古賀達也一覧

第2457話 2021/05/11

九州王朝と大和朝廷の「都督」(1)

 草野善彦さんは著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)に読者から寄せられた意見「〝倭国の都城がはじめから太宰府〟というのは、違うのではないか」に対して、「倭国の都城・太宰府について」(注②)において自説の説明と反論を行われ、次のように述べられています。

 「私は『倭の五王』の都城は太宰府と考えております。今日、太宰府政庁跡と呼ばれている遺跡に『都督府古跡』と彫った石碑が立っています。この『都督府古跡』とは何なのか。通説はこれに沈黙しているのではありませんか。」
 「『倭王・武の上表』に従えば、五世紀の新羅・百済の都城・王宮を凌駕した規模でなければならず、(中略)すなわち今日の太宰府の遺跡群こそは、『倭の五王』の都城と思います。」
 「私は、三世紀から五世紀、『倭国』の都城・首都は移動していないのではないか、と考えています。」『多元』159号、10~11頁。

 これだけ明解にご自身の見解を表明されると、読者の理解は進み、賛否の意見も出しやすくなり、精確な論議が可能となり、学問研究の発展にも寄与します。わたしはこの草野さんの姿勢を歓迎したいと思います。誰に対する批判なのか、どの意見に対しての反発なのかわからない意味不明の文章も散見される昨今ですから、尚更です。
 この草野さんの見解で同意できる点は、都城の規模を問題にされていることです。倭国の代表者の宮殿・都城であるからには、朝鮮半島諸国との比較、国内の他の遺構との比較が重要とすることは当然です。ただし、ことは都城・王宮にとどまらず、王墓(古墳)の規模や数も比較の対象となりますが、このことについては別に論じることとします。
 今回は、大宰府政庁跡に立つ「都督府古趾」(注③)の「都督」について、多元史観による説明をしたいと思います。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。
③大宰府政庁跡に立つ石碑には、「都督府古跡」ではなく、「都督府古趾」と彫られている。明治4年、乙金村(現、大野城市乙金)大庄屋高橋善七郎が建立した。


第2456話 2021/05/10

大宰府政庁の科学的年代測定(14C)情報(2)

 草野善彦さんの著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)によると、大宰府政庁正殿跡出土炭化物の炭素同位体比(14C)年代測定値が発表されていることが、次のように紹介されていました。

 また、大水城のみならず「大宰府政庁正殿における放射性炭素年代測定も、「暦年代(西暦)AD四三五~六一〇」という測定値も、報告されています。(『大宰府政庁跡』、三五三頁、九州歴史資料館、二〇〇二年、吉川弘文館」)。
 『「倭国」の都城・首都は太宰府』161~162頁 ※文中の「」はママ。

 草野さんが紹介された『大宰府政庁跡』(注②)に掲載された炭化物(№1~3)の測定値を示し、その出土状況についての解説を転載します。

【大宰府政庁正殿跡における放射性炭素年代測定結果】(『大宰府政庁跡』353頁より略載)
 試料名 暦年代              中央値(古賀による)
 №1 1σ:AD435~610     525
 №2 1σ:AD645~815, AD850~850(ママ) 730, 850
 №3 1σ:AD1180~1290     1235

「3. 大宰府政庁正殿跡における放射性炭素年代測定について

 大宰府政庁の変遷を考える上での重要な画期として、”藤原純友の焼き討ち”の史実がある。『扶桑略記』(ママ)よれば、天慶3年(940)、藤原純友の焼き討ちにより大宰府政庁は炎上した。
 その後、大宰府政庁が再建されたか否かの議論は、昭和43年(1968)より始まった大宰府史跡の発掘調査で明らかにされた。大宰府政庁における3期の建物変遷の中で、Ⅱ期からⅢ期への建替えは、多量の焼土層を挟んで行われていたことから、この焼土層こそが藤原純友の兵火によるものと理解されたのである。
 今回の正殿跡の調査(第180次)でも、この藤原純友の兵火によると考えられる焼土や炭化物が多量に出土した。そこで焼土層より検出した炭化物について放射性炭素年代測定を行い、科学的な年代判定を試みることにした。

分析試料の採取状況

 採取試料は、正殿跡基壇東北隅付近から焼土とともに検出された炭化物を対象とした。

 試料№1は、焼け落ちたⅡ期の瓦を廃棄した土壙SK108から採取した。採取にあたっては、堆積層の上層部を除去し、確実に焼土層に含まれていることを確認した後、瓦の内側に貼り付いた炭化物を採取した。ただ、採取の際に注意されたのは、土壙の埋土下位までかなり水分が存在していたことであった。

 試料№2は、基壇隅部地覆石前面のⅢ期整地層下位のⅡ期雨落ちと考えられる溝状遺構中の炭化物を採取した。整地層を除去し、確実に溝内に封入されたものを取り上げた。

 試料№3は、基壇後面の階段東側を対象とした。試料№2と同じく、Ⅲ期整地層中に封入されたものを採取した。この地点は、試料№2より整地層は厚く、残りの良いⅢ期整地層下位の試料であるため、まず汚染されることは考えられない試料である。」『大宰府政庁跡』354頁

