古今和歌集一覧

第3272話 2024/04/18

『顕注密勘』藤原定家自筆本の発見

 今日のネットニュース(読売新聞、注①)に『古今和歌集』の注釈書『顕注密勘(けんちゅうみっかん)』の藤原定家自筆本がご近所の冷泉家で発見されたとありました。同家からは『明月記』の定家自筆本も発見されており、京都の旧家の凄さを感じます。ご近所とはいえ、冷泉家の門前を通ることはあっても、中に入ったことはありません。懇意にしていただいている、ご町内のA家の奥様は冷泉家のご友人ですから、一度、冷泉家の様子をお聞きしてみたいと思います。

 定家自筆本『顕注密勘』発見のニュースに触れて、最初に思ったことがあります。それは『古今和歌集』九巻にある阿倍仲麻呂の歌、「天の原 ふりさけ見れば春日なる みかさの山にいでし月かも」の部分がどう書かれているのかということでした。

 実は、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注②)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出たことを意味する「みかさの山を」となっています。ところが、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、月はその東側の春日山連峰(花山497m~高円山461m)から出るので、これを不審とした後世の人により、「みかさの山に」と書き変えられています。このこと論じた拙稿(注③)がありますのでご参照ください。

 『顕注密勘』写本の京都大学図書館本には、改訂された「みかさの山に」となっており、今回発見された自筆本はどうなっているのか興味があります。『古今和歌集』流布本の一つ、定家本も改訂型ですから、恐らく『顕注密勘』定家自筆本も改訂型とは思うのですが。

 それにしても、藤原定家の自筆本が現在に残っていることは研究者にはとても有り難いことで、冷泉家のご尽力はもとより、日本文化の素晴らしいところではないでしょうか。

(注)
①読売新聞WEB版には次のように紹介されている。
「国宝級」藤原定家直筆の古今和歌集の注釈書、冷泉家の蔵から見つかる…推敲の跡も生々しく
鎌倉時代を代表する歌人、藤原定家(1162~1241年)が記した古今和歌集の注釈書「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」の原本が、定家の流れをくむ冷泉(れいぜい)家(京都市)で見つかった。公益財団法人「冷泉家時雨亭文庫」(同)が18日、発表した。写本が重要文化財に指定されているが、直筆書が確認されたのは初めて。

 顕注密勘は、平安時代に編さんされた日本最初の勅撰(ちょくせん)和歌集である古今和歌集の注釈書。平安末期~鎌倉初期の僧・顕昭(けんしょう)が記していた注釈「顕注」に、定家が解釈「密勘」を加え、1221年にまとめた。

 直筆書は、冷泉家が蔵で保管していた「古今伝授箱」に入っていた。「定家様(ていかよう)」と呼ばれる特徴的な字体で書かれ、ペンネームとして用いた「八座沈老(はちざちんろう)」の文字や花押などもあり、定家直筆と判断できたという。

②延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』には、紀貫之による自筆原本が三本あったが現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる。

③古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。


第3205話 2024/01/20

「春日なる三笠山」

 福岡県東部の立花山説

 本日、 「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回、2月例会の会場は都島区民センターです。西村秀己さんが『古代に真実を求めて』27集全原稿のゲラ校正で多忙のため、代わってわたしが司会を担当しました。

 関西例会でインターネット配信を担当されている久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)が初めて例会で発表されました。テーマは、『古今和歌集』の阿倍仲麻呂の歌に詠まれている「春日なる三笠山」を福岡県東部(福岡市東区・糟屋郡)の立花山(367m)とする新説で、大原さんとの共同研究とのこと。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に(を) 出でし月かも」
※『古今和歌集』古写本(注①)には「三笠の山を」とあり、月が三笠山から出ると歌っている。流布本では「三笠の山に」と改定されている(注②)。

 通説では奈良県の御蓋(みかさ)山(283m)としますが、この山では低すぎて、月は後方の春日山連峰(600~700m)から出ることから、古田先生は太宰府の東にある宝満山(869m、旧名三笠山)とする説を発表し(注③)、以来、古田学派内では最有力説とされてきました。

