古田史学の会一覧

第3459話 2025/03/28

『列島の古代と風土記』

     が明石書店から届く

 本日、明石書店から『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、全199頁)が届きました。自画自賛で申しわけありませんが、学問的にかなり優れた一冊です。古田史学・多元史観による風土記研究の大きな一歩ではないでしょうか。

 編集部の皆さん、執筆者の皆さん、なかでも全頁にわたり校正していただいた谷本茂さん・西村秀己さんに感謝いたします。

 古田史学の会・2024年度賛助会員(年会費5000円)の皆さんには、来週以降、西村さんが順次発送作業にはいりますので、しばらくお待ちください。書店やアマゾンからも購入可能です(定価2200円+税)。収録論文など、下記の通りです。

『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集)目次

【巻頭言】多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

【特集】列島の古代と風土記
「多元史観」からみた風土記論―その論点の概要― 谷本 茂
風土記に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓―須玖岡本に眠る女王― 古賀達也
《コラム》卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利郎
新羅来襲伝承の真実―『嶺相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
『播磨風土記』の地名再考・序説 谷本 茂
風土記の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
《コラム》九州地方の地誌紹介 古賀達也
《コラム》高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

【一般論文】
「志賀島・金印」を解明する 野田利郎
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神―三大論争における論証と実証― 古賀達也

【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
友好団体
編集後記
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会・会員募集


第3451話 2025/03/16

「貞慧伝」の白鳳年号の新解釈

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。4月例会の会場は東成区民センターです。

 今回の報告で意表を突かれたのが、「貞慧伝」に見える「白鳳」に関する谷本さんの新解釈でした。藤原鎌足の長男、定恵(貞慧・定慧・貞恵)の最古の伝記『藤家家伝』(760年頃成立)中の「貞慧伝」に記された「白鳳」年号の実年代に関する考察です。

 これまでの九州年号研究では、「貞慧伝」の「白鳳」は『日本書紀』の「白雉」(650年・庚戌~654年・甲寅)年号を「白鳳」に置き換えた、九州年号「白鳳」(661年・辛酉~683年・癸未)の後代改変型と理解されてきました。その根拠は、「貞慧伝」に見える貞慧の入唐を「白鳳五年歳次甲寅」(654年)、帰国を「白鳳十六年歳次乙丑」(665年)とする記事の干支が『日本書紀』の「白雉」の元年干支「庚戌」と対応していることでした。すなわち、年号は書き変えられているが、干支で示された実年代は信用できるとする立場です。わたしもそのように考えてきました。

 今回の谷本さんの発表によれば、書き変えられたのは干支の方で、「白鳳五年」「白鳳十六年」という部分は九州年号「白鳳」の実年代、655年と676年を示しているとするものでした。こちらの方が、これまで疑問視されていた諸問題をうまく説明できるとされました。この新解釈は、わたしには思いも付かなかったもので、驚きました。かなり有力な新説ではないでしょうか。論文発表が待たれます。

 今月の例会の司会進行は、西村さんが所用のため上田さん(古田史学の会・事務局)に先月に引き続いて担当していただきました。新年度の四月からは上田さんが司会を正式に担当しますので、皆さんのご協力をお願いします。なお、発表申請窓口は西村さんが当面は担当しますので、お間違えなきようお願いします。

 3月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔3月度関西例会の内容〕
①百済、馬韓と九州王朝 (茨木市・満田正賢)
②「科野・蕨手文」からの推察 (上田市・吉村八洲男)
③朝日新聞の「磐井の乱」記事と『先代旧事本紀』 (川西市・正木 裕)
④推古紀の裴世清の行程を解読する (姫路市・野田利郎)
⑤定恵の伝記と「倭国年号」 ―天智紀の紀年の再考― (神戸市・谷本 茂)
⑥「郡」記事と「阿蘇ピンク石石棺」 (東大阪市・萩野秀公)
⑦仲哀帝と息長帯比売 (大阪市・西井健一郎)
⑧実は戦後に形成されていた単一民族神話論 (大山崎町・大原重雄)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
04/19(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター
05/17(土) 10:00~17:00 会場 大阪市立中央会館
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

