古賀達也一覧

第1857話 2019/03/13

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(2)

 古田先生から教えていただいた「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣)」という学問に対する姿勢や方法に対して、「『学問』は『実証』を積み重ねて『論証』に至るものだと、古田先生は各著書で示されている」という批判が寄せられたことがありました。論理学や哲学用語としての「実証」や「論証」の定義からみても意味不明の主張でしたが、わたしが驚いたのは、古田先生の著作のどこをどう読めば、このような理解が可能となるのだろうかという点でした。こうした疑念を抱いていましたので、安藤哲朗さんの『「邪馬台国」はなかった』の全文中から「論証」と「実証」を検索するという試みに、強い関心を抱き、わたし自身も検索を行ったわけです。
 今回の検索結果を一瞥しただけでもわかるように、同書は「論証」で埋め尽くされた一書で、古田先生がそれら論証に込められた強い思いは、最末尾の「あとがき」にも記された、「論証」という言葉を使った次の一文からも理解できるでしょう。

 「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である。」(あとがき p.400)

 こうした「論証」の〝洪水〟ともいえる『「邪馬台国」はなかった』のどこをどう読めば、「『学問』は『実証』を積み重ねて『論証』に至るものだと、古田先生は各著書で示されている」などという理解が可能になるのでしょうか。
 同書に示された古田先生の学問の方法は、代表的一例をあげれば、まず従来説を紹介し、史料根拠を明示され、それに基づく従来説への反証と自説成立の論理性を繰り返し説明され、それら各論証の連鎖により古田史学(邪馬壹国説、博多湾岸説、短里説など)の全体像を提起する、というものです。「論証は学問の命」とわたしたちに語っておられた古田先生の学問の方法と姿勢は、処女作から晩年に至るまで変わることなく貫き通されているのです。(つづく)


第1856話 2019/03/12

『「邪馬台国」はなかった』の「論証」と「実証」(1)

 「洛中洛外日記」1848話の〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)〟で、『多元』No.150の安藤哲朗さん(多元的古代研究会々長)の論稿「怠惰な読書日記」を紹介しました。同稿で安藤さんは、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』から「論証」と「実証」という二つの言葉の使用例の検索結果を示され、「論証」が21例、「実証」が1例であったとされました。古田先生が古代史の処女作において、「実証」と「論証」をどのように、どのくらい使用されたのかを、それこそ実証的に検証されたものです。
 わたしも強い関心を抱き、『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)を用いて同じ調査を行ったところ、現時点での検索結果として、「論証」が32個(+2個、文庫版のあとがき)、「実証」は8個を数えました。おそらくまだ見落としがあると思いますが、その大勢は変わらないと思います。なお、安藤さんの調査結果とは異なっていますが、それは検索基準の違いや、見落としなどによるものと思います。しかし、両者の調査結果の傾向(「論証」と「実証」の使用頻度)は一致しています。
 検索結果には、古田先生の学問の方法や姿勢が明確に現れており、この検索事実に基づいて、次回ではそのことについて論じます。(つづく)

