和田家文書一覧

第3295話 2024/06/01

奈利田浮城

 『幻想の津軽中山古墳群』再読 (1)

書棚を整理して、不要な蔵書を古書店に売却しています。そのおり、恐らく30年前の和田家文書調査時に入手した奈利田浮城著『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』のコピーが出て来ました。青森県のどこかの図書館でコピーしたものと思いますが、入手時の記憶がありません。あちこちに傍線を引いているので、それなりに読み込んではいるようですが、再読したところ、当時は気づかなかった重要な記事が散見されましたので、紹介します。

同書は津軽地方に古墳があったとする仮説に基づいて、五所川原市周辺の墳丘形状の遺構を紹介したものです。発行は昭和51年(1976年)とわたしが付記していますので、当時の様子がうかがえる貴重な〝証言〟にもなっています。出版社名が不明でしたのでwebで調べましたが、著者名・出版年次(昭和51年1月)は確認できますが、どうしても出版社名がわかりません。そこで、同書を所蔵していた弘前大学図書館に電話でたずねたところ、同館の所蔵本にも出版社名は記されていないとのことで、「私家版」のようです。著者名の奈利田浮城はペンネームと思われ、本名は成田不二雄さんかもしれません(注①)。 CiNii(注②)によれば、奈利田浮城氏による次の著書がありました。

『小説御所河原起源史』奈利田浮城著 成田不二雄 1974.1
『古代探訪 幻想の津軽中山古墳群』奈利田浮城著 成田不二雄 1976.1
『古代津軽の酋長豪族 奇伝異説』奈利田浮城著 高楯城史跡保護会 1978.11
『津軽蝦夷乃王国始末顕』奈利田浮城著 北奥文化研究会 1981.10
『あおもり古代史69の謎』奈利田浮城著 西北刊行会 1988.2

なお、私家版とは言え、「五所川原市長 佐々木栄造」による序文があり、「題字 青森県知事 竹内俊吉」とされており、著者の交友範囲がうかがえ、興味深く思います。(つづく)

(注)
①国立国会図書館サーチによれば、同書著者の欄に奈利田浮城、出版者に成田不二雄とある。
②CiNii(サイニィ、NII学術情報ナビゲータ、Citation Information by NII)は、国立情報学研究所(NII、National Institute of Informatics)が運営するデータベース群。ちなみに、「古田史学の会」が編集発行する『古代に真実を求めて』(明石書店)はCiNii認定図書である。


第3267話 2024/04/10

『東日流外三郡誌の逆襲』全原稿脱稿

 昨年の八月六日、東京古田会の安彦会長と五反田の八幡書店を訪問し、武田社長に和田家文書研究の現況について説明しました。そのおり、武田社長より『東日流外三郡誌の逆襲』発行のご提案をいただいていたのですが、本日、ようやく予定していた最後の原稿「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」を書き上げました。

 同稿は『東日流外三郡誌の逆襲』の掉尾を飾る重要論文でしたので、構想と執筆に四ヶ月ほどかかりました。これからの和田家文書研究の方向性を指し示す内容でしたので、その方法論とそれが至るであろう研究結果に対する覚悟が必要となり、苦しみ抜いて書き上げました。小見出しと冒頭・最終の部分を紹介します。

謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―
古賀達也

一、はじめに

 本書序文の拙論「東日流外三郡誌を学問のステージへ ―和田家文書研究序説―」において、和田家文書を真っ当な文献史学の研究対象の場に戻すために本書を上梓した旨、述べた。ここにその研究方法を提起し、論理の導くところ、その予察をもって謝辞に代えたい。

二、和田家文書群の分類試案

三、《α群》の史料性格と現状

四、《β群》の史料性格と課題

五、《γ群》の史料性格と価値

六、真偽論争の恩讐を越えて

七、冥界を彷徨う魂たち

 あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として著したかったものと拝察した。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 結局、それを果たせないまま先生は二〇一五年に物故された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければならない。その一著が世に出るまで、東日流外三郡誌に関わった人々の魂は冥界を彷徨い続けるであろうから。


