倭人伝一覧

第3197話 2024/01/08

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (2)

   ―「邪馬台国」の原文改定―

 年始に古書店で購入した『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』(注①)には、倭人伝の原文改定について次の三例が紹介されていました。

Ⅰ.「南、邪馬壱(台の誤り)国に至る。」13頁
Ⅱ.「景初三年(二三九。原文、二年)」14頁
Ⅲ.「台与(原文、壹與。『梁書』と『北史』を参照して臺與の誤りとされている)」15頁

 Ⅲについては、一応、原文改定の根拠らしきことが示されていますが、なぜか邪馬壱国についてはそれがありません。古田先生は、この「古代史疑」で紹介された邪馬壱国から邪馬台国への原文改定の事実を、松本清張氏が最後まで説明されなかったことを不審として、自らが『三国志』の「壹」と「臺」の悉皆調査を行われ、原文改定が否であることを証明されました。そのことを東京大学の『史学雑誌』(注②)に発表され、古田武彦の名前と邪馬壹国説は古代史学界で、一躍注目されるに至ったことは有名です。

 それではなぜ松本氏は邪馬台国への原文改定を、何の説明も論証も無いまま採用したのでしょうか。というのも、氏自身が同書で次のように、原文改定を誡められているだけに、不審と言うほかありません。

 「要するに、距離(里数、日数)の点では大和説が有利である。ただし、『魏志』の原文にある南を東としたのは、「自説に都合のいい、勝手な解釈」といわれても仕方がなく、大和説の欠陥である。」24頁
「私はやはり『魏志』の通りに帯方郡から邪馬台国までの方向をすべて「南」としたい。原典はなるべくその通りに読むべきだと思う。」37頁

 このように、松本氏は原文尊重を主張していながら、邪馬壹国については、何の疑いもなく原文改定された「邪馬台国」を採用しています。何とも不思議なことです。その後、1969年に古田先生の論文「邪馬壹国」が発表されると、次のように述べています。

 「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」(注③)

 残念ながら、古代史学界では今も原文改定した「邪馬台国」が、なに憚ることなく使われ続けています。そして、教科書もまた。(つづく)

(注)
①「古代史疑」の初出は『中央公論』の連載(昭和41年6月~42年3月〔1966年〕)。
②古田武彦「邪馬壹国」『史学雑誌』78-9、1969年。
③「読売新聞」昭和44年11月12日〔1969年〕。
古賀達也「洛中洛外日記」1084話(2015/10/29)〝「邪馬壹国」説、昭和44年「読売新聞」が紹介〟


第3140話 2023/10/19

倭人伝に見える二つの「邪馬」国

 過日(10月14日)の「古田史学リモート勉強会」(注①)で、「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」を発表しました。その中で、女王国の本来の国名は「邪馬国」であるとする、下記の古田説を紹介しました。

 〝「邪馬壹国」という国名は、どのような構成をもっているのであろうか。
この問題は「やまゐ国」と読みうることの確定した直後、直ちに発生すべき問いである。

  この問題を分析するための、絶好の史料が『三国志』東夷伝の中にあらわれている。それは濊伝中のつぎの記事である。(中略)

  正始八年、濊国中の不耐の地の候王が貢献してきたのに対して、魏の天子はこれに「不耐濊王」という称号を与えたというのである。その意味するところは、濊の中の不耐の地の候王をもって、濊国全体の王と認める、ということなのである。(中略)

  こうしてみると、「邪馬壹国=邪馬倭(やまゐ)国」の名称が意味したその構成が明らかとなってくる。

  すなわち、卑弥呼の国は「邪馬国」であり、その居城は「邪馬城」とよぶべき地であった。その「邪馬」の女王に対して、倭(ゐ)国を代表する資格を認可したのが「邪馬倭国」の名称なのである。〟『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社版、「不耐濊王」の国、353~537頁。

 質疑応答で、関東から参加されている奥田さんから意表をつく質問がありました。それは、倭人伝に記された「邪馬国」(注②)は女王国の「邪馬壹国」と同じ国と見なしてもよいか、というご質問です。倭人伝中に「奴国」が二つ見えることは著名で、それが同一国か否かで諸説あることは知っていましたが、「邪馬壹国」=「邪馬」+「壹(倭)」とする古田説に準拠すれば、どちらも本来は「邪馬国」となりますから、それらを別国とするのか同一国とするのかという疑問が生じるわけです。そのような問題が発生することに、奥田さんから質問されるまで気付きませんでした。

