史料批判一覧

第3429話 2025/02/13

『三国志』短里説の衝撃 (4)

    ―『三国志』の中の短里―

 仁藤敦史氏は〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟(注①)とするのですが、その大前提となるのが『三国志』が漢代の里単位「長里」(一里約400m強)により里程記事が書かれているとする解釈です。これで倭人伝などの里程記事が問題なく読めるのであればまだしも、実際の距離とは5~6倍近く異なるため、諸説が出されてきたのですから、研究者として魏代の里単位が何メートルなのかを確認する作業が不可欠なはずです。しかし、仁藤氏の論文や著書にはその作業がなされた形跡が見えません。

 他方、古田武彦氏は〝単位問題では、いつでも、「その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。」〟(注②)として、『三国志』に書かれている里程記事を調査して、実際の距離との比較により、一里を「七五~九〇メートルで七五メートルに近い値」とする短里説を提唱しました。なお、谷本茂さんによる『周髀算経』の研究(注③)により、短里は一里76~77mであることが有力となりました。長里は一里435mとされています。具体的には次のような史料根拠と計算に基づいています。古田先生があげた多数の例から一部を紹介します。

○(一大国)方三百里なる可し。〔魏志倭人伝〕
壱岐島は約20kmの正方形内に収まり、短里では概略妥当であり、長里ではまったく妥当しない。ちなみに、魏の張政が軍事司令官(塞曹掾史)として二十年間倭国に滞在していたことが知られている。その軍事報告に基づいて倭人伝は記されていると考えられ、小島の壱岐島を五~六倍(面積比で二五~三六倍)の大きな島と張政が見間違うはずがない。
○(韓)方四千里。〔魏志韓伝〕
韓半島の南辺約300km÷4000里=約75m。東夷伝中の韓伝で短里が使用されている例。
○天柱山高峻二十余里。〔魏志張遼伝〕
天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。
○北軍を去ること二里余、同時発火す。〔呉志周瑜伝〕
周瑜伝裴注に江表伝が引文されている。その赤壁の戦の描写中にこの記事がある。呉の軍船が揚子江の中江に至って「降服」を叫んだのち、「二里余」に至って発火した。この赤壁の川幅は約400~500mであり、短里なら適切だが、長里ではとうてい妥当しない。公表伝は西晋の虞薄の著作であるから、『三国志』と同じく、短里で書かれていたことが判明する。

 以上のように『三国志』は魏・西晋朝の公認里単位「短里」で書かれており、当然のこととして倭人伝の里程記事も短里で読むべきです(注④)。したがって、郡(帯方郡)から倭国の都までの総里程「万二千余里」も短里であり、その到着点は博多湾岸(筑前中域)となります。他方、当地は「弥生銀座」と称されているように、弥生時代の鉄器、漢式鏡の列島内最多出土地で、最大の都市遺跡比恵那珂遺跡群(福岡市博多区・他)もあります。短里による行程理解と考古学出土物の双方が、倭国の都として同じ地点を指し示しているのです。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。
③谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』177号、1978年。
④「古田史学の会」研究者により、『三国志』内に長里が使用されている例が発見されている。『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年)を参照されたい。


第3428話 2025/02/12

『三国志』短里説の衝撃 (3)

     ―「短里説」無視の構造―

 「邪馬台国」畿内説の仁藤敦史氏の著書・論文(注①)には、短里説は全く触れられていません。その理由は、仁藤氏が採用した次のような論理構造の(ⅰ)と(ⅱ)にあります。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく、厳密な史料批判、東アジア的分析視角、考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値となっており、魏王朝の間接的な支配が及ぶ、限界の地という意味を持たされていたことになる。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 仁藤氏は(ⅰ)を大前提に論を進めるのですが、実はその大前提が間違っています。前半の〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟というのは仁藤氏の意見であり、それが正しいかどうかは検証の対象です。学問では当たり前のことですが、自らの意見を自説成立の前提とはできません。そのようなことは学者である仁藤氏には分かりきったことのはずです。ですから、後半の〝この点は衆目の一致するところである〟という一文が続いているわけですが、これもまた仁藤氏の意見です。すなわち、それも検証の対象であり、自説成立の前提にはなりません。しかも、「衆目の一致」という意見は二重の意味で誤りです。まず、学問の当否は多数決では決まらないという点で誤っています。更に、古田先生をはじめ(注②)、倭人伝の里程記事は短里によれば比較的正確な行程であり、日本列島内に位置づける説が複数の研究者(注③)から発表されています。したがって、衆目は決して一致しているわけではありません。

