倭の五王一覧

第3325話 2024/07/15

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (8)

 孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」の有力候補地として、大阪天満宮境内に鎮座する「大将軍社」に注目しています。しかし、「大将軍」とはどのような神格なのかよくわかりません。そこで、従来説にとらわれることなく、古代史研究のテーマとして考えたところ、『宋書』倭国伝に記された倭王武の称号「安東大將軍倭國王」をエビデンスとできることに気づきました。

 『宋書』倭国伝には次の記事が見え、倭王武が自称していた「安東大將軍」を宋が承認しています。

 「興死、弟武立、自稱、使持節都督・倭・百濟・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事・安東大將軍・倭國王」
「詔除武、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大將軍・倭王」

 わが国の古代史において、「大将軍」を名乗った最も著名な人物こそ九州王朝(倭国)の倭王武ではないでしょうか。『宋書』倭国伝には武の上表文が掲載されており、九州を拠点として朝鮮半島(海北)や日本列島(東西)各地へ侵攻したと主張しています。それは次の有名な一文です。

 「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」

 このことを宋が承認した結果、自称した七国のうち、百済を除く六国の支配者であることを示す称号「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大將軍・倭王」を宋は認めたわけです。
そこで次に問題となるのが、倭王武が征服した東の「毛人五十五國」に難波が含まれているのかどうかです。結論から言えば、含まれていると考えざるを得ません。次の考古学事実がそのことを証言しています。

 「古田史学の会」が2019年6月16日に開催した古代史講演会(大阪市、i-siteなんば)で、南秀雄さん(大阪市文化財協会)により「日本列島における五~七世紀の都市化 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」という講演がなされ、古墳時代(5世紀頃)の難波について次のように紹介されました(注)。ちなみに、南さんは30年以上にわたり難波を発掘してきた考古学者で、広範な出土事実に基づく説得力ある講演でした。

《発表レジュメより転載》
❶ 古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。

❷ 上町台地北端は居住や農耕の適地ではなく、大きな在地勢力は存在しない。同地が選地された最大の理由は水運による物流の便にあった(瀬戸内海方面・京都方面・奈良方面・和歌山方面への交通の要所)。

❸ 都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世紀は遠距離から水運で、六世紀末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。

❹ 上町台地北端の都市化の3段階。
a.第1段階(五世紀) 法円坂遺跡前後
古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群(十六棟、計1450㎡以上)が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模で、約千二百人/年の食料備蓄が可能。(後略)

 以上の考古学的出土事実から、九州王朝(倭国)が倭王武(安東大将軍)の時代(5世紀)に難波へ進出し、博多湾岸の比恵・那珂遺跡に匹敵する規模の都市化を推し進め、列島最大の法円坂倉庫群を造営したことがうかがえます。(つづく)

(注)古賀達也「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3220話 2024/02/08

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (6)

前期難波宮(大阪市中央区法円坂)がある大阪上町台地北端部に、古墳時代(五世紀)の十六棟の大型倉庫が規則正しく二列(南北二棟×東西八棟)に並んでおり、その西側十棟は東西正方位の倉庫群なのですが、難波津からその倉庫へ物資を運ぶ通路や当地域の建物跡は正方位ではありません。
難波津の位置については、倉庫群や前期難波宮の北西~西部にあったとされており、三津寺説、高麗橋説が有力視されています(注①)。松尾信裕氏による「上町台地西裾から堺筋付近」とする見解もあります(注②)。いずれも大阪市中央区にあり、船で運んだ物資を陸揚げするのに、法円坂倉庫群・難波宮と適切な位置と距離にあります。また、「難波津」と称するからには、「難波宮」の近傍にあるのは当然のことでしょう。
近年では「難波津」高麗橋説が考古学的出土状況から最有力視されているようで(注③)、そこから法円坂倉庫群に至る通路とその地域の建物跡について次のように解説されています(注④)。

〝上町台地北端では、台地高所を中心に200棟以上の建物が把握されている。(中略)傾向として、中央部(現難波宮公園)には官衙的建物があり〔黒田慶一1988〕、その北西(大阪歴博・NHK)には倉庫が多い。(中略)
ではなぜ北西地域に倉が多いかであるが、ここは5世紀には法円坂遺跡、7世紀後半には前期難波宮の西方官衙と、他の時期は大規模な倉庫群が置かれた場所であった。(中略)北から本町谷と大手前谷の間を通り(尾根道)、現大阪府警東の上町筋から台地中央(官衙地域)を目指せば、最短距離のルートは自ずと北西→南東となる。地形の制約からこれ以外の道は合理的でない。
北西地域の建物群は、約150年間(5世紀~6世紀中頃)、北西―南東または北北西―南南東を向いている。地形に合わせたというよりも、近くを通る道に会わせたためと考えられる。〟