 この第180次調査は、大宰府政庁が天慶の乱(940年)での焼失後に再建されたことを確認した貴重な調査でした。しかも、正殿付近の焼土層から採取した炭化物の放射性炭素年代測定もなされ、各遺構の年代を考察するデータの一つとなりました。
 最も古い値を示した試料№1の炭化物の中央値は525年ですが、政庁Ⅱ期の瓦の内側に付着した炭化物ですから、恐らく重い屋根瓦を支えていた梁か柱の燃焼物(煤か)ではないでしょうか。その場合、太い木材が使用されたはずですから、それだけ年輪の数も多く、木材の内側と外側では恐らく百年以上の差があるでしょうから、測定中央値(525年)から政庁Ⅱ期の創建年を判断するのはあまり適切ではありません。しかしながら、その年代よりも政庁Ⅱ期の創建は古くはなりませんから、こうした調査は無駄ではありません。
 以上のように、草野さんが紹介された測定値は、残念ながら太宰府政庁Ⅰ期やⅡ期の創建年の根拠としては使いにくいデータであることがわかりました。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。


第2455話 2021/05/10

大宰府政庁の科学的年代測定(14C)情報(1)

 古田先生とは様々なテーマで意見交換や討論を行いましたが、どうしても合意に至らなかったテーマがいくつかありました。その一つが『宋書』に見える「倭の五王」の王都の場所についてでした。『宋書』には当時の倭国王都の位置情報が記されていませんから、このテーマは文献史学ではなく考古学上の根拠に基づく必要がありました。ですから、先生との論争もこの分野での知見に基づいて行ったのですが、今でもそのときのことをよく憶えています。
 古田先生は太宰府都府楼跡(大宰府政庁Ⅰ期)とするご意見でしたが、わたしは大宰府政庁Ⅰ期出土の土器編年はとても五世紀までは遡らないし、出土遺構も堀立柱の小規模なものであり、倭王の宮殿とは考えられないと反論してきました。そして次のような対話が続きました。

古田「それならどこに王都はあったと考えるのか」
古賀「わかりません」
古田「水城の外か内か、どちらと思うか」
古賀「五世紀段階で九州王朝が水城の外側に王都を造るとは思えません」
古田「だいたいでもよいから、どこにあったと考えるか」
古賀「筑後地方ではないでしょうか」
古田「筑後に5世紀の王宮の遺跡はあるのか」
古賀「出土していません」
古田「だったらその意見はだめじゃないですか」
古賀「だいたいでもいいから言えと先生がおっしゃったから言ったまでで、まだわかりません」

 およそこのような「論争的」対話が続いたのですが、合意には至りませんでした。しかし「水城の内側(南側)」という点では意見の一致を見ていました。倭王の都城についてはその他にも論争があり、そのことを紹介した論稿を古田先生没後(三回忌の翌年)に発表しました(注①)。いずれの論争も、懐かしい思い出でばかりです。
 この論争テーマには二つの論点(土器・古墳)がありました。一つは大宰府政庁Ⅰ期の整地層から、7世紀第3四半期後半から第4四半期に編年されている「須恵器坏B」(注②)と呼ばれる土器が出土していることでした。この土器の編年を、いくらなんでも5世紀まで二百年も遡らせるというのは無茶というもので、この出土事実をわたしは強く主張しました。
 二つ目は、古田先生が論文発表されていた〝九州王朝の筑後への移動〟という仮説です。それは「『筑後川の一線』を論ず」(注③)という、古田学派でもあまり知られていない小論文ですが、筑後川を挟んでの九州王朝王都の移動変遷に関する重要論文です。
 要旨は、弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に中心領域が移動するというもので、その根拠としてそれぞれの時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷するという指摘です。その理由として、主敵が弥生時代は南九州の勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられています。
 この「筑後川の一線」という指摘に基づいて、わたしは「九州王朝の筑後遷宮」という仮説を提起し、高良大社の玉垂命こそ古墳時代の倭国王(倭の五王ら)であったとする論文(注④)を発表しました。古田先生も「『筑後川の一線』を論ず」において、「弥生と古墳と、両時代とも、同じき『筑後川の一線』を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは『主敵方向』のみだ。この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇しくも、まさに相対応しているようである。」とされています。
 この論文を発表された当時、古田先生は「倭の五王」の王都を筑後とされていたのですが、いつの頃からか太宰府説に変わられていました。しかし、晩年の先生の認識が記された『古田武彦の古代史百問百答』(注⑤)には「倭の五王」の王都の位置については触れられていませんので、わたしとの論争の結果、態度を保留されたのではないでしょうか。
 いずれにしても、この仮説は重要なもので、そのことをわたしは繰り返し訴えましたが(注⑥)、古田学派内からの反響はありませんでした。他方、わたしは土器編年以外に大宰府政庁跡の暦年を探る方法はないものか検討を続けてきました。その中で、大宰府政庁跡出土炭化材の炭素同位体比(14C)年代測定値が『大宰府政庁跡』(注⑦)に発表されていたことを草野善彦さんの著書『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注⑧)で知りました。(つづく)

