九州年号一覧

大和朝廷(日本国)に先立つ九州王朝(倭国)の存在、その一番目が年号の論証です。

第3292話 2024/05/27

二つの「白雉元年」と難波宮 (4)

  ―九州王朝の「白雉元年二月条」―

 『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650年)二月条の白雉改元記事は、九州王朝により九州年号の白雉元年(652年)二月に行われた改元の行事を記した九州王朝系史書からの転載(盗用)と思われます。同記事の内容もそのことを示しています。それは次の二点です。

(1) 改元記事には九州王朝への「人質」となっていた百済王子豊璋等の名前が見える。
〝甲申(15日)、朝庭の隊仗、元會儀の如し。左右大臣・百官の人等、四列を「紫門」の外に為す。(中略)左右大臣乃(すなわ)ち、百官及び「百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝」・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率いて、「中庭」に至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を殿前に進ましむ。〟

(2) 応神天皇の時代に白烏が宮に巣を作ったという吉祥や、仁徳天皇の時代に龍馬が西に現れたという記事などが特筆されているが、いずれも記紀の同天皇条には見えない事件であることから、これらも九州王朝系史書にあった記事と思われる。
〝詔して曰く「聖王、世に出(い)でて天下を治める時、天則(すなわち)ち應えて其の祥瑞を示す。曩者(むかし)、西土の君、周の成王の世と漢の明帝の時に白雉爰(ここ)に見ゆ。我が日本國、譽田天皇の世に白烏宮に樔(すく)ふ。大鷦鷯帝の時に龍馬西に見ゆ。(後略)」〟

 このように難波に九州王朝が都(太宰府倭京と難波京の複都制)を造り、諸行事を執り行ったことにより、それら九州王朝の事績が『日本書紀』孝徳紀に詳しく取り込まれたと思われ、同時に孝徳自身が賀正礼や改元の儀に臣下の一人として出席していたと考えざるを得ません。

 二つの「白雉元年」という史料事実は、こうした歴史の真実に迫る上で重要なエビデンスであり、視点であることをご理解いただけるものと思います。なお、このエビデンスと視点は、二つの「大化年号」研究でも重要であり、このことは古田先生や、近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)をはじめ少なからぬ古田学派研究者が「大化改新詔」研究として発表されてきたところです。(おわり)


第3291話 2024/05/26

二つの「白雉元年」と難波宮 (3)
―切り取られた白雉三年二月条―

 『日本書紀』の不自然な白雉改元記事は、九州年号「白雉」と一緒に二年ずらして『日本書紀』に転用された痕跡と考えざるを得ないと前話で述べましたが、その明瞭な痕跡が白雉三年(652年)正月条に遺されています。次の不思議な記事がそれです。

〝三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。〟『日本書紀』白雉三年(652年)正月条

 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に二年のずれがあるとすれば、九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(652年)条になければなりません。その孝徳紀白雉三年正月条には「正月より是の月に至るまでに」と意味不明の記事があるのです。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわかりません。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記しています。

 この点、わたしは次のように考えます。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に二月条があったのではないでしょうか。ところが、その二月条はカットされています。おそらく、カットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(650年)二月条の白雉改元記事だったのです。すなわち、孝徳紀白雉三年(652年)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り貼り」の痕跡だったのです(注)。『日本書紀』の白雉改元記事は九州王朝系史書からの、二年ずらしての転用(盗用)であり、このことが原因となって、二種類の白雉年号が発生したわけです。(つづく)

(注)古賀達也「白雉改元の史料批判 ―盗用された改元記事―」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。


第3290話 2024/05/25

二つの「白雉元年」と難波宮 (2)
―「白雉改元」のエビデンス―

 九州年号「白雉」には次の二種類があります。『日本書紀』型、元年は650年庚戌で五年間続く(650~654年)。『二中歴』型、元年は652年壬子で九年間続く(652~660年)。『二中歴』は鎌倉時代初頭に編纂された辞典で、歴代の年号を列記した「年代歴」冒頭に「継体」から「大化」まで31の九州年号(517~700年)が記されています(注①)。50年に及ぶ九州年号研究の結果、『二中歴』型が最も九州年号の原姿に近く、『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用(盗用)であるとされました。その痕跡が他ならぬ『日本書紀』にあることを『古田史学会報』などで発表してきたところです(注②)。
『日本書紀』は孝徳天皇六年(650年)を白雉元年として、同年二月条には、白雉改元に関わる白雉献上の儀式が大きな宮殿で大々的に執り行われた様子が記されています。その部分を要約し紹介します。

