌年『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版)に収録されましたので紹介します。

 「わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。〔43〕(村岡典嗣)』と。
 その意味するところは、思うに次のようである。“歴史学の方法にとって肝要なものは、当該文献の史料性格と歴史的位相を明らかにする、大局の論証である。これに反し、当該文献に対する個々の「考証」をとり集め、これを「実証」などと称するのは非である。”と。」(79頁)
 「〔43〕恩師村岡典嗣先生の言(梅沢伊勢三氏の証言による)。」(85頁)
(古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」『多元的古代の成立[上]邪馬壹国の方法』所収、駿々堂出版、昭和58年)

 このように、古田先生は30年以上前から、一貫して村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」を「学問の金言」として大切にされ、晩年まで言い続けられてきました。この「学問は実証よりも論証を重んずる」は〝古田先生の学問の原点〟である〝(二)論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。〟と意味するところは同じです。「論理の導き」とは「論証」のことであり、「たとえそれがいずこに到ろうとも」という姿勢こそ、「論証を重んずる」ことに他なりません。
 村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」と岡田先生の「論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも」が学問的に一致することに、昭和初期における両者の親交の深さを感じさせます。そしてその交流が古田武彦という希代の歴史家を生んだといっても過言ではありません。岡田先生は愛弟子の古田武彦青年を東北帝国大学の村岡先生に託されました。村岡先生も古田青年の入学を心待ちにされており、東北大学の同僚からは「君の〝恋人〟はまだ来ないのかね」と冷やかされていたとのこと。
 あるとき、古田先生になぜ村岡先生の東北大学に進まれたのですかとお訊きしたことがありました。「岡田先生の推薦であり、何の迷いもなく村岡先生のもとへ行くことを決めました」とのご返事でした。広島高校時代、古田先生は授業が終わると毎日のように岡田先生のご自宅へ行かれ、お話を聞いたとのことでした。ですから、その岡田先生の推薦であれば当然のこととして東北大学に進学されたのです。このような経緯により、東北大学で古田先生は村岡先生からフィロロギーを学び、ソクラテスやプラトンの学問を勉強するために、村岡先生の指示によりギリシア語の単位もとられました。こうして、古田先生の〝学問の原点〟の一つに「ソクラテスやプラトンの学問の方法」が加わりました。(つづく)


第1814話 2019/01/02

新年の読書『職業としての学問』(2)

 わたしは、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深める」と常々言ってきました。また、「異なる意見の発表が学問研究を進展させる」とも言ってきました。しかし、なかには自説への批判や異なる意見の発表に対して怒り出す人もおられ、これは〝古田先生の学問の原点〟の〝(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。〟とは真反対の姿勢です。
 わたしは化学を専攻し、仕事は有機合成化学(染料化学・染色化学)です。従って、自然科学においては、どんなに正しいと思われた学説も50年も経てば間違っているか不十分なものになるということを化学史の経験から学んできました。人文科学としての歴史学も、「科学」であるからには同じです。そのため、古代史研究においても新たな仮説を発表するときは、「今のところ、自説は正しいと、とりあえず考える」というスタンスで発表しています。これと同様のことをマックス・ウェーバー(1864-1920)は『職業としての学問』で次のように述べていますので、紹介します。同書は1917年にミュンヘンで行われた講演録です。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁)

 ここで述べられているマックス・ウェーバーの指摘は学問を志すものにとって、忘れてはならないものです。古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた、次の二つのこととも通底しています。〝(三)「師の説にななづみそ」(先生の説にとらわれるな)(本居宣長)、(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。〟(つづく)


第1813話 2019/01/01

新年の読書『職業としての学問』(1)

 みなさま、あけましておめでとうございます。

 年末から2019年の研究テーマなどを考えてきました。そして、古代史研究の他に、古田先生の「学問の方法」について、わたしが学んできたことや感じてきたことなどを「洛中洛外日記」などで紹介することをテーマの一つとすることにしました。
 古田先生の「学問の方法」については少なからぬ人が今までも述べてこられました。例えば昨年11月に開催された「古田武彦記念古代史セミナー」では大下隆司さん(古田史学の会・会員、豊中市)が具体的にレジュメにまとめて発表されており、参考になるものでした。特に次の4点を紹介され、わたしも深く同意できました。

 古田先生の〝わたしの学問の原点〟
(一)学問の本道は、あくまでソクラテス、プラトンの学問とその方法論にある。
(二)論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。
(三)「師の説にななづみそ」(先生の説にとらわれるな)(本居宣長)
(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。

 いずれも古田先生から何度も聞かされてきた言葉であり、先生の研究姿勢でした。セミナーでは質疑応答の時間が限られていましたので、この4点については賛意を表明しただけで質問は差し控えました。しかし、わたし自身もまだよく理解できていないのが(一)の〝学問の本道は、あくまでソクラテス、プラトンの学問とその方法論にある。〟でした。先生がこのように言われていたのはよく知っているのですが、〝ソクラテス、プラトンの学問とその方法論〟とは具体的に何を意味するのか、どのような方法論なのか、わたしは古田先生から具体的に教えていただいた記憶がありません。
 もしあるとすれば、(二)の〝論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。〟です。この言葉は古田先生の広島高校時代の恩師である岡田甫先生から講義で教えられたというソクラテスの言葉だそうです。ただ、プラトン全集にはこのような言葉は見つからないとのことでした。恐らくソクラテスの思想や学問を岡田先生が意訳したものと古田先生は考えておられました。わたしも『国家』や『ソクラテスの弁明』など数冊しか読んだことはありませんが、そのような言葉とは出会ったことがありません。ご存じの方があれば、是非、ご教示ください。
 こうした問題意識をずっと持っていましたので、この正月休みにプラトンの『国家』とマックス・ウェーバーの『職業としての学問』を久しぶりに読みなおしました。(つづく)