古賀達也一覧

第1891話 2019/05/12

古田武彦『邪馬一国の証明』が復刻

 ミネルヴァ書房から古田先生の『邪馬一国の証明』が復刻され、送られてきました。ご遺族の古田光河さん(ご子息)からの贈呈によるものです。
 同書は角川文庫として1980年に発行されたものの復刻です。名著『「邪馬台国」はなかった』以降の論争に関わるテーマとその学問の方法に焦点を当てた一冊です。文庫本として発行されたこともあり、現在では入手困難となっていましたので、この度の復刻は古田ファンや研究者にとっても待たれていたものでした。
 復刻本冒頭には古田光河さんによる「復刻のご挨拶」、次いで荻上紘一さん(大学セミナーハウス理事長)の「復刊に寄せて」が掲載されています。そこには理系の研究者らしい学問の方法についての解説がなされています。たとえば次のような文章で、理系論文のような表現に荻上先生らしいなと思いました。

 「人物Aと人物Bが同一であることを証明することは簡単ではないが、別人であることの証明は簡単である。人物Aと人物Bの属性を比較して、一致しないものが一つでもあれば両者は同一人物ではないと断定できる。」

 また、松本深志高校ご出身の荻上さんが聞かれた岡田甫校長の言葉を紹介されながら、次のように特筆されています。

 「『論理の赴くところに行こうではないか。たとえそれがいずこに到ろうとも。』と並んで古田先生が大切にした言葉が『師の説にななづみそ』である。したがって、我々は古田先生の本や論文を批判の目を持って読まなければならない。『古田先生の本に書いてあるから正しい』という判断をすれば、学問ではなく宗教になってしまう。」

 この荻上さんの主張は全くその通りです。この「復刊に寄せて」は末尾に「二〇一八年十二月五日」と執筆年月日があり、この一節にはある重要なメッセージが込められているのではないかと推測しています。
 この文が書かれた日の一ヶ月前の11月10〜11日、荻上さんが理事長をされている大学セミナーハウスで「古田武彦記念 古代史セミナー2018」が開催されました。そこである発表者が予定されていたテーマとは無関係に突然わたしに対して「古田説と異なる説(前期難波宮九州王朝複都説)を発表している」と声高に非難されるという一幕がありました。わたしは黙って聞いていましたが、恐らくは呼びかけ人であり主催者としての荻上先生がこうした言動に困惑されたことは想像に難くありません。ですから、それに対する荻上先生のメッセージが、一月後に書かれたこの「復刊に寄せて」に込められていることをわたしは疑えません。
 同書末尾には谷本茂さん(古田史学の会・会員)による「『邪馬一国の証明』復刻版解説」が収録されています。谷本さんは京都大学の学生時代からの古田先生のファンであり、古田学派の重鎮のお一人です。同書にはその論文「魏志倭人伝の短里ーー『周髀算経』の里単位ーー」が掲載されており、古代中国の天文算術書『周髀算経』に短里が使用されていることを『数理科学』(1978年3月号)に発表された経緯やその後の論争などについて解説されています。これも理系の研究者である谷本さんらしい文章です。
 このように同復刻版は学問の方法に関する古田先生の考えが詳述されており、復刻にあたって添えられた古田光河さん、荻上紘一さん、谷本茂さんの文章も古田史学をより深く理解する上で貴重なものです。ご一読をお勧めします。