〝二月庚午朔戊寅(9日)、穴戸國司草壁連醜經(しこぶ)、白雉を獻じて曰く、(中略)
甲申(15日)、「朝庭」の隊仗、元會儀の如し。左右大臣・百官の人等、四列を「紫門」の外に為す。(中略)左右大臣乃(すなわ)ち、百官及び百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等を率いて、「中庭」に至る。三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太、四人をして、代りて雉の輿を「殿」前に進ましむ。

時に、左右大臣就きて輿の前頭を執(か)きて、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執きて、御座の前に置く。天皇、卽ち皇太子を召して共に執(と)りて觀る。皇太子、退いて再び拜す。(中略)
又詔して曰く、四方の諸國郡等、天の委ね付(さづ)くるに由りての故に、朕總(ふさ)ね臨(のぞ)みて御寓(あめのしたしら)す。今我が親神祖の知らす所、穴戸國の中に此の嘉瑞有り。所以(このゆえ)に、天下に大赦す。改元して白雉とす。〟『日本書紀』孝徳天皇白雉元年庚戌(650年)二月条

 穴戸國(長門国、山口県の西半分)の国司が白雉を天皇に献上し、それを吉兆として年号を白雉に改元したという記事で、「朝廷」「紫門」「中庭」「殿」(紫宸殿か)がある大規模な宮殿で儀式を執り行った様子が記されています。
大阪の上町台地の七世紀中葉の地層からは、前期難波宮しかこの規模の宮殿は出土していません。『日本書紀』には、このような大規模な宮殿の創建記事が、二年後の白雉三年九月条に記されています(注③)。ですから、『日本書紀』の白雉年号は九州年号の白雉を二年ずらして転用したものとすれば、白雉三年(652年)の大規模な宮殿創建は、九州年号の白雉元年に当たりますから、先の白雉献上記事や白雉改元記事も白雉年号とともに、『日本書紀』編者により652年から650年へ二年ずらされたと考えられます。すなわち、九州年号の白雉元年(652年)であれば、完成間近の前期難波宮で白雉改元儀式を執り行うことが可能なのです。

 ちなみに、「朝庭の隊仗、元會儀の如し」と二月条の記事にありますから、この白雉改元の儀式は正月の元會儀と同じ宮殿で行われたのではないでしょうか。白雉元年正月条冒頭には次の記事が見えます。

〝白雉元年春正月辛丑朔(1日)に、車駕、味經宮に幸(ゆ)きて、賀正禮を觀る。味經、これを阿膩賦(あじふ)と云う。この日に、車駕、宮に還る。〟『日本書紀』孝徳天皇白雉元年庚戌(650年)正月条

 ここでは賀正礼(元會儀の一つ)が行われた宮殿を味經宮としていますから、元會儀や白雉改元の儀式が行える大規模な前期難波宮は味經宮と呼ばれていたことになります。なお、この記事によれば、孝徳は賀正礼を観に行ったとあり、賀正礼を受けたとはされていません。その日のうちに別の宮に還ったともありますから、味經宮は孝徳の宮殿ではなかったと考えられます(注④)。この史料事実は、前期難波宮を九州王朝の王宮(複都の一つ)とするわたしの説の傍証となるものです。

 こうした『日本書紀』の不自然な白雉改元記事は、九州年号「白雉」と一緒に二年ずらして『日本書紀』に転用されたものと考えざるを得ません。この点、更に詳述します。(つづく)

