古賀達也一覧

第2708話 2022/03/28

『古代史の争点』

(『古代に真実を求めて』25集)の紹介

 「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』25集が明石書店より発刊されました。同書タイトルは『古代史の争点』で、大原重雄さんが編集長になられて初めての会誌です。同書は「古代史の争点」として、「邪馬台国」・倭の五王・聖徳太子・大化の改新・藤原京と王朝交代を特集テーマとしたもので、大原さんの発案です。
 本書では拙稿三編が採用されましたが、正木さんには全てのテーマで原稿を書いていただきました。それは九州王朝通史概論ともいうべき内容で、この10年間の古田史学の会・関西例会での論争や検証を経たものです。また、古田学派の重鎮的研究者である谷本さんからもハイレベルの論文二編をいただきました。常連執筆者の服部さん、別役さんからも原稿をいただきました。いずれも読み応えのある秀作です。
 こうした論文を収録して、価格も2,200円(税別)に押さえることができました。執筆者、編集部のみなさんや明石書店の森さんに御礼申し上げます。『古代史の争点』が古代史ファンや研究者に支持され、後世に残る一冊になることを願っています。

《『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)の収録論文》
□特集 古代史の争点□
―「邪馬台国」・倭の五王・聖徳太子・大化の改新・藤原京と王朝交代―

【邪馬台国】
「邪馬台国」大和説の終焉を告げる 古賀達也
―関川尚巧著『考古学から見た邪馬台国大和説』の気概―
「邪馬台国」が行方不明となった理由 正木 裕

【倭の五王】
俾弥呼・壹與から倭の五王へ 正木 裕
コラム① 『鬼滅の刃』ブームと竈門神社 別役政光

【聖徳太子】
二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」 正木 裕
聖徳太子と仏教 ―石井公成氏に問う― 服部静尚
「鴻臚寺掌客・裴世清=隋・煬帝の遣使」説の妥当性について 谷本 茂
―『日本書紀』に於ける所謂「推古朝の遣隋使」の史料批判―
コラム② 小野妹子と冠位十二階の謎 谷本 茂
コラム③ 教科書から聖徳太子は消えるのか? 別役政光

【大化の改新】
九州王朝と大化の改新 ―盗まれた伊勢王の即位と常色の改革― 正木 裕
九州王朝の全盛期 ―伊勢王の評制施行と難波宮造営― 正木 裕
コラム④ 北部九州から出土したカットグラスと分銅 古賀達也

【藤原京と王朝交代】
王朝統合と交代の新・古代史 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判― 古賀達也
王朝交代の真実 ―称制と禅譲― 服部静尚
中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺― 服部静尚


第2707話 2022/03/26

柿本人麻呂系図の紹介 (6)

  — 人麻呂の渡唐伝承

 『柿本家系図』には不思議な記事が記されています。人麻呂が二度にわたり遣唐使として渡唐したという記事で、古田先生も注目されていました。従来の人麻呂研究ではこのような伝承を史実として取り扱ったものはなかったように思います。あるいは学問的検証の対象とはされていないのではないでしょうか。
 『柿本家系図』には次のように記されています。

 「人麿ハ 天武 持統 文武ノ 三帝ニ 奉仕シ 遣唐使ナリシ事二度」

 人麻呂が二度も渡唐したとする記事は、他には見られない所伝です。渡唐したとする史料はあるのですが、それが「二度」とする史料の存在をこの系図以外にわたしは知りません。渡唐の時期は系図からはわかりません。人麻呂は九州年号の大長四年丁未(707)に没していますから(注①)、九州王朝の遣唐使であれば渡唐は七世紀後半、大和朝廷の遣唐使であれば八世紀初頭となります。
 人麻呂の渡唐を示す史料とは『拾遺和歌集』に採録された「柿本人丸」の歌とされる次の歌の題詞と頭注です(注②)。

 「もろこしにて     柿本人丸
 あまとぶや かりのつかひにいつしかも ならのみやこにことづてやらん」
 『拾遺和歌集』巻第六 別

 『拾遺和歌集』には柿本人麻呂の歌は少なからず採録されていますが、その名前は「柿本人麿」以外に、「柿本人丸」「柿本人まろ」「人麿」「人丸」「かきのもとの人まろ」「ひとまろ」と表記されています。しかし、『万葉集』に見える「柿本朝臣人麿」のような、姓(かばね)の「朝臣」は見えません。他方、『拾遺和歌集』の歌人名などには「在原業平朝臣」のように名前末尾の「朝臣」表記が散見されます(注③)。
 この「もろこしにて」との題詞を持つ柿本人丸の歌には長文の頭注があり、その中に次の記事が見えます。

