九州王朝(倭国)一覧

第1570話 2018/01/10

評制施行時期、古田先生の認識(6)

 『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)に収録された古田武彦講演録「大化改新と九州王朝」では、倭国の「評制度の淵源」について説明された後、朝鮮半島諸国の「評」についても触れられ、「行政単位」が倭国と新羅では似ていることなどを次のように紹介されています。

 「この後朝鮮半島内では同じく評を名乗る例が出てまいります。
 基色在内曰啄評、国有云啄評・五十二邑靫 〈梁書 新羅伝〉 
 『梁書』に新羅で啄評という言葉を使っているというのがでてまいります。これも六世紀。新羅は啄評というのを使い、倭国側では評というのを使っている。行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね。
 さらに高句麗における評があります。
 復有内評・外評・五部褥薩 〈隋書、高句麗伝〉
 内評・外評と内外は付いていますが、ズバリ評がでてまいります。(中略)中国の影響を受けて新羅や倭国や高句麗が評を設定した、その証拠とみるべきです。」(26〜27頁)

 このように古田先生は「行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね」と、新羅や高句麗も倭国と同様に中国の影響を受けて「評を設定した」とされています。もちろんこれらの「評」も称号(官庁名、軍事名)としての術語です。なお、古田先生はここで「行政単位」という用語を使用されていますが、通常、「行政単位」とは「行政区画」を施政・統治する機構という意味で使用されているようです。たとえばWikipediaには次のように説明されています。

 「行政区画(ぎょうせいくかく)とは、国家が円滑な国家機能を執行するために領土を細分化した区画のこと。行政区分(ぎょうせいくぶん)、行政区域(ぎょうせいくいき)ともいう。それらの行政区画を施政・統治する機構を行政単位という。〔1〕」
 「〔1〕例えば、東京都という「行政単位」が施政を行う「行政区画」は、東京都区部、多摩地域、東京都島嶼部である。」
 「行政区画の例 日本
 47の都道府県から構成されるが、その下に市町村、特別区(東京都のみ)が置かれる。町、村はいくつか集まって郡を形成する。また、市のうち政令指定都市には行政区が置かれる。」

 以上のような定義とは別に、「行政区画」と同じ意味で「行政単位」が使われるケースもあるようです。単純化していえば、7世紀中頃に九州王朝が日本列島内で施行したのが、行政区画である評制(「国・評・里」制)であり、朝鮮半島内での評(官庁名、軍事名)は行政単位(行政区画を施政・統治する機構)となります。ただし、当時の倭国が支配した朝鮮半島内の行政区画の詳細は不明です。従って、古田先生がここで述べられた「行政単位」とは、通常の定義である「行政区画を施政・統治する機構」の意味であることが、一連の文脈からも明らかです。(つづく)


第1569話 2018/01/09

評制施行時期、古田先生の認識(5)

 古田先生は、「評」という用語の淵源が中国や朝鮮半島諸国の「官職名」に由来するとして、1983年10月の大阪講演会(市民の古代研究会主催)で次のように説明されています。『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)に収録された同講演録「大化改新と九州王朝」から引用します。

 「評制度の淵源
(中略)中国の評という概念は倭の五王のでてきます『宋書』にでてくるわけです。それによりますと、延尉という官職名について述べまして、これは裁判の制度であると同時に軍事の制度である。裁判と軍事を相兼ねたものであるという説明をしてありまして、その長官を延尉正。現代でも検事正といういい方をしています。これと同じ正です。副官は延尉監。第三番目の、一番末端の役目が延尉評なんです。そして
 魏・晋以来、直云評。
延尉評が省略されて、ただ評という言い方で呼ばれるようになった。魏・晋の魏は卑弥呼の行った魏です。南朝劉宋においてもやはり評といわれていた。」(25頁)
 「ここで六国諸軍事大将軍と名乗ることは、又自らの開府儀同三司と名乗ったことは、かって帯方郡の評が行っていた軍事、裁判支配権を私が替ってやるのを認めて欲しい、ということなのです。諸軍事のキーポイントは評なわけです。(中略)言い換えると評というのは朝鮮半島にあるけれど、倭国の称号なのです。官庁名というか軍事名というか術語なのですね。(中略)そうなりますと、筑紫の君の配下の評となってくるわけです。倭国内の評はここに始まっている。こういうふうに考えなければならない。」(26頁)

 このように、中国の延尉評や評が倭国の評の淵源であり、任那などの朝鮮半島にあっても倭国の筑紫の君の配下の評であるとされ,それを明確に称号(官庁名・軍事名)とされています。すなわち、7世紀中頃に施行された日本列島内の行政区画の評制(「国・評・里」制)とは別概念と、古田先生はされているのです。(つづく)