(注)
①九州年号リスト ※701年以降の大化と大長は古賀説による。
継体 517~521年(5年間)
善記 522~525年(4年間)
正和 526~530年(5年間)
教到 531~535年(5年間)
僧聴 536~540年(5年間)
明要 541~551年(11年間)
貴楽 552~553年(2年間)
法清 554~557年(4年間)
兄弟 558年    (1年間)
蔵和 559~563年(5年間)
師安 564年    (1年間)
和僧 565~569年(5年間)
金光 570~575年(6年間)
賢接 576~580年(5年間)
鏡当 581~584年(4年間)
勝照 585~588年(4年間)
端政 589~593年(5年間)
告貴 594~600年(7年間)
願転 601~604年(4年間)
光元 605~610年(6年間)
定居 611~617年(7年間)
倭京 618~622年(5年間)
仁王 623~634年(12年間)
僧要 635~639年(5年間)
命長 640~646年(7年間)
常色 647~651年(5年間)
白雉 652~660年(9年間)
白鳳 661~683年(23年間)
朱雀 684~685年(2年間)
朱鳥 686~694年(9年間)
大化 695~703年(9年間) ※『二中歴』は大化六年(700年)まで。
大長 704~712年(9年間)
②古賀達也「白雉改元の史料批判 ―盗用された改元記事―」『古田史学会報』76号、2006年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③「秋九月に、宮造ること已(すで)におわりぬ。其の宮殿の状、殫(ことごとく)に論(い)うべからず。」『日本書紀』白雉三年(652年)九月条。
④古賀達也「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。後に『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。


第3289話 2024/05/23

二つの「白雉元年」と難波宮 (1)

 ―「白雉」年号のエビデンス―

 九州年号「白雉」には『日本書紀』型と『二中歴』型の二種類があります。

◎『日本書紀』型は元年を650年庚戌として、五年間続く。
◎『二中歴』型は元年を652年壬子として、九年間続く。

 後代史料には、この二種類の白雉年号の存在に困惑したためか、次のような表記さえ出現します。

 「白雉元年[庚戌]歳次壬子」『箕面寺秘密緑起』(注①)

 []内の庚戌は小字による縦書き二行ですので、元来は「白雉元年歳次壬子」(652年)とあった記事に、『日本書紀』の「白雉元年」の干支「庚戌」(650年)を小文字で書き加えたものと思われます。というのも、元々「白雉元年[庚戌]」とあったのであれば、「歳次壬子」を付記する必要は全くありませんし、意味不明の年次表記にする必要もありません。しかし、「白雉元年歳次壬子」とあったのであれば、『日本書紀』の白雉元年干支と異なっているため、「庚戌」を付記したと動機を説明できます。

 50年に及ぶ九州年号研究により、『二中歴』型が最も九州年号の原姿に近く、『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用であると理解されてきました。その後、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡の再調査(2006年)により、『二中歴』型が正しかったことが決定づけられました。

 しかしながら、『木簡研究』19号(注②)には「三壬子年」と判読していましたので、兵庫県教育委員会の許可を得て、2006年4月21日に古田先生らと同木簡を二時間にわたり実見調査しました。そして次の所見を得ました。

【「元壬子年」木簡観察の所見】
1.第三画の右端が極端に上に跳ねている。木目に沿った墨の滲みかとも思われたが、そうではなく明確に上に跳ねていた。下には滲みがない。これが「元」である最大の根拠である。
2.第三画の中央付近が切れている。赤外線写真も撮影して確認したが、肉眼同様やはり切れていた。従って、「三」よりも「元」に近い。
3.第三画が第一画と第二画に比べて薄く、とぎれとぎれになっている。更に、左から右に引いたのであれば、書き始めの左側が濃くなるはずだが、実際は逆で、右側の方が濃くなっている。これは、右側と左側が別々に書かれた痕跡である。
4.木目により表面に凹凸があるが、第三画の左側は木目による突起の右斜面に墨が多く残っていた。これは、右(中央)から左へ線を書いた場合に起きる現象。従って、第三画の左半分は、右から左に書かれた「元」の字の第三画に相当する。
5.第三画右側に第二画から下ろしたとみられる墨の痕跡がわずかに認められた。これは「元」の第四画の初め部分である。

 以上のように、「三」ではなく「元」であることは明白ですし、肉眼でも「元」に見えました。元年を壬子の年とする年号は九州年号の「白雉」であり(注③)、やはり『二中歴』型が正しかったわけです。『木簡研究』の報告は『日本書紀』の二年ずれた白雉年号の影響を受けたようです。(つづく)

