古田史学の会一覧

第3517話 2025/08/18

『古田史学会報』189号の紹介

 『古田史学会報』189号を紹介します。同号冒頭には拙稿〝「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山―〟を掲載して頂きました。同稿は、ある会合で古田史学支持者から出された『三国志』短里説に関する次の二つの批判への回答です。

(1)山の高さを「里」で表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離である。
(2)天柱山の標高は古田氏がいう1860mではなく、1489mである。

 (1)の批判は、古田説の反対論者により数十年前になされました。古田先生の反論により決着済みと思っていたのですが、古田史学支持者から同じ批判がなされたことに驚きました。というのも山の標高を「里」で表記する例は中国古典に多数あり、古田先生は『邪馬一国の証明』(昭和五五年)でそのことを指摘していたからです。これは長年月による風化現象でしょうか。

 そこで、わたしは古田説の紹介と共に、新たに『水経注』(六世紀前半、北魏の酈道元が撰述した地理書)で山高を「里」で表す11例をあげました。したがって、山高を「里」で表すことはないとする批判は史料事実に反しており、成立しないとしました。

 (2)については、現代中国には複数の天柱山があり、標高1489mの天柱山は観光地として有名な安徽省潜山市の天柱山であり、『三国志』の天柱山は安徽省六安市の霍山(かくざん)であることを詳述しました(小学館『大日本百科辞典』には大別山脈中に「1860」とある)。

 当号掲載の論稿で注目したのが、拙論を批判した日野智貴さんの「秋田孝季の本姓と名字」です。現在、わが国の戸籍制度は名字(苗字)と名前だけとなっていますが、江戸時代の特に武士は、それ以外に本姓(源平藤橘など)や姓(かばね。朝臣・連など)を使用していました。この本姓と姓(かばね)は明治四年の姓尸〈せいし〉不称令(太政官布告第534号)により、公文書での使用が禁止され、戸籍は名字と名前だけに統一されました。

 この姓尸不称令を日野さんは重視し、秋田孝季の本姓の橘と、現代の秋田市土崎近辺に多い橘さん(名字)を同一視すべきではなく、現代の橘さんの分布を秋田孝季実在説の根拠にはできないという指摘です。この日野さんの指摘は早くからなされており、わたしとは見解が異なりますが、重要な指摘ですので深く留意してきました。『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓を機会に、本件について改めて研究を進めています。なお、先日の関西例会の休憩時間に日野さんと本件について意見交換を進め、孝季の本姓は本当に橘だったのかという、より本質的な問題点が日野さんから示されました。よく考えてみたいと思います。

 189号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』189号の内容】
○「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山― 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(下) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○秋田孝季の本姓と名字 たつの市 日野智貴
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(後篇) 神戸市 谷本 茂
○逆転の万葉集Ⅱ 旅人の「梅花序」と家持の『万葉集』の九州王朝 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第三十一回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』第二十八集出版記念講演会のお知らせ
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3517話 2025/08/18

『古田史学会報』189号の紹介

 『古田史学会報』189号を紹介します。同号冒頭には拙稿〝「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山―〟を掲載して頂きました。同稿は、ある会合で古田史学支持者から出された『三国志』短里説に関する次の二つの批判への回答です。

(1)山の高さを「里」で表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離である。
(2)天柱山の標高は古田氏がいう1860mではなく、1489mである。

 (1)の批判は、古田説の反対論者により数十年前になされました。古田先生の反論により決着済みと思っていたのですが、古田史学支持者から同じ批判がなされたことに驚きました。というのも山の標高を「里」で表記する例は中国古典に多数あり、古田先生は『邪馬一国の証明』(昭和五五年)でそのことを指摘していたからです。これは長年月による風化現象でしょうか。

 そこで、わたしは古田説の紹介と共に、新たに『水経注』(六世紀前半、北魏の酈道元が撰述した地理書)で山高を「里」で表す11例をあげました。したがって、山高を「里」で表すことはないとする批判は史料事実に反しており、成立しないとしました。

