倭の五王一覧

第3523話 2025/08/28

多賀神社(宮城県名取市)の日本武尊伝承

 「洛中洛外日記」3522話〝宮城県の日本武尊伝承を持つ神社〟で紹介した神社伝承のなかで最も注目したのが名取市高柳下西に鎮座する多賀神社です。同神社の創建は景行天皇二八年(98)に日本武尊(景行天皇の皇子)が東征の際に勧請したと伝えられています。

 伝承によれば、日本武尊は東国遠征での連戦により当地で重病となり、そこで柳の樹で祭壇を設けて病気平癒を祈願すると完治したとされています。その後、この故事から棚柳と呼ばれるようになり、霊地には祠が設けられて信仰の対象になったとのことです。

 また、仙台藩の『奥羽観蹟聞老志』(注①)には、雄略二年(458)に初めて祭禮で圭田(注②)五八束を寄進されたとあり、同神社が『延喜式』神名帳に記された式内社の多加神社とされてきました。わたしが注目したのは、この雄略二年(458)の圭田寄進という伝承です。景行天皇二八年(98)に創建されたとする伝承の年代は信頼できませんが、雄略二年(458)であれば、『宋書』倭国伝に記された九州王朝(倭国)の東方侵略〝東征毛人五十五國〟の時期とほぼ対応するからです(注③)。

 「風土記ニ曰ク。多賀ノ神社、圭田五十八束、二字田。所祭、伊弉諾尊也。雄畧二年、始奉圭田ヲ行フ神禮式祭。
神名、秘書ノ説載ス之宮城郡多賀ノ下ニ。」『奥羽観蹟聞老志』巻五 「国書データベース」による。句読点は古賀が付した。
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100350427/1?ln=ja

 このように「雄略二年」という具体的な年次で伝承されているケースは、何らかの根拠(史料)に基づいている可能性が高いだけに貴重です。(つづく)

(注)
①『奥羽観蹟聞老志』は、仙台藩の史官佐久間洞巌が仙台藩主伊達綱村の命により、奥州の歴史・地名・産物などを主に纏めた地誌。享保四年(1719)の序がある。原本は宮城県立図書館が所蔵し、宮城県指定文化財に登録されている。
②けいでん【圭田】:「圭」は潔(きよ)いの意。 昔、その収穫を祭祀用にあてるために設けた田地。神田(しんでん)。
③『宋書』倭国伝によれば、「雄略二年(458)」は倭王済か興の時代にあたる。


第3522話 2025/08/27

宮城県の日本武尊伝承を持つ神社

 「「洛中洛外日記」」3518話〝狩野英孝さんの実家「櫻田山神社」の祭神「武烈天皇」〟では宮城県北部の栗原市にある櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)のご祭神として祀られている「武烈天皇」、3520話〝大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承〟では同県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊であることを紹介し、これらのご祭神は『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇や日本武尊に置き換えられて伝わったのかもしれないとしました。

 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に宮城県(蝦夷国)が含まれている可能性もあり、宮城県内の日本武尊伝承を持つ神社をWEBで探したところ、県内各地にあることを知り、驚きました。ブログ「宮城県・日本武尊・縁の社寺・温泉」によると大高山神社をはじめとして次の神社がリストアップされています。
https://www.miyatabi.net/sonota/yamatotakeru.html

大高山神社 (宮城県大河原町) 名神大社
多賀神社 (宮城県仙台市) 延喜式内社
多賀神社 (宮城県名取市) 延喜式内社
佐倍乃神社 (宮城県名取市)
熱日高彦神社 (宮城県角田市) 延喜式内社
斗蔵神社 (宮城県角田市)
鹿嶋天足和気神社 (宮城県亘理町)
安福河伯神社 (宮城県亘理町)
鹿島神社 (宮城県丸森町)
刈田嶺神社 (宮城県蔵王町) 名神大社
遠流志別石神社 (宮城県登米市) 延喜式内社
飯野山神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
拝幣志神社 (宮城県石巻市) 名神大社
日高見神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
白鳥神社 (宮城県村田町)
白鳥神社 (宮城県柴田町)
拆石神社 (宮城県柴田町)
駒形根神社 (宮城県栗原市) 延喜式内社
敷玉早御玉神社 (宮城県大崎市) 延喜式内社

 このように宮城県内各地に、日本武尊に置き換えられた倭王武伝承の痕跡があり、九州王朝(倭国)は蝦夷国(陸奧国の太平洋側)の中枢領域と思われる仙台平野とその以北まで侵攻したことがうかがわれます。この伝承分布は前方後円墳分布にも対応しているようなので、宮城県内の日本武尊伝承は史実の反映と見たほうがよいように思われます。(つづく)


第3520話 2025/08/22

大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承

 「洛中洛外日記」3519話〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟で、宮城県栗原市の櫻田山神社のご祭神「武烈天皇」について、〝『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくい〟としました。

 他方、『常陸国風土記』には当地を巡航する「倭武天皇」伝承が記されており、古田説ではこれを倭国(九州王朝)の倭王武の伝承が日本武尊(やまとたけるのみこと)伝承に置き換えられたものとしてきました。したがって、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に常陸国が含まれているとわたしは考えています。しかしさすがに宮城県北部の栗原市までは遠征していないだろうと思っていました。ところが櫻田山神社の武烈天皇伝承の調査を進めるなかで、宮城県にもヤマトタケル伝承が遺っていることを知りました。たとえば、宮城県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊で、『ウィキペディア(Wikipedia)』には次の説明があります。

