維摩経一覧

第2851話 2022/10/03

『維摩詰経巻下』の「浄土寺蔵経」印(3)

 九州年号「定居元年」(611年)が記されている北京大学図書館蔵『維摩詰経巻下』末尾には「浄土寺蔵経」の所蔵印が押されています。谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)はこの「浄土寺」を奈良県の法興寺と位置的に近い浄土寺(山田寺、桜井市)ではないかとされました(注①)。
 奈良県桜井市にある山田寺が浄土寺の寺号を持つことが、『上宮聖徳法王帝説』(知恩院本)の「裏書」に記されています。

 「有る本に云わく、誓願して寺を造り、三宝を恭敬す。(舒明)十三年辛丑(641年)の春三月十五日、浄土寺を治むと云々。
 注に云わく、『辛丑年に始めて地を平かにす。(中略)癸亥(643年)に塔を構う。(中略)癸酉年(673年)十二月十六日、塔の心柱を建つ。其の柱礎中、円穴を作り、浄土寺と刻す。(中略)山田寺是れ也』と。注は承暦二年〈戊午〉(1078年)、南一房に之を写す。真曜の本なり。」※()内は古賀注。(注②)

 ところが、この裏書の浄土寺について、奈良県桜井市の山田寺のことではないとする田中重久氏の論文があります(注③)。田中さんは『上宮聖徳法王帝説』裏書に見える浄土寺の塔の創建時期の矛盾した記事を根拠に、同裏書には複数の別の浄土寺記事が混在しており、「癸亥(643年)に塔を構う」の浄土寺は岐阜県各務原市の山田寺とされました。そして、「癸酉年(673年)十二月十六日、塔の心柱を建つ」とある天武期の浄土寺は大和の山田寺とされました。
 こうした田中氏の理解が可能であれば、前者の浄土寺は筑紫太宰府付近にあったとする仮説も提起できるのではないでしょうか。というのも、同裏書には浄土寺の記事に続いて次の般若寺記事があり、田中氏は「法王帝説裏書の般若寺は武蔵寺の誤」として、この武蔵寺を太宰府市の般若寺のこととされました。

 「曽我日向子臣、字は無耶志(むさし)臣。難波長柄豊碕宮に御宇しめしし天皇の世、筑紫大宰の帥に任ずる也。甲寅年(654年)十月癸卯朔壬子、天皇不余*の為め、般若寺を起つるなり。」 ※「余*」=「余」の下が「心」。

 この「般若寺」と同様に、「浄土寺」も筑紫太宰府にあった寺院とできるのであれば、七世紀中頃に「浄土寺」に相応しい寺院の痕跡があります。田中氏の論文によれば、全国にある「浄土寺(院)」の大半は阿弥陀堂を持ち、本尊は阿弥陀であるとしています。この視点からすると、太宰府の観世音寺の本尊が百済から伝わった阿弥陀如来であったことが史料に遺されており、注目されます。
 白鳳十年(670年)の創建とされる観世音寺(創建瓦は七世紀後半の老司Ⅰ式)の下層から百済系単弁軒丸瓦が出土しており、この地に七世紀前半頃(注④)と思われる百済系単弁軒丸瓦を採用した寺院があり、そこに百済からの阿弥陀如来像が安置されていたのではないかと、わたしは考えています(注⑤)。阿弥陀如来を本尊とした寺院ですから、おそらく寺号は「観世音寺」ではなかったはずです。この観世音寺の地にあった阿弥陀如来を祀っていた寺院も『上宮聖徳法王帝説』裏書にある「浄土寺」の候補の一つにしたいと考えています。
 なお、百済からの阿弥陀如来像を本尊にしたにもかかわらず、なぜ寺号が観世音寺なのかは、今後の研究課題です。

(注)
①谷本茂「北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判」古田史学の会・関西例会、2015年5月。
②岩波文庫『上宮聖徳法王帝説』東野治之校注、2013年。
③たなかしげひさ(ママ)「『上宮聖徳法王帝説』裏書の浄土寺・山田寺別寺説」『仏教芸術』99号、1974年。
④服部静尚「小田富士雄氏の瓦編年に疑問を呈する」『東京古田会ニュース』202号、2022年。
⑤古賀達也「百済伝来阿弥陀如来像の流転 ―創建観世音寺と百済系素弁瓦―」『東京古田会ニュース』181号、2018年。
 同「洛中洛外日記」1638~1644話(2018/04/01~08)〝百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)~(6)〟


