難波朝廷(難波京)一覧

第2754話 2022/06/04

倭京・難波京・藤原京の研究動向

 「多元の会」でのリモート発表について、同会の和田事務局長から「倭京」に関するテーマを要請されています。すでに同テーマの論稿を執筆済みですので、それを『多元』に発表してからリモートで解説できればと思います。また、同稿は九州王朝説の立場からのものなので、それとは別に通説(一元史観)の研究動向についても紹介したいと考えています。
 近年の「古田史学の会」関西例会論客の主たる関心は、前期難波宮から藤原京へ移っていると感じていますが、通説でも藤原京をテーマとした示唆に富んだ論文が発表されています。いずれも一元史観に基づくものですが、王朝交替の舞台でもある藤原京の時代ですから、問題意識や仮説の方向性が近づいています。古田学派の研究者にも一読をお勧めします。

○寺崎保広・小澤毅「内裏地区の調査―第100次」『奈良国立文化財研究所年報』2000年-Ⅱ、2000年。
○林部 均「藤原京の条坊施工年代再論」『国立歴史民俗博物館研究報告』第160集、2010年。
○重見 泰「新城の造営計画と藤原京の造営」『奈良県立橿原考古学研究所紀要 考古学論攷』第40冊、2017年。


第2753話 2022/06/03

「多元の会」リモート発表会を終えて

 今朝は「多元の会」でリモート発表させていただきました。テーマは〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟で、主に前期難波宮九州王朝複都説に至った理由と、九州王朝(倭国)が採用した倭京と難波京の両京制において、太宰府(倭京)が権威の都であることを中心に解説しました。
 ご質問やご批判もいただけ、新たな問題点の発見や認識を深めることができました。いただいた質問に対しては次のように回答しましたので、一部を紹介します。

《質問》前期難波宮を九州王朝の都とするのであれば、七世紀頃の支配範囲はどのようなものか。
《回答》九州王朝が前期難波宮で評制支配を行った範囲は、出土した「評」木簡の範囲により判断できる。

《質問》七世紀に九州王朝が存在した史料根拠は『旧唐書』以外に何があるのか。
《回答》六世紀から七世紀にかけて九州年号がある。年号は代表王朝の天子のみが発布できるものである。

《質問》天武十二年条の複都詔を34年前とするのではなく、『日本書紀』にあるように天武によるものとすべきではないか。
《回答》わたしもそのように考えてきたが、複都詔は34年前の649年に九州王朝が出した前期難波宮造営の詔勅とすれば、九州年号の白雉元年(652年)に完成した前期難波宮に時期的に整合する。従って正木説(34年遡り説)が有力と考えている。
 ※この点については「洛中洛外日記」1986話(2019/09/10)〝天武紀「複都詔」の考古学〟や『多元』160号(2020年)の拙稿「天武紀『複都詔』の考古学的批判」で詳述しているので参照されたい。


第2744話 2022/05/19

久留米大学公開講座(6月26日)のレジュメ完成

 6月26日(日)の久留米大学公開講座のレジュメがようやく完成し、本日、大学事務局に提出しました。演題は〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟です。この九州王朝(倭国)の両京制というテーマは近年ようやく到達できた仮説で、その最新研究を発表させていただきます。レジュメの冒頭と末尾を転載します。

【レジュメから一部転載】
筑紫なる倭京「太宰府」
 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―
      古賀達也(古田史学の会・代表)

1.はじめに

 九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を『旧唐書』倭国伝・日本国伝では次のように記しており、その時期が八世紀初頭(701年・大宝元年)であることが古田武彦氏の研究により判明している。

 「日本国は倭国の別種なり。(略)或いは云う、日本は舊(もと)小国、倭国の地を併す。」
 「長安三年(703年)、その大臣、(粟田)朝臣真人が来りて方物を貢ず。」『旧唐書』日本国伝

 倭国は建国(天孫降臨)以来、北部九州(筑紫)を拠点として、五世紀(倭の五王時代)には関東までその領域を拡大したが、その都は一貫して筑紫(筑前・筑後)に置かれたと考えられてきた。七世紀前半には日本列島初の条坊都市(太宰府=倭京)を造営し、その地を都とした。そして、七世紀中頃には律令制による全国統治を開始し、新たな行政単位「評制」を施行したことが出土木簡や古代文献から判明している。
 評制による全国統治は、列島の中心部にあり、交運の要衝でもある難波京(前期難波宮)で始まったとされているが、そうであれば難波京は評制を採用した九州王朝の都ということになる。他方、前期難波宮を孝徳天皇の宮殿とする従来説(大和朝廷一元史観)においても、前期難波宮の規模と様式は近畿天皇家の王宮の発展史から逸脱したものとされ、創建年代は天武期ではないかと疑問視する論者もあった。

