九州年号一覧

第380話 2012/02/02

聖徳太子と九州年号

先日、NHKのBS放送で聖徳太子の特別番組が放送されたそうです。事前に何人かの会員の方からその番組のことをお知ら せいただいたのですが、あいにく我が家のテレビではBS放送は映らず、同番組を見ることができませんでした。放送を見た人のお話では、あいかわらず近畿天 皇家一元史観による「陳腐」な内容だったようです。
ちょうど良い機会ですので、聖徳太子と九州年号が意外と関係が深いというテーマについてご紹介したいと思います。
たとえば後代に編纂された『聖徳太子伝』などの聖徳太子の伝記類には、九州年号の「金光」「勝照」「端政」などが散見されます。おそらく、九州王朝の天 子・多利思北弧やその太子、利歌彌多弗利の九州年号付きで記された年代記を盗用する際、九州年号がそのまま残されたものと推察しています。
さらに、法隆寺にも九州年号が記された文書が存在しているようなのです。それは「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているもので、X写真によれば、その箱の中 に3枚の文書が入っており、それらは聖徳太子と善光寺如来との間で交わされた書簡とされています。その内、1通は国立東京博物館に明治時代の写しが現存し ています。他の2通の内容は不明です。
法隆寺側は「御文箱」を永久に封印する方針とのことなので、その聖徳太子の書簡を見ることはできないのですが、残りの2通に九州年号が記されている可能 性が濃厚なのです。そこで、何とかその往復書簡の内容を調べたいと思い、わたしは善光寺側の史料を調査したのですが、なんと善光寺側はそれら書簡を公開し ていたのでした。
詳しくは拙論「九州王朝仏教史の研究」(『「九 州年号」の研究』に収録)を読んでいただきたいのですが、聖徳太子からの手紙に「命長七年」という九州年号が記されていたのです。すなわち、聖徳太子と善 光寺如来の往復書簡とは九州王朝の天子と善光寺との書簡だったのです。おそらく、それら書簡が法隆寺移築時か後に法隆寺にもたらされ、聖徳太子の書簡とし て伝来されたようです。
このように聖徳太子と九州年号は結構関係が深いのですが、こうした史料状況は聖徳太子伝説の多くが九州王朝の伝承だった可能性を強く感じさせるのです。


第377話 2012/01/20

日本刀と九州年号

今日は岐阜県関市に来ています。関市といえば「関の孫六」で有名な日本刀の産地で、今でも日本刀が関市で造られているようですが、日本刀と九州年号に関係があることをご存じでしょうか。
『刀剣美術』384号(昭和64年、新年号)に掲載された間宮光治さんの「刀剣古伝書と九州年号」によれば、『銘尽正安本写』(刀剣博物館蔵)などに九 州年号が散見されることが報告されています。たとえば『佐々木氏延暦寺本銘尽』によれば、「海中 継体天皇御宇、善記年中、二尺三寸剣竜王作」「宗(方+ ム) 法清年中、走雲鬼作、号野干剣焼無之夜暗ヲハラス」「長光 師安年中 鬼作、忠崎(ナカゴサキ)三ニ破タリ 長二尺」「天雲 継体天皇御宇 教到年 中、天(火+兼)切作之」といった記事があり、九州年号の「善記」「法清」「師安」「教到」「朱鳥」が記されています。
刀剣の作成時期が九州年号で記されており、興味深い史料です。刀剣博物館でそれら刀剣古伝書を実見したいものです。
この他にも、刀剣古伝書には九州年号に関して面白い史料があり、いつかご紹介できればと思っています。関市への出張のおかげで、間宮さんの論稿を思い出 しましたので、ご紹介しました。ちなみに、間宮稿には製鉄加工技術の伝来は北部九州にもあったのではないかとされておられます。


第375話 2012/01/15

「これから出る本」

昨日の賀詞交換会に相模原市から参加された冨川ケイ子さんから面白いパンフレットをいただきました。「これから出る本」(2012年No.2、日本書籍出版協会)というもので、近々発刊される本を紹介するものです。
その歴史図書の欄に『「九州年号」の研究』が紹介されていたのですが、同じ欄に久保常晴著『日本私年号の研究(新装版)』(吉川弘文館、14700円) も掲載されていました。この本は九州年号研究者であれば知らない人はいないという一冊なのです。九州年号偽作説に立っていますが、九州年号史料をが多数紹 介されており、史料調査に大変役立ちました。わたしが研究を始めた20年前には既に市販されていませんでしたので、京都府立総合資料館で長時間閲覧したも のでした。
このような古代や中世の逸年号の研究書が復刻発刊されるということに驚きましたが、おそらく九州年号に対する興味が古代史ファンに広がっている反映だと 思われます。古田説や九州王朝説が確実に浸透していることが、このことからもうかがえます。2012年が古田史学にとって画期となる年となる予感がしてい ます。