第2848話 2022/09/30

『維摩詰経巻下』の「浄土寺蔵経」印(2)

 九州年号「定居元年」(611年)が記されている北京大学図書館蔵『維摩詰経巻下』末尾には本文とは異筆で次の二行が記され、「浄土寺蔵経」の所蔵印が押されています。この所蔵印があることを谷本茂さんの研究発表(注①)により知りました。

 「始興中慧師聡信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
 「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」

 谷本さんはこの「浄土寺」を奈良県の法興寺と位置的に近い浄土寺(山田寺、桜井市)ではないかとされました。わたしも谷本さんの見解は妥当なものと思いますが、もう一つの可能性についても紹介しておきます。
 奈良県桜井市にある山田寺が浄土寺の寺号を持つことが、『上宮聖徳法王帝説』(知恩院本)の「裏書」に記されています。

 「有る本に云わく、誓願して寺を造り、三宝を恭敬す。(舒明)十三年辛丑(641年)の春三月十五日、浄土寺を治むと云々。
 注に云わく、『辛丑年に始めて地を平かにす。(中略)癸亥(643年)に塔を構う。(中略)癸酉年(673年)十二月十六日、塔の心柱を建つ。其の柱礎中、円穴を作り、浄土寺と刻す。(中略)山田寺是れ也』と。注は承暦二年〈戊午〉(1078年)、南一房に之を写す。真曜の本なり。」※()内は古賀注。(注②)

 ところが、この裏書の浄土寺について、奈良県桜井市の山田寺のことではないとする田中重久氏の論文があります(注③)。(つづく)

(注)
①谷本茂「北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判」古田史学の会・関西例会、2015年5月。
②岩波文庫『上宮聖徳法王帝説』東野治之校注、2013年。
③たなかしげひさ(ママ)「『上宮聖徳法王帝説』裏書の浄土寺・山田寺別寺説」『仏教芸術』99号、1974年。


第2847話 2022/09/29

『維摩詰経巻下』の「浄土寺蔵経」印(1)

 先日、「東京古田会」の月例会にリモート参加させていただきました。安彦克己さん(同会副会長)の発表では『法華義疏』(皇室御物)の紹介があり、そこに九州王朝の「大委国上宮王」の署名があることなどの説明がなされました。それに関連して、九州年号「定居元年」(611年)が記されている北京大学図書館蔵『維摩詰経巻下』の存在を、わたしから質疑応答のときに紹介しました。同『維摩詰経巻下』末尾には本文とは異筆で次の二行が記されています。

 「始興中慧師聡信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
 「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」

 従来の研究(注①)では、この「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」は、後から追記した偽作とされているようですが、「上宮厩戸」(聖徳太子)による写本とするための偽作であれば、九州年号「定居元年」を用いたり、聖徳太子と縁が深い「法隆寺」ではなく、「経蔵法興寺」と追記するとは考えにくく、むしろ『法華義疏』同様に九州王朝内で成立した文書か、その写本ではないかとする見解をわたしは発表したことがあります(注②)。
 また、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)も「古田史学の会」関西例会でこの『維摩詰経巻下』について発表され、偽作ではないとされました(注③)。発表資料として同下巻末尾のコピーが配られ、そこに「浄土寺蔵経」という蔵書印が押されていることを知りました。谷本さんはこの「浄土寺」を奈良県の法興寺と位置的に近い浄土寺(山田寺、桜井市)ではないかとされました。(つづく)

(注)
①韓昇「聖徳太子写経真偽考」『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』関西大学出版部、2004年。
②次の「洛中洛外日記」で発表した。
465話(2012/09/10)〝中国にあった聖徳太子書写『維摩経疏』〟
466話(2012/09/12)〝二説ある聖徳太子生没年〟
468話(2012/09/17)〝「三経義疏」の比較〟
469話(2012/09/21)〝法興寺と法隆寺〟
471話(2012/09/23)〝韓昇「聖徳太子写経真偽考」を拝読〟
476話(2012/10/01)〝「三経義疏」国内撰述説〟
477話(2012/10/02)〝「三経義疏」九州王朝撰述説〟
480話(2012/10/09)〝「始興」は「始哭」の誤写か〟
482話(2012/10/14)〝中国にあった「始興」年号〟
953話(2015/05/16)〝北京大学図書館蔵「九州年号史料」の報告〟
③谷本茂「北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判」古田史学の会・関西例会、2015年5月。


