古賀達也一覧

第2600話 2021/10/22

佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(2)

 近年、わたしが読んだ考古学論文で、優れた問題提起を続けてきたのが大阪歴博の考古学者、佐藤隆さんの論考でした。その中で最も画期的な論文が「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注①)です。佐藤さんは、「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。」として、「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。」と指摘されました。これは、『日本書紀』の記述よりも出土事実を重視するという、誠に考古学者らしい意見です(注②)。この出土事実と佐藤さんの考察は、前期難波宮九州王朝複都説と整合するもので、わたしは注目しています。
 直近の論文では、「難波京域の再検討 ―推定京域および歴史的評価を中心に―」(注③)が見事でした。従来は条坊が及んでいないと見られてきた難波京西北部地区(難波宮域の北西方にある大川南岸の一帯)に、難波宮南方に広がる条坊とは異なる尺単位(1尺29.2cm)による条坊の痕跡が複数出土しているとの報告です(注④)。
 今までに発見された難波京条坊の造営尺は1尺29.49cmであり、藤原京条坊の使用尺(1尺29.5cm)に近いものでした。ところが、佐藤さんが発見された難波京西北部地区の使用尺は前期難波宮の造営尺(1尺29.2cm)と同じです。これは、難波宮とその南に広がる条坊の設計尺がなぜか異なるという不思議な現象を説明する上で重要な発見と思います。私見では、難波宮と難波京条坊の設計主体が異なっていたのではないかと推測しています。こうした出土事実は、前期難波宮九州王朝複都説の傍証になりそうです。
 この他に、「特別史跡大阪城跡下層に想定される古代の遺跡」(注⑤)も示唆的な論文でした。前期難波宮九州王朝複都説を唱えるわたしは、難波宮北側の大阪城がある場所には何があったのだろうかという疑問を抱いてきたのですが、佐藤さんはその地に「内裏」があったのではないかとする考古学的知見と痕跡を指摘されました(注⑥)。もしそうであれば、それは九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王)の内裏ということになります。
 佐藤さんによるベーシックな研究としては、難波編年の確立があります。『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(注⑦)所収の「第2節 古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」です。佐藤さんは出土土器(標準資料)の編年により前期難波宮造営期を「七世紀中葉」とされました。その後も、この編年を支持する理化学的年代測定値などが発表され、長く続いた前期難波宮造営時期の論争に終止符が打たれ、孝徳期造営説が定説となりました(注⑧)。
 このように、考古学的出土事実を重視し、それと『日本書紀』の記事が整合しない場合は、出土事実に基づく解釈を優先するという姿勢を佐藤さんは明確に表明されました。こうした傾向が近年では散見され(注⑨)、考古学者が文献史学(一元史観)の制約から独立しようとしているのかもしれません。それは古代に真実を求める古代史学にとって大切なことであり、注目されます。

(注)
①『大阪歴史博物館 研究紀要』15号、2017年3月。
②古賀達也「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1906話(2019/05/24)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)〟
 古賀達也「『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》」『古田史学会報』153号、2019年8月。
③『大阪歴史博物館 研究紀要』第19号、2021年3月。
④古賀達也「洛中洛外日記」2522話(2021/07/18)〝難波京西北部地区に「異尺」条坊の痕跡〟
⑤『大阪歴史博物館 研究紀要』第14号、2016年3月。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」1185話(2016/05/12)〝前期難波宮「内裏」の新説〟
⑦『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年3月。
⑧古賀達也「洛中洛外日記」1787話(2018/11/20)〝佐藤隆さんの「難波編年」の紹介〟
 古賀達也「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
⑨向井一雄『よみがえる古代山城』(吉川弘文館、2017年)に、古代山城の築造年代に関して次の記述が見える。
 「考古学者が年代を決めるのに、文献史料だけに頼るようになってはもはや考古学者ではない。」70~71頁
 同書には九州王朝説への批判があるものの、古代山城研究の第一人者から学ぶところは多い。古田学派研究者にも一読をお薦めしたい。


第2599話 2021/10/21

佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(1)