(注)
①「箕面寺秘密緑起」は五来重編『修験道資料集Ⅱ』(名著出版、1984年)による。同書解題には、「箕面寺秘密緑起」を江戸期成立と見なしている。
②『木簡研究』19号、木簡学会、1997年。
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/8834/1/AN00396860_19_044_045.pdf
③『木簡研究』19号には、高瀬氏一嘉氏による次の説明がなされている。
「裏面は年号と考えられ、年号で三のつく壬子は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」


第3268話 2024/04/12

『続教訓抄』の九州年号「教到六年」

 今日、ご近所の枡形商店街にある古書店に行くと、新品同様の『古事類苑 樂舞部一』がなんと三百円(税込み)で売っていましたので、迷わず買いました。能楽など古典芸能史料に九州王朝の痕跡が遺っていることがあり、きっと『古事類苑』に貴重な史料が収録されているはずと思い、超高速で斜め読みしたところ、案に違わずありました。

 同書に収録されている「続教訓抄 十一上 吹物」(注①)に東遊(あづまあそび)の次の記事がありました。

 「或記ニ云、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年丙辰歳、駿河國宇戸濱ニ、天人アマクダリテ、哥舞シタマヒケレバ、周瑜ガ腰タヲヤカニシテ、海岸ノ春ノヤナギニオナジク、回雪ノタモトカロクアガリテ、江浦ノユウベノカゼニヒルガヘリケルヲ、或翁イサゴヲホリテ、中ニカクレヰテ、ミツタヘタリト申セリ、今ノ東遊トテ、公家ニモ諸社ノ行幸ニハ、カナラズコレヲ用ヰラル、神明コトニ御納受アルユエナリ、其翁ハスナワチ道守氏トテ、今ノ世ニテモ侍ルトカヤ、」244頁

 ここに見える「教到六年丙辰歳」は九州年号で、536年に当たります。ちなみに『二中歴』などの九州年号史料では、教到六年は改元されて僧聴元年とあることから、同年中の改元される前に成立した史料によるものと思われ、そうであれば原史料は同時代史料となり貴重です。

 この東遊の始原伝承については、本居宣長の『玉勝間』で紹介されている『體源鈔』(注②)からの引用記事にもほぼ同文があることを拙論(注③)で紹介しました。次の記事です。

 「東遊の起り
同書(『體源抄』)に丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり、」(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻。村岡典嗣校訂)

 『続教訓抄』と『體源抄』の当該記事はほとんど同文ですが、『続教訓抄』の成立が十三世紀であり、『體源抄』よりも二百年も早く、貴重です。
ちなみに、東遊(あずまあそび)は東国地方の民俗舞踊で、平安時代から、宮廷や神社の神事舞の一つとして演じられたとされていますが、始原伝承に九州年号「教到」が使用されていることから、本来は九州王朝の宮廷舞楽ではなかったかと推測しています。歌方(うたいかた)は笏拍子(しゃくびょうし)を持ち、笛・篳篥(ひちりき)・和琴(わごん)の伴奏で歌い、四人または六人の舞人が近衛武官の正装などをして舞うとのことで、これらも九州王朝の宮廷舞楽の痕跡ではないでしょうか。現在は宮中や神社の祭礼で行われているようです。

(注)
①『続教訓鈔』は鎌倉時代の雅楽書で狛朝葛(こまともかず)著。彼の祖父狛近真が著わした『教訓鈔』に続く楽書。文永七年(1270)頃から書きはじめ,元享二年(1322)頃まで追記したものと考えられている。完本は現存せず、巻数は二十一巻以上と見られている。
②『體源抄』は豊原統秋の著作で、十三巻二二冊からなる音楽書。永正十二年(1515)成立。
③古賀達也「洛中洛外日記」938話(2015/04/29)〝教到六年丙辰(536年)の「東遊」記事〟
「本居宣長『玉勝間』の九州年号 ―「年代歴」細注の比較史料―」『古田史学会報』64号、2004年。


第3218話 2024/02/06

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (4)

 太宰府条坊都市の右郭中心部の扇神社(王城神社)は、真北(北極星)と真南の基山山頂(基肄城)を結んだ線上にあります。すなわち、条坊都市の右郭中心に王宮(王城神社の地。小字「扇屋敷」)を置き、その位置決定には北極星と南の基山山頂を結ぶラインを採用し、それを政庁Ⅰ期時代の「朱雀大路」(政庁Ⅱ期時代の右郭二坊路に相当)にしたと思われます。

