藤原京一覧

第3348話 2024/09/18

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (5)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の藤原宮跡の遺構からは、大宝令より前の「官司」「官職」と理解しうる木簡が出土しています。九州王朝律令を復元するうえで貴重な史料です。わたしの知るところを「木簡庫」から転載します。

《藤原宮跡出土の七世紀官司官職名木簡》
○「舎人官」
【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条にみえる。

○「陶官」
【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海(ママ)から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。

○「宮守官」
【木簡番号】466
【本文】・○但鮭者速欲等云□□・以上博士御前白○宮守官
【遺跡名】藤原宮跡西南官衙地区
【遺構番号】SD502
【木簡説明】宮守官が博士に鮭を要求することについて報告した文書。宮守官は他の文献史料にない。官という呼称からみて、大宝令以前の官名か。ただ宮を守るという意味をあらわしていること、南面西門の近くで出土していることから、藤原宮の宮城門を守る官司である可能性が高い。この木簡からみると「宛先の前に申す」という文書形式では「前に申す」という語句が文書の末尾にくる場合があることを示している

○「薗職」
【木簡番号】1
【本文】九月廿六日薗職進大豆卅□〔石ヵ〕
【遺跡名】藤原宮跡北面中門地区
【遺構番号】SK1903
【木簡説明】薗職から大豆を進上してきたことを記した文書。上部は小万で切断した面で、もとの面である。したがって文書としては冒頭から残っていると考えられる。まず、薗職が大豆を進めた年月日を書き、つづけて大豆の数量を書いている。おそらく、木簡の折損している下半分か裏面に、進上した薗職の責任者名があったのではなかろうか。ただし裏面は腐蝕がはなはだしく墨痕は確認できない。薗職は他の文献史料には名前がみえない。関連する官司名としては『令義解』にみえる養老令官制として園池司がある。大宝令制下では、同令施行期間中である天平十七年の正倉院文書(『大日古』二-三九九)に園池司解があるので、大宝令官制でも園池司は存在していたと思われる。この大宝・養老令官制にみられる園池司と薗職との関係については直接的な史料がないので確言はできないが、二つの場合が考えられる。すなわち、第一の場合は薗職は国池司の前身であって大宝令施行以前の浄御原令制下の官制であると考えるものであり、第二の場合は、令外官で園池司とは別に存在したものと考える場合である。このうち、以下に述べるような事情から、第一の場合の可能性が高いものと考えられる。すなわち、薗職と同じ類の官司名として、奈良県教育委員会の調査で出土した藤原宮木簡の中に「←薗官」「薗司」と書かれた木簡が出土していることを考えると、薗職、薗官、薗司という類似した官司名が三つあることになるが、これら三つの官司がそれぞれ別個に存在したと考えるより同一官可を三様に呼称したものと考えた方が自然である。そうであるとすれば大宝・養老令の官制では各官司はその呼称として省寮職司の格付が明確にされていたわけであるから、同一官司名を司とも官とも職ともよぶということはありえない。したがって、薗職、薗司、薗官は同一官司を示し、大宝令以前の官司であって、国池司の前身と見た方がよさそうである。もちろん、薗職、薗官、薗司の三つの官司が別個のものであって、このうちの薗司、薗職等が従来の文献で知られていない大宝令施行後の官名である可能性もある。

○「蔵職」「文職」
【木簡番号】1639
【本文】・〈〉○□□□〔麻呂ヵ〕○大□〔神ヵ〕□志○蔵職\○危□□田○□\○文職○□□\○□・○□□\○□○□□
【遺跡名】藤原宮跡東方官衙北地区
【遺構番号】SD2300
【木簡説明】(前略)「蔵職」「文職」は、ともに大宝令以前の官司であろう。

○「膳職」
【木簡番号】0
【本文】膳職白主菓餅申解解→
【遺跡名】藤原宮北辺地区
【遺構番号】SD105

○「塞職」
【木簡番号】12
【本文】・「/□/□/□∥」符処々塞職等受・○常僧師首○僧\○/常僧/○常∥薬薬首市市\○僧
【遺跡名】藤原宮跡北面中門地区
【遺構番号】SD145
【木簡説明】塞職にあてた符。裏面ならびに表面上部の文字は別筆の習書である。「塞」は『万葉集』にセキと訓んで関にあてた例があり、(『万葉集』二〇三、一〇七七)、『日本書紀』大化二年正月条では「関塞」の二字にセキの古訓があるから(北野本)、関所の司と考えてよかろう。奈良県教育委員会の調査で竜田、大坂の関の存在を示唆する木簡が出土しており、『出雲国風土記』にも国内に多くの剗(関)があったことがみえる。この木簡にみえる塞は大和とその周辺にあった関をさすものか。裏面の習書は表と全く関連がない。

○「外薬」
【木簡番号】1776
【本文】外薬□
【遺跡名】藤原宮跡西面南門地区
【遺構番号】SD1400
【木簡説明】「外薬」は、外薬寮のことか。外薬寮は、天武天皇四年(六七五)正月、大学寮学生、陰陽寮ほかとともに薬および珍異等物を捧げたとみえる令前官司で(『日本書紀』同月丙午朔条)、令制の典薬寮にあたるとみられる。

これらの木簡に見える「○○官」という官司名は九州王朝が制定したものと思われ、次の例が知られています。

○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃)

 飛鳥宮の役所跡と見られている石神遺跡からも、次の「○○官」木簡が出土しています。出土層位は天武期頃と見られています。

《明日香村石神遺跡出土「○○官」木簡》
○「大学官」
【木簡番号】0
【本文】大学官○□
【遺構番号】SD4089

○「勢岐官」
【木簡番号】0
【本文】・□〔道ヵ〕勢岐官前□・代□
【遺構番号】SK4060

○「道官」
【木簡番号】0
【本文】・○道官□・〈〉
【遺構番号】SD4090

 『日本書紀』天武紀にも次の「○○官」名が見え、七世紀の官司名として出土木簡と対応しているようです。

○「法官」「大弁官」 天武七年(678年)十月条
○「宮内官」 天武十一年(682年)三月条
○「法官」 天武十二年(683年)十月条
○「大弁官」 天武朱鳥元年(686年)三月条
○「太政官」「法官」「理官」「兵政官」「刑官」「民官」 天武朱鳥元年(686年)九月条

 藤原宮出土木簡により、『日本書紀』天武紀の検証が実証的に進めることができ、また、王朝交代研究にとって重要な木簡群であることをご理解いただけたものと思います。古田学派で進められきた『日本書紀』の史料批判や解釈論争が、これからは同時代木簡により、エビデンスベースでの検証が可能となりました。当連載で紹介できたのは藤原宮(京)出土木簡のごく一部ですが、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代研究に裨益することができれば幸いです。(おわり)


第3347話 2024/09/16

王朝交代期のエビデンス、

        藤原宮木簡 (4)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の遺構、藤原宮跡北面中門地区の外濠SD145から出土した木簡から、701年に起きた行政官庁・官司の名称変化と行政用語を示すものを紹介します。これらも藤原宮の時代(694~710年)に王朝交代がなされた根拠となる木簡群です。

《藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土木簡》

【木簡番号】0
【本文】←○左大臣□□□

【木簡番号】0
【本文】□〔主〕典大初□〔位〕

【木簡番号】0
【本文】・←□御命受止食国々内憂白・←□止詔大□□〔御命ヵ〕乎諸聞食止詔

【木簡番号】0
【本文】・恐々謹々頓首→・受賜味物→

【木簡番号】8
【本文】・卿等前恐々謹解寵命□・卿尓受給請欲止申
【木簡説明】卿等への上申文書。助調の一部を万葉仮名で、補なう形をとった解。仮名を小字に書かない例は宣命木簡(奈教委『概報』)にもみられる。卿は養老令では八省の長官をいう。ここでは単なる尊称か。(後略)

【木簡番号】11
【本文】・恐々受賜申大夫前筆・暦作一日二赤万呂□
【木簡説明】筆の請求に関する文書。「暦作」云々の文言からすると暦の勘造、頒布に要する筆か。大宝令制では中務省の陰陽寮が造磨、頒暦に当っている(『令集解』職員令陰陽寮条古記)。(後略)

【木簡番号】13
【本文】・内掃部司解□→・倭国○葛下郡→
【国郡郷里】大和国葛下郡
【木簡説明】内掃部司は宮内省の被管で供御の畳、席、薦等の事を分掌する官司。伴部として掃部をもつ。令制では掃部は大蔵省掃部司と宮内省内掃部司にある。掃部の伴造の系譜をひく掃部連の出身者が内掃部司の令史に任じられている例が、天平一七年四月付の正倉院文書にある(『大日古』二-四〇八頁)。この木簡の文意は不明であるが、葛下郡との関係は、同郡内に掃部氏の氏寺で義淵の建立と伝える掃守寺跡があることが注意される。

【木簡番号】17
【本文】中務省/管内蔵三人∥
【木簡説明】「管」は官司を管理するの意で、養老職員令にも「中務省/管職一寮六司三∥」などとある(『令集解』)。ただこの場合の「内蔵三人」は内蔵寮の官人のことか。大宝・養老令制では内蔵寮は中務省に所属している。

【木簡番号】18
【本文】中務省使部
【木簡説明】養老令制では中務省には使部七〇人が配属されている(『令集解』)。(後略)

【木簡番号】30
【本文】・大初位下上県白→・○□
【木簡説明】上縣という氏は他の文献史料にない。あるいは上が民(ママ、氏ヵ)で縣は名か。(後略)

【木簡番号】72
【本文】・□〔而ヵ〕薬司□〔侍ヵ〕/□□□□/○□∥・□□部□/○/□∥
【木簡説明】薬に関する官司は大宝令制では後宮十二司の薬司、典薬寮、内薬司などがある。この木簡の示す薬司は後宮十二司のそれをそのまま示すものか、あるいは典薬寮の大宝以前の前身である外薬寮(『日本書紀』天武四年正月朔条)や内薬司の前身である内薬官(『続日本紀』文武三年正月癸未条)の別称であるのかはつまびらかにしない。

遺構SD145から出土した上記木簡で注目されるのが、木簡17・18にある「中務省」(注①)という大宝令で創設された官庁名です。木簡13の「内掃部司」も中務省管轄の官司であり、木簡11の「暦作」を担当した部署も「大宝令制では中務省の陰陽寮が造磨(ママ、暦)、頒暦に当っている(注②)」とあることから、SD145の近辺に中務省があったのではないでしょうか。藤原宮(京)が律令制の王都王宮として機能していたことは、木簡0・30に見える律令制官位「大初□」「大初位下」からもうかがえます。(つづく)

(注)
①中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつで、天皇の補佐や詔勅の宣下、叙位など朝廷に関する職務全般を担ったことから、八省の中でも最重要の省とされた。
②『養老律令』巻十 雑令に次の条文がある。
「凡よそ陰陽寮は、年毎に預(あらかじ)め来年の暦造れ。十一月一日に、中務に申し送れ。中務奏聞せよ。内外の諸司に、各(おのおの)一本給へ。並に年の前に所在に至らしめよ。」(日本思想大系『律令』岩波書店)による。


第3346話 2024/09/15

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (3)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の遺構として、藤原宮跡北面中門地区の外濠SD145があります。同遺構から出土した約500点の木簡から、王朝交代前後での変化を示す木簡を「木簡庫」より抽出して紹介します。

 最初に紹介するのは、古代史研究での郡評論争として著名な、701年に起きた「評」から「郡」への行政単位名の変化を示すSD145出土木簡です。すなわち、藤原宮の時代(694~710年)に王朝交代(評制から郡制へ)がなされた根拠となる木簡群です。

◆藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土「評」木簡◆

【木簡番号】0
【本文】己亥年十月上捄国阿波評松里
【国郡郷里】安房国安房郡〈上捄国阿波評松里〉
【和暦】(己亥年)文武3年 【西暦】699年

【木簡番号】0
【本文】上毛野国車評桃井里大贄鮎
【国郡郷里】上野国群馬郡桃井郷〈上毛野国車評桃井里〉

【木簡番号】0
【本文】下毛野国芳宜評□
【国郡郷里】下野国芳賀郡〈下毛野国芳宜評〉

【木簡番号】0
【本文】・←河評柏原里・□三烈一□〔節ヵ〕
【国郡郷里】駿河国駿河郡柏原郷〈駿河国駿河評柏原里〉

【木簡番号】0
【本文】三川国波豆評□〔篠ヵ〕嶋里大□〔贄ヵ〕一斗五升
【国郡郷里】参河国幡豆郡〈三川国波豆評篠嶋里〉

【木簡番号】0
【本文】山田評之太々里○□□□□〔邑内塩入ヵ〕
【国郡郷里】尾張国山田郡志談郷〈尾張国山田評太々里〉

【木簡番号】0
【本文】尾張国〈〉評〈〉
【国郡郷里】尾張国

【木簡番号】0
【本文】・飯□〔穂ヵ〕評若倭部柏・五戸乎加ツ
【国郡郷里】播磨国揖保郡〈播磨国飯穂評〉

【木簡番号】0
【本文】与射評大贄→
【国郡郷里】丹後国与謝郡〈丹波国与謝郡〉

【木簡番号】0
【本文】□□〔神門ヵ〕評阿尼里知奴大贄
【国郡郷里】出雲国神門郡〈神門評阿尼里〉

【木簡番号】0
【本文】海評/海里/○〓廿斤∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡海部郷〈隠岐国海評海里〉・尾張国海部郡海部郷〈尾張国海評海里〉

【木簡番号】0
【本文】海評三家里/日下部日佐良□/軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評三家里〉・尾張国海部郡三宅郷〈尾張国海評三家里〉