第1884話 2019/05/05

GWは考古資料館と落語会

 令和最初のゴールデンウィーク、世間では十連休などと騒がれていますが、わたしの勤務先はこの金土日の三日間だけで、明日六日から出勤です。ブラック企業のようなプチGWでした。化学会社なので化学反応などのため連続稼働が必要ですので、このような休日となりました。さすがに5月1日の新天皇即位の日だけは年休を取得し、京都御所の建礼門前で新天皇のご長寿を祈りました。御所の近くに住んでいると、こういうときは便利です。
 昨日は京都市考古資料館(上京区)で開催されていた特別展示「京都の飛鳥・白鳳寺院 -平安京遷都以前の北山背-」を見学した後、午後からは上七軒歌舞練場での上七軒落語会「南光 米團治 吉弥三人会」に妻と行ってきました。早めに到着して、桂米團治さんの楽屋を訪問、ご挨拶しました。
 米團治さんとは不思議なご縁で、古田先生と二人でKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」に出演させていただいたことがあります。番組収録は2015年8月27日でしたが、その二ヶ月後の10月14日に古田先生が急逝され、同番組出演が先生最後の公の場となりました。それ以後も、なにかと米團治さんにはお気遣いいただいています。古田先生追悼特集の『古田武彦は死なず』(古田史学の会編、明石書店)にも米團治さんの弔辞を掲載させていただきました。
 落語会の冒頭には上七軒の舞妓さんらによる踊り「三番叟(さんばそう)」が披露され、振り袖姿も艶やかな舞が落語会に花を添えました。上七軒は京都最古の花街といわれ、外国人観光客でごった返す祇園とは異なり、落ち着いた京都らしい風情が感じられるところです。踊りのあとに南光さん米團治さん吉弥さんによる掛け合い漫才のようなご挨拶があり、一気に場が和みました。さらに舞台上でお三人と舞妓さんらによる珍しい「お茶屋の遊び」がご披露されました。そして米朝一門による落語が続き、その芸の見事さに驚くとともに愉快な演目に大笑いしました。
 古田先生の奥様が桂米朝さんのファンだったこともあり、先のトーク番組の出演も「米朝さんの息子さんの番組ならお受けします」と古田先生の快諾が得られたのでした。そうしたこともあって、米團治さんと会うたびに古田先生や奥様のことを昨日のことのように思い出します。
 御前中に訪問した京都市考古資料館では貴重な知見を得ることができました。それまでは京都市の古代史は平安京のイメージが強く、それほど関心を持っていませんでしたが、実は大違いでした。もしかすると山背国と九州王朝との関係は案外深いのではないかと思いました。このときの発見については別途「洛中洛外日記」でもご紹介する予定です。


第1881話 2019/05/01

「令和」改元を祝い、「白雉」改元を論ず

 本日、新天皇が即位され、「令和」と改元されました。そこで、「令和」改元を祝い、あらためて九州年号の「白雉」改元を論じることにします。
 「洛中洛外日記」1880話(2019/04/26)〝『箕面寺秘密縁起』の九州年号〟において、「孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日」(庚戌:650年、壬子:652年)とあることを紹介しました。そして白雉元年に二つの異なる干支が記されるという不体裁の理由は、本来の九州年号の白雉元年壬子(652年)表記に、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年庚戌(650年)の影響を受け、「庚戌」が付記された結果であるとしました。
 更に、芦屋市三条九之坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡により、白雉元年の干支は壬子(652年)であり、『二中歴』などの九州年号の「白雉」(652〜660年)が正しく、『日本書紀』の「白雉」は二年ずらして転用していたことが明確となったわけですが、実は『日本書紀』そのものにも「白雉元年」を二年ずらしていた痕跡があることをわたしは発見し、「白雉改元の史料批判 -盗用された改元記事-」(『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、『古田史学会報』76号 2006年10月)として発表しました。
 その痕跡とは、『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650年庚戌)二月条の白雉改元儀式の記事は、本来は白雉三年(652年壬子。九州年号の白雉元年に相当)二月条にあったものが削除され、元年(650年庚戌)二月条へ移されたことを示すある記述です。先の論文より当該部分を転載します。

【以下転載】
 このように、白雉元年(六五〇)二月条の改元記事が九州王朝史料からの盗用である可能性は極めて高いのであるが、今回新たに孝徳紀を精査したところ、同記事盗用の痕跡がまた一つ明かとなったので報告する。
 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に二年のズレがあることは既に述べた通りであるが、それであれば九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(六五二)条になければならない。そして、その白雉三年正月条には次のような不可解な記事がある。

