古賀達也一覧

第2304話 2020/11/29

『古代に真実を求めて』24集の巻頭言

 本日、ようやく『古代に真実を求めて』24集の巻頭言を書き終えました。これまでになく、今回は巻頭言に苦しみました。というのも、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)からいただいた「巻頭論文」があまりにも立派で、それに見合う巻頭言となると、今までとは全く異なるものにしなければならないと、この半月ほど悩みに悩んできたのです。そして、苦しみながらも昨日から二日間ほど自室にこもり、ようやく書き上げました。
 その結果、巻頭言らしくない巻頭言となり、次のような項目に仕立てあがりました。読者や冥界の古田先生からの評価はいかに。

【『古代に真実を求めて』24集巻頭言】
『「邪馬台国」はなかった』の論理と系
          古田史学の会 代表 古賀達也

○はじめに
○『「邪馬台国」はなかった』を初めて読まれる方へ
○『「邪馬台国」はなかった』を既に読まれた方へ
○「陳寿を信じとおす」という学問の方法
○論理の導く所へ行こうではないか

 以上の小見出しを立て、次の一文で巻頭言を締めくくりました。

〝この「ここをつらぬく論証の連鎖は、わたしの生の証(あかし)である」という言葉に、「論証は学問の命」と通底する著者の気迫と学問精神がうかがえるのではあるまいか。であれば、「陳寿を信じとおす」という学問の方法の行く着く先がどこであっても、著者が怯(ひる)むことはありえない。著者を師と仰ぎ、本書を上梓したわたしたちもまた、同様である。〟


第2303話 2020/11/24

古田武彦先生の遺訓(15)

西周暦年の〝決め手〟「天再旦」

 前回の〝古田武彦先生の遺訓(14)〟で紹介したように、西周の年代が二倍年暦(二倍年齢)補正により、最大で200年ほど短縮される可能性があります。そのうえで、西周の暦年を見直す〝決め手〟の一つとして、『竹書紀年』に見える「天再旦」があります。今回はこの問題について紹介します。
 古代中国の暦年復原が中国の国家プロジェクト「夏商周断代工程」(注①)で行われ、西周の王の在位年代を次のように〝決定〟しました。

【夏商周断代工程 西周王年表】(注②)
代数 王名 在位年(紀元前) 在位年数
1 武王  1046~1043    4
2 成王  1042~1021 22
3 康王  1020~ 996 25
4 昭王   995~ 977 19
5 穆王   976~ 922 55
6 共王   922~ 900 23
7 懿王   899~ 892 8
8 孝王   891~ 886 6
9 夷王   885~ 878 8
10 厲王   877~ 841 37
– (共和の政) 841~ 828 14
11 宣王   827~ 782 40
12 幽王   781~ 771 11

 この中の第七代懿王の元年について、『竹書紀年』に記された「懿王元年、天再び鄭(てい)に旦す。」とあるのを、鄭の地において夜明けが二度あったと解釈し、太陽が地平線から上った直後に皆既日食が起こるという珍しい天体現象と見なされました。国家プロジェクト「夏商周断代工程」では、この年代を古天文学により計算し、紀元前899年のことと〝決定〟しました。しかし、その後に懿王の年代決定が誤っていたことが判明し、見直しが進められていますが、まだ結論は出ていないようです。この経緯については、「洛中洛外日記」〝古田武彦先生の遺訓(4) プロジェクト「夏商周断代工程」への批判〟で紹介しましたので、ご参照下さい。
 そこで、二倍年齢仮説により周代が新しくなることから、紀元前899年よりも後に発生した「天再旦」現象について、調査しています(注③)。もし、二倍年齢仮説により復原できた懿王元年にこの天体現象があれば、周代暦年復原研究にとって大きな前進となるはずですし、周代における二倍年暦(二倍年齢)の存在証明にもなります。(つづく)

(注)
①岳南『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)で、プロジェクト「夏商周断代工程」について紹介されている。
②佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』108頁(星海社、2018年)から転載。
③国立天文台の谷川清隆先生に調査のご協力をいただいています。


第2301話 2020/11/20

『オデュッセイア』の二倍年暦

 「洛中洛外日記」2297話(2020/11/17)〝継体天皇「二倍年齢」の論理〟において、「論理性を競う論点の提示が、二倍年暦論争には必要と思われます」と書いたところ、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から次のメールを頂きました。

