『早良郡志』に見える「筑紫殿塚」
本日開催される「九州古代史の会」の正月例会を聴講するため、帰省を兼ねて福岡市早良区の藤崎駅近くのももち文化センターに来ました。1時間ほど早く到着したので、隣接する早良図書館で『早良郡志』(大正12年、早良郡役所編纂。昭和48年、名著出版復刻版)を読みました。その中で次のような記事がありましたので、紹介します。
「大王塚 原の東方三町の所に、大王塚と謂ふのがある。長三間横一間許りで一株の松がある由来詳かでない。」(原村史跡 124頁)
「筑紫殿塚 小田部の東二町の田間に筑紫殿の塚といふのがある。里人は又大塚とも謂つて居る。周四十間幅三間許の小丘三段に分かれ上の段には、土手が廻つて居るも何人の墓であるか詳かでない。」(原村史跡 125頁)
この地に「筑紫殿塚」と伝承されている墳墓が存在することに興味深く思いました。墳墓の年代などこの記事からは不明ですが、九州王朝の王家「筑紫君」の一族の墓ではないかと思われます。大王塚はその「大王」という呼称から、筑紫殿塚よりも古いように思います。当地の研究者による多元史観・九州王朝説に基づいた調査研究を期待したいと思います。
なお、当地「早良郡」には、古田先生が『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」「難波朝廷」の所在地とされた愛宕神社があります。同神社は『早良郡志』にも紹介されていますが、7世紀に遡るような宮殿伝承や遺構、王朝関連記事はありませんでした。