 (2)については、現代中国には複数の天柱山があり、標高1489mの天柱山は観光地として有名な安徽省潜山市の天柱山であり、『三国志』の天柱山は安徽省六安市の霍山(かくざん)であることを詳述しました(小学館『大日本百科辞典』には大別山脈中に「1860」とある)。

 当号掲載の論稿で注目したのが、拙論を批判した日野智貴さんの「秋田孝季の本姓と名字」です。現在、わが国の戸籍制度は名字(苗字)と名前だけとなっていますが、江戸時代の特に武士は、それ以外に本姓(源平藤橘など)や姓(かばね。朝臣・連など)を使用していました。この本姓と姓(かばね)は明治四年の姓尸〈せいし〉不称令(太政官布告第534号)により、公文書での使用が禁止され、戸籍は名字と名前だけに統一されました。

 この姓尸不称令を日野さんは重視し、秋田孝季の本姓の橘と、現代の秋田市土崎近辺に多い橘さん(名字)を同一視すべきではなく、現代の橘さんの分布を秋田孝季実在説の根拠にはできないという指摘です。この日野さんの指摘は早くからなされており、わたしとは見解が異なりますが、重要な指摘ですので深く留意してきました。『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓を機会に、本件について改めて研究を進めています。なお、先日の関西例会の休憩時間に日野さんと本件について意見交換を進め、孝季の本姓は本当に橘だったのかという、より本質的な問題点が日野さんから示されました。よく考えてみたいと思います。

 189号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』189号の内容】
○「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山― 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(下) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○秋田孝季の本姓と名字 たつの市 日野智貴
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(後篇) 神戸市 谷本 茂
○逆転の万葉集Ⅱ 旅人の「梅花序」と家持の『万葉集』の九州王朝 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第三十一回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』第二十八集出版記念講演会のお知らせ
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)


第3516話 2025/08/17

木簡が示す王朝交代前後の日本列島

 昨日、「古田史学の会」関西例会が豊中倶楽部自治会館で開催されました。遠くは千葉市から倉沢良典さん(古田史学の会々員)が参加されました。リモート参加は7名でした。9月例会の会場は東成区民センターです。

 今回は二宮廣志さん(京都市)が例会発表デビューされました。7月例会での松尾匡さん(木津川市)に続いての新人デビューです。テーマは古墳時代の舟形木棺・石棺などの出土分布の考察で、『隋書』俀国伝に見える葬送記事「葬置屍船上陸地牽之」との関係を論じたものです。新たな古田学派研究者による、これからの活躍が期待されます。

 わたしからは、「王朝交代の宮殿 ―藤原宮木簡が示す活動期―」を発表しました。藤原宮跡や同東方官衙跡から多数出土した王朝交代前後の木簡を紹介し、次のように論じました。

 (1)干支や年号による紀年銘木簡によれば、藤原宮の活動期は『日本書紀』や『続日本紀』にあるとおり、藤原遷都(遷居)の694年から平城遷都の710年までとする通説の理解が妥当である。

 (2)王朝交代前(九州王朝・「評」の時代)から王朝交代後(大和朝廷・「郡」の時代)にかけて、藤原宮にいた天皇(持統・文武・元明)に貢献された「大贄(にえ)」「贄」木簡、その他の荷札木簡(飛鳥出土木簡も含む)の貢献諸国の範囲などから判断すると、7世紀第4四半期~藤原京時代における近畿天皇家の勢力範囲は、九州島(九州王朝・倭国の直轄支配領域)と蝦夷国(後の陸奥国・出羽国)を除いた広範な地域であることがうかがえる。

 (3)この出土木簡の史料事実は王朝交代前後の歴史研究にとって重要なエビデンスである。と発表しました。

 8月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

 なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。
〔8月度関西例会の内容〕
①試論:『隋書』俀国伝の記述から舟形木棺、舟形石棺、長持形石棺の分布を考える (京都市・二宮廣志)
②神功・応神紀の朝鮮半島記事の捉え方について (茨木市・満田正賢)
九州王朝略史Ⅰ (川西市・正木 裕) https://youtu.be/dl4TcUTNGcY
④消された「詔」と遷された事績(中編) (東大阪市・萩野秀公)
⑤欽明紀の名の知れぬ内臣と百済王子恵 (大山崎町・大原重雄)
⑥白村江戦から壬申の乱へ (八尾市・服部静尚)
⑦王朝交代の宮殿 ―藤原宮木簡が示す活動期― (京都市・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館