 (ⅱ)に至っては、長里説(一里約400メートル強)を論証抜きの大前提として初めて言えることであって、短里であればその大前提が崩れ、〝当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低い〟とする仁藤氏の解釈そのものが成立しません。こうした論理構造からもうかがえるように、畿内説は〝倭人伝の里程記事を信用しない理由〟を、それぞれの論者が〝手を変え品を変え〟て、今日まで発表し続けているといっても過言ではありません。この状況こそ、古田先生が

 「倭人伝中の里数値を漢代の里単位と同じ「単位」に解して、〝とんでもない錯覚〟の中に躍らされてきた、研究史上の苦い経験があります。たとえば、
○(韓)方四千里。 (魏志韓伝)
○郡(帯方郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里 (魏志倭人伝)
を、〝大風呂敷だ〟と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。」

 と、50年前から言われてきたことなのです(注④)。近年の畿内説論者が、短里説の存在そのものに触れようともしない真の理由がここにあると、わたしは睨んでいます(ⅰとⅱの大前提が崩れるため)。ちなみに、古田先生の学問の方法は彼らとは真逆です。その精神が、名著『「邪馬台国」はなかった』の序文に次のように記されています。

 「わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰さがわたしを導きとおしてくれたのである。
はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。
その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③安本美典氏や荊木美行氏(皇學館大学教授)は短里説を採用し、「邪馬台国」の位置を筑前朝倉や筑後山門とする。小澤毅(三重大学教授)も北部九州説である。
小澤毅「『魏志倭人伝』が語る邪馬台国の位置」『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。
④古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。


第3427話 2025/02/11

『三国志』短里説の衝撃 (2)

 ―「短里・里程」論争の研究史―

 「邪馬台国」畿内説の仁藤敦史氏の著書・論文(注①)には、短里説は全く触れられていません。谷本さんが指摘された「里数値はまったく信頼できないものとして無視し、里数値以外の情報にもとづいて女王国の位置を求めようとする立場」に立っています。もちろん、自説成立のために短里説を否定するのはかまいませんが、それならば短里説を紹介し、根拠をあげて学問的に批判するのが学者や研究者のあるべき姿だとわたしは思います。

 短里説が取るに足らない仮説であるのならば、古田先生が『三国志』短里説を1971年に発表した後(注②)、あれほど長期にわたる論争が続くはずもありません。良い機会ですので、当時の短里・里程論争の関連著書を紹介します。
古田先生と谷本茂さんの共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(注③)で、谷本さんが次の書籍・論文を紹介しています。

【「魏・西晋朝短里説」への反論】
○山尾幸久『魏志倭人伝』講談社、1972年
○白崎昭一郎『東アジアの中の邪馬臺国』芙蓉書房、1978年。
○佐藤鉄章『隠された邪馬台国』サンケイ出版、1979年。
○安本美典『「邪馬壹国」はなかった』新人物往来社、1980年。
○『季刊邪馬台国』12号、梓書院、1982年。13号、1982年。35号、1988年。などに里程の特集。
○原島令二『邪馬台国から古墳の発生へ』六興出版、1987年。
○石田健彦「『三国志』の里単位について ―「赤壁の戦」を疑う―」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。

【里程論争について】
○三品彰英『邪馬台国研究総覧』創元社、1970年。
○篠原俊次「魏志倭人伝の里程単位」『季刊邪馬台国』35号、1988年
○古田武彦『古代は沈黙せず』駸々堂出版、1988年。
○古田武彦編『古代史討論シンポジウム 「邪馬台国」徹底論争』第一巻 言語、行路・里程編、新泉社、1992年。
○秦政明「『三国志』における短里・長里混在の論理性」『市民の古代』15集、新泉社、1993年。
○帯刀永一「短里説・長里説の再検討」『市民の古代』15集、新泉社、1993年。

