古田武彦一覧

第1525話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(3)

 ある頃から古田先生は白村江戦の年次を663年と言われるようになったのですが、そうした先生の認識の「揺らぎ」が『古田武彦の古代史百問百答』にも現れています。

 「九州年号の『白鳳』は白村江戦の前年(六六一)に発布されたものですが、その敗戦という一大変事を“通して”存続しています。しかも、二十三年間。敗戦(六六二もしくは六六三)からも、約二十年間の存続です。」(ミネルヴァ書房版〔2015年〕170頁、東京古田会版〔2006年〕76頁)

 このように、白村江戦を六六二年あるいは六六三年と両論の可能性を示唆する表現がなされています。更に遡った2000年1月22日の大阪市での講演会では次のように発言されています。

 「それで顕慶五年(六六〇年)を持統八年に当てはめて、九年・一〇年・十一年と年を追って持統天皇吉野宮行幸の記事を当てはめていきますと、最後の吉野宮行幸が持統十一年四月十四日になっていました。それが龍朔三年(六六三年)四月に当たるわけです。つまり「丁亥」を顕慶五年(六六〇年)という定点にしますと、後同じバランスで見ていきますと、最後の持統十一年四月十四日は、実際は龍朔三年四月十四日ということになるわけです。ところがその年の八月か九月のところで、白村江の戦いが行われる。逆に言うと白村江の戦いが行われたその年の三・四カ月前までは、吉野へ行っている。ところが白村江の戦い以後は行っていない。そういう形になる。」(古田武彦講演会「壬申の乱の大道」、古田史学の会HPに掲載)

 1990年代中頃から、『旧唐書』百済伝の記事からは白村江戦の年次を特定できないとする丸山さんの主張を支持する意見が古田学派内でも発表されるようになり、古田先生の見解にも変化が現れてきたように思います。(つづく)


第1521話 2017/10/22

「桐原氏念書」の疑念

 昨日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。11月・12月もドーンセンターです。今日は台風が近づく中での衆院選投票日です。
 例会では、水野顧問から安本美典著『邪馬台国全面戦争 捏造の「畿内説」を撃つ』が紹介されました。同書では、古田先生が和田家文書偽作に荷担(古文書捏造)したとする事実無根の中傷がなされており、その「証拠」として「桐原氏念書」なるものなどが掲載されていました。以前にも同じものが『季刊邪馬台国』誌に掲載されたことがありますが、古田先生が亡くなられたこのタイミングで再掲載されたものと思われます。
 わたしは古田先生とともに桐原氏とは二度京都でお会いしたことがあります。一度目は京都タワーホテルの会議室を借りて、ビデオ録画機材などを持ち込んで長時間にわたり面談しました。水野顧問(当時、古田史学の会・代表)も同席されました。二度目は京都駅前の阪急ホテルのレストランで、桐原氏の娘さんも同席されました。これらの経緯については別途詳述したいと思いますが、今回の和田家文書偽作依頼の証拠とされた「桐原氏念書」なるものも奇妙な内容で、そこには「レプリカ作成」を依頼されたと記されており、「偽作依頼」や「古文書捏造」などとはされていません。このワープロ書きされた「念書」の「自筆署名」部分を桐原氏は自分が書いたものではないと面談では主張されていました。いずれにしても「レプリカ作成依頼」が安本氏の著書では「古文書捏造」へと変質しており、かなり悪質な情報操作と言わざるを得ません。「古田史学の会」としてどのように対応するのか、無視するのかも含めて検討が必要かもしれません。
 この他にも多彩な研究報告が続きましたが、中でも原幸子さんの住吉大社(住吉神)に関する多方面からの調査研究は、九州王朝(倭国)の近畿への進出過程を復元する上で重要な切り口となるかもしれません。これまでの研究成果を整理して、『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 大原さんは例会初発表でした。木佐敬久氏の著書の紹介でしたが、わたしは同書を書店で立ち読みしただけでしたので、その内容をより詳しく知ることができました。藤田さんは野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の著書への批判を試みられました。堪能な中国語を交えての発表には驚きました。
 10月例会の発表は次の通りでした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①三国志は何故「倭人」なのか(高松市・西村秀己)
②『魏志』倭人伝 行程についての再考察(奈良市・出野正)
③木佐敬久氏の「かくも明快な魏志倭人伝」を読んでの感想、紹介(大山崎町・大原重雄)
④なかったとされた「住吉神領」(奈良市・原幸子)
⑤安本美典氏『邪馬台国全面戦争 捏造の「畿内説」を撃つ』掲載「桐原氏念書」について(奈良市・水野孝夫)
⑥仏教と神道の棲み分けと十七条憲法(八尾市・服部静尚)
⑦「台湾史料」探索・後日談(神戸市・谷本茂)
⑧県(縣)と評と郡の関係をめぐって(神戸市・谷本茂)
⑨「南與倭接」を考える -野田説批判-(宝塚市・藤田敦)
⑩近畿王朝内における歴史の改ざん(茨木市・満田正賢)
⑪九州王朝(倭国)の四世紀〜五世紀にかけての半島進出(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 筑紫土塁主要部の取り壊し決定・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念福岡(10/08)、東京(10/15)の報告。続いて松本市(11/14)で開催(邪馬壹国研究会・松本と共催)・新入会員情報・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(10/27「難波宮の官衙に官僚約八千人」服部静尚さん)・会費納入状況・「古田史学の会」関西例会の会場、11月・12月(ドーンセンター)の連絡・1月「古田史学の会」新春講演会(i-siteなんば)・会員の活動状況報告・市大樹さんの講演会聴講報告・その他