【木簡番号】0
【本文】次評/上部里/→∥
【国郡郷里】隠岐国周吉郡〈隠岐国次評上部里〉

【木簡番号】0
【本文】・吉備中国下道評二万部里・多比大贄
【国郡郷里】備中国下道郡迩磨郷〈吉備中国下道評二万部里〉

【木簡番号】0
【本文】←国後木評
【国郡郷里】備中国後月郡〈←国後木評〉

【木簡番号】0
【本文】加夜評□□〔守里ヵ〕□部
【国郡郷里】備中国賀夜郡〈備中国加夜評守里〉

【木簡番号】0
【本文】熊毛評大贄伊委之煮
【国郡郷里】周防国熊毛郡〈熊毛評〉・(大隅国熊毛郷〈熊毛評〉)

【木簡番号】82
【本文】吉備道中国浅口評神部
【国郡郷里】備中国浅口郡〈吉備道中国浅口評神部〉
【木簡説明】浅口評は浅口郡か。『倭名鈔』では浅口郡は備中国にある。ただし神戸郷は同郡にはない。形態が不明で文書か荷札か判断しがたい。

【木簡番号】145
【本文】三方評竹田部里人○/粟田戸世万呂/塩二斗∥
【国郡郷里】若狭国三方郡竹田郷〈若狭国三方評竹田部里〉
【木簡説明】三方評竹田部里は『倭名鈔』には該当する郷名はない。ただし、平城宮出土木簡には竹田部里にあたる竹田郷丸部里(『平城宮木簡一』三三二)、竹田里(『平城宮木簡二』二六六五)がある。

【木簡番号】146
【本文】庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥
【国郡郷里】若狭国大飯郡木津郷〈若佐国小丹生評木ツ里〉
【和暦】(庚子年)文武4年 【西暦】700年
【木簡説明】庚子の年は文武四年(七〇〇年)。小丹生評木ツ里は『倭名鈔』では大飯郡木津郷にあたる。大飯郡は天長二年に遠敷郡より分置された(『日本書紀』天長二年七月辛亥条)。津をツと表記するのは国語史上注目される。用例としては大宝二年美濃国戸籍や藤原宮出土の墨書土器「宇尼女ツ伎」(奈教委『藤原宮』)にもみえる。

【木簡番号】150
【本文】←治国春部評春→
【国郡郷里】尾張国春部郡〈←治国春部評春→〉
【木簡説明】春部評は尾張国春部郡と思われるが、『倭名鈔』では同郡に「春□郷」はみえない。

【木簡番号】157
【本文】出雲評支豆支里大贄煮魚/須々支/→∥
【国郡郷里】出雲国出雲郡杵筑郷〈出雲評支豆支里〉
【木簡説明】出雲評支豆支里は『倭名鈔』の出雲郡杵筑郷にあたる。『風土記』にも出雲郡杵築(寸付)郷や支豆支社の名がみえる。『延喜式』では出雲国は贄の貫(ママ、貢ヵ)進国にはいっていない。

【木簡番号】159
【本文】・○伊余国久米評□・「天山里人○宮末呂」
【国郡郷里】伊与国久米郡天山郷/伊予国久米郡天山郷〈伊余国久米評天山里〉
【木簡説明】久米評天山里は、『倭名鈔』には久米郡天山郷とみえる。裏は別筆、表にも里名記載の墨痕がある。

【木簡番号】163
【本文】海評/中□〔田ヵ〕里/支止軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評中田里〉・尾張国海部郡〈尾張国海評中田里〉・紀伊国海部郡〈紀伊国海評中田里〉・豊後国海部郡〈豊後国海評中田里〉

【木簡番号】164
【本文】海評/海里人/小宮軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡海部郷〈隠岐国海評海里〉・尾張国海部郡海部郷〈尾張国海評海里〉
【木簡説明】海評海里は『倭名鈔』では隠岐国海郡と尾張国にある。同評同里の木簡は、奈良県教育委員会調査の藤原宮出土木簡(奈教委『藤原宮』)にみえる。軍布の訓はメ、海藻をいう。

【木簡番号】165
【本文】宇和評小物代贄
【国郡郷里】伊与国宇和郡/伊予国宇和郡〈宇和評〉
【木簡説明】宇和評は伊予国宇和郡。

【木簡番号】168
【本文】大荒城評胡麻□
【国郡郷里】上野国邑楽郡〈上野国大荒城評〉
【木簡説明】大荒城評は上野国邑楽郡かあるいは飛騨国荒城郡か。胡麻は『延喜典薬式』では上野国年料雑薬にみえる。

【木簡番号】170
【本文】神前評□山里
【国郡郷里】播磨国神埼郡蔭山郷〈播磨国神前評□山里〉・近江国神埼郡〈近江国神前評□山里〉・肥前国神埼郡〈肥前国神前評□山里〉
【木簡説明】神前評は神前郡で、近江国・播磨国・肥前国にみえる。

【木簡番号】171
【本文】海評三家里人/日下部赤□/軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評三家里〉・尾張国海部郡三宅郷〈尾張国海評三家里〉
【木簡説明】海評三家里は『倭名鈔』では尾張国にある。

【木簡番号】172
【本文】次評/新野里/○軍布∥
【国郡郷里】隠岐国周吉郡新野郷〈隠岐国次評新野里〉
【木簡説明】次評新野里は『倭名鈔』の隠岐国周吉郡新野郷にあたる。

【木簡番号】176
【本文】・上毛野国車評・○□□□
【国郡郷里】上野国群馬郡〈上毛野国車評〉
【木簡説明】上毛野国車評は上野国群馬郡にあたる。車評は奈教委調査の藤原宮出土木簡(奈教委『藤原宮』)にもある。

【木簡番号】179
【本文】与射評大贄伊和→
【国郡郷里】丹後国与謝郡〈丹波国与謝郡〈与射評〉〉
【木簡説明】与射評は丹波国(後、丹後国)与謝郡。「伊和→」は伊和志か。『延喜式』では丹後国は交易雑物として小鰯腊一二籠を出すことになっている。

【木簡番号】186
【本文】・大伯評□〈〉三斗・〈〉
【国郡郷里】備前国邑久郡〈大伯評〉
【木簡説明】大伯評はのちの備前田邑久郡にあたる。

【木簡番号】192
【本文】熊野評大贄塩塗近代百廿隻
【国郡郷里】丹後国熊野郡〈熊野評〉

【木簡番号】194
【本文】・□〔志ヵ〕加麻評□・柏
【国郡郷里】播磨国飾磨郡〈播磨国志加麻評〉
【木簡説明】志加麻評は『倭名鈔』では播磨国餝磨郡にあたる。柏は『延喜民部式』では年料別貢雑物として播磨国が貢進することになっている。

【木簡番号】211
【本文】←□〔河ヵ〕評柏原里玉作部下□
【国郡郷里】駿河国駿河郡柏原郷〈駿河国駿河評柏原里〉
【木簡説明】柏原里は、『和名鈔』の駿河国駿河郡柏原郷にあたる。同里の荷札は、奈教委『藤原宮』(一〇一頁)にもみえる。

