難波朝廷(難波京)一覧

第1898話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(7)

 日野さんへの返答の5回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答⑤】

 日野さんからのご質問がきっかけとなって、701年の王朝交替により成立した「大和朝廷」の前史について考察を続けています。近年の研究では古墳時代以前の大和には、たとえば筑前の那珂遺跡や難波の上町台地のような都市的景観を持つ大規模な集落遺跡がないとされています。「古田史学の会」関西例会でも原幸子さん(古代大和史研究会・代表)からも何度か同様の指摘が発表されてきました。
 そうしたこともあり、飛鳥時代には飛鳥の地を中心に宮殿遺構や寺院跡の出土が知られているのですが、それよりも前の時代には王権の存在を示唆するような大型集落(都市)遺構は大和にはないように思われるのです。そのような時期に近畿天皇家が山城国まで支配していたとは考えられないとわたしは思うのです。
 6世紀末頃から7世紀初頭になってようやく奈良盆地の南隅に割拠するようになった近畿天皇家が山城国までも支配したのはやはり壬申の乱以降ではないでしょうか。この点、天智の「近江朝廷」については特別のなものとして、引き続き検討が必要です。いずれにしても、この「大和朝廷」前史について、『日本書紀』のイデオロギーや既存学説による先入観を排して、改めて多元史観・九州王朝説により研究する必要を日野さんへの返答を書いていて感じました。
 わたしからの返答は以上で一旦終わらせていただきますので、日野さんからの反論や再質問をお願いします。


第1897話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(6)

 日野さんへの返答の4回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答④】

 続いて、日野さんからのご質問に対してお答えしながら、近畿天皇家の実勢についての考察などを説明します。

 まず(1)の「河内戦争」の実年代についてですが、わたしは『日本書紀』に記された崇峻即位前紀(用明天皇二年、587年)の頃として問題ないと考えています。記事に記された地名などから、少なくとも前期難波宮や難波京成立後の7世紀後半とは考えられません。

 (2)についても、冨川説のように九州王朝による6世紀末頃の律令支配の痕跡とする説は有力と思います。通説のように、『日本書紀』編纂時の脚色により律令用語が使用されたとする可能性も否定できませんが、今のところわたしは冨川説がよいと考えています。

 (3)のご質問が、今回の問答での最重要テーマです。大変良いご質問をいただいたと思いました。捕鳥部萬が支配した八カ国の範囲ですが、河内を中心として難波を含むことはその記事から推測できますが、大和や山城なども含むのかどうかは今のところ不明です。
 河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、捕鳥部萬らの先祖の墳墓とする服部静尚さんの研究によるのであれば、あの巨大古墳群を造営できるほどの勢力となりますから、それなりの支配範囲を有していたと考えなければなりませんが、今後の研究課題です。
 大和(飛鳥地方)に割拠していた近畿天皇家との関係ですが、今のところ九州王朝(倭国)下における対等な地方豪族であったと考えています。すなわち大和の代表権力者の近畿天皇家、河内を中心とする地域の代表権力者の捕鳥部萬といった関係を想定しています。(つづく)


第1896話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(5)