難波津から中央の官衙までの最短距離の道に合わせた建物群が道と同じ方向を向いていることは理解できますが、五世紀の法円坂倉庫群が真東西方位で建造されていながら、七世紀初頭(倭京二年・619年)に創建された難波天王寺(現・四天王寺)は北方向が4度西偏していることは不審です。その後、九州年号の白雉元年(652年)に造営された前期難波宮や朱雀大路は正方位で造営されており、こうしたわずかな方位のぶれがなぜ発生したのか、今のところよくわかりません。
法円坂倉庫群も西側十棟は正方位ですが、東側六棟は2度ほど西偏しており、その造営尺は、西側で一尺23.9cm前後、東側で同じく24.4cm前後であることから、一尺が時代と共に長くなるという傾向から判断しても、より新しい東側倉庫群が西偏しています。
このように上町台地上の大型倉庫群や道路・条坊の方位の変遷は概ね「東西・南北」正方位の範囲内と言えないことはありませんが、微妙なぶれの発生理由解明は今後のテーマです。

(注)
①南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『大阪文化財研究所 研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。
②松尾信裕「古代難波の地形環境と難波津」『難波宮と都城制』吉川弘文館、2014年。
③ウィキペディアの「難波津」の項には次の説明がある。
「難波津の位置
難波津が、具体的に現在の大阪市のどのあたりに位置していたのか、長い間論争が続いている。現在では、有力なものとして中央区三津寺町付近とする千田稔の説と、同じく中央区高麗橋付近とする日下雅義の説がある。前者の三津寺説は、同寺にまつわる伝承や「三津寺」「堀江」などの名称に根拠を置くものであるが、今のところ、現在の心斎橋筋付近で古代の港湾遺構が発見されていないのが弱点となっている。他方、高麗橋説については考古学的な傍証の例が豊富で、近年では、上町台地北端部の西斜面から麓にかけて、古墳時代から奈良時代、さらに室町時代に至るさまざまな時代の港湾関係の遺構が集中的に見つかっていることから、上町台地北端部西麓にあたる現在の東横堀川・高麗橋周辺が、歴史上の難波津として最有力な地点ではないかと広く考えられるようになっている。」
④同①。


第3219話 2024/02/07

「東西・南北」正方位遺構の年代観 (5)

巨大条坊都市の設計・造営において、「東西・南北」正方位の概念・政治思想と、それを実現できる技術を、七世紀初頭から前半の九州王朝(倭国)が有していたことは確かなことと思います。さらに、太宰府条坊都市(倭京)に次いで古い難波京(前期難波宮)は九州王朝の複都の一つとわたしは考えていますが、当地には五世紀に遡る「東西」正方位の遺構があります。それは古墳時代最大の倉庫群、法円坂遺跡です。
前期難波宮内裏西側にあたる位置から出土した同遺跡は、十六棟の大型倉庫が規則正しく二列(南北二棟×東西八棟)に並んでおり、その西側十棟は東西正方位の倉庫群です。東側六棟もほぼ東西正方位であり、誤差は2度程度です。植木久『難波宮跡』(注①)には、次のように説明されています。

〝建物の全体配置計画にも、特筆すべき点がある。一六棟の建物が規則的に配置されていることは先に述べたが、これの配置計画に基準尺が用いられていることと、真東西の方向性が意識されていることである。
基準尺が採用された可能性については、発掘報告書に詳細な検討内容が記されているが、これによると建物西群で一尺二三・九センチ前後、建物東群で同じく二四・四センチ前後で配置計画がなされているというものである。これらの尺度は五世紀よりもやや古い時期の中国尺(中略)に近似する数値であり、注目される。わが国の建築(群)で確実に基準尺が用いられた可能性のあるものとしては、法円坂遺跡の例は最も古い例であろう。(中略)
また西群の建物方位が正確に真東西に揃っていることは重要である。(中略)西群の測量技術の正確さは特筆されるものであり、このように真東西(南北)の方向性を意識した配置計画および施行は、確実なものとしてはわが国で最初のものであろう。〟同書17~18頁

