古田武彦一覧

第1533話 2017/11/04

古田先生との論争的対話「都城論」(3)

 『日本書紀』孝徳紀に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」の場所を古田先生は博多湾岸の愛宕神社と講演で話されたのですが、この古田仮説にわたしは疑問をいだいていました。それは次のような理由からでした。

 ①「難波長柄豊碕宮」が造営された7世紀中頃は白村江戦(663)の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が宮殿(太宰府の別宮)を造営するとは考えられない。
 ②7世紀中頃の宮殿遺構が当地からは発見されていない。
 ③近畿天皇家の孝徳が「遷都」したとする摂津難波の宮殿名を、『日本書紀』編者がわざわざ九州王朝の天子の宮殿名に変更して記さなければならない理由がない。本来の名前を記せばよいだけなのだから。

 このようにわたしは考えていました。特に①の理由については、これまで古田先生と散々論じてきたテーマであり、先生が言われてきたこととも矛盾していました。
 わたしと古田先生は、5世紀の「倭の五王」の宮殿がどこにあったのかで論争を続けていました。古田先生は太宰府都府楼跡(大宰府政庁Ⅰ期)とするご意見でしたが、わたしは大宰府政庁Ⅰ期出土の土器編年はとても5世紀までは遡らないし、堀立柱の小規模な遺構であり、倭王の宮殿とは考えられないと反論してきました。そして次のような対話が続きました。

古田「それならどこに王都はあったと考えるのか」
古賀「わかりません」
古田「水城の外か内か、どちらと思うか」
古賀「5世紀段階で九州王朝が水城の外側に王都を造るとは思えません」
古田「だいたいでもよいから、どこにあったと考えるか」
古賀「筑後地方ではないでしょうか」
古田「筑後に王宮の遺跡はあるのか」
古賀「出土していません」
古田「だったらその意見はだめじゃないですか」
古賀「だいたいでもいいから言えと先生がおっしゃったから言ったまでで、まだわかりません」

 およそこのような「論争的」会話が続いたのですが、合意には達しませんでした。しかし「水城の内側(南側)」という点では意見の一致を見ていました。
 こうした論議の経緯がありましたので、古田先生が「難波長柄豊碕宮」を「水城の外側」博多湾岸の愛宕神社とする仮説を出されたことを不思議に思ったものです。しかし、事態は更に「発展」しました。(つづく)


第1532話 2017/11/03

古田先生との論争的対話「都城論」(2)

 10年続いた古田先生との前期難波宮論争でしたが、実はいくつかの重要な合意形成もしてきました。その一つに『日本書紀』孝徳紀に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」についての見解です。
 一元史観の通説では「難波長柄豊碕宮」を法円坂の巨大宮殿遺構前期難波宮としているのですが、古田先生もわたしも地名が異なっているので、そこではないと意見が一致していました。わたしは大阪市北区の長柄・豊崎が地名が一致しており、そこを有力候補とする試案を発表しました。古田先生は博多湾岸の愛宕神社近辺の類似地名「名柄川」「豊浜」などを根拠に当地にあったとする仮説を発表されました。それぞれに根拠(地名の一致、類似)があるため、7世紀中頃の宮殿遺構の有無が決め手になるとわたしは指摘してきました。
 なお、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の本質は、あの国内最大規模の前期難波宮を九州王朝説の立場からどのように理解し位置づけるのかにありますから、孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」の場所の問題は直接には前期難波宮副都説とは関係ありません。この点を誤解された批判や論稿が散見されますので、指摘しておきたいと思います。
 この「難波長柄豊碕宮」について、古田先生は博多湾岸の愛宕神社とされたのですが、2008年1月の大阪市での講演会では次のように話されていました。

 「九州王朝論の独創と孤立について」(古田武彦講演会、主催「古田史学の会」、2008年1月19日)

