難波朝廷(難波京)一覧

第1895話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(4)

 日野さんへの返答の2回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答②】
 九州王朝(倭国)が摂津難波の支配権を有していた時期について、7世紀初頭とする史料があることから、それ以前に九州王朝は難波に進出していたと、わたしは考えていました。その史料とは「九州年号群」史料として最も成立が早く、信頼性が高いとされている『二中歴』所収「年代歴」の次の記事でした。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」 ※倭京二年は619年。

 「倭京」は7世紀前半(618〜622年)の九州年号です。ちょうど多利思北孤の晩年に相当する期間です。『隋書』に見える九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)は倭京五年(622年、「法興32年」法隆寺釈迦三尊像光背銘による)に没し、翌623年に九州年号は「仁王元年」と改元されています。
 この「難波天王寺」とは現「四天王寺」のことで、創建当時は「天王寺」と呼ばれていたようです。四天王寺のことを「天王寺」と記す中近世史料は少なからず存在しますし、当地から「天王寺」銘を持つ軒瓦も出土しています。
 また、『日本書紀』には四天王寺の創建を六世紀末(推古元年、593年)と記されていますが、大阪歴博の考古学者による同笵瓦の編年研究から、四天王寺の創建を620〜630年頃とされており、『日本書紀』の記述よりも『二中歴』の「倭京二年」(619年)が正しかったことも判明しています。こうしたことから、『二中歴』のこの記事の信頼性は高まりました。
 以上の考察から、九州王朝(倭国)は7世紀初頭には摂津難波に巨大寺院を建立することができるほどの勢力であったことがわかります。しかし、その難波支配がいつ頃から始まったのかは不明でした。(つづく)


第1894話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(3)

 日野さんからの本格的な質問への返答として、わたしから5回に分けて持論を説明しました。その一回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答①】
 日野さんのご質問は本質的な問題を指摘されており、わたしも丁寧にご返答したいと思います。質問への個別の回答に先立ち、7世紀における九州王朝の歴史についてのわたしの認識の変遷と現時点での研究の到達点について、まず説明させてください。

 まず、大阪市中央区から出土した前期難波宮について、わたしの認識は次のように進みました。

① 7世紀中頃に九州王朝(倭国)は全国に評制(それまでの行政単位「県(あがた)」を「評」に変更し、その代表者「評督」を任命)を施行し、恐らくは律令による中央集権体制を構築したと思われる。
② その7世紀中頃の列島内最大規模の宮殿・官衙遺跡が前期難波宮(国内初の朝堂院様式の宮殿)であった。
③ 一元史観の通説では、前期難波宮を孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とするが、太宰府よりも巨大な宮殿・官衙遺構(前期難波宮)を近畿天皇家のものとすることは九州王朝説としては認めがたい。
④ その結果、前期難波宮を九州王朝の複都(当初は副都と考えた)とする仮説に至った。
⑤ その後、この仮説と整合する、あるいは支持する研究や史料根拠がいくつも報告された。

 以上のような思考を経て前期難波宮九州王朝複都説が成立したのですが、そこで新たに問題となったのが、九州王朝(倭国)はいつから本拠地の九州から離れた摂津難波に複都を置けるほどの当地の支配権を確立したのかということでした。(つづく)


第1893話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(2)

 続いて、日野さんから本格的な質問がきました。以下、転載します。

2019.05.10【日野さんからの本格的質問】
 河内戦争の記事は一つだけ、それも九州王朝目線の記事が元記事と思われます。
 従って、問題が3点あります。
1.実際年代が不明であること。
2.律令制の頃と同じ用語が使用されていること。
3.「関西八国の支配者」ならば当然、大和も支配していたはずであるが、九州王朝以外に近畿天皇家の上位に立つ政権が存在したことが論証されていないこと。

