古田武彦一覧

第3335話 2024/08/23

古田武彦・山田宗睦対談

      での「古田学派」

 かつて富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)が発行していたグラフィケーション(GRAPHICATION)という雑誌に古田先生と山田宗睦さんの対談が掲載され、そのなかで山田さんが「学派」「古田学派」について触れた部分があります。哲学者らしい山田さんの考察が述べられていますので、転載します。

https://furutasigaku.jp/jfuruta/yamafuru.html
グラフィケーションNo.56(通巻245号)
1991年(平成3年)8月発行
対談・知の交差点 4

古代史研究の方法をめぐって

古田武彦氏(昭和薬科大学教授 日本思想史)
山田宗睦氏(関東学院大学教授 哲学)

山田 いまは大学の中に学派というものがなくなって、市民の中に古田学派のようなものができているというのは、いいことだと思います。これは戦前のような、知的な特権の場としての大学が成立しなくなり、戦後の大衆社会状況とか民主主義といった条件の中で、知の世界がずっと一般市民の方にまで広がってきたということですね。そういう面では非常にいいことだと思っているんですが、同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけないと思うんです。

 いつも古田さんが何かのたまわって、市民の方が「はあ、さようでございますか」と聞いているのではね(笑)。

古田 それはいけませんね。

山田 それは、学派としては健全じゃありませんから。
だから、やはり古田学派の中で論争があるのはいいことだろうと思うんです。そこで、私もこれから少し古田さんに論争を挑もうと思っているんですよ(笑)。そのうち本を書くつもりです。
【転載終わり】

 いまは大学の中に学派というものがなくなってきているという山田さんの指摘は、古代史や文系のみならず、国内の学界の一般的な傾向だろうと思います。「同時に、市民的な広がりを持った中で、やはり異論は異論として出していける自由な雰囲気がないといけない」という指摘も貴重です。わたしも「古田史学の会」の運営や『古田史学会報』『古代に真実を求めて』の編集に当たり、留意してきたところです。

 そうでなければ「学派としては健全じゃありません」という山田さんの意見も当然のことです。「古田史学」「古田学派」と自らの立ち位置を旗幟鮮明にしたからには、その健全性は恒に意識しなければなりません。こうした問題について、これからも発言し続けようと思います。

 他方、古田説(九州王朝説・多元史観)を一貫して支持された中小路俊逸先生(追手門学院大学文学部教授・故人)が、「市民の古代研究会」分裂騒動のおり、次のように言われていました。

「〝師の説にな、なづみそ〟(本居宣長、注)と言いながら、古田説になずまず、一元史観になずむ人々が増えている。」

 これは、「古田史学」「古田学派」の健全性を考えるうえで、中小路先生の重要な状況分析であったことが思い起こされます。

(注)
「本居宣長の〝師の説にな、なづみそ〟は学問の金言です」と古田先生は折に触れて述べてきた。反古田派の人々は、和田家文書を真作とする古田説に反対し、古田離れを画策するとき、本居宣長のこの言葉を利用した。そうした状況に対して警鐘を打ち鳴らしたのが、中小路氏であった。


第3334話 2024/08/21

「古田史学」「古田学派」

    という用語誕生時期

 「古田史学」「古田学派」という言葉がいつ頃から使用され始めたのかについて調べたことがあります。わたしが「市民の古代研究会」に入会した1985年頃には、「古田史学」という言葉は「市民の古代研究会」内では普通に使用されており、多元史観・邪馬壹国説・九州王朝説などを中心とする古田先生の学説やそれに基づく研究方法や関連仮説全体を指して、「古田史学」と呼ばれていました。今でもこの傾向は変わらないと思います。

 「古田説」という言葉も使用されていますが、多元史観により体系化された学説・学問総体を指す場合は「古田史学」と呼ばれ、徐々に使い分けが進んだようです。例えば、「邪馬台国」九州説の中の「邪馬壹国」博多湾岸説のように、具体的に限定されたテーマについては、他の九州説と区別して「古田説」と簡略して表現するケースもありましたが、これはテーマが限定されていることが明確な場合に限って有効ですので、講演会や論文中に使用する場合は注意深く使用する必要があります。

