難波朝廷(難波京)一覧

第1800話 2018/12/07

「須恵器坏B」の編年再検討について(5)

 藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』に記された大宰府政庁Ⅰ期整地層から出土した須恵器坏Bの存在を知ったとき、わたしは太宰府条坊都市の造営を九州年号「倭京元年(618)」とする研究を発表していたこともあり、須恵器坏Bを7世紀前半とできるだろうかと真剣に考えました。その研究過程で知ったのが前期難波宮整地層出土の坏Bの存在でした。7世紀中頃(孝徳期)に造営された前期難波宮の整地層からの出土ですから、その頃以前に同坏Bは製造されたことになり、従来は7世紀後半の出現と考えられてきた須恵器坏Bの編年の再考を促すものでした。
 もし、前期難波宮整地層出土須恵器坏Bと同様に大宰府政庁Ⅰ期出土坏Bも7世紀中頃以前までに遡ることができれば、太宰府条坊都市も7世紀前半頃とできるかもしれません。九州王朝史研究において、その都の造営年代の研究は不可欠です。今回の検討の結果、須恵器坏Bの編年見直しが九州王朝説にとって重要なテーマとして浮かび上がってきました。太宰府出土須恵器の本格的な見直しが必要です。


第1799話 2018/12/06

「須恵器坏B」の編年再検討について(4)

 本連載では、佐藤隆さんによる「難波編年」とそれに基づく前期難波宮孝徳期造営説が最有力説としてほとんどの考古学者に支持されていることと、天武期造営説を発表された小森俊寬さんの論法や論証が学問的に成立していないことを縷々説明してきました。その結果、7世紀後半の指標土器とされてきた須恵器坏Bの発生時期についての再検討が必要となったことを明らかにしました。この点について具体的事例により説明します。
 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』で紹介された『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)記載の前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、その発生時期が7世紀中頃以前にまで遡る可能性に気づいたわたしは、大宰府政庁Ⅰ期から出土した須恵器坏Bのことを思い出しました。
 7世紀における九州王朝(倭国)の都がおかれた太宰府には条坊都市の北端に大宰府政庁遺構があります。政庁遺構は3段階にわかれており、最も古い政庁Ⅰ期遺構は比較的小規模な掘っ立て柱建物で、通説では天智期(662〜671年)の造営とされています。Ⅱ期は礎石を持つ瓦葺きの朝堂院様式の宮殿で、通説では『大宝律令』による「大宰府」とされ、8世紀初頭の造営とされています。現在、地表に残されている礎石はⅢ期のもので、平安時代(10世紀)の造営とされています。なお、Ⅰ期は「新・古」の二段階があります。
 政庁Ⅰ期が天智期とさた考古学的根拠はその整地層から出土した須恵器坏Bでした。他方、太宰府市の考古学者、井上信正さんの研究などから太宰府条坊は政庁Ⅰ期の時代(天智期〜8世紀初頭)の造営と見られており、7世紀末頃の藤原京造営と同時期とされました。すなわち、政庁Ⅰ期や条坊都市の造営は7世紀末頃であり、7世紀前半には遡らないというのが考古学者の判断です。
 他方、古田学派内では大宰府政庁や条坊都市を古く考える研究者が多く、わたしも文献史学の分野から太宰府条坊都市の造営開始時期を7世紀前半頃、政庁Ⅱ期の宮殿や観世音寺の創建を670年頃(白鳳年間、661〜684年)とする研究を発表してきました。しかし、この説には出土土器編年と対応していないという弱点がありました。その象徴的土器が政庁Ⅰ期整地層から出土した須恵器坏Bでした。7世紀後半の指標とされてきた須恵器坏Bの存在は自説にとって不都合な出土事実でした。ちなみにその坏Bは藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)の出土土器の図(229頁)に紹介されています。(つづく)


第1798話 2018/12/05

「須恵器坏B」の編年再検討について(3)

 著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』において天武期造営説を提起された小森俊寬さんですが、そこに前期難波宮整地層出土として紹介された須恵器坏Bにわたしは強く関心を抱き、その出典を調査しました。それらは次の報告書とされ、幸いにも大阪歴博の図書室(なにわ歴史塾)にてすべて閲覧することができました(同館担当者の方が親身になって出典を探してくださいました。有り難いことです)。