 多元的古代研究会の例会にリモート参加し、勉強させていただいています。そのおり、同じくリモート参加されていた荻上紘一先生(注)がエビデンスの重要性を述べられていました。歴史学におけるエビデンスとしては、文献や金石文・木簡などの史料根拠と考古学的出土事実などが相当しますが、これらが明示されていない研究や仮説の発表は学問的な手続きを欠いたもので、学問の世界では評価されません。ですから、荻上先生のご指摘は極めて真っ当で重要なことです。
 そこで問題となるのが考古学分野のエビデンスです。発掘調査の結果、遺物がどの遺構のどの層位からどのような状態で出土したのかという出土事実は報告書に詳述されますが、その出土事実に対する解釈が考古学者により異なる場合が少なくありません。しかし、歴史学的には、この解釈が遺構や遺物の歴史的位置づけや史料価値を決めますので、とても重要です。たとえば、どこから何が出土しても、大和朝廷や『日本書紀』の記事と関連付けて解釈する報告書が大半で、その結果、出土事実から描かれた歴史像がゆがんでしまうこともあるからです。
 ですから、わたしは考古学論文や発掘調査報告書の〝解釈〟部分を読む場合は、筆者が出土事実(考古学)と大和朝廷一元史観(文献史学)のどちらに基づいているのかを注視してきました。そうしたなかで、わたしの基本的歴史観(多元史観・九州王朝説)とは異なっていても、優れた考古学論文に出会うことが少なからずありました。その筆頭が大阪歴博の考古学者、佐藤隆さんの論考でした。(つづく)

(注)「古田武彦記念 古代史セミナー」実行委員長。大学セミナーハウス・理事長。元東京都立大学総長、元大妻女子大学学長。2021年、瑞宝中綬章受章。


第2598話 2021/10/20

京都講演会(11月23日)Video一覧

主催:市民古代史の会・京都(代表:山口哲也)

古代官道の不思議発見@古賀達也@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@03:18@DSCN9278
古代官道の不思議発見@古賀達也@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@03:17@DSCN9279
古代官道の不思議発見@古賀達也@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@29:01@DSCN9280
古代官道の不思議発見@古賀達也@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@29:01@DSCN9282
古代官道の不思議発見@古賀達也@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@08:51@DSCN9283
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多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@29:01@DSCN9288
多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@20:08@DSCN9291
多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@22:51@DSCN9293
多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@26:42@DSCN9294

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参照できる会報を紹介

書評『発見された倭京 太宰府都城と官道』 古賀達也(会報146号)

「東山道十五国」の比定 — 西村論文「五畿七道の謎」の例証 山田春廣(会報139号)

南海道の付け替え 西村秀己 (会報136号)

古代官道 南海道研究の最先端(土佐国の場合) (会報142号)

割付担当の穴埋めヨタ話⑧ 五畿七道の謎 西村秀己

 

京都講演会(11月23日)の再開

 先日、久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)から、コロナ禍のため中断していた「市民古代史の会・京都」の講演会を再開したいとの連絡がありました。11月23日(火)を予定されているとのことで、まだ相談中ですが、わたしと正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の二人で講演させていただくことになりそうです。
 わたしに要請された講演テーマは「古代官道」でしたので、下記の演題と要旨で講演資料(パワポ)を作成中です。正式に決まりましたら、改めて報告します。久しぶりの京都講演会ですので、わたしも楽しみにしています。

第一講演 古代官道の不思議発見
〔要旨〕
○古代官道(七道)の不思議な名称
 不思議その1 東海道。陸路なのに、なぜ「海道」
 不思議その2 西海道。島(九州)なのに、なぜ「海道」
 不思議その3 北海道がないのはなぜ
 不思議その4 北陸道だけが、なぜ「陸道」
 不思議その5 山陽道と山陰道。なぜ東西南北がないの
○謎を解くカギは『日本書紀』景行55年条にあった
○地名に遺された古代王朝の記憶
○『宋書』倭国伝に記された倭王武の侵攻領域
○王朝交替により官道名が改変された
○九州王朝「官道」の歴史的変遷
○九州王朝「官道」の終着点