 管見では、「古田史学」という言葉が見える初期の論文は、『古田武彦とともに』創刊第一集(1979年、「古田武彦を囲む会」編)に収録された次のものです。同書は、後に『市民の古代』と改名し、同じく「市民の古代研究会」と改称した同団体から出版社を介して書店に並びました。ちなみに、「市民の古代研究会」の分裂解散後は、わたしたち「古田史学の会」が同書や団体の伝統を事実上継承し、今日に至っています。

❶いき一郎 「九州王朝論の古田さんと私」
〝私は古田史学と同じように~〟

❷米田 保(注①) 「『「邪馬台国」はなかった』誕生まで」
〝こうして図書は結局第十五刷を突破し、つづけて油ののった同氏による第二作『失われた九州王朝』(四十八年) 第三作『盗まれた神話』(五十年二月) 第四作『邪馬壹国の論理』(同年十月)と巨弾が続々と打ち出され、ここに名実ともに古田史学の巨峰群の実現をみたのである。〟

❸義本 満 「古田史学へのアプローチ」
〝古田史学が、堂々と定説となり、学校の教材にも採用される日の来る事を私は疑いません。ただ私の元気なうちにその時期の訪れることを願って止みません。〟

 以上の「古田史学」の他に、「古田学派」という言葉も同書に見えます。次の論考です。

❹佐野 博(注②) 「民衆のなかの古田説 (古田説のもつ現代史的意味)」
〝そこで古田さんの方法と論理、現在までの諸成果を純粋に受け入れ、古田学派とでも呼ばれる集団が現れたからとて、なにもこだわることはないのです。(中略)

 だからそれが、“通説”“定説”の嵐のなかで、“古田説”“古田学派”と指弾されようとも、あえてその名を冠されることを喜ぶものでしょう。真実は歴史を創る側にあるのです。わたしたちは、つねに学問とは、民衆とのかかわりぬきであるとは思いません。この国の民衆はつねに政治に支配されつづけてきましたが、それでも歴史を創る主体であることを否定することはできないのです。〟

❺丸山晋司(注③) 「ある中学校の職員室から」
〝しかも自分がもし社会科の教師になっていたら、ゾッとする。故鈴木武樹氏の提唱した「古代史を入試に出させない運動」は、我々古田学派にこそ必要なのではないかと思ったりもする。(中略)

 職員室談義で気のついたこと。「大和朝廷」への信仰はかなり根強い。古田説だけでなく、色んな王朝交替説とか有力と思える説もどこ吹く風、ひたすら教科書が「定説」なのだ。〟

 以上の記事が見えますが、1979年当時の古田ファンや支持者の熱気と世相を感じることが出来ます。

 本稿を執筆していて思い出しましたが、「古田史学の会」創立のきっかけとなった「市民の古代研究会」分裂騒動の当時、わたしや水野顧問ら古田支持派は、反古田派と激しく対立していました。そのときわたしが「古田史学」という言葉を使うと、それまでは「古田先生、古田先生」とすり寄っていた反古田派の理事から、「学問に個人名をつけるのはけしからん」と非難されたことを思い出しました。

 こうした体験があったため、わたしは今でも意識的意図的に「古田史学」「古田学派」という言葉を使い続けています。いわば、自他の立ち位置を明示するための〝リトマス試験紙〟のようなものです。しかし、古田史学が仮に〝異端〟としてでも日本古代史学界に許容され、古田説・古田史学が学界内で研究発表できる新時代が到来すれば(今は全くできません)、わたしは「古田史学」「古田学派」という言葉を使わなくて済むかも知れないと期待しています。(つづく)

(注)
①元朝日新聞社出版編集部員(当時)。米田氏の提案とご尽力により、『「邪馬台国」はなかった』を初めとする古田史学初期三部作などが朝日新聞社から刊行され、古田史学ブームが到来した。
②(社)日本非鉄鋳物金属協会 会員(当時)。
③大阪市の中学校音楽教師(当時)。九州年号研究では先駆的な業績を残した(『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年)。「市民の古代研究会」分裂時、反古田派側につかれたので、わたしは袂を分かったが、氏が九州年号研究で『二中歴』に着目したことは評価している。


第3318話 2024/07/05

読んでおきたい、古田武彦「風土記」論

 『古代に真実を求めて』28集の特集テーマ「風土記・地誌の九州王朝」の企画構成案を練っています。ある程度まとまれば、編集会議を招集して提案し、編集部員のご意見や企画案も聞かせていただく予定です。