第373話 2012/01/13

『「九州年号」の研究』編集後記

 今日は大阪で仕事をしています。お昼休みを利用して、紀伊国屋書店(本町店)をのぞいてきました。もちろん目的は『「九州年号」の研究』がおいてあるかどうかの確認です。その結果は、幸いなことに何と古代史コーナーに平積みで並んでいました。ありがたいことです。わたしは紀伊国屋書店が大好きになりそうです。
 ミネルヴァ書房の田引さんの話では、『「九州年号」の研究』は順調に売れているそうです。そこで、田引さんのご了承を得ましたので、『「九州年号」の研究』の編集後記を転載します。まだお読みになっていない方に、同書の概要をご理解いただけると思いますので。

『「九州年号」の研究』編集後記

 古田武彦先生が日本古代史学の分野に多元史観を提唱され、その中核をなす九州王朝説はそれまでの大和朝廷一元史観の閉塞を打ち破り、真実の古代史像をわたしたちの眼前に示されたのであるが、その主要テーマの一つが九州王朝(倭国)の年号「九州年号」であった。
 以来、古田先生を初め古田説支持者による九州年号研究は、各地に遺存する九州年号や九州年号史料の調査発掘という第一段階を経て、その年号立ての原形論研究という第二段階へと発展したのであるが、『二中歴』所収「年代歴」の九州年号が最も原形に近いとする一定の「結論」を迎えた後は、その九州年号に基づいた九州王朝史の究明というテーマを中心とする第三段階へと進んだ。本書はその第三段階での主たる研究論文などにより構成されている。
 本書には、正木裕さんと冨川ケイ子さんの秀逸の論文を収録できた。お二人は「古田史学の会」における優れた研究者であり、わたしも関西例会などで繰り返し意見を闘わし、共に研究を進めてきた学問的同志である。
 正木さんの、九州年号を足がかりとした『日本書紀』の史料批判による九州王朝史復原研究は、近年の古田学派における質量ともに優れた業績である。冨川さんによる、明治時代における九州年号研究の発掘は、古写本「九州年号」の実在を鮮明にしたものであり、同写本の再発見をも期待させるものである。
 最近の十年間における最も大きな九州年号研究の成果といえば、やはり「元壬子年」木簡の「発見」であろう(芦屋市三条九ノ坪遺跡、一九九六年出土)。当初、この木簡は『日本書紀』の白雉年号にあわせて「三壬子年」と解読されてきたが、わたしたちによる再検査により、その文字は「元壬子年」であり、『二中 歴』などに記されている九州年号の白雉元年壬子(六五二)に相当する九州年号木簡であることが判明したのである。
 同木簡の写真と赤外線写真(大下隆司さん撮影)を本書冒頭に掲載した。九州王朝や九州年号を認めない大和朝廷一元史観の古代史学界はこの九州年号木簡の 「発見」に対して、今も黙殺を続けているが、それでこの木簡が消えて無くなるわけではない。九州王朝と九州年号の真実の歴史の「生き証人」として、この木 簡は古代史学界を悩ませ続けるに違いない。
 本書の序文は「古田史学の会」代表水野孝夫さんからいただいた。水野さんもまた「古田史学の会」草創の同志であり、人生の先輩でもある。本書を「古田史学の会」の事業として出版することに御賛同いただいたものであり、感謝に堪えない。古田先生からは巻頭論文を新たに書き下ろしていただいた。ありがたい御配慮である。
 わたしが古田武彦先生の著作に感銘し、その門を叩いたのは今から二五年前のことである。以来、古田先生の学説や学問の方法に学び、主たる研究テーマの一 つとして九州年号の研究に没頭してきた。その二五年間の集大成ともいうべき本書を上梓することにより、学恩に僅かでも報いることができれば、まことに幸いとするところである。
二〇一一年七月二四日記    古賀達也