『「邪馬台国」はなかった』(角川文庫版・昭和52年)の中の「実証」と「論証」の全調査一覧 ※〈〉内は古賀による注。

【論証】
○なぜなら、「二つの論証」を無視しているからである。(序章 わたしの方法 p.17)
○わたしは、学問の論証はその基本において単純であると思う。(序章 わたしの方法 p.27)
○論証はあくまで地についた基礎からはじめねばならない。(序章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.27)
○しかし、わたしはこの一件の論証を終えてのち、つくづくと思わないわけにはいかなかった。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.58)
○以上の論証で明らかになった点をまとめてみよう。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.85)
○その一点を徹底的に論証しよう。(第一章 わたしの方法 それは「邪馬台国」ではなかった p.97)
○もう論証は終わった。(第二章 いわゆる「共同改定」批判 p.145)
○それが明確に論証される前に、(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.149)
○その〝未論証の、推定された地点〟をもとにして、原文面を改定するのは、非学問的な「恣意的改定」にすぎぬ。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.149)
○しかし、今までの論証によってわかるように、このような考えは、〝陳寿は倭国を「会稽東冶」の東と考えていた〟という、あやまった認識を基礎としている。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.156)
○これで「論証」になると思う人はいないであろう。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.158)
○このような論証のあやまりなきことを追証するのは、先の(二)の例である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.187)
○ながながと論証をつづけてきた、その結論は意外にも簡単だった。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.200)
○しかるに、これらの論者は、〝陳寿の虚妄〟を説くのに急であって、この論証をみずからに怠ったのではあるまいか。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.207)
○この点、非常に重大な問題であるから、「韓国内、陸行」という事実をさらに論証し、確定しておこうと思う。(第四章 邪馬壹国の探求 p.220)
○最後に、「韓国内、陸行」を証明する、もっとも簡明な論証をのべよう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.221)
○以上の論証に対して、ある読者は直ちにつぎのように反問するだろう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.244)
○以上の論証をさらに堅固にするために、陳寿が、数値とその計算結果をどのように書き記しているか、その特徴を示そう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.252)
○以上の論証を通って、わたしたちはいよいよ「邪馬壹国」の所在地を実地に測定できる地点に達した。(第四章 邪馬壹国の探求 p.256)
○それゆえ、わたしのこれまでの論証は、一切の「考古学の成果」に対する顧慮を無視して、行われたのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.281)
○しかし、つぎに、論証の到達点に立った今、考古学上の成果との交渉を考えることは、許されるであろう。(第四章 邪馬壹国の探求 p.284)
○なぜなら、三世紀の近畿の人口・戸数そのものが別史料により明らかにかにしえぬ以上、内藤の推論は「論証力」をもたないのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.305)
○さて、このように「実地踏破ーー実地記録」の上に立つ叙述という陳寿の主張がけっして架空のものではなかったことは、今までの論証において、すでに十分にのべた。(第六章 新しい課題 p.376)
○わたしは、この本において、あらかじめ女王国を博多湾岸へもってゆこうと、いわば〝目検討〟をつけておいてから、論証をはじめたのでは、けっしてなかった。(第六章 新しい課題 p.387)
○しかし、わたしとしては、わたしの論証の立場をつらぬくほかない。(第六章 新しい課題 p.383)
○逆に、「論証が、いやおうなく、わたしを博多湾岸に導いた」それだけなのである。(第六章 新しい課題 p.387)
○だから、この十八字〈又有裸国・黒歯国、復在其東南。船行一年可至。〉について、わたしが今までの論証方法に従い、(第六章 新しい課題 p.387)
○今までの論証経験を生かし切ったとき、そのとき、どんな予想外の地点にわたしが至ろうとも、それはわたしの関知するところではない。(第六章 新しい課題 p.387)
○なぜなら、それはわたし自身さえどうしようもないこと、いわば論証力の支配に属することだからである。(第六章 新しい課題 p.387)
○だから、今は論証のむかうところを簡明に箇条書きしてみよう。(第六章 新しい課題 p.388)
○日本古代史の「先像」に対して、この本の論証でとった方法論と同一の目で、見つめ直してみる、ーーこの道しかない。(第六章 新しい課題 p.398)
○もはや鳥瞰図は完成し、論証はふたたび自動的に展開している。(第六章 新しい課題 p.399)
○ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証である。(あとがき p.400)

◎この簡単な「津軽海峡の論証」によって、近畿を倭国の都とする一切の理論は一気に崩れ去るほかない。(文庫版あとがき p.408)
◎わたしはこのような単純な論証、子供のような目に、今はじめて到達できたようである。(文庫版あとがき p.408)

【実証】
○〈ヴルネル・イェガーによるアリストテレスの著述年代研究〉こういった実証的な手法を徹底的につきすすめた結果、従来の定説体系はもろくも崩壊し去った。(序章 わたしの方法 p.28)
○〈服部之総『親鸞ノート』の評価〉しかしながら、新鮮な服部の批判は、裏面に意外な〝実証の刃のもろさ〟をもっていた。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.173)
○この「一万二千余里」が、「実定里」か「誇大里」かという問題を実証的に解くために、わたしたちのなさねばならない作業は、明白にして単純である。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.183)
○なぜなら、そのような立言(陳寿の数値記述上の偏向性の指摘)を学問的にするためには、『三国志』全体の数値記述を実証的に検討しなければならないからである。(第三章 身勝手な「各個改定」への反論 p.204)
○だから、文献研究にとっては、〝その文献解読自体の実証性を、あくまで徹底する〟ーーそれが根本であり、考古学との対照は、次の次元に属するのである。(第四章 邪馬壹国の探求 p.283)
○この信念〈天皇家中心主義〉は、彼〈本居宣長〉の生涯の著述『古事記伝』の実証的成果を生んだ生ける原動力だった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
○しかし、ここではその同じ理念が先入観となり、九州に行路記事の帰結を見たはずの、かれ〈本居宣長〉の「実証的な目」を永くおおい去ることとなった。(第五章 「邪馬壹国」の意味するもの p.331)
○こうしてみると、ここはやはり、叙述上、一種の実証主義(実地接触したものだけを書く)と禁欲主義(実地接触しなかったものは書かない)が原則として厳守されていると見るほかないのである。(第六章 新しい課題 p.379)


