日本書紀一覧

第976話 2015/06/11

禁止された地名への天皇名使用

 「洛中洛外日記」971話「『天皇号』地名成立過程の考察」において、近畿天皇家の王宮(後期難波宮・藤原宮・平城宮・長岡京)跡地に天皇名が地名として遺存していないことを述べました。もともと付けられなかったのか、付いていたけども残らなかったのかは不明ですが、最高権力者(天皇)の名前を地名に使用するのははばかられたのではないかと考えてきました。
 そうしたら「洛中洛外日記」を読まれた正木裕さんから次のようなメールをいただきました。

古賀様、各位
『日本書紀』に天皇名を軽々しく地名に使ってはならないという趣旨の詔があります。

■大化二年(六四六)八月癸酉(十四日)
(略)王者(きみ)の児(みこ)、相続ぎて御寓せば、信(まこと)に時の帝と祖皇の名と、世に忘れべからざることを知る。而るに王の名を以て、軽しく川野に掛けて、名を百姓に呼ぶ。誠に可畏(かしこ)し。凡そ王者の号(みな)は、将に日月に随ひて遠く流れ、祖子(みこ)の名は天地と共に長く往くべし。

これは九州年号大化期のもので近畿天皇家が九州王朝の天子名を消すためにだした詔勅(或は服部説なら九州王朝が自らの王名の尊厳を図るための詔勅を出した可能性もある)と思いますが、天皇地名がないのはこれとの整合をとる為なのかも知れませんね。
正木拝

 『日本書紀』の大化二年条(646)に天皇名を地名などに使用することを禁止するという趣旨の詔勅があるというご指摘です。この「大化2年」の詔勅が646年なのか、九州年号の大化2年(696)なのかという問題と、この詔勅が九州王朝のものなのか近畿天皇家のものなのかという検討課題がありますが、いずれにしても7世紀中頃から末にかけて、このような命令が出されたことは間違いないと思われます。
 従って、古代において最高権力者の名前を地名につけることがはばかられたという事実は動きませんが、同時に詔勅で禁止しなければならなかったということですから、最高権力者と同じ名前の地名が少なからずあったということもまた事実ということになります。そうでなければ詔勅まで出して禁止する必要はありませんから。
 次に考えなければならないことに、その天皇名とは生前に使用されていた名前か、没後におくられた諡号なのかという問題があります。『日本書紀』に付加された「漢風諡号」は8世紀に成立しますから、その対象から外れます。近畿天皇家の「和風諡号」も同時代(各天皇の没後すぐ)に成立したのものか、『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に成立したものかによりますが、『日本書紀』編纂時に「和風諡号」が成立したのであれば、これもまた対象から外れることになります。従って、論理的に可能性が最も高いものとしては生前の名前ということになりそうです。
 そして最も重要な検討課題は、この詔勅が禁止した名前とは九州王朝の天子の名前なのか、近畿天皇家の天皇の名前なのかということです。おそらくは九州王朝の天子や王族の名前と思いますが、近畿天皇家が701年以後に日本列島の最高権力者となった後は、九州王朝と同様にみずからの「天皇名」を地名に付けることは禁止したと思います。正木さんも指摘されたように、こうした詔勅が出されたことと、難波宮や藤原宮、平城宮、長岡京に「天皇名」地名が無いこととは対応しているのではないでしょうか。(つづく)


第975話 2015/06/10

一人に二つの「諡号(おくりな)」の謎

『日本書紀』の「諡号(没後のおくりな)」について先行研究を勉強していますが、多くの論文があり、目を通すだけでも大変です。通説では淡海三船(722〜785年)が「漢風諡号」を『日本書紀』成立(720年)後に作ったとされていますが、その淡海三船が活躍した時代が、ちょうど「漢風諡号」(正確には生前の尊号)を二つ持つ孝謙・称徳天皇(聖武天皇の娘、阿倍内親王。718〜770年)の時代です。
この「漢風諡号」のような「尊号(孝謙・称徳)」を一人の天皇が二つ持つという実例を、同時代を生きた淡海三船は知悉していたはずです。したがって『日本書紀』の「漢風諡号」を作るときに、「孝謙・称徳」の例にならって、二度即位した宝皇女に「皇極・斉明」という二つの「漢風諡号」を付けることになったのではないでしょうか。このように考えれば、同一人物に二つの「漢風諡号」を付けるという奇妙な状況が説明できます。
こうした仮説が正しければ、『日本書紀』編纂時には一人の「天皇」に対して一つの「和風諡号」を付けるという『日本書紀』編纂者と、後世になって淡海三船が付けた「漢風諡号」とは編纂方針が異なっていることになります。


