藤原京一覧

第2729話 2022/04/25

天武紀の「倭京」考 (2)

 新庄宗昭さんが指摘された天武紀の次の「倭京」記事は重要です。

 「庚子(12日)に、倭京に詣(いた)りて、嶋宮に御す。」『日本書紀』天武元年(672)九月条

 これは壬申の乱に勝利した天武が倭京に至り、嶋宮に居したという記事ですが、岩波書店の日本古典文学大系『日本書紀』で「詣」の字を「いたりて」と訓でいることに新庄さんは疑義を呈されました。「詣」の意味は貴人のもとへ参上する、あるいは神仏にお参りすることであり、下位者が上位者を訪れるという上下関係の存在を前提とした言葉であり、ここは「詣(もう)でて」と訓むべきとされました。そして、天武が詣でた倭京には近畿天皇家とは別の上位者がいたと理解されたわけです。
 この史料解釈により、壬申の乱のときには飛鳥には既に倭京があり、その宮殿は飛鳥浄御原宮と称され、藤原京の先行条坊が倭京の痕跡であると結論づけられました。「詣」の一字に着目された鋭い指摘です。仮説としては成立していると思いますが、学問的には次の検証作業が不可欠です。古田先生がよく用いられた史料中の全数調査です。この場合、『日本書紀』に見える「いたる」という動詞にはどのような漢字が用いられているのか、「詣」の字がどのような意味で使用されているのかという調査です。『日本書紀』の全数調査の結果、「詣」の字が上下関係を表す「もうでる」という意味でしか使用されていなければ、この新庄説は証明され、有力説となります。
 この証明は、新仮説を提起された新庄さんご自身がなされるべきことですが、取り急ぎ天武紀を中心に『日本書紀』を確認したところ、日本古典文学大系『日本書紀』で、「いたる」と訓まれている例として次のような漢字がありました。

 「至る」「到る」「及る」「詣る」「逮る」「臻る」「迄る」「及至る」

 「至る」が最も多く使用されていますが、問題となっている「詣」が他にもありました。次の通りです。

 「是(ここ)に、赤麻呂等、古京に詣(いた)りて、道路の橋の板を解(こほ)ち取りて、楯を作りて、京の邊の衢(ちまた)に竪(た)てて守る。」天武元年七月壬辰(3日)条

 「甲午に、近江の別将田邊小隅、鹿深山を越えて、幟を巻き鼓を抱きて、倉歴(くらふ)に詣(いた)る。」天武元年七月甲午(5日)条

 この二例の「詣」記事は、文脈から〝貴人に詣でる〟という主旨ではないので、普通に〝ある場所(古京、倉歴)へ至る〟の意味と解釈するほかありません。同じ天武紀の中にこのような用例がありますから、それらを除外して、天武元年(672)九月条だけを根拠に、倭京に上位者がいたとする仮説を貫き通すのは無理なように思います。また、「洛中洛外日記」(注)で紹介したように、藤原宮内下層条坊を天武期より前の造営とすることも考古学的にはやや困難ではないでしょうか。
 やはり、現時点での多元史観に於ける解釈論争としては、「倭京に詣る」の「倭京」を飛鳥宮(通説)のこととするのか、難波京(西村秀己説)とするのかに収斂しそうです。もっとも、新庄説も新たな視点や論証の積み重ねにより強化されることはありえます。いずれにしても自由に仮説が発表でき、真摯な論争による学問研究の発展が大切です。
 なお、付言しますと、天武紀の「倭京」が西村説の難波京であれば、そこには九州王朝の天子がいた可能性もあり、その場合には「倭京に詣(もう)でる」という訓みはピッタリとなります。とは言え、『日本書紀』編者がそのように認識して「詣」の字を使用したのかどうかは、別途検証が必要です。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2724~2727話(2022/04/20~23)〝藤原宮内先行条坊の論理 (1)~(4)〟


第2728話 2022/04/24

天武紀の「倭京」考 (1)

 四月の多元的古代研究会月例会での新庄宗昭さん(建築家)の「倭京は実在した 藤原京先行条坊の研究・拙著解題」をリモートで聴講し、考古学的テーマ以外に『日本書紀』の読解についても刺激を受けました。なかでも新庄さんが着目された天武紀の「倭京」記事は古田史学でも重要なワードであり、古田先生も注目されていました。まず、古田学派にとって『日本書紀』に見える「倭京」にどのような学問的意味や仮説が提示されているのかを簡単に説明します。