第3508話 2025/07/21

国立羅州博物館との質疑応答

         とAIレポート

7月19日に「古田史学の会」関西例会が豊中倶楽部自治会館で開催されました。8月例会も会場は豊中倶楽部自治会館です。

今回は、例会デビューとなった松尾匡さんの発表が注目されました。韓国の古墳や甕棺の編年について、全羅南道の国立羅州博物館に問い合わせたその回答書の報告です。たとえば次のような質疑応答がなされました。

(質問1) 遺物の年代を特定された手法について
貴博物館では、甕棺・段型古墳などについて、3世紀~6世紀の編年とされていますが、この遺物の年代を特定された際の基準を教えていただけませんか。絶対年代は何を基準に決定されましたか?
(背景)
日本では古代史上の遺物の年代を特定する場合、主に須恵器を使って年代を特定する方法が使われています。しかし、最近のその基準に疑問を出している研究者が出てきています。韓国では、現在の編年の基準はどうですか。

(回答1) 遺物の年代を特定された手法について
甕棺や古墳などの年代に関しては、様々な要素を考慮して相対編年しています。そのためには遺物の層序地質学的文脈と自然科学的な調査結果をもって想定し、甕棺の相対編年も考慮します。共伴遺物を中心に判断します。遺跡の年代は学者ごとに違いがあり、報告書や事典などの資料を中心に編年しています。

こうした質問と回答が紹介されました。回答書はハングルで書かれており、それを松尾さんが訳して発表されたものです。またAI(Gemini)を使用して、「韓国における甕棺埋葬の歴史的変遷;その起源、発展、そして終焉」というレポートも発表されました。これからは古代史研究においてもAIを駆使する時代です。その長所と限界をよく理解して利用する能力が研究者に要求されることを実感でき、とても勉強になった発表でした。

7月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。
なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。

〔7月度関西例会の内容〕
①国立羅州博物館からの回答書について (木津川市・松尾 匡)

②武具・甲冑から見えてくる“倭の五王”の時代〈4~5世紀の極東アジア〉 (豊中市・大下隆司)参考
YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/lwehH0wVplw

③考古学から論じる「邪馬台国」説の最近の傾向 (神戸市・谷本 茂)

④炭素14 年代測定法の原理と限界 (京都市・古賀達也)
⑤「中学生による証明」と古田論証 (京都市・古賀達也)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/AmqQzFjQMxc

⑥岡山県平福陶棺の図像は水と馬のケルトの女神エポナ (大山崎町・大原重雄)参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/9T1fhD50zu4

⑦改造された藤原京 (八尾市・服部静尚)

⑧消された「詔」と遷された事績 (東大阪市・萩野秀公)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/oJSIX4PMDFA

⑨小戸の原譜と「古事記」の譜 (大阪市・西井健一郎)
参考YouTube動画(Zoommeeting)

⑩百済記に記された「貴国」が栄山江流域の勢力であった可能性
(茨木市・満田正賢)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/tg4t-7R_gEA

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
08/16(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館


第3504話 2025/07/09

英文タイトル・アブストラクトの提案

7月5日(土)・6日(日)の福岡市と久留米市の講演会に千葉市から参加された倉沢良典さん(古田史学の会・会員)から、『古代に真実を求めて』掲載論文に英文のタイトル(表題)とアブストラクト(概要)を付けてはどうかとの提案をいただきました。