 福岡市西区に「名柄(ながら)川」「名柄(ながら)浜」「名柄団地」があり、今は地図にないが「名柄(ながら)町」があった。それで「ナガラ」という地名はありうる。(中略)
 それで、わたしがここではないかと考えていたのが、そこの豊浜の「愛宕山」。愛宕神社がある。平地の中にしてはたいへん小高いので、今まで敬遠して上ったことはなかった。(中略)それで上に登ると絶景で、博多湾が目の下に見えている。そして岩で出来ていて、目の下が豊浜。(中略)
 九州王朝の歴史書で書かれていた「難波長柄豊碕宮」はここではないか。(中略)もちろんこの「難波長柄豊碕宮」は、太宰府の紫宸殿とは別のところにあります。別宮のような性質です。以上が「難波長柄豊碕宮」に対する現在のわたしの理解です。
(『古代に真実を求めて』第12集所収。古田史学の会編・明石書店、2009年)

 九州王朝の都城の所在地の変遷について、古田先生と論議を続けていましたので、この古田仮説にわたしは疑問をいだいていました。(つづく)


第1531話 2017/11/02

古田先生との論争的対話「都城論」(1)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』を読んで、わたしのことに触れられた箇所がいくつかあるのですが、中でも次の部分は学問的にも貴重で懐かしく当時のことを思い出しました。古田先生の三回忌も過ぎましたので、ご紹介したいと思います。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。」(223頁)

 ここで書かれているように、古田先生とは様々なテーマで意見交換や学問的討議、ときに激しい「論争的」応答もしてきました。わたしも先生も負けず嫌いな性格でしたので、先生のご自宅や電話で長時間論争したこともありました。ただし、わたしは終始一貫して敬語で応答しました。それは「師弟」間の礼儀ですし、31歳のとき古田史学に入門以来、何よりもわたしは古田先生を尊敬してきたからです。その気持ちは今でもまったく変わりありません(師弟間〔坂本太郎さんと井上光貞さん〕の学問論争のあり方について、古田先生から興味深いお話と関係論文をいただいたことがあるのですが、そのことは別の機会にご紹介します)。
 その「論争的」対話の一つに九州王朝や大和朝廷の都城論がありました。中でも最も長期間の応答が続いたのが、前期難波宮九州王朝副都説についてでした。大阪市中央区法円坂で発見された7世紀中頃の巨大宮殿「前期難波宮」を通説通り近畿天皇家の孝徳の宮殿とすることに疑念を抱いたわたしは、それを九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)を古田先生に話したことがありました。論文発表よりもかなり前のことでした。
 もちろん、古田先生は賛成されませんでしたが、それ以後、古田先生の反対意見に答えるべく10年間にわたり論文を発表し続けました。古田先生以外から出された反対意見に対しても、これでもかこれでもかと執念の研究と発表を続けたのです。そして2014年の八王子セミナーの席上で、ついに古田先生から「検討しなければならない」の一言を得るに至ったのです。もちろん、古田先生がわたしの説に賛成されたわけではありませんが、それまでの「反対意見表明」ではなく、検討すべき仮説の一つとして認めていただいたもので、その日の夜、わたしはうれしくてなかなか眠れませんでした。(つづく)


第1529話 2017/11/01

11月13日改訂しました。

『古田武彦の古代史百問百答』百考(6)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」において、古田先生は白村江戦の敗北後に唐軍の筑紫進駐により、九州王朝(倭国)は太宰府の「紫宸殿」を離れ、伊豫の「紫宸殿」に遷都したとする新説を提起されました。この新説と従来の古田説とは相容れない重要な問題があります。このことについて説明します。
 『日本書紀』天智紀によれば、白村江戦(663)の敗戦後、本格的な唐の筑紫進駐は天智八年是年条(669)に見え、約2000人の唐軍が派遣されたと記されています。天智10年11月条(671)にも2000人の派遣が記されています。これらも含めて天智紀には計5回の唐人「来日」が記されています。従って古田新説に依るならば、九州王朝の天子「斉明」の伊豫遷都は669年以前のこととなります。こうした理解に立つと、従来の古田説と徹底的に矛盾することがあります。それは「庚午年籍」はどこの誰により造籍が命じられたのかという問題です。この点について、従来の古田説が『古田武彦の古代史百問百答』「39 『近江遷都論』について」で次のように記されています。

 「すなわち、問題の『庚午年籍』が、大量に集中出土しているのは、『近江諸国』ではなく、筑紫諸国なのです。
 いわゆる『近江令』なるものに対して、
 (甲)近江令を中心とし、そこで発令されたもの--『通説』
 (乙)筑紫を中心とし、そこから発令されたもの。--これは九州王朝の史実からの『移用(盗用)』である。これがわたしの立場です。」(233頁)