2.倭京(太宰府)と難波京(前期難波宮)
 〔略〕

3.権威の都(倭京)と権力の都(難波京)
 〔略〕

4.『万葉集』『養老律令』に見える両京制の痕跡

 九州王朝の両京制の痕跡は、大和朝廷への王朝交代後も、万葉歌に筑紫大宰府が「遠の朝廷」と歌われたり、『養老律令』に大和朝廷の神祇官に相当する「大宰の主神」という、他に見えない官職として遺されている。こうした史料状況は九州王朝の両京制という概念により説明可能である。今回の講演ではこうした両京制の痕跡について詳述し、九州王朝の都としての太宰府と難波京の姿をクローズアップする。


第2735話 2022/05/02

九州王朝の権威と権力の機能分担

昨日、京都市で開催された『古代史の争点』出版記念講演会(主催:市民古代史の会・京都、注①)は過去最多の参加者で盛況でした。持ち込んだ同書も完売することができました。初参加の方も多く、古田説や九州王朝説をどこまで詳しく説明するべきなのか少々判断に迷いましたが、概ねご理解いただけたようでした。
参加者に中世社会史を研究されているSさんがおられ、懇親会にも参加され夜遅くまで学問対話をさせていただきました。Sさんからは、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代にあたり、それを為さしめた権威があったはずで、それはどちら側のどのようなものだったのか、なぜ九州王朝に代わって大和の天皇家が新王朝になれたのかという、本質的で鋭い質問が寄せられました。そうした対話の中で、わたしは九州王朝の両京制の思想的背景になった権威(太宰府・倭京)と権力(前期難波宮・難波京)の機能分担について説明していて、あることに気づきました。この機能分担には九州王朝内に歴史的先例があったのではないかということです。
それは『隋書』俀国伝に記された俀国の兄弟統治ともいうべき次の珍しいシステムです。

「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出て政を聽き、跏趺坐し、日出づれば便(すなわち)理務を停め、云う『我が弟に委ねん』と。」『隋書』俀国伝

古田先生はこの記事により、俀王は「天を兄とし、日を弟とする」という立場に立っており、俀王の多利思北孤は宗教的権威を帯びた王者であり、実質上の政務は弟に当る副王にゆだねる、そういう政治体制(兄弟統治)だと指摘されていました(注②)。更にそれに先立って、『三国志』倭人伝に記された邪馬壹国の女王卑弥呼と男弟による姉弟統治、隅田八幡人物画像鏡銘文に見える大王と男弟王の兄弟統治の事例も指摘されました。この兄弟(姉弟)統治の政治体制こそ、権威と権力の都を分けるという七世紀中頃に採用した両京制の思想的淵源だったのではないでしょうか。
昨夜、ようやくこのことに気づくことができました。初めてお会いしたSさんとの夜遅くまでの学問対話の成果です。Sさんと講演会を主催された久冨直子さんら市民古代史の会・京都の皆さんに感謝いたします。

(注)
①『古代史の争点』出版記念講演会。主宰:市民古代史の会・京都、会場:プラザ京都(JR京都駅の北側)。講師・演題:古賀達也「考古学はなぜ『邪馬台国』を見失ったのか」「海を渡った万葉歌人 ―柿本人麻呂系図の紹介―」、正木裕「大化改新の真実」。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(1985)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2729話 2022/04/25

天武紀の「倭京」考 (2)

 新庄宗昭さんが指摘された天武紀の次の「倭京」記事は重要です。

 「庚子(12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮に御す。」『日本書紀』天武元年(672)九月条

 これは壬申の乱に勝利した天武が倭京に至り、嶋宮に居したという記事ですが、岩波書店の日本古典文学大系『日本書紀』で「詣」の字を「いたりて」と訓でいることに新庄さんは疑義を呈されました。「詣」の意味は貴人のもとへ参上する、あるいは神仏にお参りすることであり、下位者が上位者を訪れるという上下関係の存在を前提とした言葉であり、ここは「詣(もう)でて」と訓むべきとされました。そして、天武が詣でた倭京には近畿天皇家とは別の上位者がいたと理解されたわけです。
 この史料解釈により、壬申の乱のときには飛鳥には既に倭京があり、その宮殿は飛鳥浄御原宮と称され、藤原京の先行条坊が倭京の痕跡であると結論づけられました。「詣」の一字に着目された鋭い指摘です。仮説としては成立していると思いますが、学問的には次の検証作業が不可欠です。古田先生がよく用いられた史料中の全数調査です。この場合、『日本書紀』に見える「いたる」という動詞にはどのような漢字が用いられているのか、「詣」の字がどのような意味で使用されているのかという調査です。『日本書紀』の全数調査の結果、「詣」の字が上下関係を表す「もうでる」という意味でしか使用されていなければ、この新庄説は証明され、有力説となります。
 この証明は、新仮説を提起された新庄さんご自身がなされるべきことですが、取り急ぎ天武紀を中心に『日本書紀』を確認したところ、日本古典文学大系『日本書紀』で、「いたる」と訓まれている例として次のような漢字がありました。