第1513話 2017/10/07

すみません。鷲尾愛宕神社の海抜26mを海抜68mに訂正

福岡市西区の愛宕神社初参拝

 明日の久留米大学福岡サテライト教室での講演会のために、今日から福岡入りしました。時間があったので、福岡市西区姪浜の鷲尾愛宕神社を初参拝しました。博多湾や福岡市街を一望できるスポットです。急峻な参道を登ると博多湾に浮かぶ能古島や志賀島が眼前に広がります。山頂に愛宕神社社殿があり、そこはそれほど広い場所ではなく、社殿と社務所と展望台という感じでした。
 古田先生によれば『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」はこの愛宕神社の地とされています。そこで、その愛宕神社を実見したいと願っていました。今日、当地を初めて訪れて、思っていたよりも標高(海抜68m)があり、急峻で、頂上の社殿スペースが狭いということがわかりました。従って、博多湾岸を見下ろす小規模な「砦」、あるいは「物見台」には適地ですが、7世紀中頃の九州王朝(倭国)の天子の宮殿にふさわしい所とはとても思えませんでした。何よりも九州王朝の天子の宮殿を建てられるようなスペースがなく、少なくとも数百人には及ぶであろう、天子家族と衛兵・従者・側用人らの生活に必要な水源もないようです。それとも、衛兵や従者らは水と食料を持参し、山中に野営でもしたとするのでしょうか。戦場であればともかく、『日本書紀』に記されるほどの天子の宮殿に対して、わたしにはそうした光景は想像不可能です。
 また、この海岸に接した位置に天子の宮殿を造営しなければならない理由も不明です。もし造るのなら、より安全な水城の内側ではないでしょうか。当地は白雉改元の儀式や全国を評制支配する政治拠点には不適で、『日本書紀』にわざわざ「難波長柄豊碕宮」と記されるような場所とは思われませんでした(この点については古田先生も気づいておられたようで、そのことについては別途紹介します)。更に7世紀中頃の有力者(九州王朝の天子)が居したとするような現地伝承も見あたりません。
 古田先生が自説の根拠とされた地名の「類似」(那の津、名柄川、豊浜)にしても、愛宕神社の北側の地名が「豊浜」ですから、神社がある愛宕山(旧名:鷲尾山)を「豊碕」と推定する根拠は穏当と思います。しかし「長柄(ながら)」の根拠とされた名柄川は約1.5kmほど西側ですし、「ながら野」は南西方向へ約2.5kmの所にあり、神社のある「愛宕」とは別の場所です。「難波」地名も同地域には見あたりません。ですから、地名の「類似」という根拠もあまり学問的説得力を感じられません。
 もっとも、現存地名やその位置・範囲が7世紀中頃と同じかどうか不明ですから、「類似」地名による論証成立の是非は判断し難いと言わざるを得ません。やはり「決め手」は7世紀中頃の宮殿遺構の出土、あるいはその考古学的痕跡の発見です。これが明確になれば「一発逆転」が可能かもしれません。
 以上が現地訪問の感想ですが、結論を急がず、引き続き調査検討を進めたいと思います。