 このように庚午年籍は近江令により造籍されたのではなく、筑紫を中心としてそこから出された筑紫令により造籍されたことになると説明されています。このように従来の古田説では庚午年籍の造籍は九州王朝が筑紫で発令したとされていたのですが、古田新説では庚午年籍が造籍された庚午(670)の年は既に唐軍が筑紫進駐しています。そのとき九州王朝の天子「斉明」は伊豫の紫宸殿に逃げていたとされており、筑紫で造籍を発令することなどできないのです。
 古田先生が指摘されているように、実際は筑紫諸国の庚午年籍は造籍されており、そうすると古田新説によれば筑紫に進駐した唐軍の制圧下で筑紫諸国の庚午年籍が造籍されたという奇妙なことになってしまいます。それほど九州王朝の造籍に協力的で理解のある唐の進駐軍であれば、「斉明」は太宰府を捨てて伊豫に遷都する必要などないからです。
 なお、庚午年籍は全国的規模で造籍されたことが、後代史書の記述から明らかとなっています。造籍事業とは単に各国に造籍を命じるにとどまらず、完成した諸国の戸籍を中央官庁に集め管理保存する必要があります。従って、そうした官僚群を収容する官衙も必要で、「紫宸殿」だけあればよいというものでもありません。ちなみに、670年(庚午年)頃の造籍事業と全国戸籍の管理保存が可能と推定できる宮殿と官衙遺跡は、日本列島内では太宰府、前期難波宮、近江大津宮の存在が知られています。
 古田先生がこの新旧の自説が持つ「庚午年籍の矛盾」に気づかれていたか否かは、今となってはわかりませんが、少なくとも古田新説(白村江戦後の伊豫遷都説)にはこの矛盾の解決が求められるでしょう。
 なお、古田先生が主張された筑紫諸国の庚午年籍の大量「出土」という表記については、「洛中洛外日記」1377話『古田武彦の古代史百問百答』百考(2)で論及しましたので、ご参照ください。


第1527話 2017/10/30

『古田武彦の古代史百問百答』百考(4)

 半年ぶりに「『古田武彦の古代史百問百答』百考」シリーズを再開します。『古田武彦の古代史百問百答』はファンや読者などからの質問に答えるという形式でテーマ別に編集されており、その時々の古田先生の意見の変化や問題意識のあり方などにも触れることができる好著です。そのために従来の見解と新たな見解に矛盾や非対応も散見されるのですが、古田史学の発展段階を知ることができ、むしろ同書の特徴と言ってもよいかもしれません。同書編集を担当された東京古田会の優れた業績の一つでしょう。
 他方、「誤解」に基づいた質問とその「誤解」を前提とした回答も見られ、読者としてはちょっと用心してかからなければならないケースもあります。いわゆる学術論文ではなく、読者との質疑応答という読みやすさの追求と、そのときどきの認識に基いた古田先生の回答という同書の性格からすれば仕方がないのかもしれません。先生の三回忌が過ぎたこともあり、特に学問上重要な「誤解」について説明することにします。
 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」で次のような質問がなされています。

「質問 斉明天皇は九州王朝の天子だったといわれますが、『日本書紀』の編者はなぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」

 この質問の背景には、古田先生が晩年に主張された仮説で、『日本書紀』の皇極と斉明は別人であり、斉明天皇は九州王朝の天子「斉明」のこととされたことがあります。そこで、質問者は九州王朝の存在を隠している『日本書紀』に何故九州王朝の天子の名前で斉明紀が記されたのかという疑問をもたれたものと思われます。
 この質問の趣旨や動機はよく理解できるのですが、実は複雑で大きな「誤解」が入り交じっています。それは次のような点です。わかりやすくするために箇条書きにします。