______________________________

〔3月度関西例会の内容〕

1,百済、馬韓と九州王朝 (茨木市・満田正賢)
https://youtu.be/3snb42bOZbE
https://youtu.be/qeL2CTBIVXs

2,「科野・蕨手文」からの推察 (上田市・吉村八洲男)
https://youtu.be/E_0LYs84MZY
https://youtu.be/e1H0_Ydo4jA

3,朝日新聞の「磐井の乱」記事と『先代旧事本紀』 (川西市・正木 裕)
https://youtu.be/cgnHru8CAOo
https://youtu.be/m3bIwb2c-uM

4,推古紀の裴世清の行程を解読する (姫路市・野田利郎)
https://youtu.be/zXa8paE8VNo
https://youtu.be/1hnZKCOigAc

5,定恵の伝記と「倭国年号」 ―天智紀の紀年の再考― (神戸市・谷本 茂)
https://youtu.be/hBAKVjDvL70
https://youtu.be/Dh8M-VMsslQ

6,「郡」記事と「阿蘇ピンク石石棺」 (東大阪市・萩野秀公)
https://youtu.be/MR9EdyUFbPs

7,仲哀帝と息長帯比売 (大阪市・西井健一郎)
https://youtu.be/K0IDgbGiZAE
https://youtu.be/5EwO7aXSawE

8,実は戦後に形成されていた単一民族神話論 (大山崎町・大原重雄)
https://youtu.be/_gUwaGs4An0
https://youtu.be/N1yfeFyu_vU


第3445話 2025/03/10

『多元』186号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』186号が届きました。同号には拙稿〝飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土〟を掲載していただきました。同稿は、2023年11月に報道された飛鳥宮第一期(舒明天皇の飛鳥岡本宮)遺構(塀跡)発見の紹介と、同遺構の火災の痕跡が『日本書紀』記事「六月、岡本宮に災(ひつ)けり。天皇、遷(うつ)りて田中宮に居(ま)します。〔舒明八年〕」と一致することについて考察したものです。そして、次のように論じました。

 「九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきだ。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを今回の出土は示唆している。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応することは、『日本書紀』当該記事の信頼性を高めており、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければならない。」

 同号の一面には、和田事務局長による「安藤哲朗前会長を悼む」が掲載されていました。古田先生や古田説のことをよく知る古田史学第一世代の物故が続き、わたしも心が痛みます。生前、安藤さんから預かっていた未発表原稿は遺稿となりましたが(注)、多元的古代研究会で発行される論集に収録していただけるとのこと。十数年、大切に保管していてよかったと思いました。

 和田さんの追悼文には、わたしが知らなかった次の逸話が記されていました。

 〝安藤さんは「動より静の人」でした。発言はつねに必要にして最小、率先して人の先に立つことはまれでした。初代の高田カツ子会長が急逝された際にも、会長職を固辞され、古田先生が懸命に説得されたとも聞きました。〟

 今頃は冥界で、遺稿に示された古田説とは異なる自説を、もの静かに古田先生に語られているような気がします。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3418話(2025/01/30)〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟


第3440話 2025/03/01

唐詩に見える王朝交代後の列島 (1)

 二月の「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)や多元的古代研究会の「リモート研究会」で、『旧唐書』倭国伝・日本国伝や飛鳥・藤原京出土評制荷札木簡(七世紀後半)などを根拠として、七世紀後半から八世紀にかけての王朝交代期の倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の領域について研究発表しました。その結論として、701年の王朝交代によって、直ちに倭国(九州王朝)が滅んだわけではないようだと述べました。発表で使用したパワポより転載します(注①)。

〝【結論】
(1) 『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記された両国の記事は、七世紀後半~八世紀の認識(状況)を表している。
(2) 従来、誇大で信用できないとされた倭国の領域「東西五月南北三月」「五十余国」は倭国の公式情報であり、妥当な表現である。
(3) 日本国伝の「日本舊小国、併倭国之地」とは倭国の滅亡(併呑)ではなく、飛鳥・藤原出土荷札木簡が示す領域の律令諸国としての併合。九州島(倭国)は王朝交代後は西海道として大宝律令に組み込まれた。
(4) その為、倭国は大宰府を中心とする西海道として〝半独立〟のような状態がその後もしばらくは続いたようだ。このことを示す史料として、万葉集の筑紫記事(赤尾説)や空海の『御遺告』、『三国史紀』などがある。
(5) この状態を『旧唐書』倭国伝・日本国伝は表しており、倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないのはこのことを示唆している。〟