 「証本云、人丸ノ入唐ノ事 此ノ歌外無シ所見。」(注④)

 しかし、これによく似た歌が『万葉集』巻第十五の天平八年の遣新羅使の「引津の亭(とまり)に船泊(は)てて作る歌七首」中にあることから、この歌の作者が『拾遺和歌集』には「柿本人丸」とされていることを頭注編者は疑っています。『万葉集』の次の歌です。

 「天飛ぶや 鴈を使に得てしかも 奈良の都を言(こと)告げ遣(や)らむ」『万葉集』巻第十五(3676)

 この歌の作者名は記されていません。同巻冒頭には「天平八年丙子夏六月、使を新羅國に遣はしし時」とあり、天平八年(736)には人麻呂は既に没しています。そのため、先の頭注編者は疑ったわけです。しかし、『万葉集』巻十五冒頭文には「所に當りて誦詠する古歌を幷せたり」ともあり、作者名が記されていないこの歌が人麻呂のものである可能性があります。
 こうした史料状況を考えると、『万葉集』では「所に當りて誦詠する古歌」とされた歌が、『拾遺和歌集』編者は「もろこしにて」「柿本人丸」が詠んだ歌であるという情報を持っていた、あるいはそう信じるに足ると認識していたと思われます。従って、柿本人麻呂は渡唐したと古代では考えられており、『柿本家系図』の二度の渡唐記事はそうした認識の反映ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
②わき書きの存在を京都府の『拾遺和歌集』歴彩館所蔵本(書写年代は不明)で確認した。
③『拾遺和歌集』には「源公忠朝臣」「藤原實方朝臣」「源延光朝臣」「藤原佐忠朝臣」「源満仲朝臣」「在原業平朝臣」「源經房朝臣」「藤原忠房朝臣」「實方朝臣」「藤原實方朝臣」「源實信朝臣」「むねかたの朝臣」「藤原忠君朝臣」「則忠朝臣女」「藤原道信朝臣」「藤原共政朝臣妻」「公忠朝臣」「源相方朝臣」「参議藤原朝臣」が見える。
④『八代集全註第一巻 八代集抄 上巻』(山岸徳平編、有精堂、1960年)によった。


第2706話 2022/03/24

下野薬師寺と観世音寺の創建年

 『柿本家系図』に見える柿本人麻呂の「実子」とある「男玉」が東大寺大仏の鋳造に関わっていたため、東大寺関連史料を精査しています。その過程でいくつもの貴重な発見が続いています。その一つに、下野薬師寺の創建年記事の発見がありました。

 「下野薬師寺 天智天皇九年庚午」『東大寺要録』巻第六「末寺章第九」

 「天智天皇九年庚午」とありますから、九州年号の白鳳十年(670)に下野薬師寺が創建されたとする記事です。わたしはこの年次を見て驚きました。九州年号史料(注①)に見える太宰府の観世音寺創建と同年だったからです。しかも、両寺院は東大寺と共に「天下の三戒壇」と称され、大和朝廷により僧尼受戒の寺院とされています。『古代を考える 古代寺院』(注②)では次のように解説されています。

 「地方の古代寺院の中でこの両寺が特筆されるのは、後述のような戒壇が置かれたことにもよるが、その設置以前から特別な地位をあたえられていたこともみのがせない。
 例えば、天平勝宝元年(七四九)に諸寺の墾田の限度額が定められ、両寺はともに五〇〇町とされた。これは、諸国国分寺の半分にすぎないけれど、一般定額寺の一〇〇町とは比較にならないし、法隆寺や四天王寺などの大寺とも同額であった。(中略)つまり、両寺が中央の大寺に準ずる扱いを受けていたことは、遠くはなれた地方に所在しながら、中央との結びつきが強かったこと、そしてすでに特別な地位が与えられていたことをしめしている。おそらく、それは創建の由来にもとづくのであろう。」同書269頁