第二講演 『多賀城碑の解釈』

〜蝦夷は間宮海峡を知っていた

講師:正木裕(古田史学の会事務局長)


第2597話 2021/10/18

美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』を読む

 先日、『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』(勝美印刷、2021年)という大著が、著者の美濃晋平さんから贈られてきました。縄文の石笛や弥生の土笛から始まる笛の歴史を中心としたエッセイと論考からなる一冊です。ちなみに、著者は東北大学で学ばれたケミスト(医薬開発)で、古田史学の会・会員とのことです。
 冒頭に紹介された、横笛の名手だったお父上や少年時代の思い出の数々が胸を打ちました。後半には「青葉の笛」に関する古代・中世の史料や伝承が紹介されており、笛に不思議な歴史があることを知りました。中でも九州王朝との関係をうかがわせる薩摩の伝承として、わたしの初期の論文「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」(『市民の古代』第10集。新泉社、1988年)が引用されており、感慨深く読みました。
 著者にお礼の電話をかけたところ、同じケミストということもあり、会話が弾み、京都でお会いすることを約束しました。改めて笛の歴史についてお聞きしたいと、ご来訪を楽しみにしています。


第2595話 2021/10/16

万葉歌〝大和三山〟「高山」調査の思い出

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。11月はi-siteなんばで開催します(参加費1,000円)。
 今回の例会でわたしは来月14日に迫った〝八王子セミナー2021〟の予行練習を兼ねて、〝「倭の五王」時代(5世紀)の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」説の再評価―〟をパワポを使用して発表しました。関西例会参加者からの厳しい批判や指摘を事前にいただいておけば、当日の発表に役立つと考えたからです。おかげさまで、想定される批判や反論、不十分な点などが参加者から次々と指摘され、発表内容の修正に活かせそうです。ご指摘いただいた皆さんにお礼申し上げます。
 不二井さんが紹介された、万葉歌に見える〝大和三山〟の「高山」(原文)を通説の香具山ではなく、交野山(このさん、交野市)とする説は、古田先生との現地調査で発見されたものです。先生とドライブ中に偶然に発見した「高山町」(生駒市)という道路標識が新説誕生の端緒となったのですが、交野山々頂の巨岩に古田先生と登った思い出が、不二井さんの発表を聞きながら蘇ってきました。この〝大和三山〟「高山」説は古田武彦著『古代史の十字路 万葉批判』「第五章 あやまれる『高山』の歌」(東洋書林、2001年。後にミネルヴァ書房から復刻)に収録されています。

 なお、発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①大和三山 (明石市・不二井伸平)
②俀国と兄弟統治 (姫路市・野田利郎)
③服部論文「磐井の乱は南征だった」の根拠が失われる可能性について (茨木市・満田正賢)
④「倭の五王」時代(5世紀)の考古学 ―古田武彦「筑後川の一線」説の再評価―(京都市・古賀達也)
⑤会誌第二十二集『倭国古伝』(荒覇吐神社~)の絵図に関して (大山崎町・大原重雄)
⑥名字と本姓の扱い方 ―秋田次郎橘孝季の例― (たつの市・日野智貴)
⑦景初鏡・正始鏡 (京都市・岡下英男)
⑧藤原宮造営中断の実相 (川西市・正木 裕)
⑨斉明紀の征西記事と朝倉宮 (東大阪市・荻野秀公)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(「三密」回避に大部屋使用の場合は1,000円)
11/20(土) 10:00~17:00 会場:i-siteなんば
 ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新情報をホームページでご確認下さい。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 資料代500円 〔お問い合わせ〕℡080-2526-2584
○10/27(水) 13:30~16:30 会場:奈良県立図書情報館
 「伊勢王の時代⑤ 大化の改新と二つの大化年号」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 「王朝交代の真実 天武は筑紫都督だった」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)
○11/24(水) 13:30~16:30 会場:奈良県立図書情報館
 「白村江の戦い① 白村江前史~専守防衛に徹した伊勢王」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)
 「飛鳥寺は飛鳥にあったのか」 講師:服部静尚さん(古田史学の会・会員)


