古賀達也一覧

第1225話 2016/07/09

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(5)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に悩んでいたわたしは、難波宮に関する先行論文の調査を続けました。その過程で、大和朝廷一元史観内でも前期難波宮の隔絶した規模に困惑している状況があることを知りました。

 たとえば中尾芳治著『難波京』(ニュー・サイエンス社、昭和61年)では、前期難波宮がその前後の近畿天皇家の宮殿(飛鳥板葺宮、飛鳥浄御原宮)とは規模も様式も隔絶していると指摘されています。

 「前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(p.93)

 そしてこの前期難波宮の朝堂院様式が前後の宮殿となぜ異なったのかという説明に非常に苦しんでいる様子が吉田晶著『古代の難波』(教育社、1982年)にも記されています。

 「残る問題は、その宮室構造と規模がその後の天智の大津宮や天武の飛鳥浄御原宮に継承されたとは考えがたいのに対して、持統朝に完成する藤原宮に継承関係がみられることを、どう説明するか、(中略)宮室構造と規模などはすぐれてイデオロギー的要素をふくむ政治的構造物であり、考古学上の遺物たとえば土器の編年と同様に考えることはできず、物自体については「後戻り現象」(横山浩一氏の表現)も生じうる。その意味で形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない。」(p.167〜168)

 わたしは大和朝廷一元論者の困惑したこれらの文章を見て驚きました。それにしても「後戻り現象」なる奇妙な解釈を持ち込んでまで「形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない」というに及んでは、これは「思考停止」であり、学問的敗北です。すなわち、彼らも前期難波宮の隔絶した規模と様式を、大和朝廷一元史観の中で処理(理解)できないことを「告白」しているのでした。

 この学問的状況を知ったとき、わたしの脳裏に、前期難波宮は大和朝廷ではなく九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)が稲妻のようにひらめきました。と同時に、古田学派にとってもあまりに常識から外れたこの新概念に、学問的恐怖を覚えました。こんな非常識な仮説を発表して、もし間違っていたらどうしようと、わたしは呻吟したのです。真っ暗闇の中で、誰も行ったことのない場所に一歩踏み出すという最先端研究が持つ恐怖にかられた瞬間でした。(つづく)


第1224話 2016/07/08

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(4)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の最後《三の矢》についての解説です。実はこの《三の矢》こそ、わたしが最初に気づいた九州王朝説にとっての最大の難関でした。そして同時に「三本の矢」を跳ね返すヒントが秘められていたテーマでもありました。

《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 今から10年以上前のことです。わたしは古田先生の下で主に九州王朝史と九州年号研究に没頭していました。そうした中で悩み抜いた問題がありました。それは大阪市法円坂から出土していた孝徳天皇の前期難波宮址(『日本書紀』に見える難波長柄豊碕宮とされている)が7世紀中頃の宮殿として国内最大規模で最古の朝堂院様式であり、九州王朝の宮殿と考えてきた大宰府政庁2期の宮殿とは比較にならないほどの大きさだったことです。朝堂院部分の面積比だけでも前期難波宮は大宰府政庁の数倍は大きく、「大極殿」や「内裏」を含めるとその差は更に広がります。

  これではどちらが日本列島の代表者かわからず、大和朝廷一元論者だけではなく九州王朝説を知らない普通の人々が見れば、倭国王の宮殿としてどちらがふさわしいかという質問に対して、おそらく全員が前期難波宮と答えることでしょう。この考古学的出土事実は九州王朝説にとって「致命傷」になりかねない重要問題であることに気づいて以来、わたしは何年も悩みました。この悩みこそ、九州王朝説に突き刺さった《三の矢》なのです。

 古田先生も最晩年まで前期難波宮について悩んでおられたようで、当初は『日本書紀』に記されていない「近畿天皇家の宮殿」と言われていましたが、繰り返し問い続けると「わからない」とされました。古田先生さえ悩まれるほど、難解かつ重要なテーマだったのです。(つづく)


第1223話 2016/07/07

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《二の矢》について解説します。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 6〜7世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。このことはほとんどの九州王朝説論者が賛成するところでしょう。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。

 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論されている記事を読んだときでした。この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。

 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を50年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を7世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には6世紀末から7世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳10年〔670〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。7世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから解釈変更によって否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解にはわたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元史観論者を説得することもできず、彼らの「6〜7世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、その事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元史観論者との「他流試合」で勝つためにはこの頑固で強力な《二の矢》から逃げることはできません。

 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が6世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。