【『周髀算経』に基づく短里説批判とそれへの反論】
○篠原俊次「一寸千(短)里説批判」『五条古代文化』30号、五条古代文化研究会、1985年。
○篠原俊次「魏志倭人伝の里程単位 ―その4―」『計量史研究』8号、日本計量史学会、1985年。
○谷本茂「『周髀算経』の里単位について」『季刊邪馬台国』35号、梓書院、1988年。

 このように50年以上前から、20年間にわたって続けられた「短里・里程」論争に一切触れない仁藤氏の論文・著書を、「時代を50年逆行している」と谷本さんが批評したのはもっともなことです。最後に、倭人伝中の里単位について言及した古田先生の著書『邪馬一国への道標』(注④)の次の一文を紹介します。

 「倭人伝中の里数値を漢代の里単位と同じ「単位」に解して、〝とんでもない錯覚〟の中に躍らされてきた、研究史上の苦い経験があります。たとえば、
○(韓)方四千里。 (魏志韓伝)
○郡(帯方郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里 (魏志倭人伝)
を、〝大風呂敷だ〟と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。つまり、単位問題では、いつでも、〝その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。〟」同書一〇七頁 (つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
④古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。

【写真】『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』出版30周年記念講演会での谷本さんと古賀の祝賀講演。東京朝日新聞社ホールにて、2001年10月8日。


第3425話 2025/02/09

『三国志』短里説の衝撃 (1)

 ―短里説を避ける「邪馬台国」畿内説―

 〝倭人伝「七万余戸」の考察 (1)~(5)〟として続けてきた前話までの論点を〝『三国志』短里説の衝撃〟に変えて、「邪馬台国」畿内説論者、仁藤敦史氏の著書・論文(注①)が「時代を50年逆行している」ことについて詳述します。
短里説をテーマとした古田先生と谷本茂さんの共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(注②)には、谷本さんによる次の的確な分析が示されています。

 「『三国志』倭人伝には、魏の直轄地帯方郡(郡治は現在のソウル付近)から倭の女王の都する邪馬壹国までの行路里程が記されている。全体の行程は、郡(帯方郡)より女王国(邪馬壹国)に至る万二千余里とある。進行方向は大略南であるから、一里=四〇〇メートル強の通常の魏代の里単位で理解しようとすると、ソウル近辺から南へ五〇〇〇キロメートルの遠隔地が女王国の候補地となる。はるか熱帯のどこかの島に卑弥呼がいたのであろうか。(中略)一般の古代史研究者は、あくまでも女王国を日本列島内に求めようと努力している。
したがって、倭人伝の行路里程記事に対する態度は、論理的に二つに分かれざるをえない。里数値はまったく信頼できないものとして無視し、里数値以外の情報にもとづいて女王国の位置を求めようとする立場と、里数値を合理的に解釈しようと努力する立場とがある。」98ページ

 仁藤氏の場合は他者の研究や様々な解釈を並べますが、本質的には前者の立場をとります。氏の論文「倭国の成立と東アジア」と著書『卑弥呼と台与』では、自らの立場(里数値はまったく信頼できない)を表明し、「邪馬台国」畿内説へと結論づけます。その主たる論理構造は次のようです。ちなみに短里説には全く触れていません。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく、厳密な史料批判、東アジア的分析視角、考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値となっており、魏王朝の間接的な支配が及ぶ、限界の地という意味を持たされていたことになる。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 以上のような論理構造を持つ仁藤説ですが、ひとつずつ検証することにします。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。


第3420話 2025/02/03

倭人伝「七万余戸」の考察 (1)

 八王子セミナー(注①)の実行委員として、橘高修さん(東京古田会副会長)と意見交換する機会に恵まれました。今、検討しているテーマは、『三国志』魏志倭人伝に記された邪馬壹国の人口記事「七万余戸」の信頼性についてです。当該記事は次のようです。

 「南至邪馬壹國、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。」

 一戸の人数がどれくらいかはわかりませんが、仮に5~10人であれば「七万余戸」の邪馬壹国の人口は35~70万人になります。橘高さんから教えていただいたのですが、現代の人口推計学によると、弥生時代の列島の人口(北海道・沖縄を除く)は約60万人とのことなので(注②)、倭人伝の「七万余戸」という記事は誇張されたもので信頼できないとされています。また、弥生時代に戸籍制度があったとは思われないことも、この「七万余戸」という史料事実を歴史事実とはできない理由になっているようです。