 観世音寺と下野薬師寺に与えられた「特別な地位」が「創建の由来」にもとづくという指摘は示唆的です。また、両寺の墾田が法隆寺や四天王寺と同額の五〇〇町であったというのも重要な指摘ではないでしょうか。再建法隆寺や四天王寺(難波天王寺)・観世音寺が九州王朝の寺院であったことが古田学派の研究により明らかとなっていることから、創建年が共に白鳳十年(670)で後に戒壇が置かれた観世音寺と下野薬師寺は九州王朝(倭国)時代の七世紀後半において、九州王朝の戒壇が置かれたのではないかとわたしは考えています。そのことが〝由来〟となって、八世紀の大和朝廷(日本国)の時代も両寺に戒壇が置かれたのではないでしょうか。
 ちなみに、下野薬師寺跡から出土した創建瓦とみられる複弁蓮華文瓦は飛鳥川原寺の系譜をひき、天武期ごろのものとされています(注③)。先の『東大寺要録』には川原寺の創建年を次のように伝えています。

 「行基之建立齊明天皇治七年辛酉建立」『東大寺要録』巻第六「末寺章第九」

 ここにみえる「齊明天皇治七年辛酉」は九州年号の白鳳元年(661)に相当し、下野薬師寺の創建瓦(複弁蓮華文瓦)が飛鳥川原寺の系譜をひくという見解は年代的にも妥当な判断です。
 以上のように、観世音寺と下野薬師寺の両寺は九州王朝の戒壇が置かれるべく、白鳳十年(670)の同時期に創建されたとする仮説が妥当であれば、大和朝廷の東大寺に相当する九州王朝の近畿における戒壇はどの寺院に置かれたのでしょうか。白鳳十年であれば前期難波宮が焼失する前ですから、難波に九州王朝の中心的戒壇が置かれたはずと思われます。その第一候補としては、やはり天王寺(後の四天王寺)ではないかと推定するのですが、今のところ史料根拠を見出せていません。
 なお、下野薬師寺の創建を大宝三年(703)とする史料(注④)もありますが、出土創建瓦の編年からは白鳳十年(670)説が有力です。

(注)
①『勝山記』(甲斐国勝山冨士御室浅間神社の古記録)に「白鳳十年鎮西観音寺造」、『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)の白鳳十年条に「鎮西建立観音寺」とする記事が見える。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年6月。
②狩野久編『古代を考える 古代寺院』吉川弘文館、1999年。
③『下野薬師寺跡発掘調査報告』栃木県教育委員会、1969年。
④『帝王編年記』


第2705話 2022/03/21

難波宮の複都制と副都(11)

 七世紀中頃に倭国(九州王朝)が採用した複都制は「権威の都・倭京(太宰府)」と「権力の都・難波京(前期難波宮)」の両京制であり、隋・唐の長安と洛陽の複都制に倣ったものとする仮説を本シリーズで発表しました。その痕跡が『養老律令』職員令の大宰府職員の「主神」ではないかと推定し、大宰主神の習宜阿曾麻呂が道鏡擁立に関わったことも、九州王朝の都「倭京(太宰府)」の権威に由来する事件だったように思われます。
 こうした一連の仮説とその論理を押し進めると、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が早くから指摘されてきた〝前期難波宮は九州王朝の首都〟とする見解に至らざるを得ません(注①)。もちろん、複都制ですから太宰府(倭京)も首都に変わりはありません。「副都制」ではなく、「複都制」であればこの理解が可能であり、中国史書(『旧唐書』他)に〝倭国遷都〟記事が見えないことについても、説明が可能となります。
 前期難波宮首都説の到達点から改めて諸史料を見ると、『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・804年成立)の「難波朝廷天下立評給時」という記事が注目されます。〝難波朝廷が天下に評制を施行した〟という意味ですから、難波朝廷と言うからには難波を首都と認識した表現だったのです。すなわち「朝廷」とあるからには、そこは「首都」と考えなければならなかったのです。そして、七世紀中頃の国内最大の朝堂院様式の前期難波宮と条坊都市を持つ難波こそ、「難波朝廷」という表現がピッタリの九州王朝(倭国)の首都なのでした。また、創建当初から「難波朝廷」と呼ばれていたため、そうした呼称が後代史料に多出したのではないでしょうか。たとえば『皇太神宮儀式帳』の他にも次の史料が知られています(注②)。

(ⅰ)『日本書紀』天武十一年九月条
 「勅したまはく『今より以後、跪(ひざまづく)礼・匍匐礼、並びに止(や)めよ。更に難波朝廷の立礼を用いよ。』とのたまう。」
(ⅱ)『類聚国史』巻十九国造、延暦十七年三月丙申条
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
(ⅲ)『日本後紀』弘仁二年二月己卯条
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
(ⅳ)『続日本紀』天平七年五月丙子条
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)びて副(そ)ふべし。」