 わたしからは「邪馬壹国」は〝倭国を代表する邪馬国〟の意味を持つ「邪馬壹国」と称され、「邪馬国」は女王国以北の国々の一つと理解すべきと返答しました。この問題は、倭人伝文脈上からもこうした理解でよいと考えていますが、改めて「邪馬壹国」「邪馬国」の「邪馬」が当時の倭語の一般名詞であったことに思い至りました。

 ずいぶん昔に古田先生からお聞きしたことですが、『三国志』時代の音韻復元はまだ成功していませんが、倭人伝に記された倭国内の文物の名前に用いられた漢字は、現代日本でも同じ音で使用されているケースがあることから、これを利用して音韻(上古音)復元研究が可能ではないかと思われます。その一例が「邪馬壹国」「邪馬国」の「邪馬」です。おそらくこの「邪馬」はヤマと発音し、意味は「山」だと思います。そして、「奴国」の「奴」はノかヌと発音し(注③)、意味は「野」あるいは格助詞の「の」ではないでしょうか。ナと訓む説は根拠不明ですし、ドと濁音で発音するのは後代の北方系長安音のように思います。ちなみに、わたしは倭人伝の音韻は南朝系呉音と考えています(注④)。(つづく)

(注)
①各地の研究者と情報交換や勉強を目的として、「古田史学リモート勉強会」を開催している。
②倭人伝に女王国以北の国々として次の記載がある。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載。
其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。」
③倭人伝の「奴」をノと発音する説が中村通敏氏より発表されている。
中村通敏『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』海鳥社、2014年。
古賀達也「洛中洛外日記」780話(2014/09/06)〝奴(な)国か奴(ぬ)国か〟
同「洛中洛外日記」827話(2014/11/23)〝「言素論」の可能性〟
同「洛中洛外日記」1507話(2017/09/24)〝倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名〟
④古賀達也「倭人伝の音韻は南朝系呉音 ―内倉氏との「論争」を終えて―」『古田史学会報』109号、2012年。


第2733話 2022/04/30

高知県四万十市(侏儒国)から弥生の硯が出土

 昨日の「多元の会」リモート発表会では吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)が「『ねずみ・鼠』について」を発表されました。高知県の別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)が初めて参加され、最後にご挨拶をされました。そのとき、高知県から弥生時代の硯(すずり)が発見されたとの報告がありました。わたしからお願いして、別役さんに地元での報道記事をメールで送っていただきました。
 というのも、高知県から弥生時代の硯が出土したと聞いて、これは倭人伝に見える侏儒国(足摺岬方面)での硯使用、すなわち文字が使用されていた痕跡ではないかと考えたからです。そうであれば、古田先生の倭人伝の里程記事解釈(注①)が正しかったことの証明にもなるからです。そこで、送っていただいたデータやweb上の報道を調べたところ、硯出土が確認された県内3箇所の遺跡(注②)の内、最も古いのが四万十市の古津賀遺跡群で、弥生時代中期末から後期初頭にかけての遺跡とされています。古田先生が侏儒国に比定された足摺岬方面(土佐清水市)の北側に四万十市がありますから、位置も時代も倭人伝に記された侏儒国領域と見ることができます。
 同硯発見の詳細な続報と調査報告書の発行が期待されます。

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古津賀遺跡群(四万十市)、祈年遺跡(南国市)、伏原遺跡(香美市)。

【転載】〈読売オンライン 2022/04/27〉
弥生期の硯片発見
弥生時代の硯の一部を示す柳田客員教授(南国市で)
四万十市など3遺跡 県内初
文字が使われた可能性

 四万十市の古津賀遺跡群から、弥生時代中期末から後期初頭にかけてのものとみられる硯(すずり)の一部が出土していたことが確認され、県立埋蔵文化財センター(南国市)と四万十市教育委員会が26日発表した。県内で弥生時代の硯が見つかるのは初めてで、紀元前後に県内に文字を理解できる人がいた可能性を示す。同センターは「この地域の弥生時代像を見直すきっかけになる」としている。(飯田拓)