〝論理的に二(以上)倍年暦(少なくとも一倍年暦ではない)と判断出来る説話は東洋のものではないがオデュッセウスの説話ですね。
 20年間故国に帰れなかったオデュッセウスにはテーレマコスという息子がいて、「20年」が一倍年暦ならばとっくに成人している、つまり行方不明の前王オデュッセウスに替わってイタケー王に即位している筈。なのに王妃ペーネロペーに求婚者が群がっている状況は、明らかにテーレマコスが即位出来ない年齢である証拠。つまりこれは二(以上)倍年暦。求婚者達が皆殺しになるのは単なる求婚者ではなくイタケーの王位を狙っていたから。(西村秀己)〟

 東洋と西洋の古典に堪能な西村さんならではの視点です。十数年前、わたしも西村さんからの助言により、『オデュッセイア』の二倍年暦について論文発表したことがあります。転載します。

〝『オデュッセイア』の二倍年暦
 古代ギリシアにおける二倍年暦はいつ頃までさかのぼることができるだろうか。管見ではギリシア最古の大英雄叙事詩『オデュッセイア』(ホメロス)が二倍年暦によると考えている。その理由は次のような事である。オデュッセウスが故郷イタケーを二十年間留守にしている間、妻ペネロペイアに群がる求婚者とその息子テレマコスとの諍(いさか)いが描かれているのだが、少なくとも二十歳以上となるテレマコスが幼く描かれている(注①)。このことについては従来から疑問視されてきたようであり、たとえば次のような疑義が出されている。

 「かりにテレマコスが、父の出征後に生まれたとしても、二十年の歳月が過ぎた現在ほぼ二十歳ということになるが、本篇ではせいぜい十代後半位のイメージで描かれているように思われる。」
 「オデュッセウスが出征して二十年が経過していること、また出征時にテレマコスが既に出生していたことから推定すれば、オデュッセウスはおよそ五十歳、ペネロペイアも四十歳に近く、テレマコスもまた少なくとも二十歳に達していたとせねばならない。二十歳といえば既に一人前の男子であるが、冒頭で彼がまだ幼さの抜け切らぬ少年の如く描かれているのは、少々奇異な感を与える。」ホメロス『オデュッセイア』(岩波文庫、一九九四年刊。松平千秋訳)の訳注・解説による。

 このオデュッセウス出征後の二十年間が二倍年暦であれば、一倍年暦の十年間となり、息子テレマコスの年齢も十歳プラスαとなり、彼が幼く描写されたことも自然な理解が得られるのである。また、オデュッセウスの年齢も三十歳代となり、帰国後、求婚者たちと戦って勝利することも可能な年齢となる。更に言えば、妻ペネロペイアの年齢も二十代後半位となり、求婚者が群がるほどの美貌が維持できる年齢ではあるまいか。
 このように、『オデュッセイア』は二倍年暦で読まなければ、その描写や背景にリーズナブルな理解が得られないのである。また、次の場面も二倍年暦を指し示す例である。オデュッセウスが変装して自宅に二十年ぶりに帰ってきたとき、愛犬アルゴスはオデュッセウスに気づき尾を振り耳を垂れたが、近寄る力もなくそのまま息絶えてしまう。アルゴスはオデュッセウス出征前から優秀な猟犬であったと記されていることから、もし二十年が一倍年暦ならアルゴスは二十歳を越えることになり、犬の寿命としては長すぎる。二倍年暦であればアルゴスの年齢は十歳代となり、犬の寿命としてリーズナブルである。この点からも、『オデュッセイア』が二倍年暦で叙述されていることは間違いないと思われる。
 ホメロスは紀元前九世紀の人物とされていることから、ギリシアでは少なくとも紀元前九世紀以前から二倍年暦が使用されていたと考えられるが(注②)、それがいつまで使用されていたのか、その下限はまだ不明であり、今後の研究課題である。〟

(注)
①西村秀己氏(向日市在住、古田史学の会々員)のご教示による。
②『イリアス』『オデュッセイア』の舞台ともなったトロイ戦争が紀元前一二〇〇年頃のことであるから、論理的可能性から言えば、ギリシアでの二倍年暦はその時点までさかのぼることも十分想定できよう。
【出典】古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界 ソクラテスの二倍年暦」『古田史学会報』No.54 2003年2月。『新・古代学』7集(新泉社、2004年)に「新・古典批判 二倍年暦の世界」として収録。