(1) 九州年号に「倭京」(618~622年)があり、『日本書紀』編纂者はその存在を知ったうえで使用しているはずと考え、『日本書紀』の「倭京」を理解することが求められる。

(2) 倭の京(みやこ)の意味を持つ「倭京」の年号は、新都「倭京」への遷都、あるいは新都造営を記念しての年号と理解せざるを得ない。その時代は多利思北孤の治世であり、その新都は太宰府条坊都市のことと考えられる。すなわち、九州王朝(倭国)の都の名称が「倭京」であることを『日本書紀』編者は知ったうえで、「倭京」を使用したと考えざるを得ない。

(3) 王朝交代前の列島の代表王朝(九州王朝)の国名が「倭」であることも、『日本書紀』編者は当然知っている。そのうえで『日本書紀』中に「倭」を大和国(奈良県)の意味で使用している。

(4) 七世紀末頃に大和国が「倭国」と呼ばれていた痕跡が藤原宮出土の「倭国所布評」木簡(注①)により判明しており、九州王朝の国名「倭」が大和という地域地名に使用されている史実を前提に『日本書紀』は編纂されている。

(5) 天武紀に見える「倭京」は九州王朝(倭国)の都を意味する用語であることから、その時点の都である難波京(前期難波宮)が「倭京」であると解釈すべきとの指摘が西村秀己氏よりなされており、そのことを拙稿(注②)で紹介している。

 わたしたち古田学派の論者が『日本書紀』の「倭京」を論じる際、こうした史料事実や先行研究を意識した考察を避けられないと思います。(つづく)

(注)
①藤原宮跡北辺地区遺跡から「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡が出土している。「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のこととされる。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
 同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
 同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。
②古賀達也「洛中洛外日記」1283話(2016/10/06)〝「倭京」の多元的考察〟
 同「洛中洛外日記」1343話(2017/02/28)〝続・「倭京」の多元的考察〟
 同「『倭京』の多元的考察」『古田史学会報』138号、2017年。

 


第2727話 2022/04/23

藤原宮内先行条坊の論理 (4)

 ―本薬師寺と条坊区画―

 藤原宮内下層条坊の造営時期を考古学的出土物(土器編年・干支木簡・木材の年輪年代測定)から判断すれば、天武期頃としておくのが穏当と思われ、そうであれば壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが〝拡大前の藤原京条坊都市〟ではないかと考えました。他方、木下正史『藤原宮』によると、木簡が出土した大溝よりも下層条坊が先行するとあります。

〝「四条条間路」は大溝によって壊されており、「四条条間路」、ひいては一連の下層条坊道路の建設が大溝の掘削に先立つことは明らかである。大溝の掘削が天武末年まで遡るとなると、条坊道路の建設は天武末年をさらに遡る可能性が出てくる。〟木下正史『藤原宮』61頁

 さらに本薬師寺が条坊区画に添って造営されていることが判明し、『日本書紀』に見える天武九年(680)の薬師寺発願記事によれば、条坊計画がそれ以前からあったことがうかがえます。こうした考古学的事実や『日本書紀』の史料事実から、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として藤原京を造営しようとしたのではないかとわたしは推定しています。
 わたしは九州王朝(倭国)による王宮(長谷田土壇)造営の可能性も検討していたのですが、その時期が天武期の680年以前まで遡るのであれば、再考する必要がありそうです。というのも、九州王朝の複都制による難波京(権力の都。評制による全国統治の中枢都市)がこの時期には存在しており、隣国(大和)の辺地である飛鳥に巨大条坊都市を白村江戦敗北後の九州王朝が建設するメリットや目的が見えてこないからです。しかし、これが天武であれば、疲弊した九州王朝に代わって列島の支配者となるために、全国統治に必要な巨大条坊都市を造営する合理的な理由と実力を持っていたと考えることができます。その上で九州王朝の天子を藤原宮に囲い込み、禅譲を強要したということであれば、「藤原宮に九州王朝の天子がいた」とする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の仮説とも対応できそうです。


第2726話 2022/04/22

藤原宮内先行条坊の論理 (3)