 他方、文献史学の方法からすれば、確たる根拠もなく、現代人の認識とあわないという理由で史料事実を否定してはならず、まずは書かれてあるとおりに古代中国人の認識として理解しておくということになります。そのため、現代人による人口推計値約60万人が、どの程度確かな方法や理論により成立しているのかを調べることが必要です。

 更に、もう一つの課題である、邪馬壹国の時代に戸籍があったのか、当時の一戸は何人くらいなのかという調査も必要です。橘高さんの問題提起を受けて、わたしはこれらのテーマについて勉強を始めました。(つづく)

(注)
①八王子市にある大学セミナーハウス主催の「古田武彦記念古代史セミナー」の略称。毎年11月に開催。協力団体として「古田史学の会」も参加している。
②鬼頭宏『図説 人口で見る日本史』PHP出版、2007年。


第3414話 2025/01/23

『九州倭国通信』217号の拙稿紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.217号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「チ。-地球の運動について- ―真理(多元史観)は美しい―」を掲載していただきました。同稿は「美しい」というキーワードで多元史観を論じたもので、その前編です。

 前編ではNHKで放映されたアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)を引用しながら、中世ヨーロッパでの地動説研究者と多元史観で研究する古田学派との運命と使命について比較表現しました。原稿は次の言葉で締めくくりました。

 「あなた方(一元史観の学者)が相手にしているのは僕じゃない。古田武彦でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。それは流行病のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」

 後編では、中国史書の解釈において、一元史観よりも多元史観が「美しい」ことを具体的に比較紹介します。

 なお、「古田史学の会」と「九州古代史の会」との友好関係は、今年も更に深まることでしょう。1月19日の新春古代史講演会には同会の前田事務局長ら三名の方が見えられました。わたしたちも同会月例会での研究発表を今年もさせていただく予定です。

(注)『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて連載(二〇二〇~二〇二二年)。十五世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちを描いたフィクション作品。二〇二二年、単行本累計発行部数は二五〇万部突破。二〇二三年、第十八回日本科学史学会特別賞受賞。


第3412話 2025/01/20

超満員御礼! 新春古代史講演会

 昨日、キャンパスプラザ京都で開催した新春古代史講演会は108名という多数の御参加で超満員となり、大盛況でした。参加者や関係者の皆様、講演していただいた三名の講師(注)の方々に厚く御礼申し上げます。そして、定員オーバーのため、途中退室要請に応じていただいた十数名の皆様(古田史学の会・関西の皆さん・他)には心より感謝申し上げます。この方々のご協力がなければ、講演会を無事に終了することはできなかったかもしれません。

 今回の講演会は、多くの案内チラシを各地の図書館や大学などに配布し、講師の方々の前評判が高かったこともあり、各地からの問い合わせ電話が連日のように届きました。当日は京都新聞の取材もありました。遠く関東、南は佐賀県・福岡県からもご参加いただきました。中でも友好団体の「九州古代史の会」の前田事務局長・田中前会長・松中さんがご来場され、旧交を温めました。講演会後の懇親会には講師の中尾先生・関川先生・正木先生にもご参加いただき、とても楽しい京の一夕となりました。

 昨年から続けてきた「古田史学の会」創立30周年記念イベントも、この京都講演会で終了です。これからは創立40周年に向けて、決意も新たに前進してまいります。会員の皆様には様々な機会にご参加頂き、ご意見ご要望などお寄せ頂けましたら幸いです。

《追補》今日の午前中は、佐賀県から講演会に見えられたKさんと出町商店街のカフェ〝出町ビギン〟でお会いしました。Kさんは元東京新聞の記者で、古田先生の訃報を掲載していただいた方。九年ぶりの再会でした。午後は八王子セミナー実行委員会にリモート参加。
関西例会・新春講演会・セミナー実行委員会と連日のハードスケジュールが続き、その合間を縫って『古代に真実を求めて』28集のゲラ校正や『古田史学会報』投稿原稿の査読、論文執筆などを行いました。会務を徐々にでも後継に委ねたいと願っています。

