日本書紀一覧

第1922話 2019/06/15

箸墓古墳改築説と応神陵の『日本書紀』不記載

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。7月はアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)、8月は福島区民センターで開催します。明日、16日はI-siteなんばで「古田史学の会」会員総会です(午前中は全国世話人会開催)。午後は大阪文化財研究所長の南秀雄さんをお招きし、「日本列島における五〜七世紀の都市化」という演題で講演していただきます(諸団体と共催。後述)。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も「姫たちの古伝承」というテーマで講演されます。
 今回は古墳について考古学と文献史学からの研究報告がありました。まず大原さんからは、箸墓古墳はホタテ貝式古墳に前方部を増築したものとする仮説が発表されました。確かに箸墓古墳の前方部の形は通常の前方後円墳とはやや異なっており、わたしも違和感を持っていました。ですから、大原さんの仮説に説得力を感じました。
 次いで、谷本さんからは、応神天皇のみが『日本書紀』にその陵墓についての記載がないことを指摘されました。従って、『日本書紀』からは応神陵の所在は不明であり、誉田山古墳を応神陵とする白石太一郎説には史料根拠がないとされました。
 百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録を目前にしたグッドタイミングの発表でした。また、谷本さんの発表ではカール・ポパーの反証主義に触れられていましたので、わたしも賛意を示し、反証可能性のない仮説は科学(学問)ではないとすることは自然科学では常識となりつつあり、その点、日本の古代史学界は「戦後型皇国史観」(近畿天皇家が古代日本列島の唯一卓越した権力者とする思想)ともいうべき反証を許さないイデオロギーに基づいていると批判しました。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①欽明-推古期の近畿天皇家系譜の異常性について(茨木市・満田正賢)
②壬申の乱(八尾市・服部静尚)
③箸墓古墳の本当の姿について(京都府大山崎町・大原重雄)
④誉田山古墳(伝応神天皇陵)の史料批判(神戸市・谷本 茂)
⑤「韓国西海岸水行説」批判(川西市・正木 裕)
⑥薩摩と南の島々の古代史《大和朝廷以前》(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆『失われた倭国年号 大和朝廷以前』増刷。拡販協力要請。
◆『古代に真実を求めて』バックナンバー廉価販売が好調。在庫僅少。
◆2019年度会費納入状況。
◆6/13 NHKBSのダークサイドストーリーで東日流外三郡誌を偽書としてとりあげ、古田氏の名前も出された。

◆6/16 13:00〜16:00 古代史講演会(会場:I-siteなんば。共催:古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会。参加費無料)
 ①「日本列島における五〜七世紀の都市化」 講師:南秀雄さん(大阪文化財研究所長)。
 ②「姫たちの古伝承」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)。
 ※京都新聞が無料告知。

◆6/16 11:00〜12:00 「古田史学の会」全国世話人会(会場:I-siteなんば)
 6/16 16:00〜17:00 「古田史学の会」会員総会(会場:I-siteなんば)
 総会終了後、希望者で懇親会開催(当日、会場で受け付け)。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催)
 7/20 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 8/17 10:00〜17:00 会場:福島区民センター
 9/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
10/19 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
11/16 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の案内。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。共催:多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)
 7/26 18:45〜20:15 「飛鳥の謎」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)。

◆「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。参加費500円)
 7/02 13:30〜17:00
 「磐井の乱-継体紀の謎に迫る-」 講師:正木 裕さん。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費500円)
 7/09 14:00〜16:00
 「徹底解説-邪馬『台』国九州説」 講師:正木裕さん。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
 6/18 18:45〜20:15 「海を渡る倭人〜魏志倭人伝に記された国々」 講師:大下隆司さん。
 7/23 18:45〜20:15 「盗まれた天皇陵」講師:服部静尚さん。

◆火曜研究会(豊中倶楽部自治会館)
 6/26 13:00〜

◆久留米大学講演会(久留米大学御井校舎)
 7/07 14:30〜16:00 「『日本書紀』に盗用された九州の神話」講師:正木裕さん。
7/14 14:30〜16:00 「筑紫の姫たちの伝説《倭国古伝》」講師:古賀達也。


第1920話 2019/06/13

「難波複都」関連年表の作成(1)