 特に、私が問題視しているのは「3」です。近畿天皇家は九州王朝の分王朝ですが、「関西八国の支配者」が九州王朝の分王朝を支配していたとすると、それは一体、九州王朝とどういう関係なのでしょうか?九州王朝と無関係ならば不自然ですが、九州王朝との関係を語る史料は皆無です。
 例えば、関東王朝についてはその実在が完全に論証されたとは言い難いですが、それでも「関東王朝の伝承」の可能性がある史料は複数見つかっているわけです。
 或いは、大和は「関西八国」には含まれないかもしれません。無論、山背も関西八国に含まれていない可能性もあります。
 さらに、「2」について言わせていただくと、河内戦争の後に66国に分割されたということは、やはり河内戦争以前に山背国の境界は明確に決まっていません。そして、河内戦争の記事には「国司」の用語が用いられていますから、可能性としては富川さんや古賀さんが想定しているよりも後世の記事の可能性があるのです。
 このように、まだ十分に論証が尽くされたとはいえない仮説を論拠に「考えられません」と言われることには、疑問があります。
(つづく)


第1892話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(1)

 FaceBookと「洛中洛外日記」で連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」を読んだ日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良市)からFaceBookにコメントが寄せられ、問答が続きました。
 日野さんは奈良大学の学生さんで国史を専攻する古田学派内でも気鋭の若手研究者です。今回、寄せられた質問やわたしの見解への鋭い疑問の提起など、学問としてもハイレベルで深い洞察力に裏付けられたものでした。その二人のやりとりを「河内戦争」問答と銘打って「洛中洛外日記」でご披露することにしました。もちろん日野さんの了承もいただいています。
 まずは発端となった日野さんからの質問とわたしの返答の序盤戦を転載します。

2019.05.09【日野さんからの質問】
 一応、「この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。」という部分については、古田学派でも統一見解とは言えないと思います。近畿天皇家の勢力範囲については、初期からずっと議論があり今でも決着を見ていないと思います。
 大和と山城の境界が確定したのは恐らく多利思北孤の時代である(それ以前には山背の一部が大和に編入されていた可能性も否定できない)わけですし。

2019.05.10【古賀の返答】
 日野さん、コメントありがとうございます。
 冨川ケイ子さんの論文「河内戦争」において、タリシホコの九州王朝が摂津・河内を制圧する前の当地の権力者は関西八国の支配者であり、それは近畿天皇家の勢力でもないとされています。わたしは冨川説は有力と考えており、それであれば山城国が近畿天皇家の影響下となるのは七世紀第四四半頃と考えています。壬申の乱以降ではないでしょうか。
 河内戦争の勝利後に九州王朝は全国を66国に分国したものと思いますが、いかがでしょうか。
(つづく)


第1873話 2019/04/12

条坊都市「難波京」7世紀第3四半期造営説

 前期難波宮が7世紀中頃の造営とする説は考古学界では通説となり、文献史学との整合からそれは孝徳紀白雉3年(652年、九州年号の白雉元年)とする理解が最有力とされています。
 他方、その難波京が条坊都市であったのかどうかについて、当初は条坊はなかったと考えられてきました。その後、上町台地の方角地割りの痕跡が地図上に復元できることから、聖武天皇の後期難波宮の頃には条坊が存在していたとする説が有力となりました。そして近年では発掘調査が進み、条坊の痕跡が複数出土したことにより、難波京が条坊を有していたことは決定的となりました。ところが、その条坊の造営年代については積山洋さん(大阪歴博)らの発掘調査報告では天武朝の頃、すなわち7世紀第4四半期とする説が考古学者の間では有力説とされてきました。
 わたしは文献史学に基づく論理的解釈の結果、前期難波宮は条坊を持つ宮殿であり、その成立を前期難波宮造営時期の頃からとする説を発表してきました(「洛中洛外日記」684話 条坊都市「難波京」の論理)。その理由は次のような論理性によるものでした。

1.7世紀初頭(九州年号の倭京元年、618年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。

2.従って7世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。

3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(14朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。

4.以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 このような理由により前期難波宮は条坊を持った九州王朝の副都(複都)であり、前期難波宮造営と同時期に条坊も造営を開始されていたと考えてきました。ところが、このわたしの仮説を支持するような考古学論文が難波編年を提案された考古学者、佐藤隆さん(大阪歴博)から本年3月に発表されていたのです。それは「古代難波地域における開発の諸様相 -難波津および難波京の再検討-」(『大阪歴史博物館 研究紀要』第17号、平成31年3月)です。
 同論文冒頭に記された「要旨」には次のように記されています。

 「(前略)難波遷都の後、難波京の地割が成立する時期は天武朝(7世紀第4四半期)とこれまで考えられてきた。それに対して、本論は7世紀第3四半期に遡る可能性を指摘するとともに、遷都前に見られた都市化の影響を受けながらさまざまなかたちの開発によって地割が形成され、それらが中世につながっていく流れを考察した。」(7頁)