第953話 2015/05/16

北京大学図書館蔵「九州年号史料」の報告

 本日の関西例会には久しぶりに神戸市の谷本茂さん(古田史学の会・会員)が参加され、九州年号に関する研究2件を発表されました。中でも北京大学図書館が所蔵している九州年号「定居」が記された『唯摩結経』写本を神戸外語大の図書館所蔵写真本からコピーして紹介され、感慨深く拝見しました。
 「聖徳太子」による書写とされる同史料については、「洛中洛外日記」でも論じてきたところですが、後代偽作などではなく、同時代九州年号史料、あるいはその写本と思われました。谷本さんも同様の見解を発表されましたが、やはり北京大学で同史料を実見し、紙の科学的調査などにより成立年代を調査する必要を改めて感じました。
 正木裕さんからは、謡曲「桜川」の母子の出身地「筑紫日向」が糸島半島の細石神社付近であることを論証されました。
 5月例会の発表は次の通りでした。

〔5月度関西例会の内容〕
①賀正・大射礼と改新詔(八尾市・服部静尚)
②「白髪三千丈」-二つの欺瞞-(八尾市・服部静尚)
③『三国志』と朝鮮半島の「倭」について(姫路市・野田利郎)
④北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判(神戸市・谷本茂)
⑤「貞慧伝」の白鳳年号と『二中歴』の“逸年号”について -11年ずれた干支紀年の仮説-(神戸市・谷本茂)
⑥謡曲「桜川」と九州王朝(川西市・正木裕)
⑦学問としての歴史の論拠について(奈良市・出野正)
⑧中国の王朝暦は二倍年暦か?(奈良市・出野正)
⑨服部静尚氏の「倭国」=「倭人の国」についての不可解を論じる(奈良市・出野正)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況(『古田武彦古代史百問百答』ミネルヴァ書房発刊)・新年度の会役員人事・経費決算・明石城から人丸山柿本神社ハイキング・テレビ視聴(飛鳥仏教と尼寺、巴文探求)・鳥取県湖山長者伝説・その他


第482話 2012/10/14

中国にあった「始興」年号

 第480話で、「始興」という年号は中国にも日本にも無いと書いたのですが、出張時に持っていた「東方年表」に基づいた判断でしたのでちょっと気にかかり、帰宅後にネットで調べてみました。そうしたらなんと7世紀初頭に「始興」という年号があったのです。
 たとえばウィキペディアによると、隋末唐初に「燕」という短命の政権が高開道により樹立され、「始興」(618~624)という年号が建元されています。同じく隋末に操師乞(元興王)により樹立された地方政権が「始興」(616)が一年間だけ建元されています。
 ウィキペディアではこの二つの「始興」年号を「私年号」と説明していますが、短命ではありますが、樹立された地方政権が建元しているのですから、「公的」なものであり「私年号」とするのは学問的な定義としては問題があります。九州年号を「私年号」とする日本古代史学会も同様の誤りを犯しているのです。 年号が「私」か「公」かをわける基準を政権の「勝ち」「負け」で決めるのは不当です。より厳密にいえば、「年号」とはどれほど狭い地域や短い期間に使用されていても、それが「支配者」により公布され使用されていれば「私」ではなく、「公」的なものであることから、そもそも「私年号」という名称が概念として矛盾した名称と言わざるを得ないのです。
 そういうことで、「始興」年号の出典を確認しました。『隋書』巻四の「煬帝下」に次の記事があり、操師乞による「始興」建元は確認できました。