 古津賀遺跡群の弥生時代の竪穴住居跡から硯の一部が四つ出土した。一つの遺構から見つかった数としては国内最多という。サイズはそれぞれ縦横数センチ程度、厚さ数ミリ~1センチ程度。ほかに祈年遺跡(南国市)の弥生時代の遺構と、伏原遺跡(香美市)の弥生から古墳時代にかけての遺構からも硯の一部が一つずつ出土していた。
 この時代の硯は平たい形をしており、墨をする「陸」と墨汁をためる「海」が分かれた現在の硯とは異なる。硯の上で墨を潰し、水を加えて使っていたとされ、ここ数年は九州北部などで同様の確認例が増加している。政治的な交流や荷札に文字を書く際などに使われたとみられる。
 今回の硯が見つかった三つの遺構の中では、古津賀遺跡群のものが時代的に最も古く、地理的にも九州北部に近いことから、県西部から中部に向けて、少しずつ文字使用が広がった様子も想像できる。他の遺跡や出土品を調べれば、同様の硯が出てくることも考えられるという。
 同センターは2021年11月に弥生時代の硯に関する研修を開催し、専門家として招いた国学院大学の柳田康雄・客員教授が、 砥石(といし)などとして保管していた県内の出土品を分析。今回の六つの出土品は、中央部がわずかにくぼんでいたり、角の部分を滑らかに加工していたり、特有の特徴が見られたことから硯と判断したという。
 現物は28日~5月8日に同センターで展示し、4月29日と5月5日に調査員が説明会を実施する(土曜休館)。また5月10~29日には四万十市郷土博物館に場所を移して展示する(水曜、5月18~20日休館)。問い合わせは同センター(088-864-0671)へ。

【写真】出土した硯。関西例会(2018年3月)で別役さんと。


第2554話 2021/09/03

弥生時代の「十進法」の痕跡

 昨日、久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりメールが届き、新聞報道によると、須玖岡本遺跡から出土した弥生時代の権(分銅)に関する展示が「奴国の丘歴史資料館」のサイト(注①)で見られるとのこと。本来は同館の企画展だったのが、コロナ禍で中止となったのでネット上での公開となったそうです。
 新聞報道(注②)によれば、「弥生時代の10倍権が確認されたのは国内初」で、「弥生時代から国内でも10進法が使われていたことを証明する重要な発見」とあります。物的証拠(出土事実)を重視する考古学的にはその通りなのかもしれませんが、文献史学では弥生時代の「十進法」使用は当然のことと思われます。
 たとえば『三国志』倭人伝には倭国(壹與。三世紀)からの献上品として、「男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」(注③)と記載されており、「三十人」「二十匹」は倭国での十進法使用を前提とした数と考えざるを得ません。
 古田先生が紹介された室見川の銘板(注④)にも「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」とあり、「延光四年五」とは後漢の年号「延光四年(125年)」の「五月」のことですから、十進法による中国の年号や暦法を二世紀の倭人は知っていて、この銘板に刻字したわけです。
 以上のような史料根拠により、文献史学では弥生時代の倭国では「十進法」が使用されていたと考えざるを得ないのです。

(注)
①「発見!!弥生時代の権」オンライン展示室
https://www.city.kasuga.fukuoka.jp/miryoku/history/historymuseum/1002191/1009102.html
②毎日新聞web版 2021/9/2。本稿末に転載、
③「壹與、遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」『三国志』倭人伝
④古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。

【毎日新聞web版 2021/9/2】
弥生時代に10進法利用か 基準10倍の分銅発見 国内初

 福岡県春日市の須玖(すぐ)遺跡群・須玖岡本遺跡の出土物から、弥生時代中期(紀元前2世紀~同1世紀)とみられる石製の分銅「権(けん)」(最大長5センチ、最大幅4.15センチ)が新たに確認された。1日、市教育委員会が発表した。朝鮮半島南部で発見された権と共通の規格で作られたとみられ、基準となる権(約11グラム)の約10倍の重さだった。同規格の弥生時代の10倍権が確認されたのは国内初。市教委は「弥生時代から国内でも10進法が使われていたことを証明する重要な発見」と話している。
 遺跡群からは2020年、国内最古級となる弥生時代中期前半~後期初め(紀元前2世紀~紀元1世紀)の権8点が確認された。これらは韓国・茶戸里(タホリ)遺跡の基準質量の▽3倍▽6倍▽20倍▽30倍にあたり、権に詳しい福岡大の武末純一名誉教授(考古学)は10進法が使用されていた可能性を指摘していた。今回の発見で、その可能性がより高まった。