◆藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土「郡」木簡》◆

【木簡番号】0
【本文】知夫利郡由良里軍□〔布〕→
【国郡郷里】隠岐国知夫郡由良郷〈隠岐国知夫利郡由良里〉

【木簡番号】151
【本文】・尾治国知多郡→・大寶二年
【国郡郷里】尾治国知多郡
【和暦】大宝2年 【西暦】702年

【木簡番号】154
【本文】綾郡→
【国郡郷里】讃岐国阿野郡
【木簡説明】讃岐国綾郡の貢進荷札の断簡。平城宮第二次内裏西外郭より出土した和銅頃と推定される木簡とよく似た書風である(『年報一九七五』)。

【木簡番号】156
【本文】出雲国嶋根郡副良里伊加大贄廿斤
【国郡郷里】出雲国嶋根郡副良里
【木簡説明】嶋根郡副良里は『倭名鈔』に該当する郷名が見えないが、同郡内には現在の地名に福浦が残されている。烏賊は『延喜式』では出雲国の調の品目のなかに、烏賊廿斤としてみえる。『養老賦役令』調絹絁条では烏賊卅斤を正丁一人が貢納することになっている。

【木簡番号】169
【本文】□〔神ヵ〕郡前里鮎十八斤

【木簡番号】178
【本文】・安芸国佐伯郡雑腊二斗・【「〈〉□□□」】
【国郡郷里】安芸国佐伯郡
【木簡説明】裏面は倒書で別筆の楽書である。

【木簡番号】177
【本文】伊豆国仲郡
【国郡郷里】伊豆国那賀郡
【木簡説明】仲郡は、『倭名鈔』の那賀郡にあたる。

以上のように、各地からの荷札木簡に記された「評」「郡」木簡の同一遺構SD145からの出土という事実は、この藤原宮が王朝交代の舞台であったことを示しています。なぜならその当時、律令制(中央官僚約八千人)による全国統治が可能な規模を持つ大都市(条坊都市)と宮殿・官衙遺跡は日本列島内でここだけだからです(注)。(つづく)

(注)九州王朝の複都難波宮(京)は686年に焼失している。大宰府政庁Ⅱ期は規模が小さく、全国統治が可能な宮殿・官衙遺構とはできない。


第3345話 2024/09/13

王朝交代期のエビデンス、

        藤原宮木簡 (2)

 『日本書紀』によれば持統八年(694年)に藤原遷都し、古田説では701年に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代します。その痕跡が藤原宮跡北面中門地区出土木簡に見えます。その代表的な遺構にSD145があります。出土点数が500点を超えますのでテーマ毎に分けて説明します(「木簡庫」に登録されているものは300件)。最初に紀年銘木簡を紹介します。今回は年次順に並べました。

《藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土木簡》

【木簡番号】166
【本文】・辛卯年十月尾治国知多評・入見里神部身〓三斗
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】尾張国智多郡〈尾治国知多評入見里〉
【和暦】(辛卯年)持統5年 【西暦】691年
【木簡説明】辛卯の年は持統五年(六九一年)にあたる。知多評入家(ママ、見ヵ)里は『倭名鈔』には該当する郷名はない。

【木簡番号】162
【本文】・甲午年九月十二日知田評・阿具比里五□〔木ヵ〕部皮嶋□養米六斗
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】尾張国智多郡英比郷〈尾張国知田評阿具比里〉
【和暦】(甲午年)持統8年 【西暦】694年
【木簡説明】甲午の年は持統八年(六九四年)。養米は、衛士、仕丁などに支給される国養物と関連をもつものか。関連史料はなく不詳。阿具比里は『倭名鈔』の尾張国智多郡英比郷か。

【木簡番号】0
【本文】乙未年木□〔津ヵ〕里/秦人倭∥
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】若狭国大飯郡木津郷〈若狭国遠敷郡木津里・若佐国小丹生評木津里〉・近江国高島郡木津郷〈近江国高島郡木津里〉・丹後国竹野郡木津郷〈丹後国竹野郡木津里〉
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年

【木簡番号】39
【本文】・乙未年八月十一日○舎人□□□〔秦内麻ヵ〕□・〈〉□□
【遺構番号】SD145
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年
【木簡説明】乙来(ママ、未)年は持統九年(六九五年)。大宝令以前の舎人については、『日本書紀』に左右舎人(天武一三年正月丙午条)、左右大舎人(朱鳥元年九月甲子条)、大舎人(持統五年二月朔条)が見える。また奈良県教育委員会の調査でも「左大舎人寮」と書かれた木簡が出土している(奈教委『藤原宮』七六)。

【木簡番号】175
【本文】乙未年御調寸松
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】参河国渥美郡〈参河国渥美郡寸松里/参河国渥美郡村松山〉
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年
【木簡説明】乙未の年は持統九年(六九五年)にあたる。寸松里は木簡一七三参照。

【木簡番号】184
【本文】□年分乙未年六月但→
【遺構番号】SD145
【国郡郷里】但馬国・尾張国知多郡但馬郷)
【和暦】(乙未年)持統9年 【西暦】695年
【木簡説明】(前略)某年の未進分を「乙未年」に京(ママ、貢ヵ)進したときの荷札か。「乙未年」は持統天皇9年(695)。「但」以下は欠損により不詳であるが、但馬国、もしくは尾張国智多郡但馬郷が候補となる。郷名からはじまる荷札も知られるが、尾張国荷札について郷名のみが記された事例はほとんどみられないことから、但馬国の可能性が高いと判断した。藤原宮跡北面中門地区(藤原宮第18次調査)SD145出土。(以上、但馬集成より)。乙未の年は持統九年(六九五年)にあたる。乙未の年、某年分の貫(ママ、貢ヵ)進を行ったことを示しているから、この某年は乙未の年より前のものと考えられる。

【木簡番号】155
【本文】丙申年七月旦波国加佐評□〔椋ヵ〕→
【遺構番号】SD145


第3344話 2024/09/11

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (1)

 「洛中洛外日記」3336~3341話(2024/08/29~09/05)〝同時代エビデンスとしての「天皇」木簡 (1)~(6)〟で紹介した飛鳥宮遺跡の木簡は、王朝交代前の七世紀第4四半期のものが中心でした。その続編として、王朝交代期(701年前後)の藤原宮木簡を紹介します。飛鳥宮遺跡よりも出土数が多いので、重要な遺構を中心に見ていくことにします。

 『日本書紀』によれば、持統八年(694年)に藤原遷都がなされていますが、藤原宮造営がいつ頃から始まったのかについてのエビデンスとして注目された干支木簡が遺構SD1901Aから出土しています。同遺構は藤原宮大極殿のすぐ北方の宮内下層から発見された大溝(運河)で、次のように説明されています。

〝大溝は幅約七メートル、深さ二メートルを越える大規模なもので、平らな底に、両岸が垂直に近い形になる人口の溝である。(中略)大溝は役割を終えてのち一気に、しかも入念、堅固に埋められており、その後に大極殿院施設の建設が行われている。〟木下正史『藤原京』58~59頁、中公新書、2003年。