この法円坂倉庫群は、一棟あたりの面積が90㎡もの大規模なもので、十六棟ともなると計1400㎡以上であり、同時代の倉庫群としては破格の規模です。「古田史学の会」でも講演していただいた南秀雄さんは「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(注②)で次のように指摘しています。

「法円坂倉庫群は、臨時的で特殊な用途を想定する見解もあったが、王権・国家を支える最重要の財政拠点として、周囲のさまざまな開発と一体的に計画されたことがわかってきた。倉庫群の収容力を奈良時代の社会経済史研究を援用して推測すると、全棟にすべて頴稲を入れた場合、副食等を含む1,200人分強の1年間の食料にあたると算定した。」
「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。もっとも可能性のありそうな台地中央では、あまたの難波宮跡の調査にもかかわらず、同時期の遺構は出土していない。佐藤隆氏は出土土器とともに、大阪城本丸から二ノ丸南部の、上町台地でもっとも標高の高い地域を候補としてあげている。」
「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」

古墳時代最大規模の法円坂倉庫群は、九州王朝の倭王武による東方侵出の拠点とわたしは推定していますが、こうした東方侵出の拠点(王権の最重要の出先機関)が五世紀の難波にあったからこそ、七世紀になると九州王朝は難波天王寺(現・四天王寺。倭京二年・619年、『二中歴』年代歴)や難波京(前期難波宮。白雉元年・652年、『日本書紀』の白雉三年)を当地に造営できたのではないでしょうか。
同倉庫群建築に東西正方位の測量技術や基準尺を採用していることを考えると、この仮説は南さんの疑問点「法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない」に応えられるものであり、「倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる」とする推定にも整合するのです。(つづく)

(注)
①植木久『難波宮跡』同成社、2009年。
②南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『大阪文化財研究所 研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。


第3066話 2023/07/12

九州王朝宝冠の出土地

久留米大学公開講座の講演では、柳澤家所蔵の九州王朝の宝冠(注①)を紹介しました。男女一対の恐らくは金銅製の見事な宝冠であり、九州王朝の王族クラスのものと思われます。1999年6月19日、わたしは古田先生と筑紫野市の柳澤義幸さんのご自宅を訪問し、この宝冠を拝見しました(注②)。このときの写真を講演会でご披露し、出土地は太宰府近辺の古墳からと聞いただけで、詳細は不明と説明しました。
講演会終了後、福岡市から参加されたYさんから、出土地のことを記した本があることを教えて頂きました。本日、そのYさんからお電話をいただき、『豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へ』(注③)という本に、朝倉郡筑前町夜須松延の鷲尾古墳から出土したことが記されているとのことでした。
筑前町夜須松延の地名を聞き、同地が九州王朝倭王の子孫が居住した地とする史料「松野連系図」の存在をわたしは知っていましたので、この情報の信憑性を強く感じました(注④)。現在、鷲尾古墳の調査報告書を探していますが、どうも〝未調査〟のようです。
「松野連倭王系図(国立国会図書館所蔵)」によれば、五世紀の倭王「武」の次代「哲」の傍注に「倭国王」とあり、三代後の「牛慈」の傍注に「金刺宮御宇服降/為夜須評督」、四代後の「長提」の傍注には「小治田朝 評督/居筑紫国夜須評松狭野」と見え、「哲」から「長提」は六世紀初頭から評制の時代にかかる七世紀中頃の人物と考えられ、当地に九州王朝の王族が居住していたことがうかがえます。この系図の記事と柳澤家所蔵の宝冠が無関係とは思えません。引き続き、調査します。教えて頂いたYさんに感謝します。

(注)
①古田武彦『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、平成五年(1993)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古賀達也「古田先生と『三前』を行く」『古田史学会報』33号、1999年。
③平山昌博『豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へ』梓書院、2003年。
④古賀達也「洛中洛外日記」24322450話(2021/04/12~05/06)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(1)~(12)〟


第2938話 2023/02/07

倭王に従った南九州の軍事氏族

先週末、お仕事で京都大学に来られた正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が拙宅によられたので、富雄丸山古墳の出土品について意見交換を行いました。そのとき、強く印象に残ったのが、南九州の豪族達は韓半島へも進出した痕跡(前方後円墳の形状近似)が遺っているという正木さんの指摘でした。韓半島で前方後円墳が次々と発見されたこともあって、その形状が「前方・後円」というよりも、「前三角錐・後円」であり、それと同型の古墳が宮崎県に散見されることを「洛中洛外日記」などで紹介したことがありました(注①)。
こうしたことから、正木さんは南九州の氏族は九州王朝の軍事氏族ではないかと示唆されたのです。『宋書』倭国伝に見える、五世紀に活躍した〝倭の五王〟の一人、倭王武の上表文によれば、倭国(九州王朝)は東西(日本列島)と北(韓半島)へ軍事侵攻してきたことがわかります。南九州と韓半島の前「三角錐」後円墳の編年は五世紀末から六世紀頃であり、富雄丸山古墳の被葬者の時代は四世紀後半と編年されていますから、南九州の軍事氏族による侵攻は長期にわたっていることがわかります。
その痕跡が『日本書紀』の歌謡にも遺されています。推古紀の次の歌です。