『難波宮址の研究』昭和36年大阪市教育委員会1961年
『難波宮址の研究』昭和40年大阪市教育委員会1965年
『難波宮址の研究 第七』大阪市文化財協会1981年
『難波宮址の研究 第八』大阪市文化財協会1984年

 収録された図版を中心に調査したのですが、なかなか問題の坏Bが見つかりませんでした。ようやく見つけたのが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)にあった「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」の「Ⅱ層(難波宮整地層)出土」と解説されている1個の坏B「35」でした。高台(脚)があり、底部が丸みを帯びている比較的初期の須恵器坏Bでした。念のため、大阪歴博学芸員の寺井誠さん(土器の専門家)にも見ていただいたところ、間違いなく坏Bであり、比較的古いもので奈良時代までは下らないとのことでした。
 この出土事実が正確であれば、先に説明したように7世紀中頃造営の前期難波宮整地層から出土したことになり、これまで7世紀後半の指標土器とされてきた須恵器坏Bの発生時期の見直しが必要となります。もし、坏Bの発生時期が7世紀中頃以前にまで遡ることになれば、坏B出土を根拠に7世紀後半以後と編年されてきた諸遺構の見直しも必要となる可能性があります。(つづく)


第1797話 2018/12/04

「須恵器坏B」の編年再検討について(2)

 ほとんどの考古学者が「難波編年」による前期難波宮孝徳期造営説を支持しているのですが、少数の反対意見も出されました。天武期造営説を提起された小森俊寬さん(元・京都市埋蔵文化財研究所)もその一人でした。小森さんは著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)で、次のように述べられています。

 「考古学的方法で、これらの土器類が出土している整地土層の年代を特定するのであれば、量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用することが原則である。(中略)遺構理解の原則に立脚するならば、新相の土器群を根拠として、整地土層の形成年代は、7世紀後葉頃と位置付けざるをえない。」(92〜93頁)

 これを簡略にまとめると、次のような主張となります。

①遺構から出土した最も新相の土器の編年をその遺構の時代とするのが考古学的原則である。
②前期難波宮整地層から天武期の須恵器坏Bが出土している。
③従って、前期難波宮造営は天武期である。

 しかし、この論が成立するためには、当該須恵器坏Bが天武期より前には存在しないという不存在の証明(悪魔の証明)が必要です。しかし、そのような証明はなされていませんし、そもそもできないでしょう。従って、小森さんの上記の三段論法は論理的に成立していないのです。
 更に指摘するならば、現代の考古学土器編年において採用されている方法は、小森さんの「量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用することが原則」というような単純なものではありません。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)も指摘されたことですが、通常、7世紀の遺構からは新旧の様式の土器が併存して出土することが一般的であるため、各様式の土器の「量の多少」によって比較編年する方法が採用されています。しかもこの場合、各土器に「製造年月日」が記されているわけではありませんから、遺構間の相対編年とならざるを得ません。この点について具体例を示して説明します。

 ①前期難波宮整地層から出土する指標となる須恵器坏は古墳時代から続く古いタイプの坏Hとその後に出現した坏Gからなります。小森さんの指摘によっても最新型の坏Bあるいは坏Bの蓋の可能性がある土器の出土は数えるほどしかありません。この各坏の「量の多少」の状況(比率)が前期難波宮整地層(造営時期)の「様相」となります。
 ②次いで前期難波宮完成後のゴミ捨て場の第16層(前期難波宮の時代)の出土土器は坏Hと坏Gと共に坏Bが見られるようになります。この各坏の共伴状況が前期難波宮が存在していた時代(『日本書紀』によれば652〜686年)の「様相」となります。
 ③更に新しい藤原宮整地層からの出土須恵器は坏Bが主流です。同整地層から出土した干支木簡により、その整地時期が天武期(672〜686年)の後半頃(680年代)であることが判明しています。従って、「坏B主流」がその頃の「様相」となります。
 ④このように7世紀の遺構から併存して出土する各須恵器坏の「量の多少」(比率)に着目して各遺構の相対編年を行うのが現在の考古学の原則であり方法です。ちなみに、古田先生は30年ほど前からこの編年方法を採用すべきと主張されていました。
 ⑤小森さんのように「量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用」するという方法は、今回のケースでは、坏Bの発生が天武期からと確定しており、孝徳期には存在しないという不存在証明(悪魔の証明)が可能であって始めて成立することです。このような証明ができるはずもなく、小森さんの方法とその結果としての前期難波宮天武期造営説は学問的に成立しません。