第1461話 2017/07/22

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(10)

 前期難波宮九州王朝副都説への批判・対案として出された「天武朝」造営説が、文献史学でも考古学でも成立困難であることを説明してきました。一元史観の古代史学界でも考古学界でも前期難波宮「孝徳期」造営説が事実上の定説となっていることも、それだけ合理的な根拠があるからです。それにもかかわらず、なぜ古田学派内から、どう考えても「無理筋」の「天武朝」造営説が出されてきたのでしょうか。
 わたしはその理由について、ほぼ見当がついています。このテーマについては古田先生との10年にわたる意見交換や間接的な「論争」がありました。古田先生は前期難波宮を『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿ではないかと考えておられましたが、ついにそのことを論文に書かれることはありませんでした。そして、2013年の八王子セミナーにて「検討しなければならない」との発言に至ったのですが、それもかなわないままお亡くなりになられました。
 古田先生との本件に関する応答や背景について、いずれ稿を改めて論じたいと思います。それは7世紀における九州王朝の実体に関する認識(諸仮説)の是非にかかわる問題でした。(完)


第1440話 2017/07/01

村岡典嗣「学問には『実証』より論証を要する」

 わたしが30年前に古田先生の門を叩いてから、学問における論証の大切さを折に触れて学んだのですが、そのことを疑う方もおられるようです。
 村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉の意味のわたしなりの解説を「洛中洛外日記」で連載し、その後、『古田史学会報』にも転載しました。それは古田先生がまだご健在だった2013年のことで、「洛中洛外日記」第622話から第639話まで9回にわたって掲載しました。
 もし、わたしが古田先生から学んでもいないことを学んだとして「洛中洛外日記」で連載し、『古田史学会報』に転載したのなら、それを読まれた先生からお叱りをうけたはずです。しかし、先生からは何もご指摘などはありませんでした。
 また、わたしの言っていることが嘘だと思われたのであれば、古田先生に直接確認することも可能だったはずです。先生ご健在の時は「学問は実証よりも論証を重んずる」をわたしが解説していても、どなたからもご批判はありませんでしたが、先生がなくなられると突然“「古田史学の会」や古賀の主張は古田先生の学問とは真反対だ”との非難が始まるのは何故でしょうか。理解に苦しみます。
 わたしは31歳のとき古田先生に初めてお会いしたのですが、そのころから何度も「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生の言葉を講演会や個人的会話などでもお聞きしてきました。おそらく古くからの古田先生の支持者やファンの方も同様だと思います。
 この村岡先生の言葉は、近年では2013年の八王子セミナーで古田先生が述べられ、注目を浴びました。「洛中洛外日記」1439話で紹介した『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)の巻末の「日本の生きた歴史(十八)」にそのことを書かれたのも2013年11月です。わたしが知るところでは、1982年(昭和57年)に東北大学文学部「文芸研究」100〜101号に掲載された「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」にこの村岡先生の言葉が「学問上の金言」として紹介されています。同論文はその翌年『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版)に収録されました。下記に転載します。