「推古天皇二十年(620年)春正月辛巳朔丁亥(7日)、(中略)
天皇、和(こた)へて曰く。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま) 太刀ならば 呉の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」『日本書紀』推古二十年(620年)春正月条(注②)

この歌は内容が不自然で、以前から注目してきました。推古天皇が「蘇我の子らを 大君の 使はすらしき」と詠んだとするのであれば、この「大君」とは誰のことと『日本書紀』編者は理解していたのでしょうか。九州王朝説では、九州王朝の天子のこととする理解が可能ですが、そうであればなおさら『日本書紀』編者はそのことを伏せなければなりませんので、やはり不可解な記事なのです。
この問題は別として、わたしが注目したのは「馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀」の部分です。優れた軍事力の象徴として「日向の駒」「呉の真刀」と歌われており、この日向が宮崎県を意味するのであれば、その地にいた九州王朝の軍事氏族の大和侵攻が、七世紀になっても伝承されていたのではないでしょうか。この理解の当否を含めて、富雄丸山古墳からの盾形銅鏡や蛇行剣の出土は、九州王朝における南九州の政治的位置づけを考えるうえで、よい機会となりました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1126話(2016/01/22)〝韓国と南九州の前「三角錐」後円墳〟
同「古代のジャパンクオリティー 11 韓国で発見された前方後円墳
」繊維社『月刊 加工技術』、2016年4月。
同「前「三角錐」後円墳と百済王伝説」『東京古田会ニュース』167号、2016年。
②日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。


第2854話 2022/10/06

俾弥呼と倭王武を繋いだ『南斉書』

 令和二年(2020年)八月に定年退職してから二年間、わたしは三つの課題に取り組んできました。一つは、より多くの考古学論文・発掘調査報告書を正確に読むこと。二つは、古田先生の初期の著作群をもう一度丁寧に読むこと。三つは、友好団体の例会・勉強会にリモート参加して〝異見〟を聞くことです。これらの課題はこれからも続けますが、視力と集中力が低下していますので、古田史学入門当初のようなスピード感は望むべくもありません。しかし、若い頃よりも深く考えることができるようになった気がします。
 その復習を兼ねて、初期の著作で展開された古田史学の重要な論証やテーマを「洛中洛外日記」に書き留め、皆さんに紹介したいと思います。古くからの古田ファンにはご存じのことばかりと思いますが、少々お付き合いください。
 最初に紹介するのは〝『南斉書』の証言〟と名付けられた九州王朝の継続性に関する重要な論証です。1975年に発表されたもので(注①)、『邪馬一国の証明』に収録されています(注②)。『南斉書』は南朝斉の史書で、梁の時代に成立しています。著者は蕭子顕(~537年、梁。注③)で、南斉の中枢官僚「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る官)です。『南斉書』には短文ですが倭伝があり、その歴史が簡潔に記されています。

○倭国。(A)帯方の東南大海の島中に在り。漢末以来、女王を立つ。土俗已(すで)に前史に見ゆ。(B)建元元年、進めて新たに使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・〔慕韓〕六国諸軍事、安東大将軍、倭王武に除せしむ。号して鎮東大将軍と為せしむ(「慕韓」は脱落。(A)(B)は古田)。

 前半部(A)は『三国志』倭人伝からの引用、後半部(B)は『宋書』からの引用です。この『南斉書』倭伝に表された倭国とは〝倭の五王の王朝は、三世紀俾弥呼の王朝の直接の後裔であり、その間において、とりたてて言うべき大きな地理的変化、つまり「東遷」などはなく、ほぼ同一領域に都をおいていた〟として、古田先生は次のように指摘されています。

 「これは次のことを意味する。〝三世紀の卑弥呼の王朝が筑紫(博多湾岸)に都していたことが決定的となったならば(古田『邪馬壹国の論理』所収の「邪馬台国論争は終わった」参照)、そのときはすなわち、倭の五王もまた筑紫の王者だ、と必ず見なさねばならぬ〟と。」『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、257~258頁。