 また別の角度からの研究として、従来は8世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により7世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に記されています。

 こうした研究は、ようやくその研究成果が現れ始めた段階です。このテーマは7世紀における土器編年の再検討という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学も避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。(つづく)


第1222話 2016/07/03

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(2)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とわたしが名付けた考古学的出土事実から、九州王朝説論者は逃げることはできません。自説に不利な事実やデータを無視したり軽視しすることは学問的態度ではないからです。これが九州王朝説論者同士の論争なら、「考古学についてはわからない」などと言って逃げられるかもしれませんが(本当は逃げられません)、大和朝廷一元史観論者に対しては「敗北宣言」に等しく、「他流試合」ではそうした「逃げ」や言いわけは全く通用しません。
 こうしたことを踏まえて、この「三本の矢」について具体的に、その持つ意味について説明します。最初に《一の矢》を考察します。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 この考古学的事実は「邪馬台国」畿内説の隠れた「精神的支柱」となっているようです。すなわち、弥生時代の遺跡や遺物(主に金属器)については北部九州にかなわないが、その後の古墳時代は圧倒的に畿内や近畿に巨大な前方後円墳が分布しており、だから弥生時代の「邪馬台国」も畿内にあったと考えてもよい、という「理屈」が「邪馬台国」畿内説論者や大和朝廷一元史観を支えているのです。
 この難題に対して九州王朝説論者からは、当時、朝鮮半島諸国と交戦していたのは大和朝廷ではなく九州王朝であり、だから戦時に巨大な古墳など造営できないのは当然であると説明や反論をしてきました。しかし、この説明は九州王朝説論者内部には説得力を有しますが、大和朝廷一元論者に対しては全く無力です。なぜなら、全国を統一支配していた大和朝廷は近畿に巨大古墳を造営するだけの富と権力を持っており、大和朝廷の命令で朝鮮半島に出兵させられていた北部九州の豪族に巨大古墳を造れないのは当然と彼らは考えているからです。
 ですから九州王朝説を持ち出さなくても一元史観で説明可能であり、むしろ巨大古墳が近畿に濃密分布しているという事実そのものからは、北部九州よりも近畿に日本列島を代表する王朝があったとする理解を否定できないのです。この論理性はかなり頑固で強力であることを、九州王朝説論者はまず認識する必要があります。
 その上で、この近畿に巨大古墳が濃密分布するという事実を、九州王朝説の立場から合理的に説明しようとする試みが、「古田史学の会」関西例会で服部静尚さんが果敢に挑戦されており、わたしは期待を持ってそれを見守っている状況です。(つづく)


第1221話 2016/07/03九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

 わたしたち古田学派にとって九州王朝の実在は自明のことですが、実は九州王朝説にとって今なお越えなければならない三つの難題があります。しかし残念ながらほとんどの研究者はその問題の重要性に気づいていないか、あるいは曖昧に「解釈」しているようで、ごく一部の研究者だけがその難題に果敢に挑戦してます。
 わたしはそれを「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」と表現していますが、7月23日(土)に東京家政学院大学で開催する『邪馬壹国の歴史学』出版記念講演会でこの問題を取り上げますので、それに先だってこの「三本の矢」について説明することにします。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 7月23日(土)の東京講演会では《三の矢》に関してのシンポジウムも開催しますので、ふるってご参加ください。(つづく)