 「わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。〔43〕(村岡典嗣)』と。
 その意味するところは、思うに次のようである。“歴史学の方法にとって肝要なものは、当該文献の史料性格と歴史的位相を明らかにする、大局の論証である。これに反し、当該文献に対する個々の「考証」をとり集め、これを「実証」などと称するのは非である。”と。」(79頁)
 「〔43〕恩師村岡典嗣先生の言(梅沢伊勢三氏の証言による)。」(85頁)
(古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 ーー中国古典と日本古代史」『多元的古代の成立[上]邪馬壹国の方法』所収、駿々堂出版、昭和58年。初出は東北大学文学部「文芸研究」100〜101号、昭和57年)

 このように、古田先生は30年以上前から、一貫して村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」を「学問の金言」として大切にされ、学問にとって実証よりも論証が重要であると晩年まで言い続けられてきたのです。そして、わたしは若い頃からその言葉を古田先生から聞き続けてきたのです。


第1439話 2017/07/01

古田武彦「学問にとって重要なのは『論証』」

 わたしが古田先生から繰り返し聞かされた言葉があります。それは学問における論証の重要性に関することで、「論証は学問の命」という短い言葉でした。あるいは村岡典嗣先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉も教えていただきました。この古田先生の教えは、わたしの学問研究における生涯の指針となっています。このことは「洛中洛外日記」などで何度も述べてきたところですから、読者のみなさんはご承知のことと思います。
 ところが、古田先生がお亡くなりになったとたん、“「実証よりも論証」などという古賀や「古田史学の会」の主張は古田先生の学問とは真反対である”と非難する声が聞こえてきました。これは村岡先生や古田先生の教えに対する誤解、あるいは意図的な曲解と言わざるを得ないのですが、古田史学や学問を理解する上で大切な問題ですので、改めて事の真実を明らかにしておきたいと思います。
 もちろん「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生の言葉や、それを受け継ぐ古田先生や古賀の理解は間違いであると批判されるのは個人の自由ですから、まったくかまわないのですが、その場合はわたしと古田先生の教えが「真反対」というのではなく、“村岡も古田も古賀も自分の考え(論証よりも実証)とは真反対である”と正確に批判していただきたいものです。
 このような「古田史学の会」やわたしへの非難に対して、『東京古田会ニュース』No.173に掲載された拙稿で、古田先生が「学問にとって重要なのは『論証』」と著書で記されている事を紹介しました。その当該部分を転載しておきます。「学問は実証よりも論証を重んじる」とするわたしと古田先生の意見が「真反対」などとする批判(いいがかり)がいかに間違ったものであるかが明白となることでしょう。

【以下、『東京古田会ニュース』No.173から転載】
「論証」は学問の命
 –古田先生の言葉と思い出–
              古賀達也
 (前略)
六、論証こそ学問の命

 「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」
 「学問は実証よりも論証を重んずる」
 こうした言葉に現れているように、古田先生は学問にとって「論理」や「論証」がいかに大切かを繰り返し強調されてきました。そのことがはっきりと著書にも残されていますので、ご紹介します。
 『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(ミネルヴァ書房)の巻末の「日本の生きた歴史(十八)」に収録された古田先生の論文“「論証と実証」論”に次のように記されています。当該部分を引用します。

 《以下、引用》
日本の生きた歴史(十八)
 第一 「論証と実証」論
      一
 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
 けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
 助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。
      二
 今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
 「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
 (中略)
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは「論証」、この二文字だったようです。
 《引用終わり》

 このように古田先生は「実証より論証の方が重要」であることの解説のためにわざわざ一章を割かれているのです。この古田先生の言葉に示された“学問における「論証」の重要性”を深く重く受け止め、わたしはこれからも古代史研究を進めていきたいと思います。


第1435話 2017/06/28

「古田史学の会」会則の思い出

 過日の「古田史学の会」会員総会で会則の一部変更を承認していただきました。古田先生ご逝去に伴う最小限の変更で、「第二章 目的」は次のようになりました。

〔旧〕本会は、古田武彦氏の研究活動を支援し、旧来の一元通念を否定した氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