 ここで重要なことは、〝『宋書』も『南斉書』も同じ連続した史局(宋~斉~梁)の産物〟ということであり、『南斉書』倭伝の後半部(B)の倭王武の使者の記事は、著者が〝直接、南斉の天子のかたわらにあって、じかに目にし、直接耳にした事実と考えられ、史料としての信憑性は極度に高い〟ということです。その著者が、〝この倭王武の王朝は、『三国志』に書いてある俾弥呼や壹與の王朝の後裔だ〟と前半部(A)にはっきりと明述しているのです。
 この論理性を古田先生は〝『南斉書』の証言〟と名付け、いわゆる邪馬台国東遷説を否定するとされました。邪馬台国大和説が当地の考古学者から明確に否定されるようになった今日(注④)、一元史観を維持するため次にクローズアップされるのが、邪馬台国東遷説であることは容易に想像できます。そして、古田先生はそのような時代の到来を予見していたかの如く、〝『南斉書』の証言〟の論証を1975年時点で発表されていたのです。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『野性時代』1975年。
②古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。本書収録の「『謎の四世紀』の史料批判」、「古代史の虚像」、「古代船は九州王朝をめざす」に〝『南斉書』の証言〟に関する解説がみえる。
③『邪馬一国の証明』に次の紹介がある。
 「著者、蕭子顕(~五三七年、梁)もまた、南斉の中枢官僚(給事中)だった。彼は、斉の予章、文献王、嶷の子であり、「聡慧」だったため、父の文献王にことに愛せられたという。そして「王子の例」として、「給事中」(天子の左右に侍し、殿中の奏事を掌る官)に任命された〈『梁書』、二十九〉。(より重要なことは、『宋書』も『南斉書』も同じ連続した史局(宋~斉~梁)の産物だ、ということである。後記。)。」(ミネルヴァ書房版、257頁)
 予章文献王蕭嶷は南斉第二代武帝の次男、従って蕭子顕は武帝の孫に当たる。
④関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。関川氏は元橿原考古学研究所員。


第2655話 2022/01/05

蝦夷国から出土した銅鏡

 この正月三が日、わたしは自らの講演YouTube動画(注①)を見ました。自分の動画は恥ずかしいので今までほとんど見ることはありませんでしたが、「古田史学の会」ホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)が「新・古代学の扉」トップ画面をリニューアルされたので、この機会にチェックすることにしたものです。
 その動画は「古代官道の不思議発見」というテーマの講演で、こうやの宮(注②)の御神像の一つが蝦夷国からの使者であり、その使者が鏡を持っていることから、蝦夷国は未開の蛮族などではないと説明しました(注③)。古代日本では鏡は太陽信仰のシンボルですから、蝦夷国は倭国の文化や技術を積極的に受容したのではないでしょうか。九州王朝(倭国)が中国や朝鮮半島の先進技術・文明を受け入れたようにです。この仮説を証明するような遺構・遺物が出土しています。
 2015年、宮城県栗原市の入の沢遺跡で驚きの発見がありました。同遺跡は深い溝を巡らせた四世紀の大集落跡で、その住居跡から銅鏡4枚が出土しました。自然の傾斜などを利用した北東―南西約125m、北西―南東約70mの集落域を柵のような塀跡と大溝跡が並行して取り囲んでおり、塀は溝状に掘った穴に材木を10~30cmの間隔でびっしりと立ち並べていたとみられています。見つかった銅鏡4枚はすべて小型の国内製で、珠文鏡2枚、内行花文鏡(破鏡)と重圏文鏡が1枚ずつ。古墳時代前期としては最北の発見です。鏡以外にも鉄製品が30点、勾玉や管玉、ガラス玉も出土しています。
 この入の沢遺跡は大和朝廷の勢力が居住した防御施設とされており、蝦夷国のものとはされていません。確かに出土品を見るかぎり、倭国の文化と思わざるを得ませんが、四世紀の宮城県北部の住居跡から銅鏡が出土したことは、蝦夷国の地に銅鏡などの倭国の文物が入っていたことを示し、蝦夷国からの九州王朝への使者が鏡を持っていたとしても不思議ではないように思います。従って、こうやの宮の鏡を持つ御神像を蝦夷国からの使者とした拙論は穏当な解釈であり、御神像は歴史事実を反映していたことになるわけです。蝦夷国の実像や九州王朝との関係についての再検討が必要です(注④)。