第2486話 2021/06/11

「邪馬台国」〝非〟大和説、伊都国の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を読んで、改めて気づかされた重要な論点がありました。その中でも、なるほど面白い視点と思ったのが「邪馬台国」と伊都国との位置関係についての次の指摘でした。

〝邪馬台国と伊都国
 『魏志』によれば、邪馬台国の外交は伊都国を窓口としている。ここには「一大率」が置かれ、また帯方郡使が留まり、さらに魏王朝からの重要な文書・賜物の点検が行われ、その後に邪馬台国への伝送を行うところであったという。この北部九州の伊都国から近畿大和までは、帯方郡から伊都国までの距離に及ぶほどの遠距離である。
 魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国は、地理的に邪馬台国とは、かなり遠隔の地にあるとは考え難い。伊都国で厳重な点検を受けた魏の皇帝からの重要文書や多種多量の下賜品を、さらにまた近畿大和のような遠方にまで運ぶようなことは想定できないからである。
 これら国の外交にかかわる重要な品々の移動を考えれば、伊都国は邪馬台国と絶えず往還できるような、比較的遠くない位置にあったとみるべきであろう。〟177頁

〝仮に邪馬台国が大和であるならば、後の事例からみてその外港の位置は、おそらく河内潟や大阪湾岸地域であろうから、伊都国が外港である邪馬台国は大和ではありえない、ということにもなる。〟178頁

 倭国と魏王朝との外交の窓口(外港)とされる伊都国は、倭国の都である邪馬台国(原文は邪馬壹国)と遠くない位置になければならず、したがって、「邪馬台国」大和説は成立しないという論理は単純明快で、反論が困難です。このテーマは、『三国志』倭人伝に関する文献史学の論理的問題ですので、考古学者の関川さんからこうした指摘がなされていることに驚きました。このことが、同書を「わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と評した理由の一つでした。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟


第2484話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟九州説の論理

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には、「邪馬台国」研究史における「邪馬台国」〝非〟九州説の発生根拠や論理ついても紹介されています。学問研究においては、自説と異なる意見やその背景となる根拠と論理構造を理解することは大切ですので(注②)、関川さんの著書はとても役立ちます。読者の皆さんにも一読をお奨めします。
 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注③)によれば、江戸時代の松下見林以降の「邪馬台国」畿内説の背景として、〝古代より日本の代表権力者は近畿天皇家だけ〟とする皇国史観にあったことは明らかですが、さすがに現代では、そこまで露骨な理由は通用しませんので、どのような根拠に基づくのかを知りたいと思っていました。関川さんの著書には次のように説明されています。

〝邪馬台国「七万余戸」と弥生遺跡
 邪馬台国の所在地を北部九州の域内とすると、九州説の難点とされる主な理由に、『魏志』に伝える邪馬台国の戸数、「七万余戸」の記述がある。邪馬台国九州説においては、遺跡に対する異論が多い。その大きな理由は、邪馬台国時代の北部九州においては、戸数「二万余戸」の奴国、あるいは伊都国をはるかに越える遺跡は認め難い、ということである。
 それは大正期以来、北部九州の遺跡踏査を重ねた中山平次郎(1871~1956)が、九州説の有力候補地である筑後山門には際だった遺跡がみられないとし、邪馬台国九州説を否定した大きな理由である。
 当時、九州考古学の現状に最も通じた中山が、この踏査の結果を以て邪馬台国山門説を支持するのであれば、考古学上から中山の見解を否定することは、かなり困難な状況であったであろう。
 小林行雄も、「三世紀のことはわからないが、一、二世紀でも、また四、五世紀でも、九州地方に奴国より戸数の多い国がありえたとすることは、考古学的には不可能である。これは邪馬台国九州説にとって、致命的ともいえる難点となろう。」と述べている(小林行雄『女王国の出現』)。(中略)
 邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに越えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟179~181頁