 最後の「むすびにかえて」では、次のように結論づけられています。

 「一方、難波京として認識できる地割は、前期難波宮が造営されてその求心力を保っていた難波Ⅲ新段階(7世紀第3四半期)には設計されており、一部では竣工も行われていたことを今回明らかにできたが、難波Ⅳ古・新段階(7世紀第4四半期〜8世紀第1四半期)にはその地割の一部は居住区の区画ではなく新たに拓いた耕作地への灌漑に用いられた可能性がある。」(21頁)

 このように、今回発表された佐藤論文は、考古学分野の研究成果により、前期難波宮の条坊(地割)が前期難波宮造営直後から設計・一部竣工していたとするもので、わたしの仮説と整合しています。文献史学に基づくわたしの論理展開(論証)が、考古学的事実(実証)により支持されたと言えるのではないでしょうか。


第1872話 2019/04/10

前期難波宮南面〝宮の大垣〟が出土

 本年4月に発行された『葦火』193号(大阪文化財研究所発行)に、前期難波宮の南限を示す前期難波宮南面「宮の大垣」出土の報告が掲載されていました。高橋工さんによる「前期難波宮南面〝宮の大垣〟を発見」という記事です。
 前期難波宮は1993年に「朱雀門」が発見され、その位置が南限と推定されていました。その後、1997年には朱雀門の真西295mの位置から掘立柱塀が出土し、今回はその中間地点から東西に並んだ6個の柱穴が出土しました。その柱穴は新旧3個ずつのセットですが、古い柱穴3個の間隔は2.92mであり、前期難波宮造営尺の1尺(0.292m)の10尺に相当することも判明しました。従って、前期難波宮の宮域を囲む塀が正確な間隔で造営されていたことがうかがえます。
 今回の発見により前期難波宮宮域の西面と南面は塀(柱穴)の出土により確定できたのですが、北と東はまだ確定できていません。しかし、前期難波宮宮域の東西幅は600mを超えることとなりました。大阪城築城によるお堀の掘削のため、内裏や宮域北限は不明ですが、今後の東方官衙の発掘調査により東面の塀の出土が期待されます。
 なお、この「宮域」という概念ですが、各都城の「宮域図」を見ますと、統一されていないようです。最も雑なものに太宰府宮域図があります。大宰府政庁を中心に東西に長い長方形の線で「宮域」と紹介する図面があるのですが、その中には丘や谷が含まれており、前期難波宮のような宮殿や官衙・倉庫群を含む「平地」ではありませんし、ましてや宮域をとり囲む塀や柵の出土を意味する「線」でもありません。ですから、都城の規模などを比較するとき、各「宮域」の面積比較として、丘や谷を含む大宰府政庁の「宮域」と称される〝誰かが地図上に引いた線で囲まれた面積〟を使用するのは学問的に無意味であり、はっきり言って誤りです。極端な例ですが、東京タワーと東京スカイツリーの規模を比較するのに、それぞれが立地する港区と墨田区の面積で比較するようなものだからです。
 都城や宮殿の規模の比較には、同じ概念どうしでの比較が当然のことです。たとえば前期難波宮のように出土事実に基づく塀(柱穴)で囲まれた「宮域」か、出土事実に基づく回廊で囲まれた朝堂院や正殿・内裏の面積で比較するのが恣意性が少なく学問的です。この点、大宰府政庁を九州王朝の王宮と見なす古田学派の研究者には特に留意を促しておきたいと思います。


第1862話 2019/03/19

「複都制」から「両京制」へ

 本日は「市民古代史の会・京都」の講演会で正木裕さんが「聖武天皇も知っていた 失われた九州年号」というテーマで講演されました。初めて九州年号というものを知った参加者も少なくなく、好評でした。
 講演前に、前期難波宮を九州王朝の「複都」とするアイデアについて、正木さんの意見を求めたところ、「両京制(dual capital system)」と呼んでもよいのではないかと言われました。これは虚を突かれたような提案であり、なるほどと思いました。正木さんの見解はわたしの複都制よりも更に一歩進んで、太宰府や前期難波宮(難波京)の実態(条坊を持つ「京」)を明確に表した呼称であり、「複都(multi-capital city)」よりも「両京(dual capital city)」のほうがより正確な表現のように思いました。
 実は「複都制」も「両京制」も、古田先生が既にその存在を指摘されています。はやくは『失われた九州王朝』(第5章の「遷都論」)に九州王朝の遷都を示唆する記述があり、講演会でも「天武紀」に見える「信濃遷都計画」について言及されていました。たとえば『古田史学会報』No.32(1999年6月3日)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です。