第2300話 2020/11/20

古田武彦先生の遺訓(14)

西周の王たちの二倍年齢

 古田先生の遺訓により、周代史料である『論語』の二倍年暦を証明するために、周王の在位年数や寿命の調査という回り道をしてきたのですが、ようやく周代の前半に当たる西周(注)については、二倍年齢が採用されていたと考えてもよい段階まで研究が進展してきました。その根拠は次の通りです。中間報告として、とりまとめておきます。

(1)周建国時の四代の王たちの長寿(約百歳)
 武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
 武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
 武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
 初代武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)

 「古代にも百歳の人はいた」とする論者でも、紀元前12世紀頃(通説)の中国で、約百歳の王が親子四代続いたとは言えないのではないでしょうか。在位年数とも矛盾しますから。これが二倍年齢であれば、60歳、50歳、48.5歳、46.5歳となり、古代人の寿命として極めてリーズナブルです。

(2)5代穆王は50歳で即位し、55年間在位。105歳で没した(『史記』)。これも(1)と同様です。

(3)9代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があります。『竹書紀年』『史記』は8年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は16年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ません。

(4)11代厲(れい)王も在位年数がちょうど二倍になる例があります。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後「共和の政」が14年続き、これを合計した51年を『東方年表』は採用。他方、『竹書紀年』では26年としています。

(5)11代宣王の在位年数46年、東周初代の平王の在位年数51年など、長期の在位年数から長寿命と推定できる周王が存在しており、これらも二倍年齢の可能性をうかがわせます。(『竹書紀年』)

 以上のように、周王の在位年数や寿命記事に二倍年齢と考えざるを得ない例が少なからず存在しています。これらの史料事実から、少なくとも西周では人の寿命や在位年数は二倍年齢が採用されていたと思われます。
 他方、暦が二倍年暦であったかどうかは、まだ結論を得るに至っていません。しかしながら、従来の周代暦年復原はこれら周王の二倍年齢を一倍年齢とみなして試みられてきたので、未だに成功していないのではないかと考えています。引き続き、周代後半の東周時代(春秋・戦国時代)について、調査検討を行います。(つづく)

(注)殷を倒して周を建国した初代武王から、12代幽王までの約400年間を西周と呼ぶ。この期間が二倍年齢であれば、実際は半分の約200年間となる可能性が高まる。


第2299話 2020/11/19

新・法隆寺論争(8)

法隆寺金堂の「薬師如来像」釈迦仏説

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表(注①)された法隆寺金堂の「薬師如来像」釈迦仏説は始めて聞くものであり、驚きました。その主たる根拠は薬師如来像光背に装飾されている「七仏」です。同様の「七仏」は釈迦三尊像光背にもあり、これは「釈迦七仏」と呼ばれているものです。同様に「薬師七仏」もあるのですが、その日本への伝来は七世紀後半か八世紀以降と考えられることから、光背銘の文(注②)に従って薬師如来像とされてきたこの像は釈迦像であり、銘文は薬師如来信仰が盛んになった後代に彫られたものとされました。たしかに、薬師如来像は釈迦三尊像によく似ており、光背銘がなければ釈迦像とされたと思われます。
 上原和さんが『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(注③)で、「薬師像の造像自体が、中国の造像例で見るかぎり、この時点では、すこし早すぎるように思われる。それというのも、中国で薬師像がかなり盛んに造られるようになるのは、唐代に入ってからのことで、七世紀の後半になってのことであるからである。」と指摘されていることも、服部説に通じそうです。
 さらに上原さんは次のような興味深い見解を述べられています。