 「洛中洛外日記」1649話(2018/04/13)〝九州王朝「官道」の造営時期〟において、わたしは九州王朝「官道」の造営時期の史料根拠として次の『日本書紀』の三つの「大道」記事に注目し、確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかとしました。すなわち、前期難波宮を九州王朝が複都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えたわけです。実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解です。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』白雉4年条(653)

 他方、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できず、7世紀中頃ではちょっと遅いような気がするとも考えていました。
 今回、改めてこれらの記事を精査したところ、わたしの理解が適切ではないことに気づきました。というのも『日本書紀』白雉4年条(653)の(C)「処処の大道を修治(つく)る。」の「修治(つく)る」とは初めて大道を造ったという意味ではなく、既にあった大道を「修治(修理)」したと解すべきだからです。岩波書店『日本書紀』の「修治」に付された訓み「つくる」に惑わされたようです。
 そうすると、『日本書紀』推古21年条(613)の(B)「難波より京への大道を置く。」の記事が注目されます。難波と京(太宰府か)の間に「大道」を造営したという記事ですから、これこそ難波複都や四天王寺(難波天王寺)造営に先立ち、筑紫から摂津難波へ建設に携わる大量の物資や工人(番匠)たちの輸送のための、九州王朝(倭国)による官道造営記事だったのではないでしょうか。
 なお、この記事の「置く」という表現も微妙です。初めて大道を造営したのなら、「造る」のような表現がより適切と思われるからです。もしかすると、既にあった「道」を官道(大道)として「認定」したことを「置く」と表現したのかもしれません。この点、『日本書紀』に見える他の「置く」の用例を調査する必要があります。
 以上のような視点で『日本書紀』などの難波関連記事を見直すことにより、難波複都の歴史を復元(年表作成)できるのではないかと考えています。(つづく)


第1906話 2019/05/24

『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)

 〝七世紀後半の難波と飛鳥〟

 2017年3月、大阪歴博から驚愕すべき論文が発表されました。「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)「前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致」で紹介した佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』15号)です。
 従来、ほとんどの考古学出土報告書は『日本書紀』の記述に基づいた解釈(一元史観)を採用し、出土遺構・遺物の編年やその性格を解説するのが常でした。ところが、この佐藤論文では出土事実に基づいた解釈を優先し、それが『日本書紀』とは異なることを明示する、という考古学者としては画期的な報告を行っているのです。たとえば次のような指摘です。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。
 この考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説に見事に対応しています。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波複都は停滞を始めたと思われます。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 ついに日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れたのです。文献史学においては古田先生が『日本書紀』の記事を絶対視しせず、中国史書(『旧唐書』「倭国伝」「日本国伝」、他)などの史料事実に基づいて多元史観・九州王朝説を提起されたように、考古学の分野にもこうした潮流が地下水脈のように流れ始めたのではないでしょうか。そしてその地下水脈が地表にあふれ出すとき、日本古代史学は大和朝廷一元史観から多元史観・九州王朝説へのパラダイムシフトを起こすのです。その日まで、わたしたち古田学派は迫害や中傷に怯まず、弛むことなく前進しようではありませんか。(つづく)


第1905話 2019/05/23

『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(1)
 〝四天王寺創建瓦の編年〟

 「洛中洛外日記」1904話「那珂八幡古墳(福岡市)の多元史観報道」において、『日本書紀』の記述とは異なる出土物・遺構解釈が大阪歴博の考古学者により行われていると記しました。そのことについて紹介したいと思います。
 まず最初に紹介するのは四天王寺の創建瓦の編年についてです。すでに何度もこのことを「洛中洛外日記」でも記していますが、わたしが大阪歴博の考古学者の誠実性と眼力を信頼した瞬間がありました。わたしが初めて大阪歴博を訪れ、上町台地から出土した瓦の展示を見たときのことです。三個の素弁蓮華文軒丸瓦が展示されており、一つは四天王寺の創建瓦、二つ目は枚方市・八幡市の楠葉平野山瓦窯出土のもの、三つ目が大阪城下町跡下層(大阪市中央区北浜)出土のもので、いずれも同じ木型から造られた同范瓦です。時代も7世紀前葉とされており、620〜630年代頃と編年されています(展示説明文による)。大阪歴博のホームページによれば、これら以外にも同様の軒丸瓦が前期難波宮整地層等(歴博近隣、天王寺区細工谷遺跡、他)から出土しており、上町台地は前期難波宮造営以前から、四天王寺だけではなく『日本書紀』に記されていない複数の寺院が建立されていたようです。
 この展示の編年に驚いたわたしは、大阪歴博の考古学者で古代建築専門家の李陽浩さんに編年の根拠をお聞きしました。李さんの見解は次のようなものでした。