 自らの投稿原稿についても執筆準備をしています。それに先だち、古田先生の「風土記」関連論文の読み直しも進めています。古田「風土記」論を久しぶりに集中して勉強していますが、その代表的関連論文を紹介します。特集論文の投稿を予定されている方にも読んでおいていただきたいものばかりです。なぜか、古田先生にしては『風土記』関連論文は比較的少なく、読破はそれほど難しくはありません。以下、そのジャンル分けを示します。

 まず、風土記全般の重要テーマである、「県(あがた)」風土記と「郡(こおり)」風土記について論じたものが、❶❷❺❿⓫です。「県」風土記が九州地方に遺っていることから、九州王朝風土記(筑紫風土記)の存在という古田「風土記」論にとって不可欠の研究分野です。

 『常陸国風土記』に関わって論じたものが、❸。『出雲国風土記』に関わって論じたものが、❸❻❼❽⓬⓭。『播磨国風土記』に関わって論じたものが、⓮。 「筑後国風土記逸文」と卑弥呼について論じたものが、❹❾です。いずれも懐かしいものばかりです。

 《古田武彦「風土記」論 主要論文一覧》
「九州王朝の風土記」『市民の古代』第4集、新泉社、昭和57年(1982)。
「九州王朝にも風土記があった」『よみがえる九州王朝』角川選書、昭和58年(1983)。
❸「日本列島各地の神話」『古代は輝いていたⅠ――『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社、昭和59年(1984)。
❹「卑弥呼論」『古代は輝いていたⅠ――『風土記』にいた卑弥呼』朝日新聞社、昭和59年(1984)。
❺「二つの『風土記』」『古代は輝いていたⅢ――』朝日新聞社、昭和60年(1985)。
「国造制の史料批判――出雲風土記における「国造と朝廷」」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❼「部民制の史料批判――出雲風土記を中心として」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❽「続・部民制の史料批判――「部」の始原と発展」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
「卑弥呼の比定――「甕依姫」説の新展開」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
❿「九州王朝の短里――東方の証言」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、昭和62年(1987)。
⓫「二つの風土記と二つの里程」『倭人伝を徹底して読む』大阪出版、昭和62年(1987)。
⓬「出雲風土記の中の古代公害病」『古代は沈黙せず』駸々堂、昭和63年(1988)。
「縄文文明を証明する「国引神話」」『吉野ヶ里の秘密』光文社、平成1年(1989)。
「播磨風土記」『市民の古代』第12集、新泉社、平成2年(1990)。

 この他にも、古田先生の重要論文があるかもしれません。ご教示いただければ幸いです。また、古田学派研究者による重要論文もあり、別の機会に紹介します。


第3267話 2024/04/10

『東日流外三郡誌の逆襲』全原稿脱稿

 昨年の八月六日、東京古田会の安彦会長と五反田の八幡書店を訪問し、武田社長に和田家文書研究の現況について説明しました。そのおり、武田社長より『東日流外三郡誌の逆襲』発行のご提案をいただいていたのですが、本日、ようやく予定していた最後の原稿「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」を書き上げました。

 同稿は『東日流外三郡誌の逆襲』の掉尾を飾る重要論文でしたので、構想と執筆に四ヶ月ほどかかりました。これからの和田家文書研究の方向性を指し示す内容でしたので、その方法論とそれが至るであろう研究結果に対する覚悟が必要となり、苦しみ抜いて書き上げました。小見出しと冒頭・最終の部分を紹介します。

謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―
古賀達也

一、はじめに

 本書序文の拙論「東日流外三郡誌を学問のステージへ ―和田家文書研究序説―」において、和田家文書を真っ当な文献史学の研究対象の場に戻すために本書を上梓した旨、述べた。ここにその研究方法を提起し、論理の導くところ、その予察をもって謝辞に代えたい。

二、和田家文書群の分類試案

三、《α群》の史料性格と現状

四、《β群》の史料性格と課題

五、《γ群》の史料性格と価値

六、真偽論争の恩讐を越えて

七、冥界を彷徨う魂たち

 あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として著したかったものと拝察した。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 結局、それを果たせないまま先生は二〇一五年に物故された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければならない。その一著が世に出るまで、東日流外三郡誌に関わった人々の魂は冥界を彷徨い続けるであろうから。