(注)
古賀達也「古田先生との論争的対話 ―「都城論」の論理構造―」『古田史学会報』147号、2018年8月。古田先生と見解が対立したテーマについての二人のやりとりについては、先生の三回忌が過ぎるまでは論文発表しないとわたしは決めていた。
②7世紀後半の代表的須恵器で、蓋につまみがあり、底に「足」がついている。652年(九州年号の白雉元年)創建の前期難波宮整地層からは出土せず、694年に持統が遷都した藤原宮(京)整地層からは大量に出土する。これらの出土事実や共出した木材の年輪年代測定・年輪セルロース酸素同位体比年代測定などのクロスチェックにより、その編年観が成立している。
 年輪セルロース酸素同位体比年代測定については、拙稿「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟、同第672話 2014/03/05(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟を参照されたい。
③古田武彦「『筑後川の一線』を論ず」『東アジアの古代文化』61号、1989年。
④古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
⑤古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、2015年。東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊された。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」555話(2013/05/05)〝筑後川の一線〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1382話(2017/05/04)〝「倭の五王」の都城はどこか(1)〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年9月。後に『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)に転載。
⑦『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
⑧草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。本書を著者から贈呈していただいた。記してお礼申し上げる。


第2454話 2021/05/09

水城の科学的年代測定(14C)情報(3)

 今回、紹介した炭素同位体比(14C)年代測定結果は、水城の築造(完成)時期を7世紀後半、おそらくは天智三年(664年)の築城とする説を支持すると、わたしは指摘しました。この拙稿をFaceBookでご覧になった高野博秀さんと正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、重要なご指摘をいただきました。おかげで、わたしの史料理解や問題点に対する認識が深まり、感謝しています。それぞれ学問上の重要な問題提起が含まれているため、「洛中洛外日記」で改めて丁寧に返答させていただくことにしました。両氏の指摘は次の通りです。

(1)高野博秀さんからの指摘
〝素朴な疑問です
あんな大規模な構造物が数年で造れる訳がない。しかも水を貯えるならば。参考までに、太宰府に来て戸惑うことの一つに水城駅と水城なる地区がかなり離れていること。全長が長いからだろうけど、水城は佐賀まで続くとも?〟

(2)正木 裕さんからの指摘
〝「炭素同位体比(14C)年代測定の中央値は、660年(最上層)」とあるのに、何故「白村江敗戦後の664年」にこだわるのか、理解できません。660年(白村江前整備)と664年(敗戦後整備)では「歴史観」が逆転します。戦争突入直前に防衛施設整備が行われたのか、敗戦で膨大な犠牲者を出し、国力が失われた中で大工事が行われたのか、どちらが考えやすいのかですね。660年でいいのでは?C14の中央値を無視して「664年と『書紀』に書いてあるから」というだけであれば『書紀』は正しいとする通説と変わらないのでは。〟

 まず、高野さんの指摘に対して、わたしの見解を説明します。実はわたしも太宰府都城研究を始めた当初は、水城の造営は長期間かけて行われ、白村江戦前には完成していたと考え、そうした論文(注①)を発表していました。それは次の二つの見解に基づいていました。
 白村江戦前に水城は完成していたとする見解は古田先生が主張されてきたもので、敗戦後の筑紫は唐の進駐軍に制圧されており、その中で水城など造営できるはずがないという理由でした。これは正木さんからの指摘にもあったもので、古田学派内では通説としてもよいほどの多数説となっています。
 水城の造営には長期間を要したであろうとする見解は、内倉武久さんが著書『太宰府は日本の首都だった』(注②)で示された水城の木樋の14C年代測定値(540年)を根拠としていました。
 その後、内倉さんは論稿「太宰府都城の完成は五世紀中ごろ」(注③)において、水城の敷粗朶層サンプル三点の14C年代測定中央値(上層660年、中層430年、下層240年)を根拠に、「太宰府都城がほぼ完成したのは井上氏(井上信正氏:古賀注)の想定より二百年以上古い五世紀中ごろ、いわゆる『倭(ヰ)の五王』の時代である。」「太宰府は卑弥呼が当初建設した都城である可能性が高い。」とされました。
 この内倉論稿を読み、その結論に疑問を感じたわたしは、水城に関する考古学報告書(注④)を自らの目で確認することにしました。その結果、敷粗朶のサンプリングの信頼性に差があることから、最上層の中央値660年(注⑤)がもっとも安定した測定値であることを知り、そのことを論文発表しました(注⑥)。
 他方、水城築造に関する先行研究を勉強したところ、版築により造成された水城は、台風の季節が終わり、翌年の梅雨入りの前までに築堤を完了しておかなければならないことも知りました。降雨により造成途中の版築が流されてしまうからです。そのため、基底部の版築とその上層堤部の版築を雨が少ない季節に大量の労働力を集中投入して一気呵成に終えなければなりません。従って、版築工法の実施は半年程度で完了させ、その前後の工程を含めても、恐らく数年で水城は完成したと考えるに至ったのです。
 以上が高野さんのご指摘に対する一応の返答ですが、版築工程以外の準備工程(設計・測量・整地・工事用道路施設の造営など)や後工程(城門・城壁などの建造)に、どの程度の期間が必要かは正確にはわかりません。引き続き、古代建築の専門家による研究論文を調べたいと考えています。
 ですから、現時点でのわたしの考えは、〝水城は七世紀中頃から後半にかけて築造・完成したもので、恐らくは唐との開戦に先立って、太宰府防衛のために準備・計画され、完成は『日本書紀』に記された天智三年(664年)としても問題なく(他に史料根拠がない)、その工事期間は数年と思われる〟というものです。高野さんのご指摘に感謝します。(つづく)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。後に『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
②内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
③内倉武久「太宰府都城の完成は五世紀中ごろ」『九州倭国通信』185号、2017年3月。
④『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
⑤この測定値は測定原理上の有効桁数により、下一桁を丸めた数値であり、660年という暦年には数理統計上のほぼ中央値という以上の精確性はない。
⑥古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。