 「現在の法隆寺金堂にある薬師像は、白鳳の擬古作である。だから、薬師像の銘文は、すべて嘘である、といってしまうのは、いささか短絡にすぎる。なぜなら、ここで重要なのは、あえて一時代前の、すなわち推古朝下の止利様式に倣って本尊が造られたという、そのまぎれもない事実にある。(中略)法隆寺の再建ということになって、かつての金堂とともに焼失してしまった旧本尊の復原が意図されるのは、当然ではないか。その復原された旧本尊に、造像銘も、以前のように、追刻される。しかし、その追刻された造像銘が、かならずしも、完全な復刻となりえなかったことは、一見本尊のその像容が、止利風、あまりにも止利風に見えながら、そのかたちの性質のうえには、どうしようもなく当代の、初唐の表現感覚が現れ出ているのと、まったく同様であり、銘文の文体も内容も、時代の影響から完全にまぬがれることはできなかったのではないだろうか。少なくとも、銘文の和訓化された漢文は、推古期の文体とは云い難い。
 (中略)様式のうえからいうと、旧本尊の復原に際して倣った止利様式は、東西魏のものにもっとも近い。東西魏において、いちばん熱烈に、信仰されたのも、この釈迦・彌勒であった。除災招福にも、延命長寿にも、衆生斯福にも、亡父母・亡夫・亡妻のための追善供養にも、おしなべて、釈迦・彌勒の像が、ついで観音像が造像されていた。では、創建時の法隆寺の本尊は、釈迦か彌勒か、何れかということになると、私は、おそらく釈迦の坐像であろうと想像する。そして、その像容は、おそらく、現在、私たちが法隆寺金堂の右正面に見ている薬師坐像と、同じかっこうのもので、右手を挙げ、左手を膝上に置いたに相違ない。釈迦仏の右手施無畏の説法印である。」(注④)

 上原さんは薬師如来像は焼失前の法隆寺本尊の釈迦仏に倣ったものとされており、服部説と相通じるものがあります。そして、それではなぜ釈迦仏を銘文では薬師仏としたのかという新たな疑問が服部説には発生します。服部説の詳細はいずれ論文として発表されると思いますので、従来にない新説として注目したいと思います。と同時に、古田旧説を支持するとしたわたしの理解にも見直しが迫られているようです。(つづく)

(注)
①服部静尚「金石文よりみる天皇号・継体天皇と女系天皇」、「市民古代史の会・京都」主催講演会(2020年11月17日、キャンパスプラザ京都)での講演。
②法隆寺金堂「薬師如来像銘文」
 池邊大宮治天下天皇 大御身 勞賜時 歳
 次丙午年 召於大王天皇與太子而誓願賜我大
 御病太平欲坐故 将造寺薬師像作仕奉詔 然
 當時 崩賜造不堪 小治田大宮治天下大王天
 皇及東宮聖王 大命受賜而歳次丁卯年仕奉
③上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(朝日選書、1978年。)
④同③。143~145頁。


第2298話 2020/11/18

新・法隆寺論争(7)

法隆寺金堂の「薬師如来像」白鳳仏説

 法隆寺は古田史学・多元史観と通説・近畿天皇家一元史観が直接的にぶつかり合う重要寺院です。その代表例が九州王朝の天子(阿毎多利思北孤)のために造られた釈迦三尊像と近畿天皇家の「天皇」のために造られた薬師如来像の存在です。
 釈迦三尊像が七世紀前半の仏像であることに異論はほとんど見られないのですが、薬師如来像は七世紀前半の「推古仏」とする説の他に、七世紀後半の白鳳仏とする説があります。当初、古田先生は前者の立場に立たれ、光背銘に見える「天皇」号を根拠に、近畿天皇家は七世紀初頭頃からナンバー2としての「天皇」号を称していたとされました(注①、古田旧説)。もちろん、ナンバー1は九州王朝(倭国)の天子です。なお、古田先生は晩年に、近畿天皇家が「天皇」号を称したのは王朝交替後の701年から(古田新説)と自説を変更されています(注②。わたしは古田旧説を支持してきました)。
 この薬師如来像を白鳳仏とする見解を二つ紹介します。一つは小川光暘・笠井昌昭『古代の造形 奈良美術史入門』(注③)で、次のように述べられています。