 (大業12年12月、616年)「賊操天成挙兵反、自号元興王、建元始興。」

 『隋書』によれば、この頃各地で地方政権が樹立され年号が建元されています。たとえば、「白烏」「昌達」「太平」「丁丑」「秦興」などが見えます。

 次に高開道による「始興」建元ですが、『旧唐書』によれば「列伝第五」にある高開道伝には、「(武徳三年・620年)復称燕王、建元」とあり、年号名は記されていません。「建元」とありますから620年が元年のはずですが、ウィキペディアに記された期間(618~624)とは異なります。
 以上のことから、高開道の「始興」は確認できませんでしたが、操師乞による「始興」建元は信用してもよいようです。しかし、『維摩詰経』巻下残巻末尾に見える「始興」は定居元年(611)よりも前のこととなりますから、操師乞の「始興(616)」年号では年代があいません。また、百済僧の来倭記事に隋末 の短命地方政権の年号を使用するというのも不自然です。従って、「始興」は「始哭」の誤写・誤伝ではないかとするわたしの作業仮説は有効と思います。
 最後に、歴史研究において簡単な「辞典」や「年表」に頼りきるのは危険であることを再認識させられました。ましてやウィキペディアの記載をそのまま信用するのは更に危険です。素早く調べるための「道具」として利用するのには便利ですが、その上で原典にしっかりとあたる、というのが大切です。その意味でも良い勉強となりました。(つづく)


第480話 2012/10/09

「始興」は「始哭」の誤写か

 今、湖西線を走る特急サンダーバードに乗っています。今朝は天気も良く、車窓から見える琵琶湖がとてもきれいです。湖面に浮かぶ船や竹生島もくっきりと見えます。

 韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」(『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』所収)に紹介された、九州年号「定居元年」が末尾に記されている『維摩詰経』巻下残巻ですが、韓昇さんが説明できていない問題があります。

「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」

 この末尾2行部分の「定居」については、「日本の私年号」と説明されているのですが、「始興」については、「定居」とともに「始興」も年号とする他者の論稿の引用のみで、韓昇さん自身の説明はありません。それも仕方がないことで、「始興」という年号は中国にも近畿天皇家にもなく、九州年号にもないからです。そのため、韓昇さんは「始興」の説明ができなかったものと思われます。
 わたしも「始興中」とはある期間を特定した記事であることから、「始興」は年号のように思うのですが、確かに未見の「年号」です。そこでひらめいたのですが、「始興」ではなく、「法興」か「始哭」の誤写・誤伝ではないかと考えたのです。字形からすると「始哭」の方が近そうです。他方、「法興」とすると、「定居元年」(611)が法興年間(591~622)に含まれてしまいますので、二つ並んだ年号表記記事としては不自然です。
 そこで、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝とすればどうなるでしょうか。正木裕さん(古田史学の会々員・川西市)の研究(洛中洛外日記311話「正木さんからのメール『始哭』仮説」・他、参照)によれば、「始哭」は589年か590年頃とされており、定居元年(611)よりも少し前の時期に相当しますの で、記事内容に矛盾が生じません。すなわち、「始哭」(589~590)中に慧師聰がもたらした震旦(中国の異称)の善本を、定居元年(611)に上宮厩戸が書写し、法興寺に蔵されている、という理解が可能となるのです。
 しかしそれでも解決できない問題が残っています。年号としての「始哭」の誤写・誤伝であれば、「定居元年」と同様に「始哭元年」とか「始哭二年」とあってほしいところです。この疑問を解決できるのが、やはり正木さんの「始哭は年号ではなく、葬送儀礼の『哭礼』の始まりを意味する」という仮説です。
 正木説によれば、端政元年(589)に玉垂命が没したとき、後を継いだ多利思北弧が葬儀を執り行い、その儀礼として「哭礼」を開始したという記事に、「始哭」という表記があり、それを後に九州年号と勘違いされ伝わったということです。「哭礼」は通常は一年程度続き、長くても三年程度というのが正木さんの見解ですので、もし正木説が正しければ、玉垂命の葬儀に慧師聰が参列し、そのおりもたらされた震旦の善本『維摩詰経』を定居元年に上宮厩戸が書写したということになります。
 ちなみに慧師聰は『日本書紀』推古三年条(595)に百済より来訪した「慧聰」として見え、翌年、高麗僧「慧慈」と共に法興寺に住まわされています。この『日本書紀』の記事が正しければ、慧聰は「始哭中」に相当する端政元年(589)に九州王朝に来倭し、玉垂命の葬儀に参列した後、推古三年(595、九州年号の告貴二年・法興五年)に近畿へ来たことになります。
 このように、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝と見た場合、九州王朝説の立場から『維摩詰経』末尾2行の文意がうまく説明できるのです。そしてこのアイデアが当たっていれば、この末尾2行を書いた人は「始哭」などが記された九州王朝系史料を見ていたこととなります。中国にある『維摩詰経』残巻を実見しないことには結論は出せませんが、現時点での「作業仮説」として検証・研究をすすめたいと考えています。
 なお、念のため付け加えれば、「始興」のままでよりうまく説明できる仮説があれば、わたしの提案した「始哭」説よりも有力な仮説となることは当然です。 「原文を尊重する」「必要にして十分な論証を経ずに安易な原文改訂をしてはならない」というのは、古田史学にとって重要な「学問の方法」なのですから。 (つづく)