第2452話 2021/05/08

水城の科学的年代測定(14C)情報(2)

 水城の第35次発掘調査(2001年)で発見された敷粗朶層のサンプルの炭素同位体比(14C)年代測定の中央値は、660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)でした。最上層と坪堀とでは約200~400年の差があることから、「調査報告書」(注①)には、「各一点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とありました。その追加測定が既に実施されており、報告書(注②)も出されていたことを知りましたので紹介します。
 水城には東西二つの門があり、その西門付近北東側が平成十九年(2007年)の第40次調査で発掘されました。そこから敷粗朶の木片と炭化物が採取され、14C年代測定が行われました。それらの暦年較正年代(1σ)は、共に675~769ADの範囲に含まれることがわかりました。そして、報告書には次のように説明されています。

 「記録では水城の建設は664ADとされているので、堤体基底部の敷粗朶の年代値がこれより21年以上新しい理由として、1)年代値は30年程度の誤差を持っている、2)664AD以降も建設が行われた、3)678ADの筑紫地震で水城堤体が部分的に崩壊しその跡を修復した、の3つが考えられる。この年代値の暦年較正年代グラフは時間軸に対する傾きがゆるく変動幅が大きく出やすいことから、1)の可能性が強いと考えられる。」『水城跡 ―下巻―』(注③)

 このように考察され、『日本書紀』天智三年是歳条(664年)の水城築城記事と矛盾しないと判断されています。すなわち、前回紹介した第35次調査での敷粗朶最上層の測定中央値660年と同様の年代観が示されたわけです。
 次に、第38次調査(2004年)に出土した木杭の外皮と、比較検討のため第35次調査(2001年)で出土した植物遺体(粗朶1点、葉2点)3点が測定されています。第38次調査は西土塁丘陵付近の調査で、丘陵取り付き部に版築状積土が確認されました。その積土層の下層から1条の杭列が出土し、そこから採取した木杭の外皮ですから、ほぼ伐採年を測定できる理想的なサンプルです。それら4サンプルの暦年較正年代(1σ)は、木杭(38次調査、外皮)がcalAD777~871年、粗朶(35次調査)がcalAD540~600年、葉calAD653~760年、葉calAD658~765年と報告されています(注④)。
 木杭(38次調査、外皮)の測定値が8世紀後半~9世紀後半を示していることから、水城西端部修築時の木杭と思われます。『続日本紀』天平神護元年(765年)三月条に「修理水城専知官」任命記事が見えますから、水城修理の痕跡ではないでしょうか。
 比較用に測定された第35次調査の粗朶は、天智三年(664年)の水城築城記事よりも100年ほど古い値ですので、使用された敷粗朶に古いものもあったことをうかがわせます。葉2点の測定値は7世紀後半築造を示すものです。
 以上のように、今回紹介した炭素同位体比(14C)年代測定結果は、水城の築造(完成)時期を7世紀後半、おそらくは天智三年(664年)の築城とする説を支持するものと思われます。

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
②『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
③同②、259頁。
④同②、328~329頁。

※1σ(シグマ)とは、ばらつきの幅に関する数学的定義で、ある測定値のばらつきが正規分布する場合、その約68%が収まる区間を1σとする。すなわち、1σ区間に収まる確率が約68%であることを意味する。


第2450話 2021/05/06

「倭王(松野連)系図」の史料批判(12)

 ―系図を伝えた松野氏の多元的歴史観―

 本テーマの最後に、「倭王(松野連)系図」を伝えてきた松野氏の歴史認識について考察します。
 「倭王(松野連)系図」の特徴は次のような点で、こうした祖先の系譜と伝承を歴代の松野氏は「是」として伝えてきたということが、フィロロギーの視点からは重要です。