 「銘文については、推古三十一年の釈迦三尊像の造像銘が完全な漢文で書かれているのにたいして、それより十五年あまりもさきの、この銘文が日本化した漢文体で書かれていること、はっきり薬師像をつくると記しているが、病気の平癒を祈願して薬師像をつくることは白鳳以前には例がなく、また天皇と書かれているのも推古十五年(六〇七)当時のものとしてはおかしいということなどから、推古十五年に書かれたものとは次第に考えにくくなったのである。
 つぎに様式上はどうかというと、写真を比較してもわかるように、飛鳥時代の仏像に釈迦三尊におけるように顔の面長であるのが特徴だが、この像では頬にはりがでてきて、丸顔に近くなってきていること、杏仁形を特徴とする目も、下瞼の線のカーブがゆるく直線的になってきていること、また衣文の線条もやわらかみを加えており、釈迦三尊像では強く末広がりに張っていた裳掛が、この像では比較的垂直にたれ下がってきていること、などがあげられる。これらの要素は視覚的には平面的から深奥的への深まりを示し、次期白鳳期の仏像様式につながるものをもってきているのである。
 これらの点から、この像は、推古十五年につくられた最初の法隆寺とその本尊が天智天皇のころに焼失したのち、法隆寺の再建に当って、飛鳥時代の様式をできるだけ忠実に追いつつ、つくられたものではないかと想像される。」同書45~46頁

 次に、上原和『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』(注④)の記事を紹介します。

 「しかし、ここで、この薬師像の銘文をよく読んでみると、いろいろ疑問が生じてくる。(中略)それに、用明が亡くなって二十年以上もすぎてからの追善供養に、薬師像が造られるということも、常識的に考えてみて、いかにもおかしいし、だいいち薬師像の造像自体が、中国の造像例で見るかぎり、この時点では、すこし早すぎるように思われる。それというのも、中国で薬師像がかなり盛んに造られるようになるのは、唐代に入ってからのことで、七世紀の後半になってのことであるからである。もっとも、いちばん早い遺作例としては、竜門石窟の古陽洞に、北魏の孝昌元年(五二五)銘のある薬師像が見られるが、これは、きわめて希有の遺例であって、竜門石窟の場合、その後、唐の儀鳳三年(六七八)に至るまで、一世紀半あまりの間、まったくその例を見ることはない。
 それに、なによりも決定的なことは、この法隆寺金堂の薬師像は、一見、止利仏師の作風に似通うものを思わせるのであるが、仔細に見るとそのかたちの性質は、すなわち、その表現様式は、まぎれもない、七世紀後半の白鳳時代のものであり、明らかに、法隆寺の再建された時点で止利様式に倣った擬古作であることを示している点である。試みに、現在、法隆寺の大宝蔵にある橘夫人厨子内の阿弥陀三尊像と比較するがいい。かたちの性質が、まったく同じであることに、読者は一驚するはずである。」同書142~143頁

 このように、薬師如来像を白鳳仏とする見解が以前からありました。ところが、昨日、京都市で開催された講演会(注⑤)で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、同薬師如来像を釈迦像とする驚くべき仮説が発表されました。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社、1985年。ミネルヴァ書房から復刻)
②古田武彦『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」(ミネルヴァ書房、2014年)
③小川光暘・笠井昌昭『古代の造形 奈良美術史入門』(芸艸堂、1976年)
④上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(朝日選書、1978年。)
⑤服部静尚「金石文よりみる天皇号・継体天皇と女系天皇」、「市民古代史の会・京都」主催講演会(2020年11月17日、キャンパスプラザ京都)での講演。


第2297話 2020/11/17

継体天皇「二倍年齢」の論理

 先日、開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)はリモート参加と現地参加というハイブリッド方式での初めての試みでしたが、主催者や関係者のご尽力により成功裏に終わることができました。関西からリモート参加された方のご意見として、リモートでもよく聞き取れ、臨場感もあり、来年もリモート参加したいとのことでした。ちなみに、わたしと日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良大学生)の休憩時間中の会話をマイクが拾っており、楽しく聞いていたとのことでした(変なことをしゃべっていなければよいのですが)。天候にも恵まれ、大学セミナーハウスから遠くに見える富士山がきれいでした。

 わたしが発表した「二倍年暦」というテーマでは意見が対立する場面もあり、学問的にも論点や問題点が浮かび上がり、有意義でした。その中で鮮明となったのが次の点でした。

①二倍年暦という暦法と、二倍年齢という年齢計算方法について、分けて考えた方がよいケースがある。一倍年暦の時代でも、二倍年齢で計算する風習が遺存することがある。(古賀の主張)

②二倍年齢においては、春分点と秋分点で年齢を加算するという方法があり、この方法は暦法とは関係なく成立する。(荻上先生からのサジェスチョン)