 「三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。」

 正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明である。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわからない。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記している。
 この点、私は次のように考える。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に「二月条」があったのではないか。その二月条はカットされたのである。そして、そのカットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条の白雉改元記事だったのである。すなわち、孝徳紀白雉三年(六五二)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り張り」の痕跡だったのである。やはり、白雉改元記事は九州王朝史料からの、二年ずらしての盗用だったのだ。


第1876話 2019/04/16

『倭国古伝』のマーケットリサーチ

 今朝は東京に向かう新幹線車中で書いています。今年初めての東京・山形出張です。わたしが開発した、ナイロン繊維染色の新技術のプレゼンを各地で行います。
 専門的になりますが、この新技術はナイロンポリマーの非結晶領域内で色素と複数の金属をキレート(配位結合による金属錯体化)させるというもので、それにより世界最高水準の湿潤堅牢度(高性能液体洗剤で洗濯しても色落ちしない)が発現します。また、同時に複数の金属の配位結合比をコントロールすることにより、染色色相を赤味から緑味まで意図的に変化させたり、更には太陽光発熱機能を持たせたり、逆に太陽光中の近赤外線の反射率を高めることが容易にできるという優れものです。
 昨年から有名フィットネスインナーや女性用タイツに採用されていますが、おそらくこの新技術開発が、ケミストとしてのわたしの最後の仕事になると思います。もっと若ければ、この技術を応用して消臭・抗菌機能も発現させる技術を開発できたかもしれませんが、もう時間がありません。来年夏にはリタイアしますので、それからは古代史研究に専念できます。今から楽しみにしています。

 東京駅でのランチタイムを利用して、八重洲ブックセンターの古代史コーナーをのぞいてみました。もちろん、先月発行した『倭国古伝』(古田史学の会編・明石書店)の取り扱い状況のチェックが目的です。エスカレーターで4階の古代史コーナーに上がると、なんと平積み台の一番端(売れ筋の本が置かれる〝特等席〟です)に平積みにされていました。結構売れているようで三冊しか残っていませんでした。また、目に入りやすい高さである書棚の最上段には古田先生のコーナーがおかれ、そこにも『倭国古伝』が並んでいました。というわけで、八重洲ブックセンターの取り扱いはかなり良いものでした。
 「古田史学の会」発行の他の本を探すと、「邪馬台国」コーナーには『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)があり、これは狙い通りです。残念ながら「聖徳太子」コーナーには『盗まれた「聖徳太子」伝承』(明石書店)は並んでいませんでした。また、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)は「古代九州」のコーナーに置かれており、「地方史」扱いでした。おかれてないよりはましですが、本のネーミングとしては〝失敗〟と言わざるを得ません。新元号「令和」ブームで「年号」コーナーが特設されているにもかかわらず九州年号関連の本は一冊も置かれていません。この点、対策が必要です。
 以上、八重洲ブックセンターでのマーケットリサーチでした。これから代理店との面談で、その後は米沢市に向かいます。


第1875話 2019/04/14

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(7)

 『法隆寺縁起』に記された献納品に付記された「丈六分」や「佛分」について、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)から貴重なご意見をいただきました。それは次のような内容でした。

① 「丈六分」とあるからには、高さが丈六の佛像と考えるべきで、釈迦三尊像では寸法があわない。丈六佛が当時は存在していたのではないか。
② 経典に釈迦のことを「佛」と記す例は多く、「佛分」とあるのが釈迦三尊像を指すのではないか。
③ 光明皇后による「二月廿二日」の施入の目的や法隆寺の性格は古賀説(多利思北孤鎮魂の寺)でよい。

