孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (3)
九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを示す『日本後記』『日本文徳天皇實録』の記事よりも更にはやい、八世紀の史料『住吉大社神代記』があることを谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えて頂きました。『住吉大社神代記』は、わたしも三十年前に研究したことがあり、当時の資料ファイルを書架から引っ張り出しました。わたしが持っている「校訂住吉大社神代記」(注)コピーには、「長柄」地名が記されている部分に傍線を引いていましたので、わたしも注目していたようです。当該部分を引用します。
「長柄神」〔長柄の神〕
「難波長柄泊賜。膽駒山嶺登座時。」〔難波の長柄に泊り賜ふ。膽駒山の嶺に登り座す時。〕
「自長柄泊登於膽駒峯賜」〔長柄の泊(とまり)より膽駒の嶺に登り賜ひて〕
「長柄船瀬本記
四至(東限高瀬。大庭。南限大江。西限鞆淵。北限川岸。
右。船瀬泊~」〔長柄船瀬の本記 四至(東を限る、高瀬・大庭。南を限る、大江。西を限る、鞆淵。北を限る、川*岸。 右の船瀬泊は~)〕 ※「*岸」は土偏に岸。
「自筑紫難波長柄 仁 依坐 弖」〔筑紫より難波の長柄に依り坐して〕
『住吉大社神代記』の奥書には「天平三年七月五日」(731年)とあり、この成立年次が正しければ八世紀前半には「長柄」地名があったことになります。しかも、「長柄船瀬本記」に見える長柄船瀬の四至により、長柄船瀬は上町台地の北にあると理解されているようです。脚注に次の説明があります。
○高瀬―和名抄、河内国茨田郡高瀬郷あり。播磨国風土記に「摂津国高瀬之済」とみゆ。行基年譜に「直道一所、高瀬より生馬大山への登道あり」とみえることに注意。
○大庭―河内志、茨田郡に大庭荘・大庭渠あり。
○大江―上町台地の北にそそぐ河内川なるべし。
○鞆淵―摂津志、東生郡に友淵あり。
○川*岸―この川は摂津志西生郡の長柄河(一名中津川)なるべし。
この脚注が正しければ、長柄船瀬は大阪市北区長柄の地にあったとしてもよいように思いますし、大きくは外れていないのではないでしょうか。(つづく)
(注)田中卓『住吉大社史』上巻「校訂住吉大社神代記」「訓解住吉大社神代記」1963年。