 今回の久冨さんの発表では、奈良県の御蓋山説は当然ダメだが、立花山であれば、博多湾岸の海の中道の付け根付近から見ると、三つの峰(東から松尾山・白岳・立花山)が並んで見え、〝三笠〟山と呼ぶにふさわしい。その点、宝満山は〝三笠〟山と呼べるような姿ではないとしました。なるほど一理ある指摘なので、この立花山説は検討に値する新説と思いました。これからの論争や検証により、歴史の真実へと研究が収斂することを期待しています。

 ちなみに、久冨さんの説明によれば、「古田史学の会」案内リーフレットの写真は、立花山上空から見た博多湾とのことです。

1月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔1月度関西例会の内容〕
①懐風藻が記すもう一つの史実 (茨木市・満田正賢)
②大きな勘違いだった古代船「なみはや」の復元 (大山崎町・大原重雄)
③春日なる三笠山は福岡県東部の立花山か (京都市・久冨直子)
④令和六年、年頭の挨拶 (代表・古賀達也)
⑤『日本書紀』中の「オホキミ」と「オホゴオリ」 (東大阪市・萩野秀公)
⑥秦王国は九州の都である 『隋書』帝紀の「倭」を発見 (姫路市・野田利郎)
⑦梁・職貢図の本の紹介 (神戸市・谷本 茂)
⑧野田氏の「邪靡堆」論考への幾つかの疑問 (神戸市・谷本 茂)
⑨多利思北孤の仏教振興と「仏教治国策」 (川西市・正木 裕)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
02/17(土) 会場:都島区民センター

(注)
①延喜五年(905)に成立した紀貫之編纂『古今和歌集』は、貫之による自筆本が三本あったとされるが現存しない。しかし、自筆本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本の存在が知られている。前田家尊経閣文庫所蔵『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)と京都大学所蔵の藤原教長著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これもまた新院御本により校合されている。これら両古写本は、「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えている。
②古賀達也「『三笠山』新考 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『古田史学会報』43号、2001年。同98号(2010年)に再掲。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
同「洛中洛外日記」1842話(2019/02/20)〝九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)〟
同「洛中洛外日記」2825・2828話(2022/09/03~06)〝阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (1)~(2)〟
③古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(2001年)。ミネルヴァ書房より復刻。

 


古田史学の会 豊中倶楽部自治会館 2024.1.20

2024年 1月度関西例会発表一覧
(ファイル・動画)

YouTube公開動画①②です。

1,懐風藻が記すもう一つの史実
(茨木市・満田正賢)

https://www.youtube.com/watch?v=3bzOp2wWtak

https://www.youtube.com/watch?v=-Kt6gGuKap0

2,大きな勘違いだった古代船「なみはや」の復元
(大山崎町・大原重雄)

https://www.youtube.com/watch?v=-mmSKQyz-_0

https://www.youtube.com/watch?v=Z7ELSWwYwJA

3,春日なる三笠山は福岡県東部の立花山か
(京都市・久冨直子)

https://www.youtube.com/watch?v=jU52kT38ilA

https://www.youtube.com/watch?v=CdUjV5MIPE8

4,令和六年、年頭の挨拶 (代表・古賀達也)

https://www.youtube.com/watch?v=sQRW09NpUoM

5,『日本書紀』中の「オホキミ」と「オホゴオリ」 (東大阪市・萩野秀公)

https://www.youtube.com/watch?v=BmNhyZ44PnM

6,秦王国は九州の都である
『隋書』帝紀の「倭」を発見(姫路市・野田利郎)

https://www.youtube.com/watch?v=0D9Qo5gUm68

7,梁・職貢図の本の紹介 (神戸市・谷本 茂)

なし

8、野田氏の「邪靡堆」論考への幾つかの疑問
(神戸市・谷本 茂)

なし

9,多利思北孤の仏教振興と「仏教治国策」
(川西市・正木 裕)

https://www.youtube.com/watch?v=iGOYpP7Ki2U

https://www.youtube.com/watch?v=SgFla8kI55Q


第2828話 2022/09/06

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (2)

 『古今和歌集』古写本(注①)の「あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山を いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説が杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注②)に紹介されています。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 おそらくこうした偽作説の根拠になったと思われる不自然な状況があります。たとえば、同歌が『古今和歌集』の巻第八「離別哥」ではなく、巻第九「羈旅哥」冒頭に収録されていることです。この「天の原」歌の題詞・左注には、中国の明州の海辺で行われた中国の友人達との別れの席で、仲麻呂が夜の月を見て歌ったと語り伝えられているとあります。