 この加藤さんのご意見は有力で、わたしも同様の可能性について考えました。しかし『法隆寺縁起』の他、当時の史料から法隆寺に丈六佛があったとする痕跡が見つからないことと、伝染病(天然痘)の猛威という国家的災難に対して、「二月廿二日」に施入していることから、法興32年(622)「二月廿二日」に崩御した上宮法皇をモデルとした「等身佛(尺寸の王身)」との銘文を持つ釈迦三尊像こそ施入対象の冒頭に記された「丈六分」と解さざるを得ないと考えたからです。
 そこで問題となるのが、加藤さんも指摘されたように「丈六」という仏像の高さを示す表記をどのように考えるのかということでした。当初、わたしは「丈六」というのは釈迦の身長を意味し、「丈六」という言葉そのものに「釈迦像」という意味を有していたと考えました。ところが、正木さんから釈迦三尊像は「丈六佛」ではなく「等身佛」であるとのご指摘を受けて深く考え、改めて調査したところ、同釈迦像は「周半丈六佛」であることに気づきました。
 佛像の大きさの基準として、仏典に見える釈迦の身長「丈六」(1丈6尺:約4.8m、座像の場合は約2.4m)と同じ佛像は丈六佛と呼ばれ、その半分の高さの佛像は「半丈六」とされます。更にその4分の3の尺度である「周尺」に基づいた佛像を「周丈六」(1丈6尺:約3.6m、座像の場合は約1.8m)と呼ばれ、その半分の「周半丈六」の座像は約0.9mとなります。法隆寺釈迦三尊像の釈迦像の身長(座像高)は0.875mですから、ほぼ一致します。ですから、この「周半丈六」を「丈六」と当時の法隆寺では呼ばれていたのではないでしょうか。
 以上のようにわたしは考えていますが、この場合、「周半丈六」という言葉や概念が7世紀前半頃に存在していたことを証明しなければなりませんが、今のところ史料根拠を発見できていません。ですから、このわたしの仮説は不安定なものです。先の加藤さんのご意見とどちらが良いのか、あるいはもっと優れた仮説があるのかを考えたいと思います。なお、同釈迦像を「周丈六像」とする見解を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のホームページ「sanmaoの暦歴徒然草」(2019.04.12)で詳しく発表しておられましたので、意を強くしました。(つづく)


第1874話 2019/04/13

「令和」と「ラフランス」と「利歌彌多弗利」

 新元号「令和」は国民の評判も良いようですし、わたしもラ行で始まる新元号が気に入っています。マーケティングの視点でも、新商品や新店舗のネーミングを柔らかい響きを持つラ行で始まる言葉にするのは、特に女性に好意的に受けとめられることが知られています。
 たとえば、人気のフルーツ「ラフランス」も本来の名前は「みだぐなす」でしたが、これは「見た目よくなし」という意味の産地の山形弁で、ネガティブな名前でした。明治時代にフランスからもたらされた洋なしの一種でしたが、全く売れませんでした。こんなに美味しいのになぜ売れないのだろうと、地元の農家が悩んだ末に相談した専門のマーケターの助言により名称を「ラフランス」に変えたとたん爆発的にヒットし、〝フルーツの王様〟の地位を占めた話は、わたしたちプロのマーケターの間では有名です。
 ところで、古代日本語(倭語)にはラ行で始まる言葉は無かったことが知られています。倭人にはラ行で始まる言葉は言いにくかったことがその理由かも知れません。中国から入った漢語には、たとえば「蘭(らん)」や「猟師(りょうし)」などのラ行で始まる言葉はあるのですが、本来の倭語には見当たりません。この事実に基づいて古田先生がある仮説を発表されたことをご存じでしょうか。
 『隋書』国伝には国王・多利思北孤の太子の名前が「利歌彌多弗利」と記されており、これはどう考えても「リカミタフツリ」あるいは「リカミタフリ」のようにラ行で始まる名前です。従って、通説では最初の「利」は「和」の誤りとして、「ワカンタフリ」と訓むとされてきました。しかし『隋書』の原文は「利」であり、「和」ではありません。そこで古田先生は「利歌彌多弗利」を「利、上塔(カミトウ)の利」とする訓みを提起されました。すなわち、「利」を倭語ではなく、中国風一字名称と理解されたのです。中国風一字名称であればラ行で始まっても不思議ではないからです。
 この古田説が正しいという証明は簡単ではありませんが、古代の倭語にラ行で始まる言葉がない以上、このような古田先生の理解しか成立できません。通説のように「和」の間違いとするのは原文改訂であり、安易に用いるべきではありませんから、相対的に古田説が有力となるわけです。
 以上のようなことを、新元号「令和」の発表で思い出しましたので、ご紹介します。