 そして、何よりも天子列席の下で白雉改元(652年)の儀式が行われており(注③)、その前期難波宮の地が首都であったとする他なかったのです。本シリーズでの考察を経て、ようやくわたしも確信を持ってこの認識に到達することができました。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」538話(2013/03/14)〝白雉改元の宮殿(4)〟
 古賀達也「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。後に『古代に真実を求めて』(17集、2014年)に収録。
②古賀達也「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』145号、2018年。
 古賀達也「文字史料による『評』論 ―『評制』の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2013年。
③古賀達也「白雉改元の史料批判 — 盗用された改元記事」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録


第2704話 2022/03/20

柿本人麻呂系図の紹介 (5)

 『柿本家系図』と『東大寺上院修中過去帳』の「柿本男玉」と『続日本紀』叙位記事(注①)の「柿本小玉」とでは用字が異なるので、『続日本紀』以外の別系統史料を探索したところ、『朝野群載』「聖武天皇東大寺大佛殿勅願板文」(注②)の末尾に次の「柿本男玉」記事がありました。

 「東大寺大佛殿前板文
勅曰。朕以薄徳。(中略)
大佛師従四位下國公麻呂 。大鑄師従五位下高市大國。従五位下高市眞麻呂。従五位下柿本男玉。大工従五位下猪名部百世。従五位下益田縄手。」国史大系29上『朝野群載』390~391頁

 ここには「従五位下柿本男玉」とあり、『続日本紀』の「外従五位下小玉」とは位階や名前の用字が異なります。『柿本家系図』と『東大寺上院修中過去帳』の「柿本男玉」とは、名前の用字が同じです。
 この「聖武天皇東大寺大佛殿勅願板文」の冒頭部分は聖武天皇の詔勅であり、『続日本紀』天平十五年(743)十月条の大仏発願詔とほぼ同文です。その後の部分は太政官からの布告などで構成されています。こうした史料状況から判断すると、末尾の「柿本男玉」らの記事は東大寺に伝わった史料(『東大寺上院修中過去帳』など)に基づいている可能性が高いと思われます。このことから、『続日本紀』に見える「小玉」は朝廷側の史料に、「男玉」は東大寺側史料に基づいた用字と考えてよいようです。(つづく)

(注)
①『続日本紀』天平勝宝元年(749)十二月条、天平勝宝二年(750)十二月条。
②『朝野群載』三善為康編、永久四年(1116)成立。


第2702話 2022/03/18

柿本人麻呂系図の紹介 (4)

 『柿本家系図』に人麿の實子と記された柿本男玉は東大寺建立に関わった人物ですが、東大寺二月堂の過去帳(注①)の他、『続日本紀』にも「柿本小玉」の名が遺されています。次の記事です。

 「正六位上柿本小玉、従六位上高市連真麻呂に並に外従五位下を授く。」天平勝宝元年(749)十二月条

 「また、大納言藤原朝臣仲麻呂を遣して、東大寺に就(ゆ)きて、従五位上市原王に正五位下を授く。従五位下佐伯宿禰今毛人に正五位上。従五位下高市連大国に正五位下。外従五位下柿本小玉・高市連真麻呂に並に外従五位上。」天平勝宝二年(750)十二月条

 天平勝宝二年(750)十二月の柿本小玉ら叙位記事に対して、岩波の『続日本紀 三』(注②)の脚注11(108頁)には「大仏鋳造の巧による叙位」とあり、柿本小玉が『柿本家系図』や『東大寺上院修中過去帳』に見える柿本男玉と同一人物として問題ありません。しかし、「男玉」と「小玉」とでは用字が異なりますので、『柿本家系図』は『続日本紀』以外の別系統の史料に依ったものと思われます。また、叙位記事に見える三名のうち、柿本小玉だけが姓(かばね)を持っていません(無姓)。このことも気になるところです。
 ちなみに、東大寺大仏の開眼供養は天平勝宝四年(752)四月のことです。(つづく)

(注)
①『東大寺上院修中過去帳』。東大寺二月堂での修二会で、3月5日夜とお水取りの行事が行われる3月12日夜に読み上げられる。
②『続日本紀 三』新日本古典文学大系、岩波書店、1992年。


第2701話 2022/03/16

柿本人麻呂系図の紹介 (3)