第372話 2012/01/11

八重洲ブックセンター

東京から名古屋に向かう新幹線の車中にいます。今日のお昼に、東京駅八重洲口にある有名な書店、八重洲ブックセンターに 寄りました。目的は『「九州年号」の研究』がおいてあるかの確認です。というのも、正月明けに名古屋の知人から、名古屋駅ビルにある大型書店の三省堂に 『「九州年号」の研究』が並んでいないとの連絡があったからです。それでちょっと心配になり、出張を利用して八重洲ブックセンターに行くことにしました。
四階(だったと思います)の古代史コーナーに古田先生のコーナーがあり、そこに『「九州年号」の研究』が先生の著作とともに並んでいました。「古田史学 の会」の会誌『古代に真実を求めて』も全巻そろえてあり、改めて古田先生の人気と存在感を実感したしだいです。(名古屋に着いてから駅ビル11階にある三省堂書店ものぞきましたが、『「九州年号」の研究』があり一安心でした。)
「古田史学の会」の事業の一環として、来年度からは『「九州年号」の研究』の全国主要図書館や大学図書館への寄贈も検討していきたいと思います。大和朝 廷一元史観に風穴をあけるため、古代史ファンの目に入る場所へ「九州王朝」説や「九州年号」説を届けたいと考えています。皆様のご協力もよろしくお願いい たします(ご近所の図書館へ推薦してください)。


第354話 2011/11/30

副題「近畿天皇家以前の古代史」

 東京に向かう新幹線のぞみの車中で書いています。あいにくの曇り空で富士山が見えなくて残念です。
 『「九州年号」の研究』第3校の校正もようやく終わり、現在は表紙レイアウトや帯の内容作成に入っています。順調に行けば年内発刊となりますが、全国の書店に並ぶのは年明けになるかもしれません。編集や刊行に向けてずっと支えていただいたミネルヴァ書房の田引さんに感謝しています。
 表紙のレイアウトも送られてきましたが、わたしは大変気に入っています。「元壬子年」木簡や『二中歴』などがデザインとして用いられており、本の内容ともうまくマッチしています。皆さんにもきっと気に入っていただけるのではないでしょうか。
 また、本の題名だけでは九州王朝や九州年号をまだご存じない人にはわかりにくいのではないかと考え、「近畿天皇家以前の古代史」という副題をつけました。古田先生の『失われた九州王朝』の副題「天皇家以前の古代史」を参考にしたものです。
 『「九州年号」の研究』の校正を終えて、最初に思ったことは、10年後には続編を必ず出そうということでした。同書編集中にも優れた論考が発表されたことや、水野さんの指摘にあった「なぜ『二中歴』が九州年号史料として優れているのか」という説明などが未収録となったからです。
 具体的には、正木さんの「法興」「聖徳」「始哭」に関する考察、「洛中洛外日記」に連載した「九州年号の史料批判」などを続編に掲載したいと思っています。発行前に気の早いことではありますが、これからの10年間、さらに九州年号研究を進めたいと決意も新たにしています。そして、この本の読者から九州年号研究者が誕生することを期待しています。
 なお、ミネルヴァ書房からは「二倍年歴の研究」の上梓もお勧めいただいており、こちらも少しずつでも取り組み始めなければと、自分に言い聞かせているところです。

第352話 2011/11/20

和歌木簡と九州年号

 昨日の関西例会で、わたしは「和歌木簡と九州年号」という研究発表を行いました。難波京整地層から出土した「春草」木簡と呼ばれるもで、650年頃のものとされています。「はるくさのはじめのとし」と読める万葉仮名が記されており、和歌木簡と見られています。
 「春草の」という言葉は万葉集でも「枕詞」の類として柿本人麿の歌にも見られますが、わたしはこの木簡の後半部分「はじめのとし」という表現に注目しま した。お正月を示す「年の始め」という表現はよく見られますが、「はじめの年」という表記を和歌で見た記憶がなかったからです。
そこでわたしは、この「はじめのとし」を「元(はじめ)の年」と理解し、ある九州年号の元年を意味するものとする説を発表しました。具体的にはその出土 地層の年代から、九州年号の常色元年(647)に読まれた歌ではないかと推測しました。「春草の」という「枕詞」も柿本人麿の歌では「大宮処」「わが大王」といったものに関わって使用されていることから、この和歌木簡の「はるくさの」も、 春草が勢いよく成長するように九州王朝の天子の権勢を形容したものであり、その天子の常色元年を言祝(ことほ)いだ歌ではなかったでしょうか。
 ちなみに九州年号の常色年間は評制が全国に施行され、我が国初で最大規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮の建設も始まっており、九州王朝史において 特筆される時期だったのです。そのことを言祝いだ和歌木簡が難波京整地層から出土したことも偶然とは思われません。
 このわたしの新説はいかがでしょうか。なお、11月例会の発表は次の通りでした。中でも、水野さんが紹介された「百済人祢軍墓誌」は7世紀後半の重要な内容が記されており、画期的な発見です。この点、今後報告したいと思います。〔11月度関西例会〕
1). ヘブライ語のミリアム(向日市・西村秀己)
2). 鬼前太后・干食王后・法興元で頓挫(豊中市・木村賢司)
3). 「伊都国」の論理 ーー邪馬一国、首都の変遷(姫路市・野田利郎)
4). 第八回古代史セミナー(八王子)主な項目(豊中市・大下隆司)
5). (彦島の)伊勢の地を探す(大阪市・西井健一郎)
6). 和歌木簡と九州年号(京都市・古賀達也)
7). 磐井討伐の詔の正体(川西市・正木裕)
8). 卑弥呼の名字(木津川市・竹村順弘)
9). 広開土王碑17年条と山海経記事(木津川市・竹村順弘)
10).南斉書の百済王名(木津川市・竹村順弘)○代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・百済人祢軍墓誌の追跡・他。