(注)
①市民古代史の会・京都(代表:山口哲也氏)主催講演会(2021年11月23日、キャンパスプラザ京都)での講演「古代官道の不思議発見」。
https://youtu.be/rWYLT9Rvq4g
https://youtu.be/Hoo-zMsWXMU
https://youtu.be/kFagnmfvpCg
https://youtu.be/N1QG9dGjRP4
https://youtu.be/GVK2njzIRqA
②福岡県みやま市瀬高町太神にある小祠。五体の御神像があり、中央の一回り大きい主神は高良玉垂命。
③古賀達也「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」『卑彌呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年。
④「洛中洛外日記」1011話(2015/08/01)〝宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝〟では「この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです」と捉えていた。その後、「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1~12)〟で蝦夷国について考察した。

 


第2654話 2022/01/04

うきは市で双方中円墳を確認

 今年も多くの方々から年始のご挨拶が届きました。ありがとうございます。久留米市の菊池哲子さんからは、とても興味深い情報が寄せられましたので紹介させていただきます。
 いただいたメールによれば、昨年末、うきは市から全国でも珍しい双方中円墳が発見されたとのこと。12月29日付の西日本新聞(本稿末にWEB版を転載)によれば、うきは市の西ノ城(にしのしろ)古墳を調査したところ、全国でも4例ほどしか発見されていない双方中円墳であることが確認され、双方中円墳としては最も古い三世紀後半の築造と推定されています。菊池さんは他地域の双方中円墳の原型ではないかとされ、貴重な発見と思われました。
 双方中円墳について急ぎ調べたところ、西ノ城古墳を含め次の5例が知られています。築造年代順に並べます。

名称    所在地     築造年代  墳丘全長
西ノ城古墳 福岡県うきは市 三世紀後半 約50m
猫塚古墳  香川県高松市  四世紀前半 約96m(積石塚)
鏡塚古墳  同県高松市   四世紀前半 約70m(積石塚)
稲荷山北端1号墳 同県高松市 四世紀前半 不明(円丘部径約28m、南側方丘部長約20m)
櫛山古墳  奈良県天理市  四世紀   152m
明合古墳  三重県津市   五世紀前半 約81m
               ※ウィキペディアなどによる。

 西日本新聞に掲載された桃崎祐輔さんの見解では、大和朝廷一元史観の通説に基づいて「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」とされており、九州大学の西谷正さんは「大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう」と解釈されています。しかし、上記のように築造年代は、九州から四国へ、そして近畿・東海へと伝播していることを示唆していますし、分布数を重視すれば、高松から九州や近畿に伝播したと考えることもできそうです。少なくとも上記の考古学的事実が、〝大和から瀬戸内海地方を通って大分⇒日田⇒うきは〟という伝播の根拠には見えません。大和朝廷一元史観というイデオロギーが先にあって、それに合うように考古学的事実を解釈しているのではないでしょうか。
 今回の発見を機に双方中円墳の発生経緯を考えてみました。通説では弥生時代の双方中円形墳丘墓である楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)がその原型として指摘されていますが、わたしは吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓(紀元前一世紀)に注目しています。同墳丘は長方形(南北40m×東西27m)に近い形状と推定されており、複数の甕棺が埋納されています。うきは市の西ノ城古墳も墳丘から複数の埋葬施設が出土しています。他方、倭人伝に記された倭国の女王卑弥呼の墓は「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあるように、円墳です。このことから、首長を葬る円墳と、複数の人々を埋葬する方形墳丘とが一体化して築造されたものが双方中円墳へと発展したのではないでしょうか。これは一つのアイデア(作業仮説)に過ぎませんが、ここに提起し、引き続き副葬品などの調査検討を行います。
 情報をお寄せいただいた菊池哲子さんに御礼申し上げます。