第3262話 2024/04/04

『東京古田会ニュース』215号の紹介

 『東京古田会ニュース』215号が届きました。拙稿「興国の津軽大津波伝承の考察 ―地震学者・羽鳥徳太郎の慧眼―」を掲載していただきました。同稿では、東日流外三郡誌に散見する興国の大津波伝承が、江戸期成立の津軽藩の文書にも記されていることを紹介しました。そして、〝興国の大津波は東日流外三郡誌にしか掲載されていない〟〝歴史事実ではない〟として、そのことを偽作の根拠とした偽作説に反論しました。ちなみに、同稿で紹介した津軽藩系史料とは次の文書です。「洛中洛外日記」(注)でも紹介しましたし、国文学研究資料館のデジタルアーカイブ収録「陸奥国弘前津軽家文書」で閲覧できます。

 下澤保躬「津軽系図略」明治十年(一八七七)。
陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(一八一二)。
「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明。

 『東京古田会ニュース』215号掲載論文で注目したのが、橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)の「古代史エッセー78 天智天皇紀の重複記事」でした。天智紀に散見される重複記事を紹介し、その年次のずれが、七年・六年・五年・三年・二年のケースがあることを指摘され、「それぞれに原因を考える必要がある」とされました。

 なぜか天智紀に重複記事が頻出するのですが、その理由について、本当に重複記事なのか、唐軍の筑紫進駐記事は実際に二度あったのではないかとする見解も古田先生から出されてきました。また、もし重複記事であるのならば、そのことに『日本書紀』編者たちは誰一人として気づかなかったのかという疑問を払拭できませんし、なぜ天智紀に頻出するのかという疑問にも答えることが出来ていないように思われます。橘高稿を読み、この重要な未解決テーマについて、多元史観・九州王朝説でも説明し切れていないことに、改めて気づきました。

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」3107~3109話(2023/09/08~10)〝地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝興国の大津波の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
同「洛中洛外日記」3112話(2023/09/13)〝興国の大津波の伝承史料「前代御系譜」〟
同「洛中洛外日記」3113話(2023/09/14)〝興国の大津波は元年か二年か〟


第3261話 2024/04/01

右膝の痛みと津軽行脚の思い出

 今日は右ひざのリハビリを兼ねて町内(鴨川右岸)のしだれ桜を見に行きました。天気も良くのどかな一日でしたが、桜は満開には程遠く、花見客も例年より少ないようでした。

 この二カ月ほど、『古代に真実を求めて』27集「倭国から日本国へ」(古田史学の会編、明石書店)の校閲作業や、今年の夏に発行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の原稿執筆のため部屋に閉じこもる日々が続き、足腰が弱っていました。そこで、先日、自宅から京都御所まで歩き、紫宸殿を早足で一周したのですが、それがまずかったようで、持病の右ひざ痛を発症してしまいました。数日痛くて歩けなかったのですが、今日は痛みがひいたので少しだけ散策しました。

 右ひざが痛むたびに古田先生のことを思い出します。三十年前のこと、古田先生と二人で何度も和田家文書調査の為、津軽を訪れたのですが、そのとき、わたしは先生と自分のキャリーバッグを両手で引きずって歩きました。先生のはやや小さめなので、わたしの体が傾き、長時間右ひざが圧迫された状態が続きました。ある日、津軽調査を終えて、先生とキャリーバッグを東京お茶の水のご自宅までお送りした後、駅の階段を降りようとしたとき、右ひざに激痛がはしりました。階段の手すりにしがみついて降りましたが、それ以来、右ひざ痛を度々発症し、特に年始の挨拶廻りでは必ず発症するという有様でした。

 リタイア後は、それほどひどい痛みは出なくなりましたが、筋力が弱り、寒くなると出ますので、適度な運動は欠かせません。ですから、右ひざの痛みを感じるたびに、古田先生との津軽行脚の日々を思い出すのです。そんな和田家文書研究の集大成ともいうべき一冊『東日流外三郡誌の逆襲』の執筆時に再発したのですから、不思議な縁だと感じています。果たして、先生は今のわたしを叱っておられるのか、褒めていただいているのか、どちらだろうかと思案する今日この頃です。


第3221話 2024/02/09

実在した『東日流外三郡誌』の

   編者「和田長三郎吉次」

東京古田会主催の和田家文書研究会(3月9日)で研究発表させていただくこととなりました。テーマは「東日流外三郡誌の編者 ―秋田孝季と和田長三郎吉次の痕跡を求めて―」です。