(注)《講師・演題》
中尾智行氏 (文化庁 博物館支援調査官) 考古学と博物館の魅力を未来に
関川尚功氏 (橿原考古学研究所元所員) 畿内ではありえぬ「邪馬台国」 ―考古学から見た邪馬台国大和説―
正木 裕氏 (古田史学の会・事務局長、元大阪府立大学理事・講師) 百済の古墳と「倭の五王」


第3411話 2025/01/19

法隆寺移築説の画期と課題

 「新年の読書」で紹介した法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)のうち、最も新しく説得力がある移築説の優れている点と残された課題について紹介します。

 若草伽藍の発掘により再建説が定説になりましたが、塔の心礎が現法隆寺の方が古い様式であったり、金堂や塔の建築様式、釈迦三尊像の年代が飛鳥時代に遡ること、そして心柱底部断面の年輪年代測定により、伐採年が五九四年であることも明らかになり、現法隆寺の塔や金堂などが飛鳥時代(七世紀初頭頃か)の建造物であることが有力となり、これらのことを再建説では説明ができなくなりました。

 ところが、米田良三さん(建築家)が発表した移築説(注①)は、九州王朝(倭国)により七世紀初頭に建立された古い寺院を、若草伽藍焼失後に移築したというものですから、再建説では説明困難だった諸問題を解決できたのです。ところが移築説にも克服すべき課題がありました。それでは移築元の寺院はどこにあったのかという課題でした。米田さんは太宰府の観世音寺であるとされたのですが、大越邦生氏や川端俊一郎氏は観世音寺とする米田説に異論を唱えました(注②)。一方、飯田満麿氏からは建築家らしく、古代建築技術の視点から大越氏や川端氏の反論は根拠不十分とする見解が出されました(注③)。わたしも米田さんの観世音寺説は成立しないとする論文を発表し(注④)、東京で開催されたシンポジウムでも米田さんと論争を繰り広げました。
わたしの主張とそのエビデンスは以下のようなものでした。

〔1〕観世音寺が移築されたのであれば、その跡は更地になるはずだが、観世音寺は八世紀以後も存在しており、火災で焼亡するのは平安時代のことである。この一点で、観世音寺移築説は仮説としてさえも成立しない。『平安遺文』に次の火災記事が見える。
○筑前國観世音寺三綱等解案(内閣文庫所蔵観世音寺文書)
「當伽藍は是天智天皇の草創なり。(略)而るに去る康平七年(一〇六四)五月十一日、不慮の天火出来し、五間講堂・五重塔婆・佛地が焼亡せり。」(古賀訳)
元永二年(一一一九)三月二七日
『平安遺文』所収〔一八九八〕

〔2〕観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式であり、七世紀後半に編年されており、現法隆寺の創建時期である七世紀前半(飛鳥時代)にまでは遡らない。

〔3〕観世音寺の塔の心礎は基壇の上面にあり、基壇より下に心礎がある現法隆寺とは全く異なる。

〔4〕観世音寺の創建年次を記す史料には白鳳期(『二中歴』)、具体的には白鳳十年(670)であり、瓦の編年や塔心礎の様式編年と一致する。

〔5〕史料によれば、観世音寺の本尊は百済伝来の阿弥陀如来像とされており、現法隆寺の釈迦三尊像とは異なる(注⑤)。

 以上の理由から、観世音寺を法隆寺の移築元寺院とする米田説には反対です。しかしそれでもなお、移築説という仮説に至った米田さんの業績は色褪せるものではありません。そして、移築説にとっての残された課題、移築元寺院の追求がわたしたち古田学派研究者にとっての重要課題です。米田さんを越える優れた研究が待たれます。(おわり)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された 大宰府から斑鳩へ』新泉社、1991年。
②大越邦生「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)(その二)」、『多元』No.43・44、2001年6月・8月。
川端俊一郎『法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築』2001年6月、『北海道学園大学論集』第108号所収。
③飯田満麿「法隆寺移築論争の考察─古代建築技術からの視点─」2001年10月、『古田史学会報』46号。
④古賀達也「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」『古田史学会報』49号、2002年4月。
⑤同「百済伝来阿弥陀如来像の流転 ―創建観世音寺と百済系素弁瓦―」『東京古田会ニュース』181号、2018年。
同「洛中洛外日記」1638~1644話(2018/04/01~08)〝百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)~(6)〟