 ①『日本書紀』の神武天皇以降の一般的に称されている「○○天皇」の「○○」という漢字二字の呼称は漢風諡号と呼ばれ、『日本書紀』成立(720)の数十年後に淡海三船(722~785)により付記されたものと考えられています。ですから「斉明」も『日本書紀』編者が命名した天皇名ではなく、編纂時の『日本書紀』に記されていたものでもありません。
 ②「皇極」も同様に淡海三船が命名した漢風諡号で、『日本書紀』の皇極紀と斉明紀に記された天皇の和風諡号は共に「天豊財重日足姫天皇(あまとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」で、同一人物として記されています。
 ③従って、もし皇極紀と斉明紀に記された天豊財重日足姫天皇がそれぞれ別人であると認識して、漢風諡号を「皇極」と「斉明」とに書き分けたとするのであれば、それは『日本書紀』編者ではなく淡海三船が行ったということになります。
 ④諡号とは死後の謚(おくり名)ですから、同一人物に二つの諡号があるのは不自然です。ですから、『日本書紀』編者が皇極紀も斉明紀も同一の和風諡号「天豊財重日足姫天皇」を記しているのは当然です。
 ⑤他方、『日本書紀』には九州王朝の事績が転用(盗用)されていることを古田先生は指摘されていまから、斉明紀に九州王朝の記事がはめ込まれている可能性は大です。例えば「狂心の渠」説話など。
 ⑥従って質問の意図が、「斉明」という名称も九州王朝の天子の名前のはめ込みと理解しての質問なのか、斉明紀の記事に九州王朝の事績のみがはめ込まれているとしての質問なのかという問題があります。おそらくは前者の理解に立った質問と思われます。
 ⑦そうだとすれば、質問者は「斉明」という漢風諡号が『日本書紀』編者により編纂当初から記されたと「誤解」されていることになります。

 以上のように少々ややこしい背景と問題認識がうかがわれる質問なのです。(つづく)


第1525話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(3)

 ある頃から古田先生は白村江戦の年次を663年と言われるようになったのですが、そうした先生の認識の「揺らぎ」が『古田武彦の古代史百問百答』にも現れています。

 「九州年号の『白鳳』は白村江戦の前年(六六一)に発布されたものですが、その敗戦という一大変事を“通して”存続しています。しかも、二十三年間。敗戦(六六二もしくは六六三)からも、約二十年間の存続です。」(ミネルヴァ書房版〔2015年〕170頁、東京古田会版〔2006年〕76頁)

 このように、白村江戦を六六二年あるいは六六三年と両論の可能性を示唆する表現がなされています。更に遡った2000年1月22日の大阪市での講演会では次のように発言されています。

 「それで顕慶五年(六六〇年)を持統八年に当てはめて、九年・一〇年・十一年と年を追って持統天皇吉野宮行幸の記事を当てはめていきますと、最後の吉野宮行幸が持統十一年四月十四日になっていました。それが龍朔三年(六六三年)四月に当たるわけです。つまり「丁亥」を顕慶五年(六六〇年)という定点にしますと、後同じバランスで見ていきますと、最後の持統十一年四月十四日は、実際は龍朔三年四月十四日ということになるわけです。ところがその年の八月か九月のところで、白村江の戦いが行われる。逆に言うと白村江の戦いが行われたその年の三・四カ月前までは、吉野へ行っている。ところが白村江の戦い以後は行っていない。そういう形になる。」(古田武彦講演会「壬申の乱の大道」、古田史学の会HPに掲載)

 1990年代中頃から、『旧唐書』百済伝の記事からは白村江戦の年次を特定できないとする丸山さんの主張を支持する意見が古田学派内でも発表されるようになり、古田先生の見解にも変化が現れてきたように思います。(つづく)