〝社伝によれば、大高山神社は敏達天皇元年(572年)に日本武尊を主祭神として創建されたという。当神社の縁起書や『安永風土記』『奥羽観蹟聞老志』(おううかんせきもんろうし)などによれば、日本武尊が蝦夷征伐のための東征の折に仮宮を立てて住んだと伝わり、その仮宮の跡地に「白鳥大明神」と称する社殿を設け、日本武尊を奉斎したという。

 また伝承によれば、崇峻天皇二年(588年)には主祭神として橘豊日尊(用明天皇)が合祀された。これは、用明天皇が橘豊日尊と呼ばれた皇子の頃、勅命により当地へやってきたことがあり、用明天皇の皇子である聖徳太子がその縁を持って大高山神社へ合祀したと伝わる。〟

同神社ホームページにも次の解説があります。以下転載します。

《大高山神社の由緒》

 人皇30代敏達天皇の元年(571年)日本武尊を祭神として創建されました。 その後、推古天皇のお守り、橘豊日尊(31代用明天皇、聖徳太子の父君)を合祀しております。

 縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せて見ることによって日本武尊が蝦夷征伐の時にこの地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を奉祭したと言われています。

 場所も新開の台の山までありましたが(ママ、台の山で か?)、元禄初期の火災焼失により、新開126番地に移し、その後大正3年に金ヶ瀬神山に移築遷座されて現在に至っております。

《御祭神について》

 日本武尊が東国ご討征の時、お宮を建ててご住居になったことがあります。そして、尊が都へ帰られた後、白鳥大明神として祀ったということであり、その後、用明天皇が、橘豊日尊と呼ばれた、皇子の頃、この地に来られたことがあったので、その子の聖徳太子がこの地のゆかりをもって大高山神社に祀ったといいます。

 このようなことで、日本武尊と用明天皇を祀る二祭神であります。
日本武尊が東国平定に向かわれたのは、紀元110年の景行天皇40年のこととされているので、その462年後の紀元572年に創建されたことになります。
また、それより30余年後の推古天皇の代において、聖徳太子が父君・用明天皇を大高山神社に合祀したことになっています。

 明治42年(1909)8月8日、従来の『日本武尊』『用明天皇』二祭神のほか、堤に鎮座した愛宕神社の祭神迦具土尊(かぐつちのみこと)と、新寺に鎮座した山神社の祭神大山祇命(おおやまつみのみこと)とを合祀しています。更に、大正3年(1914)に、新開の尾鷹から現在地に遷座する際、祭神倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、火彦霊命(ほむすびのみこと)を合祀しています。
【本祭神】
日本武尊(やまとたけるのみこと)
用明天皇(ようめいてんのう)
【合祀祭神】
迦具土命(かぐつちのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
火産霊命(ほむすびのみこと)
白山菊理媛(しらやまくくりひめ)
https://ohtakayama.org/keidai/index.html
【転載終わり】

 柴田郡大河原町は福島県から宮城県へ向かう国道4号線上にあり(注)、それは倭王武らによる蝦夷国侵攻の経由地とできることから、同社伝承を歴史事実の反映とすることもできそうです。そうであれば、宮城県北部の櫻田山神社の武烈天皇伝承も倭王武のこととする可能性をはじめから排除しない方がよいかもしれません。

 なお、ご祭神として用明天皇も祀られていますが、全国的に著名な聖徳太子ではなく、なぜそのお父さんの用明天皇を祀ったのかという興味深い問題もあります。これも九州王朝(倭国)の伝承が用明天皇や聖徳太子に置き換えられたと考えれば、社伝の「用明天皇」とは、〝日出ずる処の天子〟と自称した国書で有名な、『隋書』俀国伝に見える俀国(倭国)の天子、阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)のことであり、その太子、利歌彌多弗利(りかみたふり)が同社に合祀したと考えることができます。(つづく)

(注)国道4号は、東京都中央区から栃木県宇都宮市、福島県福島市、宮城県仙台市、岩手県盛岡市を経て、青森県青森市に至る一般国道で、実延長が日本一長い国道。江戸時代の五街道のひとつである日光街道や奥州街道を踏襲する道筋で、高速道路では東北自動車道、鉄道では東北新幹線や東北本線とおおむね並行する経路をとる。


第3519話 2025/08/20

東北地方に濃密分布する「山神社」

 狩野英孝(かのえいこう)さんのご実家の櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)が千五百年の歴史を持つ古社であることを知り、驚きました。福岡県出身で京都に五十年住んでいるわたしには、「山神社」という聞き慣れない名称が気になり、ネットで調べてみました。各県神社庁のホームページによれば、山神社は東北地方に濃密分布しており、中でも宮城県と山形県が最濃密地域のようでした(注①)。秋田県や岩手県にも分布が見られますが、なぜか青森県には分布を見いだすことが、今のところできていません。