第351話 2011/11/17

九州年号の史料批判(6)

 今日は東京へ向かう上越新幹線「Maxとき」の車中でこの原稿を書いています。車窓から見える山々の景色がとてもきれいです。

 『二中歴』の史料批判もいよいよ最後の局面となりました。なぜ『二中歴』には大長がなくて、他の年代歴には大長があり朱鳥が消えた理由の解明です。
 この謎をわたしは、「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」 という論文で明らかにしました。その謎解きのキーポイントは「大長は701年以降の九州年号」ということでした。詳しくは両論文を読んでいただきたいと思いますが、後代に成立した三次史料としての年代暦は基本的に701年以後の大和朝廷の年号へと続いており、『二中歴』も例外ではありません。すなわち、九州年号の時代は九州年号を用いて年代を特定し、701年以降は大和朝廷の年号(大宝から)を使用して歴史を記述するという体裁をとっているのです。
 たとえば『二中歴』は継体から始めて大化までの九州年号を記した後、701年からは大和朝廷の年号、大宝へと続いています。その他の年代暦を「集約」して提唱された「丸山モデル」では朱鳥が無く大化・大長と続いて、同じく701年からは大宝へと大和朝廷の年号へ継続しています。
 これらの史料状況から、わたしは最後の九州年号は大長であり、704年を元年として九年間続き、712年に九州年号が終わっているとする「古賀試案」を発表しました。比較すると次のようです。

西暦   二中歴  丸山モデル 古賀試案

686  朱鳥元年 大化元年  朱鳥元年
692  朱鳥七年 大長元年  朱鳥七年
695  大化元年 大長四年  大化元年
700  大化六年 大長九年  大化六年
701  大宝元年       大化七年
703  大宝三年       大化九年
704  慶雲元年       大長元年
712  和銅五年       大長九年

 このように『二中歴』とその他の年代暦の差異は九州年号と大和朝廷の年号とのつなぎ方の違いだったのです。
 『二中歴』では大和朝廷の最初の年号である大宝とつなぐため、大化を六年で終わらせたのであり、「丸山モデル」に代表されるその他多くの年代暦は朱鳥の九年間をカットし、更に大化も六年でカットし、その分だけ大長を700年までに押し込み、九州年号から大和朝廷の大宝へと続けたのです。
 九州王朝が滅亡し、史料としての九州年号が残った後代において、各年代暦編纂者たちは九州年号と大和朝廷の年号との「整合性」を保つために、『二中歴』 のような単純カットによるつなぎあわせか、「丸山モデル」のように朱鳥をカットして、最後の九州年号である大長から大宝へとつなぐという史料操作を行った のです。
 こうした理解に立って、初めて『二中歴』タイプと「丸山モデル」タイプの年号立てが後代において発生したことを説明できるのです。
 こうしてようやくわたしは『二中歴』の史料としての優位性と、701年以降の九州年号の存在という新たな歴史理解に到達することができたのです。
 九州年号の史料批判の方法と研究経緯を6回にわたって記してきましたが、三次史料の優劣を判断する史料批判を何年もかけて続け、ようやく真実に近づくことができたのです。歴史研究において三次史料の取り扱いの難しさについて、参考にしていただければ幸いです。