(1)呉王夫差を始祖とする一族が日本列島に渡来し、あるときから火国(肥後)に土着した。
(2)その祖先には『日本書紀』景行紀に記された人物(厚鹿文、取石鹿文、市鹿文、他)がいた。
(3)その後、『宋書』に記された「倭の五王」「倭国王、哲」らが続く。
(4)更に、7世紀中頃になると筑紫の夜須評督になり、7世紀後半には松野連姓を賜った。
(5)8世紀には、律令官僚として大和朝廷に仕えた(注)。

 概ね、以上のようです。自家の系図を造作するときは始祖を近畿天皇家や藤原鎌足などの歴史上の権威者にすることはよくあるのですが、松野氏の場合は中国の周王朝に繋がる呉王夫差を始祖とし、近畿天皇家との繋がりは全く見られません。他方、『宋書』に見える「倭の五王」やその次代の「哲」に「倭国王」と傍注を付けて、自らを倭国王の裔孫としています。これは不思議な現象で、この系図を伝えてきた歴代の松野氏は、近畿天皇家と「倭の五王」「倭国王、哲」を別の家系と認識していたことがわかります。このような歴史認識が松野氏内に連綿と続いていたわけで、これはとても珍しい多元的歴史認識ではないでしょうか。
 このような「倭王(松野連)系図」が示す歴史認識は、近畿天皇家の時代の8世紀以後、『日本書紀』成立以降に造作できるものではありませんし、そのメリットもありません。ですから、こうした〝多元史観の系図〟を伝えた松野家は、ある時代までは九州王朝の歴史的存在を記憶していたと考えざるを得ないのです。その意味でも、研究に値する貴重な系図と言えるのではないでしょうか。(おわり)

(注)同系図には、8世紀の人物「弟嗣」「楓麿」の傍注に「従七位下」「外従七位上」などの律令制官位が見えることからも大和朝廷の官人だったことがわかる。


第2449話 2021/05/05

『宋史』日本伝の「九■州」

 先日、気になる問題があって、中国正史の倭国伝や日本伝を読みました。気になる問題とは、『隋書』には阿毎多利思北孤という国王の名前(字)が記されているのに、『旧唐書』にはなぜ倭国王の名前が記されていないのだろうということでした。倭国の重要情報である国王名がなぜ書かれていないのだろうと、不思議に思ったのです。そこで歴代正史の夷蛮伝では各国王名はどのような扱いになっているのかを調べています。この調査結果は別の機会に紹介したいと思いますが、その過程で岩波文庫『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(石原道博編訳)に収録されている『宋史』日本伝影印本に奇妙な表記があることに気づきました。
 『宋史』日本伝には、官道別の国名や国数が記録されています。たとえば、東海道であれば「東海道有、伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・常陸、凡十四州。共統、一百一十六郡」とあります。他の官道も同様に、東山道・八州、北陸道・七州、山陰道・八州、小(ママ)陽道・八州、南海道・六州、西海道・九州と、それぞれに国名・国数などが記されています。
 ところが、西海道の国数である「九州」の部分は「九■州」となっており、間に「■」(黒い四角)が入っているのです。版木を彫る際に間違ってしまい、その部分が「■」となったのだろうかとも思ったのですが、よくよく考えるとそれは有り得ません。もし字を彫り間違えたので、その誤字を削ったのであれば、その部分は空白となるはずだからです。逆に、誤字を消すために四角の形に何かを塗り込めたのであれば、印字は「■」になります。しかし、これもあり得にくいことと思います。なぜなら、誤字の存在に気づいたのであれば、版木を彫り直せばよいからです。ちなみに、掲載された日本伝の他の部分にこのような「■」はありません。なぜこの不体裁な「■」をそのままにしたのでしょうか。これはとても奇妙なことと思われました。
 この一見奇妙な「■」ですが、もしかすると意図的な表記ではないでしょうか。すなわち、東夷の国の記事中に「九州」という表記があることを避けるために、わざと「九■州」にしたのではないかと思います。というのも、「九州」という言葉は中国の天子の直轄支配領域を意味する政治的用語だからです。『史記』を始め、『旧唐書』などにも天子の直轄支配領域としての「九州」という用語が使用されています。
 『宋史』日本伝の場合は、国の数を表す「九ヶ国」の意味での「九州」という表記ですが、夷蛮の国である日本伝の記事中に「九州」があることを憚って、わざと間に「■」を入れて「九■州」としたのではないかとわたしは考えています。中国の天子の直轄支配領域としての「九州」と区別するためです。
 こうした理解が妥当かどうかを確かめるためには、『宋史』影印本の全体を見て、他に「■」が使用されているのか、あるいは他の異蛮伝に「九ヶ国」を意味する「九州」があれば、それが同様に「九■州」とされているのかを調べればよいわけです。後日、図書館で調べたいと思います。何かわかれば「洛中洛外日記」で報告します。
 ちなみに、日本列島にも「九州」(九州島)という地名があります。これは九州王朝(倭国)の天子の直轄支配領域(九州島)を意図的に九国に分割し(注①)、「九州」と命名したものと古田史学では考えられています。古田先生が、「筑紫王朝」ではなく「九州王朝」という学術用語を作り、自説に採用された理由は、この中国の政治的用語「九州」にあったのです。この日本国内の政治的用語「九州」の成立については、拙論「九州を論ず ―国内史料に見える「九州」の変遷」「続・九州を論ず ―国内史料に見える「九州」の分国」が収録された古田先生らとの共著『九州王朝の論理』(注②)をご参照下さい。

