「大寶建元」の論理
『日本書紀』の三年号、大化・白雉・朱鳥が九州年号からの「盗用」、あるいは「実用」であったことは既に述べてきたところですが、実はそのことを端的に示している有名な史料があります。『日本書紀』の続編である『続日本紀』です。
大和朝廷にとって最初の年号である大寶の建元記事が『続日本紀』大寶元年(701)三月条に次のように記されています。
「対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大寶元年と為す」
初めての年号に施行にしては大変素っ気ない記事ですが、ここでははっきりと「建元」とあります。一つの王朝が年号を最初に創ることを「建元」といい、それ以後は「改元」です。これが年号制定と継続の表記ルールなのです。ですから、『続日本紀』編纂者たちは大和朝廷にとって初めての年号、大寶を「建元」と表記したのです。大寶以後は、現在の平成に至るまで「改元」であることも当然です。
そうすると、『日本書紀』の三年号は大和朝廷の年号ではないということになります。その証拠に、『日本書紀』においても、最初の大化も「建元」ではなく「改元」(斉明天皇即位前紀)と表記されています。もちろん、白雉も朱鳥も「改元」と表記されています。このように、『日本書紀』において大和朝廷の史官たちは「建元」という表記を使用しなかったのです。何故なら、『日本書紀』が成立した720年時点では、既に大寶が701年に「建元」されていたのですから、当然と言えば当然のことでしょう。
このように、『続日本紀』に見える「大寶建元」の史料事実と論理性は、『日本書紀』の三年号が別の王朝の年号であることを前提としており、すなわち九州王朝と九州年号の実在を証明しているのです。この史料事実と論理性に対して、やはり大和朝廷一元史観や九州王朝説反対派の人々は全く反論できていません。
せいぜい、『日本書紀』の三年号は存在しなかった、使用されていなかった、くらいの弁舌でお茶を濁しているのが実状です。ここにおいては、芦屋市出土の(白雉)「元壬子年」木簡の存在は完全に無視されています。紀年銘木簡としては二番目に古いこの木簡の存在を、いやしくも古代史研究者であれば知らないはずがありません。古田説だけではなく、木簡の出土事実まで無視せざるを得ないのですから、彼らも相当に困っているのです。
なお、付け加えれば、『日本書紀』の三年号に困ったのは現代の一元史観の学者だけではなく、『続日本紀』編纂者たちも同様だったと思われます。何故なら、大和朝廷にとって初めて年号を建元したのですから、この画期的な業績を祝賀する記念行事や、年号建元の詔勅があったに違いありませんが、それらが『続日本紀』では見事にカットされているのです。大化・白雉・朱鳥を、いかにも自らの年号かのように「盗用」した『日本書紀』の手前、大寶を初めての年号であるとする詔勅や記念行事を『続日本紀』に掲載することを憚ったのでしょう。しかし、先在した九州王朝の痕跡を消し去るという「完全犯罪」は、古田武彦氏の九州王朝説により露呈し、『日本書紀』や『続日本紀』にもその痕跡を完全に消し去ることはできなかったのです。これが、「大寶建元」の論理と結末です。
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