 「柿本人麻呂系図」には人麻呂の伝承に続いて「實子」の「男玉」の事績が記されています。次の通りです。

(e) 「人麿ノ 實子 柿本男玉 三條? 鍛冶師トナリ 聖武天皇奈良大佛建立ノ 際 鍛頭トナリ 之レ 則チ 三條小鍛冶ナリ」

 ここに記された「柿本男玉」は東大寺二月堂の過去帳(注①)にも見え、実在の人物です。東大寺のホームページ(注②)には次の記事があり、柿本男玉が大仏建立に鍛冶師ではなく鋳師(※印を付した。古賀)として参画しています。

 「お松明で有名な東大寺の修二会(しゅにえ)で読み上げられる過去帳の初めの部分を紹介しましょう。ここには大仏さまと大仏殿の造営に関わった人々の名前が挙げられています。
(中略)
 大伽藍本願 聖武皇帝
 聖母皇大后宮 光明皇后
 行基菩薩
 本願孝謙天皇
 不比等右大臣 諸兄左大臣
 根本良弁僧正 当院本願 実忠和尚
 大仏開眼導師天竺菩提僧正 供養講師隆尊律師
 大仏脇士観音願主尼信勝 同脇士虚空蔵願主尼善光

 造寺知識功課人
 大仏師 国公麻呂(だいぶっし くにのきみまろ)
 大鋳師 真国(おおいもじ さねくに)
 高市真麿(たけちのさねまろ)
※鋳師 柿本男玉(いもじ かきのもとのおだま)
 大工 猪名部百世(だいく いなべのももよ)
 小工 益田縄手(しょうく ますだのただて)
 材木知識(ざいもくのちしき)五万一千五百九十人
 役夫知識(やくぶのちしき)一百六十六万五千七十一人
 金知識(こがねのちしき)三十七万二千七十五人
 役夫(やくぶ)五十一万四千九百二人」

 『柿本家系図』に人麿の實子と記された柿本男玉は東大寺建立に関わった人物のようですが、同系図には「三條」の「鍛冶師」であり、大仏建立には「鍛頭」として参画したとしています。他方、東大寺二月堂の「過去帳」には「鋳師柿本男玉」とあり、鍛冶師ではありません。また、「大鋳師真国」という人物名もあることから、「大」が付かない「鋳師」である「柿本男玉」と系図の「鋳頭」という職掌についても対応が不明です。この不一致がいずれかの誤記誤伝なのか、祖先の格を上げるための系図編纂者の作意なのか、慎重な検討が必要ですが、著名な東大寺の過去帳に見える「鋳師柿本男玉」に基づいて系図を作成したとするのであれば、それとは異なる「鍛冶師」と記すことも考えにくいものです。
 また、系図に見える「三條小鍛冶」は奈良市に企業(注③)として現存していますが、それは「鍛冶」であり、東大寺建立に関わった「鋳師柿本男玉」との関係は今のところ見当たりません。この点も調査検証が必要なようです。
 希代の歌人であり晩年は石見國(注④)の官吏でもあった人麿と、奈良の鋳物師の男玉との関係性にも違和感がありますが、系図では「實子」とわざわざ記しており、系図編纂者としては両者の〝親子関係〟こそ最も強調したかったことではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『東大寺上院修中過去帳』。東大寺二月堂での修二会で、3月5日夜とお水取りの行事が行われる3月12日夜に読み上げられる。
②http://www.todaiji.or.jp/contents/qa/qa.html
③三條小鍛冶宗近本店(奈良市雑司町)。同社ホームページに「明治初期まで現奈良市尼ヶ辻町にて作刀す。右、記念碑現存す。」とある。
https://www.sanjyokokajimunechika.com/
④通説では人麿は石見で没したとされており、『柿本家系図』の記事「後 伯耆國ニ 閉居シ」とは異なる。この点も留意が必要である。


第2700話 2022/03/15

柿本人麻呂系図の紹介 (2)

 古田先生からいただいた「柿本人麻呂系図」コピーには、人麻呂の伝承について次の興味深い記事が見えます。

(a) 「柿本氏ハ 八色姓ノ 第一位ニシテ 人麿ニ 賜リシを真人姓ナリ」
(b) 「柿本人麿ノ 祖ハ 日本足彦國押人尊 又一名ヲ 天足彦國押人尊ト 奉穪ス」
(c) 「人麿ハ 天武 持統 文武ノ 三帝ニ 奉仕シ 遣唐使ナリシ事二度」
(d) 「後 伯耆國ニ 閉居シ 専ラ 和歌ニ 力ヲ 盡シ 世ニ 和歌聖人? 穪セリ」