 しかし、真の問題はここから始まります。それでは須恵器坏Bの発生時期はいつ頃なのか、坏Bの出土を根拠として7世紀後半とされてきた諸遺構の編年は妥当なのかという問題です。(つづく)


第1796話 2018/12/03

「須恵器坏B」の編年再検討について(1)

 連載した前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1〜3)の結論として、従来7世紀後半の指標とされてきた「須恵器坏B」の編年再検討が必要であり、7世紀中頃か前半頃まで遡る可能性について論究しました。
その説明について、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、わかりにくいとのご指摘がありました。読み直して見ると、確かにわかりにくいので、改めてその論理展開の道筋を説明したいと思います。わかりやすいように箇条書きにします。

 ①大規模な水利施設が難波宮の西側の谷から出土し、井戸がない難波宮のための水利施設とされた。
 ②同水利施設整地層や造営時の層位から大量の須恵器が出土し、それは坏Hと坏Gであり、7世紀後半と編年される坏Bは出土しなかった。
 ③その出土須恵器の編年と全体的な様相(GとHの出土量の割合など)から、水利施設の造営は従来の土器編年によって7世紀中頃とされた。
 ④それらの土器は兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「白雉元(三)壬子年(652)」木簡に共伴した土器と同段階である。このことにより土器と暦年がリンクでき、7世紀中頃造営説は説得力を増した。
 ⑤水利施設から出土した木枠(桶)の年輪年代測定値により、伐採年が634年とされ、出土土器の編年と一致した。このことも土器と暦年とのリンクを支持し、7世紀中頃造営説は更に説得力を増した。
 ⑥これら水利施設の出土事実と暦年とのリンクにより、前期難波宮の造営時期も7世紀中頃とされた。
 ⑦前期難波宮完成後のゴミ捨て場として使用された北側の谷から「戊申年(648)」木簡が出土した。この干支木簡の出土により、前期難波宮の造営が7世紀中頃であり、完成後に同木簡が廃棄されたと理解された。「戊申年(648)」は天武期(672〜686年)とは20年以上離れており、どこかで20年以上保管されていた「戊申年(648)」木簡が天武期になって廃棄されたとしなければならない天武期造営説では説明しにくく、同木簡の出土は孝徳期造営説に有利である。
 ⑧その後、前期難波宮北側から出土した柱の最外層の年輪セルロース酸素同位体年代測定値(583年、612年)が7世紀前半造営説に有利であることも判明した。これら理化学的年代測定はいずれも7世中頃造営を支持し、理化学的年代測定による7世紀後半(天武期)とする遺物は今日に到るまで出土していない。
 ⑨こうして考古学的に確立した前期難波宮7世紀中頃造営説に対応する文献事実として、『日本書紀』孝徳紀白雉三年条に見える「巨大宮殿」完成記事と前期難波宮を結びつけることが可能となった。通説ではこれを「難波長柄豊碕宮」のこととする。
 ⑩こうした経緯から、ほとんどの考古学者が「難波編年」とそれに基づく前期難波宮孝徳期造営説を支持するに到った。

 以上のような緻密な考古学的・理化学的知見の積み上げにより、前期難波宮孝徳期造営説が成立しました。この説が『日本書紀』孝徳紀白雉三年の造営記事を無批判に「是」として、その立場から出発したものではないことが、「難波編年」の最大の強みだとわたしは理解しています。(つづく)


第1795話 2018/12/01

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(3)