 恐らくは正方位の条坊都市という設計思想は中国南朝に倣ったと、わたしは推定しています。そして、それは条坊都市だけではなく、その中央に王宮を置く周礼型、すなわち〝中央を尊し〟とする設計(政治)思想や左右対称の朝堂院を持つ王宮も、中国南朝の影響下に成立したのではないかと考えています。

 朝堂院様式は中国には見えない宮殿スタイルなので、わが国独自のものと考えられているようですが、中国南朝の遺構が北朝(隋)により破壊されており、そのために南朝五国(注①)の都、建康(南京の古称)の王宮様式は不明となっています(注②)。その結果、朝堂院様式の王宮が中国に見えないという状況が続いているように思います。条坊都市や王宮の位置は中国に倣い、王宮の様式だけは独自に考案したとするよりも、それらは一連のものとして中国南朝の王都王宮に倣ったと考えるほうが穏当ではないでしょうか。

 いずれにしても、巨大条坊都市の設計・造営において、「東西・南北」正方位の概念・政治思想と、それを実現できる技術を、七世紀初頭から前半の九州王朝(倭国)が有していたことは確かなことと思います。(つづく)

(注)
①東晋、宋、斉、梁、陳の五国(317~589年)。
②589年に隋が南朝の陳を滅ぼしたとき、徹底的な削平と開墾、その後の都市開発で、遺構は不明となっている。
王 志高「六朝建康城の主要発掘調査成果」『奈良文化財研究所研究報告』第3号、国立奈良文化財研究所、2010年。


第3179話 2023/12/12

城崎温泉にて ―温泉神と宗像三女神―

 今日は朝から家族めいめいに好きな外湯(注①)めぐりです。わたしは城崎文芸館を見学してから、「海内第一泉」の石碑がある「一の湯」(注②)に入りました。午後は「御所の湯」に入る予定です。古田先生も温泉がお好きだったようで、信州松本での講演のおり、当地の浅間温泉に入ることを楽しみにしておられました。先生は富士乃湯を定宿にしておられ、「この湯に一回入ると、寿命が一年延びる」と言っておられたのを、城崎の温泉に浸かりながら思い出しました。

 文芸館で購入した『城崎物語 改訂版』(注③)によれば、城崎温泉の発見譚を舒明天皇の頃とする史料は、城崎の旧家に伝わる『温泉寺縁起』の異本『曼荼羅記』などで、「舒明元年(629年)」に大谿(おおたに)川の渓谷に濁った熱い湯が見つかったと記されているらしい。舒明元年(629年)は九州年号の仁王七年己丑に当たり、原史料には「仁王七年己丑」などとあったのではないでしょうか。

 わたしがこのように考える理由は、論理上の問題として、『日本書紀』成立以前において、年次を記述する方法は、干支か九州年号か中国の年号を用いるしかありません。干支では六十年毎に繰り返しますから、古い時代の年次表記には不向きです。九州年号の場合は、九州年号が使用されていた時代であればピンポイントで年次を特定できますから、今回のケースでは最も適しています。九州年号より前の時代であれば、中国の年号で代用するしかありませんが、歴代中国王朝の年号一覧のような史料が必要です。

 他方、兵庫県北部には九州年号で年次を記した「赤渕神社縁起」のような古い史料があり、七世紀において、当地域で九州年号が使用されていた可能性は高いと判断しています(注④)。

 もう一つ、城崎には興味深い伝承がありました。「御所の湯」のお隣にある「四所神社」のご祭神が「湯山主神」「多岐津媛神」「多紀理媛神」「市杵島媛神」の四柱であり、当地の温泉の神様と宗像三女神が祀られているのです。この由緒はまだ調べていませんが、北部九州の神様が祀られていることは、九州王朝の当地への影響と考えることもできそうです。なお、城崎温泉の発見を養老四年(720年)とする伝承もありますが(注⑤)、別途、論じる機会を得たいと思います。