 古田史学の門をたたき、滅亡後の九州王朝研究を続けてきたのですが、当初は、『旧唐書』倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないことを不審に思い、空海の遺言に遺された〝唐からの帰国記事「大同二年(807)、わが本国に帰る」の一年差の謎(空海の筑紫への帰国は大同元年)〟に迫った研究(注②)、『三国史記』新羅本紀に記された日本国との国交記事が日本側史料と一致しないことの研究(注③)などを発表し、九州王朝は701年の王朝交代後もしばらくは九州の地で〝半独立〟していたのではないかとしました。

 このような問題意識と研究経緯があり、八世紀の九州王朝の残影についての中小路駿逸先生の唐詩研究の著書(注④)を改めて精読することにしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国―」多元的古代研究会・リモート研究会、令和七年(2025)2月21日(金)
②古賀達也「空海は九州王朝を知っていた」『市民の古代』13集、新泉社、1991年。
③古賀達也「二つの日本国」『古代史徹底論争』駸々堂出版、1993年。
④中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
同『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3438話 2025/02/26

『古代に真実を求めて』29集の原稿募集

2026年春発行予定の『古代に真実を求めて』29集の原稿を募集します。投稿規定は次の通りです。新たに採用した規定もありますので、投稿の際はご留意下さい。

❶29集の特集テーマは「藤原京と古代都城」です。古田史学・多元史観の継承発展に寄与できる論文をご投稿ください。

❷特集論文・一般論文(一万五千字以内)、フォーラム(随筆・紀行文など。五千字以内)、コラム(解説小文。二千字程度)を募集します。投稿は一人四編までとします〔編集部からの依頼原稿を除く〕。
論文は新規の研究であること。他誌掲載論文、二重投稿、これに類するものは採用しません。それとは別に、編集部の判断に基づき、他誌掲載稿を転載することがあります。

❸採用稿を本会ホームページに掲載することがありますので、ご承諾の上、投稿してください。

❹投稿締め切り 令和7年(2025)9月末。原稿は最終稿を投稿して下さい。投稿締切後の修正には原則として応じません。編集部から、採用予定稿の修正を求める場合があります。

❺原稿はワード、またはテキストファイル形式で提出して下さい。ワードの特殊機能(ルビ、段落自動設定など)は使用しないで下さい。ルビは()内に赤字で付記してください〔例 古田史学(ふるたしがく)〕。原稿は縦書仕様とし、アラビア数字を漢数字にするなど、適切に対応してください。

❻掲載する写真や表は、文書ファイルとは別に写真ファイル・エクセルファイルとして提出して下さい(ワード掲載写真は画像が不鮮明になるため)。その際、写真・表の掲載位置を原稿中に赤字で指示してください。
写真や図表などの転載・転用は、他者の著作権や版権に留意し、必要であれば転載許可申請などに対応できるよう、事前に準備して下さい。

❼投稿先 古賀達也まで。原稿はe-mailでお寄せ下さい。メールアドレスは『古田史学会報』に掲載しています。


第3436話 2025/02/24

『古代に真実を求めて』28集の目次

 ―列島の古代と風土記―

 「列島の古代と風土記」をタイトルとする『古代に真実を求めて』28集の編集作業も大詰めを迎えています。発刊に先立って、同集の目次をお知らせします。どのような一冊となるのか、掲載論文名からその雰囲気を感じていただけることと思います。

列島の古代と風土記(『古代に真実を求めて』二十八集) 目次

〔巻頭言〕多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

〔特集〕列島の古代と風土記
「多元史観」からみた『風土記』論 ―その論点の概要― 谷本 茂
『風土記』に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓 ―須玖岡本山に眠る女王― 古賀達也
【コラム】卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利朗
新羅来襲伝承の真実 ―『峯相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
播磨国風土記の地名再考・序説 谷本 茂
『風土記』の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
【コラム】九州地方の地誌紹介 古賀達也
【コラム】高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