第1870話 2019/04/06

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(6)

 釈迦三尊像は上宮法皇をモデルとした「等身仏」ではないかとの正木さんからの指摘に答える前に、なぜわたしは『法隆寺縁起』に記された「丈六」を釈迦三尊像のことと理解したのかについて説明します。
 『法隆寺縁起』に記されたほとんどの献納品は、たとえば「丈六分」の他には「佛分」「薬師佛分」「弥勒佛分」「観世音菩薩分」「法分」「聖僧分」「塔分」「通分」などのように何に対しての施入かが記されています。そしてその順番を見ると、「丈六分」は先頭に記されています。たとえば次のようです(「丈六分」そのものが含まれていない施入例もあります)。

 「(前略)
  合香鑪壹拾具
   丈六分白銅単鑪壹口
  佛分参具
  彌勒佛分白銅壹具
 法分白銅弐具
   塔分赤銅壹具
   通分白銅弐具
 (中略)
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城
 宮皇后宮者」

このように天平八年二月二十二日に光明皇后らから施入された献納品の筆頭の多くは「丈六分」とされており、この「丈六」を「二月廿二日」に没したことが記された唯一の仏像である釈迦三尊像と理解する他ないのです。『法隆寺縁起』には「薬師佛分」「彌勒佛分」「観世音菩薩分」とかの仏像は見えるのですが、釈迦三尊像を示す「釈迦分」という表記がないことも、「丈六」を釈迦三尊像のこととするわたしの理解を支持しています。
 『法隆寺縁起』の最初の方には当時の法隆寺にあった仏像について「合佛像弐拾壹具」とあり、その二十一体の仏像について記されています。最初の一体は「金埿銅薬師像壹具」でこれは光背銘を持つ有名な薬師如来像です。二番目に釈迦三造像が「金埿洞(ママ)釈迦像壹具」とあり、それ以外に光明皇后が「丈六分」として「二月廿二日」に大量の施入をするような発願者名などが特筆された仏像は見当たりません。こうした理由から、わたしは「丈六」を釈迦三尊像と理解しました。この二十一体の他にも献納された諸仏像が記されていますが、やはり「丈六」に相応しい仏像の記録はありません。
 他方、これは正木さんから教えていただいたのですが、法隆寺の西円堂には文字通りの丈六(座像で像高246.3cm)の薬師如来像が安置されています。寺伝では養老二年(718)に光明皇后の母、橘夫人の発願により行基が建立したとされていますが、仏像史研究によればこの薬師如来像は八世紀後半頃のものとされていますから、光明皇后らが施入した天平八年(736)の頃には西円堂の薬師如来像はまだ存在していなかったと思われます。
 更に『法隆寺縁起』には、養老六年(722)にも「平城宮御宇天皇(元正天皇)」による「丈六分」とする施入記事があることから、やはりこの「丈六」を八世紀後半頃と編年されている西円堂の薬師如来像とすることは困難と思われます。もし養老二年頃に西円堂が建立され、本尊の薬師如来像が安置されたのであれば、そのこと自体が『法隆寺縁起』に記されるはずですが、そのような記事は見えません。
 なお付言すれば、同薬師如来像の編年が八世紀初頭頃まで遡るとなれば、「丈六」の有力候補となります。この点、仏像史研究を調べてみたいと思います。(つづく)


第1867話 2019/03/31

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(4)