① 若草伽藍の創建瓦「素弁蓮華文軒丸瓦」と四天王寺の創建瓦、前期難波宮下層出土瓦は同笵瓦であり、それらの文様のくずれ具合から判断すれば、前期難波宮下層出土瓦よりも四天王寺瓦の方が笵型の劣化が少なく、古いと判断できる。
② この点、法隆寺若草伽藍出土の同笵瓦は文様が更に鮮明で、もっとも早く造営されたことがわかる。
③ しかしながら、用心深く判断するのであれば、三者とも「7世紀前半」という時代区分に入り、笵型劣化の誤差という問題もあり、文様劣化の程度によりどの程度厳密に先後関係を判定できるのかは「不明」とするのが学問的により正確な態度と思われる。
④ 史料に「創建年」などの記載があると、その史料に引っ張られることがあるが、考古学的には出土品そのものから判断しなければならない。

 以上のような説明がなされました。わたしは誠実な考古学者らしい判断と思いました。ちなみに、大阪歴博の展示解説では法隆寺若草伽藍を607年(『日本書紀』による)、四天王寺を620年頃の創建とされています。四天王寺創建年は『日本書紀』の記事ではなく、瓦の編年に基づいたと記されていました。この編年が『二中歴』の「倭京二年(619)難波天王寺創建」記事とほぼ一致していることから、大阪歴博によるこの時代のこの地域の瓦の編年精度が高いことがうかがわれました。
 このように四天王寺(天王寺)創建瓦の編年は考古学と文献(『二中歴』九州年号史料)の一致というクロスチェックが成立した事例でした。そして、この年代観の正確さと、文献(日本書紀)よりも考古学的出土事実を重視するという姿勢を知り、わたしは大阪歴博の考古学者への信頼を深めたのです。
 もちろん学問研究ですから、大阪歴博の考古学者の判断や報告書を信頼できないと批判する「自由」はあります。しかしその場合、信頼できない理由を客観的具体的根拠を示して説明することが、批判する側に要求されます。「自説と異なるから信用しない」「大阪歴博の利害によるから疑わしい」といった類いの「批判(非難)」は学問の世界では通用しません。この論法(疑わしきは誤りと見なす)を例えば法廷に持ち込めば、えん罪が多発することでしょうし、わたしが所属する自然科学系(化学)の学会ではエビデンスを示さない主張は発表そのものを拒否されます。当然ながら、そのような発表を自然科学系の学会でわたしは聞いたことがありません。(つづく)


第1883話 2019/05/03

改変された『高良記』の「白鳳」

 わたしの故郷、福岡県久留米市高良山に鎮座する筑後一宮の高良大社には『高良記』という文書があります。末尾が失われており成立年次は不明ですが、中世末期から近世にかけての成立と見られています。この『高良記』には九州年号「白鳳」が記されていますが、本来型と後代改変型の二種類の「白鳳」が混載されているという珍しい九州年号史料です。たとえば次のような「白鳳」年号記事が見えます。

 「天武天皇四十代白鳳二年ニ、御ホツシンアリシヨリコノカタ、大祝ニシタカイ、大菩垂亦ニテ、ソクタイヲツキシユエニ、御祭ノ時モ、御遷宮ノヲリフシモ、イツレモ大菩御トモノ人数、大祝ニシタカウナリ」
 「御託宣ハ白鳳十三年也、天武天皇即位二年癸酉二月八日ノ御法心也」

 このように『高良記』には高良玉垂命の御法心を「白鳳二年」と記すものと、「白鳳十三年、天武天皇即位二年癸酉」とする二例が混在しています。これは本来の九州年号の「白鳳十三年癸酉」(673年)であったものが、その年が『日本書紀』の天武二年癸酉に当たるため、「天武天皇白鳳二年」とする改変型が発生したものと思われます。そしてその両者が不統一のまま同一文書内に混在しているというケースです。
 こうした「白鳳」年号の後代改編型史料については、拙稿「盗まれた年号--白鳳年号の史料批判」(『古田史学会報』No.48 2002年2月5日)でも論じていますので、下記の「古田史学の会」HPをご参照ください。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou48/koga482.html