〔新〕本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

 総会では目的に古田史学の方法論や古田説を具体的に書き加えてはどうかとするご意見も出されましたが、この会則を大きく変更する必要はなく、逆に大きく変更するとその説明と論議がこの会則のもとに入会された全会員間で必要となることもあり、最小限に留めました。
 この会則は「古田史学の会」創設後に古田先生や中小路駿逸先生ともご相談し、ご了解を得たうえで決められたものであり、わたしとしては基本的に変更する必要性はないと考えています。
 会則決定のことを『古田史学会報』9号(1995年9月25日)の編集後記に次のようにわたしは記しました。

▽初めての会員総会で、無事会則採択され、喜んでいます。同会則は会の将来に無用な混乱や道を誤らないようにする為に中小路駿逸先生の御助言をいただきながら作ったものです。今後は「細則」により、詳細についても整備していきたいと考えています。

 ここでいう中小路先生のご意見は、『古田史学会報』8号(1995年8月25日)にご寄稿いただいた次の論稿に記されています。全文はHP「新古代学の扉」に収録していますので、ぜひお読みいただければと思います。

『古田史学会報』8号より部分転載

古田史学の会のために
            中小路駿逸

(前略)
 古田武彦氏の言説に強烈な関心を(思わくはいろいろ違っても)持つ人々が集まってできた(と私は思っているのだが)いくつかの会のなかの「市民の古代研究会」という会が、別れるの別れないのとゴタゴタしていたとき、私は「旗印をハッキリと」と「市民の古代ニュース(一二六号)」に書いた。古田氏の言説が「近畿大和なる天皇家の王権は、七世紀よりも前から日本列島内で唯一の卓越して尊貴な中心的権力であった」という「一元通念」を学理上「非」なりとしている一点(この一点で古田説は通念に対して決定的に勝ったのである)に、同意するか、明言せずに伏せるか、ハッキリしなさい、という趣旨を述べたものであった。ゴタゴタの原因の肝心カナメのカンどころはここにあり、ここが分かれ目となって会は少なくとも二つのグループに分かれると見、この「ことのスジミチ」が後世にハッキリわかるような記録を、シッカリ残しておきたいと思ったからである。
 私が「古田武彦氏についていくか、いかないか」とか「古田氏の学問のどこに、どういう意味で関心を持つか、持たないか」などで分けようとしなかったのはなぜか、おわかりであろう。そんな「対古田学態度」などで分けようとしたら最後、答は千差万別 、千変万化、あらゆる言い抜けが可能となって分類は無意味となり、何よりも、肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。この規準を用いれば、ありとあらゆる錯乱(無知、ウソ、ゴマカシ、スリカエ、だまし、そういうのをすべて含め、一括して「錯乱」と言っておく。こういうものをこまかく詮索して分類したってしかたがあるまい。)が、ゴタゴタの前後にわたってみずからの正体を自主的にさらけだして記録に残すこと、明らかだからである。
 (中略)
 この「名分に関する、信仰を含む宣言」を「史実宣言」へと横滑りさせ、この「名分」に合うように歴史のワク組みを構想した「錯乱」の所産が「一元通 念」なのだった。--私は今、そう考えているのである。古田氏の指摘はこの「錯乱」を非なりとし、その裏づけを提示した私も、同様これを非とし、歴史像を通念型から古代の文献の示しているものに返せ、と要求している。たとえこの通念が数百年、あるいは千年余、日本人の心を規制し、文化の深部に根付いているように思われていようとも、より深い基層にあるものが真実ならば、そこに復帰して当然ではないか。「一元通念を非とする。」--この一句に私が固執する意味がおわかり願えようか。日本の文化が、精神が、ほんとに確かな基礎に立ったものになれるかなれないか、その分かれ目がこの一句にある。私はそう思っているのである。
  「古田史学の会」の会則案には、この肝要の一句が入っているようである。この一句が会の総会で承認されるか否かを、はるかな過去からの歴史と、これから歴史として形成されるのを待つ、限り知られぬ未来とが、深い関心をこめたまなざしをもって見守っているのである。
 (なかこうじしゅんいつ・追手門学院大学教授)