 「洛中洛外日記」1866話〝『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)〟を読まれた西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、高松市)から重要なご質問メールをいただきました。それは、大宝元年(701)の王朝交替の80年も前に没した「上宮法皇」が大和朝廷に祟ったなどと大和の人々が考えるだろうかという疑問です。まことにもっともな疑問です。これに対して、わたしは次のような理由から、大和朝廷は天然痘の流行を九州王朝やその天子「上宮法皇」(古田説によれば『隋書』に見える阿毎多利思北孤のこと)の祟りと考えたのではないかと思います。

① 天智9年(670)に全焼した法隆寺(若草伽藍)の跡地に、王朝交代後の和銅年間に大和朝廷は多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院(場所や名称は不明。古田学派内でも諸説ある)とその本尊(釈迦三尊像)を移築している(現・法隆寺西院伽藍)。移築の痕跡は米田良三著『法隆寺は移築された』に詳しい。その寺院・仏像を簒奪した〝後ろめたさ〟を大和朝廷は抱いていたものと思われる。
② 光背銘によれば、九州王朝(倭国)王家の人々が相次いで没している。次の通りだ。

 法興31年(621)12月   鬼前太后
法興32年(622)2月21日 干食王后
 法興32年(622)2月22日 上宮法皇

 死因は「上宮法皇、枕病してよからず。干食王后、よりて以て労疾し、並びに床につく。」とあり、病没である。王家の人々が次々と没していることから、おそらく伝染病が倭国王家を襲ったものと思われ、この事実は一大事件として倭国内で伝承されていたことを疑えない。もちろん近畿天皇家にも伝わっていたであろうし、何よりも法隆寺に伝わった光背銘文に記されており、王朝交代後の大和朝廷の人々の目にも触れていた。
 こうした経緯から、同じく伝染病(天然痘)の脅威にさらされた大和朝廷にとって、病没した多利思北孤ら倭国王家の怨念を沈める必要を感じたのではあるまいか。
③ そして何よりも大和朝廷中枢を襲った天然痘が九州(大宰府官内)から発生したものであり、これを自らが滅ぼした「九州王朝の祟り」と考えても不思議ではない。
④ 他方、大和朝廷は未服従の九州王朝残存勢力を「隼人」討伐と称して、養老4年(720)まで南九州への軍事侵攻を続け、九州の人々の恨みをかってきた。

 以上のような理由により、大和朝廷の人々が天然痘の脅威を九州王朝や同じく伝染病で次々と病没した倭国王家の祟りと考え、その魂を沈めるために、多利思北孤の命日である天平8年「2月22日」に法隆寺で法会を執り行い、大量の献納品を施入したとする仮説をわたしは発表したのでした。(つづく)


第1866話 2019/03/30

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)

 拙稿「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)において、『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に集中していることを根拠に、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」の命日「法興三十二年(622年)」「二月廿二日」は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日の推古29年(621)2月5日とは明確に異なり、両者は別人です。他にも、光背銘には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されており、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。しかし、「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。
 以上のように、法隆寺の釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平8年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者や官僚たちがそのことを誰も知らなかったとは万に一つも考えられないのです。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院であり仏像であることをわかったうえで、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。その大量の施入を記した『法隆寺縁起』に不思議な施入記事があることに、わたしは気づきました。(つづく)


第1862話 2019/03/19

「複都制」から「両京制」へ

 本日は「市民古代史の会・京都」の講演会で正木裕さんが「聖武天皇も知っていた 失われた九州年号」というテーマで講演されました。初めて九州年号というものを知った参加者も少なくなく、好評でした。
 講演前に、前期難波宮を九州王朝の「複都」とするアイデアについて、正木さんの意見を求めたところ、「両京制(dual capital system)」と呼んでもよいのではないかと言われました。これは虚を突かれたような提案であり、なるほどと思いました。正木さんの見解はわたしの複都制よりも更に一歩進んで、太宰府や前期難波宮(難波京)の実態(条坊を持つ「京」)を明確に表した呼称であり、「複都(multi-capital city)」よりも「両京(dual capital city)」のほうがより正確な表現のように思いました。
 実は「複都制」も「両京制」も、古田先生が既にその存在を指摘されています。はやくは『失われた九州王朝』(第5章の「遷都論」)に九州王朝の遷都を示唆する記述があり、講演会でも「天武紀」に見える「信濃遷都計画」について言及されていました。たとえば『古田史学会報』No.32(1999年6月3日)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です。