第1882話 2019/05/02

改変された『箕面寺秘密縁起』の「白鳳」

「洛中洛外日記」1880話で紹介した『箕面寺秘密縁起』の下記の九州年号のうち、「白鳳」がどのように改変されたのかについて改めて説明します。

①舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日 (甲午:634年)
②孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
③孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子春三月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
④孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次季(壬子)夏四月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
⑤天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳 (壬申:672年)
⑥持統天皇御宇、朱鳥八年歳次甲午春正月八日 (甲午:694年)
⑦持統天皇御宇、大化九秊乙未二月十日 (乙未:695年)
※〈〉内は二行細注。()内は古賀による注。

「洛中洛外日記」1880話では、「白鳳元年壬申」は本来の九州年号の白鳳元年(661年)ではなく、天武天皇の元年を「白鳳元年」とする後代改変形としたのですが、より正確に言えば本来は「白鳳元年辛酉」(661年)とあったものを天武天皇の元年壬申を意味する「天武天皇御宇、白鳳元年壬申」(672年)に改変したと考えられます。その証拠は日付干支の「春二月四日己巳」です。
『箕面寺秘密縁起』には何故かこの「白鳳元年」記事には日付干支が記されているのですが、この時期に「二月四日」の日付干支が「己巳」の年は661年「白鳳元年辛酉」だけです。このことから「天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳」の本来型は九州年号の「白鳳元年辛酉春二月四日己巳」であり、「天武天皇御宇」が付記され、「辛酉」(661年)が「壬申」(672年)に改変されていたことになります。このケースでは日付干支が書き換えられずに残っていたため、改変過程が明らかにできたものです。
実はこの『箕面寺秘密縁起』の「白鳳元年」記事の改変過程については、30年前にわたしは論文で発表していました。『市民の古代研究』35号(市民の古代研究会編、1989.09)に掲載された「平野・丸山論争への私見② 『箕面寺秘密縁起』の史料批判」です。自分が書いたこの論文のことを失念していました。まだ古田史学に入門して三年ほどのとき(34歳)の論文ですから、今よりももっと拙い文章なのですが論証方法や結論は間違っていないと思います。
更に史料批判を進めるならば、改変前の「白鳳元年辛酉春二月四日己巳」(661年)のこととして同縁起に記された元記事の信憑性は高いと判断できます。なぜなら元史料は本来の九州年号「白鳳」と正確な日付干支で記されていたわけですから。ちなみに同縁起の当該記事は次のようなものです。

「行者五十二歳、天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳、卯時出瀧本」

この記事では役行者が52歳のときを「天武天皇御宇、白鳳元年壬申」としているのですが、同縁起によれば役行者は「舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日」(634年)に生まれたとあることから、52歳のときは685年(九州年号の朱雀二年)であり、「白鳳元年」が仮に壬申(672年)でも、本来の癸酉(661年)でも一致しません。したがって、本来型の「白鳳元年辛酉(661年)春二月四日己巳」のとき52歳だった別の人物の伝承が、『箕面寺秘密縁起』に取り込まれたという可能性もありそうです。この点は同縁起全体の史料批判や関連伝承・史料などの調査研究により明らかにできるかもしれません。機会と時間があれば現地を訪問してみたいものです。


第1880話 2019/04/26

『箕面寺秘密縁起』の九州年号

箕面市平尾の龍安寺が蔵する『箕面寺秘密縁起』には九州年号が記されています。『修験道史料集(Ⅱ)』によれば次のようです。

①舒明天皇御宇、正(聖)徳六年〈甲午〉春正月一日 (甲午:634年)
②孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
③孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子春三月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
④孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次季(壬子)夏四月十七日 (庚戌:650年、壬子:652年)
⑤天武天皇御宇、白鳳元年壬申春二月四日己巳 (壬申:672年)
⑥持統天皇御宇、朱鳥八年歳次甲午春正月八日 (甲午:694年)
⑦持統天皇御宇、大化九秊乙未二月十日 (乙未:695年)