第2593話 2021/10/15

パリからの国際電話(古田先生の命日)

 昨晩、パリ市在住の奥中清三さん(古田史学の会・会員)から国際電話をいただきました。奥中さんはパリ市公認の画家で、年に一ヶ月ほどはモンマルトルのアトリエで観光客の似顔絵などを描き、それ以外のときは自らが好きな絵を描いておられるとのこと。今年はパリに渡って50年になるそうです。コロナでフランスも大変で、政府に対してワクチン接種反対デモなども頻繁に行われていると仰っていました。日本とは大違いです。
 コロナ禍のために帰国もままならいようで、前回は2016年11月に大阪市でお会いし、大阪城や難波宮跡などをご案内しました。昨日(10月14日)は、古田先生の命日ということで、お電話をいただきました。先生の命日を忘れずにいていただき、有り難いことと感謝しています。


第2587話 2021/10/03

久留米大学公開講座で講演

古代戸籍に記された超・長寿の謎

 今日は、久留米大学公開講座(注)で講演させていただきました。テーマは「古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―」で、二倍年記(二倍年齢)の最新研究を解説しました。当該レジュメの冒頭「現代日本の長寿社会」と末尾「二倍年暦で激変する世界の古代史編年」を転載します。
 コロナ騒動のため、二年ぶりの公開講座ですが、「古田史学の会」会員の犬塚幹夫さん(久留米市)や中村秀美さん(長崎市)と久しぶりにお会いできました。お元気そうで何よりでした。

【以下、転載】
2021.10.03 久留米大学公開講座
古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―
               古賀達也(古田史学の会)

1.現代日本の長寿社会

 人類史上初の長寿社会(平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳。2016年)に突入した日本において、平均寿命が50歳を越えたのはそれほど昔のことではない。武田邦彦氏は次のように説明している。
 〝1920年代前半の日本人の平均寿命は男性が42.1歳、女性は43.2歳でした。赤ちゃんのときに他界する方を除いても50歳には達しません。江戸時代には45歳くらいで隠居するのが普通でしたが、昭和になっても50歳を越えたら確実に「老後」でした。〟(武田邦彦『科学者が解く「老人」のウソ』2018)
 ところが、東洋と西洋の古典には80歳を越える長寿者や100歳を越える超長寿者は少なくない。

8.二倍年暦で激変する世界の古代史編年

 以上のように、古代社会においては、人の年齢を一年間に二歳と計算する二倍年暦(二倍年齢)の時代があったことがわかる。一旦、この二倍年暦という概念が承認されると、世界の古代文明の年代が地滑り的に新しくなる。というのも、古代文明などの年代を決定する際に、その王朝の王の在位年数を後の時代から逆算するという方法が採用されるケースがあり、その結果、二倍年暦を採用していた時代は実年数の二倍の年数で逆算していることになり、その分だけ古く編年されてしまうからである。
 残念ながら古田武彦氏が提唱された二倍年暦という学説は、関連学界からは無視されている。たとえば、中国の国家プロジェクトとして進められた古代中国王朝の絶対年代決定研究「夏商周断代工程」(1996~2004年)は、二倍年暦という概念がないままに行われたこともあって、その結論が誤りであることをプロジェクト参加者も認めざるを得なくなった。歴史学にとって最も重要な作業の一つである年代確定には二倍年暦という視点が不可欠である。エジプト文明、ギリシア文明、ローマ文明、インド文明、中国文明、そしてわが国の古代史研究においてもそれは避けられない。

(注)久留米大学御井校舎での公開講座(10月3日午後)。
 福山裕夫(久留米大学教授)「古田の黒歯国考」
 古賀達也「古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―」。


第2586話 2021/10/02

『古事記』の中の「悪人」

 今朝は、久留米大学公開講座(注①)での講演のため、博多に向かう新幹線のぞみの車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。