 この大溝下層の粗砂層からは約130点の木簡が出土しており、その中に、「壬午年」(天武十一年・682年)「癸未年」(天武十二年・683年)「甲申年」(天武十三年・684年)の干支木簡が出土し、藤原京・宮の造営時期を判断する上でのエビデンスとして重視されました。奈良文化財研究所HPの「木簡庫」より、大溝(遺構番号SD1901A)から出土した重要な木簡を紹介します。

《藤原宮大極殿北方の下層大溝SD1901A出土木簡》
【木簡番号】522
【本文】・甲申年七月三日○□〔部ヵ〕□□\□○□・○日仕○甘於連
【遺構番号】SD1901A
【和暦】(甲申年)天武13年 【西暦】684年
【木簡説明】(前略)甲申年は天武一三年(六八四)。日仕とはその日勤務したことを示すものか。ここでは甘於連が出勤執務したことを意味する。但し律令等に日仕の用語はみえない。甘於連は『続日本紀』天平神謹二年四月丁未条にみえる甘尾氏のことか。

【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海(ママ)から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある(総説参照)。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。

【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条に見える。

【木簡番号】528
【本文】□〔豊ヵ〕□評大伴部大忌寸廿六以白
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】摂津国豊嶋郡〈豊□評〉・遠江国豊田郡〈豊□評〉・武蔵国豊嶋郡〈豊□評〉・安芸国豊田郡〈豊□評〉・長門国豊浦郡〈豊□評〉
【木簡説明】(前略)評名と人名とが記されている。豊ではじまる郡は摂津国豊嶋郡、武蔵国豊嶋郡、安芸国豊一田郡、長門国豊浦郡、遠江国豊田郡があるが、この木簡にみえる評名との関係は確められない。末尾に「以白」と記しているところからみて文書の断片であろう。廿六は年齢か。

【木簡番号】531
【本文】□進~大~肆□□→
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】進大肆は天武十四年(六八五)制定の位階で、最下位から二番目の位。上から墨繰で沫消している。

【木簡番号】544
【本文】癸未年十一月/三野大野評阿漏里/□〔阿ヵ〕漏人□□白米五斗∥
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】美濃国大野郡上杖郷〈三野大野評阿漏里〉・美濃国大野郡下杖郷〈三野大野評阿漏里〉
【和暦】(癸未年)天武12年 【西暦】683年
【木簡説明】(前略)癸未年は天武一二年(六八三)にあたり、今のところ里の表記をもっている最も古い史料である。阿漏里については、正倉院文書中に美濃国大野郡上荒郷に本貫をもつ阿漏人大嶋、阿漏君国麻呂の記載があって(『大日本古文書』二五-一四三・一四四)、ここからみると上、下に分かれる前の荒郷の前身が阿漏里ではないかと考えられる。『倭名鈔』には美濃国大野郡の項に上杖、下杖郷がみえる。

【木簡番号】545
【本文】・壬午年十月〈〉毛野・□〔芳ヵ〕□□〔評ヵ〕
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】下野国芳賀郡〈□毛野芳□評〉
【和暦】(壬午年)天武11年 【西暦】682年
【木簡説明】(前略)壬午年は天武一一年(六八二)でSD1901A溝から出土した木簡の最古の紀年をもっている。

【木簡番号】546
【本文】旦波国竹野評鳥取里大贄布奈
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】丹後国竹野郡鳥取郷〈旦波国竹野評鳥取里〉
【木簡説明】贄についての貢進物の荷札。旦浪(ママ、波の誤り)国竹野評鳥取里は『和名鈔』では、丹後国竹野郡鳥取郷にあたる。丹後国の分離は和銅六年(七一三)。『延喜式』にみえる丹後国からの貢進物に布奈はみえない。

【木簡番号】547
【本文】海評佐々里/阿田矢/軍布∥
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】隠岐国海部郡佐作郷〈隠岐国海評佐々里〉
【木簡説明】海評佐々里は『倭名鈔』の隠岐国海部郡佐作郷にあたる。軍布の訓はメで海藻である。阿国矢は人名で、氏は欠いている(東野治之「藤原宮木簡における無姓者」『続日本紀研究』第一九九号参照)。

【木簡番号】548
【本文】・宍粟評山守里・山部赤皮□□
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】播磨国宍粟郡安志郷〈播磨国宍粟評山守里〉
【木簡説明】(前略)宍粟評は『倭名鈔』の播磨国宍栗郡にあたる。

【木簡番号】552
【本文】鴨評□
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】参河国賀茂郡〈鴨評〉・(伊豆国賀茂郡〈鴨評〉・美濃国賀茂郡〈鴨評〉・佐渡国賀茂郡〈鴨評〉・播磨国賀茂郡〈鴨評〉・安芸国賀茂郡〈鴨評〉
【木簡説明】(前略)鴨評は『倭名鈔』にみえる参河国賀茂郡、伊豆国賀茂郡、美濃国加茂郡、佐渡国賀茂郡、安芸国賀茂郡のいずれかに相当するか。

 これらの木簡から判断できる同遺構SD1901Aの年代観は天武期末頃とできます。干支木簡の他に天武十四年から大宝律令で新位階制が採用されるまで使用された「進大肆」(木簡番号531)、700年まで採用された行政単位「評」もその年代観と対応しています。また、飛鳥浄御原令以前の官司名とみられる「陶官」(木簡番号523)「舎人官」(木簡番号524)もこの年代観を支持しています。こうした木簡は当地近辺に官衙があったことを示唆しています(注)。
他方、出土土器編年については次のように説明されています。

〝木簡と一緒に多量に出土した土器群も、藤原宮の外濠や内濠、東大溝、官衙の井戸などから出土する藤原宮使用の土器群よりも、はっきりと古い特徴が窺われる。〟木下正史『藤原京』60~61頁、中公新書、2003年。

 以上の年代観などから、天武期末頃に大溝が掘削され、藤原宮造営のための資材運搬用の運河として使用されたとする通説が成立しました。この大溝は既にあった条坊道路を取り壊して造営されていますから、藤原京条坊は天武期末頃よりも早い段階で造営されていたことになります。その造営範囲と時期は今後の発掘調査で明らかになることと思います。
これらの出土事実から、既にあった条坊を取り壊して、運河用大溝を造り、使用後は埋め立てて、そこに藤原宮大極殿が造営されたことがわかりました。なぜこのような計画性のない王都王宮の造営がなされたのかについて、学界でも古田学派でも諸仮説が提起されており、注目されます。いずれにしましても、出土木簡というエビデンスとの整合性が重要であることは言うまでもありません。なお、木簡に記された地名(美濃国・下野国・旦波国・隠岐国・播磨国)から、天武期当時の勢力範囲がうかがえます。(つづく)

(注)七世紀(九州王朝時代)の官職名
○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃)

○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡


第3331話 2024/08/05

藤原京から出土した日向久湯評木簡

 先月、多元的古代研究会のリモート古代史研究会で「九州王朝研究のエビデンス (3)木簡」を発表しました。思っていたよりも好評でした。そのエビデンスを更に拡充した内容で、今週末の「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)でも発表します。その為、奈良国立文化財研究所のデータベース「木簡庫」の精査をくり返し、九州王朝研究にとって重要な木簡をピックアップしていたところ、藤原京左京七条一坊西南坪から「日向久湯評」木簡(文書木簡)が出土していたことに気づきました。