 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』に記された前期難波宮整地層出土土器の図38(91頁)に見える須恵器坏Bが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)に掲載されていることを確認したわたしは、その須恵器坏Bが7世紀後半に編年されてきたものであることに驚くとともに、それとよく似た須恵器が大宰府政庁Ⅰ期整地層から出土していたことを思い出しました。
 藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)に掲載されている出土土器の図(229頁)によれば、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から須恵器坏Bが出土しています。この土器が前期難波宮整地層出土とされた『難波宮址の研究』記載の土器とよく似ているのです。この前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、坏Bの発生が7世紀中頃か前半にまで遡ることになるのですが、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から出土した坏Bがそれによく似ていることから、従来は7世紀第3四半期頃とされていた大宰府政庁Ⅰ期古段階が第2四半期頃まで遡るかもしれないのです。
 大宰府政庁遺構は三期に分かれており、最も古い掘立て柱建物からなる政庁Ⅰ期は天智期(7世紀第3四半期)、礎石造りの朝堂院様式のⅡ期は8世紀初頭の造営とされてきました。その上で、観世音寺や政庁Ⅱ期よりも条坊都市の成立が早いとする井上信正説の登場により、条坊の造営は藤原京と同時期の七世紀末頃となりました。
 文献史学によるわたしの研究では、太宰府条坊都市の成立は7世紀前半頃なのですが、出土する土器は古くても7世紀後半のものでした。ですから、文献史学による7世紀前半説と考古学による7世紀後半とする出土事実が対応していないという問題がありました。ところが、前期難波宮整地層から出土した坏Bの存在により、整地層から同類の坏Bが出土した大宰府政庁Ⅰ期古段階を7世紀前半にできる可能性が生まれたのです。この大宰府政庁Ⅰ期は条坊と同時期の造営とする井上信正説によれば、条坊成立も7世紀前半とできる可能性があることになります。
 須恵器坏Bの発生時期をどこまで遡らせることができるのか、現時点では不明ですが、従来、7世紀の第3四半期頃の発生とされてきた坏Bが第2四半期まで遡ることは、7世紀の須恵器編年の見直しが必要であることを意味します。とても重要な問題ですので、結論を急がず、引き続き調査検討することにします。


第1794話 2018/11/30

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(2)

 小森俊寬さんの著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)に記された前期難波宮整地層出土土器の図38(91頁)には、明確に須恵器坏Bと思われるものが5点あります。この他に同蓋とされるものが4点記されていますが、本当に坏Bの蓋かどうか図からは判断しにくいように思われました。そこで容器本体部分の図を調査しました。同書の文献一覧によれば、図示された須恵器坏Bの出典は次の四書です。

『難波宮址の研究』昭和36年大阪市教育委員会1961年
『難波宮址の研究』昭和40年大阪市教育委員会1965年
『難波宮址の研究 第七』大阪市文化財協会1981年
『難波宮址の研究 第八』大阪市文化財協会1984年

 大阪歴博の図書室「なにわ歴史塾」にてこれら全てを閲覧することができましたが、小森さんが示された須恵器坏Bの図がなかなか見つかりませんでした。わたしの調査が不十分だったのかもしれませんが、『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)の図版に記された一つだけを見つけることができました。それは「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」の最下段にあり、「35」とナンバリングされた土器です。「Ⅱ層(難波宮整地層)出土」と説明されていますから、難波宮整地層から出土した須恵器坏Bと見て問題ありません。掲載された他の須恵器は坏HかGのようでした。念のため、同館学芸員の寺井誠さんに見ていただいたところ、須恵器坏Bで間違いなく、その形状からみて比較的古いタイプで、奈良時代までは下がらないとのことでした。
 この昭和36年の報告書に記された須恵器坏Bを見て、わたしはとても驚きました。従来の須恵器編年によればどう見ても7世紀後半に属する様式だったからです。そして、わたしはこの須恵器坏Bに似た土器をどこかで見たことがあることに気づきました。もしかすると、この土器は7世紀の遺構の編年に大きな見直しを迫るかもしれないと思ったのです。(つづく)


第1793話 2018/11/30

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1)

 前期難波宮の造営を天武朝期とした研究者のお一人が小森俊寬さん(元・京都市埋蔵文化財研究所)でした。小森さんの著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)には、次の論法により前期難波宮を天武朝期の造営とされました。

①遺構から出土した最も新相の土器の編年をその遺構の時代とするのが考古学的原則である。
②前期難波宮整地層から天武朝期の須恵器坏Bが出土している。
③従って、前期難波宮造営は天武朝期である。

 このように簡単明瞭な論法により小森説は成り立っていますが、わたしの目から見ると、①の論が成立するためには、当該土器の発生時期を科学的学問的に証明しなければなりませんし、それ以前には存在しないという不存在の証明(悪魔の証明)も必要です。しかし、そのような証明などできないと思います。従って、小森さんの三段論法はその初めからして成立していないのです。
 他方、難波編年を提起された佐藤隆さん(大阪文化財研究所)は『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月、大阪市文化財協会)において次のように結論づけられています。