 「至る」「到る」「及る」「詣る」「逮る」「臻る」「迄る」「及至る」

 「至る」が最も多く使用されていますが、問題となっている「詣」が他にもありました。次の通りです。

 「是(ここ)に、赤麻呂等、古京に詣(いた)りて、道路の橋の板を解(こほ)ち取りて、楯を作りて、京の邊の衢(ちまた)に竪(た)てて守る。」天武元年七月壬辰(3日)条

 「甲午に、近江の別将田邊小隅、鹿深山を越えて、幟を巻き鼓を抱きて、倉歴(くらふ)に詣(いた)る。」天武元年七月甲午(5日)条

 この二例の「詣」記事は、文脈から〝貴人に詣でる〟という主旨ではないので、普通に〝ある場所(古京、倉歴)へ至る〟の意味と解釈するほかありません。同じ天武紀の中にこのような用例がありますから、それらを除外して、天武元年(672)九月条だけを根拠に、倭京に上位者がいたとする仮説を貫き通すのは無理なように思います。また、「洛中洛外日記」(注)で紹介したように、藤原宮内下層条坊を天武期より前の造営とすることも考古学的にはやや困難ではないでしょうか。
 やはり、現時点での多元史観に於ける解釈論争としては、「倭京に詣る」の「倭京」を飛鳥宮(通説)のこととするのか、難波京(西村秀己説)とするのかに収斂しそうです。もっとも、新庄説も新たな視点や論証の積み重ねにより強化されることはありえます。いずれにしても自由に仮説が発表でき、真摯な論争による学問研究の発展が大切です。
 なお、付言しますと、天武紀の「倭京」が西村説の難波京であれば、そこには九州王朝の天子がいた可能性もあり、その場合には「倭京に詣(もう)でる」という訓みはピッタリとなります。とは言え、『日本書紀』編者がそのように認識して「詣」の字を使用したのかどうかは、別途検証が必要です。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2724~2727話(2022/04/20~23)〝藤原宮内先行条坊の論理 (1)~(4)〟


第2705話 2022/03/21

難波宮の複都制と副都(11)

 七世紀中頃に倭国(九州王朝)が採用した複都制は「権威の都・倭京(太宰府)」と「権力の都・難波京(前期難波宮)」の両京制であり、隋・唐の長安と洛陽の複都制に倣ったものとする仮説を本シリーズで発表しました。その痕跡が『養老律令』職員令の大宰府職員の「主神」ではないかと推定し、大宰主神の習宜阿曾麻呂が道鏡擁立に関わったことも、九州王朝の都「倭京(太宰府)」の権威に由来する事件だったように思われます。
 こうした一連の仮説とその論理を押し進めると、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が早くから指摘されてきた〝前期難波宮は九州王朝の首都〟とする見解に至らざるを得ません(注①)。もちろん、複都制ですから太宰府(倭京)も首都に変わりはありません。「副都制」ではなく、「複都制」であればこの理解が可能であり、中国史書(『旧唐書』他)に〝倭国遷都〟記事が見えないことについても、説明が可能となります。
 前期難波宮首都説の到達点から改めて諸史料を見ると、『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・804年成立)の「難波朝廷天下立評給時」という記事が注目されます。〝難波朝廷が天下に評制を施行した〟という意味ですから、難波朝廷と言うからには難波を首都と認識した表現だったのです。すなわち「朝廷」とあるからには、そこは「首都」と考えなければならなかったのです。そして、七世紀中頃の国内最大の朝堂院様式の前期難波宮と条坊都市を持つ難波こそ、「難波朝廷」という表現がピッタリの九州王朝(倭国)の首都なのでした。また、創建当初から「難波朝廷」と呼ばれていたため、そうした呼称が後代史料に多出したのではないでしょうか。たとえば『皇太神宮儀式帳』の他にも次の史料が知られています(注②)。

(ⅰ)『日本書紀』天武十一年九月条
 「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」
(ⅱ)『類聚国史』巻十九国造、延暦十七年三月丙申条
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
(ⅲ)『日本後紀』弘仁二年二月己卯条
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
(ⅳ)『続日本紀』天平七年五月丙子条
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)びて副(そ)ふべし。」