第3261話 2024/04/01

右膝の痛みと津軽行脚の思い出

 今日は右ひざのリハビリを兼ねて町内(鴨川右岸)のしだれ桜を見に行きました。天気も良くのどかな一日でしたが、桜は満開には程遠く、花見客も例年より少ないようでした。

 この二カ月ほど、『古代に真実を求めて』27集「倭国から日本国へ」(古田史学の会編、明石書店)の校閲作業や、今年の夏に発行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の原稿執筆のため部屋に閉じこもる日々が続き、足腰が弱っていました。そこで、先日、自宅から京都御所まで歩き、紫宸殿を早足で一周したのですが、それがまずかったようで、持病の右ひざ痛を発症してしまいました。数日痛くて歩けなかったのですが、今日は痛みがひいたので少しだけ散策しました。

 右ひざが痛むたびに古田先生のことを思い出します。三十年前のこと、古田先生と二人で何度も和田家文書調査の為、津軽を訪れたのですが、そのとき、わたしは先生と自分のキャリーバッグを両手で引きずって歩きました。先生のはやや小さめなので、わたしの体が傾き、長時間右ひざが圧迫された状態が続きました。ある日、津軽調査を終えて、先生とキャリーバッグを東京お茶の水のご自宅までお送りした後、駅の階段を降りようとしたとき、右ひざに激痛がはしりました。階段の手すりにしがみついて降りましたが、それ以来、右ひざ痛を度々発症し、特に年始の挨拶廻りでは必ず発症するという有様でした。

 リタイア後は、それほどひどい痛みは出なくなりましたが、筋力が弱り、寒くなると出ますので、適度な運動は欠かせません。ですから、右ひざの痛みを感じるたびに、古田先生との津軽行脚の日々を思い出すのです。そんな和田家文書研究の集大成ともいうべき一冊『東日流外三郡誌の逆襲』の執筆時に再発したのですから、不思議な縁だと感じています。果たして、先生は今のわたしを叱っておられるのか、褒めていただいているのか、どちらだろうかと思案する今日この頃です。


第3254話 2024/03/23

鶴岡八幡宮の神社本庁離脱に思う (2)

 鎌倉市の鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱するというWEBニュースなどによれば、全国の稲荷神社の総本宮とされる京都の伏見稲荷大社も神社本庁に加盟していないとのこと。そして両神社の名となった「八幡」や「稲荷」は『記紀』には見えない神名(或いはその由来となった地名)です。これは偶然のこととは思いますが、興味深く思いました。稲荷神社については、古田先生から次のような話を聞いたことがありました。

 〝日本人の主食であるお米の神様が『記紀』には登場しない。山河や動植物に神が宿るという日本人の宗教観からすると、これほど大切な食べ物の神様が『記紀』に見えないのは不思議だ。しかし、お米の神様がいなかったはずがない。それを祀らなかったはずがない。そう考えると、全国各地の祀られているお稲荷さんこそ、お米の神様ではないか。〟(注)

 この話を聞いて、なるほどと思いました。しかし、それではなぜ『記紀』に「稲荷」神が記されなかったのかという疑問は残ったままです。九州王朝の行政単位「評」が『日本書紀』では全て「郡」と表記されているという、前王朝の痕跡を消そうとした『日本書紀』編者の政治的意図と同様のことがお稲荷さんにもあったような気もしますが、そう言い切れるほどの史料調査と論証は出来ていません。

 ちなみに東日流外三郡誌には、日向の賊に追われたナガスネ彦が稲穂を持って東日流(津軽)に逃げたという伝承が採録されており、津軽からは筑紫の土器や板付水田と同じ工法を採用した水田跡(砂沢遺跡)が出土していることも注目されます。

 もしそうであれば、弥生時代の豊かな稲作地帯に金属器を武器として軍事侵攻(天孫降臨)した九州王朝の始原の勢力(天孫族)にとって、お稲荷さんを祀っていた側は敵対勢力ですから、その神様(「稲荷(イナリ)」という神名・地名)を神話や伝承から消し去ったのは、『記紀』を編纂した近畿天皇家というよりも、『記紀』神話の元史料を編纂した九州王朝だったことになりそうです。稲荷信仰や稲荷(イナリ)神名・地名の史料調査と多元史観による研究が必要です。

 余談ですが、神社本庁から離脱した金刀比羅宮や鶴岡八幡宮、そして元々加盟していなかった伏見稲荷大社は、いずれも国内有数の観光神社として著名です。これも偶然なのでしょうか。(つづく)