第973話 2015/06/07

二つの漢風諡号「皇極」「斉明」

『日本書紀』の漢風諡号(死後のおくりな)は『日本書紀』成立の数十年後に淡海三船により作成されたと考えられています。その中で例外的に天豊財重日足姫天皇(あめのとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)に対して、最初に即位(35代)したときは「皇極」、「孝徳天皇」を挟んで二度目の即位(37代)のときには「斉明」という二つの漢風諡号が付けられました。
『日本書紀』成立時には和風諡号(国風諡号)だけで漢風諡号は記されてなく、後に付記されたわけですが、和風諡号は二回とも「天豊財重日足姫天皇」と同じ名前で記されており、同一人物として『日本書紀』は編纂されています。生前の名前は舒明紀2年正月条に「宝皇女」とあり、和風諡号に見える「財」という字からも判断して、本名は「たから」と考えられています。
この「たから」天皇だけ、なぜ漢風諡号を二つつけられたのでしょうか。いわゆる「死後のおくりな」であれば一つでよいと思うのですが、『日本書紀』中でただ一人、天皇に2回即位したため、漢風諡号が二つ付けられたのかもしれません。しかし『日本書紀』に記された和風諡号は一つなので、漢風と和風で方針が異なったのでしょうか。不思議な現象です。
ちなみに『続日本紀』でも、2回天皇に即位した聖武天皇の娘(阿倍内親王)は「孝謙」(46代)と「称徳」(48代)と二つの「漢風号」が付けられており、『日本書紀』の「たから」天皇と同様です(西村秀己さんのご教示による)。しかし「孝謙・称徳」の場合は死後のおくり名ではなく、生前の尊号ですから、漢風諡号とは言い難いものです。
この「孝謙・称徳」が漢風諡号ではなく、いわば生前の「漢風尊号」であれば、『日本書紀』の「皇極・斉明」も「死後の尊号」という性格かもしれません。そうであれば、2回の天皇即位にあたり、後世にそれぞれの「漢風尊号」を淡海三船が付けたとも考えられます。おそらく、この件については先行研究があることと思いますので、調査したいと思います。
ちなみに、古田先生は「皇極」と「斉明」は別人、あるいは別人の伝承記事を『日本書紀』編者が盗用したため、後に付された漢風諡号が異なっていると考えられているようです。この古田先生の説についても勉強したいと思います。


第931話 2015/04/23

『二中歴』「年代歴」の武烈即位記事

 今朝の京都は快晴です。比叡山や大文字山は春霞でうっすらとしており、鴨川端のしだれ桜並木はすっかり葉桜に衣替えです。満開の桜や紅葉の京都、雪化粧の京都も美しいのですが、このような季節の変わり目の京都も風情があり、わたしは好きです。

 昨日に続き、『二中歴』がテーマです。『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号が最も原型に近いと判断されている理由の一つに、その九州年号が近畿天皇家の年号や記事とは別に記されており、各九州年号の下に付記された細注が九州王朝系記事と理解できることがあります。そして成立年代が他の九州年号群史料よりも古い(鎌倉初期)ことなどです。
 ところが、その細注に一見して近畿天皇家の天皇名と思われる記事があり、以前から不審に思っていました。次の記事です。