第1855話 2019/03/10

「実証主義」から「論理実証主義」へ(5)

 加藤健さんの〝実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠〟という感想や、茂山憲史さんの〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される〟という学問の方法について、古田先生が扱われた具体的事例で説明します。
 名著『失われた九州王朝』において、古田先生は『旧唐書』倭国伝・日本国伝について一節(第四章Ⅱ 二つの王朝)を設けられ、倭国が九州王朝、日本国が大和朝廷であることを論証されています。古田学派の論者の中には、この倭国伝と日本国伝併記を史料根拠として、多元史観・九州王朝が実証されたとする理解があります。この理解は必ずしも誤りではありませんが、同書を読んでわかるように、古田先生は両伝の史料批判と論証を繰り返されています。特に倭国伝に記された倭国が大和朝廷ではないことを、『日本書紀』との対比により徹底して行われています。それが〝倭国伝・日本国伝併記を史料根拠として多元史観・九州王朝説を実証できた〟とするような単純な学問の方法ではないことは明らかです。
 それではなぜ古田先生はこれほど論証を重ねられたのでしょうか。それは一元史観による通説への反証のためです。通説では『旧唐書』の倭国伝・日本国伝併記を『旧唐書』編者の誤りとし、倭国も日本国も大和朝廷のことであり、同一王朝による倭国から日本国への国名変更が、別国のことと間違って併記されたと見なしています。もちろん、通説も史料根拠と論証により学問的仮説として成立しています。およそ次のようなものです。箇条書きにします。

①国内史料(記紀、風土記、他)によれば、倭国も日本国も大和朝廷であり、史料根拠が確かである。別国とする国内史料はない。
②7世紀末頃の藤原宮出土木簡に「倭国添布評」とあり、当地が倭国と称されていたことが実証されている。
③『大宝律令』などにより大和朝廷は遅くとも8世紀初頭には日本国を名乗っており、大和朝廷が倭国から日本国へと国名変更していたことは明確である。
④中国史書(正史)の夷蛮伝には地名や人名などの間違いが散見されており、『旧唐書』も同様に倭国と日本国を別国と誤ったと考えても問題ない。
⑤『新唐書』では日本国伝のみに訂正されており、中国でも『旧唐書』の二国併記が誤りであったと認識されていた。

 一元史観論者との論争(他流試合)の経験がない古田学派の方は、こうした通説成立の根拠や論理構造をご存じないことが多いようです。他方、古田先生は通説とその根拠や論理を明確に認識されていたからこそ、『旧唐書』の倭国が大和朝廷ではないことを徹底的に論証されたのです。こうした古田先生の学問の方法こそ、加藤さんや茂山さんが指摘された方法、すなわち〝実証を実証たらしめるための精緻な論証〟であり、〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度を保証〟したものなのです。この古田先生の学問の方法と、それを表した村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」の持つ意味を古田学派の皆さんには正しく理解していただきたいのです。(つづく)


第1854話 2019/03/09

「実証主義」から「論理実証主義」へ(4)

 「洛中洛外日記」1843話の〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)〟を読まれた読者の加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)から次のような感想をいただきました。とても貴重なご指摘でもあり、紹介させていただきます。

【加藤さんの感想】
①西洋哲学における実証主義の定義を明確に知っておきたいと思いました。
②実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠ですから、村岡先生の言葉は当たり前のことを言っているようにしか思えず、そんなに問題にされること自体不思議な気がします。
 例えば、日本書紀の記事を実証として使えるようにするために,古田先生を始め学派の人達(貴殿も)がどれ程の論証を尽くしたか、を考えればすぐ分かることのように思えるのですが?

 以上の二つの「感想」をいただきました。特に②のご意見は1843話の下記の部分についてのものと思われ、わたしも全く同感です。

 〝他方、古田学派の論者の中には、「史料事実に基づく実証」こそが証明方法の基本であり、従って「論証よりも実証が重要」として、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」を否定しようとされる方もあります。学問研究には「史料事実に基づく実証」もあれば、「史料事実に基づく論証」もあります。その上で、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉(立場)が成立しています。〟

 また、哲学を専攻され、「古田史学の会」関西例会でアウグスト・ベークのフィロロギーについて連続講義された茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の論稿「『実証』と『論証』について」(『古田史学会報』147号、2018.8.13)でも、加藤さんの感想と同様の趣旨が述べられています。たとえば論文末尾の次のような結論です。

 〝ベークのフィロロギーでは、「論証」の要素に「実証」の根拠が含まれ、「実証」の構築に「論証」の助けが支えとなっていた、とわたしは理解しています。〟
 〝「事実」というものはただその「事実」を表現しているだけで、それ以上のことは語りません。「事実」についての「論理展開」があってはじめて、仮説的な真実が発見され、それが「実証」として働き、さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証されるという構造になっているのです。これこそが、村岡先生や古田先生が目指していたフィロロギーという学問の方法なのです。〟