※〈〉内は二行細注。()内は古賀による注。

『箕面寺秘密縁起』は箕面寺草創の歴史と役行者について記したもので、江戸時代初期以前の成立と見られています。そこに記された九州年号は「不正確」であり、編纂時に「九州年号」年代記などを参照して改変付記されたものと思われます。
たとえば⑤の「白鳳元年壬申」は本来の九州年号の白鳳元年(661年)ではなく、天武天皇の元年を「白鳳元年」とした後代改変された「白鳳」です。⑥の「朱鳥八年歳次甲午」も本来の九州年号「朱鳥八年(693年)」とは一年ずれており、持統天皇元年を「朱鳥元年」とした改変型です。『万葉集』に見える「朱鳥」も同様の改変型です。
⑦の「大化九秊乙未」は改変型というよりも、本来の九州年号「大化元年乙未」の誤写(元→九)の可能性があります。なお、本稿で示した「本来の九州年号」とは最も史料価値が高い『二中歴』系の九州年号です。
『箕面寺秘密縁起』の九州年号で最も興味深いのが②③④の「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」という表記です。これでは「白雉元年」が庚戌(650年)なのか、壬子(652年)なのかわかりません。この意味不明な表記に同縁起編者の苦悩の跡が見て取れます。元史料には「白雉元年歳次壬子」(652年)とあったが、『日本書紀』の孝徳紀「白雉元年」は庚戌(650年)であるため、『日本書紀』との「整合性」を保つために細注で「庚戌」と付記したことにより、この意味不明の表記「白雉元年〈庚戌〉歳次壬子」になったのです。このとき、更に「歳次壬子」の部分を削除していれば「白雉元年〈庚戌〉」となり、『日本書紀』と矛盾しないのですが、なぜか編者はそれをしていません。その結果、同縁起に九州年号「白雉元年」の本来の姿(歳次壬子)を留めたわけです。このように、九州年号には本来型と『日本書紀』の内容に整合させるための後代改変型が各史料に散見します(例えば『高良記』の「白鳳」など)。
この「白雉」年号の二年のずれについては、三十年前にも古田学派内で論争がありました。「市民の古代研究会」時代に、九州年号研究で先駆的研究をされた丸山晋司さんは、本来の九州年号「白雉」が『日本書紀』孝徳紀に二年ずらして転用されたとする立場に立たれていました。わたしもこの意見に賛成です。
他方、熊本市の平野雅曠さんは、干支が二年ずれた暦法によるもので、共に同年のこととする説を発表され、丸山さんと激しい論争が続きました。その後、平野さんは亡くなられ、丸山さんも「市民の古代研究会」の分裂を機に九州年号研究から離れられ、この論争自体は「未決着」となりました。
この白雉元年が『二中歴』などの九州年号史料に見える「壬子(652年)」なのか、『日本書紀』孝徳紀の「庚戌(650年)」なのかについて決着をつけたのが芦屋市三条九之坪遺跡から出土した一枚の木簡でした。この木簡について、『木簡研究』には「三壬子年」と発表され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年(652年)」のことと解説されていました。しかし、この報告に疑問を感じたわたしは、古田先生等と共に兵庫県教育委員会の許可を得て同木簡を精査したところ、「三」と読まれていた文字が「元」であることを確認しました。すなわち、「(白雉)元壬子年(652年)」という九州年号木簡だったのです。調査には光学顕微鏡や赤外線カメラ(大下隆司さん撮影)を持ち込み、二時間にわたりわたしは同木簡を観察し、「元壬子年」と書かれていることを確認しました。
同木簡は出土当時は紀年銘木簡としては国内最古であり、研究者から注目されました。ところが、わたしや古田先生が九州年号「(白雉)元壬子年」木簡であることを論文や書籍(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房)で発表したとたんに、古代史学界でのこの木簡に対する取り扱いが〝冷淡〟になりました。すなわち、この木簡が九州年号や九州王朝の実在を直接的に示す同時代史料であるため、大和朝廷一元史観の学界はこの木簡の存在に触れることは〝やばい〟と判断したかのようでした。その結果、従来は「三壬子年」と紹介されていたのが、紹介しないか、紹介しても「壬子年」木簡という表記で紹介するようになり、「三」とも「元」とも触れない傾向が今も続いています。
この「元壬子年」木簡の発見は、「白雉」年号の本来型論争に決着をつけただけではなく、九州年号や九州王朝説についてもそれが真実であったことを白日の下に晒すこととなりました。もし、今回の「令和」改元ブームの中で、マスコミがこの「元壬子年」木簡の存在と意義を広く国民に知らせたなら、日本古代史はパラダイムシフトを起こすことでしょう。しかしながら、権威への忖度を旨とする現代日本のメディアにそれを期待することはできないでしょう。わたしたち古田学派は学問そのものが持つ〝真実を追究する力〟により、パラダイムシフトを起こさなければならないのです。そしてそれは可能です。あのベルリンの壁が壊れたように、人間が造った壁(歴史観)は人間によって変革することもできるのです。わたしはこのことを一瞬たりとも疑ったことはありません。