〔一般論文〕
「志賀島・金印」を解明する 野田利朗
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神 ―三大論争における論証と実証― 古賀達也

〔付録〕
古田史学の会 会則
古田史学の会 全国世話人名簿
友好団体
編集後記 古賀達也
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会 会員募集


第3435話 2025/02/23

藤田隆一さんの『先代旧事本紀』講義

―天理図書館本と飯田季治校本の比較―

 昨日開催された東京古田会月例会にリモート参加しました。そこで藤田隆一さんの『先代旧事本紀』講義を拝聴させていただきました。いつもながらの見事な講義で、とても勉強になりました。藤田さんは古文や漢文にめっぽう強く、わたしが毛筆文書(富岡鉄斎の佐佐木信綱宛書簡。注①)の解読に困っていたときにも教えを請いました。

 今回のテーマとなった『先代旧事本紀』は九世紀頃に成立したとする説が有力視されていますが、序文などは偽作とされており、古代史研究の史料としてはあまり論文などに採用されていません。しかし、その中の「国造本紀」には他に見えない情報が採録されており、注目されてきました。

 今回の講義で藤田さんは、鎌倉時代に成立したとされる天理図書館本がテキストとして優れているとされ、「国造本紀」の中の「伊吉島造」(壱岐島)の写本(版本)間の異同を指摘されました。以前、わたしが『先代旧事本紀』の研究(注②)に用いた飯田季治『標註 先代旧事紀校本』(注③)の「伊吉島造」には次のようにありました。

「磐余玉穂朝(継体)。伐石井從者新羅海邊人。天津水凝 後 上毛布直造。」

 ところが、天理図書館本では「伐」が「代」となっていたり、「從者」が「者從」とあり、そのため飯田季治『標註 先代旧事紀校本』とは意味が異なってくるのです。

 同校本は『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』を底本としており、その解題には、「本書は從來最も善本として世に流布する所の『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』を底本となし、更に之に標注を增訂し、且つ亦た上記の諸本を始め飯田武郷校本、栗田寛校本等を參照し、全巻を審かに校定せるものである。」とあります。

 また、国史大系本の底本は「神宮文庫本」(延宝六年写本、1678年)で、『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』などで校合したとあります。両本を比較して『標註 先代旧事紀校本』が優れているように思いましたので、テキストとして採用したのですが、藤田さんの説明によると天理図書館本の成立がはるかに古く、鎌倉時代とのことでしたので、使用テキストの再検討が必要となりました。

 他方、天理図書館本や国史大系本には、「大隅国造」「薩摩国造」の記事中に「仁徳朝」「仁徳帝」とあり、他の国造記事には見えない漢風諡号「仁徳」が使用されています。『標註 先代旧事紀校本』には「難波高津朝」とあり、他の国造記事と同様に宮号表記となっています。こうした表記の異同があることから、どちらが原本の姿をより残しているのか思案しています。

 いずれにしましても、藤田さんの講義のおかげで、『先代旧事本紀』研究における各テキスト表記の異同が持つ重要な問題に気づくことができました。古田学派の中に、藤田さんのような書誌学に精通した研究者がいることはとても心強いことです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3041話(2023/06/14)〝「富岡鉄斎文書」三編の調査(4) ―藤田隆一さん、佐佐木信綱宛書簡を解読―〟
②同「洛中洛外日記」2866~2872話(2022/10/30~11/05)〝 『先代旧事本紀』研究の予察 (1)~(6)〟
同「『先代旧事本紀』研究の予察 ―筑紫と大和の物部氏―」『多元』174号、2023年。
③飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)による。


第3434話 2025/02/22

「列島の古代と風土記」の再校正終了

『古代に真実を求めて』28集(明石書店)

 「列島の古代と風土記」(『古代に真実を求めて』28集)の再校正作業を昨日終えて、明石書店にゲラを返送しました。今回からはゲラ校正担当として、茂山憲史さんに代わって谷本茂さんにも担当していただいています。『古代に真実を求めて』編集部では、著者校正の他に全原稿のゲラ校正(計三回)を西村秀己さん(高松市)・谷本茂さん(神戸市)・古賀(京都市)の三名で行っています。元朝日新聞記者だった茂山さんのプロフェッショナルな校正も素晴らしかったのですが、谷本さんも古田学派トップクラスの中国史書・風土記研究者らしく、著者も気づけなかったほどの細かく重要なミスまで指摘していただき、とても助かっています。「古田史学の会」は優れた校正担当者に恵まれました。ありがたいことです。