(注)
①筑紫・肥・豊のみを「前」「後」に二分割し、それに日向・薩摩・大隅を加え、九ヶ国(九州)とした。
②古田武彦・福永晋三・古賀達也『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。


第2448話 2021/05/04

「倭王(松野連)系図」の史料批判(11)

 – 松野氏の濃密分布地、岐阜県瑞穂市

 「倭王(松野連)系図」には、古代から室町時代頃(注①)までの人物名が記されています。その中にいくつか注目すべき傍注があり、同系図の信憑性を計る手がかりとできそうです。中でも十世紀頃の「宅成」という人物の傍注に「左小史」「子孫在美濃国」とあり、松野宅成の子孫が「美濃国」(岐阜県)にいるとされています。この傍注が記された時期は不明ですが、web調査によると、松野姓が現在も岐阜県に濃密分布していることがわかりました。従って、同傍注は信頼できることとなり、系図の中近世部分の信頼性は高いのではないかと思われます。
 「日本姓氏語源辞典」(注②)によれば、「松野」姓の分布状況は次の通りです。

【県別分布順位】
1 神奈川県(約3,100人)
2 大阪府 (約3,000人)
3 東京都 (約2,800人)
4 岐阜県 (約2,700人)
5 愛知県 (約2,300人)
6 静岡県 (約2,000人)
7 兵庫県 (約2,000人)
8 北海道 (約1,900人)
9 熊本県 (約1,700人)
10 千葉県 (約1,600人)

【市町村別分布順位】
1 岐阜県 瑞穂市(約1,000人)
2 岐阜県 岐阜市(約800人)
3 静岡県 浜松市(約800人)
4 熊本県 熊本市(約600人)
5 新潟県 上越市(約400人)
6 香川県 高松市(約400人)
7 長崎県 長崎市(約300人)
8 山梨県 甲府市(約300人)
9 大阪府 堺市 (約300人)
10 大阪府 松原市(約300人)

 また、松野姓の発祥地として次の説が紹介されていました。

①静岡県富士市南松野・北松野発祥。平安時代に記録のある地名。東京都千代田区千代田が政庁の江戸幕府の幕臣に江戸時代にあった。同幕臣に伝承あり。
②栃木県那須郡那珂川町松野発祥。戦国時代に記録のある地名。
③熊本県球磨郡球磨村神瀬松野発祥。同地に分布あり。
④新潟県上越市牧区東松ノ木発祥。江戸時代に記録のある地名。地名はマツノキ。同地に分布あり。
⑤合略。赤松と浅野の合成。広島県広島市中区基町が藩庁の広島藩士に江戸時代にあった。同藩士は赤松姓の「松」と軍功により浅野氏から賜った「野」からと伝える。推定では安土桃山時代。赤松アカマツ参照。浅野アサノ参照。
⑥地形。松と野から。鹿児島県いちき串木野市冠嶽に江戸時代にあった門割制度の松野之屋敷から。屋敷による明治新姓。善隣。大阪府泉南市鳴滝に分布あり。
※呉系。京都府京都市に平安時代に松野連の氏姓があった。

 この中で、「倭王(松野連)系図」の松野氏に関係すると思われるのは、次の二つです。

 「熊本県球磨郡球磨村神瀬松野発祥。同地に分布あり。」
 「呉系。京都府京都市に平安時代に松野連の氏姓があった。」

 「熊本県球磨郡球磨村神瀬松野」発祥説は「倭王(松野連)系図」の傍注(注③)に見える「火国」(肥後国)との関係がうかがわれます。「呉系。京都府京都市に平安時代に松野連の氏姓があった。」も「呉系」という点が系図と一致しています。
 「筑紫前国夜須郡松狭野」に住し、「松野連」姓を名のったという系図の記事とは異なりますが、呉から肥後(火国)に渡り、球磨郡球磨村神瀬松野に土着した一族が「松野」を名のったという可能性もあります。筑後国夜須郡に「松野」地名が現存していないという状況を考えると、「熊本県球磨郡球磨村神瀬松野」発祥説の方が有力と考えるべきかもしれません。
 なお、岐阜県に濃密分布する松野氏については解説がありませんが、先の系図傍注記事にあるように、京都で宮仕えしていた松野氏の分派(松野宅成の子孫の一部)が岐阜県(美濃国)に移転したのではないでしょうか。そうすると、岐阜県の松野家(注④)に「倭王(松野連)系図」が今も伝わっている可能性がありそうです。(つづく)