 昨日、四半世紀ぶりに読んだ河田光夫氏の『親鸞と被差別民衆』(注②)に面白いことが紹介されていました。氏は『歎異抄』に見える「悪人」という用語の意味を実証的に調査され、親鸞の時代の「悪人」とは主に被差別民のこととする説を発表されたのですが、同書の「史料」(98頁、113頁)によれば、『古事記』に「悪人」という用語が使われており、それは「蝦夷」を指しているとのこと。そこで、新幹線車中で『古事記』を調べてみると、景行記の倭健命の言葉として次の「悪人」記事がありました。

〝「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何しかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣はして、返り参上り来し間、未だ幾時も経(あ)らねば、軍衆を賜はずて、今更に東の方十二道の悪しき人等を平(ことむ)けに遣はすらむ。これによりて思惟(おも)へば、なほ吾既に死ねと思ほしめすなり。」とまをしたまひて、患(うれ)ひ泣きて罷ります時に、倭比賣命、草薙剣を賜ひ、また御嚢を賜ひて、「もし急の事あらば、この嚢口を解きたまへ。」と詔りたまひき。〟『古事記』ワイド版岩波文庫、1991年。121~122頁

 この後に「荒ぶる蝦夷等を言(こと)向け」とありますから、確かに『古事記』では蝦夷を「悪しき人」(原文は「悪人」)としていますが、蝦夷の他にも「東の国に幸(い)でまして、悉に山河の荒ぶる神、また伏(まつろ)はぬ人等を言向け和平(やは)したまひき。」とあり、東国の「伏はぬ人」も「悪人」に含まれると見るべきでしょう。更には、冒頭の倭建命の言葉に「西の方の悪しき人」とあるように、「天皇」に「伏はぬ人」は「悪人」と表現されていると思われます。
 以上の史料状況と考察から、少なくとも『古事記』編纂頃の大和朝廷では、自らに従わない抵抗勢力、恐らくは九州王朝の徹底交戦派も「悪人」と呼んでいたのではないでしょうか。従って、古代に於ける「悪人」は主には政治的敵対勢力を指していたと考えてよいようです。河田氏による『歎異抄』などの研究によれば、被差別民が「悪人」と呼ばれていたとのことですから、古代の「悪人」と近現代に至るいわゆる被差別部落と古墳の分布が相似する傾向は(注③)、両者に何らかの関係があることを示しているのかも知れません。

(注)
①久留米大学御井校舎での公開講座(10月3日午後)。テーマは「古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―」。「洛中洛外日記」2551話(2021/08/28)〝10月3日、久留米大学公開講座のレジュメ〟を参照されたい。
②河田光夫氏『親鸞と被差別民衆』明石書店、1994年。
③古田武彦『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013)。134頁「被差別部落と古墳分布の相似」。


第2585話 2021/10/01

『親鸞と被差別民衆』の人間模様

 河田光夫氏と古田先生、藤田友治さん

 四半世紀ぶりに、河田光夫氏の『親鸞と被差別民衆』(明石書店、1994年)を書架より探し出して読みました。同書冒頭には古田先生による序文が記されています。

〝(前略)
 わたしは馬齢を重ね、古希の坂へと登ろうとしている。しかし、振り返っても、君は亡い。
 河田氏の新著を祝うための一文が、一片の弔辞としてはじまったこと、それを読者におゆるしいただきたいと思う。わたしにとって氏は、親鸞研究の未知の沃野を開くべき刮目の人、そういう研究者だったのである。
 氏は、わたしの親鸞に関する論文を深く熟読して下さった。わたしの親鸞学の学問としての方法を理解し、その成果を深く摂取しつつ、新たな研究分野を切り開いてゆかれたのである。
 中でも、被差別民衆の立場から親鸞言説を検証する、その方法論は、出色だった。幾多の親鸞研究の中でも燦然たる光を放っている。今後も、失われることはないであろう。
 (中略)
 それゆえに、弔いの言葉としてではなく、お祝いの言葉をもって、本書の序文を結ばせていただきたいと思う。
  一九九四年十月十五日
  ――住井すゑさんの牛久の会の講演に赴く前夜――
                     古田武彦〟