 そして、何よりも天子列席の下で白雉改元(652年)の儀式が行われており(注③)、その前期難波宮の地が首都であったとする他なかったのです。本シリーズでの考察を経て、ようやくわたしも確信を持ってこの認識に到達することができました。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」538話(2013/03/14)〝白雉改元の宮殿(4)〟
 古賀達也「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。後に『古代に真実を求めて』(17集、2014年)に収録。
②古賀達也「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』145号、2018年。
 古賀達也「文字史料による『評』論 ―『評制』の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2013年。
③古賀達也「白雉改元の史料批判 — 盗用された改元記事」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録


第2690話 2022/02/27

京都の物部さんの不思議

 「洛中洛外日記」の〝難波宮の複都制と副都〟シリーズ(注①)で、現代の物部さんと杉さんの分布の重なりを示し、両氏が古代の物部氏の末裔であることと深く関係しているのではないかとしました。特に岡山県(高梁市・岡山市)と福岡県(うきは市)の濃密分布は注目されました。他方、物部さんの濃密分布地域として京都府(京都市)がありますが、当地には杉さんの分布が見られず、異質でした。それらの分布を再掲します(注②)。

【物部さんの分布】
〔都道府県別〕
1 岡山県(約400人)
2 京都府(約300人)
3 福岡県(約200人)

〔市町村別〕
1 岡山県 高梁市(約200人)
2 岡山県 岡山市(約120人)
3 福岡県 うきは市(約100人)
4 京都府 京都市左京区(約80人)
5 京都府 京都市北区(約50人)
6 京都府 京都市西京区(約50人)
7 島根県 松江市(約40人)
8 岡山県 倉敷市(約40人)
9 兵庫県 洲本市(約30人)
10 静岡県 浜松市(約30人)

【杉(すぎ)さんの分布】
〔都道府県別〕
1 福岡県(約1,600人)
2 岡山県(約600人)
3 東京都(約500人)
3 大阪府(約500人)
5 愛知県(約400人)
6 兵庫県(約400人)
7 山口県(約400人)
8 神奈川県(約400人)
8 埼玉県(約400人)
10 福島県(約300人)

〔市町村別〕
1 福岡県 うきは市(約300人)
2 福島県 南相馬市(約200人)
3 岡山県 真庭市(約140人)
4 山口県 山口市(約130人)
4 愛媛県 西条市(約130人)
6 岡山県 新見市(約130人)
7 岡山県 岡山市(約110人)
8 福岡県 久留米市(約90人)
8 愛知県 稲沢市(約90人)
10 福岡県 三潴郡大木町(約80人)

 京都市内の物部さんの分布は、左京区・北区・西行区と北部に偏っています。ちなみに拙宅(上京区)のご近所にも物部(ものべ)さんがおられます。検索に使用したサイト「日本姓氏語源辞典」の解説には、物部さんの由来について次のように記しています。

「モノベ 【物部】日本姓氏語源辞典
 岡山県、京都府、福岡県。モノノベは稀少。職業。物を司る部民から。推定では福岡県久留米市御井町の高良大社を氏神として古墳時代以前に奈良県を根拠地とした後に岡山県に来住。兵庫県洲本市物部は経由地。奈良時代に記録のある地名。地名は物部氏の人名からと伝える。高知県南国市物部は平安時代に記録のある地名。」

 ここに記された「推定では福岡県久留米市御井町の高良大社を氏神として古墳時代以前に奈良県を根拠地とした後に岡山県に来住。兵庫県洲本市物部は経由地。」とした根拠は不明ですが、物部さんの淵源を「福岡県久留米市御井町の高良大社を氏神」とした人々とする見解は示唆的です。
 また、杉さんとセットで分布する地域(岡山県、福岡県)と物部さんだけの分布地域(京都市)があることは、物部さんの移動や杉さんの発生に歴史的背景や事情があったことをうかがわせます。更に、古代の物部氏の分布を現代の名まえで検索・調査するのであれば、物部から他の名字に代わった人々の分布も同時に調査すべきという点についても、その重要性が今回の物部さんと杉さんの分布調査から浮かび上がってきました。これからはそうした点に留意して、物部さんの調査を進めたいと考えています。

(注)
①「洛中洛外日記」2679~2680話(2022/02/08~09)〝難波宮の複都制と副都(8)~(9)〟
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。