確かに古田史学を世界に発信するためには必要なことですし、近年では文系の学会誌にも投稿時の英文タイトル・アブストラクトの提出要請は普通に行われています。とは言うものの、英文に強くないわたしにはハードルが高く、自分の論文を英訳するだけならまだしも、アブストラクトとは言え、他者の英文論文を正しく査読する自信はありません。氏の提案に躊躇するわたしにハッパをかけるかのように、FaceBookに転載した「洛中洛外日記」第3502話(2025/07/04)〝炭素14 年代測定法の原理と限界〟の倉沢さんによる英訳が送られてきました。下記の通りです(気づいた点を少し修正しました)。もともとの私の構文が英訳を前提としないものですから、そのまま英訳するのは大変な作業だったと思います。

読んでいて、なるほどと思ったのが次の英訳でした。

『古代に真実を求めて』 ’Seeking the Truth in Antiquity’
『「邪馬台国」はなかった』”There Was No ‘Yamataikoku'”

いきなり英文アブストラクトは難しくても、タイトルだけなら英文表記して目次に入れることはできるかもしれません。そのために、古田史学独特の単語だけでも統一しておいたほうが良いと思いました。たとえば、「九州王朝」「九州年号」「多元史観」「一元史観」「二倍年暦」などです。ちなみに「古田史学の会」は‘Furuta’s Historical Science Association’としてきました。英文ホームページをご参照下さい。

現役時代、製品説明書や注意表記は、輸出業務や海外でのプレゼン資料用に英訳したことはありましたが、テクニカルタームが国際的に統一されている分野ですから何とかなったものの、古田史学独特の専門用語の英訳は簡単にできそうもありません。もっと、英語を勉強しておけばよかったと、この年になって後悔しています。

《以下、倉沢さんによる英訳》
‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3502 July 4th,2025
The principles and limitations of carbon-14 dating method
―Email from Mr.Shigeru Tanimoto―

I received the following email from Mr.Shigeru Tanimoto (editor of ‘Seeking the Truth in Antiquity’), who read the article by Mr.Fumitaka Urano introduced in ‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3501, titled ‘Hashihaka is around AD300, and Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence’ (Note).
The content scientifically points out the limitations of the carbon-14 dating method from the perspective of a science researcher (a graduate of the Department of Electronic Engineering at Kyoto University, who has excelled at Hewlett-Packard and Agilent Technologies).
I will quote the relevant part.

【Email from Mr. Shigeru Tanimoto (excerpt)】
Thank you for providing very interesting information. (Omitted)
Regarding the analysis by Fumitaka Urano, although he uses the calibration curve (Intcal20) to obtain actual ages from measurement data with the age calibration software OxCal, while it is good to utilize those results, there seem to be some inaccuracies in his basic understanding of statistical inference (if evaluated strictly).
That aside, in broad terms, M.Urano’s concise logic is impressive as it sharply points out the internal contradictions of the conventional interpretation while relying on the same data as the mainstream view!
I was impressed that he recognized the logical constraints of dating based on pottery forms and that he was someone capable of scientific logical thinking.
Well, since the original interpretations of the C14 measurement data from historical museums and the Nara National Research Institute were somewhat distorted, I think it is impressive that the point that clearly pinpointed those shortcomings with straightforward logic.
Perhaps it means that we can no longer maintain unreasonable interpretations forever, and the veneer of common theory has begun to wear off…
By the way, it is a major misunderstanding to think that the actual age can be pinpointed (for example, ±10 years) using the C14 method.
Considering factors such as measurement errors in data and the range of calibration curves (statistically significant range), there is a width of about one century (±50 years) even under the best conditions, and typically the precision (or accuracy) is about ±100 years.
In the historical museum’s paper, there was a mention that the construction period of the Hashihaka Tomb was identified within a margin of ±10 years, but this is clearly an erroneous interpretation of the calibration curve reading results.
For those who are familiar with measurement theory and statistical inference, it was a basic interpretative error.
(I don’t know how it is currently interpreted, but…) [End of reproduction]