【以下、転載】
 二つの確証について
  --九州王朝の貨幣と正倉院文書--
(前略)この銭(冨本銭のこと:古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理しか根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうとし、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)
【転載終わり】

 「両京制」についても、『古田史学会報』36号(2000年2月)で「『両京制』の成立 --九州王朝の都域と年号論--」を発表され、七世紀前半における九州王朝の太宰府と筑後の「両京制」について論じられています。
 このように古田先生は早くから九州王朝の複都制を前提とした「両京制」の存在を指摘されておられますから、同様に七世紀後半における「太宰府」と前期難波宮(難波京)を「両京制」と見なす正木さんのご意見は妥当なものと思われるのです。


第1861話 2019/03/18

前期難波宮は「副都」か「複都」か

 わたしがこの「洛中洛外日記」を続けるにあたっては、多くの読者や事前に原稿チェックをしていただいているスタッフに支えられています。中でも加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からはいくつもの貴重なご意見やご指摘もいただいています。最近も前期難波宮九州王朝副都説に対して、「副都(secondary capital city)」なのか「首都(capital city)」なのか、そろそろ古田学派の研究者間で見解を統一してはどうかとのご意見をいただきました。良い機会ですので、わたしが前期難波宮を九州王朝の「副都」とした理由やその問題点、そして改良案などについて説明したいと思います。
 前期難波宮が近畿天皇家の宮殿ではなく、九州王朝の宮殿ではないかとする仮説に至ったとき、それをどのように表現すべきかについてかなり考えました。七世紀段階における九州王朝の首都が「太宰府」とする点については古田先生を始め、古田学派のほとんどの研究者も一致した見解でした。また、中国史書に見える倭国伝などにおいて、九州王朝(倭国)の都が移動(遷都)したような痕跡が見当たらないことから、九州王朝は滅亡するまで「太宰府」を首都としていたと考えざるを得ません。この点、古田先生も同見解でした。そこで、わたしは前期難波宮を九州王朝の「副都」と見なすことにしたわけです。
 ところが前期難波宮九州王朝副都説の発表後、この仮説を支持する正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)や西村秀己さん(『古田史学会報』編集担当、高松市)から、前期難波宮は九州王朝の「首都」と見なすべきではないかという意見が出されました。この前期難波宮首都説に対して、わたしはそれが有力説であることを認めながらも、全面的に賛成できないまま今日に至っています。その理由は先に述べたように、中国史書の倭国伝などに倭国が遷都したとする痕跡が見えないことでした。
 他方、前期難波宮で大規模な白雉改元の儀式が行われていることや、その宮殿や官衙の規模が国内最大であることなどから、「副都」とするよりも「首都」と見なすべきと言う意見に反対しにくいとも感じていました。そうした学問的に断定できない中途半端な状況が続いていたときに、加藤さんからのご意見が届いたのでした。
 そこで、「副都」とも「首都」とも断定できないこの状況をうまく表現する方法はないかと考えた結果、一つの妙案が浮かびました。それは前期難波宮九州王朝「副都(secondary capital city)」説ではなく、九州王朝「複都(multi-capital city)」説という表現に変更することでした。これであれば、前期難波宮を「首都」とも「副都」とも見なせる表現であり、学問的断定がまだできない状況にあっても、穏当な表現だからです。すなわち、七世紀初頭頃から九州王朝(倭国)の都は太宰府であったが、七世紀中頃には複数の都を持つ「複都制(multi-capital system)」を採用したとする仮説になるのです。
 はたして、この〝問題の先送り〟のような案が古田学派内で支持を得ることができるかどうか、学問的に妥当なものか、皆さんのご意見をお待ちしています。


第1839話 2019/02/17

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(補)

 「洛中洛外日記」で連載した表題のテーマについて、学術論文とするために加筆削除修正などを行い、『古田史学会報』に投稿しました。特に論証上必要な次の「注」を加えましたので、ご参考までに転載します。