 日野さんへの返答の3回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答③】
 九州王朝(倭国)の難波支配がいつ頃から始まったのかという問題への有力な「解」となったのが、冨川ケイ子さんの論稿「河内戦争」(『盗まれた「聖徳太子」伝承』所収)でした。それは『日本書紀』崇峻即位前紀(用明天皇二年、587年)に見えるいわゆる蘇我・物部戦争記事の後半に記された捕鳥部萬(ととりべのよろず)征討記事です。河内を中心として八カ国の権力者であった捕鳥部萬を「朝庭」が滅ぼすという記事で、冨川さんはこの「朝庭」こそ九州王朝(倭国)のことであるとされました。
 この冨川説によれば、この六世紀末頃の河内・難波征討により九州王朝はこの地を自らの直轄支配領域にするとともに、全国の分国と律令による一元支配の端緒になったとされました。従って、この「河内戦争」記事に律令用語(国司など)が現れるのは、九州王朝(倭国)が律令による支配を行った痕跡とされました。
 わたしはこの冨川説を最有力と考え、九州王朝による7世紀中頃に前期難波宮や条坊都市難波京の造営を可能とした背景を説明できるとしました。というよりも、この冨川説以外に九州王朝が摂津難波を支配したとできる史料や伝承がないのです。
 更にこのことと関連するような考古学的事実として、律令行政機能を有す巨大な難波複都造営に先立ち、数万人規模の巨大都市の出現に対応するための食糧増産の準備を九州王朝は始めています。それは古代最大規模のダム式灌漑施設「狭山池」(大阪狭山市)の造営です。この遺構から出土した木樋材の伐採年が616年(年輪年代測定)を示しており、まさに河内戦争以後の7世紀初頭頃から造営を開始したことがわかります。同時に九州王朝は難波天王寺も建立しています。このことは既に述べたとおりです。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」(『二中歴』)※倭京二年は619年。

 この狭山池の堤体(ダム)の工法(敷粗朶工法)が水城と同じであることも判明しており、この点も九州王朝との関連を裏付ける根拠の一つとなっています。
 こうして、前期難波宮九州王朝複都説と「河内戦争」説などにより、六世紀末頃(河内・難波侵攻と分国開始)から7世紀中頃(評制樹立)に至る当地の「九州王朝史」が復元できてきたのです。(つづく)


第1895話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(4)

 日野さんへの返答の2回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答②】
 九州王朝(倭国)が摂津難波の支配権を有していた時期について、7世紀初頭とする史料があることから、それ以前に九州王朝は難波に進出していたと、わたしは考えていました。その史料とは「九州年号群」史料として最も成立が早く、信頼性が高いとされている『二中歴』所収「年代歴」の次の記事でした。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」 ※倭京二年は619年。

 「倭京」は7世紀前半(618〜622年)の九州年号です。ちょうど多利思北孤の晩年に相当する期間です。『隋書』に見える九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)は倭京五年(622年、「法興32年」法隆寺釈迦三尊像光背銘による)に没し、翌623年に九州年号は「仁王元年」と改元されています。
 この「難波天王寺」とは現「四天王寺」のことで、創建当時は「天王寺」と呼ばれていたようです。四天王寺のことを「天王寺」と記す中近世史料は少なからず存在しますし、当地から「天王寺」銘を持つ軒瓦も出土しています。
 また、『日本書紀』には四天王寺の創建を六世紀末(推古元年、593年)と記されていますが、大阪歴博の考古学者による同笵瓦の編年研究から、四天王寺の創建を620〜630年頃とされており、『日本書紀』の記述よりも『二中歴』の「倭京二年」(619年)が正しかったことも判明しています。こうしたことから、『二中歴』のこの記事の信頼性は高まりました。
 以上の考察から、九州王朝(倭国)は7世紀初頭には摂津難波に巨大寺院を建立することができるほどの勢力であったことがわかります。しかし、その難波支配がいつ頃から始まったのかは不明でした。(つづく)


第1894話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(3)

 日野さんからの本格的な質問への返答として、わたしから5回に分けて持論を説明しました。その一回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答①】
 日野さんのご質問は本質的な問題を指摘されており、わたしも丁寧にご返答したいと思います。質問への個別の回答に先立ち、7世紀における九州王朝の歴史についてのわたしの認識の変遷と現時点での研究の到達点について、まず説明させてください。

 まず、大阪市中央区から出土した前期難波宮について、わたしの認識は次のように進みました。

① 7世紀中頃に九州王朝(倭国)は全国に評制(それまでの行政単位「県(あがた)」を「評」に変更し、その代表者「評督」を任命)を施行し、恐らくは律令による中央集権体制を構築したと思われる。
② その7世紀中頃の列島内最大規模の宮殿・官衙遺跡が前期難波宮(国内初の朝堂院様式の宮殿)であった。
③ 一元史観の通説では、前期難波宮を孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とするが、太宰府よりも巨大な宮殿・官衙遺構(前期難波宮)を近畿天皇家のものとすることは九州王朝説としては認めがたい。
④ その結果、前期難波宮を九州王朝の複都(当初は副都と考えた)とする仮説に至った。
⑤ その後、この仮説と整合する、あるいは支持する研究や史料根拠がいくつも報告された。