 ―下層条坊遺構の年代観―

 新庄宗昭さんは藤原宮内下層条坊の造営時期を孝徳期から斉明期とされています。この問題について考察してみます。その際に基礎的な根拠になるのは考古学的出土物(土器・木簡等)です。中でも紀年銘(干支)木簡は第一級史料です。藤原宮下層遺構からは多数の木簡が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年、682)」「癸未年(天武十二、683)」「甲申年(天武十三年、684)」により、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。
 これら干支木簡で最も新しいのが「甲申年(天武十三年、684)」ですから、条坊の造営は天武十三年(684)まで遡ることが可能です。これられの木簡は藤原宮下層遺構の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮造営資材運搬用の運河として掘削されたと考えられています。従って、下層条坊の造営は天武十三年(684)以前と考えることができます。更に下層遺構出土土器も藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しており、次のように指摘されています。

〝注目されるのは、大溝下層の粗砂層から出土した約一三〇点の木簡である。木簡の中には、「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記したものが三点あった。それぞれ天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)にあたる。(中略)
 木簡と一緒に多量に出土した土器群も、藤原宮の外濠や内濠、東大溝、官衙の井戸などから出土する藤原宮使用の土器群よりも、はっきりと古い特徴が窺われる。〟木下正史『藤原宮』59~60頁(注①)

 更に藤原宮下層条坊の遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されていることがわかりました。また、下層条坊の側溝出土土器の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。干支木簡や年輪年代測定の結果を重視すれば、藤原宮の下層条坊の造営は天武期頃としておくのが穏当と思われます。
 そうであれば、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが拡大前の藤原京条坊都市であり、当初の王宮は長谷田土壇にあったのではないでしょうか。長谷田土壇については次の喜田貞吉氏の見解が紹介されています。

〝鷺栖(さぎす)神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田(はせだ)」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。〟木下正史『藤原宮』16頁

 喜田氏は長谷田土壇の近くから礎石が発見されているとしています。わたしが現地調査したときには、藤原宮を囲む大垣十二門の内の北面西側に位置する「海犬養門」の礎石は見つかりましたが、長谷田土壇のものを見つけることができませんでした(注③)。この点、再調査の必要を感じています。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
②同①171頁。
③古賀達也「洛中洛外日記」546話(2013/03/31)〝藤原宮へドライブ〟


第2725話 2022/04/21

藤原宮内先行条坊の論理 (2)

 新庄宗昭さんが論じられた藤原宮内下層条坊について、わたしも「洛中洛外日記」で次のように考察していました。要約を転載します。

【「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟】
〝藤原宮には大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層から、藤原京の条坊道路や側溝が出土していることです。藤原宮は計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造られているのです。
 都城を造営するにあたっては最初に王宮の位置を決めるのが常識でしょう。そしてその場所には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが藤原宮はそうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建されていたのではないかという可能性です。〟

【「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟】
〝古くは江戸時代の学者、賀茂真淵が藤原宮「大宮土壇」説を唱えました。明治時代には飯田武郷に引き継がれ定説となりました。大正時代に入ると喜田貞吉による藤原宮「長谷田土壇」説が登場します。
 喜田説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。定説に基づき復元された藤原京は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから喜田が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
 喜田は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げますが、1934年(昭和九年)から続けられた発掘調査により「大宮土壇」説が裏付けられ、現在の定説が確定しました。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では条坊都市がいびつな形状になるという喜田の指摘自体は有効です。〟

【「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟】
〝藤原京は『日本書紀』持統紀には新益京(あらましのみやこ)と記されており、藤原京という名称ではありません。他方、宮殿は藤原宮と記されています。
 この藤原宮下層遺構からは多数の木簡が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年、682)」「癸未年(天武十二、683)」「甲申年(天武十三年、684)」により、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。藤原宮下層から条坊道路や側溝が発見されたことから、藤原京造営時には大宮土壇に王宮を造ることは想定されていなかったことが推定できます。
 こうした考古学的事実から、わたしは喜田貞吉が提起した「長谷田土壇」説に注目し、藤原京造営時の王宮は長谷田土壇にあったのではないかとするアイデアに至りました。これを証明するためには、長谷田土壇の考古学的調査が必要です。
 この王宮の位置が変更されたとする仮説が正しければ、藤原京のことを『日本書紀』では王宮(藤原宮)の名称とは異なる新益京とした理由もわかりそうです。長谷田土壇から南東に位置する大宮土壇への王宮の移動(新築か)により、条坊都市もそれに伴って東側へ拡張されたこととなり、その拡張された新たな全京域を意味する新益京という名称を採用したのではないでしょうか。このように考えれば、藤原宮(大宮土壇)を中心点として、藤原京がいびつな形の条坊都市になっていることも説明できます。〟