第1430話 2017/06/23

本居宣長「師の説にななづみそ」

 「師の説にななづみそ。本居宣長のこの言葉は学問の金言です。」と、わたしは古田先生から教えられてきました。古くからの古田ファンの方なら、講演会などで古田先生からこの話を聞かれたことがあるのではないでしょうか。
 六月の「古田史学の会」関西例会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のレジュメにこの言葉が記された本居宣長の『玉勝間』を紹介されていましたので、とても懐かしく思いました。学問を志す上で素晴らしい言葉ですので、その部分を転載します。
 なお、付言しますと、ある時期から古田先生はこの話をあまりされなくなりました。それは『東日流外三郡誌』などの和田家文書偽作キャンペーンが熾烈を極めた頃です。
 「古田先生は和田喜八郎氏にだまされている」「古田古代史は支持するが、和田家文書は偽作で支持しない」というような声が古田先生の支持者や「弟子」らの中から次々とあがり、そうした人々が先生から離反していきました。わたしが「兄弟子」として慕っていた人々の多くが古田先生を裏切り、偽作キャンペーン側についたり、“だんまり”“日和見”を決め込んだりしたのです。そのとき彼らは、「師の説にななづみそ」という言葉を自ら行為の「免罪符」に使いました。
 まだ若かったわたしは、あれだけお世話になった先生をこんな簡単に人々は裏切るのかと愕然としました。いわば、その人々は「師の説になづまず、他の人になづんだ」(中小路駿逸先生談)のでした。その頃から、古田先生はこの本居宣長の言葉をほとんど口にされなくなりました。わたしは今でも本居宣長のこの言葉は古田先生から教えられたとおり「学問の金言」と信じていますが、同時に古田学派にとって運命に翻弄された言葉でもあるのです。

 本居宣長『玉勝間』巻の二
師の説になづまざる事
 おのれ古典をとくに、師の説とたがへること多く、師の説のわろきことあるをば、わきまへいふこともおほかるを、いとあるまじきことと思ふ人おほかめれど、こはすなわちわが師(賀茂真淵)の心にて、つねにをしへられしは、後によき考への出来たらんには、かならずしも師の説にたがふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし、こはいとたふときをしへにて、わが師のよにすぐれ給へる一つなり、
 (中略)
 吾(本居宣長)にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有りける、道を思はで、いたずらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、


第1402話 2017/05/20

前期難波宮副都説反対論者への問い(6)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」を発表以来、古田先生との意見交換が続き、ご批判やご指摘もいただきましたが、最後の八王子セミナー(2014年)では、参加者からの「前期難波宮副都説をどう思われるか」という質問に対して「検討しなければならない」と言っていただきました。発表以来、7年近くを経て、ようやく検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。
 そうした古田先生とのやりとりの中で、意見が一致したこともありました。それは、『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」は大阪市中央区法円坂の前期難波宮ではないということでした。
 この指摘は古田先生のほかに西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からもなされていたもので、大阪市中央区法円坂の前期難波宮遺跡と大阪市北区の長柄豊崎とは場所が異なり、従って、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとされました。確かに、両者の位置は地下鉄でも5駅離れています(谷町線谷町四丁目駅、御堂筋線中津駅)。
 なお、北区長柄豊崎には豊崎神社が鎮座しており、同社の「由緒書」には、この地が孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と紹介されており、平安時代に遡る現地伝承などをその根拠とされています。しかし、現在の古代史学界や考古学界では法円坂の前期難波宮遺跡を「難波長柄豊碕宮」とする見解が通説となっています。
 わたしも古田先生や西村さんと同意見で、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとしてきました。ですから、この点については古田先生と見解が一致していました。その後、古田先生は「難波長柄豊崎宮」を博多湾岸の長柄川下流域とする説を発表されました。わたしは今のところ、『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」は大阪市北区長柄豊崎付近でよいのではと考えていますが、いずれも考古学的調査による7世紀中頃の宮殿遺構が発見されていませんので、今後の課題だと認識しています。(つづく)