第476話 2012/10/01

「三経義疏」国内撰述説

 聖徳太子が撰述したとされる「三経義疏」(法華義疏・勝鬘経義疏・維摩経義疏)は本当に聖徳太子が書いたものかどうかの 論争が長く続いています。戦前は聖徳太子信仰などの影響で太子真筆説(花山信勝さんら)が信じられていたようですが、戦後はこのような高度な経典注釈は7世紀当時の日本ではできないとする、国外(中国・朝鮮半島)成立説(藤枝晃さんら)が有力となりました。
 近年では、百済人や渡来人撰述説など様々な説が出されていますが、わたしが最も注目しているのが、石井公成さんの日本人(倭国人)撰述説です。このところ、連日のように
石井さんのホームページ「聖徳太子研究の最前線」に掲載されている「三経義疏」に関する論稿を読んでいるのですが、この石井さんの説に魅力と説得力を感じています。
 石井さんは「国産説」の主要な根拠として、「三経義疏」には中国や朝鮮半島には見られない独特の「変格語法」(倭習)が用いられていると指摘されています。しかもそれらは「三経義疏」に共通した独特の表現であることから、同一人物により「三経義疏」が撰述された可能性にも言及されているのです。
 わたしには石井さんの説の当否を直ちに判断できる知識や能力はありませんが、少なくとも石井さんの説には説得力を感じるのです。もちろん、石井さんは近畿天皇家一元史観に立っておられますから、わたしたちはこの石井説の「研究成果」を多元史観・九州王朝説に基づいて再検証・再展開しなければなりません。 (つづく)


第471話 2012/09/23

韓昇「聖徳太子写経真偽考」を拝読

 昨日は久しぶりに岡崎公園にある京都府立図書館に行ってきました。平安神宮前の大通りでは龍谷大学ブラスバンドの演奏などいろんなイベントが行われており、大勢の見物客や観光客でごったがえす中、図書館に着くまで大変でした。
 図書館に行った目的は『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』に収録されている韓昇さんの中国語 論文「聖徳太子写経真偽考」の閲覧とコピーです。同論文によれば、『維摩詰経』巻下残巻末尾の2行を次のように紹介されています。

「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
   「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」

 同論文は簡体字による現代中国文で書かれていますので、文字や文意が不正確かもしれませんが紹介します。論文では最末尾 の1行が「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」となっており、石井公成さんのホームページ「聖徳太子研究の最前線」には無かった「在」の字があります。また、 「経蔵法興寺」と「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」が同一行とされています。
 韓昇さんによれば、この2行は本文とは筆跡が異なっており、「経蔵法興寺」は拙劣な字体で、「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」と「定居元年 歳在辛未上宮厩戸写」は本文と字体は似せているが異なる筆跡とされています。これらの当否は実物を見ないことには判断できませんが、もし正しいとすれば、 「経蔵法興寺」は所蔵寺院による署名とも考えられることから、筆跡が異なることはあり得ます。
 やはり問題は、「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」をどのように考えるのかという史料性格の分析です。この部 分の前半は『維摩経疏』選述の経緯を記したものと思われ、後半はこの『維摩経疏』を上宮厩戸が定居元年(611)に書写したということが記されています。 従って厳密には、この2行部分を上宮厩戸自身が記したものか、他者が上宮厩戸による書写であることを主張するために記したものかは今のところ不明です。や はり『維摩経疏』が掲載されている『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊を実見したいものです。(つづく)