 「山神社」の訓みは、「さんじんじゃ」「やまじんじゃ」「やまのかみしゃ」「やまがみしゃ」などですが、ご祭神を武烈天皇とするのは少数でした。多いのは木花咲耶姫と大山祇神のようです。現時点で見つけた武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)をご祭神とする山神社は、冒頭紹介した櫻田山神社(宮城県栗原市栗駒桜田山神下)と山神社(宮城県栗原市一迫王沢字北沢十文字)、新山神社(しんざんじんじゃ、宮城県栗原市志波姫堀口御駒堂)で、いずれも宮城県北西部の栗原市内で、限定された祭神伝承のようです。栗原市にはこの他にも多数の山神社があるのですが、それらの祭神は武烈天皇ではありません。ですから、武烈天皇に仮託された人物の伝承が、栗原市の一部の山神社に遺っていると考えることができそうです。

 また、山神社の濃密分布範囲は東海地方を除けば蝦夷国領域ですから、もしかすると山神社とは本来は蝦夷国の神様のことかも知れません。ちなみに武烈天皇伝承は、仙台藩の地史『封内風土記』(注②)には次のように記されています。

 〝伝え云う。人皇第二五代武烈天皇、故ありて本州に配せられ、久我大連・鹿野掃部祐の両人扈従す、天皇崩後の後天平山に葬り社を建てて神霊を祀り山神と称した。久我氏は連綿今(明和九年、1772年頃)に至る。皇居の地を王沢・王沢宅といい、天皇の宸影は別当修験大性院家に蔵す。〟

 ここに見える「久我大連」という人物名が歴史事実であれば、「大連(おおむらじ)」の姓(かばね)を持つことから、蝦夷国ではなく恐らくは九州王朝系の人物であり、武烈天皇の時代(498~506年)、すなわち六世紀初頭頃に九州王朝系の有力者がこの地(蝦夷国)に来たことを示す伝承なのかもしれません。もしかすると、『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくいように思います。

 しかしながら、栗原市の入の沢遺跡の古墳時代前期(4世紀)の集落跡からは、銅鏡4面や勾玉や管玉、ガラス玉、斧などの鉄製品が出土しています。また、仙台市には遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)、隣接する名取市には東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)があります。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。

 更に仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、古墳時代から九州王朝(倭国)との交流があったことは疑えません。(つづく)

(注)
①Wikipediaには次の山神社が紹介されている。
【主な山神社(さんじんじゃ)】
釜石製鐵所山神社 – 岩手県釜石市桜木町
山神社 – 宮城県栗原市鶯沢
山神社 – 宮城県栗原市若柳川南
山神社 – 宮城県栗原市若柳上畑岡
山神社 – 宮城県栗原市一迫北沢
山神社 – 宮城県栗原市一迫清水目
櫻田山神社 – 宮城県栗原市栗駒:山神社
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜大室
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜小滝
山神社 – 宮城県柴田郡柴田町四日市場
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 徳島県吉野川市山川町皆瀬:紙漉神社
山神社 – 愛媛県松山市東野
【主な山神社(やまじんじゃ)】
山神社 – 宮城県亘理郡亘理町吉田
山神社 – 秋田県北秋田市阿仁笑内:旧郷社
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島]
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野
山神社 – 千葉県君津市笹
山神社 – 千葉県君津市日渡根
山神社 – 栃木県宇都宮市下岡本町
山神社 – 東京都多摩市桜ヶ丘
新屋山神社 – 山梨県富士吉田市新屋:山神社
山神社 – 愛知県名古屋市千種区田代町:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市中区松原:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市北区安井
山神社 – 愛知県刈谷市一里山町
山神社 – 兵庫県豊岡市日高町:式内名神大社
山神社 – 和歌山県西牟婁郡白浜町3035
山神社 – 愛媛県松山市萩原
山神社 – 長崎県南松浦郡新上五島町船崎郷
山神社 – 大分県大分市広内
【主な山神社(やまのかみしゃ)】
山神社 – 宮城県遠田郡美里町牛飼:旧郷社
山神社 – 山梨県中央市大鳥居
山神社 – 愛知県名古屋市港区知多:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市緑区大高町:旧村社
山神社 – 愛知県尾張旭市瀬戸川町
山之神社 – 愛知県半田市山ノ神町
山神社 – 愛知県半田市天王町
山神社 – 愛知県半田市岩滑東町
山ノ神社 – 愛知県知多郡武豊町山ノ神
※東海地区では小規模な神社が多い。ただし、数は多く、境内社も含めると相当数になる。
【主な山神社(やまがみしゃ)】
山神社 – 愛知県碧南市山神町
②『封内風土記』(ほうないふどき)は、日本の江戸時代に仙台藩が編纂した地誌である。1772年に完成した。仙台と領内のすべての村について、地形・人文地理に関わる事項を列挙・解説し、各郡ごとに集計し、さらに郡単位の統計事実や解説を加える。著者は仙台藩の儒学者田辺希文。全22巻で、漢文で書かれた。(Wikipediaによる)


第3325話 2024/07/15

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (8)

 孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」の有力候補地として、大阪天満宮境内に鎮座する「大将軍社」に注目しています。しかし、「大将軍」とはどのような神格なのかよくわかりません。そこで、従来説にとらわれることなく、古代史研究のテーマとして考えたところ、『宋書』倭国伝に記された倭王武の称号「安東大將軍倭國王」をエビデンスとできることに気づきました。

 『宋書』倭国伝には次の記事が見え、倭王武が自称していた「安東大將軍」を宋が承認しています。

 「興死、弟武立、自稱、使持節都督・倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事・安東大將軍・倭國王」
「詔除武、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大將軍・倭王」