 以上のような思考を経て前期難波宮九州王朝複都説が成立したのですが、そこで新たに問題となったのが、九州王朝(倭国)はいつから本拠地の九州から離れた摂津難波に複都を置けるほどの当地の支配権を確立したのかということでした。(つづく)


第1893話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(2)

 続いて、日野さんから本格的な質問がきました。以下、転載します。

2019.05.10【日野さんからの本格的質問】
 河内戦争の記事は一つだけ、それも九州王朝目線の記事が元記事と思われます。
 従って、問題が3点あります。
1.実際年代が不明であること。
2.律令制の頃と同じ用語が使用されていること。
3.「関西八国の支配者」ならば当然、大和も支配していたはずであるが、九州王朝以外に近畿天皇家の上位に立つ政権が存在したことが論証されていないこと。

 特に、私が問題視しているのは「3」です。近畿天皇家は九州王朝の分王朝ですが、「関西八国の支配者」が九州王朝の分王朝を支配していたとすると、それは一体、九州王朝とどういう関係なのでしょうか?九州王朝と無関係ならば不自然ですが、九州王朝との関係を語る史料は皆無です。
 例えば、関東王朝についてはその実在が完全に論証されたとは言い難いですが、それでも「関東王朝の伝承」の可能性がある史料は複数見つかっているわけです。
 或いは、大和は「関西八国」には含まれないかもしれません。無論、山背も関西八国に含まれていない可能性もあります。
 さらに、「2」について言わせていただくと、河内戦争の後に66国に分割されたということは、やはり河内戦争以前に山背国の境界は明確に決まっていません。そして、河内戦争の記事には「国司」の用語が用いられていますから、可能性としては富川さんや古賀さんが想定しているよりも後世の記事の可能性があるのです。
 このように、まだ十分に論証が尽くされたとはいえない仮説を論拠に「考えられません」と言われることには、疑問があります。
(つづく)


第1892話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(1)

 FaceBookと「洛中洛外日記」で連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」を読んだ日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良市)からFaceBookにコメントが寄せられ、問答が続きました。
 日野さんは奈良大学の学生さんで国史を専攻する古田学派内でも気鋭の若手研究者です。今回、寄せられた質問やわたしの見解への鋭い疑問の提起など、学問としてもハイレベルで深い洞察力に裏付けられたものでした。その二人のやりとりを「河内戦争」問答と銘打って「洛中洛外日記」でご披露することにしました。もちろん日野さんの了承もいただいています。
 まずは発端となった日野さんからの質問とわたしの返答の序盤戦を転載します。

2019.05.09【日野さんからの質問】
 一応、「この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。」という部分については、古田学派でも統一見解とは言えないと思います。近畿天皇家の勢力範囲については、初期からずっと議論があり今でも決着を見ていないと思います。
 大和と山城の境界が確定したのは恐らく多利思北孤の時代である(それ以前には山背の一部が大和に編入されていた可能性も否定できない)わけですし。

2019.05.10【古賀の返答】
 日野さん、コメントありがとうございます。
 冨川ケイ子さんの論文「河内戦争」において、タリシホコの九州王朝が摂津・河内を制圧する前の当地の権力者は関西八国の支配者であり、それは近畿天皇家の勢力でもないとされています。わたしは冨川説は有力と考えており、それであれば山城国が近畿天皇家の影響下となるのは七世紀第四四半頃と考えています。壬申の乱以降ではないでしょうか。
 河内戦争の勝利後に九州王朝は全国を66国に分国したものと思いますが、いかがでしょうか。
(つづく)