「善記四年 元壬寅同三年放誰(※)成始文 善記以前武烈即位」
 ※「放誰」の二字には草冠があります。

 この意味するところは、「九州年号の善記は4年間続き、元年干支は壬寅(522年)。善記3年に放誰が始めて文を成す。 善記以前に武烈が即位。」というものですが、「放誰が始めて文を成す」の意味はまだわかりません。注目されるのが「善記以前に武烈が即位」という記事です。普通に考えれば、近畿天皇家の武烈天皇が善記年間以前に即位したということですが、武烈の在位年は『日本書紀』によれば、499〜506年ですから、正確に表現すれば「善記以前」というよりも「継躰(九州年号、517〜521年)以前」とされるべきでしょう。しかも、なぜ武烈天皇の即位年に関する記事が細注に記されたのか、その理由もよくわかりません。そもそも、「年代歴」細注は近畿天皇家ではなく九州王朝系記事が記されていると考えられますから、ここだけ「武烈」という『日本書紀』成立以後に付けられた漢風諡号がなぜ存在するのかという合理的説明も困難です。
 わたしが十数年前に関西例会で発表したことですが、この「武烈即位」というのは近畿天皇家の武烈天皇ではなく、九州王朝にいた「武烈」という倭王の名前ではないかと考えています。『宋書』倭国伝などで明らかなように、この時期の九州王朝の倭王は中国風一字名称も名乗っていますから、この「武烈」という二字名称は不自然です。従って、この「武烈」というのは、倭王武と倭王烈の二人のことではないでしょうか。倭王武は『宋書』に「倭の五王」の最後の一人として見えますから、その次代の倭王が一字名称として烈を名乗っていたというアイデア(思いつき)です。
 この作業仮説(思いつき)は他に傍証がなく、「年代歴」細注は九州王朝系の記事という一点の論理性を突き詰めた結果ですので、仮説として提起することさえ怖いくらいです。今のところ、「古賀の思いつき」程度に受け止めておいて下さい。

 今朝は京阪電車で出町柳駅から大阪の淀屋橋駅に向かっています。もうすぐ到着です。大阪も好天で、出張日和の一日となりそうです。


第896話 2015/03/12

「大化改新」論争の新局面

 古代史学界で永く続いてきた「大化の改新」論争ですが、従来優勢だった「大化の改新はなかった」とする説から、「大化の改新はあった」とする説が徐々に有力説となってきています。前期難波宮の巨大な宮殿遺構と、その東西から発見された大規模官衙遺跡群、そして7世紀中頃とされる木簡などの出土により、『日本書紀』に記された「大化の改新」のような事件があったと考えても問題ないとする見解が考古学的根拠を持った有力説として見直されつつあるのです。
 古田学派内でも服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から、7世紀中頃に九州王朝により前期難波宮で「(大化の)改新」が行われたとする説が発表されており、九州年号の大化年間(695〜703)に藤原宮で「改新」が行われたとする、「九州年号の大化の改新」説(西村秀己・古賀達也)と論争が展開されています。
 さらに正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)からは、『日本書紀』の大化改新詔には、九州年号・大化期(7世紀末)の詔勅と7世紀中頃の「常色(九州年号)の改新」詔が混在しているとする説が発表されており、関西例会では三つ巴の激論が交わされているところです。
 そうしたおり、正木さんから次のような趣旨のメールが関係者に配信されました。

1.前期難波宮関連遺構の発掘成果により、『日本書紀』に記された「大化の改新」が実在したとする説が優勢となりつつある。
2.この説が真実であれば、近畿天皇家が前期難波宮において「大化の改新」や「難波朝廷、天下立評」を実施したことになる。
3.この見解は九州王朝説を否定する有力根拠となる。
(古賀注:九州王朝の首都・太宰府には全国統治にふさわしい藤原宮や平城宮に匹敵する大規模宮殿・官衙遺構はない。従って、当時(7世紀中頃)としては列島内最大規模の前期難波宮(藤原宮に匹敵)を造営し君臨した孝徳天皇(近畿天皇家)こそ列島の代表王朝である、との九州王朝説否定の反論が可能となる。)
4.この問題への対応は古田学派・九州王朝説論者にとって喫緊の課題である。

 この正木さんの憂慮と問題提起は重要であり、わたしも全く同感です。というよりも、この問題点の存在に気づいたわたしは20年以上前から悩み続け、その結果、前期難波宮九州王朝副都説に至ったのですから。
 わたしの前期難波宮九州王朝副都説に反対される古田学派の研究者や九州王朝説論者の皆さんには、この正木さんの問題提起を真摯に受け止めていただきたいと思います。そのさい、史料根拠や考古学事実を示さない「空理空論」や、「ああも言えれば、こうも言える」ような抽象論ではなく、具体的な史料根拠・考古学的事実を提示した上で論じていただきたいと思います。
 いよいよ古田学派の研究者は近畿天皇家一元史観論者との「他流試合」に耐え得る学問の方法や知識が必要な局面に突入しました。わたしたちが古田先生に続かなければならない新たな時代を迎えたのです。今、わたしの心には「諸君、狂いたまえ」という吉田松陰の言葉が強く鳴り響いています。