 加藤さんの〝実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠〟という感想や、茂山さんの〝さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が保証される〟という指摘はことさら難解な見解ではなく、学問や研究を行う上で当然で普通のことと考えていましたので、わたしが古田先生から教えていただいた、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉を紹介し、その後、古田先生が亡くなられたとたんに、突然のように始まった批判に、「何を言っておられるのだろう」と途惑ったものでした。ところが、いくら説明しても批判される方が現れる状況を見て、古田学派内で古田先生の学問の方法を誤解されている、あるいは不正確に理解されている方が少なくないことに気づき、「洛中洛外日記」でも繰り返し執筆することにしたわけです。そうした中で、茂山さんや加藤さんのような方も現れ、意を強くした次第です。
 次回では、加藤さんや茂山さんが述べられていることを、古田先生が扱われた具体的事例で説明したいと思います。また、加藤さんの感想①にある実証主義の定義の説明は、20世紀初頭にヨーロッパで行われた実証主義から論理実証主義(論理経験主義)、そして反証主義への変遷を解説する際に行いたいと思います。わたし自身ももう少し勉強が必要ですので(特に反証主義における「反証性の有無」についての理解が不十分なため)。(つづく)


第1852話 2019/03/08

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(4)

 小笹さんは論稿末尾に「学問と政治」という一節を置き、次のような注目すべき〝警鐘〟を打ち鳴らしておられます。同論稿中、わたしが最も強く共鳴した部分でした。

 〝過日も多元の会員のかたから「(古代史の)通説など相手にするにたりない」と、私には‘鬼畜通説’‘敵性学問’と言わんばかりにも聞こえる言葉を聞いた。だが古田史学に傾倒する人の誰もが知るように、現実に一般社会に相手にされていないのはむしろ古田史学のほうである。この逆転の原因は何であろうか。〟
 〝刷り込みではない、本来的な意味での学問への取り組みかたは任意であり、とくに多元の会のように、会員の任意によって成立している集合体の各個人の取り組みかたは、極端にいえば‘偏屈老人の単なる居場所’であってもよいし、‘純粋に古代に真実を求める人の心地よい空間’であってもよい。これらの人々にとって通説が‘相手にするにたりないもの’であることも、私にはわかる。しかし‘相手にするにたりない’というその理由が、‘通説は、それを主張している側も、偽装歴史学、偽装学問であることを、百も承知で主張している’ということだとしても、ただ‘相手にするにたりない’ですませるだろうか〟

 このように鋭く問題提起されたあと、次のような衝撃的な告白と警鐘へと小笹稿は続きます。

 〝端的に言えば、私は「古代史がこの国の未来に影響がないのであれば、邪馬台国が近畿であろうと九州であろうと、どうでもよい。九州王朝論が正しかろうと、間違っていようと、どうでもよい。」と考える人間である。その立場から言えば、通説が社会を席巻している以上は、これを単に‘相手にするにたりない’とするだけでは絶対にすませられないのである。相手に、相手にされていない側が、相手を、相手にするにたりないと呼ばわる場合、そこには逃避の臭いが漂うことは、留意する必要があるだろう。〟

 「そこには逃避の臭いが漂う」という小笹さんの指摘(警鐘)は痛烈です。そして、この〝救いようのない現実〟にあって、氏は次のように未来の青年たちへの希望を滲ませておられます。

 〝古田史学は真実を求める。しかし通説に入ってゆく若者も、本来は熱意と能力と良心を持ち、真実を求めて入って行きながら、‘爾後その世界で身を立て、生活を支えねばならない’という若者独特の事情ゆえに、徐々にでも‘真実を求める青年の志’に決別してゆくのである。もしこの若者たちを世俗の呪縛から解放することができれば、歴史学に取り組む彼らの総合力は、古田史学の会や多元の会の、ささやかな老人パワーを圧倒して真実を明らかにするだろう。
 このことを私は、会員各自の取り組みが自由であることとは別に、共通の認識として共有することを切に願う。すくなくとも私の目標はここにある。〟

 ここで示された小笹さんの目標は、わたしの、そして「古田史学の会」の目標そのもそのです。
 小笹論稿最末尾に「(つづく)」とありますが、その続編は現在に至っても『多元』には掲載されていません。安藤会長におたずねすると、続稿は届いていないとのこと。わたしは続編を読みたいと強く願っています。


第1851話 2019/03/07

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(3)