第469話 2012/09/21

法興寺と法隆寺

 中国にあると報告されている聖徳太子書写『維摩経疏』末尾に記された次の記事の「経蔵法興寺」という部分について、もう少し深く考察してみます。

「経蔵法興寺
 定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 『日本書紀』などによれば、法興寺は「蘇我氏のお寺」とされており、「聖徳太子のお寺」は四天王寺や法隆寺が著名です。 しかしこの『維摩経疏』には、聖徳太子による書写を意味する「上宮厩戸写」としながら、「経蔵法興寺」とされており、何ともちぐはぐです。しかし、わたし にはピンと来るものがありました。
 古田先生の調査研究(「『法華義疏』の史料批判、『古代は沈黙せず』所収。駸々堂出版。1988年)によると、聖徳太子のものとされてきた『法華義疏』 (宮内庁所蔵。皇室御物)の電子顕微鏡撮影などによる実物調査の結果、第一巻冒頭下部に鋭利な刃物で表面の紙が切り取られた長方形の痕跡があり、その部分 には本来所蔵されていた「寺院」の名前が書かれていた可能性が高いことを発見されました。他の巻の当該部分には「法隆寺」と書かれてあることから、第一巻 の切り取られた部分にも、本来の所蔵者名が書かれていたのではないかとされたのです。
 この史料状況から、『法華義疏』はどこか別の寺院から法隆寺に持ち込まれ、その後に第一巻の本来の寺院名が切り取られ、第二巻以降には新所有者としての 「法隆寺」の名前が書き込まれたのです。しかし、第一巻の切り取られた部分には、わずかに墨の痕跡が認められるものの、何と書かれていたかは不明でした。
 こうした古田先生の研究があったので、今回の『維摩経疏』に記された「経蔵法興寺」という、聖徳太子とはあまり関係がなさそうな寺院名に、わたしは強い関心を抱いたのです。もしかすると『法華義疏』を初めとする聖徳太子の「三経義疏」の本来の所有寺院は「法興寺」ではなかったかと考えたのです。(つづ く)


第468話 2012/09/17

「三経義疏」の比較

 韓昇さんの「聖徳太子写経真偽考」(『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』所収)で紹介された『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊の鳩摩羅什訳『維摩詰経』巻下残巻の末尾に次の記事があります。

「経蔵法興寺
 定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 九州年号の「定居元年」が見え、この部分は後代の追記(偽作)とされているようですが、それほど単純な問題ではないとわたしは思っています。というのも、聖徳太子書写と偽って史料価値を高めるための偽作であれば、もっと違った追記となるのではないでしょうか。
 たとえば「経蔵法興寺」の部分ですが、聖徳太子のお寺といえば、やはり「法隆寺」でしょう。『法華義疏』(皇室御物)や『勝鬘経義疏』(鎌倉時代版本) が法隆寺に伝来していたのですから、後代追記(偽作)するのであれば「経蔵法隆寺」とするでしょう。従って「経蔵法興寺」とあるのは偽作の証拠ではなく、 逆に偽作ではないという心証を得るのです。
 次に「定居元年歳辛未上宮厩戸写」の部分ですが、これも偽作するのであれば、聖徳太子によるとされた「三経義疏」のうち、他の『勝鬘経義疏』(法隆寺蔵 鎌倉時代版本)や『法華義疏』(皇室御物。法隆寺旧蔵)と同じような下記の追記がなされるのではないでしょうか。

 「此是 大委国上宮王私
     集非海彼本」『法華義疏』

 「此是大倭国上宮
  王私集非海彼本」『勝鬘経義疏』

 これらは両義疏冒頭に記されているのですが、いずれも上宮王が私に集めたもので、「海彼」(外国からもたらされた)の本ではないことを意味しています。すなわち、上宮王が書写したり著述したものとはされていません。
 ところが、今回紹介された『維摩経義疏』は「上宮厩戸写」と記されており、他の二疏とは明らかに異なっています。これなども、偽作の手口としてはおかし なもので、逆に偽作ではなく、真作あるいは何らかの根拠があってこうした記事を追記したのではないかと考えられるのです。(つづく)