第3408話 2025/01/08

新年の読書、

 法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)

 「新年の読書」で紹介している李進煕さんの論文「飛鳥寺と法隆寺の発掘」(注①)は、法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)のうちの非再建説ですが、その非再建説のなかで最も説得力のある主張が、李進煕さんも述べている次の指摘でした。

〝非再建説の重要なよりどころは、現在の法隆寺西院の金堂、塔、中門が大化改新(六四五年)以後には公的に使われなくなる高麗尺で設計されていることである。つまり、高麗尺(今のかね尺の一尺一寸七分五厘)と大化後の公用尺である唐の大尺(今の曲尺の九寸八分)の両方で測ってみると、高麗尺ではきちんと割り切れる数字となるけれども、唐の大尺では端数が出るのである。〟

〝こうしてみると、現在の法隆寺西院の建築様式が改めて問題とならざるをえない。いままでは、石田氏の「若草伽藍跡」発掘の結果をふまえて六七〇年の火災後の再建と認めながらも、建築様式は飛鳥時代のそれを踏襲しているということにならざるをえなかった。〟

〝また、六二三年(推古三一)につくられた金堂の釈迦三尊像についての疑問も解消する。再建説にたてば、一屋も残さず災(ママ)上したというそれこそ火急のときに、あれだけの重量のものをはたして搬出しうるのか、という疑問がどうしても解消しないのである。〟

 これらの指摘はもっともなものです。後に、心柱底部断面の年輪年代測定により、伐採年が五九四年であることも明らかになり、現法隆寺の塔や金堂などが飛鳥時代(七世紀初頭頃か)の建造物であることが有力となりました。

 他方、若草伽藍が火災で焼失したことは疑えず、現法隆寺との位置関係から、若草伽藍焼失後に法隆寺が建てられたこともまた疑えません。しかし、李進煕さんが指摘したように、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのも事実です。

 ところが、これらの矛盾点を解決しうる説が、1991年に米田良三さん(建築家)から発表されました(注②)。それは、飛鳥時代の様式を持つ九州王朝の古い寺院が、若草伽藍焼失後に移築されたとする法隆寺移築説です。その根拠は、昭和の解体修理工事により明らかとなった法隆寺の建築部材の調査報告書でした。そこには移築の痕跡が遺っていることを建築学的に明らかにされ、移築にあたり金堂と塔の位置が左右逆になっており、元々の伽藍配置は観世音寺式伽藍配置と呼ばれるものであることなどから、移築元寺院を太宰府の観世音寺としました。この移築説は九州王朝説とも対応しており、古田学派内では最有力説として注目されましたが、学界は米田説に対して沈黙したままです。(つづく)

(注)
①李進煕「飛鳥寺と法隆寺の発掘」『日本のなかの朝鮮文化』44号、朝鮮文化社、1979年。
②米田良三『法隆寺は移築された 大宰府から斑鳩へ』新泉社、1991年。


第3407話 2025/01/05

新年の読書、

  李進煕「飛鳥寺と法隆寺の発掘」

「新年の読書」に選んだ『日本のなかの朝鮮文化』(注①)の44号に掲載された李進煕さんの論文「飛鳥寺と法隆寺の発掘」は、法隆寺再建説で決着した論争に対して、非再建説を新たな視点で論じたものです。それは、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのものです。

この他にも李進煕さんは若草伽藍発掘調査報告の矛盾点を指摘し、若草伽藍には火災の痕跡が見えないと主張します。

〝「心礎」が通説どおり地上に据えられていたならば、その上に建っていた木造の塔が六七〇年火災で焼け、心礎もぼろぼろに焼けただれているはずである。しかし、そうした痕跡は認められない。また、石田氏(石田茂作)が塔と金堂跡だと推定した「遺構」の周辺から焼土と木炭が認められたが、それはほんの一部にかぎられていて、「一屋余すところなく焼けてしまった」状態を示すものではなかった。この程度の「焼土と木炭」では、天智九年火災の証拠とはならないのである。〟