第2688話 2022/02/24

九州王朝(倭国)の「社稷」

 「洛中洛外日記」26632676話(2022/01/16~02/05)〝難波宮の複都制と副都(1)~(5)〟において、九州王朝(倭国)が採用した複都制は、権威の都(太宰府・倭京)と権力の都(前期難波宮・難波京)の両京制とする仮説を提起しました。この拙稿を読まれた山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)から、権威の都・太宰府を指し示す記事が『日本書紀』に見えることを過日のリモート勉強会で教えていただきました。
 「壬申の乱」での筑紫大宰府・栗隈王の発言中に「社稷(しゃしょく)」という言葉があり、これは九州王朝の社稷であり、その地が「権威の都」であることを示しているというご指摘です。このことが山田さんのブログ「sanmaoの暦歴徒然草」にて詳述されましたので、一部省略して転載させていただきました。山田さんに指摘されるまで、この「社稷」の持つ深い意味に気づきませんでした。ご教示に感謝します。

【以下、関係部分を要約転載】
https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/
sanmaoの暦歴徒然草
社稷、権威の都 ―副都「倭京(太宰府)」

 ブログ記事「両京制」への疑問―いつから「太宰府」になったか―(2022年1月25日(火))で、古賀達也さまに次のような疑問(要旨)を提出させていただきました。
………………………………………
 「牛頸窯跡群の操業」が、「六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し」「七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少する」ということが、「太宰府条坊都市造営の開始時期」と「前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)」の考古学的痕跡であるならば、これは九州王朝が難波に「遷都」したといえるのではないでしょうか。
………………………………………
 この批判に対して、古賀さんはご自身のブログ「古賀達也の洛中洛外日記」で「難波宮の複都制と副都」と題するシリーズでお答えいただきました。なかでも2676話 2022/02/05難波宮の複都制と副都(5)において、村元健一さんの指摘「隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」(村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」)を引用され、「権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」」という都の性格付けには、先に提示した疑問が見事に解消されました。ありがとうございました。
 そこで、私も納得したことを確かめようと『日本書紀』にあたってみました。すると古賀さんの見解を見事に裏付ける記事が、天武天皇元年(六七二)六月丙戌(26日)条にありました。「壬申の乱」の記事です。
 筑紫大宰の栗隈王に対して、「近江朝側に立って大宰帥麾下の軍を発動しろ」との命令を受けた時、栗隈王が拒絶する返答です。

《天武天皇元年(六七二)六月》
 男(※)、筑紫に至る、時に栗隈王、苻(おしてのふみ)を承(う)けて對(こた)へて曰(まう)さく、「筑紫國は、元より邊賊(ほか)の難を戍(まも)る。其れ城を峻(たか)くし隍(みぞ)を深くして、海に臨みて守らするは、豈(あに)内賊(うちのあた)の爲(ため)ならむや。今命(おほせこと)を畏(かしこ)みて軍(いくさ)を發(おこ)さば、國空(むなし)けむ。若し不意之外(おもひのほか)に、倉卒(にはか)なる事有らば、頓(ひたぶる)に社稷(くに)傾きなむ。(後略)

 ※この「男」というのは、大友皇子の命令書を持って筑紫大宰府にやって来た「佐伯連男(さへきのむらじをとこ)」。
………………………………………
 筑紫大宰の栗隈王は「社稷」という言葉を用いています。

 「社」も「稷」も祭祀に関わる字であることがわかります。「社稷」を古代では「国家」を指すともありますが、この「国家」は近代でいう「国家」(主権・領域・領民をもつ)ではありません。近代でいう「国家」は領域や領民を拡大していくこともできる「権力機構」のことですが、「社稷」は限られた人達だけが衛守する祭祀の領域(祖先を祀る宗廟のある地とも言える)です。つまり「社稷」は支配を正当化する祭祀権(古代の権威)です(それが存在する地域のことでもあります)。
 筑紫大宰の栗隈王は、「筑紫国」は九州王朝の「社稷」があり、それを守るのが大宰帥(大宰府に常駐する軍隊)であるから、近江朝のために大宰府の兵を動かすことはできないという理由で命令を拒否したのです。(以下、略)


第2681話 2022/02/11

難波宮の複都制と副都(10)

 FaceBookでの日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)のメッセージには貴重な指摘がありました。この問題が物部氏や弓削氏との関係も絡んできそうという視点です。これはわたしも気になっているテーマです。『続日本紀』によれば、道鏡を皇位につけよとの宇佐八幡神の神託事件により、習宜阿曾麻呂は多褹嶋守に左遷されます。次の記事です(注①)。

 「(前略)初め大宰主神習宜阿曾麻呂、旨を希(ねが)ひて道鏡に媚び事(つか)ふ。(後略)」神護景雲三年(769年)九月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を多褹嶋守と為す。」神護景雲四年(770年)八月条