第1220話 2016/07/02

日本学術振興会で講演しました

 昨日は午前中に大阪で代理店社長さんと面談した後、午後は京都に戻り、京都駅前のキャンパスプラザ京都で開催された日本学術振興会(学振)繊維・高分子機能加工第120委員会で講演しました。
 学振での講演は初めてなので、会場受付で参加者リストを入念にチェックし、コンペティター企業の名前が無いことを確認しました。先週、大阪の森ノ宮で行った「誰も知らなかった古代史セッション」とほぼ同じジャンルを取り扱うのですが、発表の仕方は全く異なります。「機能性色素」の歴史や概要、今後の展開など、同じようなテーマですが、一般参加者向けには、なるべくわかりやすく面白く話すように心がけるのですが、学会や業界の関係者相手の場合は、学術的に正確な発表が求められます。同時に企業機密を守りながら、会社や製品をさりげなく宣伝しなければなりませんから、かなり神経を使います。ですから、最初に必ず参加者リストをチェックしなければならないのです。
 冒頭、第120委員会の大内秋比古先生(日本大学教授)のご挨拶の後、村田機械・ホーユーなどの企業研究者、仕事でご協力いただいている椙山女学園大学の桑原里実さんや京都市産業技術研究所の早水さんらが講演され、わたしは一番最後に「機能性色素の概要とテキスタイルへの展開」という演題で講演しました。おかげさまで、「面白かった」と好評でした。
 講演会後の懇親会では多くの方と名刺交換したのですが、湘南工科大学教授の幾多信生先生から、「古賀さんの洛中洛外日記はいつも拝見しています」といきなり言われ驚きました。幾多先生は古田先生の大ファンで著作はほとんど読んだとのこと。更に、大阪府立大学の黒木宣彦先生から染色化学を学ばれたとのことで、わたしも社内研修で最晩年の黒木先生の講義を受けており、化学でも黒木研の同門であることがわかり、一気にうち解けることができました。更にとどめとして、幾多先生が湘南工科大学付属高校の校長をされていたとき、わたしが開発した近赤外線吸収染料を使用した赤外線透撮防止スクール水着を同校指定水着に採用されたとのことで、わたしは感謝感激でした。本当に二重三重の不思議なご縁でした。
 幾多先生との歓談は二次会でも続き、隣に座られていた学振120委員会委員長の大内秋比古先生(日本大学教授)に対して、わたしと幾多先生の二人がかりで古田説(短里・二倍年暦など)の説明を続けました。最後はお酒の勢いもあり、三人とも有機合成化学の専攻でしたから学生時代の実験の失敗談(ジアゾ化反応時の爆発事故、有機溶剤の火災事故など)に花が咲きました。わたしのfacebookにそのときの写真を掲載していますのでご覧ください。
 こうして初めの学振講演会は忘れ難い一日となりました。いろんな分野で古田先生の熱烈なファンとお会いした経験は少なくないのですが、わたしの関わっている学会や業界にもおられたことに、嬉しさもひとしおでした。


第1218話 2016/07/01

第1234話 2016/07/17 大盛況!東海学園高校でのサマーセミナー

愛知サマーセミナー2016に参加します

終了しました。

 「古田史学の会・東海」が毎年参加されている「愛知サマーセミナー2016」に今年も参加し、高校生に古田史学・多元史観の講義を行います。
 わたしは昨年初めて参加したのですが、高校生(社会人・中学生も参加)を相手に楽しく講義できました。何よりも参加された高校生・中学生の意識の高さに驚かされました。受講後に書いていただいたアンケート結果(感想文)を見ても、子供たちが古田史学や邪馬壹国説・九州王朝説を学校では習わない新しい古代史として真面目に受け止めていたことがよくわかりました。(昨年のアンケート結果は「洛中洛外日記【号外】2015/07/19 愛知サマーセミナー受講者の感想文」でご紹介しました。)
 「愛知サマーセミナー2016」の日時・会場などは次の通りです。詳細は主催者のホームページをご覧ください。

 「古田史学の会・東海」担当の講義
■日時 7月17日(日) 13:10〜14:30 14:50〜16:10
■会場 東海学園高校 2号館3階104教室(定員42人)
  地下鉄鶴舞線「原」駅下車 2番出口から徒歩約12分
  または市バス「平針南住宅」下車、徒歩約3分
 ※東海学園大学の門からは入場できません。高校側から入場してください。
■テーマ 教科書が教えない古代史「邪馬台国の真実」
■講師 古賀達也(古田史学の会・代表)、「古田史学の会・東海」のメンバー