第832話 2014/12/07

高良大社の留守殿

 『日本書紀』斉明四年十月条(658年)に「留守官」(蘇我赤兄臣)という官職名が記されています。岩波古典文学大系の頭注には「天皇の行幸に際して皇居に留まり守る官。」と説明されています。この「留守官」について、九州王朝の難波遷都(前期難波宮)にともない、太宰府の留守を預かる官職とする説を正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)は関西例会で発表されていました。
 この正木説に対応するかもしれないような痕跡を「発見」しました。筑後国一宮の高良大社(久留米市)の本殿の裏に「留守殿」という摂社があったという報告が高良大社の研究者として著名な古賀壽さんからなされていたのです。『高良山の文化と歴史』第6号(高良山の文化と歴史を語る会編、平成6年5月)に収録されている古賀壽さんの論稿「高良山の史跡と伝説」に「留守殿のこと」として、この「留守殿」が紹介されています。
 大正時代前半のものと認められる境内図に、本殿の真後ろに「留守殿」の小祠が描かれているとのこと。中世末期成立とされる『高良記』にも「留守七社」という記事が見えますから、現在ではなくなっていますが、「留守殿」は古くからあったことがわかります。古賀壽稿に引用されている太田亮『高良山史』の見解によれば「又本社には、もと留守殿七社あり、(中略)蓋し国衙庁の留守職と関係あろう。」とされています。古賀壽さんも「『留守社』また『留守殿』という特異な名称と、本殿背後の中軸線上というその位置は、この小祠のただならぬ由緒を暗示していよう。」と指摘されています。
 わたしは高良大社の祭神の玉垂命は「倭の五王」時代の九州王朝の王のこととする説(九州王朝の筑後遷宮)を発表していますが、このことから考えると高良大社本殿真後ろにあった「留守殿」は筑後国国庁レベルではなく、九州王朝の天子にとっての「留守殿」と考えるべきと思われます。
 この九州王朝の「留守殿」と先の斉明紀の「留守官」が無関係ではない可能性を感じています。高良大社の「留守殿」がどの時代の「留守官」に関係するのかはまだ不明ですが、九州王朝の遷都・遷宮に関わる官職ですから、筑後から筑前太宰府への遷宮に関係するのか、太宰府から前期難波宮への「遷都」に関係するのか、あるいはそれ以外の遷都・遷宮に関係するのか、今後の研究課題です。


第792話 2014/09/25

所功『年号の歴史』を読んで(4)

 所さんは『二中歴』所収「年代歴」に見える「古代年号」(九州年号)を信頼できないとして、鎌倉時代末期の僧侶等による偽作とされたのですが、信頼できないとする理由は次のようなことでした。
 『二中歴』所収「年代歴」の九州年号記事の末尾に次の記述があり、その「只有人伝言」を「九州年号はただ人が言い伝えている」と解し、九州年号は確かな出典や根拠が不明な言い伝えにすぎず、信頼できないとされたのです。

 「已上百八十四年、年号卅一。代〃不記年号。只有人伝言。自大宝始立年号而已。」(句読点は所さんによる。17頁)

 この末尾の一行を所さんは「公式の年号は大宝よりはじめて立てられた」と理解されたのです。和風漢文ですので、こうした訓みも不可能ではありませ んが、逆に「大宝より始めて年号を立てたとするのは、ただ人の言い伝えにあるのみ」という訓みも考えられるのです。したがって、どちらの訓みが妥当かは 『二中歴』全体から編者の認識を読みとる必要があります。
 たとえば『二中歴』「第一 人代歴」の継体天皇の細注に「此時年号始」(この時に年号が始まる)とあり、「年代歴」に記されている最初の古代年号「継体」が継体天皇の時代に始まったと記しているのです。古代年号の最初の「継体」は元年干支が丁酉と記されており、その年は西暦517年で継体天皇の11年にあたり、まさに継体天皇の時代に相当します。
 『二中歴』「第七 官職歴」冒頭にも「孝徳天皇大化五年始置百官八省」とあり、『日本書紀』の「大化」年号が記されています。ここでも『二中歴』編者は「大宝」以前に年号があったと認識しているのです。
 このように『二中歴』編者は、「大宝」以前に「年代歴」の古代年号が実在したと認識しているのです。ですから、「只有人伝言。自大宝始立年号而已。」は 「大宝より始めて年号を立てたとするのは、ただ人の言い伝えにあるのみ」という訓みのほうが『二中歴』編者の認識に対応した訓みとなるのです。(つづく)