 この道鏡の俗名は物部系とされる弓削であり(注②)、同じく物部系の習宜阿曾麻呂との関係が疑われれるのです。九州王朝の都だった太宰府で神を祀り、皇位継承への発言をも職掌とした大宰主神を、アマテラスやニニギではなくニギハヤヒを祖神とする習宜阿曾麻呂が担っていたということになるのですが、わたしはこのことに違和感を抱くと同時に、もしかすると歴史の深層に触れたのではないかとの感触を得ました。
 実は、九州王朝(倭国)の王と考えてきた筑後国一宮の高良大社(久留米市)御祭神の高良玉垂命を物部系とする史料があります。高良玉垂命を祖神とする各家(稲員家、物部家、他)系図には初代玉垂命の名前が「玉垂命物部保連」、その孫が「物部日良仁光連」と記されています(注③)。更に高良大社文書の一つ「高良記」(注④)には次の記事が見えます。

 「高良大并ノ御記文ニモ、五姓ヲサタムルコト、神部物部ヲ ヒセンカタメナリ、天神七代 地神五代ヨリ此カタ、大祝家のケイツ アイサタマルトミエタリ」16頁
 「一、高良大善薩御氏 物部御同性(姓カ)大祝職ナリ
  (中略)
  一、大善薩御記文曰 五性(姓カ)ヲ定ムルコト、物部ヲ為秘センカ也」79頁
 「一、大并御記文 物部ヲソムキ、三所大并ノ御神秘ヲ 多生(他姓カ)エシルコトアラハ、当山メツハウタリ」80頁
 「一、同御記文之事(※) 物部ヲサツテ、肉身神秘□他ニシルコトアラハ、此山トモニモツテ我滅ハウタリ
  一、同御記文之事(※) 物部ヲ績(続カ)セスンハ、我左右エ ヨルコトナカレ」151頁
 (※)「事」の異体字で、「古」の下に「又」。

 これらの物部記事は意味がわかりにくいところもありますが、その要旨は、高良大菩薩(玉垂命)は物部であり、このことを秘すべく五姓を定めた。他者に知られたら当山は滅亡すると述べています。なぜ、物部であることを隠さなければならないのかは不明ですが、よほどの事情がありそうです。それは九州王朝の末裔であることや、道鏡擁立に関わった習宜阿曾麻呂との繋がりを隠すためだったのでしょうか。
 代々の高良玉垂命が九州王朝の天子(倭国王)であれば(注⑤)、九州王朝の王族は物部系ということになります。この問題の存在については早くから指摘してきたところで、「洛中洛外日記」でも何度か触れたテーマでした。古田先生も同様の問題意識を持っておられました(注⑥)。今回、大宰主神だった習宜阿曾麻呂が筑後地方の出身で物部系とする仮説に至り、このテーマが改めて問われることになりました。(つづく)

(注)
①『続日本紀』新日本古典文学大系、岩波書店。
②『新撰姓氏録』(左京神別上)に「弓削宿禰 石上同祖」、その前に「石上朝臣 神饒賑速日命之後也」とある。
③「草壁氏系図」松延家写本による。
④『高良玉垂宮神秘書同紙背』高良大社発行、1972年。
⑤藤井緩子『九州ノート 神々・大王・長者』葦書房、1985年。
 同書に玉垂命の子孫を倭の五王とする説が記されている。著者は平成八年に亡くなられたが、同じ久留米出身ということもあってか、何かと励ましのお便りを頂いた。生前の御厚情が忘れ難い。
 古賀達也「玉垂命と九州王朝」『古田史学会報』24号、1998年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga24.html
 古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai4/tikugoko.html
⑥古賀達也「洛中洛外日記」200話(2008/12/14)〝高良玉垂命と物部氏〟
 古賀達也「洛中洛外日記」207話(2009/02/28)〝九州王朝の物部〟
 古賀達也「洛中洛外日記」275話(2010/08/08)〝『先代旧事本紀』の謎〟


第2680話 2022/02/09

難波宮の複都制と副都(9)

 習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)の出身地を筑後地方(うきは市)とする作業仮説を提起した「洛中洛外日記」2679話(2022/02/08)〝難波宮の複都制と副都(8)〟をFaceBookに掲載したところ、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から次のご意見が寄せられました。

 「物部と杉の共通の密集地が出身地と言うのは、確かに興味深い説ですね。彼の史料に残る最初の官職が豊前介で他の官歴も九州ですから有り得そうです。この問題は物部氏や弓削氏との関係も絡んできそうですね。」

 わたしは次のように返信しました。

 「ご指摘の通りで、岡山県でも杉さんと物部さんの地域が隣接していますし、その付近には物部神社(石上布都魂神社)もあります。杉さんと物部さんが無関係とは思えませんね。」