〔参考〕昔書いた「洛中洛外日記」を付記しておきます。ご参考まで。

古賀達也の洛中洛外日記
第561話 2013/05/25
豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2〜4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。


第1395話 2017/05/13

「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で古田説紹介

 冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)からのメールで、歌手でタレントの武田鉄矢さんがラジオ番組「武田鉄矢 今朝の三枚おろし」で古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を紹介されているとことをご連絡いただきました。下記のyoutubeで聞くことができます。かなり好意的な紹介でした。

https://www.youtube.com/watch?v=dGwnzDs2ckI

 武田鉄矢さんは博多のご出身でもあり、古田説に衝撃を受けたとのことです。思わぬところに古田ファンがおられるものだと、嬉しくなりました。わたしも学生時代にフォークバンドでリードギターを担当していたこともあり、武田鉄矢さん率いる「海援隊」のファンでした。まだそれほど有名になる前に開催された久留米市でのコンサートに行ったこともあります。機会があれば武田鉄矢さんにお礼のメールでも差し上げたいと思います。


第1382話 2017/05/04

「倭の五王」の都城はどこか(1)

 古田先生と論争的意見交換を続けたテーマの一つに、五世紀の「倭の五王」時代の都はどこかという問題がありました。二人の間でもっとも激しく論争したテーマの一つでしたので、当時のやりとりを今も鮮明に記憶しています。
 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」が中国南朝から都督を任じられていることから、その時代の九州王朝の都を「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)と、古田先生は当時考えておられました。
 それに対して、わたしは、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は規模が貧弱であり倭王の宮殿とみなすのは無理、かつ出土土器編年から見ても五世紀には遡らないと説明しました。それでも納得されない先生は「それでは倭の五王の都はどこだと考えているのか」と詰問され、「わかりません」と答えると、「だいたいでもよいからどこだと考えているのか」と質されるので、「筑後地方ではないかと思います」と返答しました。もちろんこの答えでも古田先生は納得されず、論争が続きました。結局、両者合意をみないままとなりましたが、『古田武彦の古代史百問百答』では「倭の五王」時代の都の所在地には触れられていませんから、晩年はどのような見解だったのかはわかりません。
 わたしが「倭の五王」時代の九州王朝の都を筑後と考えたのは、高良大社の御祭神「高良玉垂命」の名前が「倭の五王」にも襲名されたとする研究結果(「九州王朝の筑後遷宮」『新・古代学』第四集、新泉社。1999年)によるものでした。それと、古田先生が1989年に発表された「『筑後川の一線』を論ず」(『東アジアの古代文化』61号)でした。この論文は古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたが、わたしは重要な論文と考えています。
 その主要論点は、弥生時代の九州王朝の中枢領域は考古学的出土物から見ても筑前だが、古墳時代になると様相が一変し、装飾古墳などが筑後地方に出現することから、筑後に変わっている。これは主敵が南の薩摩(隼人)などの勢力だった弥生時代から、北の朝鮮半島の国々に変化した古墳時代になると、九州王朝(倭の五王、多利思北孤)はより安全な筑後川(天然の大濠)の南に拠点を移動させたためだとされました。
 わたしはこの論文を支持しており、「倭の五王」や筑紫君磐井は筑後を都にしていたと考えています。そして多利思北孤の時代になって太宰府に遷都したと九州王朝史の大枠を理解しています。(つづく)


第1379話 2017/04/29

『古田武彦の古代史百問百答』百考(3)