第1829話 2019/01/25

難波から出土した「筑紫」の土器(1)

 前期難波宮九州王朝副都説にとって超えなければならない〝壁〟があります。この仮説を古田先生に最初に報告したとき、九州王朝の副都であれば神籠石山城など九州王朝との関係を裏付ける考古学的証拠が必要とのご指摘をいただきました。それ以来、古田先生の指摘はわたしにとっての宿題となり、今日まで続いています。更に、難波に九州王朝が副都を置くと言うことは、その地が九州王朝にとっての安定した支配領域であることが必要ですが、そのことについては文献史学の研究により既にいくつかの根拠が見つかっています。
 一例をあげれば、『二中歴』年代歴に見える九州年号「倭京」の細注の「倭京二年、難波天王寺を聖徳が建てる」という記事があります。九州王朝が倭京二年(619)に聖徳(利歌彌多弗利か)という人物が難波に天王寺を建立したという記事ですが、大阪歴博の調査により創建四天王寺の造営年が出土瓦の編年により『日本書紀』の記述とは異なり、620〜630年頃と編年されており、これが『二中歴』の細注記事と対応しています。このことから七世紀前半の難波は九州王朝が天王寺を建立できるほどの深い繫がりがあることを示しています。
 他方、考古学的痕跡として難波から「筑紫の須恵器」が出土していることが大阪歴博の寺井誠さんにより報告されています。そのことを下記の「洛中洛外日記」で紹介しました。抜粋して転載します。(つづく)

第224話 2009/09/12
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
(前略)
 前期難波宮は九州王朝の副都とする説を発表して、2年ほど経ちました。古田史学の会の関西例会では概ね賛成の意見が多いのですが、古田先生からは批判的なご意見をいただいていました。すなわち、九州王朝の副都であれば九州の土器などが出土しなければならないという批判でした。ですから、わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。
 それは、多元的古代研究会の機関紙「多元」No.93(2009年9月)に掲載された佐藤久雄さんの「ナナメ読みは楽しい!」という記事で、寺井論文の存在を紹介されていたからです。佐藤さんは「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」の記事を紹介され、「この記事が古賀仮説を支持する考古学的資料の一つになるのではないでしょうか。」と好意的に記されていました。(後略)

第243話 2010/02/06
前期難波宮と番匠の初め
(前略)
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。(後略)


第1796話 2018/12/03

「須恵器坏B」の編年再検討について(1)

 連載した前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1〜3)の結論として、従来7世紀後半の指標とされてきた「須恵器坏B」の編年再検討が必要であり、7世紀中頃か前半頃まで遡る可能性について論究しました。
その説明について、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、わかりにくいとのご指摘がありました。読み直して見ると、確かにわかりにくいので、改めてその論理展開の道筋を説明したいと思います。わかりやすいように箇条書きにします。