 「もろこしにて月を見てよみける」
「この哥は、むかしなかまろ(仲麿)をもろこし(唐)にものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへて、えかへりまうでこざりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて、いでたちけるに、めいしう(明州)といふところのうみべ(海辺)にて、かのくにの人むまのはなむけしけり。よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる。」(注③)※()内の漢字は古賀による付記。

 この歌は別離の夜会で仲麻呂が歌ったとあるのですから、その通りであれば「羈旅哥」ではなく、その直前の「離別哥」に入れられるべきものです。しかも、この歌を詠んだときの作者の進行方向は、「ふりさけみれば かすがなるみかさの山」とあるのですから、日本ではなく唐のはずです。唐へ向かう遣唐使船上で振り返ると、「かすがなるみかさ山」から出た月が見えたという歌なのです。ですから、作者が唐に向かうときに歌ったのだからこそ「羈旅哥」に入れられたのではないでしょうか。
古田先生はこの歌の作歌場所を壱岐の〝天の原〟とされ、仲麻呂が遣唐使の一員として唐に渡るときに詠んだもので、その歌を明州で思い出して歌ったと理解されました(注④)。古田説の場合、偽作ではなく、『古今和歌集』を編纂した紀貫之の左注が不正確だったとするものです。すなわち、「よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる。」とあるように、伝聞情報に依ったと記していることも、古田説成立の背景と思われます。(つづく)

(注)
①延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した次の二つの古写本がある。前田家所蔵『古今和歌集』清輔本、保元二年、1157年の奥書を持つ。京都大学所蔵『古今和歌集註』藤原教長著、治承元年、1177年成立。
②杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
③『古今和歌集』日本古典文学大系、岩波書店。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。


第2825話 2022/09/03

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (1)

 上京区のお店で、「古代歌謡に詠まれた王朝」というテーマで話しをすることになりました。そこで改めて勉強しなおしたところ、『古今和歌集』の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説があることを知りました。杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注①)によれば、次のような偽作説です。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 「天の原」歌について、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注②)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出ていることを意味する「みかさの山を」となっており、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、月はその東側の春日山連峰(花山497㍍~高円山461㍍)から出ると論じたことがあります(注③)。
この「みかさの山を」とする古写本の存在を杉本直治郎氏の研究で知り、古田先生にお知らせしたところ、重要な問題へと進展しました。すなわち、仲麻呂が歌ったみかさ山は奈良の御蓋山ではなく、太宰府の御笠山(宝満山、標高829m)とする古田説(注④)を論証できたのです。杉本氏の論文も古写本の「みかさの山を」が原型であるとされており、この点では古田先生やわたしの考えと一致するのですが、「偽作説」については検討に値する視点ではないかと、今回、気づきました。(つづく)

(注)
①杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
②延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる
③古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。


第1842話 2019/02/20

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)

 前回までは『大宰府の研究』掲載の考古学論文を中心に紹介してきましたが、同書にはちょっと趣が異なる論文もあります。森弘子さん(福岡県文化財保護審議会会員)の「筑紫万葉の風土 ―宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか―」です。これは古代歌謡学とでもいうべきジャンルの論文ですが、わたしはこのサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」に興味を引かれ、読み始めました。

 というのも、わたしは『古今和歌集』に見える阿倍仲麻呂の有名な歌、「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に いでし月かも」の「みかさの山」は奈良の御蓋山(標高約二八三m)ではなく太宰府の東にそびえる三笠山(宝満山、標高八二九m)のこととする古田説を支持する論稿を発表し、その中で万葉集に見える「みかさ山」も、通説のように論証抜きで奈良の御蓋山とするのではなく、筑紫の御笠山(宝満山)の可能性も検討しなければならないとしていたからです。森弘子さんの論文のサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」を見て、わたしと同様の問題意識を持っておられると思い、その論証と結論はいかなるものか興味を持って読み進めました。

 論文冒頭に、「秀麗な姿で聳える『宝満山』」「宝満山は古くは『竈門山』とも『御笠山』とも称し」と紹介された後、「筑紫万葉」とされる『万葉集』の歌を分析されています。古代歌謡に対する博識をいかんなく発揮されながら論は進むのですが、論文末尾に結論として次のように記されています。