和田家文書偽作説の根拠の一つに、東日流外三郡誌の編者、秋田孝季や和田長三郎吉次という人物はいなかったというものがありました。いなかった証明などできないはずと思うのですが(俗に言う「悪魔の証明」の類)、それは〝和田家文書以外の史料にそのような人物名はない〟というヘンテコな〝論法〟でした。そもそも偽作論者が和田家文書以外の全ての史料の悉皆調査をしたなどとは聞いたこともなく、なぜそのようなことまで言えるのか、学問的にも到底理解しがたいものでした。

おそらく、このような偽作論者の思考パターンは、「戦後実証史学」がもたらす悪しき影響によるものと思いますが、こうした偽作説への反証として、わたしはエビデンスに基づく実証的な検証も試みてきました。例えば、江戸期の文化文政年間(1804~1830年)の史料に由来する、和田長三郎吉次の痕跡を見いだしました。その研究成果と今後の調査テーマについて、来る3月9日の和田家文書研究会にてリモート発表します。それは、わたし一人による調査研究成果ではなく、古田先生や青森の秋田孝季集史研究会の皆さん、各地の「古田史学の会」会員の方々のご協力に支えられたものです。そうした皆さんへの感謝を込めて発表します。


第3207話 2024/01/25

『東日流外三郡誌の逆襲』

      の編集作業始まる

八幡書店から発行される『東日流外三郡誌の逆襲』も、わたしの序文と謝辞、八幡書店・武田社長とわたしの対談録を残し、他の全て原稿と画像を提出しました。武田社長からも好評価をいただき、編集作業が始まりました。武田社長からは励ましのお電話と厳しい修正要請が届き、原稿修正に追われています。刊行日程は未定ですが、東京と青森で出版記念講演会を開催できればと考えています。
同書の目次案と掲載原稿(予定)は次の通りです。執筆協力していただいた皆さんへのご報告とお礼を兼ねて紹介します。

『東日流外三郡誌の逆襲』の企画案 2024.01.25改訂
※●は八幡書店に提出済

Ⅰ 序
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
●和田家文書研究のすすめ 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
●和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
●東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
●「東日流外三郡誌の逆襲」の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
○〔対談〕東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店社長 武田崇元・古賀達也

Ⅱ 真実を証言する人々
●『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
●松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言 古賀達也
●青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言 古賀達也
●藤本光幸氏(藤崎町)の証言 藤本光幸
●白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言 古賀達也
●佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言 古賀達也
●永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言 古賀達也
●和田章子さん(和田家長女)の証言 古賀達也

Ⅲ 偽作説への反証
●知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
●実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
●伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
●和田家文書に使用された和紙 古賀達也
●和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
●和田家文書の戦後史 ―津軽の歴史家、福士貞蔵氏の「証言」― 古賀達也
●昭和二十六年の東奥日報記事 古賀達也
●昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載 古賀達也
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
●佐藤堅瑞『金光上人の研究』の紹介 古賀達也
●開米智鎧「藩政前史梗概」と『金光上人』の紹介 古賀達也
●石塔山レポート 秋田孝季集史研究会

Ⅴ 和田家文書から見える世界
●宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
●二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
●中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
●『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
●浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
●浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
●大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
●田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
●秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子

Ⅵ 資料編
●和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
●役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也

Ⅶ あとがき
●「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
●新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
○謝辞 ―和田家文書史料批判の視点― 古賀達也


第3193話 2024/01/04

1月13日(土)、和田家文書研究会で発表

 ―興国二年(1341)、津軽大津波伝承―

 新年1月の講演会(1/14 福岡市、1/21 京都市)の前に、東京古田会主催の和田家文書研究会(1/13 14:00~)でリモートで研究発表します。テーマは、『東日流外三郡誌』や津軽藩系史料に記された〝興国の津軽大津波伝承の考察〟です。
和田家文書偽作キャンペーンで偽作の根拠の一つとして、『東日流外三郡誌』に見える〝興国二年(1341)、津軽大津波〟はなかったというものがありました。興国の大津波は考古学的痕跡も無く、和田家文書にしか記されていないことを偽作の根拠としました。しかし、興国の大津波は津軽藩系史料にも記されており(注)、偽作キャンペーンがここでも虚偽情報を流していたことが明らかとなりました。こうしたことを和田家文書研究会で発表させていただきます。
なお、この発表の後すぐに、翌日に控えた九州古代史研究会での講演のために福岡へ向かいます。