 小笹豊さんは「九州見聞考」において、九州考古学界の重鎮、鏡山猛氏について次のような指摘をされています。

 〝(前略)鏡山氏は、軍役にも就いた経験もある、考古学・古代史学に、通説以外の見解がなかった(古田史学が登場する以前)時代、世代の考古学者で、当然のことながら氏の頭に九州王朝論はなく、通説だけが氏の頭に描かれた古代史解析の基礎となったパラダイムである。それは氏個人の責任ではないが、このことが氏にとって、観世音寺を、当否は別として、法隆寺西院伽藍の移築もととする米田氏のような自由な発想と比べて‘枷’になっていることと、そのパラダイムが戦前の皇国史観の延長線上のものであるという、学問上の本質的な問題点を抱えていること自体は否めない。〟

 小笹さんは続けて次のようにも述べられています。

 〝考古・古代史学は‘昔’を解析する学問であるが、実際に解析・解釈を担当しているのは、現代を含め、対象の年代から見れば後代の人々であって、その解析・解釈にはそれぞれの時代的・社会的背景が作用していることであろう。〟

 こうした小笹さんのご指摘は重要なもので、わたしも同様の視点で、常々、発言もしてきました。というのも、古田学派の研究者や古田ファンの少なからぬ方々が、考古学者による遺跡や出土物の説明を一元史観に基づいているとして批判・非難されることがあるのですが、わたしたち古田学派の人間が思っているほど考古学者は古田史学・九州王朝説を正しく十分に理解・認識されているわけではなく、従って遺跡・遺物に対する解析・解釈は通説(近畿天皇家一元史観)に基づかざるを得ず、またそうすることが彼らにとっての〝学界の基本ルール〟でもあるのです。
 この〝学界の基本ルール〟を墨守する考古学者を一方的に責めるのは酷というものであり、むしろ日本社会において〝学界の基本ルール〟を変えることができない、対等に渡り合えない、圧倒的な少数意見(社会的非力)という状況を未だ変えることができないわたしたち古田学派の〝責任(歴史的使命)〟でもあるのです。小笹論稿にはこうした警鐘が通奏低音の如く鳴り響いており、わたし自身にも耳鳴りのように止むことなく鳴り続けているのです。(つづく)


第1850話 2019/03/06

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(2)

 「多元的古代研究会」機関紙『多元』No.115(2013年5月)に掲載された小笹豊さん(横浜市)の論稿「九州見聞考」は次のような書き出しで始まります。

 〝二〇〇九年に社会人生活を一応卒業した私は、翌二〇一〇年、九州・福岡の西南学院大学・国際文化学科に学士入学し、考古学を専門とする高倉洋彰教授(九州大学出身、文学博士、高倉は旧姓で戸籍上の姓は石田さん)のゼミに所属した。〟

 ちょうど「洛中洛外日記」1841話で高倉さん(西南学院大学名誉教授)の論文「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」について論じていたこともあり、この小笹稿の書き出しに誘われて全文を読み直すことになったのです。小笹稿では高倉さんについて次のように紹介されています。

 〝高倉教授自身の弁によれば、九州大学を出たあと、当初は福岡県に勤務する考古学者であったご本人は、縁あって観世音寺に婿養子として入り、ときを経て住職になった。
 高倉氏の九大時代の恩師が観世音寺の発掘調査を担当した鏡山猛氏なので、この際のキューピットは鏡山氏だったのではないか、つまり鏡山氏は高倉氏にとって単なる学問上の恩師ではなく、観世音寺との縁を取り持ち、高倉氏の人生に大きな転機をもたらした恩人なのではないかと、私は勝手に推察している。〟

 この記事により高倉氏が観世音寺のご住職であり、鏡山猛氏のお弟子さんだったことをわたしは知りました。鏡山氏といえば太宰府条坊復元案を提起された九州考古学界の重鎮です。わたしも、当初、鏡山説に基づいた太宰府条坊研究や仮説を提起していましたので、鏡山氏は多くの影響を受けた先学のお一人です。(つづく)


第1849話 2019/03/04

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(1)