 「宝満山の歌が一首も万葉集にないのは、たまたまのことかも知れない。しかしやはりこの山が、歌い手である都から赴任した官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかったということであろう。」(557頁)万葉集になぜ宝満山が歌われていないのかという鋭い問題意識に始まりながら、論じ尽くした結果が「たまたまのことかもしれない」「官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかった」では、何のための論文かと失礼ながら思ってしまいました。宝満山が御笠山という別名を持っていたことまで紹介されていながら、『万葉集』に見える「みかさ山」の中に宝満山があるのではないかという疑問さえ生じない。すなわち、『万葉集』に「みかさ山」とあれば疑うことなく「奈良の御蓋山」のこととしてしまう、この〝凍りついた発想〟こそ典型的な大和朝廷一元史観の「宿痾」と言わざるを得ないのです。(つづく)

※「みかさ山と月」に関しては次の拙稿や「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。

平城宮朱雀門で観月会 みかさの山にいでし月かも??(『古田史学会報』28号、1998年10月)
○「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』43号、2001年4月)
○〔再掲載〕「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』98号、2010年6月)
○三笠の山をいでし月 -和歌に見える九州王朝の残映-(『九州倭国通信』193号、2019年1月)
○「洛中洛外日記」
第731話 「月」と酒の歌
第1733話 杉本直治郞博士と村岡典嗣先生(1)


第1735話 2018/08/28

杉本直治郞博士と村岡典嗣先生 (3)

 杉本直治郞博士とベークの学問を日本で継承された村岡典嗣先生との接点はなかったのかを調査するため、杉本博士が「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(『文学』36-11、岩波書店。1968年)の冒頭に、昭和15年に公刊した著書『阿倍仲麻呂傳研究』(東京、育芳社)に「天の原」の歌についての新説を提唱しておいたと記されているので、その『阿倍仲麻呂傳研究』を京都府立大学図書館(歴彩館2F)で閲覧しました。

 調査の結果、1968年に『文学』掲載の「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」で提唱された「天の原」歌に関する新説が『阿倍仲麻呂傳研究』の「朝衡の離唐」(343-389頁)に既に記されていたことを確認しました。従って、わたしがフィロロギーの方法論に立脚したものではないかと感じた杉本博士の「天の原」歌の新説は昭和15年(1940)には発表されていたことになります。1940年といえば村岡先生が東北帝国大学法文学部教授として日本思想史科で活躍されていた頃です。ちなみに、村岡先生が6歳年長です。

 そこで杉本博士と村岡先生の略歴を調べてみました。そうすると両氏の接点らしきものが見えてきました。それは「広島高等師範学校」です。東京出身の村岡先生は明治44年(1911年、27歳)に名著『本居宣長』を上梓され、その業績により大正9年(1920)に広島高等師範学校教授に就任され、大正13年(1924)には東北帝国大学教授になっておられます。

 一方、滋賀県出身の杉本博士は滋賀師範学校(現滋賀大学教育学部)で学ばれ、その後、広島高等師範学校に入学、大正7年(1918)に卒業されています。このように両氏は広島高等師範学校に教師と学生として関わっておられるのですが、その時期は重なっていません。その後、杉本博士は大正14年〜昭和4年(1925-1929)の間、旧制広島高校の教授に、昭和4年(1929)には広島文理科大学の助教授に就任されています。

 広島には古田先生の恩師で旧制広島高校の教師だった岡田甫先生もおられました。この広島の地に村岡先生・岡田先生そして杉本博士の接点があったのではないかと推定しています。機会があれば、引き続き調査したいと思います。

【杉本直治郞博士の略歴】
明治23年(1890)3月、滋賀県で誕生。
滋賀師範学校(現滋賀大学教育学部)で学ぶ。その後、広島高等師範学校で山下寅次教授のもとで東洋史・漢文を学ぶ。
大正7年(1918)卒業。
大阪府立北野中学(現府立北野高校)で教壇に立つ。
大正9年(1920)京都帝国大学に30歳で入学、東洋史を本格的に学ぶ。主任教授は内藤湖南。
卒業後しばらくは大学で副手となる。
大正14年〜昭和4年(1925-1929)旧制広島高校教授。
昭和4年(1929)広島文理科大学の助教授に就任。フランス・イギリス・インドシナ留学。
帰国後、昭和15年(1940)に『阿倍仲麻呂傳研究』を上梓。
戦後、広島大学文学部に籍を移す。
昭和22年(1947)『阿倍仲麻呂傳研究』により京都大学で文学博士号を取得。その審査委員に宮崎市定教授の名前が見える。
昭和30年(1955)退官。その後広島商科大学教授に就任。
昭和48年(1973)9月、京都市一乗寺で逝去。享年83歳。