(注)
○古賀達也「洛中洛外日記」3107~3109話(2023/09/08~10)〝地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)~(3)〟
○同「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
○同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝“興国の大津波”の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
○同「洛中洛外日記」3112話(2023/09/13)〝“興国の大津波”の伝承史料「前代御系譜」〟
○同「洛中洛外日記」3113話(2023/09/14)〝“興国の大津波”は元年か二年か〟


第3182話 2023/12/18

『東日流外三郡誌の逆襲』の企画案

 『古代に真実を求めて』27集の編集作業も峠を越えて、年末年始にかけて初校ゲラ校正へと進みます。27集は掲載論文が増えましたので、増ページになる見通しです。2023年度賛助会員(年会費5000円)の皆様には、来春(4月頃)には発送できるかと思います。ご期待下さい。

 併行して進めている『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)も依頼原稿が続々と届いており、わたしもリライトを含め原稿執筆に取りかかります。企画構成の見直しも行っており、現状では下記のような案で進めています。こちらも来春頃に刊行できればと考えていますが、八幡書店とも相談しながら、後世に残る一冊にしたいと願っています。

【企画案】
Ⅰ 序
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
○和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
○東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
○「東日流外三郡誌の逆襲」の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
○〔対談〕東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀

Ⅱ 真実を証言する人々
○『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
○松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言
○青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言
○藤本光幸氏(藤崎町)書簡の証言
○白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言
○佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言
○永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言
○和田章子さん(和田家長女)の証言

Ⅲ 偽作説への反証
○知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
○『東日流外三郡誌』の考古学 古賀達也
○伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
○和田家文書に使用された和紙 古賀達也
○和田家文書に使用された美濃和紙 竹内強
○「偽書」を論ず ―「東日流外三郡誌」偽作説の本質―(仮題) 日野智貴
○和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
○『東日流外三郡誌』公開以前の史料 古賀達也
○『飯詰村史』(昭和二五年)に掲載された和田家文書
○福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』(昭和二六年)で発表された和田家史料
○福士貞蔵文庫に収録された和田家史料
○昭和二十年代の東奥日報記事
○昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
○佐藤堅瑞『金光上人の研究』の紹介
○開米智鎧『金光上人』の紹介
○石塔山レポート 秋田孝季集史研究会

Ⅴ 和田家文書から見える世界
○宮沢遺跡は中央政庁跡 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○浅草キリシタン療養所の所在地 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
○田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
○秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子

Ⅵ 資料編
○和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
○役の小角史料「銅板銘」全文の紹介

Ⅶ あとがき
○「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
○謝辞 ―和田家文書史料批判の視点― 古賀達也


第3167話 2023/11/28

『東京古田会ニュース』No.213の紹介

 『東京古田会ニュース』213号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の証言 ―令和の和田家文書調査―」を掲載していただきました。同稿は、本年5月6日~9日、青森県弘前市を訪れ、30年ぶりに実施した和田家文書調査の報告です。〝令和の和田家文書調査〟と名付けた今回の津軽行脚は、当地の「秋田孝季集史研究会」(会長 竹田侑子さん)の皆様から物心両面のご協力をいただき、数々の成果に恵まれました。同会への感謝を込めて同稿を執筆しました。その最後の一文を転載します。

 〝古田先生と行った津軽行脚〝平成の和田家文書調査〟から30年を経ました。初めて調査に同行したとき、先生は六七歳でした。そのおり、わたしに言われた言葉があります。

 「偽作キャンペーンが今でよかった。もしこれが10年後であったなら、わたしの身体は到底もたなかったと思う。」

 このときの先生の年齢に、わたしはなりました。貴重な証言をしていただいた津軽の古老たち、和田喜八郎さん、藤本光幸さん、そして古田先生も他界され、〝平成の調査〟をよく知る者はわたし一人となりました。後継の青年たちとともに、〝令和の和田家文書調査〟をこれからも続けます。〟