I completely agree with Mr.Tanimoto’s point.
During my active years, I was also responsible for quality control and testing operations of chemical products, and in order to accurately measure the quality of products, it is fundamental to confirm that the precision of measuring instruments and the measurement principles are appropriate for the purpose of measurement.
In that sense, carbon-14 dating can be expected to have a scientifically significant and excellent effect for rough dating on the order of hundreds of years, but it is fundamentally not possible to achieve measurement accuracy on the order of tens of years.
It’s a basic problem, so to speak, of whether you can measure the size of a grain of sand, which is about 1mm, with a ruler that only has markings at 1cm intervals.
If we are to investigate the “Yamatai(臺) Kingdom” (referred to as Yamawi (壹) Kingdom in the original text) as recorded in the “Chronicles of Japan,” we must rely on methods such as dendrochronology or the measurement of cellulose oxygen isotopes in tree rings, rather than the carbon-14 dating method, which has a wide calibration curve (intCAL).
Just as measuring a sand grain’s size, roughly 1mm, requires at least a ruler with divisions of 0.1mm, ideally 0.01mm, so too does our inquiry into Yamatai necessitate more precise methodologies.
Of course, even in that case, the required measurement conditions and sampling environment (methods) will be necessary. (to be continued)

(Note) Urano Fumitaka “Hashihaka is around AD300, Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence” ‘note’ September 2, 2024.
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1

(Photos) A transcript of a lecture by Mr. Tanimoto and Koga published in “Criticism of Eastern Historical Sources – A Challenge from ‘Honest History'” (2001).
A transcript of the lecture held at the Asahi Shimbun building in Tokyo to commemorate the 30th anniversary of the publication of “There Was No ‘Yamataikoku'”.


第3503話 2025/07/08

故郷(福岡市・久留米市)で講演しました

 7月5日(土)・6日(日)、福岡市と久留米市で講演してきました。わたしが物心ついたときには久留米市で生活していましたが、母親から聞いた話では、生まれは福岡市とのことです。このことは今回初めて公にしますが、わたしにとってはどちらも大切な故郷であることに違いはありません。他方、久留米高専(工業化学科11期)卒業後の半世紀を京都市で暮らしていますので、京都で生涯を終えたいと願っています。何よりも古田武彦先生との思い出がたくさん遺っている町ですから。

 話を戻しますが、5日は「古田史学の会」の友好団体である「九州古代史の会」月例会(早良区ももち文化センター)で講演しました。テーマは〝王朝交代前夜の倭国と日本国 ―温泉の古代史・太宰府遷都の真実―〟と、急遽追加した〝「海の正倉院」の中の王朝交替 ―沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて―〟(注)です。地元ネタということもあって好評だったようです。

 「九州古代史の会」はこの度三役が交代され、講演後の懇親会では新三役の皆さんと親しく懇談させていただきました。新会長の榊原秀夫さんは福岡県庁で長く要職に就かれていた方で、温厚で誠実なお人柄でした。副会長の松中祐二さんは三十年来の友人で古田史学の支持者です。事務局長の金山さんも熱烈な古田ファンです。同会との友好関係は今後益々深まることと思います。

 翌6日は久留米大学御井キャンパスでの公開講座で講演しました。テーマは〝王朝交代前夜の倭国と日本国 ―温泉の古代史・太宰府遷都の真実―〟。ここでも皆さん熱心に聴講されていました。聞けば、講座「九州王朝論2025」には70名を越える申し込みがあり、その内の20名は新規参加とのことでした。昨年初めて参加された若い女性の方々も見え、リピーターになっていただけたようです。同講座は確実に世代交代に成功しています。また、久留米高専時代のクラスメートのH君も参加されており、五十年ぶりの邂逅に驚きました。

 これからも分かりやすく面白いテーマで九州王朝論を語っていきたいと決意を新たにしました。全国トップクラスの記録的猛暑が続く久留米市でしたが、多くの皆さんにご来場いただき、御礼申し上げます。おかげさまで、持参した『古代に真実を求めて』も完売できました。

 今月27日(日)には同講座で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝古田武彦と九州王朝 ―九州王朝の歴史―〟というテーマで講演します。その前日には正木さんも九州古代史の会で講演されます。地元の古代史・九州王朝説ファンの皆さんのご参加をお待ちしています。