③二倍年暦・二倍年齢の当否について、実証的な方法では決着が付かないケースがあるため、論理的な説明方法(論証)を重視する必要性がある。(今回、改めて考えさせられたこと)

 セミナーの司会・進行役の大墨伸明さん(多元的古代研究会)も述べられたのですが、「今回のセミナーで最も意見対立が鮮明なテーマ」として、倭国の二倍年暦説の是非についてどのような証明方法が説得力を持つのかについて考えてみました。この場合、説明責任・論証責任は「倭国では二倍年暦が採用されていた」とする側(通説と異なる新説発表側)にあります。
 たとえば、古代人に百歳を超えるケースが諸史料中に散見されるのですが、「古代でも百歳の人はいた」と主張する人に対しては、「古代において百歳もの長寿は無理。この百歳は二倍年齢表記である」という説明では〝水掛け論〟となり、説得できないのです。このような経験がわたしには幾度かあります。そこで、百歳のような長寿記事を史料根拠とする実証的な説明ではなく、論理的な説明、すなわち論証(根拠に基づく合理的な理屈による説明)によらなければならないと、わたしは考えました。一例として古田先生が『失われた九州王朝』(注)で展開された継体天皇の没年齢問題について説明したいと思います。
 第26代継体天皇は越前三国出身の豪族で、皇位継承でもめていた大和に〝介入〟して大和の統治者に即位した異色の人物です。その没年齢が『古事記』には43歳、『日本書紀』には82歳とあり、この約二倍の違いを持つ伝承の存在は二倍年暦によるものと考えざるを得ないという理屈をもって古田先生は論証とされました。
 この説明方法は、継体天皇が43歳で崩じたのか、82歳で崩じたのかという、寿命が論点ではありません。そうではなく、継体天皇の寿命について、どのような理由で約二倍も異なる伝承が発生したのかという説明の仕方の優劣が論点なのです。ですから、六世紀の古代人が82歳まで長生きできるか、できないかという〝水掛け論〟は不要です。「二倍年暦という仮説でうまく説明できる」という見解と、「どこかの誰かがたまたま二倍ほど間違えたのだろう」というような見解とでは、どちらが他者をより説得できるのかという、論理性(理屈)の優劣の問題です。このような論理性を競う論点の提示が、二倍年暦論争には必要と思われます。

(注)古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、1973年。ミネルヴァ書房から復刻。


第2296話 2020/11/16

古代日本の和製漢字

     (国字)法隆寺「多聞天光背銘」

 わが国最初の国字とみなされることもある例が『文字と古代日本 5』に紹介されていました(注①)。それは、やはり「聖徳太子」と関わりがある法隆寺金堂の「四天王(多聞天像)光背銘」に見られる「鐵師*閉古」の「*閉」〔「司」のなかが「手」の字体〕という字です。同書では次のように解説されています。

 〝白雉元年(六五〇)「法隆寺金堂四天王(多聞天像)光背銘」に見られる「鐵師*閉古」の名に含まれる「*閉」〔「司」のなかが「手」の字体〕は、最初の国字とみなされることがあるが〔杉本つとむ―一九七八〕(注②)、朝鮮、日本でも見られた中国製字体(「門」→「˥」)に、日本化字体(「才」→「手」)が重なった「閉」の異体字であると考えられる。「玉門」「陰門」のように、「門」を女陰にあてる引伸義を、さらに応用したもので、読みが近世以来説かれている「まら」だとすれば、日本製字義(国訓)である可能性があり、その最古の例となるが、「へ」という音仮名という可能性も残されている。〟284頁

 冒頭に「白雉元年(六五〇)」とあるのは、同四天王の広目天像光背銘に見える「山口大口費」が『日本書紀』白雉元年是年条に見える「漢山口直大口、詔を奉(うけたまわ)りて、千仏の像を刻る。」の「山口直大口」と同一人物と考えられ、広目天像もこの頃に造られたとされていることによります。
 法隆寺の「観音像造像記(銅板)」の銘文中の「鵤」、伊予温湯碑文中の「*峠」〔山偏を口偏に換えた字体〕、『法華義疏』の国字に加えて、法隆寺金堂多聞天像の「*閉」など、いずれも「聖徳太子」(九州王朝の多利思北孤)に関係する文物に「国字」が見えることは、九州王朝による「新字」作成説の傍証となりそうです。(つづく)