 この説明を読んで、わたしは「なるほど」と思いました。博多湾岸の遺跡を奴国とする以上、それ以上の規模の弥生時代の遺跡などおそらく日本列島にはないと思われます。すなわち、文献史学において、博多湾岸を奴国と比定したことが根本的な誤りであり、その結果、その文献史学の誤った通説に基づいて、考古学者が出土事実を解釈したことが、「邪馬台国」〝非〟九州説の成立根拠と経緯だったわけです。
 古田先生が『「邪馬台国」はなかった』で述べられたように、『三国志』の時代に「奴」の字が「な」と発音されていた形跡はありません。倭人伝では、「な」の音に「難」「那」の字が当てられており、奴の字音は「ぬ」「の」「ど」が妥当とされました。したがって、後世に博多湾が「那(な)の津」と呼ばれていたことと結びつけて、博多湾岸を奴国に比定したことは、学問的な論証を経ていません。これは明らかに文献史学側の誤りでした。その結果、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を「二万余戸」の奴国としてしまい、「七万余戸」の邪馬壹国に比定できる規模の遺跡が〝所在不明〟になってしまったのでした。
 また考古学側も、国内最大規模の博多湾岸遺跡群を倭人伝中の国に比定するのであれば、最大戸数(七万余戸)の邪馬壹国がもっともふさわしいとする、考古学的出土事実に基づいた判断ができなかったことにも問題があります。
 なぜ、考古学側がこのような判断を現在でも採用しているのかについて、6月19日(土)に奈良新聞本社ビルで開催される関川さんの講演会(注④)の時にお聞きしてみようと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功
②〝学問は批判を歓迎し、相手をリスペクトした真摯な論争は研究を深化させる〟とわたしは考えています。これは恩師、古田先生から学んだ学問の精神です。
③古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
④「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2482話 2021/06/08

「邪馬台国」〝非〟大和説の論理

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の著書『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を手にしてから、わたしは1時間ほどで読みました。考古学の本をこれほど速く読み終えたのは初めてのことでした。関川さんの平易で論点を絞り込んだ文体のおかげもありましたが、何よりもその根拠(事実)と解釈(意見)を結びつける論理性(論証)、すなわち学問の方法や学問的思考の波長がピタリとあったことが大きいように思います。いわば、古田先生の著作を読んだときのあの〝感触〟に近いのです。そこで、「同書は、わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と述べました。今回は少し詳しく同書の持つ論理性について紹介します。
 関川さんの「邪馬台国」〝非〟大和説の論理構造は、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国:やまゐ国)のことを詳述する唯一の同時代史料『三国志』倭人伝の記事と大和の考古学的出土事実との整合性を検証し、両者が対応していないことを自説の根拠にするという方法です。これは考古学における「邪馬台国」論の王道です。同書よりその一例を挙げます。
 倭人伝には、景初二年(238)、魏に朝貢した倭国女王(卑弥呼)に対して、「汝の好物を賜う」として、次の品々を下賜したと記されています。

 「又特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤。皆裝封、付難升米牛利還。到錄受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故鄭重賜汝好物也。」

 こうした史料事実に対して、関川さんは大和の考古学的出土事実を次のように説明します。

 〝最も重視されるべき直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅器製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。〟67頁
 〝大和の弥生時代では、今のところ首長墓が確認されていないこともあり、墳墓出土の銅鏡は皆無である。特に中国鏡自体の出土がほとんどみられないことは、もともと大和には鏡の保有という伝統がないことを示している。〟71頁

 このように、倭国女王の「好物」として中国が与えた「銅鏡百枚」の片鱗も弥生時代の遺構からは出土せず、〝大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しない〟〝もともと大和には鏡の保有という伝統がない〟とまで指摘されています。
 土中で腐敗・分解しやすい「紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹」とは異なり、「金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠」は遺存しやすいはずですが、大和からは出土を見ないとされています。ですから、その結論として、「畿内ではありえぬ邪馬台国」(注③)とされたわけです。この解釈は単純明快、従って論理構造は頑強で、とても合理的な解釈です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟
③関川氏の著書のサブタイトルとして、表紙に赤字で強調表記されている。


第2441話 2021/04/23

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その6)