 藤原宮下層条坊の存在から、以上のような考察に至りましたが、次に問題となるのが、下層条坊や元々の王宮(長谷田土壇)の造営時期をいつ頃とするのかです。ちなみに新庄さんは孝徳期から斉明期頃とされています。(つづく)


第2724話 2022/04/20

藤原宮内先行条坊の論理 (1)

 4月17日の多元的古代研究会月例会にリモート参加し、新庄宗昭さん(建築家)の「倭京は実在した 藤原京先行条坊の研究・拙著解題」を拝聴しました。新庄さんは『「邪馬台国」はなかった』初版当時からの古田ファンとのことで、謡曲のなかに遺された九州王朝について研究された故・新庄智恵子(注①)さんのご子息です。今回の発表では藤原京から発見された「先行条坊」について論じられ、同遺構が「倭京」のものであるとされました。飛鳥宮遺跡についても建築家の視点でその復原案を批判され、注目されました。
 質疑応答で、わたしは「藤原京先行条坊」という表現について質問しました。この表現からは、藤原京に新旧二つの条坊があったような印象を受けるので、その当否についてうかがいました。わたしの理解するところでは、藤原宮域内の下層から発見された条坊跡を「藤原宮内先行条坊」(藤原「京」内ではない)と表現されており(注②)、藤原宮域外の条坊と繋がっていた同規格・同時期のもので、藤原宮(大宮土壇)造営時に埋め立てられた条坊部分のことです。ですから、藤原京に先行と後行の新旧二つの条坊があったわけではありません。
 しかし、一旦造営した条坊を埋め立てて王宮を建造するのはいかにも不自然です(注③)。そこで新庄さんは藤原京には別の場所に条坊造営時の本来の王宮が存在したはずで、それを「浄御原宮」のこととされました。ただし、その位置や規模については不明とされました。すなわち、その条坊都市が『日本書紀』に見える「倭京」であり、ヤマト王権以外の権力者の都城とされたのです。
 新庄説の当否は検証の対象ですが、条坊造営時の王宮(中枢施設)があったはずという指摘は重要です。(つづく)

(注)
①新庄智恵子『謡曲のなかの九州王朝』新泉社、2004年。同書を著者よりいただいた。
②奈良文化財研究所ホームページのブログ記事〝藤原宮内先行条坊の謎〟では「藤原宮内先行条坊」「(宮内)先行条坊」と表記されている。
③藤原宮下層条坊に関連する所論を次の「洛中洛外日記」で発表した。
 古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
 同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
 同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki9/nikki9.html


第2665話 2022/01/19

前期難波宮「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会での佐藤隆さんの講演で「難波との複都制、副都に関する問題」というテーマに触れられたのですが、その中で〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟というような内容がレジュメに記されていました。これはとても注目すべき視点です。このことについて説明します。
 服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)の研究(注①)によれば、律令官制による中央官僚の人数は約八千人とのことで、藤原京で執務した中央官僚は九州王朝時代の前期難波宮で執務した官僚達が移動したとする仮説をわたしは「洛中洛外日記」で発表しました(注②)。一部引用します。

〝これだけの大量の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施したとしても、壬申の乱(672年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(694年)までの期間で、初めて政権についた天武・持統らに果たして可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。〟

 おそらく、佐藤さんも同様の問題意識を持っておられ、〝前期難波宮は「官人登用の母体」〟と考えておられるのではないでしょうか。すなわち、大和朝廷の大量の官人は前期難波宮で出現したとする説です。前期難波宮を九州王朝の複都の一つとするのか、大和朝廷の孝徳の都(通説)とするのかの違いはありますが、前期難波宮(難波京)において約八千人に及ぶであろう全国統治のための大量の官人が出現したとする点では一致します。しかし、九州王朝説の視点を徹底すれば問題点は更に深部へ至ります。すなわち、前期難波宮で執務した大量の律令官僚群は前期難波宮において、いきなり出現したのかという問題です。わたしは、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が短期間に突然のように出現することは有り得ないと考えています。(つづく)