第1002話 2015/07/19 愛知サマーセミナーで講義

第1005話 2015/07/22「愛知サマーセミナー」の成果と特長

第1006話 2015/07/22「愛知サマーセミナー」の反省点


第1170話 2016/04/19

鬼哭啾々、痛惜の春

 わたしの故郷、九州の大地に激震が走り、多くの被災者が呻吟している最中、わたしの心に追い打ちをかけるような事が起こりました。東京古田会の藤沢会長が急逝されたのです。昨年の古田先生ご逝去に続き、まさに鬼哭啾々、痛惜の春となってしまいました。
 わたしと藤沢さんの出会いは、昭和薬科大学諏訪校舎で一週間にわたり開催された古代史討論シンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年8月)でした。当時、わたしは「市民の古代研究会」事務局長として、このシンポジウムの実行委員会に加わっていました。実行委員会は古田先生を支持する二団体(東京古田会・市民の古代研究会)が中心となって運営されており、実行委員長は「市民の古代研究会」会長だった藤田友治さん(故人)でした。
 ところが、シンポジウム議長団として進行を差配していた藤田さんと、外部からお招きしていた司会の方との間でトラブルが発生し、その責任をとって藤田さんが実行委員長を辞任されるという事態になりました。藤田会長から事後を託されたわたしは、東京古田会の藤沢会長に実行委員長を引き受けていただけないかと、二人きりの場でお願いしました。そして、その夜の実行委員会でわたしから事態の説明と藤沢さんを後任の実行委員長に推薦する提案を行い、承認されました。このように初日から舞台裏は大変だったのですが、藤沢さんがその後の実行委員会を見事に仕切きられ、シンポジウムは大成功したのです。
 当時、わたしは35歳の若輩者でしたが、それ以来、藤沢さんからは何かと眼をかけていただいたように思います。諏訪校舎の一室で善後策を藤沢さんと話し合ったあの日からもう25年も経ったことを、藤沢さんの訃報に接して思い出しました。
 安らかにお眠りください。遺されたわたしたちが、あなたのお志を引き継いでまいります。合掌。


第1153話 2016/03/21

空海と「海賦」(1)

 今朝の東寺は「弘法さん」で賑わっていました。毎月の21日は空海の月命日にあたり、毎月のこの日は「弘法さん」で出店や骨董市が並び、大勢の人が東寺に集まりますが、とりわけ空海の命日の3月21日は「本弘法」と呼ばれ、特別な「弘法さん」です。
 わたしは不勉強から、空海の名前の意味を「空(sky)」と「海(sea)」だと永く漠然と思いこんでいたのですが、よくよく考えると仏教用語としての「空」に「そら(sky)」の意味はありません。般若心経などに見える「色即是空」で有名なように、「色」は「物質」、「空」は「非物質」のような概念ですから、空海の名前には「空」なる「海(sea)」ということになるのでしょうか。空海の名前の由来について、ご存じの方がおられればご教示ください。
 わたしの全くの推測ですが、空海は自らの名前を強く意識しており、『文選』にある「海賦」(海の物語)を読んでいたと思われます。というのも、空海の著作中に「海賦」に類似した記載があるのです。(つづく)


第1142話 2016/02/27

大宅健一郎「STAP騒動の真相」

 「古田史学の会」会員で、多元的「国分寺」研究サークルのサイトを開設され、わたしと共同研究されている東京都の肥沼孝治さんから、ネットサイト「ビジネスジャーナル」に大宅健一郎さんの「STAP騒動の真相」という記事が掲載されていることを教えていただきました。わたしが「洛中洛外日記」で連載した「小保方晴子著『あの日』を再読」と同じ主張が述べられており、意を強くしました。冒頭部分を転載し、ご紹介します。

大宅健一郎「STAP騒動の真相」 2016.02.26

STAP問題の元凶は若山教授だと判明…恣意的な研究を主導、全責任を小保方氏に背負わせ

 「私は、STAP細胞が正しいと確信したまま、墓場に行くだろう」
 STAP論文の共著者であるチャールズ・バカンティ博士は、米国誌「ニューヨーカー」(2月22日付電子版)の取材に対して、こう答えた。2015年にもSTAP細胞の研究を続け、万能性を示す遺伝子の働きを確認したという。
 また、「週刊新潮」(新潮社/2月11日号)では、理化学研究所・CDB(発生・再生科学総合研究センター)副センター長だった故・笹井芳樹博士の夫人が、インタビューにおいて次のように発言している。

「ただ、主人はSTAP現象そのものについては、最後まで『ある』と思っていたと思います。確かに主人の生前から『ES細胞が混入した』という疑惑が指摘され始めていました。しかし、主人はそれこそ山のようにES細胞を見てきていた。その目から見て、『あの細胞はESとは明らかに形が異なる』という話を、家でもよくしていました」

 ES細胞に関する世界トップクラスの科学者である2人が、ES細胞とは明らかに異なるSTAP細胞の存在を確信していたのだ。
 一体、あのSTAP騒動とはなんだったのだろうか――。