【以下、転載】
③『難波宮址の研究 研究予察報告第四』掲載須恵器「35」と『難波宮址の研究 研究予察報告第五 第二部』掲載須恵器[7]が同じ土器であると判断したのは次の資料事実等による。
(a)それぞれの図版を比較すると、両土器のサイズや形態が近似している。
(b)『研究予察報告第四』には発掘調査地区名(出土地)を「第十二次北地区」としている。他方、『研究予察報告第五』では「第十四次東地区(第十二次北地区)」と併記されており、「第十二次北地区」と「第十四次東地区」が同じ場所であることを示している。
(c)『研究予察報告第四』には須恵器「35」以外に子持勾玉「37」が掲載されているが、その勾玉と同型同サイズで破損箇所も同じ子持勾玉「6」が『研究予察報告第五』に掲載解説されている。このことから、『研究予察報告第四』では解説無しで実測図に掲載された出土物が『研究予察報告第五』で再録解説されていることがわかる。同様の再録遺物はこの他にも見える。
 このように『研究予察報告第四』の実測図に解説無しで掲載された須恵器「35」などを、次号の『研究予察報告第五』で再録解説した事情について、両報告書の執筆者である中尾芳治氏に確認したいと考えている。


第1830話 2019/01/26

難波から出土した「筑紫」の土器(2)

 大阪府歴史博物館の寺井誠さんの論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)によれば、福岡市早良平野から糸島東部にかけて多く見られる「平行文当て具痕」のある須恵器が難波から出土していることが確認され、七世紀前半頃に筑紫と難波との交流があったことの痕跡とされました。紹介された須恵器はいずれも破片であり、その数もそれほど多くはありませんでした。ところが、後期難波宮の瓦堆積層出土坏Bが報告されていた『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)を精査していたところ、次のような難波宮下層遺跡出土須恵器の生産地についての記述があることに気づきました。

 「5.その生産地について
 これまで、難波宮下層遺跡出土の土器について、若干その編年的位相について述べたが、ここでは須恵器の生産地について述べてみたい。いうまでもなく、難波宮下層遺跡は須恵器の生産地でなく消費地であり、そこで使用した須恵器は単一の生産地のものだけではないことが想定されよう。もちろん、土器群の大部分は近畿の生産地によっていることもまた十分想定される。ただ、(B)の杯身中に際立った特徴をもつ一群があり、それらは他のものと生産地を異にすると考えられる。それは、158〜163で、たちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものである。これらは、個体数こそ少ないが稀有な例ではない。さらにそのうち、162・163は色調が灰白色を呈し、胎土も非常によく似ている。その色調・胎土の特徴は、(B)の坏蓋や、SK9343出土土器中の65・67にもみられ、特異な一群を形成している。
 杯身のたちあがり部と体部内面との境が不明瞭なものは、管見の限りでは畿内地域より九州地方の窯跡出土の土器中に散見されるものに似ていると思われる。ただ、天観寺山窯出土土器の胎土とは肉眼観察の上では異なっており、現在のところこれら一群の土器が即九州等の遠隔地で生産されたとはいえない。しかし、その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。また、難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」(186頁)※(B):黒灰色粘質土層

 このように慎重な筆致ですが、難波宮下層遺跡から出土した九州地方の須恵器と類似する特徴的な須恵器の一群の存在を指摘され、「その形態上の類似から何らかの系譜関係を考えることも不可能ではあるまい。」とされ、「難波宮下層遺跡が畿内以外の地域との交流があった可能性は考えておいてもいいのではなかろうか。このことはまた、難波宮下層遺跡の性格を考える上で重要な手がかりとなり得るであろう。」と締めくくられています。ここでの類似した九州地方の須恵器として次の報告書を紹介されています。

○北九州市埋蔵文化財調査会『天観寺山窯跡群』1977年
○太宰府町教育委員会『神ノ前窯跡-太宰府町文化財調査報告書第2集』1979年
○北九州市教育委員会「小迫窯跡」『北九州市文化財調査報告書第9集』1972年