第1873話 2019/04/12

条坊都市「難波京」7世紀第3四半期造営説

 前期難波宮が7世紀中頃の造営とする説は考古学界では通説となり、文献史学との整合からそれは孝徳紀白雉3年(652年、九州年号の白雉元年)とする理解が最有力とされています。
 他方、その難波京が条坊都市であったのかどうかについて、当初は条坊はなかったと考えられてきました。その後、上町台地の方角地割りの痕跡が地図上に復元できることから、聖武天皇の後期難波宮の頃には条坊が存在していたとする説が有力となりました。そして近年では発掘調査が進み、条坊の痕跡が複数出土したことにより、難波京が条坊を有していたことは決定的となりました。ところが、その条坊の造営年代については積山洋さん(大阪歴博)らの発掘調査報告では天武朝の頃、すなわち7世紀第4四半期とする説が考古学者の間では有力説とされてきました。
 わたしは文献史学に基づく論理的解釈の結果、前期難波宮は条坊を持つ宮殿であり、その成立を前期難波宮造営時期の頃からとする説を発表してきました(「洛中洛外日記」684話 条坊都市「難波京」の論理)。その理由は次のような論理性によるものでした。

1.7世紀初頭(九州年号の倭京元年、618年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。

2.従って7世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。

3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(14朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。

4.以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 このような理由により前期難波宮は条坊を持った九州王朝の副都(複都)であり、前期難波宮造営と同時期に条坊も造営を開始されていたと考えてきました。ところが、このわたしの仮説を支持するような考古学論文が難波編年を提案された考古学者、佐藤隆さん(大阪歴博)から本年3月に発表されていたのです。それは「古代難波地域における開発の諸様相 -難波津および難波京の再検討-」(『大阪歴史博物館 研究紀要』第17号、平成31年3月)です。
 同論文冒頭に記された「要旨」には次のように記されています。

 「(前略)難波遷都の後、難波京の地割が成立する時期は天武朝(7世紀第4四半期)とこれまで考えられてきた。それに対して、本論は7世紀第3四半期に遡る可能性を指摘するとともに、遷都前に見られた都市化の影響を受けながらさまざまなかたちの開発によって地割が形成され、それらが中世につながっていく流れを考察した。」(7頁)

 最後の「むすびにかえて」では、次のように結論づけられています。

 「一方、難波京として認識できる地割は、前期難波宮が造営されてその求心力を保っていた難波Ⅲ新段階(7世紀第3四半期)には設計されており、一部では竣工も行われていたことを今回明らかにできたが、難波Ⅳ古・新段階(7世紀第4四半期〜8世紀第1四半期)にはその地割の一部は居住区の区画ではなく新たに拓いた耕作地への灌漑に用いられた可能性がある。」(21頁)

 このように、今回発表された佐藤論文は、考古学分野の研究成果により、前期難波宮の条坊(地割)が前期難波宮造営直後から設計・一部竣工していたとするもので、わたしの仮説と整合しています。文献史学に基づくわたしの論理展開(論証)が、考古学的事実(実証)により支持されたと言えるのではないでしょうか。