(注)
①笹原宏之「国字の発生」『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
②杉本つとむ『異体字とは何か』桜楓社、1978年。


第2295話 2020/11/15

古代日本の和製漢字(国字)『法華義疏』

 今朝の八王子も快晴で、絶好の勉強日和となりました。昨晩は、わたしの部屋で安彦さん(東京古田会・副会長)らと夜遅くまで和田家文書研究について意見交換・情報交換を行いました。今日は古代戸籍における二倍年暦について研究発表します。今日も一日、勉強漬けです。大学セミナーハウスは学問や勉強をするにはとてもよい環境です。

 上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)に触発されて、九州王朝「新字」というテーマへと進んできました。そして、国字として法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」の銘文中(注②)の「鵤」、伊予温湯碑文中の「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕を紹介しました。いずれも九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤との関係がうかがえることから、多利思北孤時代(六世紀末から七世紀初頭頃)の九州王朝「新字」誕生という作業仮説を導入し、検証を続けました。
 先行研究を学ぶために読んでいる『文字と古代日本 5』に興味深い指摘がありました(注②)。七世紀前半頃に「聖徳太子」が撰した『三経義疏』に国字が多く見られるとして、自筆本とされる『法華義疏』(皇室御物)中の国字研究(注③)が紹介されていました。たぶんJIS高水準にもないような特殊字体で紹介しにくいのですが、次の偏旁を付加・置換した字例が示されていました。

○「慚」字の下部に「心」を付加した字体。
○「嬉」字の「喜」の下部に「心」を付加した字体。
○「指」字の手偏を「骨」に置換した字体。
○「戯」字を女偏が付いた「虚」とした字体。

 古田説では、『法華義疏』冒頭に付記されている「大委国上宮王」を多利思北孤の自署名とされており、九州王朝の多利思北孤による「新字」の誕生を示す有力史料ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②笹原宏之「国字の発生」『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
③花山信勝「聖徳太子御製法華義疏の研究」『東洋文庫論叢』18-1・3、1933年。


第2294話 2020/11/14

古代日本の和製漢字(国字)

     「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕

 上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)は研究のヒントの宝庫と前話で述べたように、「鵤」以外にも「聖徳太子」伝承と関係する国字の存在に気づかせていただきました。それは、九州王朝の天子、多利思北孤の年号「法興六年(596)」銘(注②)を持つ伊予温湯碑文中の文字です。
 同碑文には「臨朝(あした)に鳥啼きて戯れさえずる」という文章があり、この「さえずる」という字(動詞)に「*峠」〔*山偏を口偏に換えた字体〕という国字が使用されています。同碑は行方不明となっており、『風土記』逸文などに碑文が遺されていることから、厳密にいうと、その逸文執筆者が碑文の字体を正確に書き写しているということが、六世紀末の法興六年と同時代の字体とするための必要条件です。しかし、「さえずる」という別の字が、書写者により「*峠」という珍しい字に書き換えられたとは考えにくいのではないでしょうか。原碑文にその字があったので、そのまま書き写され、その後も書写されたと考える方が穏当と思われるのです。
 以上の理解が間違っていなければ、「*峠」という国字が六世紀末までに成立していたことになり、それはまさしく九州王朝「新字」の誕生となるわけです。そうすると、法隆寺「観音像造像記銅板」銘文中に見える「甲午年」も、通説の694年(持統八年)だけではなく、その60年前の「甲午年(634)」の可能性が復活します。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②正木裕氏(古田史学の会・事務局長)は、「法興」は仏門に入った多利思北孤の「法号」であり、それを「年号」のように使用したとする説を発表されている。
 正木裕「九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について」『古田史学会報』104号、2011年6月。


第2293話 2020/11/14

古代日本の和製漢字(国字)

    「天武十一年条の『新字』」

 今朝は〝八王子セミナー(古田武彦記念 古代史セミナー2020)〟に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。新幹線に乗るのは今年八月のリタイア以来のことです。現役中は週に何度も新幹線のお世話になっていました。まだ四ヶ月も経っていないのに、車窓から見える風景が懐かしく、「帰省列車」のような気分です。もちろん座席は富士山を観賞できる、いつものE席です。