(注)
①城崎温泉には各旅館の「内湯」とは別に七つの「外湯」がある。「さとの湯」「地蔵湯」「柳湯」「一の湯」「御所の湯」「まんだら湯」「鴻の湯」。
②江戸時代の医師、香川修庵が「天下一の湯」と推奨したことが「一の湯」の由来。
③『城崎物語 改訂版』神戸新聞但馬総局編、2005年。
④「赤渕神社縁起」には九州年号「常色(647~651年)」「朱雀(684~685年)」が見える。次の拙論を参照されたい。
「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。
⑤『温泉寺縁起』に記されたもので、当地を訪れた道智上人が養老四年に温泉を発見したとする伝承。


第3160話 2023/11/18

初めての関西例会の司会

 本日、浪速区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。司会担当(リモート参加)の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)がお仕事で出張中なので、わたしが代役を務めました。「古田史学の会」関西例会は30年の歴史を持ちますが、わたしが司会を担当したのは初めてのように思います。次回、12月例会の会場は東淀川区民会館です。

 今回は慣れない司会に集中するため、研究発表は遠慮しました。それに代えて、先週参加した八王子セミナーについて少々紹介しました。一つは、橘高修さん(東京古田会・副会長)が、パネルディスカッションの論点整理ために事前に提示された「タイムテーブル」記載の論点に対する、わたしの見解の紹介(注①)。もう一つは千葉県からセミナーに初参加されたKさんの挨拶を紹介しました。

 Kさんは「古田史学の会」の新会員で、ホームページを見て入会されたようです。初参加者の〝自己紹介・挨拶コーナー〟で、Kさんは「会場参加者が老人ばかりで若い人がいない。わたしは中学生の家庭教師もしているが、その子が古代史(古田説)に興味をもってくれており、〝試験の回答には書いてはいけない〟と断って教えています。その子が高校生になったら二人で八王子セミナーに参加します。」と述べられ、参加者から拍手がおくられました。

 今回の発表で注目されたのが、大原さんによる九州年号を持つ当麻寺縁起の紹介でした。大原さんの研究によれば、当麻寺(奈良県葛城市)の前身寺院の創建を、推古の時代の定光二年とする史料があり、この「定光二年」は九州年号の「定居二年」((612年))とのこと。そうであれば、『二中歴』に見える倭京二年(619年)の難波天王寺の創建よりも早く、「当麻寺」が九州王朝により創建された可能性をも示すことから、注目すべきものと思われました。なお、定居二年と言えば、泉佐野市日根野慈眼院所蔵の棟札冒頭に記された九州年号「定居二年(612年)」における当地への新羅国太子「修明正覚王」渡来伝承が思い起こされます(注②)。

 11月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔11月度関西例会の内容〕
①裴世清は十余国を陸行した (京都市・岡下英男)
②大国主譜(二)と大年神譜 (大阪市・西井健一郎)
③西井氏の「筑紫後期王朝説への疑問」に答える(1) (八尾市・満田正賢)
④続「倭京」と多利思北孤 倭(ワ)王朝の列島制覇戦略 (東大阪市・萩野秀公)
⑤「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か 唐の李賢の証言 (姫路市・野田利郎)
⑥當麻寺の年代 (大山崎町・大原重雄)
⑦鍵穴を通る神の説話の謎 (大山崎町・大原重雄)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
12/16(土) 会場:東淀川区民会館。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3157話(2023/11/11)〝八王子セミナー・セッションⅡの論点整理〟
②同「洛中洛外日記」2796話(2022/07/24)〝慈眼院「定居二年」棟札の紹介〟
同「洛中洛外日記」2797話(2022/07/26)〝慈眼院「定居二年」棟札の古代史〟
同「洛中洛外日記」2798話(2022/07/29)〝後代成立「九州年号棟札」の論理〟
同「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第3088話 2023/08/03

王朝交代の痕跡《金石文編》(1)

 ―九州年号金石文の年次表記―

701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡の年次表記が変更(表記位置が冒頭→末尾)されましたが、九州年号金石文には次のように年号と干支が冒頭に記されています。年次表記を文章の冒頭に記すという様式は、九州王朝時代(7世紀)の木簡と同じです。

【九州年号金石文の年次表記】
(1) 伊予国湯岡碑文 『釈日本紀』所引所引「伊予国風土記」逸文。今なし。
「法興六年十月歳在丙辰~」(法興六年は596年)