 コピーが不鮮明なため、文字の誤読はあるかもしれませんが、大意に相違はないと思います(「?」は判読不明の文字)。特に注目したのが人麿が「真人」姓を賜ったとする(a)の記事です。『万葉集』では「柿本朝臣人麿」(注①)とあり、その姓(かばね)は朝臣とされています。「朝臣」は天武紀に見える八色姓の第二位であり、系図に見える一位の「真人」よりも下位です。この差異の理由は不明ですが、同系図が著名な『万葉集』とは異なった伝承を伝えていることに興味を覚えます。
 更に注目したのが、遣唐使として二度も唐に渡ったという初めて目にした(c)の記事です。恐らくは九州王朝(倭国)が派遣した遣唐使ではないでしょうか。そうであれば、「真人」という臣下第一位の姓(かばね)も九州王朝から賜った可能性が高いように思われます。
 このような従来の史料には見えない伝承が記された「柿本人麻呂系図」は貴重です。なお、同系図には人麻呂の生没年や出身地については記されていません。従来説でも生没年未詳とされているようです。他方、わたしの研究(注②)によれば、『運歩色葉集』は人麻呂の没年を九州年号の大長四年丁未(707)と伝えており(注③)、人麻呂が九州王朝の宮廷歌人であったとする古田説(注④)を支持しているように思います。(つづく)

(注)
①『万葉集』巻一、29番歌題詞に「近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿の作る歌」とある。
②古賀達也「洛中洛外日記」600話(2013/09/28)〝九州年号「大長」史料の性格〟
 同「九州年号『大長』の考察」『古田史学会報』120号、2014年2月。
 同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。
③『運歩色葉集』に「柿本人丸」の没年記事として「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」が見える。
 古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟
④古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(1994)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2699話 2022/03/14

柿本人麻呂系図の紹介 (1)

25年ほど前のことですが、古田先生から「柿本人麻呂系図」のコピーをいただきました。この度、必要があって同系図コピーを書架の中からようやく探し出すことができましたので、紹介します。
 古田先生から聞いた話では、佐賀県に柿本人麻呂の御子孫がおられ、就職で実家を離れるときに同家系図を親御さんから受け継いだとのことでした。その方は、祖母から「もし火事にあったら、系図を持って逃げるように」と子供の頃から言われてきたそうです。
 コピーによれば同系図は巻物二巻からなっており、一つは柿本家に伝わった人麻呂の伝承と同家の由来が書かれており、もう一つが系図です。どちらにも「柿本家系圖」と表記され、系図末尾には「柿本毅 書」とあり、柿本毅さんが書写したことがわかります。系図の最後の人物が「毅」さんと「妻 淑子」さんであることから、毅さんのご子息が実家を離れるときに、ご子息のために書写されたものではないでしょうか。そうであれば、佐賀県のご実家には書写原本があるはずです。毅さんの母、「良重」さんの旁書に「昭和五十九年九月/享年六十四才」とあることから、系図の作成(書写)時期は昭和59(1984)年以後で、古田先生が写真撮影された1995年までのこととなります(注①)。
 webサイト「日本姓氏語源辞典」(注②)で「柿本」さんの分布を調べたところ、次の通りでした。「顕著に見られる市区町村」には佐賀県神埼郡吉野ヶ里町もありますので、この系図の柿本さんは同地域の住民の可能性があります。また、久留米市に柿本さんが多いことも、注目されます。(つづく)

【都道府県順位】
1 大阪府(約2,000人)
2 兵庫県(約1,400人)
3 福岡県(約1,000人)
4 広島県(約800人)
5 長崎県(約600人)
6 京都府(約600人)
7 熊本県(約600人)
8 北海道(約600人)
9 岡山県(約500人)
10 東京都(約500人)

【市区町村順位】
1 兵庫県 加古川市(約200人)
2 石川県 金沢市(約200人)
3 福岡県 久留米市(約200人)
4 岡山県 備前市(約200人)
5 広島県 尾道市(約200人)
6 鹿児島県 鹿児島市(約200人)
7 大阪府 吹田市(約200人)
7 長崎県 長崎市(約200人)
9 大阪府 堺市(約200人)
10 高知県 高知市(約140人)