第1568話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(4)

 行政区画としての評制が7世紀中葉に九州王朝で始まったとする古田先生の理解(時期については通説も同様)が妥当であることを、わたしは「文字史料による『評』論 — 『評制』の施行時期について」(『古田史学会報』119号、2013年12月)で具体的な史料を明示して説明しました。更に同論稿を改訂した「『評』を論ず 評制施行時期について」を『多元』に昨年末に投稿しました。そこでは、評制施行が記された古代史料は全てその時期を7世紀中頃としており、それ以外の時期に評制を施行したとする史料は無いことを指摘しました。従って、一元史観であろうと多元史観・九州王朝説であろうと、史料根拠に基づく限り、評制施行時期は古田先生の理解通り、7世紀中頃と考えざるを得ないのです。
 他方、古田先生は九州王朝の行政区画「評制」(「国・評・里」制)における、「評」という用語の淵源が中国や朝鮮半島諸国の「官職名」に由来することも説明されました。通説でも、朝鮮半島諸国にあった「評」という官職名や行政組織名が、倭国の行政区画「評制」の「評」という字の淵源と説明しています。しかし、両者は性格が異なります。中国や朝鮮半島諸国では「官職名」「行政組織」を意味し、日本列島では行政区画として地名とのセット(例:筑前国糟屋評など)で使用されています。従って、日本古代史学において「評制」と言う場合は後者を意味しますし、古田先生もそのように理解されています。(つづく)


第1567話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(3)

 『なかった』創刊号(2006年、ミネルヴァ書房)に収録された「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」を紹介し、古田先生が評制施行を「七世紀中葉」と認識されていたことを説明しました。その後、古田先生は更に研究を進展させ、九州王朝は博多湾岸の「難波朝廷」で評制を施行したとする見解を明らかにされました。たとえば、二〇〇八年一月の大阪講演会では次のように述べられています。

 「その中(『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』、古賀注)に『難波長柄豊碕宮』や『難波朝廷』が出てくる。(中略)これが実は博多の宮殿を指している。この『難波朝廷』は九州博多にある九州王朝の宮殿を指している。その時に『評』が造られた。このように考えます。」(『古代に真実を求めて』十二集、二〇〇九年明石書店刊。五〇頁)

 『なかった』五号(ミネルヴァ書房、二〇〇八年六月)の古田武彦「大化改新批判」にも次のように記されています。

 「(補1)博多湾岸の『難波の長柄の豊碕』は、九州王朝の別宮であり、最高の軍事拠点である。ここにおいて『評制』も樹立された可能性がある。もちろん『九州王朝の評制』である。
 『近畿の(分王朝の)軍』を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この『九州王朝の別宮』に集結していた。その近傍において『入鹿刺殺』の惨劇が行われたこととなろう。」(三三頁)

 このように、「七世紀中葉」の施行とされた評制ですが、古田先生はその拠点を従来は太宰府の都督府、あるいは筑紫都督府とされていました。ここでは『皇太神宮儀式帳』(難波朝廷天下立評)などを根拠に、博多湾岸にあった九州王朝の別宮の「難波長柄豊崎宮」「難波朝廷」とする仮説(認識)を発表されました。この仮説の当否は別としても、古田先生がこのように理解されていたことがわかります。なお、「難波朝廷」という呼称は、中国南朝の冊封体制から離脱し、自ら「天子」を自称した7世紀以降の九州王朝にふさわしいものです。
 更に付言しますと、「難波朝廷天下立評」と記されている『皇太神宮儀式帳』は後代史料であり、史料として使用できないとする古田学派の論者もありますが、それは古田先生の学問の方法とは異なることが、この論稿からも明らかでしょう。(つづく)


第1566話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(2)

 日本古代史学界では有名な郡評論争というものが永く続きましたが、最終的には藤原宮などからの出土木簡により、7世紀は「国・評・里」という行政区画「評制」であり、8世紀になって全国一斉に「国・郡・里」の「郡制」に変化したことが明らかになりました。その郡評論争を主導したのが、坂本太郎さんとそのお弟子さんの井上光貞さんでした。7世紀は「評制」とする井上さんの説が論争では勝ったのですが、その師匠の坂本さんを批判した井上論文コピーを古田先生からいただきました。師匠への厚い礼儀を踏まえた批判論文で、師弟間の論争(論文)はかくあるべきとのことで、古田先生からいただいたものです。今から20年近く昔のことだったと思います。
 当時は「大化改新」やそれに関わって「評制」などについても古田先生を中心に勉強会を行っていたのですが、行政区画としての「評制」は九州王朝が施行したもので、その時期は通説と同じで、いわゆる「孝徳朝」時代の7世紀中頃という認識でした。もちろん古田先生も同見解でした。その古田先生の理解(認識)を示した文章がありますので、ご紹介します。『なかった』創刊号(2006年、ミネルヴァ書房)に収録された「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」です。