【村岡典嗣先生の略歴】
明治17年(1884)9月18日東京で誕生。
明治39年(1906)早稲田大学哲学科卒業。
明治41年(1908)独逸新教神学校卒業。
明治44年(1911)『本居宣長』上梓。
大正9年(1920)広島高等師範学校教授に就任。
大正13年(1924)東北帝国大学法文学部教授となり、日本思想史科を開設。
昭和20年(1945)古田武彦先生が東北帝国大学法文学部日本思想史科に入学(岡田先生の薦めによる)。
昭和21年(1946)定年退官。
昭和21年(1946)4月13日没。享年61歳。


第1733話 2018/08/27

杉本直治郞博士と村岡典嗣先生 (1)

 あまの原 ふりさけ見れば かすがなるみかさの山にいでし月かも(『古今和歌集』巻九)

 延喜五年(905)に成立した紀貫之の編纂になる『古今和歌集』に見える阿倍仲麻呂のこの歌は有名です。古田先生がこの「みかさの山」が奈良の御蓋山(みかさ山、標高約二八三m)ではなく、福岡県の三笠山(宝満山、標高八六九m)であるとされたことは古田ファンにはよく知られています。

 その研究に取り組んでいたとき、わたしは杉本直治郞氏の論稿「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(『文学』36-11、岩波書店。1968年)を見つけました。同論稿には、仲麻呂の歌の原型が「みかさの山に」ではなく、「みかさの山を」であると論証されており、このことは古田説が正しかったことを決定的にしました。すなわち、奈良の御蓋山では低すぎて、月はその後の春日山連峰から出るため、「みかさの山をいでし月」はありえず、福岡の三笠山なら太宰府から見れば月はそこから出るので、極めてリーズナブルな表現となるのです。

 『古今和歌集』には貫之による自筆原本いわゆる「三証本」や、貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)があったとされていますが、残念ながらいずれも現存しません。しかし、二つの古写本の存在が知られています。一つは前田家尊経閣文庫所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)です。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた「に」の横に「ヲ」と新院御本による校合を付記しています。また、教長本は「みかさの山を」と書かれており、これもまた新院御本により校合されています。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えていると杉本直治郞氏は先の論稿で紹介されています。
こうした『古今和歌集』古写本の分析に基づき、流布本の「みかさの山に」よりも「みかさの山を」の方が原型であり、仲麻呂の望郷の気持ちをよく現していると杉本博士は解説されています。こうした仲麻呂の気持ちになってその歌を解釈し、古写本の史料事実を根拠とされた論稿を読んで、これはフィロロギーの方法論に立脚しているのではないかとの印象をわたしは抱いたのです。(つづく)


第1189話 2016/05/17

戦国武将、筑紫広門の祖先

 今朝は東京行きの新幹線車中で書いています。午後、東京で代理店と商談を行った後、長岡市に向かいます。明日からは新潟で仕事です。わたしの席のお隣には就活中と思われる黒いスーツのお嬢さんが座られており、心の中で「頑張って」とエールを送りました。