 このように九州王朝の中枢領域の須恵器と類似していることは、先の寺井さんが報告した「平行文当て具痕」のある須恵器と同様です。難波宮下層遺跡からの出土ですから、7世紀前半頃には難波と筑紫とは交流があったことを疑えません。
 文献史学の研究によれば、『二中歴』に記された「難波天王寺」建立記事の他に、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)が「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』、『古代に真実を求めて』18集)で、九州王朝が河内の支配者(捕鳥部萬・ととりべのよろず)を滅ぼしたとする仮説を発表されています。これらによれば、九州王朝の天子・多利思北孤の時代に九州王朝は河内や難波を自らの支配領域とし、倭京二年(619)に「難波天王寺」を建立、白雉元年(652)には前期難波宮を造営したことになります。このように文献史学と考古学の成果が共に前期難波宮九州王朝副都説を支持する方向に向かっています。引き続き考古学の面からの調査研究を続け、古田先生からの宿題に答えていきたいと考えています。


第1829話 2019/01/25

難波から出土した「筑紫」の土器(1)

 前期難波宮九州王朝副都説にとって超えなければならない〝壁〟があります。この仮説を古田先生に最初に報告したとき、九州王朝の副都であれば神籠石山城など九州王朝との関係を裏付ける考古学的証拠が必要とのご指摘をいただきました。それ以来、古田先生の指摘はわたしにとっての宿題となり、今日まで続いています。更に、難波に九州王朝が副都を置くと言うことは、その地が九州王朝にとっての安定した支配領域であることが必要ですが、そのことについては文献史学の研究により既にいくつかの根拠が見つかっています。
 一例をあげれば、『二中歴』年代歴に見える九州年号「倭京」の細注の「倭京二年、難波天王寺を聖徳が建てる」という記事があります。九州王朝が倭京二年(619)に聖徳(利歌彌多弗利か)という人物が難波に天王寺を建立したという記事ですが、大阪歴博の調査により創建四天王寺の造営年が出土瓦の編年により『日本書紀』の記述とは異なり、620〜630年頃と編年されており、これが『二中歴』の細注記事と対応しています。このことから七世紀前半の難波は九州王朝が天王寺を建立できるほどの深い繫がりがあることを示しています。
 他方、考古学的痕跡として難波から「筑紫の須恵器」が出土していることが大阪歴博の寺井誠さんにより報告されています。そのことを下記の「洛中洛外日記」で紹介しました。抜粋して転載します。(つづく)

第224話 2009/09/12
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
(前略)
 前期難波宮は九州王朝の副都とする説を発表して、2年ほど経ちました。古田史学の会の関西例会では概ね賛成の意見が多いのですが、古田先生からは批判的なご意見をいただいていました。すなわち、九州王朝の副都であれば九州の土器などが出土しなければならないという批判でした。ですから、わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。
 それは、多元的古代研究会の機関紙「多元」No.93(2009年9月)に掲載された佐藤久雄さんの「ナナメ読みは楽しい!」という記事で、寺井論文の存在を紹介されていたからです。佐藤さんは「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」の記事を紹介され、「この記事が古賀仮説を支持する考古学的資料の一つになるのではないでしょうか。」と好意的に記されていました。(後略)

第243話 2010/02/06
前期難波宮と番匠の初め
(前略)
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。(後略)


第1828話 2019/01/23

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(5)

 前期難波宮天武朝造営説を提唱された小森俊寬さんが著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)で、「難波宮址整地層出土の土器」(91頁)として掲示された須恵器坏B「35」が、その出典調査により後期難波宮整地層出土であったことを明らかにしてきました。それ以外にも「51」「52」という坏Bも掲載されており、今回はその出典調査を行いました。
 その須恵器坏B「51」「52」は『難波宮址の研究 第七 報告編(大阪府道高速大阪東大阪線の工事に伴う調査)』(大阪市文化財協会、1981年3月)で報告されていました。出土地は「MP-1区」と命名された「森ノ宮ランプ」の場所です。「難波宮跡」として報告された層位から出土しており、「Fig.44 難波宮整地層内出土須恵器」(94頁)にその断面図が「51」「52」として掲載されています。いずれも底部に高台を持ち、坏Bで間違いありません。この「51」「52」の出土地や出土状況について、次のように説明されています。