 今、拝読している上原和さん(1924~2017)の『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)は研究のヒントの宝庫です。その中から生まれた新テーマ「古代日本の国字」を続けます。
 国字について勉強するために読んでいるのが『文字と古代日本 5』(注②)です。全5巻で、古代日本の文字に関する論文が網羅されており、各専門家による優れた著述と思われました。幸い、岡崎の京都府立図書館(拙宅から自転車で10分)に置いてあり、精読中です。
 同書中の論文笹原宏之「国字の発生」によれば、国字発生の研究史について次のように説明されています。

 「古代における国字の実態については、近世以来、伴直方『国字考』など諸書において論考があり、春日政治〔春日―一九三三〕や橋本進吉〔橋本―一九四九〕などにも言及があるが、その後には国字は九世紀末まで存在しなかったという意見まで見られる」同書284頁(注③)

 このような意見の影響を受けてか、私も「国字は九世紀末まで存在しなかった」と思っていた時期もありました。そして、笹原稿の結論として次のように締めくくられています。

 「国字とみなしうる確例はほとんどすべてが天武朝以降に現れているということは、『日本書紀』天武天皇十一年(六八四)三月に記されている、境部連石積らに命じて、はじめて造らせたという「新字」四四巻を想起させる。その内容については諸説あり、そもそも中国の史書を模倣した記述であり、日本の史実であったかも疑わしい。しかし、時期の符合は、これ以前に残存文字史料自体が少ないことを差し引いても、何らかのできごとを反映した記事であったと考えられる。
 (中略)これらは、次の奈良時代に合意の国字や合字となっていくものである。国字の活動はもはや止められない時代となっていたのである。」同書296頁

 天武紀に見える「新字」記事(注④)を国字の発生と関連付ける笹原さんの指摘は刺激的です。この見解が正しければ、「観音像造像記銅板」銘文中に見える「鵤」という国字の発生は天武期以降となり、その「甲午年」も通説の694年(持統八年)でよいとなるからです。(つづく)

〔後記〕八王子の大学セミナーハウスに着きました。八王子は快晴でぽかぽか陽気。「本日、勉強日和」です。

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。
③春日政治「仮名発達史序説」『岩波講座 日本文学』五 岩波書店、1933年。
 橋本進吉『文字及び仮名遣の研究』岩波書店、1949年。
④『日本書紀』天武天皇十一年(六八四)三月条に次の記事が見える。
 「丙午(13日)、命境部連石積等、更肇俾造新字一部四四巻。」


第2292話 2020/11/13

古代日本の和製漢字(国字)「鵤(いかるが)」

 「洛中洛外日記」で連載中の〝新・法隆寺論争〟執筆のため、通説における法隆寺や聖徳太子の研究史を勉強しています。今、読んでいる本が上原和さんの『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』(注①)で、40年以上前の本ですがなかなかの名著と思いました。もちろん学問的には一元史観に立っており、批判的に読まなければなりませんが、その博識には学ぶことが多々ありました。
 その中で触発されたことのひとつが和字「鵤(いかるが)」の指摘でした。「洛中洛外日記」2274話(2020/10/26)〝新・法隆寺論争(3) 法隆寺持統期再興説の根拠〟で紹介した、法隆寺に伝わる「観音像造像記(銅板)」の銘文(注②)に「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」という三つの寺院名があり、この中の「鵤」という字が和製漢字(国字)であることが、『斑鳩の白い道のうえに』に記されていたのです。わたしは国字の存在は知っていましたが、その発生が7世紀まで遡るとは思ってもいませんでした。
 この銘文の「甲午年」は六九四年(持統八年)とされていますが、干支一巡前の六三四の可能性もあるかもしれないと思うのですが、本体の仏像は不明で、仏像の様式による編年ができません。そこで銘文の文章や字体から編年できないものかと思案していましたので、「鵤」という字が国字であれば、国字の成立時期がヒントになるのではないかと考えました。そこで、国字成立に関する研究論文が収められている『文字と古代日本 5』(注③)を読んでみました。(つづく)

(注)
①上原和『斑鳩の白い道のうえに ―聖徳太子論―』朝日選書、1978年。
②「観音像造像記銅板」銘文
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓
③『文字と古代日本 5』吉川弘文館、2006年。