 25年ほど前のことですが、わたしは九州王朝の御子孫調査に取り組んだことがありました。「倭の五王」時代の九州王朝の王家が筑後に割拠し、高良大社の御祭神、高良玉垂命を襲名したことはかなり明らかにできたのですが、7世紀初頭に太宰府(倭京)を造営し、筑後から筑前に戻った多利思北孤の家系や末裔の調査は進みませんでした。現在に至ってもなお不明です。
 その折り、最も精力的に調査したのが、戦国武将の筑紫広門の家系でした。その「筑紫」という姓から、古代における「筑紫君」の末裔ではないかと考えたからです。『太宰管内志』によれば、筑紫神社(筑紫野市)の項に、筑紫広門の祖先は筑紫神社神官との記述があり、ますます九州王朝の子孫の可能性が高まったのですが、結局のところそれ以上調査は進まず、結論には到達できませんでした。なお、筑紫広門の子孫は江戸で旗本となります。ですから関東地方の「筑紫さん」は広門の御子孫の可能性があります。
 筑紫姓で有名な方に、ニュースキャスターの筑紫哲也さんがおられました。面識はなかったのですが、筑紫さんは古田説をご存じでした。わたしは「市民の古代研究会」事務局長時代に筑紫さんからお葉書をいただいたこともあります。古田先生の『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社)を衆参の全国会議員と著名なマスコミ関係者に送付したのですが、筑紫さんからだけ丁重なお礼のお葉書をいただきました。おそらく、筑紫さんもご自身の名前と九州王朝との関連を気にされたのではないかと想像しています。
 国家「君が代」法制化問題などが取りざたされていた時期でもあり、古田史学を世に広める絶好のタイミングと考え、「市民の古代研究会」の事業として『「君が代」は九州王朝の讃歌』無償提供を行ったのですが、結局、表だって反応があったのは筑紫さんからのお礼状と、その数年後に公明党京都府本部主催文化講演会に古田先生が講師として呼ばれたことぐらいでした。今思うと、与野党含めて「君が代」問題を学問的に論じるということに興味がなかったのかもしれません。懐かしい思い出です。


第731話 2014/06/19

「月」の酒と歌

昨日から山形市で宿泊しています。今日は仕事がはやく終わりましたので、山形駅の近くのお店(花膳)で夕食をとり、地酒をいただきました。わたし は「月」が好きなので、名前に「月」の字を持つ銘酒「月山の雪」(寒河江市、月山酒造)と「雅山流 極月」(米沢市、新藤酒造店)を注文しました。中でも 「雅山流 極月」は絶品でした。今までわたしが飲んだ日本酒の五指に入る美味しさでした。ちなみに、一番おいしかった日本酒は月桂冠の幻の銘酒「春光 (しゅんこう)」です。酒屋さんでも手に入らないほどの銘酒です。
「月」が好きなわたしですが、お気に入りの漢詩や和歌もやはり「月」がテーマの次のものです。

静夜思  李白
牀前(しょうぜん) 月光を看る
疑うらくは 是れ地上の霜かと
頭を挙げて 山月を望み
頭を低(た)れて 故郷を思う

この李白の詩は「望郷の詩」の最高傑作とも言われています。次の和歌は李白の友人の阿倍仲麻呂(698~770)の、これもまた有名な和歌です(『古今和歌集』巻九)。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山をいでし月かも

日本を出て唐に向かうときに詠んだ歌とされていますが(諸説あり)、皆さんもご存じと思いますが、ちょっと違うところがあることにお気づきでしょうか。『古今和歌集』に収録されたこの名歌は、通常、次のように詠われています。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山にいでし月かも

普通(流布本)は「三笠の山にいでし月かも」とされていますが、『古今和歌集』の古い写本では「三笠の山をいでし月かも」となっています。『古今 和歌集』には、この歌を「に」とする流布本と、「を」とする古写本の二種類の写本があるのです。どちらも同じようなものと思われるかもしれませんが、これ が大違いなのです。
一元史観の通説では、この「春日なる三笠の山」を奈良県の御蓋山(山焼きで有名な「若草山」ではなく、近くにある別のもっと低い「御蓋山・みかさやま」 のこと。283m)から出た月を思って詠まれたと説明されていますが、御蓋山では低すぎて、すぐ後ろの春日山連峰や高円山(500~700m級)から月は 出ます。昔、古田先生たちと平城宮跡に行って、月が本当に御蓋山から出るのか観測したこともありましたが、御蓋山では低すぎて、そこからは絶対に月は出な いのです。それを実証するために、平城宮跡での「観月会」となったわけです。詳細は『古田史学会報』98号の拙論「『三笠山』新考  和歌に見える九州王朝の残映」をご参照ください。
そして結論として、「春日なる三笠の山」とは福岡県の三笠山(宝満山、869m)のことであり、仲麻呂は太宰府でその月を見たことがあり、その「観測事 実」に基づいて詠まれたのがこの歌だと、古田先生やわたしたちは考えたのです。なお太宰府からだと、月は三笠山(宝満山)から出ます。
すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地太宰府でこの歌を詠み、三笠の山から出た月と表現したのですが、近畿天皇家の時代になると、奈良の御蓋山では低すぎ て、「三笠の山をいでし月かも」では不自然すぎるため、「三笠の山にいでし月かも」と原文改訂(改竄)し、後方の春日山連峰から出た、低い三笠の山のずっ とずっと上にある月を詠んだとも理解できるように「三笠の山にいでし月かも」として流布されたのです。
どちらが本来の仲麻呂の歌でしょうか。学問的判断としては、より古い写本を重視することと、更に原文改訂されるとすれば、「を」から「に」であり、その 逆は近畿では発生し得ない(古写本は近畿で成立)という論理性の二点から、「三笠の山をいでし月かも」が原型であると解すべきなのです。
このように阿倍仲麻呂の有名な和歌も、多元史観による理解が有効であることをご理解いただけるものと思います。仲麻呂問題は他にも面白い研究テーマがありますが、それはまた後日ご紹介いたします。