 「古田史学の会」の論集『古代に真実を求めて』22集が今月末にも発行が予定されています。特集タイトルは「倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史」です。どのような表紙になるのか、全体としての出来映えはどうかと、今から楽しみにしています。
 おかげさまで、特集タイトルを書名とし、コンセプトを明確にした論集作りを始めた最初の1冊『盗まれた「聖徳太子」伝承』(18集)は比較的早く初刷りが完売し、増刷できました。一昨年出版した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(20集)も、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)からの報告によれば出版社(明石書店)の在庫も底をつき、もうすぐ増刷となりそうです。服部さんを始め、編集部の方々、そして執筆者・関係者のご尽力の賜です。
 論文集ですから掲載論文の学問的レベルが最も大切ですが、それでも売れなければ世に古田史学を広め、後世に伝えることができません。そうした「古田史学の会」の目的のためにも、訴求力を持ったタイトルの選定も重要です。結果として増刷になれば、そのタイトルは「合格」ということにもなりますので、「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」も「合格」をいただけたようです。わたしは「古田史学の会」の代表ですから、論集の学問的レベルと販売部数(マーケットでの高評価獲得。会の財政事情改善)の両方に対して責任がありますので、まずは一安心です。
 今は2020年発行の『古代に真実を求めて』23集の特集について検討を進めています。来年がちょうど『日本書紀』編纂千三百年になりますから、『日本書紀』に関わるテーマが特集の有力候補として上がっています。そこで『日本書紀』に関わる既発表の研究論文の精査を連日行っています。その対象は『古田史学会報』だけではなく、広く古田学派の論文にも目を通しています。
 その作業を進める中で、驚きの論稿を「発見」しました。正しくは「再発見」のはずなのですか、当初、読んだときにはその論文の意義にわたしは気づけなかったようで、内容も完全に失念していました。その論稿とは「多元的古代研究会」機関紙『多元』No.115(2013年5月)に掲載された小笹豊さん(横浜市)の「九州見聞考」です。(つづく)


第1848話 2019/03/03

「実証主義」から「論理実証主義」へ(3)

昨日届いた「多元的古代研究会」の機関紙『多元』No.150に、安藤哲朗会長による連載記事「怠惰な読書日記」に興味深い調査結果が報告されていました。古田先生の『「邪馬台国」はなかった』から「論証」と「実証」という二つの言葉の使用例を検索され、「論証」が21例、「実証」が1例であったとのこと。「実証」が1例しかないことにはちょっと驚きましたが、「論証は学問の命」と先生は言っておられましたので、「論証」という言葉が多用されていることはよく理解できます。それにしても、大変な検索作業を行われた安藤さんに拍手を贈りたいと思います。そこで、次のようなお礼メールを送りました。

【メールから転載】
多元的古代研究会
安藤様 和田様
 『多元』No.150 届きました。ありがとうございます。
 安藤さんの「論証」と「実証」の調査結果を興味深く拝読しました。わたしも似たような印象は持っていましたが、数えたことはありませんでした。
 哲学では実証主義は否定され、反証主義へと移りつつあるようですが、反証主義も反証可能性の有無の判断が簡単ではないため、未だ論争が続いているようです。
 他方、古田先生は「実証精神」「実証的」という言葉をポジティブな意味で使用されており、哲学での定義とは異なるようです。この点、簡単ではありませんが、勉強を続けたいと思います。
 また、「学問の方法」や「古田史学」の定義はややもすると抽象論となりかねず、用心して行わないと学問的に有意義なものにはならないように思います。この点、古田先生のように具体的に論じていきたいと考えています。(以下、略)
【転載終わり】

 20世紀前半にヨーロッパで行われた哲学における「実証主義」批判と「論理実証主義(論理経験主義)」の登場については本シリーズで紹介してきましたが、その「論理実証主義」も真理探究における限界が指摘され、それを乗り越える試みとしてカール・ポパーにより「反証主義」が提案されました。
 ところが古田先生は必ずしもこうした西洋哲学の定義で「実証主義」を使用されている様にも思われません。わたしの知る限り、古田先生は「実証精神」「実証的」という用語をポジティブな文脈で使用されることが多いのです。
 他方、古田学派の論者の中には、「史料事実に基づく実証」こそが証明方法の基本であり、従って「論証よりも実証が重要」として、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」を否定しようとされる方もあります。学問研究には「史料事実に基づく実証」もあれば、「史料事実に基づく論証」もあります。その上で、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉(立場)が成立しています。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは「実証を軽視する」という意味ではないと、わたしは繰り返し注意を促しているのですが、なかなか理解していただけないようです。(つづく)

《ウィキペディアでの解説(抜粋)》
○反証主義(英:Falsificationism)とは、知識を選別するための、多数ある手続きのうちのひとつ。知識に対する形而上学的な立場のうちのひとつ。
 具体的には、(1)ある理論・仮説が科学的であるか否かの基準として反証可能性を選択した上で、(2)反証可能性を持つ仮説のみが科学的な仮説であり、かつ、(3)厳しい反証テストを耐え抜いた仮説ほど信頼性(強度)が高い、とみなす考え方。


第1846話 2019/02/28

「わが説にななづみそ」(『玉勝間』本居宣長)