 市大樹さんの名著『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)に収録された「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」によれば、飛鳥宮や藤原京から出土した7世紀(評制下)の荷札木簡には、九州諸国からのものは出土せず、この現象を九州王朝説でどのように解釈するのか注目されていますが、文書木簡としては「日向久湯評」木簡が恐らく一枚だけ出土していることを重視しています。この出土はたまたま偶然のことなのか、それとも日向国と藤原京(近畿天皇家)との深い関係があったことを示すものなのか、よく考えてみたいと思います。
同木簡の表裏の文字は次のように判読されています。

【藤原京左京七条一坊西南坪出土】
《表》○日向久湯評人□\○漆部佐俾支治奉牛卅\○又別平群部美支□
《裏》故是以○皆者亡賜而○偲

 木簡庫の解説では、表裏は同筆と見てよいとしていますが、その目的や背景がよくわかりません。とりわけ、裏面の意味するところが不明です。木簡庫の訓読によれば「故ニ是ヲ以テ皆ハ亡クナリ賜ハリテ偲ビ…」とのことで、ただならぬ様子が窺えます。

【奈文研木簡庫の解説】
本木簡はSX五〇一南岸よりもやや南方で出土したが、土層の類似から便宜上SX五〇一出土木簡に含めた。上端・左右両辺削り。下端は表側から刃を入れて二次的に切断する。また、下端より約五〇㎜の位置には、表側に向かってへし折ろうとした痕跡が認められる。下端の切断と同様、やや左下がりとなっており、一連の措置の可能性が高い。表側は上端より約四〇㎜あけて文字を記すのに対して、裏側は上端からただちに文字を記す。表裏は同筆とみてよいが、内容的に関連するかどうかは不明。

 このほかにも、釈文には掲げなかったが、表側上部の余白には不明瞭ながら墨痕のような陰が認められ、削り残りの可能性もある。一行目の「日向久湯評」は『和名抄』日向国児湯郡に相当する。「久(く)」と「児(こ)」の通用は珍しくない。「人」字以下は下端の二次的切断にともなって剥離する。二行目の「佐俾支」は「サヒキ」と訓読できる。佐伯のことを「佐匹」(『評制下荷札木簡集成」二六・二三七号)や、「佐俾岐」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)と表記した事例もあり、佐伯は「サヒキ」に近い音であったことがわかる。「治奉」は貢進の意で使用したものであろうか。「牛」は牛皮であろう。日向国は牛・馬の官牧が多く存在したことで著名。『日本書紀』持統三年(六八九)正月壬戌条には、筑紫大宰は隼人一七四人・布五〇常・鹿皮五〇枚とともに牛皮六枚を献上したとあり、平城宮東院の東南隅部では日向国から牛皮四枚を貢進した際の荷札木簡二点が出土している(『平城木簡概報六』六頁下)。牛皮三〇枚が宮城四隅疫神祭で幣帛として利用された可能性を含めて、検討を要する。三行目の「平群了」は、児湯郡に平群郷が存在することと関係しよう。一方、裏側は右端に一行分の記載しかなく、表側と異なって上端部から文字が記されている。「故ニ是ヲ以テ皆ハ亡クナリ賜ハリテ偲ビ…」と訓読するか。


第3293話 2024/05/29

『東京古田会ニュース』216号の紹介

『東京古田会ニュース』216号が届きました。拙稿「古代都市成立の指標 ―都城論争の収斂を求めて―」を掲載していただきました。同稿では、昨年11月の八王子セミナーで発表した律令制都城の〝絶対条件〟として次の5点を示し、少なくともこれら全てを満たす七世紀の都城は難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)だけと結論づけました(注①)。

【律令制王都の絶対5条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

さらに「古代都市」の指標(必要条件)として提唱された〝G・V・チャイルドの古代都市成立の十基準〟(注②)などを紹介しました。そして、日本古代史が空理空論でなければ、研究者が合意できる「律令制都市存立の必要条件」と、誰もが知りうる「考古学的出土事実」にのみ基づいて、九州王朝都城を探るべきと主張しました。
『東京古田会ニュース』216号掲載記事で注目したのが、つぎの遺跡巡り旅行記でした。

○大宮姫伝承を訪ねて 東久留米市 村田智加子
○和田家文書をみちづれに「和田家文書と国東半島」の旅行に参加して 白井市 讃井優子

当地の状況が目に浮かぶような旅行記です。なかでも村田さんが紹介された鹿児島県の大宮姫伝承の報告は懐かしく拝読しました。わたしは学生時代に指宿市や枕崎市を旅行した経験もあり、初めて書いた長文の論文が「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」(注③)だったこともあり、とても印象深い旅行記でした。
会員の皆さんからの『古田史学会報』への遺跡巡り報告の投稿をお待ちしています。

(注)
①同セミナーでのわたしの演題と論旨は次の通り。
《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―
《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。
②Vere Gordon Childe (1950),The Urban Revolution. The Town Planning Review 21.
③古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。


第3245話 2024/03/08

藤原宮(京)造営尺の再検討 (2)

 大阪歴博の李陽浩(リ・ヤンホ)さんの論文「第1節 前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」(注①)によれば、藤原宮朝堂院の中軸線の振れはN0゜38’31″E、造営尺の値は1尺=0.291~0.2925mとのことで、その出典は「奈良文化財研究所2004」とありましたので、『奈良文化財研究所紀要 2004』(注②)を精読しました。同紀要に収録された「朝堂院東南隅・朝集殿院 東北隅の調査 ―第128次」に、箱崎和久氏による報告がありましたので、要点を抜粋します。

「朝堂院東南隅・朝集殿院
東北隅の調査 ―第128次
(中略)
これまでの朝堂院の調査成果をふまえて朝堂院全体の配置計画を考えてみたい。朝堂院の振れには、本調査で得たN0°38′31″Wを用いる。(中略)
朝堂院北面回廊棟通り(表14-B)から第一堂北妻(表14-C)までの距離は29.2mで、第107次調査では、これを100尺と解釈した(『紀要2001』)。このとき、単位尺は1尺=0.292mとなる。第二堂北妻(表14-D)は、朝堂院北面回廊棟通り(表14-B)から84.6mだが、1尺=0.292mを援用すると289.8尺が得られる。これは290尺に相当しよう。これらは大尺を用いると完好な数値を得られない。(中略)朝堂院の全長は1102尺となる。これを1100尺とみて、南北長321.3mから単位尺を求めると、1尺=0.2921mが得られる。
これは朝堂院の南北長を900大尺(1080尺)と想定した場合よりも、朝集殿院の単位尺1尺=0.2925mに近い。
このように建物配置に関係する北面回廊棟通りからの第一堂北妻、第二堂の北妻の距離、朝堂院の南北規模といった地割りは、大尺では完好な数値を得られず、むしろ単位尺を1尺=0.2910~0.2925とする尺(令小尺)の方が合理的に説明できる。(中略)
以上のように、現段階の発掘データでは、朝堂院の規模と朝堂の配置は、尺(令小尺)の方が完好な計画値を得られる。」