第791話 2014/09/24

所功『年号の歴史』を読んで(3)

 所さんは『二中歴』の成立時期に対する誤解から、九州年号の「出揃い(偽作)」時期を鎌倉末期とされ、平安時代の史料には存在しないとされています。しかし、「洛中洛外日記」618話「『赤渕神社縁起』の九州年号」などにおいて、わたしは平安時代に成立した『赤渕神社縁起』(兵庫県朝来市赤淵神社蔵)に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることを紹介しました。こうした史料の存在も所さんはご存じなかったようです。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。
 なお、古田先生が紹介された『続日本紀』神亀元年十月条(724)の聖武天皇詔報に見える九州年号「白鳳」「朱雀」を所さんは九州年号とは見なされていません。「白鳳」「朱雀」も『二中歴』に見える「古代年号」に含まれているのですから、九州年号が成立の早い史料に見えないとするのは不当です。(つづく)


第787話 2014/09/19

「観世音寺」「崇福寺」不記載の理由

 本日の関西例会では服部さんから古代中国の二倍年暦について、周代以後は二倍年暦とする明確な痕跡が見られないとの報告がなされ、わたしや西村秀己さんと大論争になりました。互いの根拠や方法論を明示しながらの論争で、関西例会らしい学問論争でした。わたし自身も服部さんが紹介された考古学的史料(西周の金文)など、たいへん勉強になりました。
 常連報告者の正木裕さんが欠席されるとのことで、昨晩、西村さんから発表要請があり、急遽、現在研究しているテーマ「なぜ『日本書紀』には観世音寺・崇福寺の造営記事がないのか」について意見を開陳しました。その結論は、観世音寺も崇福寺(滋賀県大津市)も九州王朝の天子・薩夜麻の「勅願寺」だったため、『日本書紀』には掲載されなかったとするものですが、様々なご批判をいただきました。
 観世音寺創建は各種史料によれば白鳳10年(670)で、崇福寺造営開始は『扶桑略記』によれば天智7年(668、白鳳8年)とされ、両寺院の創建は同時期であり、ともに「複弁蓮華文」の同笵瓦が出土していることも、このアイデアを支持する傍証であるとしました。
 出野さんからは古代史とは無関係ですが、誰もが関心を持っている「少食」による健康法について、ご自身の体験を交えた発表があり、こちらもまた勉強になりました。結論として、みんな健康で長生きして研究活動を続けようということになりました。
 9月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔9月度関西例会の内容〕
1). 中国古代の二倍年暦について(八尾市・服部静尚)
2). 納音の追加報告(八尾市・服部静尚)
3). 観世音寺・崇福寺『日本書紀』不記載の理由(京都市・古賀達也)
4). 食べるために生きるのか、生きるために食べるのか・・・少食について・・・(奈良市・出野正)
5). 二人の天照大神と大国主連、そしてその裔(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(10/04松本深志高校で講演「九州王朝説は深志からはじまった」、11/08八王子大学セミナー、岩波文庫『コモンセンス』)・『古代に真実を求めて』18集特集の原稿執筆「聖徳太子架空説」の紹介・大塚初重『装飾古墳の世界をさぐる』に誤り発見・坂本太郎『史書を読む』の誤字・中村通敏『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』を読む。『三国志』斐松之注の文字数は本文よりも少ない・聖徳太子関連書籍調査・その他