このような李進煕さんの主張は、「飛鳥寺と法隆寺の発掘」を発表した1979年当時であれば一定の説得力がありましたが、現在までの発掘調査により、若草伽藍の西側から火災で焼けたと思われる壁画片や熱で熔けた金属(注②)、南側からは焼けた壁土片(注③)が出土しており、若草伽藍が火災で焼失したことは疑えず、『日本書紀』天智九年条の法隆寺火災記事は信頼できると思われます。

喜田貞吉氏の〝燃えてもいない寺が燃えてなくなったなどと『日本書紀』編者は書く必要がない〟とする主張(論証)が正しかったことが、今日までの考古学的出土事実(実証)により明確となりました。(つづく)

(注)
①『日本のなかの朝鮮文化』44号、朝鮮文化社、1979年。
②2004年12月10日付朝日新聞(WEB版)によれば、若草伽藍跡の西側で7世紀初めの彩色壁画片約60点が出土し、『日本書紀』に記述される670年の火事で焼失した寺の金堂や塔の壁画とみられる。破片は1千度以上の高温にさらされており、創建法隆寺(若草伽藍)の焼失を裏づける有力な物証ともなった。また、溶けた金属片も確認された。創建法隆寺は内部まで焼き尽くす火災に遭ったことが推測されるとのこと。
③2024年3月1日の産経新聞(WEB版)によれば、若草伽藍の南端の可能性が高い溝跡が発掘調査により見つかり、溝跡には7世紀の瓦が大量に廃棄されており、焼けた壁土片もあることから建物が火災で焼けた後にまとめて捨てられたとみられるとのこと。


第3405話 2025/01/01

新年の対話、数学者との賀正宴

 令和七年の元旦、京都は快晴。今年もカフェ〝出町ビギン〟でおせちと銘酒獺祭(だっさい。注①)をいただきました。言わば賀正宴です。獺祭はわたしからのリクエストです。祇園のお店でママをしていたこともあるビギンのママの手料理で飲む獺祭は格別です。店頭にはママお手製の紅白の餅花(注②)が飾られており、京都花街のようなお正月風情で客人をもてなしてくれます。

 今日の最大の楽しみは、京都大学の数学者Aさんとの対話でした。わたしは朝9時の開店から訪れ、常連さんと獺祭を飲んでいたところ、お昼前にAさんが来店され、4時間にわたり学問論議(異業種交流)と酒宴を続けました(わたしは獺祭を4合飲んだらしい)。Aさんはフェルマーの最終定理解明に貢献した志村五郎博士(注③)のお弟子さん筋の方で、国家プロジェクトにも関わっている若手数学者です。今日は数学という分野の学問的性格について教えていただきました。

 数学者の荻上紘一先生(注④)からうかがった次の話について、他の数学者からも意見を聞いてみたいと願っていました。

〝数学には「学説」というものもないし、たとえば古田「史学」とか多元「史観」という概念が存在しませんから、「学派」も存在し得ません。証明された定理があるだけですから。〟(注⑤)

 この見解は数学界の共通認識なのかと問うたところ、「原理的にはその通りです」とのことでした。そして次の説明がありました。

〝数学には「流派・流儀」と言えるものならあります。証明を行うにあたって、「流派」によって得意とする流儀や方法(わざ)があります。そこでは論争があり、証明が成立しているのか否かについて見解が異なることもあります。〟

 このような小難しい話を二人で延々と続けました。Aさんは数学が大好きでたまらないという感じで、今、読んでいる数論の解説書がとても面白いと見せて頂きました。もちろん、わたしには全く理解できない数式が並んでいました。また、京都大学には際だって優れた学生がいて、期待しているとのことでした。
わたしからは化学と古代史学について、メディアではいかに科学の基本原理に反する報道がなされているのかを説明しました。たとえば「森林は二酸化炭素を吸収する」「温暖化でツバルが沈んでいる」などです。古代史学では、倭人伝原文には「邪馬壹国」とあるのに、「邪馬臺(台)国」として論文や教科書が書かれ続けていることを説明すると、「それは研究不正じゃないですか」との指摘がかえってきました。
とても楽しく有意義な新年の宴でした。また、お会いして学問談義をすることを約束しました。