 編集作業がこのまま順調に進めば、四月上旬頃には発行できます。2024年度賛助会員(年会費5000円)には、その後、順次発送作業に入りますのでお待ち下さい。一般会員(年会費3000円)の皆様には、本会在庫の特価販売を予定しています。現在、定価や特価販売価格について検討を続けており、詳細は「洛中洛外日記」や『古田史学会報』などでお知らせします。

 同集のタイトル「列島の古代と風土記」が示すように、古田先生以後の多元史観による風土記・地誌の最先端論文を収録しました。従来の大和朝廷一元史観では見えてこなかった列島の古代の姿が、多元史観による風土記・地誌研究で蘇っています。収録した諸論文の仮説と一元史観に基づく旧来仮説との優劣を、学界の権威におもねらない読者の皆さんで確かめてください。もちろん、学問的批判は著者たちも編集部も大歓迎です。〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と、わたしは確信しています。

【写真】「列島の古代と風土記」表紙カバーデザインの検討案

(編集部と明石書店で検討中です)


第3431話 2025/02/16

萩野さん、阿蘇ピンク石の謎に迫る

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。3月例会の会場も豊中自治会館です。

 今回の報告で興味を引かれたのが、萩野秀公さんの「熊本宇土への調査旅行報告Ⅱ」でした。先月に続いての発表です。海を渡って関西にもたらされた熊本県宇土半島の馬門(まかど)から産出する赤い石材「馬門石」(阿蘇溶結凝灰岩)についての現地調査報告です。それは「阿蘇ピンク石」とも呼ばれ、古墳の石棺に使用されています。たしかに赤い石材が当時は好まれたのでしょうが、そうであれば、産地の肥後地方や九州でも古墳の石棺に使用されていても良いはずですが、何故か当地では使用されていないようなのです。石室の壁石としては使用した例はあるとのことですが、石棺に使用した古墳はないとされています。

 わたしは、生産地や九州ではピンク石石棺が使用されていないという現象を不思議に思ってきました。たとえば、大和朝廷が九州での使用を禁止したとする説もあるそうですが、これが九州王朝による禁止命令であったとしても納得できませんでした。それほど貴重な石材であり、王家以外の豪族らに使用を禁止したのであれば、王家自らの〝独占使用〟の痕跡がなければなりません。しかし、八女古墳群にある九州王朝王家の古墳と思われる石人山古墳(五世紀前半~中頃)の石棺もピンク石ではなかったと記憶しています。

 このような疑問を抱いていたわたしは、例会後の懇親会で萩野さんに、本当に肥後や九州の古墳からピンク石石棺は発見されていないのですかと質問しました。萩野さんの返答は、石室の一部に使用されている例はあるが、石棺には使用されていないとのことでした。しかし、話を進めていると、地元の某博物館ではピンク石石棺が、とある古墳から出土しているとする掲示があることを教えていただきました。

 萩野さんのご意見ではその掲示は誤りとのことでしたが、博物館で掲示されているのであれば、それは現地の考古学の専門家の意見ですから、当該石棺の実物を見ないで否定するのはいかがなものかと思い、萩野さんに再度の調査を要請しました。来月の例会でも阿蘇ピンク石について発表されるとのことですので、改めてこの点をお聞きしたいと思っています。もし、九州の古墳にもピンク石石棺があったのであれば、従来の見解を覆す発見となるのではないでしょうか。とても楽しみなテーマです。

 2月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔2月度関西例会の内容〕
①「四人の倭建」の概略 (大阪市・西井健一郎)
②倭王武の上表文の東西海北216国は制覇は史実なのか? (大山崎町・大原重雄)
③『古代日本の渡来勢力』批判 (茨木市・満田正賢)
④熊本宇土への調査旅行報告Ⅱ (東大阪市・萩野秀公)
⑤「呉」と銅鐸圏と画文帯神獣鏡・拘奴国 (川西市・正木 裕)