(注)
①服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
②古賀達也「洛中洛外日記」1975話(2019/08/29)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)〟


第2395話 2021/02/28

飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年代

前話では、飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域から出土した350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡を国別に分けて、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を概観しました。今回はその中から年次(干支)が記された荷札木簡(49点)を抽出し、時間的な分布傾向を見てみます。
前回紹介した「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」350点のうち、数は少ないのですが産品を献上した年次(干支)が記された木簡があります。年次順に並べてみました。次の通りです。元史料は前回と同じ市大樹さんの『飛鳥藤原木簡の研究』(注)です。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
676 丙子 天武5 丙子年六□□□□ 不明  苑池遺構
677 丁丑 天武6 丁丑年十□□□□ 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月次米 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月三野 美濃国 飛鳥池遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年十二月尾張 尾張国 苑池遺構
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年高井五□□ 不明  藤原宮跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
682 壬午 天武11 壬午年十月□□□ 下野国 藤原宮跡
683 癸未 天武12 癸未年十一月三野 美濃国 藤原宮跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
687 丁亥 持統1 丁亥年若佐国小丹 若狭国 飛鳥池遺跡
688 戊子 持統2 戊子年四月三野国 美濃国 苑池遺構
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡
693 癸巳 持統7 癸巳年□     不明  飛鳥京跡
694 甲午 持統8 甲午年九月十二日 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年尾□□□□ 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年御調寸松  参河国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年木□(津カ)里 若狭国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 丙申年九月廿五日 尾張国 藤原京跡
696 丙申 持統10 丙申□(年カ)□□ 下総国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 □□□(丙申年カ)  美濃国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年□月□□□ 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若狭国小丹 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年三野国厚見 美濃国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年□□□□□ 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年六月波伯吉 伯耆国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 □□(戊戌カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
699 己亥 文武3 己亥年十月上捄国 安房国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年九月三野国 美濃国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□(月カ)  若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□□国小 若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年十二月二方 但馬国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年三月十五日 河内国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年四月佐国小 若狭国 藤原宮跡

(注)市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。


第2394話 2021/02/27

飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々

 飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、それにより七世紀後半から八世紀初頭の古代史研究は飛躍的に進みました。そのなかには350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡があり、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。これら大量の木簡という同時代史料と『日本書紀』の記事とを比較検証することにより、戦後実証史学を支える史料批判が大きく進みました。もし、筑紫・太宰府からも大量の木簡が出土していたなら、九州王朝研究は格段に進歩していたことを疑えません。

 この九州王朝時代の七世紀後半、大和の〝近畿天皇家の宮殿〟に産物を献上した諸国・諸評がわかるという荷札木簡群の存在は、わたしたち古田学派にとってもありがたいことです。そこで、市大樹さんの名著『飛鳥藤原木簡の研究』(注)に収録されている「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別の木簡データを飛鳥宮地域と藤原宮(京)地域とに分けて点数を紹介します。皆さんの研究に役立てていただければ幸いです。

 わたしの恣意的な判断を一切入れず、市さんの分類をそのまま採用しました。なお、飛鳥宮地域とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑地遺構・他のことで、藤原宮(京)地域とは藤原宮跡と藤原京跡の遺跡のことです。その詳細は市さんの本をご参照下さい。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   7   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   7  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 224 126 350

(注)市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。


第2219話 2020/08/31

文武天皇「即位の宣命」の考察(4)

 文武天皇「即位の宣命」中の「天皇」号と共に注目されるのが「朝庭」という名称です。次のように使用されています。

 「是を以ちて、天皇が朝庭の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国国の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。」

 「朝庭」とは中央官僚が執務する「朝堂」の中央にある「庭」に由来する政治用語で、王権のことを意味する「朝廷」「王朝」などの語源です。ですから、文武は「朝庭」に君臨する「天皇」として、中央官僚(百官)に対して天皇への忠誠を呼びかけ、政務に当たることを「即位の宣命」で命じているのです。そして文武元年(697年)ですから、宣命を発した宮殿は藤原宮であり、その日本列島内最大規模の朝堂は文字通り「朝庭」と称するにふさわしい舞台です。ここでも宣命中の「朝庭」という政治用語と藤原宮という考古学的出土遺構とが対応しているのです。
 他方、大阪府南河内郡太子町出土「釆女氏榮域碑」(注①)碑文には、「己丑年」(689年、持統三年)の時点で「飛鳥浄原大朝庭」とあり、近畿天皇家側の采女氏が飛鳥浄原を「大朝庭」と認識していたことがわかります。近畿天皇家の藤原宮遷都は持統八年(694年)ですから、「釆女氏榮域碑」造立時(689年、持統三年)には藤原宮は未完成です。なお、飛鳥浄御原宮は大宰府政庁(Ⅱ期)よりも大規模です(注②)。(つづく)