第1521話 2017/10/22

「桐原氏念書」の疑念

 昨日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。11月・12月もドーンセンターです。今日は台風が近づく中での衆院選投票日です。
 例会では、水野顧問から安本美典著『邪馬台国全面戦争 捏造の「畿内説」を撃つ』が紹介されました。同書では、古田先生が和田家文書偽作に荷担(古文書捏造)したとする事実無根の中傷がなされており、その「証拠」として「桐原氏念書」なるものなどが掲載されていました。以前にも同じものが『季刊邪馬台国』誌に掲載されたことがありますが、古田先生が亡くなられたこのタイミングで再掲載されたものと思われます。
 わたしは古田先生とともに桐原氏とは二度京都でお会いしたことがあります。一度目は京都タワーホテルの会議室を借りて、ビデオ録画機材などを持ち込んで長時間にわたり面談しました。水野顧問(当時、古田史学の会・代表)も同席されました。二度目は京都駅前の阪急ホテルのレストランで、桐原氏の娘さんも同席されました。これらの経緯については別途詳述したいと思いますが、今回の和田家文書偽作依頼の証拠とされた「桐原氏念書」なるものも奇妙な内容で、そこには「レプリカ作成」を依頼されたと記されており、「偽作依頼」や「古文書捏造」などとはされていません。このワープロ書きされた「念書」の「自筆署名」部分を桐原氏は自分が書いたものではないと面談では主張されていました。いずれにしても「レプリカ作成依頼」が安本氏の著書では「古文書捏造」へと変質しており、かなり悪質な情報操作と言わざるを得ません。「古田史学の会」としてどのように対応するのか、無視するのかも含めて検討が必要かもしれません。
 この他にも多彩な研究報告が続きましたが、中でも原幸子さんの住吉大社(住吉神)に関する多方面からの調査研究は、九州王朝(倭国)の近畿への進出過程を復元する上で重要な切り口となるかもしれません。これまでの研究成果を整理して、『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 大原さんは例会初発表でした。木佐敬久氏の著書の紹介でしたが、わたしは同書を書店で立ち読みしただけでしたので、その内容をより詳しく知ることができました。藤田さんは野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の著書への批判を試みられました。堪能な中国語を交えての発表には驚きました。
 10月例会の発表は次の通りでした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①三国志は何故「倭人」なのか(高松市・西村秀己)
②『魏志』倭人伝 行程についての再考察(奈良市・出野正)
③木佐敬久氏の「かくも明快な魏志倭人伝」を読んでの感想、紹介(大山崎町・大原重雄)
④なかったとされた「住吉神領」(奈良市・原幸子)
⑤安本美典氏『邪馬台国全面戦争 捏造の「畿内説」を撃つ』掲載「桐原氏念書」について(奈良市・水野孝夫)
⑥仏教と神道の棲み分けと十七条憲法(八尾市・服部静尚)
⑦「台湾史料」探索・後日談(神戸市・谷本茂)
⑧県(縣)と評と郡の関係をめぐって(神戸市・谷本茂)
⑨「南與倭接」を考える -野田説批判-(宝塚市・藤田敦)
⑩近畿王朝内における歴史の改ざん(茨木市・満田正賢)
⑪九州王朝(倭国)の四世紀〜五世紀にかけての半島進出(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 筑紫土塁主要部の取り壊し決定・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念福岡(10/08)、東京(10/15)の報告。続いて松本市(11/14)で開催(邪馬壹国研究会・松本と共催)・新入会員情報・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(10/27「難波宮の官衙に官僚約八千人」服部静尚さん)・会費納入状況・「古田史学の会」関西例会の会場、11月・12月(ドーンセンター)の連絡・1月「古田史学の会」新春講演会(i-siteなんば)・会員の活動状況報告・市大樹さんの講演会聴講報告・その他