第350話 2011/11/16

九州年号の史料批判(5)

 今日は新潟県長岡市のホテルでこの原稿を書いています。昨日から新潟も冷え込んできたようです。

 『二中歴』の史料批判を続けます。「丸山モデル」が提起した疑問、朱鳥は本当に九州年号なのか、それとも『日本書紀』編纂持の造作なのかという問題は比較的早くに解決を見ました。
 「朱鳥改元の史料批判」 という論文で指摘したのですが、『日本書紀』の三年号のうち、大化は50年遡らせて盗用され、白雉は2年ずらして盗用されていますが、この二つの年号を孝 徳天皇の10年の在位期間(645−54)にぴったりあわせて盗用しています。ところが、朱鳥は一年間だけ天武天皇末年(686)という中途半端な盗用となっています。どうせ盗用するなら、あるいは造作するのであれば持統元年に盗用すればよいはずです。ところが、『日本書紀』編纂者は中途半端な天武天皇末 年の一年間だけを「朱鳥元年」としました。
 この不自然な史料状況は、逆に朱鳥こそ正しく九州年号通りに、その元年を686年とした結果であり、朱鳥年号の実在性を証明する史料状況と考えざるを得ないことに、わたしは気づいたのです。
 そして、朱鳥年号こそ九州年号からその元年のみを正確に『日本書紀』は盗用したという論理性を、わたしは「朱鳥改元の史料批判」で指摘したのでした。
 また金石文として「朱鳥三年」と記されている鬼室集斯墓碑の信憑性についても「二つの試金石ーー九州年号金石文の再検討」という論文で論証していましたので、朱鳥を持たない「丸山モデル」よりも、朱鳥を持つ『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いという確信を深めたのです。しかし、なぜ『二中歴』には大長がないのかという疑問は残されたままでした。(つづく)


第349話 2011/11/15

九州年号の史料批判(4)

 今、東京八重洲のブリヂストン美術館のティールームでこの原稿を書いています。コーヒーも美味しいし、おしゃれなお店なので、東京出張のおり にはよく利用しています。店内には長谷川路可(1897−1967)のフレスコ画が飾られており、とても気持ちのいい空間で気に入っています。

 さて、話しを『二中歴』にもどします。「丸山モデル」が提唱された後も、古田先生は『二中歴』の史料的優位性を主張されていました。その理由の一つは、他の年代暦に比べて『二中歴』は成立が早いということでした。多くの年代暦はせいぜい室町期の成立であり、比べて『二中歴』は鎌倉初期であり、 九州年号群史料としては現存最古のものなのです。
 更に、こちらの方がより重要なのですが、『二中歴』「年代歴」に記されている細注記事の内容が、近畿天皇家とは無関係であるという史料性格です。
 多くの年代暦は近畿天皇家などの事績を九州年号という時間軸を用いて記載するという史料状況(年号と記事の後代合成)を示しているのですが、これは九州年号史料にあった年号を、後代において「再利用」したものである可能性が高く、これら年代歴そのものは同時代九州年号史料の本来の姿を表したものではないからです。
 その点、『二中歴』「年代歴」の九州年号記事は九州王朝内で成立した九州年号史料の集録という史料状況(同時代九州年号史料の再写・再記録)を示しており、それだけ年号の誤記誤伝の可能性が少なく、その年号立てについても信頼性が高いのです。
 そして、古田先生は各年代暦の「多数決」あるいは最多公約数的な年号立てによる「丸山モデル」は学問の方法として不適切と言われていました。学問は各史料ごとの優位性の論証が基本であり、多数決で決まるものではないと主張されたのです。この指摘は大変重要なことで、古田史学が一元史観と根本的に異なる学問の方法論にかかわることなのですが、古田学派内でも残念ながら十分理解されていないケースも見受けられます。
 こうした古田先生の指摘を受けて、わたしも徐々に『二中歴』の重要性を認識するに至ったのですが、同時に、それではなぜ朱鳥のない多くの年代暦が後代に発生したのか、なぜ他のほとんどの年代暦にある大長が『二中歴』にはないのかという、二つの疑問点に何年も悩み続けることとなったのです。(つづく)


第348話 2011/11/15

九州年号の史料批判(3)