◎八王子セミナー実行委員会の報告・他 (代表 古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館


第3426話 2025/02/10

『古田史学会報』186号の紹介

『古田史学会報』186号を紹介します。同号には拙稿〝「九州王朝律令」復元研究の予察〟と〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟〝〔新年のご挨拶〕超満員御礼!新春古代史講演会〟の三編を掲載して頂きました。

〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟で紹介した、生前、安藤さんよりいただいた未発表稿「真福寺本古事記の文字について」は、遺稿として多元的古代研究会へお譲りしました。同会の会報『多元』か記念刊行物に収録していただけるとのことですので、故人のご遺志にもかない、同会々員のみなさんにも喜んでいただけることと思います。

〝「九州王朝律令」復元研究の予察〟は、現存しない九州王朝律令の復元のために、木簡・金石文・『日本書紀』などに遺っている断片史料を紹介したものです。言わば基礎研究ですので、今後の九州王朝研究に裨益できれば幸いです。
一面に掲載された正木稿「「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(上)」は前号掲載の「『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾」に続く、筑紫君磐井に関する本格的な論文です。この分野の有力説になるのではないでしょうか。注目したいと思います。

古谷さんの論稿〝「牛利」という姓名〟は倭人伝に見える「都市牛利」について、「都市」を官職名とした『古田史学会報』147号(2018年)の論稿「長沙走馬楼呉簡の研究」の続編でもあり、「牛利」の「牛」を姓、「利」を名とするものです。史料根拠も示されており、有力説ではないでしょうか。これもなかなか面白い仮説と思いました。
186号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』186号の内容】
○「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(上) 川西市 正木 裕
○不改常典仮託説批判 古田武彦説と中野渡俊治説の対比 たつの市 日野智貴
○國枝氏の「唐書類の読み方」への返答 神戸市 谷本 茂
○なぜ、『隋書』は「裴清」と書いたのか ―推古紀の遣唐使の解明― 姫路市 野田利郎
○「九州王朝律令」復元研究の予察 京都市 古賀達也
○「牛利」という姓名 枚方市 古谷弘美
○安藤哲朗氏のご逝去を悼む 古田史学の会・代表 古賀達也
○〔新年のご挨拶〕超満員御礼!新春古代史講演会 古田史学の会・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○「会員募集」ご協力のお願い
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く勉強になる紙面作りにご協力下さい。


第3423話 2025/02/06

倭人伝「七万余戸」の考察 (4)

 ―戸数と面積の相関論(正木裕説)―

 弥生時代の人口推計学の方法(遺跡の「発見数」を計算に使用)や推定値(弥生時代の人口約60万人)が、同分野の研究者(注①)からも「計算方法に根本的な問題がある」との疑義が出されていることから、そのような推定値を根拠として、倭人伝の「七万余戸」を否定することはできないことがわかりました。

 そこで今回は文献史学の立場から、倭人伝に記された各国の戸数とその領域の平野部面積に相関があり、その戸数が信頼できることを実証的に論じた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究「邪馬壹国の所在と魏使の行程」(注②)を紹介します。同研究の概要を説明したメールが正木さんから届きましたので、転載します。詳しくは『古代に真実を求めて』17集に収録した正木論文を読んで下さい。

【以下、メールを転載】
古賀様
極めて大雑把な計算ですが、壱岐の面積と戸数をもとに計算した「魏志倭人伝」の各国の面積と領域は次のとおり。

①壱岐(一大国)は138㎢・3千許家で、これから比例させた、「千戸(家)」の伊都国・不彌国両国の面積は1/3の各約50㎢。
(*壱岐の耕地面積割合は1/3程度。怡土平野はほぼ耕地だからこれを一定考慮すれば両国は約25㎢=方5㎞の範囲の国)

②「奴国」の「二万戸」を比例させれば約800㎢。これは山岳部(背振山脈)を除外すれば怡土平野+肥前国程度。

③「邪馬壹国」の「七万戸」を比例させれば約2800㎢。これは山岳部(古処馬見英彦山地)を除けば、南西は筑後川河口の有明海岸まで、南は耳納山地を含み、東は周防灘沿岸の豊前市付近まで、北東は直方平野から関門海峡までを包む領域で、邪馬壹国は筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国だったことになる。