 「今回報告する調査地区は、難波宮跡の中枢部を断続的に横断しており、その内容は多岐にわたるので、瓦塼類の出土地点建物との関係については表4に示した。瓦塼類の総量はコンテナバットに約100箱で、軒丸瓦・軒平瓦・丸瓦・平瓦・熨斗瓦・面戸瓦・塼がある。軒丸瓦は9型式47点のうち新型式が1、軒平瓦は10型式45点のうち新型式が2ある。
 内裏地域の瓦塼類の出土は瓦堆積や掘立柱抜き取り穴など後期難波宮の遺構に伴っている。MP-1区出土の瓦類は、掘立柱建物SB10021の柱抜取り穴とその直上層の瓦包含層からその大半が出土しており、それらは建物SB10021に葺かれた屋瓦と考えることができる。」(81頁)

 「51・52はこれらの蓋に伴う高台をもつ坏で、51は75次調査南トレンチ3区の瓦堆積出土、52は75次調査中央トレンチ11区難波宮整地層上堆積層出土である。」(93頁)

 このように坏Bの「51」「52」が出土した遺構と当該層位は、瓦がコンテナバットに約100箱も出土した瓦葺きの後期難波宮の「堆積層」であることが示されています。「52」に至っては「難波宮整地層上堆積層出土」と整地層の上の堆積層からの出土と説明されています。小森さんはこれらの説明を全て見落とし、両坏Bを前期難波宮整地層からの出土と誤解され、前期難波宮天武朝造営説を唱えられていたのです。
 わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対する批判の根拠として小森さんの天武朝造営説が利用されてきたのですが、この小森説が出土事実に対する誤解の産物(誤論)であったことがわかり、あの長期にわたったわたしへの批判や論争は何だったんだろうと残念な気持ちです。しかし、この経験により〝学問は批判を歓迎する〟という言葉が正しかったことを改めて確信することができました。この批判のおかげで、わたしは七世紀の須恵器編年を本格的に勉強することができ、考古学に関する知見を深めることができました。批判していただいた方々に感謝したいと思います。
 最後に、小森さんの誤解を誘発した『難波宮址の研究 第七』での「難波宮整地層出土」という表記ですが、このことについて、大阪歴博学芸員の松尾信裕さんにその事情をお聞きすることができました。およそ、次のような理由により「前期難波宮整地層」や「後期難波宮整地層」ではなく「難波宮整地層」という表記を採用されたことがわかりました。

①整地層からは様々な時代の土器が出土するために、整地層造営時の編年が出土土器からは困難なケースが多い。
②難波宮整地層の上には前期難波宮と後期難波宮が造営されており、その遺構や遺物が重層的に出土する。そのため、前・後どちらの造営時か不明な場合は、「難波宮整地層」という表現に留めるのが学問的に正確である。
③その「整地層」出土遺物の編年は個別の出土状況や共伴遺物から前期難波宮時代のものか後期難波宮時代のものかを判断しなければならない。
④今回の坏Bの出土状況や層位については、報告書に後期難波宮時代の「瓦堆積層」からのものとわかるように明確に記している。

 以上のように、考古学的に正確な表記を採用されていることがわかりました。こうした学問的に厳密な配慮により報告書が書かれているにもかかわらず、小森さんは考古学者としての当然の学問的配慮を理解されないまま、天武朝造営説を提起されたと言わざるを得ません。
 付言しますと、難波宮整地層上に「焼土」などが堆積していた場合は、それを『日本書紀』朱鳥元年(686)に見える前期難波宮火災の痕跡と見なすことができ、その「焼土」の下の整地層は686年以前に存在した前期難波宮整地層と判断できます。しかしながら、その整地層内からは様々な時代の土器が出土しますから、その土器を根拠に整地層造営年代の特定は困難です。
 結果として前期難波宮造営年代の最大の根拠となったのは、井戸がなかった前期難波宮の水利施設が宮殿近くの谷から出土し、その水利施設造営時期の層位から大量に出土した須恵器坏Hと坏Gが根拠となって、前期難波宮造営を七世紀中頃と編年することができました。更に、その水利施設から出土した桶の木枠の年輪年代測定が634年であることや前期難波宮のゴミ捨て場の谷から出土した「戊申年(648年)」木簡、前期難波宮北側の柵跡から出土した木柱の年輪セルロース酸素同位体年代測定による最外層年輪の年代(七世紀前半)などが土器編年とのクロスチェックとなり、ほとんどの考古学者の支持を得て、前期難波宮孝徳期造営説が通説となったことは、これまでも説明してきた通りです。(つづく)