第1513話 2017/10/07

すみません。鷲尾愛宕神社の海抜26mを海抜68mに訂正

福岡市西区の愛宕神社初参拝

 明日の久留米大学福岡サテライト教室での講演会のために、今日から福岡入りしました。時間があったので、福岡市西区姪浜の鷲尾愛宕神社を初参拝しました。博多湾や福岡市街を一望できるスポットです。急峻な参道を登ると博多湾に浮かぶ能古島や志賀島が眼前に広がります。山頂に愛宕神社社殿があり、そこはそれほど広い場所ではなく、社殿と社務所と展望台という感じでした。
 古田先生によれば『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」はこの愛宕神社の地とされています。そこで、その愛宕神社を実見したいと願っていました。今日、当地を初めて訪れて、思っていたよりも標高(海抜68m)があり、急峻で、頂上の社殿スペースが狭いということがわかりました。従って、博多湾岸を見下ろす小規模な「砦」、あるいは「物見台」には適地ですが、7世紀中頃の九州王朝(倭国)の天子の宮殿にふさわしい所とはとても思えませんでした。何よりも九州王朝の天子の宮殿を建てられるようなスペースがなく、少なくとも数百人には及ぶであろう、天子家族と衛兵・従者・側用人らの生活に必要な水源もないようです。それとも、衛兵や従者らは水と食料を持参し、山中に野営でもしたとするのでしょうか。戦場であればともかく、『日本書紀』に記されるほどの天子の宮殿に対して、わたしにはそうした光景は想像不可能です。
 また、この海岸に接した位置に天子の宮殿を造営しなければならない理由も不明です。もし造るのなら、より安全な水城の内側ではないでしょうか。当地は白雉改元の儀式や全国を評制支配する政治拠点には不適で、『日本書紀』にわざわざ「難波長柄豊碕宮」と記されるような場所とは思われませんでした(この点については古田先生も気づいておられたようで、そのことについては別途紹介します)。更に7世紀中頃の有力者(九州王朝の天子)が居したとするような現地伝承も見あたりません。
 古田先生が自説の根拠とされた地名の「類似」(那の津、名柄川、豊浜)にしても、愛宕神社の北側の地名が「豊浜」ですから、神社がある愛宕山(旧名:鷲尾山)を「豊碕」と推定する根拠は穏当と思います。しかし「長柄(ながら)」の根拠とされた名柄川は約1.5kmほど西側ですし、「ながら野」は南西方向へ約2.5kmの所にあり、神社のある「愛宕」とは別の場所です。「難波」地名も同地域には見あたりません。ですから、地名の「類似」という根拠もあまり学問的説得力を感じられません。
 もっとも、現存地名やその位置・範囲が7世紀中頃と同じかどうか不明ですから、「類似」地名による論証成立の是非は判断し難いと言わざるを得ません。やはり「決め手」は7世紀中頃の宮殿遺構の出土、あるいはその考古学的痕跡の発見です。これが明確になれば「一発逆転」が可能かもしれません。
 以上が現地訪問の感想ですが、結論を急がず、引き続き調査検討を進めたいと思います。


第1461話 2017/07/22

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(10)

 前期難波宮九州王朝副都説への批判・対案として出された「天武朝」造営説が、文献史学でも考古学でも成立困難であることを説明してきました。一元史観の古代史学界でも考古学界でも前期難波宮「孝徳期」造営説が事実上の定説となっていることも、それだけ合理的な根拠があるからです。それにもかかわらず、なぜ古田学派内から、どう考えても「無理筋」の「天武朝」造営説が出されてきたのでしょうか。
 わたしはその理由について、ほぼ見当がついています。このテーマについては古田先生との10年にわたる意見交換や間接的な「論争」がありました。古田先生は前期難波宮を『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿ではないかと考えておられましたが、ついにそのことを論文に書かれることはありませんでした。そして、2013年の八王子セミナーにて「検討しなければならない」との発言に至ったのですが、それもかなわないままお亡くなりになられました。
 古田先生との本件に関する応答や背景について、いずれ稿を改めて論じたいと思います。それは7世紀における九州王朝の実体に関する認識(諸仮説)の是非にかかわる問題でした。(完)


第1440話 2017/07/01

村岡典嗣「学問には『実証』より論証を要する」

 わたしが30年前に古田先生の門を叩いてから、学問における論証の大切さを折に触れて学んだのですが、そのことを疑う方もおられるようです。
 村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉の意味のわたしなりの解説を「洛中洛外日記」で連載し、その後、『古田史学会報』にも転載しました。それは古田先生がまだご健在だった2013年のことで、「洛中洛外日記」第622話から第639話まで9回にわたって掲載しました。
 もし、わたしが古田先生から学んでもいないことを学んだとして「洛中洛外日記」で連載し、『古田史学会報』に転載したのなら、それを読まれた先生からお叱りをうけたはずです。しかし、先生からは何もご指摘などはありませんでした。
 また、わたしの言っていることが嘘だと思われたのであれば、古田先生に直接確認することも可能だったはずです。先生ご健在の時は「学問は実証よりも論証を重んずる」をわたしが解説していても、どなたからもご批判はありませんでしたが、先生がなくなられると突然“「古田史学の会」や古賀の主張は古田先生の学問とは真反対だ”との非難が始まるのは何故でしょうか。理解に苦しみます。
 わたしは31歳のとき古田先生に初めてお会いしたのですが、そのころから何度も「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生の言葉を講演会や個人的会話などでもお聞きしてきました。おそらく古くからの古田先生の支持者やファンの方も同様だと思います。
 この村岡先生の言葉は、近年では2013年の八王子セミナーで古田先生が述べられ、注目を浴びました。「洛中洛外日記」1439話で紹介した『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)の巻末の「日本の生きた歴史(十八)」にそのことを書かれたのも2013年11月です。わたしが知るところでは、1982年(昭和57年)に東北大学文学部「文芸研究」100〜101号に掲載された「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」にこの村岡先生の言葉が「学問上の金言」として紹介されています。同論文はその翌年『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版)に収録されました。下記に転載します。