大原重雄「メガーズ説と縄文土器 ―海を渡る人類」

 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』で提起された諸説中、最も読者の評価が分かれたのが、同書最終章の一節「アンデスの岸に至る大潮流」に記された〝倭人の南米渡航説〟でした。倭人伝に見える次の記事を、倭人が太平洋を横断し、南米にあった裸国・黒歯国へ行ったと古田先生は理解されたのです。

 「また裸國・黑齒國有り。また其の東南に在り。船行一年にして至るべし。」『三国志』魏志倭人伝

 「この説は、読者がついてこれない。削除してはどうか」と編集者(注①)からの提案があり、刊行後も古田先生のご友人(最高裁判事)から「再版時に削除すべき」との忠告がありました。それでも古田先生は〝論理の導くところに従った結果〟であるため、そうした要請を謝絶されました。こうした〝いわくつきのテーマ〟を扱った論文を『俾弥呼と邪馬壹国』に収録しました。次の三編です。

○大原重雄「メガーズ説と縄文土器 ―海を渡る人類―」
○茂山憲史「古田武彦氏『海賦』読解の衝撃」
○古賀達也「バルディビア土器はどこから伝播したか ―ベティー・J・メガーズ博士の思い出―」

 なかでも大原論文は、バルディビア遺跡(エクアドル)から出土した南米最古の土器の製造技術を日本列島の縄文人が伝えたとするメガーズ博士(米、スミソニアン博物館)の説には同意できないというもので、南米大陸ではバルディビア土器よりも古い土器が出土しており、日本列島からの伝播とは断定できないとされました。もっとも、倭人が太平洋を渡った可能性までを否定されたわけではなく、考古学的出土事実に基づいて再検証を促されたものです。学問研究にとって貴重な提言ではないでしょうか。
 茂山論文は、『海賦』の記事に倭人が太平洋を横断した痕跡(イースター島のモアイ像やコンドルなどの描写、「裸人の国」「黒歯の邦」の表記がある)を古田先生が発見されたことの意義を改めて強調したものです。『海賦』は『文選』に収録された文章で、作者の木華は西晋の官僚です。すなわち、『三国志』を書いた陳寿と同時代の人物で、両者が南米にあった裸国・黒歯国を記録していたことは重要です。詳細は古田先生の『邪馬壹国の論理』(注②)をご覧下さい。
 わたしは、「縄文ミーティング」(注③)のために来日されたメガーズ博士の思い出と、当時のバルディビア土器についての学問論争を紹介しました。「洛中洛外日記」〝ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)~(4)〟で論じたテーマですので、ご参照下さい(注④)。

(注)
①『「邪馬台国」はなかった』は朝日新聞社から出版されたが、同書編集担当の米田保氏から「倭人の中南米への渡海説」削除の要請があった。古田先生はそれを拒絶され、米田氏も最終的に了解された。
②古田武彦『邪馬壹国の論理 ―古代に真実を求めて―』朝日新聞社、1975年。ミネルヴァ書房から復刊。
③1995年11月3日、東京の全日空ホテルで開催された。その内容は『海の古代史』(原書房、1996年)に載録されている。古田先生のご配慮により、わたしは録音係として傍聴する機会を得た。
④古賀達也「洛中洛外日記」2249~2252話(2020/10/04-6)〝ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)~(4)〟


第2425話 2021/04/07

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その3)

–谷本 茂「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)には「総括論文」として、谷本 茂さんの「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波 ―『「邪馬台国」はなかった』に対する五十年間の応答をめぐって―」が掲載されています。編集部に送られてきたこの谷本稿を読んで、わたしは予定していた巻頭言の内容を大きく変更することにしました。
 当初、巻頭言には、『「邪馬台国」はなかった』の研究史的位置づけと発刊後の影響について紹介する予定でしたが、谷本稿にはそれらが詳しく書かれており、わたしが巻頭言で触れる必要などないほどのみごとな内容でした。まさに渾身の論文と言えるものです。
 谷本さんはわたしの〝兄弟子〟に当たる古田学派の重鎮であり、京都大学在学中から古田先生と親交を結ばれており、『「邪馬台国」はなかった』創刊時からの古田ファンです。研究者としても、短里問題の論稿「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」(『数理科学』1978年3月号)を発表されたことは著名です。古田先生の『邪馬一国の証明』(角川文庫、1980年)にも、「解説にかえて 魏志倭人伝と短里 ―『周髀算経』の里単位―」を寄稿されています。
 今回の「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」には、いくつもの示唆に富む指摘が見えますが、論文末尾に記された「邪馬壹国の位置論」に関する〝考古学的主張〟に対する次の警鐘は秀逸です。