 今回、『古田武彦の古代史百問百答』を熟読して、今まで気づかなかった古田先生の新仮説や新たな論理展開に遭遇し、はっとさせられることがいくつもあります。たとえば、『二中歴』「年代歴」にのみ見える最初の九州年号「継躰」(517〜521年)を当時の倭国の天子の名前とする次の見解などがそうです。

 「福井から二十年かけて大和に入った天皇は、その時はもちろん天皇ではなく、後に継躰天皇と謚(おくりな)されただけです。具体的には男大迹大王と言いましょうか。要するに近畿の首長です。この時点ではもちろん、九州に進出しておりません。
 これに対して、九州王朝では、前に言った丁酉の年(五一七)に継躰の年号を持った天子がいました。これについて『日本書紀』継躰紀二十四年の春二月の詔(『岩波日本書紀』下、四二ページ)では、継躰之君というのが出てきますが、これを通説では『ひつぎ』と普通名詞に取っていますが、普通名詞の人に『中興』の功を論じるのはこじつけで、はからずも九州王朝の天皇の名称を盗用したとした方が正しいのではないでしょうか。そのように解釈すると、近畿の男大迹とほぼ同じ頃に九州に継躰天皇がいたということになります。近畿王朝は、武烈を倒して、新王朝を樹立した男大迹を、ちょうど天子を名乗り始めた九州王朝の継躰にならい、『継躰』の名を謚したのです。そして九州の継躰を完全には消しえなかったのが、継躰二十四年の詔ということになります。」(110頁)

 この古田先生の見解を読んだとき、わたしは納得できませんでした。なぜなら、古代において天子の名前をそのまま年号に用いるなどという例を、中国や当の九州王朝でも知らなかったからです。逆に、天子の名前の字を避けるというのが古代中国における慣習でしたから、九州王朝の官僚たちが最初の年号を決めるにあたり、そのときの天子の名前「継躰」を採用したことになる古田説に、猛烈な違和感を覚えました。
 たとえば、今、知られている九州王朝の倭王や天子の名前に用いられた漢字(俾弥呼、壹與、讃、珍、済、興、武、旨、磐井、葛子、阿毎多利思北孤、利歌彌多弗利、薩夜麻、など)は九州年号に使用されていません。ましてや、その時代の天子の名前(今回のケースでは継躰)をそのまま年号に用いるなどとは考えられないのではないでしょうか。もし、九州王朝は天子の名前を年号に使用したとするのであれば、その根拠(たとえば中国での先例)を明示して論証が必要と思われるのです。
 他方、後世になって、「継躰」年号の時代の天子を「継躰之君」と呼んだり記したりすることはあるかもしれません。これは平安時代の例ですが、醍醐天皇(897〜930)のことを『大鏡』(平安後期の成立)では、その即位期間の代表的な年号「延喜」(901〜923)を用いて「延喜帝」と表記されています。『日本書紀』継躰紀二十四年の「継躰之君」がこれと同じケースであれば、この「継躰」は天子の名前ではなく九州年号ということになります。
 従って、「継躰之君」の「継躰」は、“ひつぎ”(通説)と“九州王朝の天子の名前”(古田説)と“後世における年号の転用”という三つの可能性がありますから、どの仮説が最も妥当かという論証が必要です。
 今年になって、『二中歴』に見える九州年号「継躰」は、「善記」を建元したときに、遡って「追号した年号」とする説が西村秀己さんから発表されています(「倭国〔九州〕年号建元を考える」、『古田史学会報』139号、2017年4月)。この西村説を援用するならば、天子の名前の「継躰」を年号として「追号」した可能性や、「年代歴」編纂時に、天子の名前「継躰」を年号と勘違いして「年代歴」に入れてしまったというケースも考えられるかもしれません。このことを西村さんに伝え、検討を要請しました。関西例会で検討結果が報告されることを期待しています。もし、古田先生がご健在であれば、どのように答えられるでしょうか。(つづく)