(注)
①「釆女氏榮域碑」拓本が現存。実物は明治頃に紛失。
〈碑文〉
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
 己丑年(六八九)十二月二十五日。

②遺構の面積は次の通り。
 藤原宮(大垣内)  面積 約84万m2(東西927m×南北906.8m)
 飛鳥浄御原(内郭) 面積 約 3万m2(東西158m-152m×南北197m)
 同(エビノコ郭)  面積 約 0.5万m2(東西92m-94m×南北55.2m)
 大宰府政庁Ⅱ期  面積 約 2.6万m2(東西119.2m×南北215.2m)


第1978話 2019/08/31

「九州王朝律令」による官職名

「洛中洛外日記」1974話(2019/08/27)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(8)〟において、7世紀後半の王朝交替前の飛鳥の近畿天皇家が、「九州王朝」律令による官職名を使用していたのではないかと推定しました。この指摘が正しければ、藤原宮などから出土した木簡に見える『大宝律令』以前の官職名は「九州王朝律令」によるものとなり、その記事から「九州王朝律令」の「職員令」復元が一部可能となるかもしれません。そこで、そうした官職名をピックアップしてみました。

【『大宝律令』以前の官職名】
○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半〜中頃)

○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡


第1974話 2019/08/27

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(8)

 飛鳥の石神遺跡から出土した木簡の「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と同類の「舎人官(とねりのつかさ)上毛野阿曽美□」「陶官(すえのつかさ)」と記された木簡が藤原宮遺跡(大極殿北方大溝下層)からも出土しています。いずれも藤原宮完成前の「飛鳥浄御原令」に基づくものと解説されています(『藤原宮出土木簡(二)』昭和52年)。更に同木簡出土地点からは「進大肆」という、『日本書紀』によれば天武14年(685)に制定された位階が記された木簡(削りくず)や、「宍粟評(播磨国)」「海評佐々里(隠岐国)」木簡も出土していることから、それらは七世紀末頃のものと見て問題ありません。

 このように石神遺跡や藤原宮下層遺跡から出土した木簡の史料事実により、天武天皇や持統天皇らは九州王朝系の官職名「○○官」を採用し、それら官僚群により東国から西日本にかけての広域統治を飛鳥宮で行っていたことがわかります。藤原宮時代になると出土した荷札木簡から判断できる統治領域は更に広がります。

 以上のように出土木簡や『日本書紀』の記事というエビデンスに基づいて、一元史観の大和「飛鳥宮」説が強固に成立しています。(つづく)

《奈良文化財研究所「木簡データベース」》から転載

【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【寸法(mm)】縦(257) 横(13) 厚さ6
【型式番号】081
【出典】藤原宮2-524(飛3-5下(33))
【文字説明】「曽」は異体字「曾」。
【形状】上欠(折れ)、下欠(折れ)、左欠(割れ)、右欠(割れ)。
【樹種】ヒノキ科♯
【木取り】追柾目
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【所在地】奈良県橿原市醍醐町
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】藤原宮第20次
【遺構番号】SD1901A
【地区名】6AJFKQ33
【内容分類】文書
【国郡郷里】
【人名】上毛野阿曽美□(荒)□
【和暦】
【西暦】
【木簡説明】上下折れ、両側面割れ。文書木簡の断片。舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条にみえる。

【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【寸法(mm)】縦(127) 横 32 厚さ 3
【型式番号】019
【出典】藤原宮2-523(飛3-5下(34))
【文字説明】
【形状】下欠(折れ)。
【樹種】ヒノキ科♯
【木取り】板目
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【所在地】奈良県橿原市醍醐町
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】藤原宮第20次
【遺構番号】SD1901A
【地区名】6AJFKQ33
【内容分類】文書
【国郡郷里】
【人名】
【和暦】
【西暦】
【木簡説明】下端折れ。陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある(総説参照)。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。