 著者は親鸞研究を通して古田先生と懇意にされていたようです(注①)。河田氏はガンの闘病生活のなかで同書の校正を続け、その途中で亡くなられました(1993年12月18日没)。その校正作業を引き受け、出版にまでこぎ着けたのが藤田友治さん(注②)でした。同著末尾にある藤田さんの「河田光夫氏への追悼と本書の解題」にその経緯が記されています。また、藤田さんは河田氏を介して古田先生の著作を知り、先生との交流が始まったとのこと。当時の様子を次のように記されています。

〝河田氏の引越しの手伝いで河田氏宅にいった際、河田夫人から古田武彦『「邪馬台国」はなかった』や『親鸞 人と思想』の贈呈を受け、古田氏は河田氏の友人であることが解った。
 「偶然は人を思いがけないところへ導くものである」という言葉通り、河田氏から紹介された古田氏を中心にして、その後“囲む会”、さらに発展改称し、“市民の古代研究会”とし、全国組織となったのである(当初、事務局長、前会長)。そして最近は「古田史学の会」へその精神は引き継がれた。〟『親鸞と被差別民衆』146頁

 こうした学問研究を縁(えにし)とした人間模様は、これからも誰かに繋がっていくものと思います。河田氏、藤田さん、古田先生は既に鬼籍に入られました。残された者の一人として、記憶を書き留め、これからの新たな学縁を繫いでいきたいと願っています。

(注)
①古田武彦『親鸞 人と思想』(清水書院、1970年)に河田氏の研究が次のように紹介されている。
 「この問題について、河田光夫に『念仏弾圧事件と親鸞』〈『日本文学』一九六八・七・十月号〉という、みごとな研究がある。言語文法の側面から、この問題を分析したものだ。」170頁
②藤田友治氏(1947~2005年)。「市民の古代研究会 ―古田武彦と共に―」の創立者で、事務局長、会長を歴任された。1994年の「古田史学の会」創立に参加。


第2584話 2021/09/30

親鸞『歎異抄』の「悪人」とは何か

 9月25日に開催された「東京古田会」の月例会(注①)にリモート参加させていただきました。午後1時から5時まで、しっかりと勉強しました。
 古田先生の著書『古田武彦の古代史百問百答』を読みながら、質疑や意見交換するというコーナーもあり、出された疑問に対して、参加者が答えるという、「古田史学の会」関西例会では見られない取り組みで、興味深く思いました。なかでも同書の7章「思想家としての古田武彦」にある親鸞の『歎異抄』の中心思想について寄せられた質問は重要なものでした。それは「逆謗闡提(ぎゃくぼうせんだい)」と「悪人正因」について、どちらがより根源的な親鸞思想なのかという問でした。このような問が出されることに、同例会の素晴らしさ感じました。
 同質問について、僭越ながら私の理解を次のように説明させていただきました。

(1)「逆謗闡提」、すなわち念仏集団を迫害した上皇・天皇や臣下、彼らが救われることこそが阿弥陀仏の究極の悲願とするのが親鸞の中心思想である(古田武彦説)。
(2)『歎異抄』に見える「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という思想も『歎異抄』の中心思想である。
(3)共に親鸞晩年に至る思想であり、両者は通底する親鸞の中心思想と思われる。
(4)親鸞時代の「悪人」とは「被差別民」のこととする河田光夫氏(注②)の研究がある。

 このときの対話がきっかけとなり、わたしは河田光夫氏の著書『親鸞と被差別民衆』(明石書店、1994年)を四半世紀ぶりに再読しました。(つづく)

(注)
①来月、10月30日(土)の例会テーマは「倭の五王」とのこと。
②河田光夫(1938~1993)。大阪府に生まれる。神戸大学文学部国文学科卒業、大阪市立大学大学院研究科修士課程修了。大阪府立今宮工業高校定時制に勤務。親鸞と被差別民の関係に論究した論文多数。


第2583話 2021/09/29

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(3)