(注)
①尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)所収の「倭王系図(松野連)」によれば、同系図末尾(同書68頁)から三代目の「久世」という人名の傍注に「応永三十二(1425)正三位(後略)」とある。
②日本姓氏語源辞典 https://name-power.net/
③尾池誠著『埋もれた古代氏族系図』所収「倭王系図(松野連)」(63頁)の「宇也鹿文」の傍注に「火国菊池評山門里」が見え、同「市鹿文」の傍注には「同時賜火国造」とあり、呉王夫差の子孫が火国(肥後)に移り住んだとしている。
④岐阜県瑞穂市出身の有力者に、岐阜県知事や衆議院議員を歴任した松野幸泰氏(1908-2006)がいる。同家は松野連(呉王夫差・倭国王)の末裔ではあるまいか。調査したい。


第2446話 2021/04/30

『九州倭国通信』No.202の紹介

 「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.202が届きました。同号には拙稿「古典の中の『都鳥』考」を掲載していただきました。同稿では、古典(『万葉集』『古今和歌集』『伊勢物語』謡曲「隅田川」)に見える「都鳥(みやこどり)」とは通説のユリカモメではなく、冬になるとシベリアから博多湾岸など北部九州に飛来するミヤコドリ科のミヤコドリであることを論証しました。
 この都鳥は、博多湾岸や北部九州に都があったから、都鳥と呼ばれたのであり、九州王朝(倭国)の都がこの地にあったことの証拠ともいえます。そうでなければ、都鳥などとは呼ばれなかったはずですから。この都鳥は、白と黒の美しい模様とオレンジ色のクチバシが印象的な鳥です。
 『万葉集』では次のように詠われています。
 「船競(ふなぎほ)ふ 堀江の川の水際(みなぎわ)に 来(き)居(い)つつ鳴くは 都鳥かも」『万葉集』巻第二十(4462 大伴宿禰家持の作)


第2445話 2021/04/30

「倭王(松野連)系図」の史料批判(10)

 ―天孫降臨の矛盾と古田先生の慧眼―

 『記・紀』に見える天孫降臨神話は弥生時代(前期末~中期初頭)での史実の反映であり、その天孫族が居した高天原(天国)を日本海に実在した島嶼領域(壱岐・対馬・隠岐・五島列島・他)と古田先生はされました(注①)。すなわち、邪馬壹国や後の九州王朝(倭国)の始原の地を天国領域とされたわけです。他方、「倭王(松野連)系図」には、始祖とする「呉王夫差」以降の子孫が天国領域に居したとする記述はありません。こうしたこともあり、古田学派の実証的な研究者は同系図を後代造作ではないかと疑い、九州王朝(倭国)系図と見ることを躊躇してきました。わたしもその一人でした。
 天孫降臨神話を歴史事実の反映とする古田説に対して、わたしはそのことを支持する反面、矛盾をかかえた仮説ではないかとも考えてきました。というのも、日本列島西北部・他にあった大八洲国(出雲・筑紫・新羅、注②)への〝侵略〟という実質を持つ〝天孫降臨〟ですが、天国(島嶼領域)よりも巨大な耕地面積=生産力(弥生水田)と人口(労働力)を有す筑紫や出雲が天国よりも軍事的に劣っていた理由が不明だったからです。
 もっとも、朝鮮半島から伝わった鉄器(武器)による軍事力がその背景にあったとする見解もあるのですが、それでは日本列島の国々は鉄器に興味がなかったのでしょうか。島嶼の天国は鉄器を入手できたが、お隣の筑紫や出雲の国々は鉄器を入手できなかったとするのでしょうか。わたしはこのような〝解説〟では納得できないのです。
 このような疑問を抱いてきたのですが、その解決の糸口に気づくことができました。それは祖先神信仰に基づく宗教的権威です。たとえば、古代ギリシアにおいてオリンポスの神々の命令(デルフォイの神託)にアテネやスパルタなどの諸国が従ったようにです。同様に天国には筑紫や出雲の諸国が従うだけの宗教的権威があったことは、『記紀』神話を見ても明らかと思われます。そして、この権威の淵源が周王朝へと繋がる始祖伝承(呉の太伯、呉王夫差)だったのではないでしようか。
 本テーマの考察を続けることにより、わたしはこのことにようやく気づくことができました。ところが、天国や倭人の始原について既に指摘されていた人がいました。恩師、古田武彦先生です。『盗まれた神話』で次のように示唆されています。

 〝天つ神たちは、どこから「天国」へ来たか?〟そのような発想は、『記・紀』には存在しないのである。
 この「天国」が実は「海人国」であること、それはこれが一定の海上領域である点からも、容易に想像できるところであろう。さすれば、「天つ神」はすなわち「海人(あま)つ神」となろう。記・紀神話の母なる領域は、「天国」を中心とする対馬海流文明圏だ。では、この海上領域に割拠していた海人族は、はじめからそこにいたのか、それともどこかからやってきたのだろうか?
 このような問いに対する回答、それは思うに本書の用いた方法とは異なる、別の方法にまたねばならぬであろう。たとえば考古学的方法、たとえば人類学的方法、たとえば比較神話学的方法等々だ。また、中国の史書、『魏略』の文面とされる「其の旧語を聞くに、自ら太伯の後と謂う」なども、その見地からかえりみられるべきであろう。(注③)