 「難波Ⅲ中段階には前段階の土器様相がいっそう明らかになる。(中略)年代は前後の土器様相が新しい資料の増加によって明らかになってきており、7世紀中葉から動くことはない。前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたものであり、『日本書紀』の記載に基づいてこの時期に起こった最も重大な出来事と結びつければ、前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力であることを今回あらためて確認することができた。」(264頁)

 わたしは佐藤さんの難波編年と前期難波宮孝徳期造営説を支持していますが、それでは小森さんの説は学問的に無意味かというと、そうではありません。小森さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』で紹介された前期難波宮整地層の須恵器坏B出土が事実なら、それはそれで学問的に大きな意味を持つのではないかと考えられるからです。(つづく)


第1790話 2018/11/22

前期難波宮出土「須恵器坏B」の解説(2)

 前期難波宮の造営時期を天武期とする論者の根拠とされたのが、前期難波宮整地層から須恵器坏Bが出土しているということでした。この点について、難波編年を提起された佐藤隆さんは『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月、大阪市文化財協会)において次のように述べられています。

 「難波Ⅲ
 (前略)須恵器の坏Hは法量が縮小する。新しい器形として坏Gが現れ、次第に坏Hを凌駕する。遅れて坏Bが加わるが、まだ初源的な形態である。古・中・新の3段階に細分する。
 古段階は(中略)須恵器坏Hは受部径11〜12cm代(ママ)のものが中心で、底部・天井部はヘラ切り後不調整のものがほとんどとなる。また、わずかながら坏Gが現れる。
 中段階はNW100次SK10043[大阪市文化財協会1981A]・本調査地SK223[大阪市文化財協会1992]出土土器や、本書で報告した水利施設に関連する第7層に含まれていた土器を標識資料とする。(中略)須恵器の食器類では、坏Hと坏Gの比率は前者が少し多い。坏G蓋には口縁部径がひとまわり大きなものがあり、法量分化が認められる。須恵器坏B・同蓋は可能性のある蓋1点(本書の394)を除いて、これまでまったく見つかっていない。
 新段階は(中略)須恵器の食器類は坏Gが大半を占め、坏Hはわずかである。いずれも前段階と比べると法量が縮小している。ひとのまわり大きな坏Gの蓋がここでも存在する。坏Bはこの資料には含まれていない。
 最近の府センター調査において、「戊申」紀年銘を含めて33点の木簡(可能性のあるもの)とともに良好な資料が出土した。本調査地から北へ150mの地点にある別の谷で、その埋土である16層からである。(中略)須恵器では、坏H・Gとも口縁部径が小さい。破片を概観したかぎりでは坏Gが多い。坏B・同蓋が一定量存在する。坏Bの高台は壺や高坏の脚と同じつくりで、初現(ママ)的な形態である。」(258〜259頁)

 このように前期難波宮造営期に相当する「難波Ⅲ中」からは「須恵器坏B・同蓋は可能性のある蓋1点(本書の394)を除いて、これまでまったく見つかっていない」と断言されています。この「可能性のある蓋1点」にしても径が通常の坏Bよりも大きく、同じ層位から出土した大型椀の蓋の可能性も示唆されています。この蓋について大阪府文化財センターの江浦洋さんにもおたずねしたところ、「通常の坏Bよりも大型であり、坏Bの範疇には入らない」との見解でした。
 確実に須恵器坏Bとされる土器は前期難波宮完成後の時期に相当する「難波Ⅲ新」になってようやく出土しますが、それにしても「初現(ママ)的な形態」とされています。従って、前期難波宮整地層から須恵器坏Bが出土したとすることに基づいて造営時期を天武期とする説は根拠そのものが脆弱だったようです。同書において佐藤さんは次のように結論されています。

 「難波Ⅲ中段階には前段階の土器様相がいっそう明らかになる。(中略)年代は前後の土器様相が新しい資料の増加によって明らかになってきており、7世紀中葉から動くことはない。前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたものであり、『日本書紀』の記載に基づいてこの時期に起こった最も重大な出来事と結びつければ、前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力であることを今回あらためて確認することができた。」(264頁)