第1872話 2019/04/10

前期難波宮南面〝宮の大垣〟が出土

 本年4月に発行された『葦火』193号(大阪文化財研究所発行)に、前期難波宮の南限を示す前期難波宮南面「宮の大垣」出土の報告が掲載されていました。高橋工さんによる「前期難波宮南面〝宮の大垣〟を発見」という記事です。
 前期難波宮は1993年に「朱雀門」が発見され、その位置が南限と推定されていました。その後、1997年には朱雀門の真西295mの位置から掘立柱塀が出土し、今回はその中間地点から東西に並んだ6個の柱穴が出土しました。その柱穴は新旧3個ずつのセットですが、古い柱穴3個の間隔は2.92mであり、前期難波宮造営尺の1尺(0.292m)の10尺に相当することも判明しました。従って、前期難波宮の宮域を囲む塀が正確な間隔で造営されていたことがうかがえます。
 今回の発見により前期難波宮宮域の西面と南面は塀(柱穴)の出土により確定できたのですが、北と東はまだ確定できていません。しかし、前期難波宮宮域の東西幅は600mを超えることとなりました。大阪城築城によるお堀の掘削のため、内裏や宮域北限は不明ですが、今後の東方官衙の発掘調査により東面の塀の出土が期待されます。
 なお、この「宮域」という概念ですが、各都城の「宮域図」を見ますと、統一されていないようです。最も雑なものに太宰府宮域図があります。大宰府政庁を中心に東西に長い長方形の線で「宮域」と紹介する図面があるのですが、その中には丘や谷が含まれており、前期難波宮のような宮殿や官衙・倉庫群を含む「平地」ではありませんし、ましてや宮域をとり囲む塀や柵の出土を意味する「線」でもありません。ですから、都城の規模などを比較するとき、各「宮域」の面積比較として、丘や谷を含む大宰府政庁の「宮域」と称される〝誰かが地図上に引いた線で囲まれた面積〟を使用するのは学問的に無意味であり、はっきり言って誤りです。極端な例ですが、東京タワーと東京スカイツリーの規模を比較するのに、それぞれが立地する港区と墨田区の面積で比較するようなものだからです。
 都城や宮殿の規模の比較には、同じ概念どうしでの比較が当然のことです。たとえば前期難波宮のように出土事実に基づく塀(柱穴)で囲まれた「宮域」か、出土事実に基づく回廊で囲まれた朝堂院や正殿・内裏の面積で比較するのが恣意性が少なく学問的です。この点、大宰府政庁を九州王朝の王宮と見なす古田学派の研究者には特に留意を促しておきたいと思います。


第1862話 2019/03/19

「複都制」から「両京制」へ

 本日は「市民古代史の会・京都」の講演会で正木裕さんが「聖武天皇も知っていた 失われた九州年号」というテーマで講演されました。初めて九州年号というものを知った参加者も少なくなく、好評でした。
 講演前に、前期難波宮を九州王朝の「複都」とするアイデアについて、正木さんの意見を求めたところ、「両京制(dual capital system)」と呼んでもよいのではないかと言われました。これは虚を突かれたような提案であり、なるほどと思いました。正木さんの見解はわたしの複都制よりも更に一歩進んで、太宰府や前期難波宮(難波京)の実態(条坊を持つ「京」)を明確に表した呼称であり、「複都(multi-capital city)」よりも「両京(dual capital city)」のほうがより正確な表現のように思いました。
 実は「複都制」も「両京制」も、古田先生が既にその存在を指摘されています。はやくは『失われた九州王朝』(第5章の「遷都論」)に九州王朝の遷都を示唆する記述があり、講演会でも「天武紀」に見える「信濃遷都計画」について言及されていました。たとえば『古田史学会報』No.32(1999年6月3日)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です。

【以下、転載】
 二つの確証について
  --九州王朝の貨幣と正倉院文書--
(前略)この銭(冨本銭のこと:古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理しか根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうとし、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)
【転載終わり】

 「両京制」についても、『古田史学会報』36号(2000年2月)で「『両京制』の成立 --九州王朝の都域と年号論--」を発表され、七世紀前半における九州王朝の太宰府と筑後の「両京制」について論じられています。
 このように古田先生は早くから九州王朝の複都制を前提とした「両京制」の存在を指摘されておられますから、同様に七世紀後半における「太宰府」と前期難波宮(難波京)を「両京制」と見なす正木さんのご意見は妥当なものと思われるのです。