【以下、転載】
 二つの確証について
  --九州王朝の貨幣と正倉院文書--
(前略)この銭(冨本銭のこと:古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理しか根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうとし、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)
【転載終わり】

 「両京制」についても、『古田史学会報』36号(2000年2月)で「『両京制』の成立 --九州王朝の都域と年号論--」を発表され、七世紀前半における九州王朝の太宰府と筑後の「両京制」について論じられています。
 このように古田先生は早くから九州王朝の複都制を前提とした「両京制」の存在を指摘されておられますから、同様に七世紀後半における「太宰府」と前期難波宮(難波京)を「両京制」と見なす正木さんのご意見は妥当なものと思われるのです。


第1861話 2019/03/18

前期難波宮は「副都」か「複都」か

 わたしがこの「洛中洛外日記」を続けるにあたっては、多くの読者や事前に原稿チェックをしていただいているスタッフに支えられています。中でも加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からはいくつもの貴重なご意見やご指摘もいただいています。最近も前期難波宮九州王朝副都説に対して、「副都(secondary capital city)」なのか「首都(capital city)」なのか、そろそろ古田学派の研究者間で見解を統一してはどうかとのご意見をいただきました。良い機会ですので、わたしが前期難波宮を九州王朝の「副都」とした理由やその問題点、そして改良案などについて説明したいと思います。
 前期難波宮が近畿天皇家の宮殿ではなく、九州王朝の宮殿ではないかとする仮説に至ったとき、それをどのように表現すべきかについてかなり考えました。七世紀段階における九州王朝の首都が「太宰府」とする点については古田先生を始め、古田学派のほとんどの研究者も一致した見解でした。また、中国史書に見える倭国伝などにおいて、九州王朝(倭国)の都が移動(遷都)したような痕跡が見当たらないことから、九州王朝は滅亡するまで「太宰府」を首都としていたと考えざるを得ません。この点、古田先生も同見解でした。そこで、わたしは前期難波宮を九州王朝の「副都」と見なすことにしたわけです。
 ところが前期難波宮九州王朝副都説の発表後、この仮説を支持する正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)や西村秀己さん(『古田史学会報』編集担当、高松市)から、前期難波宮は九州王朝の「首都」と見なすべきではないかという意見が出されました。この前期難波宮首都説に対して、わたしはそれが有力説であることを認めながらも、全面的に賛成できないまま今日に至っています。その理由は先に述べたように、中国史書の倭国伝などに倭国が遷都したとする痕跡が見えないことでした。
 他方、前期難波宮で大規模な白雉改元の儀式が行われていることや、その宮殿や官衙の規模が国内最大であることなどから、「副都」とするよりも「首都」と見なすべきと言う意見に反対しにくいとも感じていました。そうした学問的に断定できない中途半端な状況が続いていたときに、加藤さんからのご意見が届いたのでした。
 そこで、「副都」とも「首都」とも断定できないこの状況をうまく表現する方法はないかと考えた結果、一つの妙案が浮かびました。それは前期難波宮九州王朝「副都(secondary capital city)」説ではなく、九州王朝「複都(multi-capital city)」説という表現に変更することでした。これであれば、前期難波宮を「首都」とも「副都」とも見なせる表現であり、学問的断定がまだできない状況にあっても、穏当な表現だからです。すなわち、七世紀初頭頃から九州王朝(倭国)の都は太宰府であったが、七世紀中頃には複数の都を持つ「複都制(multi-capital system)」を採用したとする仮説になるのです。
 はたして、この〝問題の先送り〟のような案が古田学派内で支持を得ることができるかどうか、学問的に妥当なものか、皆さんのご意見をお待ちしています。


第1858話 2019/03/14

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(3)