 ①大規模な水利施設が難波宮の西側の谷から出土し、井戸がない難波宮のための水利施設とされた。
 ②同水利施設整地層や造営時の層位から大量の須恵器が出土し、それは坏Hと坏Gであり、7世紀後半と編年される坏Bは出土しなかった。
 ③その出土須恵器の編年と全体的な様相(GとHの出土量の割合など)から、水利施設の造営は従来の土器編年によって7世紀中頃とされた。
 ④それらの土器は兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「白雉元(三)壬子年(652)」木簡に共伴した土器と同段階である。このことにより土器と暦年がリンクでき、7世紀中頃造営説は説得力を増した。
 ⑤水利施設から出土した木枠(桶)の年輪年代測定値により、伐採年が634年とされ、出土土器の編年と一致した。このことも土器と暦年とのリンクを支持し、7世紀中頃造営説は更に説得力を増した。
 ⑥これら水利施設の出土事実と暦年とのリンクにより、前期難波宮の造営時期も7世紀中頃とされた。
 ⑦前期難波宮完成後のゴミ捨て場として使用された北側の谷から「戊申年(648)」木簡が出土した。この干支木簡の出土により、前期難波宮の造営が7世紀中頃であり、完成後に同木簡が廃棄されたと理解された。「戊申年(648)」は天武期(672〜686年)とは20年以上離れており、どこかで20年以上保管されていた「戊申年(648)」木簡が天武期になって廃棄されたとしなければならない天武期造営説では説明しにくく、同木簡の出土は孝徳期造営説に有利である。
 ⑧その後、前期難波宮北側から出土した柱の最外層の年輪セルロース酸素同位体年代測定値(583年、612年)が7世紀前半造営説に有利であることも判明した。これら理化学的年代測定はいずれも7世中頃造営を支持し、理化学的年代測定による7世紀後半(天武期)とする遺物は今日に到るまで出土していない。
 ⑨こうして考古学的に確立した前期難波宮7世紀中頃造営説に対応する文献事実として、『日本書紀』孝徳紀白雉三年条に見える「巨大宮殿」完成記事と前期難波宮を結びつけることが可能となった。通説ではこれを「難波長柄豊碕宮」のこととする。
 ⑩こうした経緯から、ほとんどの考古学者が「難波編年」とそれに基づく前期難波宮孝徳期造営説を支持するに到った。

 以上のような緻密な考古学的・理化学的知見の積み上げにより、前期難波宮孝徳期造営説が成立しました。この説が『日本書紀』孝徳紀白雉三年の造営記事を無批判に「是」として、その立場から出発したものではないことが、「難波編年」の最大の強みだとわたしは理解しています。(つづく)


第1787話 2018/11/20

佐藤隆さんの「難波編年」の紹介

 前期難波宮の造営時期をめぐって孝徳期か天武期かで永く論争が続きましたが、現在ではほとんどの考古学者が孝徳期造営説を支持しています。その根拠とされたのが佐藤隆さんが提起された「難波編年」でした。この佐藤さんによる「難波編年」は多くの研究者から引用される最有力説となっています。
 ただ、その論文が収録された『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月 大阪市文化財協会)はまだWEB上に公開されていないようで、研究者もなかなか見る機会がないと思われます。わたしは京都市に住んでいることもあり、大阪歴博の図書館(なにわ歴史塾)で同書を閲覧することが容易にできます。そこで、同書に記された前期難波宮造営年代に関する「難波編年」のキーポイントをここで紹介することにします。研究者の皆さんのお役に立てば幸いです。
 佐藤さんが同書で「難波編年」を論じられているのは「第2節 古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」です。佐藤さんは出土土器(標準資料)の様式により「難波Ⅰ〜Ⅴ」と五段階に分類され、更にその中を「古・新」あるいは「古・中・新」と分類されました。そして前期難波宮造営期頃の土器(SK223・水利施設7層)を「難波Ⅲ中」と分類され、暦年代として「七世紀中葉」と編年されました。その編年の根拠として次の点を挙げられています。

①飛鳥の水落遺跡出土土器(667-671年)よりも確実に古い。
②水利施設出土木枠の板材の伐採年代が年輪年代測定により634年という値が得られている。
③兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「白雉元(三)壬子年(652)」木簡に共伴した土器が同段階である。
④655年には存在した川原宮の下層出土土器と同段階。

 ここで注目すべきは、前期難波宮を『日本書紀』孝徳紀に見える白雉三年(652)造営の宮殿とすることを自らの編年の根拠にあえて入れていないことです。というのも、前期難波宮の造営が孝徳期か天武期かで論争が続けられてきたという背景があるため、『日本書紀』孝徳紀の記述とは切り離して前期難波宮の編年を行う必要があったためと思われます。こうした佐藤さんの姿勢はとても学問的配慮が行き届いた考古学者らしいものとわたしは思いました。わたしが七世紀における「難波編年」の精度を信頼したのも、こうした事情からでした。


第1769話 2018/10/07

土器と瓦による遺構編年の難しさ(6)