 当号の一面には竹田侑子さん(弘前市、秋田孝季集史研究会々長)の「消えた俾弥呼(1) 似て非なる二字 黄幢と黄憧」が掲載されていました。〝令和の調査〟で、お世話になった日々を思い起こしながら拝読しました。


第3158話 2023/11/12

八王子セミナー、深夜の編集会議

 昨日の午後から、待望の八王子セミナーに参加しました。特別講演(若井敏明さん)やその他の発表については別途紹介したいと思います。

 当日のイベントが終わった午後九時半から、わたしの部屋に集まり〝深夜の編集会議〟を開催しました。来春、八幡書店から発行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』の企画会議で、安彦克己さん(東京古田会・会長)、皆川恵子さん(東京古田会・松山市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・相模原市)とわたしの四名で、企画コンセプトや収録論文、追加テーマ、2冊目の企画方針などについて話し合いました。夜遅くまで意見を出し合い、その結論として「これはきっと面白い本になる」と全員が確信しました。この企画案を明日八幡書店に提案します。若干の変更はあるかもしれませんが、その概要を紹介します。

【タイトル案】
東日流外三郡誌の逆襲

【構成案】
Ⅰ 序   ※執筆者肩書きとタイトルは仮りのもの。
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
○和田家文書から見える世界 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
○和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
○東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
○東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元

Ⅱ 真実を証言する人々
○『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
○松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言
○青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言
○藤本光幸氏(藤崎町)書簡の証言
○白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言
○佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言
○永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言
○和田章子さん(和田家長女)の証言

Ⅲ 偽作説への反証
○知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
○『東日流外三郡誌』の考古学 古賀達也
○伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
○和田家文書に使用された和紙 古賀達也
○和田家文書に使用された美濃和紙 竹内強
○「偽書」を論ず ―「東日流外三郡誌」偽作説の本質―(仮題) 日野智貴
〇和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
○『東日流外三郡誌』公開以前の史料 古賀達也
○『飯詰村史』(昭和二五年)に掲載された和田家文書
○福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』(昭和二六年)で発表された和田家史料
○福士貞蔵文庫に収録された和田家史料
○昭和二十年代の東奥日報記事
○昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
○開米智鎧『金光上人の研究』の紹介
○佐藤堅瑞『金光上人』の紹介
○役の小角史料「銅板銘」全文の紹介

Ⅴ 和田家文書から見える史実 ※論文タイトルは仮題
○宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
○二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
○中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
○『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
〇浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
○浄土宗の『和田家文書』批判を糺す 金光上人の入寂日を巡って 安彦克己
○大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 玉川 宏
○〇石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
○田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子

Ⅵ 資料編

Ⅶ あとがき
〇「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
○謝辞  和田家文書史料批判の視点 古賀達也


第3131話 2023/10/04

『東京古田会ニュース』No.212の紹介

 『東京古田会ニュース』212号が届きました。拙稿「数学の証明と歴史学の証明 ―荻上紘一先生との対話―」を掲載していただきました。これは古代史研究ではなく、学問論に関するものです。昨年の八王子セミナーのおり、追加でもう一泊したので、数学者の荻上先生と対話する機会をいただき、そのやりとりを紹介した論稿です。

 わたしが専攻した化学(有機合成・錯体化学)は〝間違いを繰り返し、新説を積み重ねながら「真理」に近づいてきた。したがって自説もいずれは間違いとされ、乗り越えられるはずだと科学者は考え、自説が時代遅れになることを望む領域〟でしたが、数学は〝一旦証明されたことは未来に渡って真実であり、変わることはなく、そのことを全ての数学者が認め、ある人は認め、別の人は反対するということはあり得ない〟領域とのこと。このような化学・歴史学と数学の性格の違いを知り、とても刺激的な対談でした。

 当号の一面には讃井優子さんの「三多摩の荒覇吐神社巡り」が掲載されており、関東にある研究団体だけに、和田家文書や荒覇吐神への強い関心がうかがえます。安彦会長からも「和田家文書備忘録2 阿部比羅夫の蝦夷侵攻」という『北鑑』の研究が発表されています。『北鑑』は『東日流外三郡誌』の続編的性格を持つ和田家文書で、わたしも基礎的な史料批判を進めているところです。ちなみに、安彦さんのご協力も得て、『東日流外三郡誌の逆襲』(仮題)という本の発行に向けて執筆と編集作業を進めています。順調に運べば、来春にも八幡書店から発刊予定です。ご期待下さい。