 「洛中洛外日記」2443話〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(9) ―倭人伝に周王朝の痕跡―〟で、「倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、『太伯』始祖伝承や『呉王夫差』始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。」とわたしは述べたのですが、古田先生は45年も前にこのことを示唆されていたのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。朝日新聞社版189頁。
②同①、412頁。
③同①、438頁。


第2443話 2021/04/28

「倭王(松野連)系図」の史料批判(9)

 ―倭人伝に周王朝の痕跡―

 古代中国の諸史料(注①)に記された倭国の始祖「太伯」伝承は、歴史事実を反映しているのではないかと、わたしは推定しています。その理由について説明します。なお、太伯とは、中国の春秋時代に存在した呉国を起こした、周王朝建国期の人物です。
 この周王朝の官職名「大夫」が、『三国志』倭人伝に散見されることを古田先生が早くから指摘されてきました。『「邪馬台国」はなかった』(注②)で次のように述べています。

 「『大夫』については、倭人伝中に
  古より以来、其の使中国に詣るに、皆自ら大夫と称す。
 とある。魏晋ではすでに『大夫』は県邑の長や土豪の俗称と化していた。(中略)
 ところが、倭国の奉献使は自ら『大夫』を名のった。これは下落俗化した魏晋の用法でなく、『卿・大夫・士』という、夏・殷・周の正しい古制のままの用法であった。」『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社版)376頁

 この指摘は、倭国が古くから周の影響を受けていたことを意味します。その史料根拠の一つとして、『論衡』(注③)に次の有名な記事があります。

 「周の時、天下太平にして、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。(中略)成王の時、越常、雉を献じ、倭人鬯艸を貢す。」『論衡』巻八、巻十九

 成王は周王朝を建国した武王の子供で、二倍年暦を考慮しない通説では紀元前11世紀頃の人物です。その頃から、倭人は中国(周)と交流(鬯草の献上)があったとれさており、周王朝の官職名「大夫」が倭人伝の時代、3世紀でも使用されているのです。
 更に、倭人伝と周王朝との関係を明らかにした、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の一連の優れた研究があります。『俾弥呼と邪馬壹国』(注④)に収録された「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」です。同稿では、倭国の官職名などに用いられた漢字に、周代の青銅器に関係するものがあることを明らかにされました。
 こうした研究により、倭人と周王朝に深い繋がりがあることを疑えず、「太伯」始祖伝承や「呉王夫差」始祖伝承は、何らかの歴史的背景に基づくのではないかと考えるに至ったのです。(つづく)

(注)
①『翰苑』『魏略』『晋書』『梁書』。
 「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』
 「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
 「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
 「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『論衡』の著者は王充で、後漢代の成立。
④古田史学の会編『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年3月。


第2442話 2021/04/26

「倭王(松野連)系図」の史料批判(8)

  — 始祖「太伯」説の史料と論理

 『記紀』神話とは異なり、九州王朝・倭王の始祖を周の太伯やその子孫の呉王夫差とする伝承は、国内史料としては「倭王(松野連)系図」の他に、その一端を示す『新撰姓氏録』があります。また中国史料としては、『翰苑』や『翰苑』に引用された『魏略』があり、正史の『晋書』『梁書』もあります。次の通りです。

○「松野連 出自呉王夫差也」『新撰姓氏録の研究』右京諸藩上
○「男子は身分の上下の別なく、すべて黥面文身している。自ら、呉の太伯の後裔と謂う。」『晋書』倭人伝
○「倭は自ら呉の太伯の後裔と称している。風俗には、皆、文身がある。」『梁書』倭伝
○「文身黥面して、猶太伯の苗と称す。」『翰苑』30巻「倭国」
○「聞其旧語、自謂太伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽。断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也。」『翰苑』30巻「倭国」引用『魏略』

 ここで注目されるのが、中国側史料すべてに倭人の風俗として「文身」(いれずみ)が見えることです。特に『翰苑』に引用された『魏略』の記事は重要です。
 『魏略』は『三国志』と同時期に成立した史書であることから、両書は倭国を訪問した魏使の報告書に基づいて記されたと考えられます。そうすると、『三国志』倭人伝には倭王の始祖伝承は記されず、『魏略』は太伯を始祖とする倭人の伝承を記したということになります。これは両書の編纂方針の差によると考えざるを得ませんが、それが何なのかは未詳です。もしかすると、『三国志』の著者陳寿は、倭人の始祖伝承を信ずるに足らずとして、採用しなかったのかもしれません。
 しかし、『魏略』に採用された倭人の始祖伝承は、史実かどうかは別にしても、当時の倭国がそのように認識しており、そのことを魏使に伝えたということは否定し難いのではないでしょうか。わたしは、この始祖伝承は歴史的背景を持つもので、一定の真実を秘めているのではないかと考えています。(つづく)