 わが国の古代史において、「大将軍」を名乗った最も著名な人物こそ九州王朝(倭国)の倭王武ではないでしょうか。『宋書』倭国伝には武の上表文が掲載されており、九州を拠点として朝鮮半島(海北)や日本列島(東西)各地へ侵攻したと主張しています。それは次の有名な一文です。

 「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」

 このことを宋が承認した結果、自称した七国のうち、百済を除く六国の支配者であることを示す称号「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大將軍・倭王」を宋は認めたわけです。
そこで次に問題となるのが、倭王武が征服した東の「毛人五十五國」に難波が含まれているのかどうかです。結論から言えば、含まれていると考えざるを得ません。次の考古学事実がそのことを証言しています。

 「古田史学の会」が2019年6月16日に開催した古代史講演会(大阪市、i-siteなんば)で、南秀雄さん(大阪市文化財協会)により「日本列島における五~七世紀の都市化 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」という講演がなされ、古墳時代(5世紀頃)の難波について次のように紹介されました(注)。ちなみに、南さんは30年以上にわたり難波を発掘してきた考古学者で、広範な出土事実に基づく説得力ある講演でした。

《発表レジュメより転載》
❶ 古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。

❷ 上町台地北端は居住や農耕の適地ではなく、大きな在地勢力は存在しない。同地が選地された最大の理由は水運による物流の便にあった(瀬戸内海方面・京都方面・奈良方面・和歌山方面への交通の要所)。

❸ 都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世紀は遠距離から水運で、六世紀末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。

❹ 上町台地北端の都市化の3段階。
a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(十六棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約千二百人/年の食料備蓄が可能。(後略)

 以上の考古学的出土事実から、九州王朝(倭国)が倭王武(安東大将軍)の時代(5世紀)に難波へ進出し、博多湾岸の比恵・那珂遺跡に匹敵する規模の都市化を推し進め、列島最大の法円坂倉庫群を造営したことがうかがえます。(つづく)

(注)古賀達也「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3220話 2024/02/08

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (6)

前期難波宮(大阪市中央区法円坂)がある大阪上町台地北端部に、古墳時代(五世紀)の十六棟の大型倉庫が規則正しく二列(南北二棟×東西八棟)に並んでおり、その西側十棟は東西正方位の倉庫群なのですが、難波津からその倉庫へ物資を運ぶ通路や当地域の建物跡は正方位ではありません。
難波津の位置については、倉庫群や前期難波宮の北西~西部にあったとされており、三津寺説、高麗橋説が有力視されています(注①)。松尾信裕氏による「上町台地西裾から堺筋付近」とする見解もあります(注②)。いずれも大阪市中央区にあり、船で運んだ物資を陸揚げするのに、法円坂倉庫群・難波宮と適切な位置と距離にあります。また、「難波津」と称するからには、「難波宮」の近傍にあるのは当然のことでしょう。
近年では「難波津」高麗橋説が考古学的出土状況から最有力視されているようで(注③)、そこから法円坂倉庫群に至る通路とその地域の建物跡について次のように解説されています(注④)。

〝上町台地北端では、台地高所を中心に200棟以上の建物が把握されている。(中略)傾向として、中央部(現難波宮公園)には官衙的建物があり〔黒田慶一1988〕、その北西(大阪歴博・NHK)には倉庫が多い。(中略)
ではなぜ北西地域に倉が多いかであるが、ここは5世紀には法円坂遺跡、7世紀後半には前期難波宮の西方官衙と、他の時期は大規模な倉庫群が置かれた場所であった。(中略)北から本町谷と大手前谷の間を通り(尾根道)、現大阪府警東の上町筋から台地中央(官衙地域)を目指せば、最短距離のルートは自ずと北西→南東となる。地形の制約からこれ以外の道は合理的でない。
北西地域の建物群は、約150年間(5世紀~6世紀中頃)、北西―南東または北北西―南南東を向いている。地形に合わせたというよりも、近くを通る道に会わせたためと考えられる。〟

難波津から中央の官衙までの最短距離の道に合わせた建物群が道と同じ方向を向いていることは理解できますが、五世紀の法円坂倉庫群が真東西方位で建造されていながら、七世紀初頭(倭京二年・619年)に創建された難波天王寺(現・四天王寺)は北方向が4度西偏していることは不審です。その後、九州年号の白雉元年(652年)に造営された前期難波宮や朱雀大路は正方位で造営されており、こうしたわずかな方位のぶれがなぜ発生したのか、今のところよくわかりません。
法円坂倉庫群も西側十棟は正方位ですが、東側六棟は2度ほど西偏しており、その造営尺は、西側で一尺23.9cm前後、東側で同じく24.4cm前後であることから、一尺が時代と共に長くなるという傾向から判断しても、より新しい東側倉庫群が西偏しています。
このように上町台地上の大型倉庫群や道路・条坊の方位の変遷は概ね「東西・南北」正方位の範囲内と言えないことはありませんが、微妙なぶれの発生理由解明は今後のテーマです。