 「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣)」という言葉は、「実証を軽視してもよい」という意味ではないと、わたしは繰り返し注意を促してきました。また古田先生が使用する「実証的」という言葉はポジティブな意味で使用されていることも指摘してきました。西洋哲学では「実証主義」は否定されており、それを乗り越えるものとして「論理実証主義(論理経験主義)」、更には「反証主義」が提唱されたことも「洛中洛外日記」で連載しています。そこで『「邪馬台国」はなかった』では「実証」がどのような意味やケースで使用されているかを、それこそ実証的に見てみることにします。
 『「邪馬台国」はなかった』に見える「実証」という言葉の、現時点での検索結果は下記の8例です。この中で、「実証的」という言葉で使用されたのは①③④⑥⑦の5例で、最もよく使用されています。いずれも「実証的」という言葉はポジティブな意味で使用されていることがわかります。この場合の「実証的」の反対語は「恣意的」「主観的」という言葉であり、学問的にはネガティブなものです。
 他方、②のケースは〝実証の刃のもろさ〟とあるように、「実証」という方法論の持つ弱点を指摘されたケースです。この例からもわかるように、古田先生は「実証」のもつ危うさを踏まえておられ、これも村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という方法論に通ずる姿勢と言えるでしょう。「実証」を用いる場合に「論証」の支えが必要とされた加藤さんや茂山さんと同じ理解なのです。
 最後に注目されるのが⑧の「叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)」という表現です。ここでの「実証主義」は西洋哲学における広義の「実証主義」ではなく、「叙述上、一種の」「(実地接触したものだけを書く)」という読者への説明を付記され、限定的な意味として、用心深く「実証主義」という言葉を使用されていることがわかります。
 このように『「邪馬台国」はなかった』において、「論証」が「実証」よりも遙かに頻繁に使用されているという〝多数決〟の問題に留まらず、その使用内容を見ても、古田先生が「実証」よりも「論証」を重んじておられることは明白です。その上で付け加えておきますが、そのことは「実証を軽視してもよい」という意味では全くないということです。更に言うならば、古田先生や村岡先生の「論証を重視する」という学問姿勢を支持し、受け継ぎたいと願っているわたしを批判されるのも「学問の自由」ですし、「師の説にななづみそ」ですから、全くかまいません。ただし、その場合は「古賀が支持する古田や村岡の学問の方法に反対である」と自らの立場を明確にしてからにしていただきたいと思います。

『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)の中の「実証」の全調査一覧 ※〈〉内は古賀による注。

【実証】
①〈ヴルネル・イェガーによるアリストテレスの著述年代研究〉こういった実証的な手法を徹底的につきすすめた結果、従来の定説体系はもろくも崩壊し去った。(序章 わたしの方法 p.28)
②〈服部之総『親鸞ノート』の評価〉しかしながら、新鮮な服部の批判は、裏面に意外な〝実証の刃のもろさ〟をもっていた。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.173)
③この「一万二千余里」が、「実定里」か「誇大里」かという問題を実証的に解くために、わたしたちのなさねばならない作業は、明白にして単純である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.183)
④なぜなら、そのような立言(陳寿の数値記述上の偏向性の指摘)を学問的にするためには、『三国志』全体の数値記述を実証的に検討しなければならないからである。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.204)
⑤だから、文献研究にとっては、〝その文献解読自体の実証性を、あくまで徹底する〟ーーそれが根本であり、考古学との対照は、次の次元に属するのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.283)
⑥この信念〈天皇家中心主義〉は、彼〈本居宣長〉の生涯の著述『古事記伝』の実証的成果を生んだ生ける原動力だった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
⑦しかし、ここではその同じ理念が先入観となり、九州に行路記事の帰結を見たはずの、かれ〈本居宣長〉の「実証的な目」を永くおおい去ることとなった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
⑧こうしてみると、ここはやはり、叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)と禁欲主義(実地接触しなかったものは書かない)が原則として厳守されていると見るほかないのである。(第六章 新しい課題 p.379)