 『玉勝間』の「師の説になづまざる事」の一節は次のような書き出しで始まっています。

 「おのれ古典を説(と)くに、師の説と違(たが)えること多く、師の説のわろき事あるをば、わきまへいふことも多かるを、いとあるまじきことゝ思ふ人多かめれども、これすなはちわが師の心にて、常に教へられしは、後に良き考への出来たらんには、必ずしも師の説に違ふとて、なはゞかりそとなむ、教へられし。こはいと尊き教へにて、わが師の、世に優れ給へる一つ也。」(『玉勝間』岩波文庫、上巻92頁)
 ※原文の平仮名を一部漢字に改めました。以下、同じ。(古賀)

 宣長は、古典の研究において、師(賀茂真淵・他)と異なる説になることが多いが、これはもっと良い説があれば師の説にこだわることはないという師の教えによるものであり、この教えこそ師が優れていることの一つであると述べています。こうした考えが、「師の説にななづみそ」の根拠となっているわけです。ところが宣長は、この考えを更に一歩押し進めて、次節の「わが教え子に戒(いまし)めおくやう」で次のように記しています。その全文を紹介します。

 「吾に従ひて物学ばむともがらも、わが後に、又良き考へのいで来たらむには、必ずわが説になゝづみそ。わが悪しき故(ゆえ)を言ひて、良き考へを拡めよ。全ておのが人を教ふるは、道を明らかにせむぞ、吾を用ふるには有ける。道を思はで、いたづらにわれを尊まんは、わが心にあらざるぞかし。」(『玉勝間』岩波文庫、上巻93頁)

 学問研究において良い説があるのであれば、宣長は自らが師の説になづまないだけではなく、わたしの説にもなづむなと弟子らに述べているのです。そして、学問(道)のことを思わずに、いたずらに師(宣長)を尊ぶのはわたしの望むところではないとまで言い切っています。実に公明正大であり、自説よりも学問と真実探求の方が大切とする、宣長の偉大さがうかがわれる文章です。この本居宣長の言葉を〝学問の金言〟として伝えてこられた村岡先生と古田先生の真摯な姿勢を、わたしたち古田学派の研究者は正しく受け継ごうではありませんか。
 なお、引用した岩波文庫の『玉勝間』は1934年の発行で、校訂者は村岡典嗣先生です。冒頭の解説文も村岡先生の手になるもので、「昭和九年五月十三日」の日付が記されています。


第1845話 2019/02/27

「そしらむ人はそしりてよ」(『玉勝間』本居宣長)

 古田先生の恩師、村岡典嗣先生が本居宣長研究で名声を博されたことは有名です。名著『本居宣長』を何と二十代のとき(明治44年[1911]、27歳)、しかも仕事(『日独新報』記者)の傍ら困窮生活の中で執筆、上梓されています。そのまっすぐな生き様は古田先生の人生を見ているかのようです。見事な師弟と言わざるを得ません。お二人の先生に学ぶべく、「洛中洛外日記」で本居宣長の『玉勝間』の一節「そしらむ人はそしりてよ」を今回のタイトルに選びました。
 村岡先生が本居宣長の学問の姿勢に深く共感されていた痕跡は、各著作に残されています。また、古田先生が学問の金言としてわたしたちに紹介されていた本居宣長の言葉「師の説にななづみそ」は、本居宣長の『玉勝間』が出典ですが、この言葉は村岡先生も大切にされていたものです。この思想を古田先生は村岡先生から受け継がれたものと思われます。
 『玉勝間』には「師の説になづまざる事」という一節があり、次のような言葉が記されています。

 「そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし」(『玉勝間』岩波文庫、上巻93頁)

 宣長が師の説とは異なる説を述べたことに対して、師の教えに背くものとして他の弟子から非難されていたようです。そのような声に対して「そはせんかたなし」として、他人からの非難を恐れて真実追究の〝道を曲げ、古(いにしえ)の意を曲げる〟ことが師の心に適うものであろうかと宣長は反論しています。
 畏(おそ)れながら、わたしにはこの宣長の言葉(気持ち)は痛いほどよくわかります。昨年11月に開催された「八王子セミナー」の席上で、ある発表者から、古賀は古田説と異なる説(前期難波宮九州王朝副都説)を発表しているとして激しく非難されたことがありました。わたしの説がどのような根拠と理由により間違っているのかという学問的批判であれば大歓迎なのですが、「古田先生の説とは異なる」という理由での非難でした。このときのわたしの心境がまさに「そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし」だったのです。
 他方、そうした非難とは全く異なり、古田先生の〝学問の原点〟の一つとして本居宣長の「師の説にななづみそ」があると発表された方もありました。どちらの姿勢・発言が古田先生の学問を正しく受け継いでいるのかは言うまでもないことでしょう。(つづく)