(注)
①南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『大阪文化財研究所 研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。
②松尾信裕「古代難波の地形環境と難波津」『難波宮と都城制』吉川弘文館、2014年。
③ウィキペディアの「難波津」の項には次の説明がある。
「難波津の位置
難波津が、具体的に現在の大阪市のどのあたりに位置していたのか、長い間論争が続いている。現在では、有力なものとして中央区三津寺町付近とする千田稔の説と、同じく中央区高麗橋付近とする日下雅義の説がある。前者の三津寺説は、同寺にまつわる伝承や「三津寺」「堀江」などの名称に根拠を置くものであるが、今のところ、現在の心斎橋筋付近で古代の港湾遺構が発見されていないのが弱点となっている。他方、高麗橋説については考古学的な傍証の例が豊富で、近年では、上町台地北端部の西斜面から麓にかけて、古墳時代から奈良時代、さらに室町時代に至るさまざまな時代の港湾関係の遺構が集中的に見つかっていることから、上町台地北端部西麓にあたる現在の東横堀川・高麗橋周辺が、歴史上の難波津として最有力な地点ではないかと広く考えられるようになっている。」
④同①。


第3219話 2024/02/07

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (5)

巨大条坊都市の設計・造営において、「東西・南北」正方位の概念・政治思想と、それを実現できる技術を、七世紀初頭から前半の九州王朝(倭国)が有していたことは確かなことと思います。さらに、太宰府条坊都市(倭京)に次いで古い難波京(前期難波宮)は九州王朝の複都の一つとわたしは考えていますが、当地には五世紀に遡る「東西」正方位の遺構があります。それは古墳時代最大の倉庫群、法円坂遺跡です。
前期難波宮内裏西側にあたる位置から出土した同遺跡は、十六棟の大型倉庫が規則正しく二列(南北二棟×東西八棟)に並んでおり、その西側十棟は東西正方位の倉庫群です。東側六棟もほぼ東西正方位であり、誤差は2度程度です。植木久『難波宮跡』(注①)には、次のように説明されています。

〝建物の全体配置計画にも、特筆すべき点がある。一六棟の建物が規則的に配置されていることは先に述べたが、これの配置計画に基準尺が用いられていることと、真東西の方向性が意識されていることである。
基準尺が採用された可能性については、発掘報告書に詳細な検討内容が記されているが、これによると建物西群で一尺二三・九センチ前後、建物東群で同じく二四・四センチ前後で配置計画がなされているというものである。これらの尺度は五世紀よりもやや古い時期の中国尺(中略)に近似する数値であり、注目される。わが国の建築(群)で確実に基準尺が用いられた可能性のあるものとしては、法円坂遺跡の例は最も古い例であろう。(中略)
また西群の建物方位が正確に真東西に揃っていることは重要である。(中略)西群の測量技術の正確さは特筆されるものであり、このように真東西(南北)の方向性を意識した配置計画および施行は、確実なものとしてはわが国で最初のものであろう。〟同書17~18頁

この法円坂倉庫群は、一棟あたりの面積が90㎡もの大規模なもので、十六棟ともなると計1400㎡以上であり、同時代の倉庫群としては破格の規模です。「古田史学の会」でも講演していただいた南秀雄さんは「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(注②)で次のように指摘しています。

「法円坂倉庫群は、臨時的で特殊な用途を想定する見解もあったが、王権・国家を支える最重要の財政拠点として、周囲のさまざまな開発と一体的に計画されたことがわかってきた。倉庫群の収容力を奈良時代の社会経済史研究を援用して推測すると、全棟にすべて頴稲を入れた場合、副食等を含む1,200人分強の1年間の食料にあたると算定した。」
「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。もっとも可能性のありそうな台地中央では、あまたの難波宮跡の調査にもかかわらず、同時期の遺構は出土していない。佐藤隆氏は出土土器とともに、大阪城本丸から二ノ丸南部の、上町台地でもっとも標高の高い地域を候補としてあげている。」
「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」

古墳時代最大規模の法円坂倉庫群は、九州王朝の倭王武による東方侵出の拠点とわたしは推定していますが、こうした東方侵出の拠点(王権の最重要の出先機関)が五世紀の難波にあったからこそ、七世紀になると九州王朝は難波天王寺(現・四天王寺。倭京二年・619年、『二中歴』年代歴)や難波京(前期難波宮。白雉元年・652年、『日本書紀』の白雉三年)を当地に造営できたのではないでしょうか。
同倉庫群建築に東西正方位の測量技術や基準尺を採用していることを考えると、この仮説は南さんの疑問点「法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない」に応えられるものであり、「倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる」とする推定にも整合するのです。(つづく)

(注)
①植木久『難波宮跡』同成社、2009年。
②南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『大阪文化財研究所 研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。


第3066話 2023/07/12

九州王朝宝冠の出土地

久留米大学公開講座の講演では、柳澤家所蔵の九州王朝の宝冠(注①)を紹介しました。男女一対の恐らくは金銅製の見事な宝冠であり、九州王朝の王族クラスのものと思われます。1999年6月19日、わたしは古田先生と筑紫野市の柳澤義幸さんのご自宅を訪問し、この宝冠を拝見しました(注②)。このときの写真を講演会でご披露し、出土地は太宰府近辺の古墳からと聞いただけで、詳細は不明と説明しました。
講演会終了後、福岡市から参加されたYさんから、出土地のことを記した本があることを教えて頂きました。本日、そのYさんからお電話をいただき、『豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へ』(注③)という本に、朝倉郡筑前町夜須松延の鷲尾古墳から出土したことが記されているとのことでした。
筑前町夜須松延の地名を聞き、同地が九州王朝倭王の子孫が居住した地とする史料「松野連系図」の存在をわたしは知っていましたので、この情報の信憑性を強く感じました(注④)。現在、鷲尾古墳の調査報告書を探していますが、どうも〝未調査〟のようです。
「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」によれば、五世紀の倭王「武」の次代「哲」の傍注に「倭国王」とあり、三代後の「牛慈」の傍注に「金刺宮御宇服降/為夜須評督」、四代後の「長提」の傍注には「小治田朝 評督/居筑紫国夜須評松狭野」と見え、「哲」から「長提」は六世紀初頭から評制の時代にかかる七世紀中頃の人物と考えられ、当地に九州王朝の王族が居住していたことがうかがえます。この系図の記事と柳澤家所蔵の宝冠が無関係とは思えません。引き続き、調査します。教えて頂いたYさんに感謝します。