 「わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。〔43〕(村岡典嗣)』と。
 その意味するところは、思うに次のようである。“歴史学の方法にとって肝要なものは、当該文献の史料性格と歴史的位相を明らかにする、大局の論証である。これに反し、当該文献に対する個々の「考証」をとり集め、これを「実証」などと称するのは非である。”と。」(79頁)
 「〔43〕恩師村岡典嗣先生の言(梅沢伊勢三氏の証言による)。」(85頁)
(古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 ーー中国古典と日本古代史」『多元的古代の成立[上]邪馬壹国の方法』所収、駿々堂出版、昭和58年。初出は東北大学文学部「文芸研究」100〜101号、昭和57年)

 このように、古田先生は30年以上前から、一貫して村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」を「学問の金言」として大切にされ、学問にとって実証よりも論証が重要であると晩年まで言い続けられてきたのです。そして、わたしは若い頃からその言葉を古田先生から聞き続けてきたのです。


第1439話 2017/07/01

古田武彦「学問にとって重要なのは『論証』」

 わたしが古田先生から繰り返し聞かされた言葉があります。それは学問における論証の重要性に関することで、「論証は学問の命」という短い言葉でした。あるいは村岡典嗣先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉も教えていただきました。この古田先生の教えは、わたしの学問研究における生涯の指針となっています。このことは「洛中洛外日記」などで何度も述べてきたところですから、読者のみなさんはご承知のことと思います。
 ところが、古田先生がお亡くなりになったとたん、“「実証よりも論証」などという古賀や「古田史学の会」の主張は古田先生の学問とは真反対である”と非難する声が聞こえてきました。これは村岡先生や古田先生の教えに対する誤解、あるいは意図的な曲解と言わざるを得ないのですが、古田史学や学問を理解する上で大切な問題ですので、改めて事の真実を明らかにしておきたいと思います。
 もちろん「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生の言葉や、それを受け継ぐ古田先生や古賀の理解は間違いであると批判されるのは個人の自由ですから、まったくかまわないのですが、その場合はわたしと古田先生の教えが「真反対」というのではなく、“村岡も古田も古賀も自分の考え(論証よりも実証)とは真反対である”と正確に批判していただきたいものです。
 このような「古田史学の会」やわたしへの非難に対して、『東京古田会ニュース』No.173に掲載された拙稿で、古田先生が「学問にとって重要なのは『論証』」と著書で記されている事を紹介しました。その当該部分を転載しておきます。「学問は実証よりも論証を重んじる」とするわたしと古田先生の意見が「真反対」などとする批判(いいがかり)がいかに間違ったものであるかが明白となることでしょう。

【以下、『東京古田会ニュース』No.173から転載】
「論証」は学問の命
 –古田先生の言葉と思い出–
              古賀達也
 (前略)
六、論証こそ学問の命

 「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」
 「学問は実証よりも論証を重んずる」
 こうした言葉に現れているように、古田先生は学問にとって「論理」や「論証」がいかに大切かを繰り返し強調されてきました。そのことがはっきりと著書にも残されていますので、ご紹介します。
 『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)の巻末の「日本の生きた歴史(十八)」に収録された古田先生の論文“「論証と実証」論”に次のように記されています。当該部分を引用します。

 《以下、引用》
日本の生きた歴史(十八)
 第一 「論証と実証」論
      一
 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
 けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
 助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。
      二
 今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
 「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
 (中略)
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは「論証」、この二文字だったようです。
 《引用終わり》

 このように古田先生は「実証より論証の方が重要」であることの解説のためにわざわざ一章を割かれているのです。この古田先生の言葉に示された“学問における「論証」の重要性”を深く重く受け止め、わたしはこれからも古代史研究を進めていきたいと思います。


第1435話 2017/06/28

「古田史学の会」会則の思い出

 過日の「古田史学の会」会員総会で会則の一部変更を承認していただきました。古田先生ご逝去に伴う最小限の変更で、「第二章 目的」は次のようになりました。

〔旧〕本会は、古田武彦氏の研究活動を支援し、旧来の一元通念を否定した氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