 この報告の結論部分「単位尺を1尺=0.2910~0.2925とする尺(令小尺)の方が合理的に説明できる」を李さんは紹介されたのですが、この数値から判断して、藤原宮造営尺が前期難波宮造営尺(1尺=29.2㎝)と同じである可能性が高いと思われました。そうであれば次のことが想定できます。

(1) 前期難波宮整地層からの主要出土須恵器は坏GとHであり、藤原京整地層からの主要出土須恵器は坏Bであることから、両者の造営時期が『日本書紀』の記事(前期難波宮創建652年。藤原宮遷都694年)と整合している。従って、両宮殿の造営時期には約40~50年の隔たりがあるが、同じ造営尺が採用されている。両条坊造営尺(1尺=29.5㎝)も同様。

(2) 他方、670年頃と考えている大宰府政庁Ⅱ期の造営では、1尺=29.4㎝と30㎝(条坊造営尺)の併用が判明しており(注③)、前期難波宮・藤原宮造営尺と異なっている。

 今までは、前期難波宮(652年創建、29.2㎝)→大宰府政庁Ⅱ期(670年頃、29.4㎝)→藤原宮(694年遷都、29.5㎝)と、1尺が時代とともに長くなるという一般的傾向に対応していると考えてきましたが、それほど単純ではないようです。この現象をどのように説明できるのか、新たな課題に直面しました。〝学問は自説が時代遅れになることを望む領域〟というマックス・ウェーバーの言葉(注④)を実感しています。

(注)
①『難波宮址の研究 第十三』大阪市文化財協会、2005年。
②『奈良文化財研究所紀要 2004』奈良文化財研究所、2004年。
③古賀達也「九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―」『古田史学会報』174号、2023年。
同「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
④マックス・ウェーバー(1864-1920)『職業としての学問』(岩波文庫)1917年にミュンヘンで行われた講演録。
古賀達也「洛中洛外日記」2876話(2022/11/14)〝自説が時代遅れになることを望む領域〟


第3244話 2024/03/07

藤原宮(京)造営尺の再検討 (1)

 難波京条坊研究のため、関連報告書の再精査をしていて、わたし自身の認識の見直しを促す重要な指摘に気づきました。大阪歴博の古代建築の専門者、李陽浩(リ・ヤンホ)さんの論文「第1節 前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」(注①)の註に見える次の記事です。

 「(3)藤原宮朝堂院における近年の調査成果では、その中軸線の振れはN0゜38’31″Eとされる。また造営尺の検討では、大尺よりも小尺によるほうがより完好な数値を得ることができ、その値は1尺=0.291~0.2925mとされる[奈良文化財研究所2004:pp.98-99]。この藤原宮の中軸線の振れは、前期の振れN0゜39’56″Eと近似し、1尺=0.291~0.2925mという数値は、周知のように、前期難波宮推定造営尺1尺=0.292mにほぼ等しい。これら数値の関係は、前期難波宮と藤原宮との関係を考えるうえにおいて、極めて重要であると思われる。なお、近年韓国双北里では1尺=0.292mあるいは1尺=0.295mと考えられる定規が出土したことが知られる。[李ガンスン2000]。1尺=0.292mによる基準尺の存在を考えるうえで、注目すべき事例と考えられる。」94~95頁

 李さんに初めてお会いしたのは2012年12月、大阪歴博2階の難波塾でした。以来、前期難波宮や土器編年について何かと教えていただきました(注②)。そうしたこともあって、わたしが尊敬する考古学者のお一人です。その2004年の論文で紹介された藤原宮朝堂院の造営尺が同条坊尺の1尺=29.5㎝ではなく、前期難波宮の造営尺1尺=29.2㎝とほぼ同じという指摘に驚きました。藤原宮からは1尺=29.5㎝の定規が出土しており、木下正史『藤原京』(注③)に、次の説明がなされていることから、藤原宮も条坊も共に1尺=29.5㎝で造営されているものと思い込んでいました。

 「藤原宮からは一寸ごとに印をつけた一尺(復元長二九・五センチ)の木製物差しが出土している。長距離の測定や割り付けには間縄(けんなわ)なども使われたはずである。道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが二九・五センチとほぼ一定しており、きわめて精度の高いものであった。」84頁

 この説明をよく読むと、「道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが二九・五センチとほぼ一定」とあって、藤原宮の宮殿そのものの造営尺については触れていないようです。

 李さんの指摘によれば、藤原宮の造営尺は前期難波宮の造営尺29.2㎝に近く、条坊尺は両者ともに29.5㎝尺であり、中軸線の振り方向もほぼ同じという、これらの一致が何を意味するのか深く考える必要がありそうです。(つづく)

(注)
①『難波宮址の研究 第十三』大阪市文化財協会、2005年。
②古賀達也「洛中洛外日記」510話(2012/12/29)〝歴博学芸員・李陽浩さんとの問答〟
同「洛中洛外日記」511話(2012/12/30)〝難波宮中心軸のずれ〟
同「洛中洛外日記」512話(2012/12/31)〝難波宮の礎石の行方〟
同「洛中洛外日記」第756話(2014/08/01)〝森郁夫著『一瓦一説』を読む(6)〟
同「洛中洛外日記」884話(2015/02/27)〝「玉作五十戸俵」木簡の初歩的考察〟
同「洛中洛外日記」1034話(2015/08/23)〝前期難波宮の方位精度〟
同「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)〝塔心柱による古代寺院編年方法〟
同「洛中洛外日記」1905話(2019/05/23)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(1) 四天王寺創建瓦の編年〟
③木下正史『藤原京』中公新書、2003年。


第3222話 2024/02/10

考古学における先験的な都市の指標 (1)

 昨年11月に開催された八王子セミナー(注①)で、わたしは7世紀における律令制都城の〝絶対条件〟として、次の5点を提示し、少なくともこれら全てを備えた遺構が王都王宮候補となり得ると発表しました(注②)。そして、この5条件全てを満たしている7世紀の都城は、難波京(前期難波宮)と藤原京(藤原宮)だけであると結論づけました。

【律令制王都の絶対条件】
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら計数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

 わたしがこのような方法を採用した理由は、『日本書紀』などの文献解釈を第一義にすると様々な解釈が発生し、研究者各人の恣意性を排除できず、いつまで論争しても真実へと収斂しないことを危惧したためです。従って、研究者が合意できる「律令制都市存立の必要条件」と「考古学的出土事実」にのみ基づいて、九州王朝都城を探るというこの方法を提起したものです。