【小地域順位】
1 広島県 尾道市 向東町(約110人)
1 岡山県 備前市 日生(約110人)
3 鹿児島県 日置市 伊作田(約90人)
4 高知県 室戸市 羽根町乙(約70人)
4 大阪府 吹田市 垂水町(約70人)
4 福井県 大飯郡おおい町 久保(約70人)
7 鹿児島県 鹿児島市 上福元町(約60人)
7 大分県 日田市 山田町(約60人)
9 大阪府 守口市 梶町(約50人)
9 長崎県 五島市 岳郷(約50人)

(注)
①コピーには撮影年月日を示す「95.3.5」のデジタル文字が映っている。
②「日本姓氏語源辞典」 https://name-power.net/fn/%E6%9F%BF%E6%9C%AC.html


第2698話 2022/03/13

大宝二年西海道戸籍の二倍年齢 (3)

 松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」(注①)で指摘された大宝二年西海道戸籍の高齢出産を示す年齢表記は、二倍年齢による年齢計算の痕跡ではないかと思われました。というのも、わたしは八王子セミナー2020(注②)で、同じ大宝二年の御野国戸籍が二倍年齢の影響をうけているとする研究(注③)を発表したのですが、そのときの根拠は同戸籍に見える次の傾向でした。

(1) 大宝二年(702)当時としては考えにくい高齢者群が見える(注④)。
(2) 超高齢出産の事例が散見される(注⑤)。
(3) 戸主と嫡子(長子)の年齢差が30歳~40歳ほどの戸が少なからず存在し、当時の親子の年齢差としては不自然。

 これらの不自然な史料状況を合理的に解決する方法として、庚午年籍(670年)の造籍時までは当地で二倍年齢が採用されており、その二倍年齢で登記され、それ以後は一倍年齢として六年毎の造籍時に六歳が加算されたとする仮説に至りました(注⑥)。
 それでは西海道戸籍も同様の理解によりリーズナブルな年齢に換算できるでしょうか。(つづく)

(注)
①木本好信編『古代史論聚』(岩田書院、2020年)に収録。
②「古田武彦記念古代史セミナー2020」2020年11月14日(土)~15日(日)、大学セミナーハウス。
③古賀達也「古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―」https://iush.jp/uploads/files/20201126153614.pdf

④次の高齢者(70歳以上)が見える。
〔味蜂間郡春部里〕
 戸主姑和子賣(70歳)
〔本簀郡栗栖太里〕
 戸主姑身賣(72歳)
〔肩縣郡肩〃里〕
 寄人六人部身麻呂(77歳)・寄人十市部古賣(70歳)・寄人六人部羊(77歳)・奴伊福利(77歳)
〔山方郡三井田里〕
 下々戸主與呂(72歳)
〔加毛郡半布里〕
 戸主姑麻部細目賣(82歳)・戸主兄安閇(70歳)・大古賣秦人阿古須賣(73歳)・都野母若帯部母里賣(93歳)・戸主母穂積部意閇賣(72歳)・戸主母秦人由良賣(73歳)・下々戸主身津(71歳)・下々戸主古都(86歳)・戸主兄多比(73歳)・下々戸主津彌(85歳)・下中戸主多麻(80歳)・下々戸主母呂(73歳)・寄人石部古理賣(73歳)・下々戸主山(73歳)・寄人秦人若賣(70歳)・下々戸主身津(77歳)・戸主母各牟勝田彌賣(82歳)
⑤『御野国加毛郡半布里戸籍』「縣主族比都自」戸の「寄人縣主族都野」家族に、次の超高齢出産となる年齢が記されている。
 寄人縣主族都野(44歳、兵士)
 嫡子川内(3歳)
 都野甥守部稲麻呂(5歳)
 都野母若帯部母里賣(93歳)※「大宝二年籍」中の最高齢者。
 母里賣孫縣主族部屋賣(16歳)
 これを親子順に並べると、次の通り。
(母)若帯部母里賣(93歳)―(子)都野(44歳)―(孫)川内(3歳)
 この母と子と孫の年齢差は49歳と41歳であり、異常に離れている。特に都野は母里賣49歳のときの子供となり、女性の出産年齢としては考えにくい。また、二代続けて年齢差が異常に離れていることも不自然だ。
⑥【補正式】(「大宝二年籍」年齢-32)÷2+32歳=一倍年暦による実年齢


第2697話 2022/03/08

大宝二年西海道戸籍の二倍年齢 (2)