 つまり壱岐の戸数と面積をもとにすれば「七万戸」は北部九州、それも福岡県とその周辺に収まる「合理的な戸数」になります。
全国で60万人などという人口推計がおかしいのです。
正木
【転載おわり】

 この正木さんの計算方法は簡単明瞭であり、誰でも検証可能なデータに基づいていますから、説得力があります。他方、現在の文献史学における「邪馬台国」畿内説論者たちは、倭人伝に記された里数値や行程方角、戸数などをなぜか信頼できないとします。そこで、畿内説論者の著書・論文(注③)を入手し、取り急ぎ読んでみました。(つづく)

(注)
①中村大「北海道南部・中央部における縄文時代から擦文時代までの地域別人口変動の推定」『令和元年度縄文文化特別研究報告書』函館市縄文文化交流センター、2019年。
http://www.hjcc.jp/wp/wp-content/themes/jomon/assets/images/research/pdf/r1hjcc_report.pdf
②正木裕「邪馬壹国の所在と魏使の行程」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
③渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』中公新書、2010年。
仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。


第3419話 2025/01/31

『東京古田会ニュース』220号の紹介

 『東京古田会ニュース』220号が届きました。拙稿「『難波の宮」発見逸話 ―山根徳太郎氏の苦難―」を掲載していただきました。同稿では、難波宮を発掘した山根徳太郎氏が調査資金不足や有力な学問的批判に苦しんでいたことを紹介しました。

 その学問的批判とは喜田貞吉さんらによるもので、『日本書紀』に見える孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は、地名の一致や地勢から判断すると狭隘な大阪市中央区の法円坂ではなく、北区の長柄・豊﨑の地であるとするものです。当時はこの見解が有力説でしたが、前期難波宮の出土により法円坂説が通説となり、今日に至っています。しかし、それでは何故地名が一致しないのかという問題は未解決のままでした。そこで、拙稿では次のように論じました。

〝喜田氏の見解は『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応という文献史学の論証に基づいており、他方、山根氏の上町台地法円坂説は考古学的出土事実により実証されている。なぜ、このように論証と実証の結果が異なったのか。ここに、近畿天皇家一元史観では解き難い問題の本質と矛盾があるのだが、その理由は明白だ。“列島内最大規模の宮殿であるからには、列島の最高権力者である近畿天皇家の宮殿のはず”という、一元史観の歴史認識(岩盤規制)に従わざるを得ないからだ。

 結論から言えば、山根氏が発見した前期難波宮は孝徳紀に書かれた「難波長柄豊碕宮」ではなく、九州王朝の王宮(難波宮)だった。その証拠の一つとして、法円坂から出土した聖武天皇の宮殿とされた後期難波宮は、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記されており、「難波長柄豊碕宮」とはされていない。この史料事実は、法円坂の地は「難波長柄豊碕」という地名ではなかったことを示唆する。〟

 論文末尾には〝残された「真の問題」、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」が北区長柄にあったことを立証したい。〟と書きましたが、これは大変な仕事になりそうです。

 当号に掲載された國枝浩さん(世田谷区)の二つの論稿には深く考えさせられました。一つは一面を飾った「古田氏の旧説撤回問題(上)」で、古田先生が自説を変更されたいくつかのテーマについて、その問題点を指摘したものです。これらについては古田先生の著作だけではその経緯や論理構造がわかりにくいかもしれませんので、わたしも「洛中洛外日記」などで説明したこともありましたし、古田史学の会・関西例会でも少なからぬ論者により当否が論じられてきました。新たに古田史学に触れられた方のためにも、國枝さんの論稿は有意義なものと思いました。

 もう一つの「『大作塚』AIと会話して」も重要なテーマです。古田説や倭人伝の「大作塚」の理解に対してのAI(Chat GPT)との問答を紹介したものです。近年、実用化が飛躍的に進んだAIの機能が歴史学などの学問や研究にどのような影響を与えるのか、研究者はAIとどのように接するべきなのかなど、近未来の重要課題です。國枝さんの問題提起により、この問題を深く考えるきっかけとなりました。