《西日本新聞WEB版 2021/12/29》
双方中円墳、九州で初確認
福岡・うきは市の西ノ城古墳

 福岡県うきは市で発掘調査中の西ノ城(にしのしろ)古墳が、円形墳丘の両端に方形墳丘が付いた「双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)」とみられることが分かった。全国で数例しか確認されておらず、九州では初めて。出土した土器片から古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造と推定され、最古級の双方中円墳という。近畿や山陽の有力勢力と被葬者のつながりが推察され、専門家は当時の中央と地方の関係を知る重要な発見だと指摘する。
 西ノ城古墳は同市浮羽町の耳納(みのう)連山中腹にある。市教育委員会によると、円形墳丘は長径約37メートル、高さ約10メートルで、二つの方形墳丘を合わせた全長は約50メートル。円形墳丘の頂部では、板状の石を組んで造った埋葬施設が2基見つかった。壊された同様の埋葬施設を含めると、5基以上あったとみられ、弥生時代の集団墓の特徴を残す。一帯を治めた豪族と親族、側近らが埋葬されたと考えられるという。
 現場を確認した福岡大の桃崎祐輔教授(考古学)によると、双方中円墳は弥生時代後期の墳丘墓が発展し、4世紀ごろに築造が始まったとされる。確認例は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳や香川県高松市の猫塚古墳など全国で数例。西ノ城古墳の発見で築造年代がさかのぼる可能性が出てきた。
 双方中円墳の原型とされるのが、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に築かれた岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓。西ノ城古墳では「複合口縁壺」と呼ばれる土器の破片が出土し、似た形状の土器が瀬戸内地域や大分に分布するという。
 桃崎教授は「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」と指摘。西ノ城古墳の集団は、こうした交流の中で双方中円墳を取り入れたと推測する。
 同古墳は2020年、公園整備のための調査で見つかり、斜面を覆う「葺石(ふきいし)」が確認された。うきは市教委は本年度から本格的に発掘調査を開始し、来年度も継続するという。(渋田祐一)

国家の形成過程分かる

 西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 双方中円墳は全国でも確認例が極めて少なく、西ノ城古墳は貴重な発見だ。大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう。古代国家の形成過程における中央と地方の関係を知る手掛かりになる。


第2621話 2021/11/25

八王子セミナー余話

  〝「東山道十五国都督」の時代〟

 八王子セミナーでの発表で、倭王武の支配領域が関東にまで及んでいたとする傍証として『日本書紀』景行天皇55年条に見える記事「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を紹介しました。発表の前日、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)と同記事の実年代について意見交換をしました。というのも、この記事が5世紀のことなのか不明だったので、日野さんの意見を聞いたものです。
 日野さんは6~7世紀頃の出来事ではないかとされ、その理由は「十五国」と「都督」でした。5世紀段階での太宰府(筑前)から関東(上野・武蔵・下野)までの国数が「十五国」では少なすぎるし、倭王が「都督」を任命する時代は6~7世紀頃ではないかとのことでした。わたしは日野さんの見解に納得しましたので、翌日の発表では日野さんの見解を踏まえたものに急遽変更しました。
 実はわたしも日野さんと同様の問題意識を抱いており、「洛中洛外日記」1709話(2018/07/19)〝「東山道十五国」の成立時期〟で次のように述べていました。

 〝『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説(山田春廣氏・古田史学の会会員・鴨川市)によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。
 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」
 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。〟

 「東山道十五国」の国数と『常陸國風土記』を重視すれば、景行紀55年条の記事の時代は7世紀中頃とするのが穏当と思われます。しかし、「都督」(彦狭嶋王)一人の統括領域が「東山道十五国」では広すぎるようにも思いますので、まだまだ検討が必要です。

 


第2616話 2021/11/19

水城築造年代の考古学エビデンス (1)

  先日開催された八王子セミナー(注①)では、エビデンスを重視するという姿勢が従来以上に強調されました。他方、古代山城や水城の造営年代を「倭の五王」の頃(5世紀)とする見解が複数の方から発表されましたが、発掘調査報告書には造営年代が五世紀まで遡るという確かな考古学エビデンスは見えず、七世紀後半代とするものがほとんどであるとわたしは理解しています。セミナーでは説明時間が充分になかったこともあり、改めてそれらの考古学エビデンスを紹介します。
 まず古代山城ですが、鞠智城は七世紀初頭(多利思北孤の時代)まで造営年代が遡る可能性があります。その考古学エビデンスは、出土した炭化米の炭素同位体比年代測定で、AD590~640年(6世紀後半~7世紀中葉)の値が出されています。このことは「洛中洛外日記」などで紹介してきたところです(注②)。
 その他の古代山城の造営年代についても、たとえば鬼ノ城からの500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のものであり、古墳時代的な古い杯Hは出土していません。永納山城では城の東南隅の谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器が出土しています。御所ヶ谷城からは7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城からは8世紀初めの須恵器水瓶などが出土しています。これらの出土事実も「洛中洛外日記」(注③)で紹介しました。仮に土器編年にぶれや誤りがあったとしても、5世紀まで200年も遡るとは考えられないのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13~14日。
②古賀達也「洛中洛外日記」1201話(2016/06/05)〝鞠智城出土炭化米のC14測定年代〟
 古賀達也「鞠智城創建年代の再検討 ―六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説―」『多元』135号、2016年9月。
③古賀達也「洛中洛外日記」2609話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2612話(2021/11/11)〝鬼ノ城、礎石建物造営尺の不思議〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2614話(2021/11/13)〝古代山城の廃絶と王朝交替〟