 京都府立大学文学部図書館で閲覧した松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」(注①)には、大宝二年西海道戸籍に記載された67戸(1125人)中、40歳以上の女性による高齢出産の31戸の全例が紹介されています。それらの母親の名前と出産年齢は次の通りです。番号は論文で戸毎に付されたもの(注②)。

〔筑前国嶋郡川邊里〕
(1) 卜部甫西豆売 42歳
(2) 卜部夜夫志売 42歳・45歳
(3) 中臣部與利売 42歳・52歳
  吉備部岐多奈売 42歳・45歳
(4) 建部稲津売 48歳
(5) 卜部宮津売 40歳・44歳
(6) 卜部酒屋売 62歳
(7) 宇治部彌乃売 42歳・45歳・47歳
(8) 秦部咩豆売 47歳
(9) 葛野部比良売 45歳・46歳
(10)大家部泉売 40歳
(11)葛野部美奈豆売 49歳・55歳
〔豊前国上三毛郡塔里〕
(12)秦部小民売 43歳
(13)秦部乎堤売 40歳・41歳
(14)秦部小赤売 41歳・42歳
(15)秦部意等比売 43歳・51歳
(16)秦部伊比豆売 44歳
〔豊前国仲津郡丁里〕
(17)墨田赤売 40歳
(18)都加自売 43歳・46歳
(19)秦部阿理売 41歳
  秦部刀自売 45歳・47歳
(20)狭度小赤目 40歳・41歳・42歳
(21)等能比売 40歳
(22)丁糠売 53歳
(23)秦部犬売 40歳・42歳
(24)春日部昨売 42歳
(25)狭度赤売 47歳
(26)川邊波太売 51歳
(27)秦部夜波良売 43歳
(28)秦部犬売 51歳
(29)膳百手売 41歳
(30)秦部蓑売 46歳
(31)韓売 42歳

 これだけの「高齢出産」が七世紀の倭国でありえたとは考えられないと言わざるをえませんが、松尾さんは「(6)卜部酒屋売」の出産年齢の62歳についても、西海道戸籍の表記の正確性などを根拠に、「不安はあるが、いまは記載されている通りに六十二歳で出産したものとしておく。」としています。わたしにはとてもこのような理解はできません。(つづく)

(注)
①木本好信編『古代史論聚』(岩田書院、2020年)に収録。
②掲載順は『寧楽遺文』上巻によるとのこと。


第2696話 2022/03/07

大宝二年西海道戸籍の二倍年齢 (1)

 先週、久しぶりに京都府立大学文学部図書館に行き、書籍を閲覧しました。『古代史論聚』(注①)に収録された中川収「中臣習宜朝臣阿曽麻呂について」を読むことが目的でした。同論文は日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)からご紹介いただいたもので、「洛中洛外日記」〝難波宮の複都制と副都〟(注②)で採りあげた大宰府主神の習宜阿曽麻呂についての先行研究論文です。日野さんからは古代氏族の氏(うじ)名や姓(かばね)の歴史的経緯や性格についての通説を度々教えていただいており、リモート勉強会(注②)での講義もお願いしています。
 『古代史論聚』には古代史学界の多くの学者の論文が収録されており、最新の研究動向を知る上でも役立ちそうです。中でもわたしが着目したのが、松尾光「大宝二年西海道戸籍にみるいわゆる高齢出産の年齢」という論文でした。同論文で松尾さんは、大宝二年西海道戸籍には40~50歳代女性による高齢出産が少なからず見られ、従来は古代におけるこのような高齢出産は考えられないとされてきたが、同戸籍を史料根拠として、こうした高齢出産を否定できないと論じています。西海道戸籍だけではなく、美濃国戸籍などにも同様の高齢出産が認められるとする論文を松尾さんは発表されています(注③)。
 この〝高齢出産〟現象に、わたしは思い当たる節がありました。高齢出産とされる大宝二年(702年)における女性の年齢は、庚午年籍造籍時(670年)の二倍年齢登記の痕跡ではないかと。(つづく)

(注)
①木本好信編『古代史論聚』岩田書院、2020年。
②関東や遠方の研究者との情報交換や勉強を目的として、「古田史学リモート勉強会」を有志と行っている。
③松尾光「養老五年下総国戸籍にみるいわゆる高齢出産者の年齢」『歴史研究』649号、2017年。
 同「東国御野・大宝二年戸籍にみるいわゆる高齢出産者の年齢」横浜歴史研究会創立三十五周年記念誌『壮志』2017年。