(2) 法隆寺釈迦三尊像光背銘
「法興元丗一年歳次辛巳十二月~」(法興元丗一年は621年)

(3) 白鳳壬申骨蔵器 『筑前国続風土記附録』今なし。
「白鳳壬申」(白鳳壬申は672年)

(4) 鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町鬼室集斯神社
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」(朱鳥三年は688年)
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(5) 大化五子年土器 茨城県岩井市出土
「大化五子年」(大化子年は699年。注)
「二月十日」

(3)と(5)は骨蔵器に年次だけが記されたものであるため、文書様式判断の対象にはできません。その他の九州年号金石文は全て年次表記(年号+干支)が文章の冒頭に記載されており、この様式は木簡と同様であることから、九州年号を公布した九州王朝が定めたものと考えることができます。ただし、九州年号の木簡への記載が憚られたと推定したことは、先に述べた通りです。
次に大和朝廷(日本国)の時代で、王朝交代直後8世紀初頭の金石文の年次表記を見てみることにします。(つづく)

(注)「大化五子年」は干支が一年ずれている。その当時、関東地方で採用されていた〝異なる暦法〟の影響とする次の拙論を参照されたい。
古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。


第3081話 2023/07/27

「大師役小角一代」の〝九州年号〟

 飯詰村山中の洞窟から発見された「大師役小角一代」の解説が、藤田隆一さんによりなされており(注①)、同史料に次の〝九州年号〟が見えることが紹介されています。解説の便宜上、年号ごとに[a]~[e]に分類しました。

[a] 大化乙巳天(645年)、大化丙午二年(646年)、大化丁未之年(647年)、大化戊申四年(648年)
[b] 白雉庚戌元年(650年)、白雉辛亥天(651年)、白雉壬子三年(652年)、白雉癸丑天(653年)、白雉甲寅天(654年)
[c] 白鳳壬申天(672年)、白鳳癸酉(673年)、白鳳乙亥(675年)、白鳳丙子天(676年)
[d] 朱鳥丙戌天(686年)、朱鳥丁亥(687年)、朱鳥辛卯天(691)、朱鳥甲午天(694年)、朱鳥乙未天(695年)
[e] 大宝辛丑天(701年)、大宝辛(壬カ)寅(702)

 上記の〝九州年号〟のうち、[a]大化と[b]白雉は『日本書紀』に年次をずらして転用された九州年号であり、本来の九州年号の大化(696~703年)や白雉(652~660年)とは年次(元年干支)が異なります(注②)。従って、「大師役小角一代」の成立は。どんなに早くても『日本書紀』成立(720年)以後と考えられます。また、[c]白鳳も天武元年(672年)を白鳳元年とする後代改変型の白鳳のようですから(注③)、その成立時期は更に遅れると思われます。

(注)
①藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/
②古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。
「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
③本来の九州年号の白鳳は元年を661年とするもので、白鳳二三年(683年)まで続く。次の拙論を参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1880話(2019/04/26)〝『箕面寺秘密縁起』の九州年号〟
同「洛中洛外日記」1882話(2019/05/02)〝改変された『箕面寺秘密縁起』の「白鳳」〟
同「洛中洛外日記」1883話(2019/05/03)〝改変された『高良記』の「白鳳」〟


第3054話 2023/06/27

元岡遺跡出土木簡に遺る

      王朝交代の痕跡(4)

 元岡・桑原遺跡群出土の二つの紀年木簡、「大寶元年辛丑」(701年)木簡と「壬辰年韓鐵□□」木簡の考察を続けてきましたが、同遺跡からは次の二つの「延暦四年」(785年)木簡も出土しています(注①)。

・口壹升(サイン・花押)
・計帳造書口粮用(伋)口
延暦四年六月廿四日

献上  □□□(沙)魚皮〈折損〉延暦四年十月十四日真成

 701年に王朝交代し、785年にもなると木簡の紀年表記は年号(延暦四年)だけとなり、干支は使用されていません。しかも年号記載箇所は、「大寶元年辛丑」木簡とは異なり、文末に移動します。この頃になると、九州王朝時代の干支表記の伝統が失われていたことがわかります。