第3113話 2023/09/14

〝興国の大津波〟は元年か二年か

 津軽を襲った〝興国の大津波〟を「東日流外三郡誌」には「興国二年」(1341年)の事件と、くり返し記されています。しかし、ごく少数ですが「興国元年」(1340年)あるいは同年を指す「暦応庚辰年」(「暦応」は北朝年号)とも記されています。管見では下記の記事です(注①)。

(1)「高楯城略史
(中略)
依て、安東氏は興国元年の大津浪以来要途を失せる飯積の領なる玄武砦を付して施領せり。(中略)
元禄十年五月  藤井伊予記」 (「東日流外三郡誌」七三巻、同①478頁) ※元禄十年は1697年。

(2)「十三湊大津浪之事
暦応庚辰年八月四日、十三湊の西海に大震超(ママ)りて、波濤二丈余の大津波一挙にして十三湊を呑み、その浪中に死したる人々十三万六千人なり。(後略)」 (「東日流外三郡誌」七五巻、同①488頁) ※「暦応」は北朝の年号。「庚辰年」は暦応三年に当たり、興国元年と同年(1340年)。

(3)「津軽安東一族之四散(原漢書)
十三湊は興国元年八月、同二年二月に起れし大津波に安東一族の没落、水軍の諸国に四散せることと相成りぬ。(中略)
寛政五年九月七日  秋田孝季」 (「東日流六郡篇」、同①514頁) ※寛政五年は1793年。本記事は興国の大津波が、元年と二年の二回発生したとする。

 この他に、「興国己卯年」「興国己卯二年」のような年号と干支がずれている表記も見えます。すなわち、「己卯」は1339年であり、年号は「延元四年(南朝)」あるいは「暦応二年(北朝)」で、興国元年の前年にあたります。次の記事です。

(4)「建武中興史と東日流
(中略)
亦、奥州東日流に於は(ママ)、興国己卯年十三湊の大津浪に依る水軍を壊滅せる安倍氏と、埋土に依れる廃湊の十三浦は(中略)
寛政庚申天  秋田之住 秋田孝季」 (「総序篇第弐巻」、同①426頁) ※「寛政庚申天」は寛政十二年(1800年)。

(5)「高楯城興亡抄
(中略)
依テ高楯城ハ興国己卯年ニ至ル(中略)
明治元年六月十六日  秋田重季 花押
右ハ外三郡誌追記ニシテ付書ス。」 (「三一巻付書」、同①426頁) ※「東日流外三郡誌」三一巻に「付書」したとされる当記事は年次的に問題があり、「東日流外三郡誌」とは別史料として扱うのが妥当と思われる。例えば、年号が明治(1868年)に改元されたのは同年九月であり、六月はまだ慶応四年であること、秋田重季氏は明治十九年の生まれであることから、これらを書写時(明治時代)の誤りと考えても、史料としての信頼性は劣ると言わざるを得ない。従って、「興国己卯年」の考察においては三~四次資料と考えられ、本論の史料根拠としては採用しないほうがよいかもしれない。

 この年号と干支がずれている表記がどのような理由で発生したのかは未詳ですが、「東日流外三郡誌」編纂時(寛政年間頃)に〝興国の大津波〟の年次を興国元年とする史料と興国二年とする史料とが併存していたと考えざるを得ません。この二説併存現象は先に紹介した「津軽系図略」(注②)や津軽家文書(注③)の史料情況と対応しているようで注目されます。
〝興国の大津波〟が元年なのか二年なのかは、これらの史料情況からは判断しづらいのですが、津軽家文書の編者らは元年説を重視し、「東日流外三郡誌」編纂者(秋田孝季、和田吉次)は二年説を妥当として採用し、元年説史料もそのまま採用したということになります。更には(3)に見えるように、秋田孝季自身の認識としては、元年と二年の二回発生説であることもうかがえそうです。このような両編纂者の認識まではたどれそうですが、どちらが史実なのかについては、史料調査と考察を続けます。

(注)
①八幡書店版『東日流外三郡誌2 中世編(一)』によった。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
同「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明(文化九年とする説がある)。