(注)
①古田武彦『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、平成五年(1993)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古賀達也「古田先生と『三前』を行く」『古田史学会報』33号、1999年。
③平山昌博『豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へ』梓書院、2003年。
④古賀達也「洛中洛外日記」24322450話(2021/04/12~05/06)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(1)~(12)〟


第2938話 2023/02/07

倭王に従った南九州の軍事氏族

先週末、お仕事で京都大学に来られた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅によられたので、富雄丸山古墳の出土品について意見交換を行いました。そのとき、強く印象に残ったのが、南九州の豪族達は韓半島へも進出した痕跡(前方後円墳の形状近似)が遺っているという正木さんの指摘でした。韓半島で前方後円墳が次々と発見されたこともあって、その形状が「前方・後円」というよりも、「前三角錐・後円」であり、それと同型の古墳が宮崎県に散見されることを「洛中洛外日記」などで紹介したことがありました(注①)。
こうしたことから、正木さんは南九州の氏族は九州王朝の軍事氏族ではないかと示唆されたのです。『宋書』倭国伝に見える、五世紀に活躍した〝倭の五王〟の一人、倭王武の上表文によれば、倭国(九州王朝)は東西(日本列島)と北(韓半島)へ軍事侵攻してきたことがわかります。南九州と韓半島の前「三角錐」後円墳の編年は五世紀末から六世紀頃であり、富雄丸山古墳の被葬者の時代は四世紀後半と編年されていますから、南九州の軍事氏族による侵攻は長期にわたっていることがわかります。
その痕跡が『日本書紀』の歌謡にも遺されています。推古紀の次の歌です。

「推古天皇二十年(620年)春正月辛巳朔丁亥(7日)、(中略)
天皇、和(こた)へて曰く。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」『日本書紀』推古二十年(620年)春正月条(注②)

この歌は内容が不自然で、以前から注目してきました。推古天皇が「蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」と詠んだとするのであれば、この「大君」とは誰のことと『日本書紀』編者は理解していたのでしょうか。九州王朝説では、九州王朝の天子のこととする理解が可能ですが、そうであればなおさら『日本書紀』編者はそのことを伏せなければなりませんので、やはり不可解な記事なのです。
この問題は別として、わたしが注目したのは「馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀」の部分です。優れた軍事力の象徴として「日向の駒」「呉の真刀」と歌われており、この日向が宮崎県を意味するのであれば、その地にいた九州王朝の軍事氏族の大和侵攻が、七世紀になっても伝承されていたのではないでしょうか。この理解の当否を含めて、富雄丸山古墳からの盾形銅鏡や蛇行剣の出土は、九州王朝における南九州の政治的位置づけを考えるうえで、よい機会となりました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
同「古代のジャパンクオリティー 11 韓国で発見された前方後円墳
」繊維社『月刊 加工技術』、2016年4月。
同「前「三角錐」後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年。
②日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。


第2854話 2022/10/06

俾弥呼と倭王武を繋いだ『南斉書』

 令和二年(2020年)八月に定年退職してから二年間、わたしは三つの課題に取り組んできました。一つは、より多くの考古学論文・発掘調査報告書を正確に読むこと。二つは、古田先生の初期の著作群をもう一度丁寧に読むこと。三つは、友好団体の例会・勉強会にリモート参加して〝異見〟を聞くことです。これらの課題はこれからも続けますが、視力と集中力が低下していますので、古田史学入門当初のようなスピード感は望むべくもありません。しかし、若い頃よりも深く考えることができるようになった気がします。
 その復習を兼ねて、初期の著作で展開された古田史学の重要な論証やテーマを「洛中洛外日記」に書き留め、皆さんに紹介したいと思います。古くからの古田ファンにはご存じのことばかりと思いますが、少々お付き合いください。
 最初に紹介するのは〝『南斉書』の証言〟と名付けられた九州王朝の継続性に関する重要な論証です。1975年に発表されたもので(注①)、『邪馬一国の証明』に収録されています(注②)。『南斉書』は南朝斉の史書で、梁の時代に成立しています。著者は蕭子顕(~537年、梁。注③)で、南斉の中枢官僚「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る官)です。『南斉書』には短文ですが倭伝があり、その歴史が簡潔に記されています。

○倭国。(A)帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已(すで)に前史に見ゆ。(B)建元元年、進めて新たに使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・〔慕韓〕六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ(「慕韓」は脱落。(A)(B)は古田)。

 前半部(A)は『三国志』倭人伝からの引用、後半部(B)は『宋書』からの引用です。この『南斉書』倭伝に表された倭国とは〝倭の五王の王朝は、三世紀俾弥呼の王朝の直接の後裔であり、その間において、とりたてて言うべき大きな地理的変化、つまり「東遷」などはなく、ほぼ同一領域に都をおいていた〟として、古田先生は次のように指摘されています。