 九州王朝や九州年号研究において、一次史料や二次史料は比較的その信頼性が高いこともあり、論証や仮説の構築に使用しやすいのですが、三次史料になると 同類史料の数や写本間の異同も増えて、史料批判が難しくなります。すなわち、どの三次史料がどの程度歴史の真実を反映しているかの判断が難しくなるのです。
 たとえば九州年号群史料として、中世以降数多く成立した年代暦の類がありますが、これら年代暦の史料としての優劣の判断が九州年号研究においても論争の対象となっていました。
 現在の研究水準では『二中歴』所収「年代歴」に記された九州年号の年号立てが最も原型に近いとされていますが、当初は朱鳥がなく大長がある、いわゆる 「丸山モデル」(丸山晋司氏が提唱)が本来の九州年号の年号立てと見なす説が有力でした。わたしも一時期そのように考えていました。
 その理由の第一は、『二中歴』を除く多くの年代暦には朱鳥がなく大長があること。第二に、『日本書紀』にまで記された朱鳥が本当に存在したのなら、多くの年代暦から消えていることの説明がつかない。したがって九州年号にはもともと朱鳥は無かったという理由からでした(『日本書紀』の朱鳥は『日本書紀』編纂時の造作とする)。
 このような年代暦史料の「多数決」と、朱鳥が消えた理由を説明できないという「論理性」が、朱鳥があり大長がない『二中歴』よりも、「丸山モデル」を正しいとする根拠だったのです。
 もちろんこの「丸山モデル」に対する強力な反論もありました。熊本市の平野雅曠さん(故人)から、『日本書紀』の三年号のうち、大化と白雉を九州年号からの盗用としながら、朱鳥だけは造作とする根拠がない、というものでした。今から考えればこの平野さんの指摘は史料批判上もっともなものだったので、丸山さんもこの批判に対して有効な反論ができていませんでした。こうしたこともあり、『二中歴』が見直されるようになったのです。(つづく)


第347話 2011/11/12

九州年号の史料批判(2)

 文献史学での文字史料の優劣の判断基準で最も重要なものに、史料の同時代性という尺度があります。通常それは一次史料とか二次史料・三次史料といった表現で表されるのですが、九州年号で言えば、6世紀や7世紀の九州年号が実用されていた時代、すなわち同時代に記された史料は一次史料と呼ばれ、 最も信頼性の高い文字史料とされます。
 たとえば、その時代の木簡や金石文などに記された九州年号が一次史料となり、具体的には芦屋市から出土した「元壬子年」木簡(652年、白雉元年)や法隆寺釈迦三尊像光背銘の「法興元三一年」(621年)、「朱鳥三年戊子」鬼室集斯墓碑(688年)、「大化五子年」土器(699年)などがそれに当たりま す。こうした一次史料は九州年号存在の直接証拠でもあり、歴史研究において最も重視されるべきものです。
 ただし一次史料においても、史料そのものの信頼性についての検証が必要となるケース(真偽論争など)もあり、その場合は史料の自然科学的調査(年代測定など)や、他の同時代史料との整合性の検討が必要となります。
 一次史料に次いで重要なものが二次史料であり、一次史料に基づいて記された史料がそれに該当します。例えば、一次史料を書写した写本とか、同時代金石文の拓本や実見記録などです。具体例としては、「白鳳壬申年」骨蔵器(672年、『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)などがそれに当たります。江戸時 代に博多湾岸から出土した「白鳳壬申年」骨蔵器のことが、筑前黒田藩の地誌『筑前国続風土記附録』に記録されているのですが、実物は既に失われています。 しかし、黒田藩公認の地誌に記されている九州年号金石文の記録ですから、かなり信憑性の高い二次史料です。
 さらに、二次史料を引用したり、記録したものが三次史料となるのですが、歴史史料として利用できるのは、せいぜいこの三次史料まででしょう。例外的には 四次史料などでも他に同類のものがない場合とか。その信憑性が当該史料以外の証拠などで保証される場合は歴史史料として使用できるケースもあります。
 従って、歴史研究において根拠とする史料はなるべく一次史料か同時代史料に近い二次史料などに溯って調査採用することが要求されるのです。
ところで、『日本書紀』にも大化・白雉・朱鳥の九州年号が盗用されていますが、これは何次史料にあたると思いますか。720年に『日本書紀』は成立していますから、九州年号実用時代とはかなり近い時代です。しかし、厳密には同時代ではなく、九州王朝滅亡後に九州年号を盗用(九州王朝史書からの引用)した史書ですから、恐らく二次史料に相当するでしょう。そういう意味では、『日本書紀』は九州王朝や九州年号を研究する上でも、同時代史料に近い貴重な二次史料 という性格も有しているのです。(つづく)