 「前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力」という意見には賛成できませんが(前期難波宮は大阪市中央区で「長柄豊碕」は北区に位置し、場所が異なる。わたしは前期難波宮=九州王朝副都説です)、難波Ⅲ古段階が7世紀中葉から動くことはなく、前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたという点は大賛成です。


第1789話 2018/11/22

前期難波宮出土「須恵器坏B」の解説(1)

 七世紀の土器編年の基準土器としてよく使用されるのが「須恵器坏(すえきつき)」と呼ばれるもので、主な様式に須恵器坏H、坏G、坏Bがあります。より古いタイプが須恵器坏Hで古墳時代から七世紀中頃まで続いている、いわばロングラン土器です。これは碁石の容器のような形状で、蓋にはつまみがなく、底には現代のお茶碗にあるような「脚」はありません。次いで七世紀前半頃から出現するのが坏Gで、これは坏Hの蓋の中央につまみがついたタイプです。蓋の開け閉めに便利なようにつまみが付けられた進化形です。更にこの坏Gの底に「脚」がついたものが最も新しい坏Bで、七世紀後半から出現するとされています。底に「脚」をつけることにより、平らな机や台に置いたときに安定感がありますから、須恵器坏の最進化形です。
 この様式の進化を利用して須恵器の相対編年が可能となり、出土層位や出土遺構の編年に用いられます。さらにその各様式内の細部の変化を利用してより細かな相対編年も可能とされています。たとえば、須恵器坏は大きさ(法量)が時代と共に小さくなるという傾向があり、その大きさの差を利用して同様式内の土器の相対編年に利用されています。
 また、蓋と容器の「かみ合わせ」部分のタイプも相対編年に利用されています。より古いタイプは蓋が大きく容器の上から包み込むようにかぶせる、いわばお弁当箱のような構造になっています。ところがどんぶりの蓋のように、容器よりも蓋が小さく、容器の内側に蓋をはめ込むタイプがより新しいとされています。このタイプですと暖かいお汁が蒸発して蓋の内側で冷やされ環流しても、水滴が容器の内側に流れ落ちることになり、外側には滴り落ちません。ですから、お弁当箱タイプよりもどんぶりの蓋タイプの方が進化形と見なせるのです。
 このように七世紀は須恵器坏が短期間で進化発展した時代であることから、須恵器坏による相対編年が利用しやすい時代なのです。ところが、そのことでわかるのは相対編年だけですから、それら各須恵器坏をどの実年代(暦年)にリンクするのかという課題が横たわっています。その暦年とのリンクにおいて、考古学者間や地域間で見解が異なることがあり、遺構の編年について異説が出現し、論争となることがあります。その典型的で有名な例が前期難波宮や大宰府政庁の造営年代についての論争です。
 なお、学問研究では異見が出され論争となることは良いことで、〝学問は批判を歓迎〟します。古田先生も繰り返しわたしたちに言われてきたように、「師の説にななづみそ」(本居宣長)は学問の金言です。そして何よりも、「学問は自らが時代遅れとなることを望む領域」(マックス・ウェーバー)なのですから。(つづく)


第1787話 2018/11/20

佐藤隆さんの「難波編年」の紹介

 前期難波宮の造営時期をめぐって孝徳期か天武期かで永く論争が続きましたが、現在ではほとんどの考古学者が孝徳期造営説を支持しています。その根拠とされたのが佐藤隆さんが提起された「難波編年」でした。この佐藤さんによる「難波編年」は多くの研究者から引用される最有力説となっています。
 ただ、その論文が収録された『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月 大阪市文化財協会)はまだWEB上に公開されていないようで、研究者もなかなか見る機会がないと思われます。わたしは京都市に住んでいることもあり、大阪歴博の図書館(なにわ歴史塾)で同書を閲覧することが容易にできます。そこで、同書に記された前期難波宮造営年代に関する「難波編年」のキーポイントをここで紹介することにします。研究者の皆さんのお役に立てば幸いです。
 佐藤さんが同書で「難波編年」を論じられているのは「第2節 古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」です。佐藤さんは出土土器(標準資料)の様式により「難波Ⅰ〜Ⅴ」と五段階に分類され、更にその中を「古・新」あるいは「古・中・新」と分類されました。そして前期難波宮造営期頃の土器(SK223・水利施設7層)を「難波Ⅲ中」と分類され、暦年代として「七世紀中葉」と編年されました。その編年の根拠として次の点を挙げられています。