(注)
①山口県岩国市旭酒造の純米大吟醸酒。
②餅花(もちはな)とは、正月に、木の枝に小さく切った餅や団子をさして飾るもの。
③志村五郎(しむら ごろう、1930年~2019年)は、日本出身の数学者。プリンストン大学名誉教授。専門は整数論。静岡県浜松市出身。
谷山-志村予想によるフェルマー予想解決への貢献、アーベル多様体の虚数乗法論の高次元化、志村多様体論の展開などで知られる。国際数学者会議に招待講演者として4回招聘されているほか、スティール賞、コール賞を受賞した日本を代表する数学者の一人。また、趣味で中国説話文学を収集しており、中国文学に関しての著作も複数存在する。(ウィキペディアによる)
④大学セミナーハウス理事長で数学者。古田武彦氏が教鞭をとった長野県松本深志高校出身。東京都立大学総長、大妻女子大学々長を歴任。2021年、瑞宝中綬章受章。古田武彦記念古代史セミナーの実行委員長。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」2877話(2022/11/15)〝「学説」「学派」が「存在しえない領域「数学」〟


第3380話 2024/11/20

『旧唐書』倭国伝の

      「四面小島、五十餘国」

 飛鳥・藤原跡から出土した七世紀後半(評制)の荷札木簡の献上国一覧については、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注①)。その献上国分布には従来の一元史観では説明し難い問題がありました。その最たるものが、周防国・伊予国よりも西側の国々、すなわち九州諸国からの荷札木簡が一点も見えないという出土事実です。従来説では、九州諸国の献上物(税など)は、一端、大宰府に集められたためと説明されているようです。しかしそれならば、大宰府からの荷札木簡があってもよいはずですが、飛鳥・藤原跡からは出土していません。他方、平城京跡からは大宰府からの荷札木簡が出土しています(注②)。

 この荷札木簡の献上国の分布状況を知り、『旧唐書』倭国伝の記事と対応していることに気づきました。

【『旧唐書』倭国伝の冒頭】
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」

 「四面小島五十餘國、皆附屬焉」の一節は、倭国の周囲(四面)に小島と五十余国があり、皆倭国に附屬していると読めます。この五十余国とは、律令制の六十六国(年代により変化する)から九州島の九国と蝦夷国に相当する陸奥国を除いた国の数(五十六国)ではないでしょうか。なお、九州王朝(倭国)による六十六ヶ国分国については正木裕さんの研究がありますのでご参照ください(注③)。

 この理解が正しければ、九州を除く五十余国は王朝交代直前の近畿天皇家の統治領域となり、『旧唐書』日本国伝に見える「日本舊小國、併倭國之地」の「地」であり、倭国全体を併合する王朝交代の歴史経緯の一局面を荷札木簡の分布は示しているのではないでしょうか。そして、「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國」に見える毛人国は蝦夷国とする理解も成立しそうです。

 このように同時代史料で自国出土の木簡を基本エビデンスとして、後代史料である中国史書の倭国伝などを理解するという学問の方法を改めて重視したいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
同「洛中洛外日記」2399話(2021/03/04)〝飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)〟
同「洛中洛外日記」3377話(2024/11/10)〝王朝交代前夜の天武天皇 (4)〟
②奈良文化財研究所HP「木簡庫」によれば、次の「大宰府」木簡が平城京跡から出土している。
○【木簡番号】0
【本文】・大宰府貢交易油三斗□□〔五升ヵ〕・○寶亀三年料
【遺跡名】平城京左京七条一坊十六坪東一坊大路西側溝
【遺構番号】SD6400 【国郡郷里】筑前国大宰府
【和暦】宝亀3年【西暦】772年
○【木簡番号】0
【本文】□□〔筑紫〕大宰進上筑前国嘉麻郡殖□〔種〕→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国嘉麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上筑前国穂波→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国穂浪郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上肥後国託麻郡…□子紫草
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】文書
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】←□〔紫〕大宰進上肥後国託麻郡殖種子紫→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上薩麻国殖→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・薩摩国
③正木 裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号、2010年。
「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。