ファクトベースで書かれた手記

 小保方晴子氏が書いた手記『あの日』(講談社)が1月29日に発刊され、この騒動の原因が明らかになってきた。時系列に出来事が綴られて、その裏には、関係者間でやりとりされた膨大なメールが存在していることがわかる。さらに関係者の重要な発言は、今でもインターネットで確認できるものが多く、ファクトベースで手記が書かれたことが理解できた。いかにも科学者らしいロジカルな構成だと筆者は感じた。
 しかし、本書に対しては「感情的だ」「手記でなく論文で主張すべき」などの批判的な論調が多い。特にテレビのコメンテーターなどの批判では、「本は読みません。だって言い訳なんでしょ」などと呆れるものが多かった。
 手記とは、著者が体験したことを著者の目で書いたものである。出来事の記述以外に、著者の心象風景も描かれる。それは当然のことだ。特に小保方氏のように、過剰な偏向報道に晒された人物が書く手記に、感情面が書かれないことはあり得ないだろう。それでも本書では、可能な限りファクトベースで書くことを守ろうとした小保方氏の信念を垣間見ることができる。 また、「手記でなく論文で主張すべき」と批判する人は、小保方氏が早稲田大学から博士号を剥奪され、研究する環境も失った現実を知らないのだろうか。小保方氏は騒動の渦中でも自由に発言する権限もなく、わずかな反論さえもマスコミの圧倒的な個人攻撃の波でかき消された過去を忘れたのだろうか。このようないい加減な批判がまかり通るところに、そもそものSTAP騒動の根幹があると筆者はみている。

小保方氏が担当した実験は一部

 STAP騒動を解明するために、基礎的な事実を整理しておこう。
 小保方氏が「STAP細胞」実験の一部だけを担当していたという事実、さらに論文撤回の理由は小保方氏が「担当していない」実験の部分であったという事実は、しばしば忘れられがちである。いわゆるSTAP細胞をつくる工程は、細胞を酸処理して培養し、細胞塊(スフェア)が多能性(多様な細胞になる可能性)を示すOct4陽性(のちに「STAP現象」と呼ばれる)になるところまでと、その細胞塊を初期胚に注入しキメラマウスをつくるまでの、大きく分けて2つの工程がある。
 小保方氏が担当していたのは前半部分の細胞塊をつくるまでである。後半のキメラマウスをつくる工程は、当時小保方氏の上司であった若山照彦氏(現山梨大学教授)が行っていた。
 もう少し厳密にいえば、小保方氏が作製した細胞塊は増殖力が弱いという特徴を持っているが、若山氏は増殖力のないそれから増殖するように変化させ幹細胞株化(後に「STAP幹細胞」と呼ばれる)させるのが仕事だった。つまり、「STAP現象」が小保方氏、「STAP幹細胞」が若山氏、という分担だが、マスコミにより、「STAP現象」も「STAP幹細胞」も「STAP細胞」と呼ばれるという混乱が発生する。
 本書によれば、若山氏はキメラマウスをつくる技術を小保方氏に教えなかった。小保方氏の要請に対して、「小保方さんが自分でできるようになっちゃったら、もう僕のことを必要としてくれなくなって、どこかに行っちゃうかもしれないから、ヤダ」と答えたという。
 この若山氏の言葉は見逃すことはできない。なぜなら、STAP細胞実験を行っていた当時、小保方氏はCDB内の若山研究室(以下、若山研)の一客員研究員にすぎなかったからである。小保方氏の当時の所属は米ハーバード大学バカンティ研究室(以下、バカンティ研)であり、若山氏は小保方氏の上司であり指導者という立場であった。
 当時の小保方氏は、博士課程終了後に任期付きで研究員として働くいわゆるポスドク、ポストドクターという身分だった。不安定な身分であることが多く、日本国内には1万人以上いるといわれ、当時の小保方氏もそのひとりであり、所属する研究室の上司に逆らうことはできなかったのだ。
 この弱い立場が、のちに巻き起こるマスコミのメディアスクラムに対抗できなかった最大の理由である。メディアがつくり上げた虚像によって、まるで小保方氏が若山氏と同じ立場で力を持っていたかのように印象づけられていた。


第1136話 2016/02/09

一元史観からの多層的「国分寺」の考察

 肥沼孝治さん宮崎宇史さんと立ち上げた多元的「国分寺」研究サークルですが、肥沼さんが開設された同サークルのホームページは順調にアクセス件数が増えているとのこと。

 そのホームページで肥沼さんが梶原義実さんの「国分寺成立の様相」(『考古学ジャーナル』2月号所収)という論文を紹介されました。同論文の存在は宮崎さんから教えていただいていたのですが、わたしはまだ入手できずにいます。

 肥沼さんの紹介によれば、大和朝廷一元史観に立った国分寺研究ですが、一元史観では説明しきれない様々な考古学的知見が記されているとのこと。わたしも同論文を読んだ上で、改めて論評したいと思います。取り急ぎ、肥沼さんによる紹介文を転載させていただきます。多元的「国分寺」研究はいよいよ面白くなってきました。