第781話 2014/09/09

『昭和天皇実録』刊行

と多元史観

 本日の朝刊各紙1面に掲載された『昭和天皇実録』完成記事を、感慨深く読みました。『日本書紀』を筆頭とする官選史書「六国史」以来、明治になってから天皇の「実録」が編纂されてきましたが、今回の『昭和天皇実録』は特別な性格を有しています。内容については新聞に解説されている以上のことはわかりませんが、歴史学的に見てとても興味深い「実録」になるはずと推定しています。
 なぜなら『日本書紀』に匹敵する時代の激変期の「実録」だからです。『日本書紀』編纂は九州王朝から大和朝廷への権力構造の激変(王朝交代)の時代に編纂されたため、その政治的必要性に貫かれた編纂方針、すなわち前王朝である九州王朝の存在を消すという方針がとられました。それは、当時では周知の歴史事実であった「九州王朝の時代」をなかったことにするという相当無理無茶なものでした。それほどに新たな権力者、大和朝廷にとって、無理でも無茶でもそうした史書を編纂せざるを得なかった事情があったのです。
 今回の『昭和天皇実録』も同様の権力構造の激変(敗戦による戦前と戦後の構造と意識の変化)が一人の天皇の時代に発生したことにより、編纂にあたり、かなり深刻な問題を抱え込んだはずです。それは、戦前の明治憲法下における天皇、タイを除けばアジアでほぼ唯一の完全な独立国家の君主としての天皇と、敗戦後の世界最強の米軍とその核兵器に自国の防衛と運命を委ねている「独立国」の「君主」として、どちらの大義名分に立った『昭和天皇実録』とするのか、国家事業としての編纂作業においてどちらの立場をとっているのかという問題です。
 古田先生の言葉「戦争は国家間の『正義』と『正義』の衝突である」という戦争の思想史的定義からすれば、戦前の大日本帝国が主張した「正義」があったはずですし、太平洋でアメリカの「正義」と衝突して戦争となりました。それは、歴史的に西へ西へと侵略を続け植民地化(ネイティブアメリカン・メキシコ・ハワイ・フィリピン・他)するアメリカの帝国主義時代の「正義」と、その西の果てにあった日本の自衛戦争という「正義」との対立の構図もあったはずですが、どちらの「正義」を昭和天皇は語ったのでしょうか。そして、「実録」ではどちらの昭和天皇の発言を「採用」しているのでしょうか。興味は尽きません。
 権力構造が劇的に変化した時代の史書である『日本書紀』を、わたしたち古田学派は多元史観の目で分析してきたように、今回の『昭和天皇実録』もそうした多元的歴史観・フィロロギーの目で読むことにより、現代日本の史書編纂官僚の意志(大多数の国民が「戦後民主教育」を受けた結果に形成された国家意志や国民意識の反映)を再認識し、現代日本の真実の姿を読みとることができるように思われるのです。
 何を「正義」として編纂されたのかを明らかにする、これこそ『昭和天皇実録』を研究する歴史家の責務ではないでしょうか。昭和天皇の「発言」として権威づけられた「正義」が、これからの日本と日本人に影響を与え続けるのですから。


第764話 2014/08/13

大分県の「日羅」伝承

 九州における「聖徳太子」伝承を伴う寺院の開基や仏像について紹介し、それらの伝承は本来九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績であった可能性が高いことを説明してきましたが、6世紀末頃の九州における寺院開基伝承として、「日羅」によるとされるものが少なくありません。
 日羅は『日本書紀』(敏達紀、583年に帰国)に登場する百済王に仕えた倭人ですが、その日羅が熊本県や宮崎県・大分県に多数の寺院を開基したとする伝承や史料が残っています。もっとも『日本書紀』によれば、日羅は帰国後二ヶ月で百済人から暗殺されており、その短期間で多数の寺院を建立できるはずもありません。従って、日羅による開基とされてはいるものの、歴史事実としては九州王朝内の有力者による寺院開基が『日本書紀』に記されている「日羅」によるものと、後世において書き換えられたものと思われます。もしかすると「日羅」に似た名前の人物が九州王朝内にいたのかもしれません。
 その「日羅」伝承に早くから注目されていたのが藤井綏子さん(故人)でした。藤井さんは作家として文筆活動されるかたわら、「市民の古代研究会」にも参加されていた古田ファンで、著作の中で古田説を取り上げたり、ご自身でも研究されたりしておられました。大分県久重町に住んでおられ、直接お会いすること はできませんでしたが、わたしもお手紙や著書をいただき、何かと気にかけていただきました。
 ちょうど「市民の古代研究会」の分裂騒動を経て「古田史学の会」を立ち上げたばかりの1994年6月に藤井さんから次のようなお便りが届きました。