(注)伏見稲荷大社の主祭神(中央の下社)の「宇迦之御魂大神」(古事記)は『日本書紀』では「倉稲魂神」とされており、これは米の神であると、西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人、高松市)よりご教示いただいた。


第3253話 2024/03/20

鶴岡八幡宮の神社本庁離脱に思う (1)

 鎌倉市の鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱するというニュースに接しました。何年か前にも四国の金刀比羅宮も離脱したと記憶しており、神社界に何か大きな異変が起きているようです。個別の事情にはあまり関心はありませんが、日本思想史という学問領域の視点からすれば、日本人の価値観や倫理観、精神の美意識の変化が根底にあるようにも思われます。巷に言われている〝今だけ、金だけ、自分だけ〟という近年流行の思想が神社界にも影響しているのかもしれません。

 〝今だけ、金だけ、自分だけ〟という思想の対局にあったのが古田先生の学問精神であり、美意識でした。先生は物事や事象を歴史的に俯瞰されていましたし、お金に執着される姿をわたしは見たことがありません。そして何(自分)よりも真実と学問を大切にされていました。「学問を曲げるくらいなら、千回殺された方がましだ」とも仰っていました(注①)。

 わたしは鶴岡八幡宮には少々御縁がありました。若い頃、日蓮遺文の研究を行い、「日蓮の古代年号観」という論文を書いたことがあったからです(注②)。そのとき、膨大な日蓮遺文を何度も読み、年号に関する記事を検索しました。今でこそWEBで簡単に検索できますが、当時は会社が休みの日に図書館にこもって何時間も読み続けるしかありませんでした。36歳のときのことで、体力と集中力がありましたので、そうした無茶な調査研究も可能でした。そのとき読んだ「諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)」という日蓮遺文がとても印象的で、強く記憶に残っていました。

 文永八年(1271年)、鎌倉幕府に捕えられた日蓮が龍ノ口の刑場に引かれる途中、鶴岡八幡の前で「法華経の行者を守護すべき八幡菩薩よ、何故日蓮を護らぬのか」と大声で叱った事件について、後に日蓮が認めたのが「諫暁八幡抄」です(注③)。弟子等により伝えられた有名な遺文です。このとき、刑場にひかれる日蓮を乗せた馬の手綱をとったのは弟子の四条金吾と伝えられており、日蓮の突然の「諫暁」に金吾も驚いたことと思いますが、それ以上に驚いたのが叱られた八幡菩薩ではないでしょうか。結果としては、〝光り物〟の出現に、刑場の役人は恐れおののき、頸を刎ねることができず、日蓮は佐渡に流罪となりました。ちなみに、和田家文書にもこの事件「龍ノ口の法難」に触れた興味深い記事があります。(つづく)

(注)
①和田家文書偽作キャンペーンの中心的人物の一人であるS記者の取材を青森で受けられたとき、古田先生は東日流外三郡誌が偽書ではないことを説明し、「わたしは嘘をついていない。真実と学問を曲げるくらいなら、千回殺された方がましだ」と言われたことを、同席したわたしは聞いている。
②古賀達也「日蓮の古代年号観」『市民の古代』14集所収、新泉社、1992年。
③弘安三年(1280年)、日蓮59歳のときの撰述。真筆は静岡県富士大石寺所蔵(欠失あり)。


第3249話 2024/03/14

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (4)

「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈では、銘文に全く不要な「末」の一字を入れた理由の説明ができません。それでは、「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説ではどのような説明ができるでしょうか。「洛中洛外日記」(注①)などで述べてきましたが、改めて紹介します。わたしの理解は次の通りです。

(Ⅰ)舒明天皇は辛丑年(六四一)十月九日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのはその翌年(六四二年一月)であり、辛丑年(六四一)の十月九日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(六四一)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年(最後の一年)とする表記は適切である。

(Ⅱ)同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」とあるように、戊辰年(六六八年)であり、その時点から二七年前の辛丑年(六四一)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」の年で、年干支は「歳次辛丑」とするのは正確な表記であり、墓誌の内容として適切である。

(Ⅲ)同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と、全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは在位中ではないので、治世中を意味する「世」や「朝」を使用せず、「末」という〝非政治的〟で、ある時間帯を示す字を用いて「阿須迦天皇之末」という表記にしており、正確に使い分けていることがわかる。