①飛鳥の水落遺跡出土土器(667-671年)よりも確実に古い。
②水利施設出土木枠の板材の伐採年代が年輪年代測定により634年という値が得られている。
③兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「白雉元(三)壬子年(652)」木簡に共伴した土器が同段階である。
④655年には存在した川原宮の下層出土土器と同段階。

 ここで注目すべきは、前期難波宮を『日本書紀』孝徳紀に見える白雉三年(652)造営の宮殿とすることを自らの編年の根拠にあえて入れていないことです。というのも、前期難波宮の造営が孝徳期か天武期かで論争が続けられてきたという背景があるため、『日本書紀』孝徳紀の記述とは切り離して前期難波宮の編年を行う必要があったためと思われます。こうした佐藤さんの姿勢はとても学問的配慮が行き届いた考古学者らしいものとわたしは思いました。わたしが七世紀における「難波編年」の精度を信頼したのも、こうした事情からでした。


第1783話 2018/11/09

九州王朝と大和朝廷の難波と太宰府

 拙稿「前期難波宮は九州王朝の副都」(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)で前期難波宮九州王朝副都説を発表してから十年になりますが、今でも様々なご批判をいただくことがあります。最近でも、〝難波は九州ではない。だから難波に九州王朝の副都などあるはずがない〟という趣旨の批判があることを知りました。
 この種の批判は、わたしが副都説を発表する際に最初に想定したものでした。というよりも、わたし自身が副都説に至る思考の最中に自らに発した問いでもありました。ですから、こうした批判が出ることは当然であり、驚くには及ばないのですが、この種の批判に対してこの十年間に何回も説明・反論してきたにもかかわらず、未だに出されるということに、自らの説明の不十分さを思い知らされました。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えていますので、どのように説明したらこの種の批判に対して効果的かを考えてみました。
 ちなみに今までは次のように説明してきました。

①九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であれば自らの支配領域のどこに副都を置こうが問題はない。
②中国や朝鮮半島諸国・渤海国には副都(複都)を置く例があり、むしろ複都を持つことが当然のようでもある。従って九州王朝(倭国)が副都を置くのは当然でもある。
③新羅の例では、かつての敵地(百済)に副都を置いている。従って、九州王朝が難波に副都を置いても不思議とはいえない。
④『日本書紀』天武紀に信州に「都」を置こうとした記事があり、古田先生はこの記事を九州王朝の「信州遷都計画」とされた。従って、古田説支持者であれば、信州よりも九州に近い難波に九州王朝が副都を置くことはありえないとは言えないはずである。もちろん、学問研究である以上、古田先生と異なる説を唱えることに何も問題はない。わたしの副都説も古田先生の見解とは異なるのであるから。

 以上の説明では納得していただけない方があるため、わたしは新たに次の説明を加えることにしました。

⑤近畿天皇家は列島の代表王朝となった大宝元年に『大宝律令』を制定し、九州島支配のため「大宰府」を置き、難波には摂津職を置いた。
⑥〝福岡県太宰府市は大和(奈良県)ではない。だから大和朝廷が福岡県に大宰府を置くはずがない〟という批判は聞いたことがない。
⑦同様の理屈から、摂津難波に九州王朝が副都を置いたとする説に対して〝難波は九州ではない〟などという批判が成立しないことは当然であろう。
⑧大和朝廷が『大宝律令』に基づき、筑前に「大宰府」を置き、難波に摂津職(後の難波副都)を置いたように、九州王朝が九州王朝律令に基づき太宰府に都を置き、難波に副都(摂津職)をおいたとしても何ら不思議ではない。
⑨大和朝廷は九州諸国を監督する「大宰府」を筑前に置くことができるが、九州王朝は摂津難波に副都を置くことはできないとするのであれば、その理由の説明が必要。

 以上のような新たな説明を考えてみました。これなら理解していただけるのではないでしょうか。もし納得していただけないとすれば、どのような説明が必要なのか、わたしはあきらめることなく考えてみます。〝学問は批判を歓迎する〟のですから。