第1844話 2019/02/26

紀元前2世紀の硯(すずり)出土の論理

 福岡県久留米市の犬塚幹夫さんから吉報が届きました。紀元前2世紀頃の「国産の硯」が糸島市と唐津市から出土していたという新聞記事(2019.02.20付)の切り抜きが送られてきたのです。朝日新聞・毎日新聞・西日本新聞の福岡版です。記事量は毎日新聞が一番多かったのですが、学問的には西日本新聞の解説が最も優れていました。同記事のWEB版を本稿末尾に転載しましたので、ご覧ください。
 今回の出土遺跡は福岡県糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と佐賀県唐津市の中原(なかばる)遺跡で、弥生中期中頃(紀元前100年頃)と編年されています。今回の新聞報道を受けて、〝やはり弥生中期まで遡ったか〟と、わたしは驚きと同時に論理的納得性を感じました。それは「天孫降臨」の時期との関係で、重要な問題を惹起させるものだからです。
 古田説によると天孫降臨は弥生時代の前期末から中期初頭とされています。その理由はこの時期に西日本の遺跡から金属器が出土し始めることから、日本列島に金属器で武装した集団が侵入した痕跡と見なし、それを記紀に見える「天孫降臨」事件のことと理解されたことによります。ただし、弥生時代の編年がより古くなる学界の動向もあり、その実年代は再検討が必要とされました。
 今回の硯の時代が弥生中期中頃と編年されていることから、それは早ければ「天孫降臨」の50年後、遅くても100年後頃と推定できます。そうであれば、金属器で武装した天孫族(倭人)はその頃から文字(漢字)を使用していた可能性が高まったことになります。もちろん彼らは前漢鏡に記された文字の意味も理解していたであろうし、自らも漢字漢文を初歩的ではあれ受容し、自らの名前や歴史を漢字漢文で記そうとしたであろうことも、当然の論理の帰結と思われるのです。
 この漢字を受容していた天孫族が、「天孫降臨神話」に登場する神々の名前を漢字表記していたとなると、記紀に見える神々の漢字表記の中には「天孫降臨」時代に成立していたものがあるのではないでしょうか。少なくとも、そうした可能性をも意識した文献史学の研究方法の確立が必要となりました。すなわち、今回の硯の発見は、記紀研究等において、そうした学問的配慮を要求する時代の幕開けを告げたのです。

【西日本新聞 WEB版】2019年02月20日 06時00分
弥生中期に硯製造か
糸島、唐津の遺跡 国学院大の柳田氏発表「国内最古級」

 弥生時代中期中ごろに国内で板状硯(すずり)を製造した痕跡を福岡県糸島市と佐賀県唐津市の遺跡の遺物から確認した、と国学院大の柳田康雄客員教授が19日発表した。柳田教授によると弥生時代中期中ごろは紀元前100年ごろで、国内最古級。中国で同様の硯が現れる時期と重なり、世界でも「最古級」の国産板状硯の存在は、日本での文字文化の受容がかなり早かったことを示唆し、弥生時代像を大きく変える可能性もある。
 硯は、中国では自然石を利用した石硯が紀元前200年ごろの前漢初期に出現したとされる。長方形の板状硯は石を薄くはいで形を整え、木の板にはめ込んで使用した。近年、北部九州を中心に弥生時代から古墳時代初頭にかけての硯が相次いで確認されている。
 硯の製造が判明したのは、糸島市の潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と唐津市の中原(なかばる)遺跡。潤地頭給遺跡からは工具とみられる石鋸(いしのこ)2片と、厚さ0.6センチ、長さ4.1センチ以上、幅3.6センチ以上の硯未完成品の一部が出土。中原遺跡では厚さ0.7センチ、長さ19.2センチ、幅7,2センチ以上の大型硯未完成品をはじめ、小型硯の未完成品、石鋸1片、墨をするときに使う研石の未完成品があった。いずれも柳田教授が過去の出土品の中から見つけた。
 従来、前漢が朝鮮半島北部に楽浪郡を設置(紀元前108年)したことが朝鮮半島や日本に文字文化が広がるきっかけとなったと考えられてきた。今回の発表で、硯の出現が楽浪郡設置よりも古くなる可能性もあるが、柳田教授は楽浪郡を経由せずに文化が日本に波及した可能性も想定する。
 九州大の溝口孝司教授(考古学)は、硯の製造時期について「もう少し証拠を固める必要がある」としながらも、硯の確認が相次ぐ状況を踏まえ「柳田氏の調査は尊重すべき情報。今後、竹簡や硯を置いた台など、硯以外の文字関連遺物がないか、慎重に調べる必要がある」と話す。柳田教授は24日に奈良県である研究会で、今回の結果を報告する。
=2019/02/20付 西日本新聞朝刊=