 久留米大学での講演後も同大学教授の福山先生をはじめ5名の方々と懇親会を開催しました。遠くは千葉市や長崎市から参加された「古田史学の会」の会員もおられ、思いで深い久留米での一夕となりました。来年も皆さんとお会い出来れば幸せです。

(注)「洛中洛外日記」3500話 2025/06/28〝7/05(土)「九州古代史の会」講演での追加テーマ ―「海の正倉院」の中の王朝交替―〟をご参照下さい。


第3499話 2025/05/21

『古事記』序文、古田先生からの叱責

 本日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。7月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。

 今回の例会では萩野秀公さんから『古事記』序文などについての研究が発表されたのですが、質疑応答のおり、〝古事記とは稗田阿礼が口述した記憶を太安萬侶が筆録したもの〟とする理解に対して、それは誤解であると述べました。実はそのことについて、わたしにはほろ苦い思い出がありました。

 それは今から34年前のこと。信州の昭和薬科大学諏訪校舎で一週間にわたり開催された「シンポジウム 「邪馬台国」徹底論争」(主催:東方史学会、平成三年(1991)8月)に、わたしは「市民の古代研究会」事務局長として同シンポジウム実行委員会に参画していました。会場での質疑応答の時、〝古事記は稗田阿礼の言葉を太安萬侶が筆録したもの〟と、わたしが不用意に発言したとたん、古田先生から〝それは誤りであり、稗田阿礼の口述以外の史料にも基づいて古事記は編纂されている〟とのご注意がありました。そして、こんなことも知らないのかと言わんばかりの勢いで厳しく叱責されました。数百人の聴衆の面前でしたので、自らの不勉強を深く恥じ入りました。入門以来、これほど先生から叱られたのも初めての経験でしたので、それからは生半可な知識や思いつきで、もっともらしく意見を述べることはしないよう、気をつけてきました。三十代半ばの頃、こうした苦い経験がありましたので、例会での発言に至ったものです。

 6月例会では下記の発表がありました。関西例会担当者が西村さんから上田さんに交替しましたので、発表希望者は上田武さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを20部作成されるようお願いします。

〔6月度関西例会の内容〕
①万葉集と現地伝承に見る「猟に斃れた大王」 (川西市・正木 裕)
②仁徳帝 ―縄文語で解く記紀の神々― (大阪市・西井健一郎)
③『もう一つの万葉集』李寧煕著の紹介 (大阪市・西井健一郎)
④関西例会会計報告・ハイキング報告 (八尾市・上田武)
⑤九州の遺跡が示す卑弥呼の三角縁鏡 など (大山崎町・大原重雄)
⑥皇国史観について (大山崎町・大原重雄)
⑦続・『記紀』及び『続紀』等の根本資料について (東大阪市・萩野秀公)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22(日)会員総会・記念講演会の受付協力要請
❷秋(9~10月)の出版記念東京講演会の状況報告
❸九州古代史の会月例会(福岡市)で古賀(7/05)・正木(7/26)が講演
❹久留米大学公開講座で古賀(7/06)・正木(7/27)が講演

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
07/19(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
08/16(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館

※6/22(日)は会員総会・記念講演会(会場:I-siteなんば・大阪公立大学なんばサテライト)。


第3498話 2025/06/20

『古田史学会報』188号の紹介

 『古田史学会報』188号を紹介します。同号には拙稿〝倭国伝「東西五月行、南北三月行」考〟を掲載して頂きました。同稿は、『旧唐書』倭国伝に記された倭国の領域記事「東西五月行、南北三月行」が倭国(九州王朝)からの公的情報に基づいた概数記事であることを、『養老律令』厩牧令「須置駅条」・公式令「行程条」や『延喜式』「諸國駅傳馬」を史料根拠とした実証的な方法で論じたものです。『旧唐書』の倭国記事は、歴史経緯記事を除けば7世紀後半頃の倭国律令下の日本列島(駅路や駅数など)を対象としていることから、こうした方法を採用することができ、証明にも成功しているように思われます。