第2615話 2021/11/18

「倭の五王」通説2論を拝聴

 先日開催された八王子セミナー2021のテーマ「倭の五王」について、通説に基づくお二人の講演・講義を拝聴しました。一人は、同セミナーで特別講演(注①)された河内春人さん(関東学院大学准教授)。もう一人は、三重大学のリモート公開講座(注②)で講義された小澤毅さん(三重大学教授)です。小澤さんの著書『古代宮都と関連遺跡の研究』(注③)については「洛中洛外日記」などで紹介したことがあり(注④)、以前から注目してきた研究者です。
 両氏は通説に基づいておられ、『宋書』に見える「倭の五王」を「大和朝廷」の天皇とする点は共通しており、古田先生が批判された論点を超えたものとは思われませんが、『宋書』と『日本書紀』との齟齬について、新たな解釈を試みられています。他方、河内や大和の巨大前方後円墳と『日本書紀』の天皇を自説のエビデンスとしており、この点は従来説と変わりありません。
 このような通説に対して、古田先生は『宋書』の史料批判により「倭の五王」と『日本書紀』の天皇は一致しないことを既に論証されています。古田学派に残された最大の課題は、次の考古学的事実の九州王朝説による合理的な説明です。

(1)なぜ前方後円墳の巨大化は四世紀の大和で始まったのか。
(2)なぜ大和や河内に日本列島最大の巨大古墳群が誕生したのか。
(3)なぜ九州島内最大の前方後円墳群が五世紀の日向・大隅で誕生したのか。

 これらは「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注⑤)の《一の矢》として問題視してきたテーマとその関連事象です。通説よりも説得力のある論証を作り上げたいと、わたしは何年も考え続けています。

(注)
①河内春人「五世紀の倭王権とその実態」、古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 特別講演。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13日。
②小澤毅「倭の五王とは誰か」、三重大学人文学部公開講座。2021年11月17日。同公開講座の開講を竹内順弘氏(古田史学の会・事務局次長)よりお知らせ頂いた。
③小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。小澤氏は「邪馬台国」北部九州説論者である。
④古賀達也「洛中洛外日記」1963話(2019/08/14)〝〔書評〕小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』一元史観からの「最大古墳は天皇陵」説批判〟
 古賀達也「〔書評〕小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』 天皇陵は同時代最大の古墳だったか」『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢」『古田史学会報』135、136、137号、2016年8、10、12月。
 古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟において、古田学派が説明しなければならないテーマとして、次の3点を指摘した。
【九州王朝説に突き刺さった三本の矢】
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿(河内・大和)。
《二の矢》六世紀末から七世紀にかけての列島内での寺院(現存・遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿。
《三の矢》全国に評制施行した九州王朝最盛期の七世紀中頃において、国内最大の宮殿・官衙群遺構は北部九州(大宰府政庁)ではなく大阪市の前期難波宮(面積は大宰府政庁の約十倍。東京ドームが一個半入る)であり、国内初の朝堂院様式の宮殿でもある。


第2594話 2021/10/15

倭の五王と神籠石山城・鞠智城

 本日は多元的古代研究会の月例会にリモート参加させていただきました。10日の例会では配信状態の悪化により、よく聞こえなかった鈴木浩さんの発表「倭五王王朝の興亡 朝鮮式山城・神籠石と装飾古墳」を改めて拝聴しました。装飾古墳や北部九州の神籠石山城・鞠智城を倭の五王と関連させて考察するという研究で、参考になりました。
 近年の研究では神籠石山城の造営年代を7世紀後半とする説が有力ですが、鈴木さんはそれよりも200年ほど早いとされました。遺跡造営年代の研究は考古学的エビデンスが重要となりますので、わたしも検証したいと思います。なお、鞠智城については6世紀末から7世紀初頭頃の造営とする論考をわたしは発表しています(注)。

(注)古賀達也「鞠智城創建年代の再検討 ―六世紀末~七世紀初頭、多利思北孤造営説―」『古田史学会報』135号、2016年8月。