【以下、転載】
 最近の「邪馬台国」位置論は、『魏志』倭人伝の正確な解読よりも、考古学的遺物の出土分布と年代推定の結果に依拠する傾向が強まっている。しかし、「邪馬壹国」「卑弥呼」「壹与」は、『魏志』倭人伝の記事に依拠して言及されるべき研究対象であり、「倭人伝の正確な読み方をひとまず棚上げにして、考古学的見地からだけ「邪馬台国」の位置を論じる」という研究姿勢は、一見、科学的で慎重な姿勢の様で、実は総合科学の見地からはほど遠いものである。基本として『魏志』の記事に依拠しなければならない「邪馬壹国」研究が、文献を離れて「考古学的な独り歩き」をしている非論理的な現状が、「邪馬台国」「台与」の使用に象徴的に発現しているといっても過言ではないであろう。つまり『「邪馬台国」はなかった』の書名そのものが古代史学界の現状への鋭い問題提起の象徴であること、その状況が残念ながら依然として続いている。
 (中略)
 「邪馬壹国の位置論」が科学的検証に耐える理論として古代史学界の共通認識になる水準に進んでいくための、輝かしい道標の一つとして、刊行後五十年の『「邪馬台国」はなかった』は、現代においても不朽の価値を有するのである。〈29~30頁〉


第2352話 2021/01/17

倭人伝〝道行き読法〟の「至」と「到」

 昨日の令和三年新春古代史講演会では次の三つの講演がありました。いずれも、「古田史学の会」の研究者による最先端研究の報告でした。

①古賀達也  古代戸籍に見える二倍年暦の痕跡
②谷本 茂さん 「邪馬台国」位置論と〝道行き読法〟の今日的意義
③正木 裕さん 改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国説」

 今回の講演会では、古田先生が提唱された『三国志』倭人伝における〝道行き読法〟の素晴らしさを、谷本さんの発表により改めて認識させられました。なかでも、「至」と「到」の字義の違いに着目された解説は見事なもので、驚きました。
 倭人伝の行程記事には「いたる」という動詞に「至」と「到」が使用されていますが、谷本さんの説明によれば、直線的に目的地へいたる場合は「至」が使用され、曲線的にまわっていたる場合には「到」が使用されているとのことでした。倭人伝には次の二例で「到」が使われており、それらは〝道行き読法〟や曲線コースを示すケースであり、直線的に目的地へいたる「至」の場合とは区別して使用されています。

○歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國
○東南陸行五百里、到伊都國

 古田説では、狗邪韓國へは韓国内を南へ東へとジグザクに陸行するとされ、直接コースではありません。伊都国へも末盧国から一旦は東南方向へ道沿いに始発するという曲線コースです。その古田説に対応するかのようにこの2ケースのみに「到」が使われているわけです。
 この「至」と「到」の使い分けという説は谷本さんが発見されたのですかと、講演後にお聞きしたところ、漢字辞典にそのような字義の説明があるとのことでした。そこで『新漢和辞典』(大修館)を確認したところ、次の説明がありました。

 「到 (中略)
 〔解字〕形声。至(いたる)が意符。刀(トウ)が音符で、また、ぐるりとまわる意を表す。ぐるりとまわって、いたり着く意。」

 この字義に気づかれた谷本さんに脱帽するとともに、古田説がいかに優れたものであるかを改めて認識しました。冥界の先生もこの講演を喜んでいただいていると思います。
 最後に、緊急事態宣言下にもかかわらずご来場いただいた皆様に心より御礼申し上げます。「古田史学の会」としましては、会場使用が可能であれば、コロナ感染予防対策をとりながら、これからも講演会や例会活動を続ける所存です。会員の皆様のご理解とご協力をお願いいたします。


第2255話 2020/10/08

『纒向学研究』第8号を読む(3)