 実はこの方法には先例があります。近年の考古学論文中によく引用されるようになった、「古代都市」の指標(必要条件)として提唱された〝G・V・チャイルドの古代都市成立の10基準〟(注③)、およびそれを発展させた諸指標です。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」、公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②同セミナーでのわたしの演題と論旨は次の通りである。
《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―
《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。
③G・V・チャイルド(1892~1957年)は都市革命論において、最古級の都市の条件として次の10項目の指標を提示した(Vere Gordon Childe、The Urban Revolution. The Town Planning Review 21、1950)。
(1)大規模集落と人口集住 (2)第一次産業以外の職能者(専業の工人・運送人・商人・役人・神官など) (3)生産余剰の物納 (4)社会余剰の集中する神殿などのモニュメント (5)知的労働に専従する支配階級 (6)文字記録システム (7)暦や算術・幾何学・天文学 (8)芸術的表現 (9)奢侈品や原材料の長距離交易への依存 (10)支配階級に扶養された専業工人。


第3214話 2024/02/01

『東京古田会ニュース』No.214の紹介

 『東京古田会ニュース』214号が届きました。拙稿「藤原宮『長谷田土壇説』の再考察」を掲載していただきました。同稿は、八王子セミナー(注①)での藤原宮(京)研究において注目された〝もうひとつの藤原宮「長谷田土壇」〟について考察したものです。

 藤原宮の所在地については江戸時代から大宮土壇(橿原市高殿)が有力視され、大正時代には喜田貞吉が長谷田土壇説(同市醍醐)を発表しました。その後、大宮土壇から大型宮殿遺構が出土したことで論争は決着しましたが、わたしは喜田の指摘した論理性は今でも有力とする見解を「洛中洛外日記」(注②)で表明しました。喜田説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるため、大宮土壇の北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形の条坊都市となることです。

 そこで、八王子セミナーに先だって長谷田土壇説を再検討し、そこが王宮であれば、その南北の通りが朱雀大路となり、他の条坊大路よりも幅が大きいはずと考えました。ところが長谷田土壇を南北に通る「二坊大路」の幅は約16mであり、他の偶数大路(四条(坊)、六条(坊)など)と同規模です。他方、大宮土壇にあった藤原宮の朱雀大路は約24mであり、藤原京内では最大です。
ちなみに、九州王朝の倭京(太宰府条坊都市)の朱雀大路は(路面幅)約36m・(側溝芯々間)約37.8m。同じく難波京は約33mで、藤原京より大きいのです。大和朝廷が王朝交代後に造営した平城京は更に巨大化し、朱雀大路幅は約75mです。

 これらの朱雀大路幅を比較すると、長谷田土壇の南北の大路は、朱雀大路としては小さいのです。従って、長谷田土壇を九州王朝や近畿天皇家の王宮とするのは困難であることに気づきました。まだ結論は出ていませんが、朱雀大路の幅という視点は、王宮評価における一つの判断基準として有効ではないかと指摘しました。

 前号に続いて一面には、竹田侑子さん(弘前市、秋田孝季集史研究会々長)の「消えた卑弥呼(2) 卑弥呼は板乃木邑の荒覇吐宮に入り遺陀呼(イダコ)となったか」が掲載されました。和田家文書に見える卑弥呼伝承に着目した論稿です。竹田さんには『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)にも原稿「和田家文書を伝えた人々」を書いていただきました。これを機会に、和田家文書研究が更に活発となることを願っています。

(注)
①正式名は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウス主催。2023年11月11~12日に開催。
②古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013)〝二つの藤原宮〟、545話(2013)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟


第3161話 2023/11/19

藤原京と太宰府の朱雀大路

 八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023)での発表時間が30分でしたので、藤原京造営主体についての研究結果を詳述できませんでした。そこで、「洛中洛外日記」で説明することにします。

 セッションⅡ〝遺構に見る「倭国から日本国へ」〟の司会をされた橘高修さん(東京古田会・副会長)のご配慮により、論点整理が事前に届き、問題意識を共有することができました。提示された三つの論点(注①)についての私見を橘高さんに返信しました。なかでも《論点Ⅲ》はパネルディスカッションでの中心テーマでしたので、わたしも再検討を続け、下記のような私見(1)(2)(3)をまとめました。

《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか?造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
(1) 藤原京整地層出土土器編年(須恵器坏B出土)と藤原宮下層出土の井戸ヒノキ板の年輪年代測定(682年伐採)などから天武期の造営とするのが最有力。
(2) 飛鳥池出土の「天皇」・(天武の子供たち)「大津皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」・「詔」木簡により、天皇と皇子を称し、「詔」を発していた天武ら(近畿天皇家、後の大和朝廷)による造営とするのが妥当。その他の勢力によるとできるエビデンスはない。
(3) これらの史料事実に基づけば、王朝交代の準備として天武・持統らが全国統治のために造営したとする理解が最も穏当である。

 出土事実に基づく限り、以上の考察が最有力と思われますが、もう一つ重要な考古学的エビデンスとして〝朱雀大路の幅〟がありました。「洛中洛外日記」(注②)でも指摘しましたが、難波京・太宰府(倭京)・藤原京・平城京の朱雀大路幅についての比較・考察です。

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
▷朱雀大路幅 約33m ※時期(前期か後期か)についてはまだ絞り込めていないようなので、今のところ参考値に留まるが、前期難波宮の時代に朱雀大路は存在していたと考えられている。
【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃創建。通説は八世紀初頭)
▷朱雀大路(路面幅)約36m (側溝芯々間)約37.8m
【藤原京道路幅】(694年遷都) 側溝芯々間距離
▷朱雀大路 24m
【平城京道路幅】(710年遷都)
▷朱雀大路 約75m

 この四つの都城の朱雀大路を比較すると、藤原京は難波京よりも太宰府政庁Ⅱ期よりも規模が小さいことが注目されます。これは何とも説明しにくい出土事実です。すなわち、九州王朝の東西の都城(難波京・太宰府倭京)よりも小さいことは、701年の王朝交代に先だって造営された藤原京が、天武・持統ら大和朝廷のために造営されたとしても、あるいは九州王朝の天子のために造営されたとしても、その理由(動機)が説明しにくいのです。

 今のところ、わたしは次のように推察しています。天武らが造営した藤原京は、王朝交代以前(九州王朝の時代)の王宮であったため、九州王朝の天子の王都よりも朱雀大路を小規模にせざるを得なかったが、王朝交代後に造営した平城京では、誰はばかることなく最大規模(太宰府の二倍)の朱雀大路を造営したのではないでしょうか。他に、もっと良い推察が可能かもしれませんので、断定は控えますが、九州王朝が自らの天子のために藤原京を造営したとする仮説では、この朱雀大路がかなり小規模という出土事実の説明が困難なように思います。ちなみに、長谷田土壇のある右郭二坊大路の幅は約16mであり、朱雀大路(24m)よりも更に小規模です。

(注)
①橘高氏からは次の三点が提示された。
《論点Ⅰ》7世紀前半における倭国と日本国の関係:従属関係か並列関係か
《論点Ⅱ》倭国の近畿進出はあったか? あったとすればいつ頃か?
《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか? 造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
②古賀達也「洛中洛外日記」3138話(2023/10/17)〝七世紀の都城の朱雀大路の幅〟

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8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

https://www.youtube.com/watch?v=-CtvQ0eC8MA

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