 杉さんと物部さんの分布が重なる地域がうきは市だけではなく、岡山県でも同様の傾向にあることは、これを偶然の一致とするよりも両者に何かしらの深い繋がりがあることを示唆しており、当仮説への実証力を強めるものです。苗字の分布データ(注①)の関連部分を再掲します。

【杉(すぎ)さんの分布】
〔都道府県別〕
1 福岡県(約1,600人)
2 岡山県(約600人)

〔市町村別〕
1 福岡県 うきは市(約300人)
3 岡山県 真庭市(約140人)
6 岡山県 新見市(約130人)
7 岡山県 岡山市(約110人)
8 福岡県 久留米市(約90人)
10 福岡県 三潴郡大木町(約80人)

【物部さんの分布】
〔都道府県別〕
1 岡山県(約400人)
2 京都府(約300人)
3 福岡県(約200人)

〔市町村別〕
1 岡山県 高梁市(約200人)
2 岡山県 岡山市(約120人)
3 福岡県 うきは市(約100人)
8 岡山県 倉敷市(約40人)

 日野さんに次いで、西野慶龍さんからも次の情報が寄せられました。

 「高梁市に住んでいますが、近所には杉さんが住んでいたり、子供の頃のバスの運転手さんが物部さんでした。」

 こうした高梁市の西野さんからの〝現地報告〟にも接し、わたしは自説に確信を持つことができました。そして、もしやと思い、岡山県内の「杉神社」を検索したところ、やはりありました。下記の通りです(注②)。

○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡勝央町小矢田295 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡奈義町広岡647・豊沢787 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡奈義町西原1164 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 美作市安蘇686 御祭神:大己貴命,天鈿女命,少彦名命

 この最後の美作市の杉神社鎮座地名が「安蘇」であることも、習宜阿曾麻呂の名前に関係するのか気になるところです。また、勝田郡の三つの杉神社の御祭神の名前が記されていないという不思議な状況も、何か理由がありそうです(習宜阿曾麻呂との関係を憚ったためか)。なお、備前国一宮が物部氏と関係が深い石上布都魂神社(イソノカミフツミタマジンジャ。赤磐市石上1448)であることも注目されます。

 日野さんのご指摘も重要な視点と論点が含まれています。なかでも、「彼(習宜阿曾麻呂)の史料に残る最初の官職が豊前介で他の官歴も九州」という視点は、大宰府主神と九州王朝との歴史的関係をうかがわせるものであり注目されます。『続日本紀』には次の記事が見えます(注③)。

 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麿を豊前介と為す。」神護景雲元年(767年)九月条
 「(前略)初め大宰主神習宜阿曾麻呂、旨を希(ねが)ひて道鏡に媚び事(つか)ふ。(後略)」神護景雲三年(769年)九月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を多褹嶋守と為す。」神護景雲四年(770年)八月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を大隅守と為す。」宝亀三年(772年)六月条

 日野さんのご指摘の通り、習宜阿曾麻呂の左遷や転任は九州内であることから、その出自も九州内とする方がより妥当と思われます。以上のことから習宜阿曾麻呂の出自を筑後地方(うきは市)とする仮説は最有力ではないでしょうか。更に、習宜の訓みは「すげ」ではなく、「すぎ」とした方がよいことも明らかになったと思われます。(つづく)

(注)
①「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
②岡山県神社庁のホームページによる。
③『続日本紀』新日本古典文学大系、岩波書店。


第2679話 2022/02/08

難波宮の複都制と副都(8)

 習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)の習宜の本籍地を調査していて気づいたことがありました。そもそも、習宜を「すげ」と訓むのは正しいのだろうか、「すげ」と訓むことは学問的検証を経たものだろうか。このような疑問を抱いたのです。
 普通に訓めば、習宜は「しゅうぎ」「しゅぎ」か「すぎ」です(注①)。「宜」の字に「げ」の音は無いように思われるからです。従って、現代の苗字であれば、「すぎ」に「杉」の字を当てるのが一般的でしょう。そこで、「杉」姓の分布をweb(注②)で調べると次のようでした。

【杉(すぎ)さんの分布】
〔都道府県別〕
1 福岡県(約1,600人)
2 岡山県(約600人)
3 東京都(約500人)
3 大阪府(約500人)
5 愛知県(約400人)
6 兵庫県(約400人)
7 山口県(約400人)
8 神奈川県(約400人)
8 埼玉県(約400人)
10 福島県(約300人)