(Ⅳ)このように、同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を「末」の一字を用いて正しく表現しており、「末」の一字の存在理由を説明できない古田新説(九州王朝の天皇)よりも通説(舒明天皇)の方がはるかに妥当である。

以上のわたしの指摘に対して、既に亡くなられていた古田先生はともかく(注②)、古田新説支持者からの反論は聞こえてきません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1737~1746話(2018/08/31~09/05)〝「船王後墓誌」の宮殿名(1)~(6)〟
「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年。
②古田武彦氏は2015年10月にご逝去。古賀の最初の発表は2018年8月。古田氏の没後三年を経て発表したのは、〝古田先生の喪(三回忌)が明けるまでは、批判論文の発表は控える〟という自らの思いに従ったことによる。「洛中洛外日記」1531話(2017/11/02)〝古田先生との論争的対話「都城論」(1)〟で、そのこと(三回忌)について触れている。


第3248話 2024/03/13

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈を、かなりの無理筋としたのには理由があります。その主なものを以下に列挙します。

(a)古田先生の主張であれば、銘文に「末」の字は全く不要であり、「阿須迦天皇之歳次辛丑」(641年)だけでよい。治世の末年と理解される「末」の字をわざわざ入れる必要は全くない。それにもかかわらず「末」の一字を入れた理由の説明がなされていない。

(b)仮に、阿須迦天皇の治世を永く見積った場合、当時の九州年号は「仁王(12年)」「僧要(5年)」「命長(7年)」の三年号であり、合計しても24年(623~646)にしかならず、次の「常色」改元(647年)は6年も先のことだ。19年目の「歳次辛丑」(641年)を治世の「末」と表記するのは明らかに不自然である。これは、例えば「2024年10月」を「2024年末」というようなものである。普通に「2024年末」とあれば、年末の12月下旬頃と思うであろう。すなわち、10月を年末というくらい不自然な解釈なのである。
※「仁王元年(623)」の前年に九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)が崩御しており、仮に古田新説に従えば、「阿須迦天皇」の治世初年をこれ以前にはできない。

(c)そのような「末」表記に前例があったとしても、それは「末」の本義とは異なる少数例と思われ、その少数の可能性の存在を示すに過ぎない。少数例の方が、多数例よりも優れた有力な読解とできる史料根拠の明示と合理的な説明ができて、初めて〝論証した〟と言えるのだが、古田新説ではそれがなされていない。なぜなら、単なる可能性存在(しかも少数例)の「主張」を、学理上、「論証」とは言わないからである。これでは〝可能性だけなら何でもあり〟との批判を避けられないであろう。

(d)更に言えば、『日本書紀』の舒明天皇の没年と「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)は一致するが、古田新説では、これを〝偶然の一致〟と見なさざるを得ない。自説に不利な史料事実を〝偶然の一致〟として無視・軽視するのであれば、あまりに恣意的と言う批判を避けられないであろう。

 以上のように、船王後墓誌銘文に対する古田先生の読解は、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説に不都合な金石文による批判を回避するための〝論証抜きの解釈〟と言わざるを得ません。とりわけ(c)の指摘は、〝論証とは何か〟という「学問の方法」に関する学理上の基本テーマです。従って、尊敬する古田先生には申し訳ないのですが、わたしは古田新説には従えないのです。(つづく)


第3247話 2024/03/12

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (2)

 近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする古田新説にとって、最も不都合な金石文の一つに船王後墓誌がありました。その銘文は次の通りです。

惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮 治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也

《訓よみくだし》
惟(おもふ)に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(668年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。

 銘文に見える三人の天皇を通説では次のように比定しています。

乎娑陀宮治天下天皇 → 敏達天皇 (572~585)
等由羅宮治天下天皇 → 推古天皇 (592~628)
阿須迦宮治天下天皇 → 舒明天皇 (629~641年10月)

 この最後の阿須迦天皇の名前が墓誌には二度見えます。「阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三」と「殯亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」です。後者は「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)に船王後が亡くなったという記事ですが、この年が「阿須迦天皇之末」であり、その年干支は「歳次辛丑」(641年)とあることから、「阿須迦天皇」をこの年(舒明13年)の10月に崩御した舒明天皇とする通説が成立したわけです。