 「古賀達也様
 こちらは山々の頂きも隠れがちな風景ですが、京都の方もはっきりしないお天気でしょうか。 ところでこの度、同封のような著書を上梓いたしました。景行説話で最も激戦地であった豊後南部について、一度よく考えてみたいと思っていたのを、実現したわけですが、あまり自信はありません。お暇な折りにでもお目 通しいただき、ご教示でも賜れるようであれば、幸せです。
 だいぶ前ですが、ご丁重なお手紙をありがとうございました。まわりに会員の方が住んでおられるでもなく、一人で山の中に居て、何がどうなっているのか、さっぱりのみこめないでいるのですが、中央?に居られると、何かと気苦労も多いのでしょうね。
 ともかく、同じようなことをやってきた(つもり?)の者として、今後のご健闘を祈ります。お体に気をつけて下さい。
       一九九四年六月三〇日  藤井綏子」

 この手紙に同封されていた著書『古代幻想・豊後ノート』(1994年4月25日刊、株式会社双林社出版部)を20年ぶりに読んでみました。その中の「日羅の影」という一節には次のような記述があります。

 「九州には、この日羅の創建と伝える寺が、あちこちに散見する。熊本の郷土史家平野雅曠氏によると、肥後には計十二、三カ寺もあるという。
 豊後にも、『豊後国誌』があげる確実なところで少なくとも五つの、日羅開基伝承の寺がある。大野郡の大恩寺、普光寺、阿西寺、大分郡の岩屋寺、海部郡の円通寺がそれである。海部郡では、もう一つ、例の端麗な臼杵石仏の寺が満月寺で、鶴峰戊申の前掲『臼杵小鑑拾遺』はこの寺にも日羅を開山とする縁起があったことを紹介している。」

 藤井さんが注目されたように、「日羅」や「日羅伝承」は九州王朝史研究にとって重要なテーマと思われるのです。


第748話 2014/07/21

唐と百済の「倭国進駐」

 先日の関西例会で安随俊昌さん(古田史学の会・会員、芦屋市)から“「唐軍進駐」への素朴な疑問”という興味深い研究発表がありました。安随さんは関西例会常連のお一人ですが、研究発表されるのは珍しく、もしかすると初めてではないかと思います。
 今回、満を持して発表された仮説は、『日本書紀』天智10年条(671)に見える唐軍2000人による倭国進駐記事についてで、従来、この2000人の 唐軍が倭国に上陸し、倭国陵墓などを破壊したのではないかと、古田先生から指摘されていました。ところが安随さんによれば、この2000人のうち1400 人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」だったとされたのです。
 その史料根拠は『日本書紀』で、その当該記事には、「唐国使人郭務ソウ等六百人」と「送使沙宅孫登等千四百人」と明確にかき分けられており、1400人は「送使沙宅孫登」指揮下の「送使団」とあることです。そして、送使トップの沙宅孫登の「沙宅」とは百済の職位(沙宅=法官大補=文官)であることから、 孫登は百済人であり、百済人がトップであれば、その部下の「送使団」1400人も百済人と理解するべきというものです。ですから、百済人1400人の送使 団は戦闘部隊(倭国破壊部隊)ではないとされました。
 さらに、送使団は「本体」を送る役目を果たしたら、先に帰るのが原則とされたのです(『日本書紀』の他の「送使」記事が根拠)。従って、百済人1400人が長期にわたり倭国に残って、倭国陵墓などを破壊するというのは考えにくいとされました。安随さんは他にも傍証や史料根拠をあげて、倭国に進駐した「唐軍」による倭国陵墓や施設の破壊はなかったのではないかとされました。
 この安随説の当否は今後の研究や論議を待ちたいと思いますが、意表を突いた興味深い仮説と思いました。『古田史学会報』への投稿が待たれます。この他にも、今回の関西例会では興味深い仮説やアイデアが報告されました。