〔新〕本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

 総会では目的に古田史学の方法論や古田説を具体的に書き加えてはどうかとするご意見も出されましたが、この会則を大きく変更する必要はなく、逆に大きく変更するとその説明と論議がこの会則のもとに入会された全会員間で必要となることもあり、最小限に留めました。
 この会則は「古田史学の会」創設後に古田先生や中小路駿逸先生ともご相談し、ご了解を得たうえで決められたものであり、わたしとしては基本的に変更する必要性はないと考えています。
 会則決定のことを『古田史学会報』9号(1995年9月25日)の編集後記に次のようにわたしは記しました。

▽初めての会員総会で、無事会則採択され、喜んでいます。同会則は会の将来に無用な混乱や道を誤らないようにする為に中小路駿逸先生の御助言をいただきながら作ったものです。今後は「細則」により、詳細についても整備していきたいと考えています。

 ここでいう中小路先生のご意見は、『古田史学会報』8号(1995年8月25日)にご寄稿いただいた次の論稿に記されています。全文はHP「新古代学の扉」に収録していますので、ぜひお読みいただければと思います。

『古田史学会報』8号より部分転載

古田史学の会のために
            中小路駿逸

(前略)
 古田武彦氏の言説に強烈な関心を(思わくはいろいろ違っても)持つ人々が集まってできた(と私は思っているのだが)いくつかの会のなかの「市民の古代研究会」という会が、別れるの別れないのとゴタゴタしていたとき、私は「旗印をハッキリと」と「市民の古代ニュース(一二六号)」に書いた。古田氏の言説が「近畿大和なる天皇家の王権は、七世紀よりも前から日本列島内で唯一の卓越して尊貴な中心的権力であった」という「一元通念」を学理上「非」なりとしている一点(この一点で古田説は通念に対して決定的に勝ったのである)に、同意するか、明言せずに伏せるか、ハッキリしなさい、という趣旨を述べたものであった。ゴタゴタの原因の肝心カナメのカンどころはここにあり、ここが分かれ目となって会は少なくとも二つのグループに分かれると見、この「ことのスジミチ」が後世にハッキリわかるような記録を、シッカリ残しておきたいと思ったからである。
 私が「古田武彦氏についていくか、いかないか」とか「古田氏の学問のどこに、どういう意味で関心を持つか、持たないか」などで分けようとしなかったのはなぜか、おわかりであろう。そんな「対古田学態度」などで分けようとしたら最後、答は千差万別 、千変万化、あらゆる言い抜けが可能となって分類は無意味となり、何よりも、肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。この規準を用いれば、ありとあらゆる錯乱(無知、ウソ、ゴマカシ、スリカエ、だまし、そういうのをすべて含め、一括して「錯乱」と言っておく。こういうものをこまかく詮索して分類したってしかたがあるまい。)が、ゴタゴタの前後にわたってみずからの正体を自主的にさらけだして記録に残すこと、明らかだからである。
 (中略)
 この「名分に関する、信仰を含む宣言」を「史実宣言」へと横滑りさせ、この「名分」に合うように歴史のワク組みを構想した「錯乱」の所産が「一元通 念」なのだった。--私は今、そう考えているのである。古田氏の指摘はこの「錯乱」を非なりとし、その裏づけを提示した私も、同様これを非とし、歴史像を通念型から古代の文献の示しているものに返せ、と要求している。たとえこの通念が数百年、あるいは千年余、日本人の心を規制し、文化の深部に根付いているように思われていようとも、より深い基層にあるものが真実ならば、そこに復帰して当然ではないか。「一元通念を非とする。」--この一句に私が固執する意味がおわかり願えようか。日本の文化が、精神が、ほんとに確かな基礎に立ったものになれるかなれないか、その分かれ目がこの一句にある。私はそう思っているのである。
  「古田史学の会」の会則案には、この肝要の一句が入っているようである。この一句が会の総会で承認されるか否かを、はるかな過去からの歴史と、これから歴史として形成されるのを待つ、限り知られぬ未来とが、深い関心をこめたまなざしをもって見守っているのである。
 (なかこうじしゅんいつ・追手門学院大学教授)