〔追記〕本稿執筆後に図書館で梶原義実さんの「国分寺成立の様相」を閲覧しました(最新号のためコピー不可)。各地の国分寺遺跡には白鳳時代の瓦が出土していたり、その下層に堀立柱の遺構があるものがあり、古い寺院があった場所に新たに国分寺が建てられたとする説が紹介されています。しかし、梶原さんの結論としてはそれらは7世紀に遡るようなものではないとする見解でした。従って、わたしたちの多元的「国分寺」説とは真っ向から対立する立場のようです。

【ホームページ・多元的「国分寺」研究サークルより転載】
梶原義実さんの「国分寺成立の様相」論文

宮崎さんのアドバイスもあり,
通説のおさらいにと思って買った『考古学ジャーナル』2月号。
(たった30数ページなのに薄いのに,1700円もする!)
ところが,それに掲載されていた上記の論文がとても刺激的なので,
このサイトで紹介しようと思った次第である。
もちろん通説の立場であるから,九州王朝なんて言葉は出てこないが,
しかしそれだからこそ,「雑念」が入らず読めるのではないかと。

(1)小田富士雄氏によると,西海道の国分寺には,
国分寺の造営にあたって大宰府の影響がきわめて大きかったと論じた。

(2)山崎信二氏は,平城京と国分寺との瓦の同はん関係は,
いまだに確認されていないと指摘した。

(3)1970年台以降,とくに80年代から90年代にかけて,
武蔵・上総・下総・上野・下野など,関東地方の国分二寺を中心に,
伽藍の中枢域(伽藍地)ばかりでなく,周辺域(寺院地)も含めた
広域的な調査がおこなわれるようになった。
須田勉氏は,それらの調査を受け,関東地方の多くの国分寺の造営計画について,
方位の異なる2時期の遺構が検出されることに注目した。(上総国分寺の伽藍変遷図)
さらに造営においては金堂より塔が先行する例が多いこと,
本格的な礎石建の伽藍の下層に,掘立柱建物の遺構が先行
してみられる例が存在することなどから,国分寺の造営計画に変更があったことを指摘した。

これまで多元的「国分寺」研究サークルが考えてきたことに,
まさにぴったり重なる発掘結果というべきではないだろうか。
しかし,この謎は大和一元史観では解けない。
7世紀末までは九州王朝が,8世紀以降は大和政権が,
我が国を代表する主権国家だったとする多元史観をもってして,
初めて解き得る謎(=歴史的真実)なのではないだろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記は,朝の忙しい時に入力したもので,電車の中で「これも入れたかった」というものを見つけた。半日立ったが,補足しておきたい。

追伸

(4) 八賀晋氏は,出土瓦について,白鳳期の瓦が一定以上出土する国分寺が多いこと,美濃国分寺などの国分寺の伽藍の下層に,掘立柱建物が確認される事例があることなどを示しつつ,これら古相を示す伽藍配置については,白鳳期以前の氏寺(前身寺院)を改作・拡充整備したものとの見解を著わした。


第1122話 2016/01/13

本年5月に講演を2件行います

 昨日は大阪市西区の大阪科学技術センターにて近畿化学協会・機能性色素部会の定例会で講演(草木染から機能性色素へ -染料と染色の化学史-)しました。講師はわたしの他に、村中厚哉さん(理化学研究所)と高坂貴浩さん(セーレン)でした。最先端研究開発に携わっている化学者が相手でしたので緊張しましたが、「染料と染色の化学史」という切り口が思いのほか好評で、近畿化学協会誌への寄稿や大阪市立工業研究所の方から講演依頼をいただきました。
 新年も年始から講演依頼が続いていますが、特に5月は既に2件の講演が決まりました。5月20日(金)に大阪でTES会西日本支部の年次大会での特別講演を行います。講演テーマは古代史と化学の二分野でとのご依頼でしたので、「理系が読む倭人伝」と「草木染から機能性色素へ」としました。(TES:繊維製品品質管理士)
 28日(土)には久留米大学で古代史の講演を行う予定です。当日は正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も講演されるとのことでしたので、正木さんと相談のうえ、昨年、東京家政学院大学で行った「九州王朝の『聖徳太子』」をテーマとすることにしました。二人で講演内容を分担し、参加者にわかりやすいように工夫したいと考えています。「多利思北孤は久留米にいた」という内容で構想を練っています。