 「金光上人」史料を開米智鎧氏が紹介

 昭和24年に編纂された『飯詰村史』(注①)にて、和田家史料「役小角」関連遺物(銅銘板、舎利壺等)の調査報告「藩政前史梗概」を発表した開米智鎧氏(注②)は、次に和田家文書中の「金光上人」関連史料の研究を昭和39年(1964)に出版されます。『金光上人』(全288頁。注③)です。同書「序説」には、刊行までの経緯を次のように記されています。

 「野僧昔日芝中在学中、故平沢謙純先生の指示を体し、日夜に係念すること五十年、一も得る所ありませんでしたが昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然曙光を仰ぎ得ました。
 行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに到りました。
 此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題し、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終わりました。
 (中略)
 特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部教の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。
 文体不整、唯鋏と糊で、綴り合わせた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の儘を掲載しました。要は新資料の提供にあります。
 且つまた、上人の大遠忌を眼前に迎へ、篇者老衰甚しく、余命亦望むべからず。幸にして、資料提供者和田喜八郎氏と、摂取院檀頭の篤信者藤本幸一氏との懇志に依って、茲に出版の栄に浴しました事は、大慶の至りであります。
 起筆以来十五年、粒々辛苦の悲願は、偏に上人高德の、一片をも伝ふるを得ば僥倖之に過ぐるものありません。
 是非は諸彦の高批を仰ぎ、完成は後賢の力を俟つものであります。
     上人七百四十七年の忌辰の日
         於 大泉精舎
               七十七老 忍 阿 謹識」

 ここに記されている昭和24年当時、資料提供者の和田喜八郎氏はまだ22歳の若者です。開米氏が述べるように「其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部教の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見」のような難解高度な宗教書を22歳の喜八郎氏に書けるはずがありません。同書に掲載された和田家史料を読めば、そのことは質量共に一目瞭然です。ちなみに、同書巻末に収録されている、金光上人関連の和田家史料一覧には、231編の「金光上人編纂資料」名が列挙されています。その内の数十編はわたしも実見しています。(つづく)

(注)
①『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。
②五所川原市飯詰、大泉寺(浄土真宗)の住職。
③開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964)。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

金光上人 開米智鎧編

金光上人 開米智鎧編

金光上人由来一部 開米智鎧編

 

 

 


第2581話 2021/09/26

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書(2)

  「役小角」史料を開米智鎧氏が紹介

 『飯詰村史』(昭和24年編集。注①)で和田家文書『飯詰町諸翁聞取帳』を福士貞蔵氏が紹介されたのですが、同時に和田家の「役小角」史料を同村史で紹介されたのが開米智鎧氏でした。同氏は和田家近隣の浄土真宗寺院・大泉寺のご住職で、洛中洛外日記(注②)で紹介した佐藤堅瑞氏(柏村・淨円寺住職)のご親戚です。
 開米氏は和田家が山中から発見した仏像・仏具・銅銘板や和田家収蔵文書を『飯詰村史』で紹介されました。それは村史巻末に収録された「藩政前史梗概」という論稿で、その冒頭に和田家が発見した「舎利壺」3個、「摩訶如来塑像」1体、「護摩器」多数の写真が掲載されています。本文1頁には次のように記され、それらが和田家発見のものであることが示されています。

 「今、和田氏父子が發見した諸資料を檢討綜合して、其の全貌をお傳へし度いと思ふ。」
 「今回發見の銅板に依って其の全貌が明らかにされた。」

 このように紹介し、銅板銘「北落役小角一代」の全文(漢字約1,200字)や樹皮に書かれた文書なども転載されています。この銅銘板は、昭和20年頃という終戦直後に、炭焼きを生業とする和田家に偽造できるようなものではありません。このことも和田家文書真作説を支持する事実です。なお、銅板は紛失したようで(盗難か)、写真でしか残されていないようです。
 開米智鎧氏の論稿「藩政前史梗概」について紹介した『古田史学会報』3号(注③)の拙稿を一部転載します。