 この通説は古田新説にとって決定的に不都合なものでした。もし、「阿須迦天皇」が九州王朝の天子の別称であれば、治世の「末」年の「歳次辛丑」(641年)かその翌年に九州年号が改元されていなければならないからです。しかし、その時点の九州年号「命長二年」(641年)が改元されるのは、六年後の常色元年(647年)です(注)。これでは、「阿須迦天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説は成立しません。天子が崩御したのに、改元されないことなど有り得ないからです。

 そこで古田先生が考え出されたのが、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」という解釈でした。しかし、これはかなり無理筋の解釈で、古田旧説を支持するわたしと新説を唱えた先生との間で論争が勃発しました。(つづく)

(注)「歳次辛丑」(641年)に九州年号が改元されていないことを、最初に指摘したのは正木裕氏(古田史学の会・事務局長)である。


第3237話 2024/02/25

「紀尺」による開聞岳噴火年代の検討

 紫コラの発生源となった貞観十六年(874)の開聞岳噴火記事は『日本三代実録』に記載されていることから、史実と見なされていますが、次の二つの噴火記事は信用できないとして、学問研究の対象とはされてきませんでした。

(A)「神代皇帝紀曰、第十二代懿徳天皇御宇(前510~前477年)、薩摩國開聞山涌出」『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽

(B)「開聞神社縁起曰、第十二代景行天皇二十年(90年)、庚寅十月三日、一夜涌出、此等涌出の説あれども、皆日本書紀に載せざれば、確説に取りがたし、盖此嶽は、荒古より天然存在せしならん」『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽
「景行天皇廿年(90年)庚寅冬十月三日之夜、國土震動風雷皷波而彼龍崛怱湧出于此界、屼成難思嵩山。卽其跡成池。今池田之池此也。」『開聞古事縁起』

 (A)は今から約2500年前、(B)は約2000年前の噴火記事であることから、荒唐無稽と考えられてきたものと思われます。しかし、この考えでは、なぜ2500年前や2000年前を示す具体的な年次(皇暦による)の伝承が成立し、後世の人々もその伝承を〝是〟として伝え続けてきた理由の説明が困難です。

 わたしは、史実に基づく噴火伝承の年次を、当時の何らかの暦法で伝えたもので、『日本書紀』成立後はその皇暦に換算したのではないかと考えています。古田先生は皇暦による年代特定方法を「紀尺」と名付け、従来、荒唐無稽とされてきた皇暦による年次が記されている古代伝承を、史実の反映としての再検証の必要性を提唱しました(注①)。

 古田先生が提唱した「紀尺」で、(A)2500年前、(B)2000年前という年次と気象庁ホームページの開聞岳の説明との整合が注目されます。

【気象庁ホームページ 「開聞岳」】(注②)
〝開聞岳は、約4,400年前に噴火を始めた。初期の活動は、浅海域での水蒸気マグマ噴火であった。溶岩を流出する噴火を繰り返し、約2,500年前には現在とほぼ同じ規模の山体が完成していたものと推定されている。約2,000年前と1,500年前の活動では噴出量が多く、成層火山体の形成に大きく寄与した。その後、歴史時代の874年及び885年の噴火で山頂付近の地形が大きく変化し、噴火末期に火口内に溶岩ドームが形成された。〟

「約2,500年前には現在とほぼ同じ規模の山体が完成」が(A)に相当し、「約2,000年前と1,500年前の活動では噴出量が多く、成層火山体の形成に大きく寄与」の「約2,000年前」が(B)に相当します。「1,500年前の活動」に対応する史料は今のところ見当たりません。こうした火山噴火の痕跡と、文献に遺された噴火記事との二つの一致を偶然と見るよりも、史実を反映した「紀尺」を用いた伝承と考えたほうがよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」『多元』170号、2022年。
同「洛中洛外日記」26832687話(2022/02/15~20)〝古田先生の「紀尺」論の想い出 (1)~(4)〟
②気象庁ホームページ「開聞岳」のアドレス。
https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/507_Kaimondake/507_index.html


第3199話 2024/01/12

古田史学の万葉論 (5)

  ―天香具山豊後説の論証―

 古田万葉論の中でも、際だった新説が天香具山=豊後国の鶴見岳説でした。従来の万葉学では、天香具山とあれば大和飛鳥の香具山のこととして歌を解釈してきました。その結果、万葉歌(巻一、二番歌)に見える天の香具山はかなり無理無茶な解釈が横行していました。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は 《『万葉集』巻一、二番歌》