 「これは次のことを意味する。〝三世紀の卑弥呼の王朝が筑紫(博多湾岸)に都していたことが決定的となったならば(古田『邪馬壹国の論理』所収の「邪馬台国論争は終わった」参照)、そのときはすなわち、倭の五王もまた筑紫の王者だ、と必ず見なさねばならぬ〟と。」『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、257~258頁。

 ここで重要なことは、〝『宋書』も『南斉書』も同じ連続した史局(宋~斉~梁)の産物〟ということであり、『南斉書』倭伝の後半部(B)の倭王武の使者の記事は、著者が〝直接、南斉の天子のかたわらにあって、じかに目にし、直接耳にした事実と考えられ、史料としての信憑性は極度に高い〟ということです。その著者が、〝この倭王武の王朝は、『三国志』に書いてある俾弥呼や壹與の王朝の後裔だ〟と前半部(A)にはっきりと明述しているのです。
 この論理性を古田先生は〝『南斉書』の証言〟と名付け、いわゆる邪馬台国東遷説を否定するとされました。邪馬台国大和説が当地の考古学者から明確に否定されるようになった今日(注④)、一元史観を維持するため次にクローズアップされるのが、邪馬台国東遷説であることは容易に想像できます。そして、古田先生はそのような時代の到来を予見していたかの如く、〝『南斉書』の証言〟の論証を1975年時点で発表されていたのです。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『野性時代』1975年。
②古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。本書収録の「『謎の四世紀』の史料批判」、「古代史の虚像」、「古代船は九州王朝をめざす」に〝『南斉書』の証言〟に関する解説がみえる。
③『邪馬一国の証明』に次の紹介がある。
 「著者、蕭子顕(~五三七年、梁)もまた、南斉の中枢官僚(給事中)だった。彼は、斉の予章、文献王、嶷の子であり、「聡慧」だったため、父の文献王にことに愛せられたという。そして「王子の例」として、「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る官)に任命された〈『梁書』、二十九〉。(より重要なことは、『宋書』も『南斉書』も同じ連続した史局(宋~斉~梁)の産物だ、ということである。後記。)。」(ミネルヴァ書房版、257頁)
 予章文献王蕭嶷は南斉第二代武帝の次男、従って蕭子顕は武帝の孫に当たる。
④関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。関川氏は元橿原考古学研究所員。


第2655話 2022/01/05

蝦夷国から出土した銅鏡

 この正月三が日、わたしは自らの講演YouTube動画(注①)を見ました。自分の動画は恥ずかしいので今までほとんど見ることはありませんでしたが、「古田史学の会」ホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)が「新・古代学の扉」トップ画面をリニューアルされたので、この機会にチェックすることにしたものです。
 その動画は「古代官道の不思議発見」というテーマの講演で、こうやの宮(注②)の御神像の一つが蝦夷国からの使者であり、その使者が鏡を持っていることから、蝦夷国は未開の蛮族などではないと説明しました(注③)。古代日本では鏡は太陽信仰のシンボルですから、蝦夷国は倭国の文化や技術を積極的に受容したのではないでしょうか。九州王朝(倭国)が中国や朝鮮半島の先進技術・文明を受け入れたようにです。この仮説を証明するような遺構・遺物が出土しています。
 2015年、宮城県栗原市の入の沢遺跡で驚きの発見がありました。同遺跡は深い溝を巡らせた四世紀の大集落跡で、その住居跡から銅鏡4枚が出土しました。自然の傾斜などを利用した北東―南西約125m、北西―南東約70mの集落域を柵のような塀跡と大溝跡が並行して取り囲んでおり、塀は溝状に掘った穴に材木を10~30cmの間隔でびっしりと立ち並べていたとみられています。見つかった銅鏡4枚はすべて小型の国内製で、珠文鏡2枚、内行花文鏡(破鏡)と重圏文鏡が1枚ずつ。古墳時代前期としては最北の発見です。鏡以外にも鉄製品が30点、勾玉や管玉、ガラス玉も出土しています。
 この入の沢遺跡は大和朝廷の勢力が居住した防御施設とされており、蝦夷国のものとはされていません。確かに出土品を見るかぎり、倭国の文化と思わざるを得ませんが、四世紀の宮城県北部の住居跡から銅鏡が出土したことは、蝦夷国の地に銅鏡などの倭国の文物が入っていたことを示し、蝦夷国からの九州王朝への使者が鏡を持っていたとしても不思議ではないように思います。従って、こうやの宮の鏡を持つ御神像を蝦夷国からの使者とした拙論は穏当な解釈であり、御神像は歴史事実を反映していたことになるわけです。蝦夷国の実像や九州王朝との関係についての再検討が必要です(注④)。

(注)
①市民古代史の会・京都(代表:山口哲也氏)主催講演会(2021年11月23日、キャンパスプラザ京都)での講演「古代官道の不思議発見」。
https://youtu.be/rWYLT9Rvq4g
https://youtu.be/Hoo-zMsWXMU
https://youtu.be/kFagnmfvpCg
https://youtu.be/N1QG9dGjRP4
https://youtu.be/GVK2njzIRqA
②福岡県みやま市瀬高町太神にある小祠。五体の御神像があり、中央の一回り大きい主神は高良玉垂命。
③古賀達也「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」『卑彌呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年。
④「洛中洛外日記」1011話(2015/08/01)〝宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝〟では「この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです」と捉えていた。その後、「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1~12)〟で蝦夷国について考察した。