【以下転載】
『和田家文書』現地調査報告 和田家史料の「戦後史」

開米智鎧氏の「証言」
 和田喜八郎氏宅近隣に大泉寺というお寺がある。そこの前住職、故開米智鎧氏は金光上人の研究者として和田家文書を紹介した人物であるが、氏もまた『飯詰村史』に研究論文「藩政前史梗概」を掲載している。グラビア写真と三三頁からなる力作である。内容は和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から発見した「役小角関連」の金石文や木皮文書などに基づいた役小角伝説の研究である。
 この論文中注目すべき点は、開米智鎧氏はこれら金石文(舎利壷や仏像・銘版など)が秘蔵されていた洞窟に自らも入っている事実である。同論文中にその時の様子を次のように詳しく記している。

 「古墳下の洞窟入口は徑約三尺、ゆるい傾斜をなして、一二間進めば高サ六七尺、奥行は未確めてない。入口に石壁を利用した仏像様のものがあり、其の胎内塑像の摩訶如来を安置して居る。總丈二尺二寸、後光は徑五寸、一見大摩訶如来像と異らぬ 。(中略)此の外洞窟内には十数個の仏像を安置してあるが、今は之が解説は省略する。」
 このように洞窟内外の遺物の紹介がえんえんと続くのである。偽作論者の中にはこれらの洞窟の存在を認めず、和田家が収蔵している文物を喜八郎氏が偽造したか、古美術商からでも買ってきたかのごとく述べる者もいるが、開米氏の証言はそうした憶測を否定し、和田家文書に記されているという洞窟地図の存在とその内容がリアルであることを裏付けていると言えよう。
ちなみに和田氏による洞窟の調査については、『東日流六郡誌絵巻 全』山上笙介編の二六三頁に写真入りで紹介されている。
 このように、和田家文書に記された記事がリアルであることが、故開米氏の「証言」からも明らかであり、それはとりもなおさず和田家文書が偽作では有り得ないという結論へと導くのである。
【転載おわり】

 更に、開米氏は地元紙「青森民友新聞」にも和田家発見の遺物についての紹介記事を長期連載されています。『古田史学会報』16号(注④)で紹介しましたので、これも一部転載します。

【以下転載】
「平成・諸翁聞取帳」東北・北海道巡脚編
出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)

 旅は五所川原市立図書館での調査から始まった。和田家文書を最も早くから調査研究されていた大泉寺の開米智鎧氏が、昭和三一年から翌年にかけて青森民友新聞に連載した記事の閲覧とコピーが目的だ。
 昭和三一年十一月一日から始まったその連載は「中山修験宗の開祖役行者伝」で、翌年の二月十三日まで六八回を数えている。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも六月三日まで八十回の連載だ。
 合計百四十八回という大連載の主内容は、和田家文書に基づく役の行者や金光上人、荒吐神などの伝承の紹介、そして和田父子が山中から発見した遺物の調査報告などだ。その連載量からも想像できるように、開米氏は昭和三一年までに実に多くの和田家文書と和田家集蔵物を見ておられることが、紙面に記されている。これら開米氏の証言の質と量の前には、偽作説など一瞬たりとも存在不可能。
 これが同連載を閲覧しての率直な感想だ。まことに開米氏は貴重な証拠を私たちに残されたものである。
【転載おわり】

 開米氏は「役小角」史料調査のおり、和田家文書のなかに「金光上人」史料が存在することに気づかれ、後に『金光上人』(注⑤)を著されています。(つづく)

(注)
①『飯詰村史』昭和26年(1951)、福士貞蔵編。
②古賀達也「洛中洛外日記」2577話(2021/09/22)〝『東日流外三郡誌』真実の語り部(3) ―「金光上人史料」発見のいきさつ(佐藤堅瑞さん)―〟
「『和田家文書』現地調査報告 和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年11月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga03.html
④古賀達也「平成・諸翁聞取帳 東北・北海道巡脚編 出土していた縄文の石神(森田村石神遺跡)」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/koga16.html
⑤開米智鎧『金光上人』昭和39年(1964)。

開米智鎧氏

開米智鎧氏

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された舎利壺

「藩政前史梗概」に掲載された仏像

「藩政前史梗概」に掲載された仏像