 創建法隆寺(若草伽藍)出土瓦には異なる年代のものが併存しているにもかかわらず、『昭和資財帳』によればそれら多種類の軒瓦は「前期(592-622年)」「中期(622-643年)」「後期(643-670年)」と分類されています。この分類の当否は別として、これほど暦年にリンクできたのは『日本書紀』という文献史料の存在があったからです。『日本書紀』に記された法隆寺関連記事を根拠に、相対編年した瓦を暦年にリンクできたのですが、その場合は『日本書紀』の法隆寺関連記事が正しいという前提が必要です。特に古田学派にとっては、『日本書紀』は九州王朝の存在を隠し、近畿天皇家に不都合な記事は書き換えられている可能性があるという立場に立っていますから、なおさら慎重な史料批判が必要です。
 この点に関しては、天智19年条の記事「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」の通り、火災の痕跡を示す若草伽藍が発見されたことにより、『日本書紀』の法隆寺関連記事は信頼できるとされました。少なくとも創建年代や焼亡年代について積極的に疑わなければならない理由はありませんから、出土瓦は606年(推古14年)の創建頃から670年(天智19年)の焼失までの期間に編年されたわけです。このように瓦の編年が暦年にリンクできたのはとても恵まれたケースといえます。
 付け加えておきますと、法隆寺西院伽藍から出土した一群の瓦は「法隆寺式瓦」と呼ばれますが、これは創建法隆寺(若草伽藍)が焼亡した後、和銅年間に移築された現法隆寺(西院伽藍)の移築時に使用された瓦と思われます。その文様は複弁蓮華文などで7世紀後半から8世紀に編年されています。西院伽藍そのものは五重塔芯柱の年輪年代測定などから6世紀末頃から7世紀初頭に建立された寺院と見られており、古田学派では九州王朝の寺院を移築したものと理解されています。しかし、移築時に重く割れやすい瓦は持ち込まれず、斑鳩の近くで造られた瓦が使用されたのではないでしょうか。少なくとも「法隆寺式瓦」の編年を7世紀初頭とすることは無理ですから、このように考えざるを得ません。(つづく)


第1756話 2018/09/22

7世紀の編年基準と方法(4)

 太宰府出土の「戸籍」木簡の成立年を685〜700年まで絞り込むことができると説明しましたが、それは二つの先行研究の成果によっています。一つは木簡に記された「嶋評」という「評制」が7世紀中頃に始まり700年まで続いたとする通説が多くの先行研究の結果により成立していること、二つ目は「進大弐」という位階が『日本書紀』天武14年条(685年)に制定(48等の位階)されたとする記事があり、この記事が信頼できるとする先行研究です。
 「評制」が7世紀中頃に開始されたとする根拠については拙論「『評』を論ず -評制施行時期について-」(『多元』145号、2018年4月)で詳述していますので、ご参照ください。また、「評制」が700年に終わり、翌701年から「郡制」に替わったことは、藤原宮などからの出土木簡により確認されています。
 『日本書紀』天武14年条(685年)の位階制定記事が信頼できるとする理由についても諸研究がありますが、次の出土木簡を紹介し、説明します。市大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』によると、藤原宮から大量出土した8世紀初頭の木簡に、次のような記載があります(210頁)。
 「本位進大壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」
 山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進大壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「進大壱」も天武14年に制定された位階制度です。この木簡から、大宝元年(701年)〜二年に制定された『大宝律令』による新位階制度へ変更されたことがわかります。従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土「戸籍」木簡も7世紀末頃のものと判断できるのです。
 更に那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年)の「追大壹」叙位記事も天武14年(685年)制定の位階であり、7世紀末にこれら位階が採用されていたことがわかります。このように、藤原宮出土木簡や那須国造碑などのような同時代史料により、『日本書紀』天武14年の位階制度制定記事が歴史事実と見なして問題ないとする通説が成立しています。
 こうした先行研究の成果により、太宰府出土「戸籍」木簡の編年を685〜700年とする判断が妥当とできるわけです。一元史観の「戦後実証史学」は、決して『日本書紀』の記述を無批判に受け入れて「成立」しているケースだけではないのです。
 なお、付言しますと、一元史観では以上の編年や考察で一段落するのですが、多元史観・古田説ではここから更にこの位階制度の制定主体が『日本書紀』にあるように近畿天皇家の天武でよいのか、九州王朝の天子によるものなのかという研究課題が待ち構えています。(つづく)