 九州王朝は早くから干支に強いこだわりを見せていたように思います。それを象徴するのが元岡遺跡群の古墳から出土した〝四寅剣(刀)〟です(注②)。それには金象眼で次の銘文が記されています。

大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)

 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、570年の庚寅であることがわかります。冒頭の「大歳庚寅」は『日本書紀』の用例に従えば、九州王朝の天子の即位年干支が庚寅であることを意味しますが、この年に九州年号が和僧から金光に改元されており、天子即位による改元と思われます。ところがこの年干支と日付干支が共に庚寅であることに着眼されたのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)でした。

 正木さんによれば、干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣(しいんけん)といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、570年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前3時~5時)に造られたのであれば四寅剣になることに気付かれたのです。朝鮮半島では古代から中近世にかけて四寅剣が数多く作られ、国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです(注③)。この四寅剣(刀)のように、九州王朝は干支の持つ意味に関心を示しており、荷札木簡にさえも年号ではなく干支表記を採用したことに、国家としての深い政治思想が込められていたと思われるのです。

(注)
①『元岡・桑原遺跡群8 ―第20次調査報告―』福岡市教育委員会、2007年。
服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。花押が古代木簡に使用されていたとする見解を服部秀雄氏は提起しており、興味深い。
②古賀達也「洛中洛外日記」339話(2011/09/25)〝「大歳庚寅」象眼鉄刀銘の考察〟
同「洛中洛外日記」340話(2011/10/01)〝「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元〟
同「洛中洛外日記」341話(2011/10/02)〝「大歳庚寅」銘鉄刀の目的〟
同「洛中洛外日記」342話(2011/10/09)〝「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)〟
正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」『古田史学会報』107号、2011年。
古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」『古田史学会報』107号、2011年。
③古賀達也「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟
正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」『古田史学会報』157号、2020年。
古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」『東京古田会ニュース』192号、2020年。
正木 裕「『壹』から始める古田史学・三十三 多利思北孤の時代Ⅹ 多利思北孤と九州年号と「法興」年号」『古田史学会報』167号、2021年。

Youtube 講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y
古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3053話 2023/06/26

元岡遺跡出土木簡に

     遺る王朝交代の痕跡(3)

 福岡市西区元岡・桑原遺跡群からは、「大寶元年」(701年)木簡(第20次調査)の他に七世紀末の紀年木簡が出土(第7次調査)しています。「壬辰年韓鐵□□」(□は判読不明文字)と記された荷札木簡で、「壬辰年」は伴出した土器の編年から、692年のこととされています(注①)。従って、これは王朝交代前の干支紀年木簡で、九州年号の朱鳥七年に当たります。ちなみに、「大寶元年辛丑」は九州年号の大化七年に当たります。

 当木簡に示された「韓鐵」が荷物の鉄製品・素材のことなのか、それとも地名なのかは判断し難いのですが、同遺跡群からは製鉄遺構が出土しており、それとの関係は否定できないと思われます。また、「壬辰年」と「韓鐵」の文字が連続していることを重視すれば、〝壬辰年(692年)に韓半島から届いた鉄〟という理解も可能です(注②)。

 出土した「壬辰年韓鐵」と「大寶元年辛丑」(701年)木簡を多元史観の視点から考察すれば、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代(701年)を跨いで、二つの王朝の木簡紀年表記の変化(干支→年号)を混乱なくスムーズに受け入れたことがわかります。すなわち、当地に於いて王朝交代は混乱なく行われたことを意味します。しかも、九州年号「大化七年(701年)」が継続していたにもかかわらず、大和朝廷の新年号「大宝元年」を干支表記「辛丑」と併用していることから、木簡の記載者は〝年号〟の持つ意味や使用方法を知悉していたと思われます。これには、最初の九州年号「継体」(元年は517年。注③)から続く年号使用の歴史的背景があったこと、言うまでもないでしょう。いわば、筑前国嶋郡は年号使用の最先進地だったのです。(つづく)

(注)
①『元岡・桑原遺跡群12 ―第7次調査報告―』(福岡市教育委員会、2008年
②「韓鐵」を朝鮮半島からの原料鉄とする次の先行説がある。
服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。
③「継体」を最初の九州年号とするのは、『二中歴』年代歴による。

 

参考 Youtube講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y

古田史学の会・関西例会
2023年8月19日