 柳田康雄さんが「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)において、「弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである」と主張されていることを紹介しましたが、この他にも貴重な提言をなされています。たとえば次のようです。

〝中国三国時代以後に研石が見られないのは固形墨の普及と関係することから、倭国では少なくとも多くの研石が存在する古墳前期までは膠を含む固形墨が普及していないことが考えられる。したがって、出土後水洗されれば墨が剥落しやすいものと考えられる。〟(41頁)

〝何よりも弥生石器研究者に限らず考古学に携わる研究者・発掘調査担当者の意識改革が必要である。調査現場での選別や整理作業での慎重な水洗の重要性は、調査担当者のみにらず作業員の熟練が欠かせないことを今回の出土品の再調査でもより一層痛感した。出土品名の誤認に始まり、不用意に水洗された結果付着していたはずの黒色や赤色付着物が失われている。(中略)
 原始時代とされている弥生時代において、文字だけではなく青銅武器や大型銅鏡を製作できる土製鋳型技術が出現し継続しているはずがないという研究者が多い現実がある(柳田2017c)。また、遺跡・遺物を観察・分類できる能力(眼力)を感覚的だと軽んじ、認識・認知や理論という机上の操作で武装する風潮が昨今の考古学者には存在する。このような考古学の基礎研究不足は、研究を遅滞し高上(ママ)は望めない。基礎研究不足のまま安易に科学分析を受け入れた、その研究者のそれまでの研究成果はなんだったのだろう、旧石器捏造事件を想起する。修練された感覚的能力なくして、遺跡・遺物を研究する考古学という学問は存在意義があるのだろうか。大幅に弥生時代の年代を繰り上げた研究者や博物館などの施設は、それまでの考古学の基礎研究では弥生時代の年代が決定できなかったことを証明している。考古学研究の初心に戻りたいものだ。これはデジタル化に取り越されたアナログ研究者のぼやきだけで済むのだろうか。〟(43頁)

 弥生編年の当否はおくとしても、柳田さんの指摘や懸念には共感できる部分が少なくありません。この碩学の提言を真摯に受け止めたいと思います。(おわり)

(注)『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。


第2253話 2020/10/06

『纒向学研究』第8号を読む(2)

 柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)によれば、弥生時代の板石硯の出土は福岡県が半数以上を占めており、いわゆる「邪馬台国」北部九州説を強く指示しています。なお、『三国志』倭人伝の原文には「邪馬壹国」とあり、「邪馬台国」ではありません。説明や論証もなく「邪馬台国」と原文改定するのは〝学問の禁じ手(研究不正)〟であり、古田武彦先生が指摘された通りです(注②)。
 古田説では、邪馬壹国は博多湾岸・筑前中域にあり、その領域は筑前・筑後・豊前にまたがる大国であり、女王俾弥呼(ひみか)がいた王宮や墓の位置は博多湾岸・春日市付近とされました。ところが、今回の板石硯の出土分布を精査すると、その分布中心は博多湾岸というよりも、内陸部であることが注目されます。それは次のようです。

〈内陸部〉筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)

〈糸島・博多湾岸部〉糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)
 ※この他に、豊前に相当する北九州市20例と築城町8例(研石1)も注目されます。

 しかも、弥生中期前半頃に遡る古いものは内陸部(筑紫野市、筑前町)から出土しています。当時、硯を使用するのは交易や行政を担当する文字官僚たちですから、当然、倭王の都の中枢領域にいたはずです。内陸部に多いという出土事実は古田説とどのように整合するのか、あるいは今後の発見を期待できるのか、古田学派にとって検討すべき問題ではないでしょうか。
 柳田さんは次のように述べて、教科書の改訂を主張されています。

 「これからは倭国の先進地域であるイト国・ナ国の王墓などに埋葬されてもよい長方形板石硯であるが、いまだに発見されていない。いずれ発見されるものと信じるが、今回の集落での発見は一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆しているだけでも研究の成果だと考えている。青銅武器や銅鏡の生産を実現し、一定階級段階での地域交流に文字が使用されている弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである。」(43頁)

 大和朝廷一元史観に基づく通説論者からも、このような提言がなされる時代に、ようやくわたしたちは到達したのです。(つづく)

(注)
①『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)