〔市町村別〕
1 福岡県 うきは市(約300人)
2 福島県 南相馬市(約200人)
3 岡山県 真庭市(約140人)
4 山口県 山口市(約130人)
4 愛媛県 西条市(約130人)
6 岡山県 新見市(約130人)
7 岡山県 岡山市(約110人)
8 福岡県 久留米市(約90人)
8 愛知県 稲沢市(約90人)
10 福岡県 三潴郡大木町(約80人)

 この分布データによれば、福岡県の筑後地方(うきは市、久留米市、三潴郡)が最濃密地域であることがわかります。筑後地方であれば太宰府に近く、大宰府主神の出身地としても違和感はありませんし、阿曾麻呂という名前の「阿曾」も阿蘇山を連想させます。そして、阿蘇神社は筑後地方にも散見します(注③)。
 また、『新撰姓氏録』(右京神別上)によれば「中臣習宜朝臣」の祖先を「味瓊杵田命」(うましにぎたのみこと)としており、これは『先代旧事本紀』によれば饒速日命(にぎはやひのみこと)の孫に当たる物部系の神様です。あるいは『新撰姓氏録』(右京神別上)の「采女朝臣」に「神饒速日命六世孫大水口宿禰之後也」とあり、それに続く「中臣習宜朝臣」に「同神孫味瓊杵田命之後也」とあることからも、物部系の氏族であることがわかります。そして、うきは市(旧浮羽郡)には物部郷があったことが知られており(注④)、今でも物部さんが多数分布しています。次の通りです(注②)。

【物部さんの分布】
1 岡山県 高梁市(約200人)
2 岡山県 岡山市(約120人)
3 福岡県 うきは市(約100人)
4 京都府 京都市左京区(約80人)
5 京都府 京都市北区(約50人)
6 京都府 京都市西京区(約50人)
7 島根県 松江市(約40人)
8 岡山県 倉敷市(約40人)
9 兵庫県 洲本市(約30人)
10 静岡県 浜松市(約30人)

 以上のように、いずれも傍証の域を出ませんが、習宜阿曾麻呂の出身地を現うきは市付近とすることは、「大和国添下郡」説よりも有力ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①わたしが子供の頃、「せ」を「しぇ」と発音する地域(主に佐賀県)があった。古くは、「す」も「しゅ」と訛ることがあったのではあるまいか。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
③管見では次の阿蘇神社がある。
 阿蘇神社 久留米市田主丸町(旧浮羽郡田主丸町)
 阿蘇神社 八女市立花町
 干潟阿蘇神社 小郡市干潟(旧三井郡立石村)
 筑後乃国阿蘇神社 みやま市高田町
④『和名抄』「筑後国生葉郡」に「物部郷」が見える。


第2678話 2022/02/07

難波宮の複都制と副都(7)

 大宰府主神、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)の習宜について、「大和国添下郡の地名」とする解説が岩波書店『続日本紀』の補注で紹介されています(注①)。この解説によれば習宜氏は大和国出身のように思われますが、webで「習宜」姓の分布を調査したところ、現在は存在していないようで検索できません。そこで、「すげ」の訓みも持つ「菅」「管」を検索したところ、次のようになりました(注②)。

【菅(すが/かん/すげ)さんの分布】
〔市町村別〕
1 愛媛県 今治市(約3,300人)
2 愛媛県 松山市(約1,900人)
3 秋田県 湯沢市(約1,700人)
4 山形県 最上郡最上町(約1,000人)
5 愛媛県 西条市(約1,000人)
6 大分県 佐伯市(約600人)
7 愛媛県 上浮穴郡久万高原町(約600人)
8 大分県 大分市(約500人)
9 愛媛県 新居浜市(約400人)
10 長崎県 島原市(約400人)

【管(すが/かん/すげ)さんの分布】
〔市町村別〕
1 大分県 佐伯市(約200人)
2 福島県 会津若松市(約110人)
2 大分県 大分市(約110人)
4 山形県 西村山郡河北町(約90人)
5 熊本県 菊池市(約70人)
6 熊本県 熊本市(約60人)
7 愛媛県 松山市(約50人)
8 長崎県 長崎市(約30人)
9 山形県 山形市(約30人)
9 宮崎県 延岡市(約30人)

 「菅」「管」姓は豊予海峡を挟んで愛媛県と大分県、特に愛媛県に最濃密分布があります。しかし、その訓みの大半は「かん」であり、「すげ」は極めて少数と説明されていることから、「すげ」姓分布のエビデンスに採用するのには不適切なデータのようです。他方、「大和国添下郡」の出身と推定し得る分布も示していませんので、習宜阿曾麻呂の本籍地について、「菅」「管」姓の分布データからは推定できそうにありません。(つづく)

(注)
①『続日本紀 二』岩波書店、新日本古典文学大系、465頁。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。