 古田先生は万葉歌理解の基本的認識に基づいて、「歌」と「題詞」を切り離し、「歌」そのものの内容から、この歌の舞台を豊後の別府湾近辺(旧名は『和名抄』に「海部郡 安萬」とある)とされ、天の香具山を鶴見岳(標高1375m)とする新説に至りました。詳細は『古代史の十字路』(注①)の第三章「豊後なる『天の香具山』の歌」に記されていますので、興味のある方は同書をご覧下さい。古田先生の疑問点は次のようでした。

〈1〉「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山」とあるが、大和の他の諸山と比べて、飛鳥の香具山は特段に「群山あれど とりよろふ」(意味不詳)と歌うほどの特徴ある山ではない。むしろ周囲との比高約50メートルに過ぎない低山(標高152メートル)である。従って、同歌の「天の香具山」を奈良県飛鳥の香具山とするのは無理だ。
〈2〉しかも、飛鳥の香具山は、「天の香具山 登り立ち 国見をすれば」とあるような、国見をするに相応しい山とは言い難い。
〈3〉「海原は 鷗(かまめ)立ち立つ」とあるのも、不審。香具山に登っても海は見えないし、鷗が飛んでいるとも思えない。奈良盆地に海はなく、当地で詠めるような内容ではないのだ。従来の解釈では、「鷗」をユリカモメのこととするが、様々な池で「鷗」の存在を歌う例は『万葉集』にはない。
〈4〉従来説では、「海原」を香具山の近くの埴安池(1200㎡)と解釈するが、そのような〝ため池〟を「海原」と歌う例も『万葉集』にない。

以上のことから、この歌の「天の香具山」は奈良県飛鳥の香具山ではないとされ、この歌の情景に相応しい地を探されました。そして、次の論証と傍証により、豊後の鶴見岳が最も相応しいとする仮説に至ります。

〈5〉「天の香具山」とあることから、そこは「アマ」と呼ばれた領域である。
〈6〉「蜻蛉(あきづ)島 大和の国は」とあり、これは『古事記』の国生み神話に出現する「大倭豊秋津島」ではないか。「豊」は豊国であり、大分県。秋津は「安岐」の津であり、別府湾に相当する。豊後国の古名が「安萬(あま)」である。こうしたことを『盗まれた神話』(注②)で論証した。別府市内には「天間(あまま)区」(旧、天間村)という地名もある。
〈7〉「海原は 鷗(かまめ)立ち立つ」という表現も別府湾岸であれば、問題ない。
〈8〉この地であれば、別府温泉の湯が「煙」となって立ち上っており、「国原は 煙立ち立つ」という表現がピッタリである。
〈9〉当地には国見をするに相応しい山がある。鶴見岳だ(標高1375メートル)。「天の香具山 登り立ち 国見をすれば」と歌われているように、「国見」が可能な名山である。更に、別府市天間区には「登り立(のぼりたて)」という小字地名も遺存しており、鶴見岳を「天の香具山」とする理解の傍証となっている。
〈10〉鶴見岳には「火男火女(ほのおほのめ)神社」があり、ご祭神は主に「火(ほ)の迦具土(かぐつち)命」である。「火(ほ)」は鶴見岳が火山であることに由来し、「土(つち)」は「津」(港)の「ち」(神の古名)を意味する。語幹は「迦具(かぐ)」であり、この神を祭る鶴見岳は「天(安萬)の香具(かぐ)山」と呼ばれるに相応しい。

 古田先生の論証は更に詳細を究めるのですが、これほどの論証を尽くして、 「天の香具山」豊後国鶴見岳説を提唱されたのです。従来の万葉学では、「天の香具山」とあれば条件反射の如く、奈良県飛鳥の香具山と理解し、それにあわせるためには無理無茶な解釈もいとわなかったことと比べれば、古田万葉論がいかに学問的に優れた、ある意味で極めて常識的・合理的な文献理解に立ったものであるかがわかります。

 この「天の香具山」多元説が一旦成立すると、『万葉集』などに見える「天の香具山」が、どの山を指しているのかという基本作業(史料批判)が全ての研究者に要求され、新たな万葉学(文献史学としての万葉歌の新解釈)がここから成立します。まさに〝新時代の万葉学〟誕生です。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代史の十字路 ―万葉批判―』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。