第1861話 2019/03/18

前期難波宮は「副都」か「複都」か

 わたしがこの「洛中洛外日記」を続けるにあたっては、多くの読者や事前に原稿チェックをしていただいているスタッフに支えられています。中でも加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からはいくつもの貴重なご意見やご指摘もいただいています。最近も前期難波宮九州王朝副都説に対して、「副都(secondary capital city)」なのか「首都(capital city)」なのか、そろそろ古田学派の研究者間で見解を統一してはどうかとのご意見をいただきました。良い機会ですので、わたしが前期難波宮を九州王朝の「副都」とした理由やその問題点、そして改良案などについて説明したいと思います。
 前期難波宮が近畿天皇家の宮殿ではなく、九州王朝の宮殿ではないかとする仮説に至ったとき、それをどのように表現すべきかについてかなり考えました。七世紀段階における九州王朝の首都が「太宰府」とする点については古田先生を始め、古田学派のほとんどの研究者も一致した見解でした。また、中国史書に見える倭国伝などにおいて、九州王朝(倭国)の都が移動(遷都)したような痕跡が見当たらないことから、九州王朝は滅亡するまで「太宰府」を首都としていたと考えざるを得ません。この点、古田先生も同見解でした。そこで、わたしは前期難波宮を九州王朝の「副都」と見なすことにしたわけです。
 ところが前期難波宮九州王朝副都説の発表後、この仮説を支持する正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)や西村秀己さん(『古田史学会報』編集担当、高松市)から、前期難波宮は九州王朝の「首都」と見なすべきではないかという意見が出されました。この前期難波宮首都説に対して、わたしはそれが有力説であることを認めながらも、全面的に賛成できないまま今日に至っています。その理由は先に述べたように、中国史書の倭国伝などに倭国が遷都したとする痕跡が見えないことでした。
 他方、前期難波宮で大規模な白雉改元の儀式が行われていることや、その宮殿や官衙の規模が国内最大であることなどから、「副都」とするよりも「首都」と見なすべきと言う意見に反対しにくいとも感じていました。そうした学問的に断定できない中途半端な状況が続いていたときに、加藤さんからのご意見が届いたのでした。
 そこで、「副都」とも「首都」とも断定できないこの状況をうまく表現する方法はないかと考えた結果、一つの妙案が浮かびました。それは前期難波宮九州王朝「副都(secondary capital city)」説ではなく、九州王朝「複都(multi-capital city)」説という表現に変更することでした。これであれば、前期難波宮を「首都」とも「副都」とも見なせる表現であり、学問的断定がまだできない状況にあっても、穏当な表現だからです。すなわち、七世紀初頭頃から九州王朝(倭国)の都は太宰府であったが、七世紀中頃には複数の都を持つ「複都制(multi-capital system)」を採用したとする仮説になるのです。
 はたして、この〝問題の先送り〟のような案が古田学派内で支持を得ることができるかどうか、学問的に妥当なものか、皆さんのご意見をお待ちしています。


第1839話 2019/02/17

難波宮整地層出土「須恵器坏B」の真相(補)

 「洛中洛外日記」で連載した表題のテーマについて、学術論文とするために加筆削除修正などを行い、『古田史学会報』に投稿しました。特に論証上必要な次の「注」を加えましたので、ご参考までに転載します。

【以下、転載】
③『難波宮址の研究 研究予察報告第四』掲載須恵器「35」と『難波宮址の研究 研究予察報告第五 第二部』掲載須恵器[7]が同じ土器であると判断したのは次の資料事実等による。
(a)それぞれの図版を比較すると、両土器のサイズや形態が近似している。
(b)『研究予察報告第四』には発掘調査地区名(出土地)を「第十二次北地区」としている。他方、『研究予察報告第五』では「第十四次東地区(第十二次北地区)」と併記されており、「第十二次北地区」と「第十四次東地区」が同じ場所であることを示している。
(c)『研究予察報告第四』には須恵器「35」以外に子持勾玉「37」が掲載されているが、その勾玉と同型同サイズで破損箇所も同じ子持勾玉「6」が『研究予察報告第五』に掲載解説されている。このことから、『研究予察報告第四』では解説無しで実測図に掲載された出土物が『研究予察報告第五』で再録解説されていることがわかる。同様の再録遺物はこの他にも見える。
 このように『研究予察報告第四』の実測図に解説無しで掲載された須恵器「35」などを、次号の『研究予察報告第五』で再録解説した事情について、両報告書の執筆者である中尾芳治氏に確認したいと考えている。