第466話 2012/09/12

二説ある聖徳太子生没年

 服部和夫さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた聖徳太子書写とされる『唯摩経疏』ですが、末尾の記事はいろいろと面白い問題を含んでいます。同記事の真偽は別として、その問題について検討してみました。
 『唯摩経疏』断簡末尾には次のような記事があり、「上宮厩戸」が『唯摩経疏』を定居元年辛未(611)に書写したとされています。

「経蔵法興寺
定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 ところが聖徳太子の伝記である『補闕記』では『唯摩経疏』の作成開始を壬申(612)の年とし、完成を癸酉(613)の年としており、『唯摩経疏』断簡末尾の記事とは2年の差があるのです。この差は何が原因で発生したのでしょうか。そして、どちらが真実なのでしょうか。ちなみに『日本書紀』には聖徳太子による『唯摩経疏』作成記事はありません。
 通常、聖徳太子の生没年は歴史事典などでは574~622年とされることが多いようです。しかし学問的に見ますと、聖徳太子の生没年にはそれぞれ二つの説があります。特に没年は、『日本書紀』には621年2月5日(推古29年)のことと記されているにもかかわらず、法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える622年2月22日没が「定説」となっています。
 皆さんは既にご存じのことと思いますが、622年に没したとされる同光背銘にある「上宮法皇」は聖徳太子とは別人で、九州王朝の天子・阿毎多利思北弧であることを古田先生が論証されています。すなわち、我が国では、聖徳太子とは別人の没年(『日本書紀』とは没年の年と日が異なっており、あっているのは「2月」だけ。母親や妻の名前も全く異なっている)を「定説」としているのです。理系が本職(化学)のわたしには、とても信じられないほどのずざんな「同定」です。日本の古代史学界ではこのレベルが「定説」として「通用」するのですね。驚きを通り越して、あきれかえります。
 没年と同様に誕生年にも、管見では二説あります。一つは『上宮法王帝説』『補闕記』などを根拠とした574年、もう一つは『聖徳太子伝記』(鎌倉時代成立。『聖徳太子全集』第二巻所収)などを根拠とした572年です。この二つの説が文献に見えるのですが、両説は2年の差をもっています。冒頭で紹介した『唯摩経疏』の成立年が『唯摩経疏』断簡末尾の「定居元年辛未」(611)と『唯摩経疏』の癸酉(613)とでは2年の差があるのですが、この差が聖徳太子誕生年の2説の差と同じです。すなわち、『唯摩経疏』の成立年の2説発生は、誕生年の2説の差が原因なのです。
 このように『補闕記』と『聖徳太子伝記』での『唯摩経疏』完成年は2年のずれがありますが、共に聖徳太子40歳のときであると記されています。誕生年が2年ずれていますから、そのまま『唯摩経疏』完成年も2年ずれたわけですが、それではどちらが真実なのでしょうか。(つづく)


第465話 2012/09/10

中国にあった聖徳太子書写『唯摩経疏』

 名古屋市の服部和夫さん(古田史学の会・会員)から大変興味深い情報がもたらされました。聖徳太子が書写したとされる 『唯摩経疏』断簡が中国にあるというのです。服部さんからご紹介いただいたホームページ「聖徳太子研究の最前線」(石井公成・駒沢大学仏教学部教員)によると、『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』に韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」が収録されており、そこには『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊に鳩摩羅什訳『唯摩詰経』巻下残巻があることが報告されています。
 その『唯摩詰経』巻下残巻(17字×127行)の末尾に次のような記載があり、九州年号の「定居元年(611)」が見えるのです。

「経蔵法興寺
 定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 韓昇さんの見解では、本文は唐代のものの可能性があるが、末尾の文章は中国人による偽作(後代追記)とされているようです。 同論文や『北京大学図書館蔵敦煌文献』をわたしはまだ見ていませんので、この『唯摩経疏』が聖徳太子の書写によるものかどうか、ただちに判断はできませんが、九州年号の「定居元年」や「経蔵法興寺」などの記事は興味深いものです。取り急ぎ、みなさんに紹介し、わたしも分析検討をすすめていきます。(つづ く)