 当号掲載の論稿で注目したのが上田さんの〝『続日本紀』大宝二年 「采女・兵衛」記事についての考察〟でした。九州王朝の采女制度は以前から論じられてきましたが、上田稿では『続日本紀』大宝二年「采女・兵衛」記事に着目し、論じられたことが新しい視点であり、これからの進展が期待できるテーマでした。

 『隋書』俀国伝には「王妻號雞彌。後宮有女六七百人。」という記事があります。おそらくこの「後宮」は後の「中宮」のことではないかと推測されますが、王朝交代後の大和朝廷(日本国)も大宝律令により采女制度を継承し、薩摩・大隅を除く「筑紫七国」と蝦夷国(陸奥国・出羽国)に隣接する越後国からも采女貢進の命令を出すに至ったものと思われます。倭国律令復元研究においても上田稿は一つの方法論を示唆したものではないでしょうか。

 188号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』188号の内容】
○逆転の万葉集Ⅰ 「あおによし」の真実 川西市 正木 裕
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(前篇) 神戸市 谷本 茂
○『続日本紀』大宝二年 「采女・兵衛」記事についての考察 八尾市 上田 武
○倭国伝「東西五月行、南北三月行」考 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(上) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○6/22出版記念講演会・会員総会のお知らせ
○『古代に真実を求めて』29集 投稿募集要項
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。


第3497話 2025/06/17

6/22(日)古代史講演会、

 久住さんの資料が素晴らしい

 6月22日(日)の古代史講演会で講演していただく久住猛雄(くすみ・たけお)さん(福岡市埋蔵文化財センター・文化財主事)から講演資料が届きました。博多湾岸の比恵那珂遺跡や須久岡本遺跡、弥生時代の硯など最新の発掘調査に基づく優れた資料です。特に弥生遺跡の考古学編年についてのエビデンスなど、博多湾岸を「奴国」とする根拠が示され、とても興味深い内容です。

 久住さんは「邪馬台国」畿内説を支持されており、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡は倭人伝に記された時代よりも古く、「邪馬台国」ではないとしています。古田武彦先生の邪馬壹国博多湾岸説を支持するわたしたちにとっては越えなければならない、現地を発掘されている考古学者の最新知見が資料には満載されており、とても貴重です。

 古田先生がわたしたちに常々言われてきたように、自説とは異なる意見に真摯に耳を傾け、自由に誠実に論議する学問的寛容の精神風土が大切です。そうした意味からも、「古田史学の会」主催講演会で久住さんに講演していただけることは、またとない貴重な学問的経験と勉強の場となることでしょう。古代の真実を求める多くの皆様のご参加をお待ちしています。

 なお、講演終了後に「古田史学の会」第31回定期会員総会を開催します。会員の皆様のご出席をお願い申し上げます。その後に、講師を交えて、会場近くのお店で懇親会を開催します。こちらは、当日、会場で参加受付を行います。講演会は会員以外の方も参加できます。

【『列島の古代と風土記』出版記念大阪講演会】
□講演会テーマ 「弥生時代の都市と文字文化」
□6月22日(日)午後1時開場 1時15分~4時
□会場 大阪公立大学なんばサテライト I-siteなんば
□主催 古田史学の会
□参加費(資料代含む) 一般参加費1000円、「古田史学の会」会員は無料

○久住猛雄 氏 弥生時代における「都市」の形成と文字使用の可能性 ―「奴国」における二つの「都市」遺跡、および「板石硯」と「研石」の存在についてー
○正木 裕 氏 伝説と歴史の間 ―筑前の甕依姬・肥前の世田姫と「須玖岡本の王」―


第3495話 2025/06/12

九州古代史の会で講演します

沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて

 7月5日、友好団体「九州古代史の会」の例会で発表させていただきます。日時・演題は下記のとおりです。

7月5日(土)午後1時半から ももち文化センター
演題 王朝交代前夜の倭国と日本国
―温泉の古代史・太宰府遷都の謎―
《追加テーマ》沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて

 予定していたテーマ「王朝交代前夜の倭国と日本国」に加えて、急遽「沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて」を追加することにしました。
「王朝交代前夜の倭国と日本国」は翌日(7/06)の久留米大学公開講座と同様の内容ですが、より詳しく説明します。『旧唐書』倭国伝・日本国伝の記事から、7世紀末に起きた九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の実体に迫り、九州王朝が太宰府を都とした理由の一つに、二日市温泉(次田の湯)の存在が大きかったことを論じます。

 追加テーマ「沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて」では、ほとんど全てのメディアで〝ヤマト王権が沖ノ島に奉納したもの〟と説明していますが、九州王朝による奉納とする多元史観による仮説を提起したいと考えています。この発見はご当地のビッグニュースですので、触れないわけにはいかないと思い、急遽、付け加えることにしました。ご期待下さい。

 なお、「九州古代史の会」では三役が交代されたとのことで、代表に元伊都国歴史博物館長の榊原英夫さん、副代表に松中祐二さん、事務局長に工藤和幸さんが就任されるとのこと。松中さんや工藤さんはこれまでも懇意にさせていただいており、松中さんとは三十年来の友人です。「九州古代史の会」と「古田史学の会」との友好関係が更に進むものと期待しています。お世話になってきた旧三役の方々には厚く御礼申し上げます。

【写真】左の写真は、九州古代史の会の皆さんと、博多駅近くのお店で新年会の二次会(2020年1月12日)。中央が工藤さん、その左が松中さん。わたしの左が前田和子さん(前事務局長)。
 右の写真は、左端が松中さん、右端はわたしが尊敬している太宰府市の考古学者、井上信正さん。福岡市天神での新年会場にて(2017年1月15日)。

第3494話 2025/06/08

関東の会員とTeamsで交歓会

 「古田史学の会」は殆どの本部機能を関西に置いているため、関東エリアの窓口を冨川ケイ子さん(全国世話人)に担当していただいています。そこで、秋(9~10月)に予定している『列島の古代と風土記』出版記念東京講演会の企画や準備について、昨晩、冨川さんをはじめ親しい関東の会員の方々とTeamsでミーティングを行いました。そして、東京講演会の受付や書籍販売などを手伝っていただけることになりました。

 この他にも、東京例会(バーチャルとリアル)開催やホームページ作成など様々なご提案やご要望もいただき、自分たちでできることから進めていこうと意気投合しました。とは言え、簡単なことではありませんので、「関東連絡会」(仮称)のようなワークショップグループを作り、関東エリア在住会員に参加協力を呼びかけることになりました。とりあえず、本会全国世話人の冨川ケイ子さんに同グループの会長になっていただき、副会長・事務局長候補のお名前もあがりました。まずは、秋の出版記念東京講演会の成功が当面の目標です。

 ホームページについては、「古田史学の会」の〝新古代学の扉〟とはコンセプトが重ならないよう配慮し、若者や初心者向けビジュアル系に特化したものにしようということになり、わたしも基本企画設計に協力させていただくことにしました。一案として、〝王朝交替MUSEUM 倭国から日本国へ〟というバーチャル展示室をコンセプトに基本設計をしてみることにしました。

 このようなワークショップの設立に向けて、関東エリアの会員のご協力を願っています。何かお得意な分野で協力していただける方があれば、冨川さんか古賀までご連絡ください。


第3493話 2025/06/06

久留米大学公開講座で講演します

  ―九州王朝論2025―

今年も久留米大学公開講座で講演させていただきます。「古田史学の会」から、わたしと正木裕さんが講演します。日時・演題は下記のとおりです。

7月5日(日)午後1時から 久留米大学御井キャンパス
講師 古賀達也 (古田史学の会)
演題 王朝交代前夜の倭国と日本国 ―温泉の古代史―

7月27日(日)午後1時から 久留米大学御井キャンパス
講師 正木 裕 (元 大阪府立大学大学院 講師)
演題 古田武彦と九州王朝 ―九州王朝の歴史―

わたしは『旧唐書』倭国伝・日本国伝の記事から、7世紀末に起きた九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の実体に迫ります。あわせて、九州王朝が太宰府を都とした理由の一つに、二日市温泉(次田の湯)の存在が大きかったことを論じます。ご期待下さい。