 


第2654話 2022/01/04

うきは市で双方中円墳を確認

 今年も多くの方々から年始のご挨拶が届きました。ありがとうございます。久留米市の菊池哲子さんからは、とても興味深い情報が寄せられましたので紹介させていただきます。
 いただいたメールによれば、昨年末、うきは市から全国でも珍しい双方中円墳が発見されたとのこと。12月29日付の西日本新聞(本稿末にWEB版を転載)によれば、うきは市の西ノ城(にしのしろ)古墳を調査したところ、全国でも4例ほどしか発見されていない双方中円墳であることが確認され、双方中円墳としては最も古い三世紀後半の築造と推定されています。菊池さんは他地域の双方中円墳の原型ではないかとされ、貴重な発見と思われました。
 双方中円墳について急ぎ調べたところ、西ノ城古墳を含め次の5例が知られています。築造年代順に並べます。

名称    所在地     築造年代  墳丘全長
西ノ城古墳 福岡県うきは市 三世紀後半 約50m
猫塚古墳  香川県高松市  四世紀前半 約96m(積石塚)
鏡塚古墳  同県高松市   四世紀前半 約70m(積石塚)
稲荷山北端1号墳 同県高松市 四世紀前半 不明(円丘部径約28m、南側方丘部長約20m)
櫛山古墳  奈良県天理市  四世紀   152m
明合古墳  三重県津市   五世紀前半 約81m
               ※ウィキペディアなどによる。

 西日本新聞に掲載された桃崎祐輔さんの見解では、大和朝廷一元史観の通説に基づいて「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」とされており、九州大学の西谷正さんは「大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう」と解釈されています。しかし、上記のように築造年代は、九州から四国へ、そして近畿・東海へと伝播していることを示唆していますし、分布数を重視すれば、高松から九州や近畿に伝播したと考えることもできそうです。少なくとも上記の考古学的事実が、〝大和から瀬戸内海地方を通って大分⇒日田⇒うきは〟という伝播の根拠には見えません。大和朝廷一元史観というイデオロギーが先にあって、それに合うように考古学的事実を解釈しているのではないでしょうか。
 今回の発見を機に双方中円墳の発生経緯を考えてみました。通説では弥生時代の双方中円形墳丘墓である楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)がその原型として指摘されていますが、わたしは吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓(紀元前一世紀)に注目しています。同墳丘は長方形(南北40m×東西27m)に近い形状と推定されており、複数の甕棺が埋納されています。うきは市の西ノ城古墳も墳丘から複数の埋葬施設が出土しています。他方、倭人伝に記された倭国の女王卑弥呼の墓は「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあるように、円墳です。このことから、首長を葬る円墳と、複数の人々を埋葬する方形墳丘とが一体化して築造されたものが双方中円墳へと発展したのではないでしょうか。これは一つのアイデア(作業仮説)に過ぎませんが、ここに提起し、引き続き副葬品などの調査検討を行います。
 情報をお寄せいただいた菊池哲子さんに御礼申し上げます。

《西日本新聞WEB版 2021/12/29》
双方中円墳、九州で初確認
福岡・うきは市の西ノ城古墳

 福岡県うきは市で発掘調査中の西ノ城(にしのしろ)古墳が、円形墳丘の両端に方形墳丘が付いた「双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)」とみられることが分かった。全国で数例しか確認されておらず、九州では初めて。出土した土器片から古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造と推定され、最古級の双方中円墳という。近畿や山陽の有力勢力と被葬者のつながりが推察され、専門家は当時の中央と地方の関係を知る重要な発見だと指摘する。
 西ノ城古墳は同市浮羽町の耳納(みのう)連山中腹にある。市教育委員会によると、円形墳丘は長径約37メートル、高さ約10メートルで、二つの方形墳丘を合わせた全長は約50メートル。円形墳丘の頂部では、板状の石を組んで造った埋葬施設が2基見つかった。壊された同様の埋葬施設を含めると、5基以上あったとみられ、弥生時代の集団墓の特徴を残す。一帯を治めた豪族と親族、側近らが埋葬されたと考えられるという。
 現場を確認した福岡大の桃崎祐輔教授(考古学)によると、双方中円墳は弥生時代後期の墳丘墓が発展し、4世紀ごろに築造が始まったとされる。確認例は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳や香川県高松市の猫塚古墳など全国で数例。西ノ城古墳の発見で築造年代がさかのぼる可能性が出てきた。
 双方中円墳の原型とされるのが、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に築かれた岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓。西ノ城古墳では「複合口縁壺」と呼ばれる土器の破片が出土し、似た形状の土器が瀬戸内地域や大分に分布するという。
 桃崎教授は「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」と指摘。西ノ城古墳の集団は、こうした交流の中で双方中円墳を取り入れたと推測する。
 同古墳は2020年、公園整備のための調査で見つかり、斜面を覆う「葺石(ふきいし)」が確認された。うきは市教委は本年度から本格的に発掘調査を開始し、来年度も継続するという。(渋田祐一)

国家の形成過程分かる

 西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 双方中円墳は全国でも確認例が極めて少なく、西ノ城古墳は貴重な発見だ。大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう。古代国家の形成過程における中央と地方の関係を知る手掛かりになる。