第332話 2011/08/13

「海行かば」の王朝

 第331話で、さだまさしさんの名曲「防人の詩」に触れましたが、わたしはさださんのような作詩の才能や歌心はありませんから、『万葉 集』は専ら古代史研究の史料として読んでしまいます。そんな『万葉集』研究において、初めての古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、 1991年)に収録していただいた論文が『「君が代」「海行かば」、そして九州王朝』で、初期(35歳の時)の論文でもあり、とても想い出深い一冊です。
 大伴家持の歌として有名な「海行かば水浸く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」は『万葉集』巻十八(4094)の長歌の一節ですが、『続日本紀』天平21年四月条の聖武天皇の宣命中にも同じ様な歌が見えます。
 わたしは先の論文で、この歌は水軍を持たない大和朝廷の歌ではなく、大君と共に、海に山に最前線で戦い続けた大伴一族が歴代の倭王に捧げた歌であり、すなわち九州王朝に捧げられた歌であると結論づけました。稚拙な論証を積み重ねた若い頃の論文ですが、その論証自体は成立していると、今でも自信をもっています。
 共著者の内、古田先生を除く灰塚照明さんと藤田友治さんは既に他界されています。ちょっぴり淋しい想い出も持った一冊なのです。


第285話 2010/10/12

「日の丸」の起源

10月9日の久留米地名研究会での講演会は御陰様で盛況でした。するどい質問もいただき、参加者の熱心さが伝わってきました。主催者の皆さまや参加していただいた皆さまにお礼申し上げます。
今回の京都からの往復の新幹線内では、『知っておきたい「日の丸」の話し』吹浦忠正著(学研新書)を読みました。著者はわが国における「国旗」研究の第一人者で、その博識ぶりが随所に記された好著でした。
中でも「日の丸」の起源について触れられた部分は参考になりました。氏の見解は「日の丸」は古代日本における太陽信仰に淵源するものとされていますが、 この点、古田先生と同見解です。更に、通例では「日の丸」の起源を『続日本紀』の文武天皇大宝元年正月朝賀の儀に飾られた日像が初見史料とされているよう ですが、著者はそれよりも早い時期に成立している法隆寺蔵「玉虫厨子」に描かれた日像、あるいは7世紀前半の珍敷塚古墳(福岡県)の壁画に描かれた太陽な どを起源として考えるべきではないかとされています。
いずれも九州王朝に関係しそうな史料・遺跡であることに興味を覚えました。もちろん、日本列島における太陽信仰は九州王朝以前から、恐らくは旧石器縄文 時代にまでさかのぼるものと推測されますが、「日の丸」に対して様々な視点から解説されている同書の読後感はとてもさわやかなものでした。


第185話 2008/08/14

『奪われた国歌「君が代」』

 待望の新刊、古田武彦著『奪われた国歌「君が代」』が出ました。情報センター出版局刊、1400円+税です。
 カバーの帯に『「君が代」は、本当に天皇を讃えた歌なのか?数奇な運命を辿った「国歌」成立の過程が、隠された「邪馬壱国」「九州王朝」をあぶり出す。独創的異説が絶対的な説得力をもって「定説」を凌駕する。』とあるように、古田史学九州王朝説の真髄が凝縮された一冊となっています。初心者はもとより、研究者にとっても古田史学の再理解を深める上でわかりやすい好著といえるでしょう。
   北京オリンピックの表彰式で「君が代」を聞くとき、この本を読んだ人と、そうでない人との決定的な「落差」を感じさせる、暑い夏、熱い一冊です。