 「七世紀中葉から末まで、日本列島(九州から関東まで)に実在した『評制』としての『評督』の上部単位。これは『筑紫都督府』以外にありえない。」(30頁)

 このように「評制」とその長官『評督』の実在期間を「七世紀中葉から末まで」と記され、評制施行が「七世紀中葉」と認識されています。更に次のような文章もあります。

 「では、その『廃評立郡の詔』は、いずこに消えたか。また、なぜ『隠さなければ』ならなかったか。この一点にこそ、最大の疑問がある。
 また、これに“呼応”すべき、いわゆる『孝徳天皇』による『立評の詔勅』が、なぜ日本書記(ママ)の孝徳紀から“姿を消している”か。これもまた、誰人にも答えることができない。」(31頁)

 ここでも評制施行時期が「孝徳天皇」のとき(七世紀中葉)との認識を前提に「『立評の詔勅』が、なぜ日本書記(ママ)の孝徳紀から“姿を消している”か。」と問題提起されています。これらの記述から、評制施行時期について「七世紀中葉」と古田先生が認識されていることは明らかです。古田先生との30年に及ぶおつきあいでも、古田先生はこうした認識を前提に学問的対話をされていました。そうしたわたしの記憶ともこれらの記述は一致しています。
 なお同書に収録されている講演録「研究発表 『大化改新詔の信憑性』(井上光貞氏)の史料批判」では次のように記されています。

 「なぜかというと、『評督』の方は、出現が大体日本列島にほぼ限られている。そして、時期が、出現の時期が、七世紀半ばから七世紀末までに限られている。」(38頁)

 わたしはこの文章も、評制施行時期を「七世紀半ばから」とする古田先生の認識に基づいていると理解しているのですが、これを「評督」だけの開始時期のことで、「評制」開始時期ではないとする論者もあります。しかし、「評制」とその長官「評督」の成立は別時期とする理解は無理筋というものです。
 この文章は日本思想史学会(東京大学)での「講演録」ですから、「評制」と「評督」は「七世紀半ばから」との通説の理解を持つ研究者を対象にしたものです。従って、「評制」と「評督」の成立時期が同時か別かなどはそもそも発表の論点に含まれていません。この講演の主論点は、「評制」「評督」は九州王朝の「筑紫都督」下の制度とするものです。
 その点、先に紹介した「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」は論文ですから、不特定多数の読者を想定して、より正確な表記となっています。論文と講演録は同じ認識で古田先生は著し、口頭発表されているはずですから、「評制」とその長官「評督」の施行時期は「七世紀中葉」とするのが古田先生の理解(認識)と考えなければなりません。(つづく)


第1565話 2018/01/06

評制施行時期、古田先生の認識(1)

 古田先生が亡くなられてから、古田学派内でちょっと不思議な現象が起こりました。それは古田先生の発言や認識について、わたしが30年にわたって先生から直接お聞きしてきたことと、古田先生の見解(認識)は異なるとする、わたしへのご批判の声が聞こえ始めたのです。学問研究ですから、ご批判は全くかまわないし、むしろ学問の発展に批判や論争は不可欠とわたしは考えています。しかし、先生のご意見が不正確に他の人には伝わっているとしたら、後世の研究者や読者のためにも、正しく伝えておかなければならないと考えています。
 そこで今回は九州王朝(倭国)における「評制」開始時期についての古田先生の見解(認識)について、わたしが直接に見聞きしたことをご紹介します。わたしがこのように聞いた、という説明では納得していただけないでしょうから、先生の著書や講演録を引用し、解説したいと思います。
 なお、ここでいう「評制」とは日本古代史学の一般的な定義である、行政区画としての「国・評・里(五十戸)」制のことであり、評の長官「評督」などの行政制度のことを意味します。もちろん、古田先生も「評制」について基本的にこうした意味で使用されてきました。(つづく)


第1563話 2017/12/31

「天武朝」に律令はあったのか(補)

 前期難波宮が律令制下の宮殿・官衙であり、九州王朝律令による「大蔵省」「兵庫職」や大蔵省配下の「漆部司」がその宮域に存在した痕跡や史料について説明してきました。こうした史料は九州王朝律令の復元研究に役立つものと思います。
 前期難波宮にあった「難波朝廷」でどのような律令が施行されていたのか、いつ施行されたのかなど、わからないことばかりです。おそらくは大和朝廷の大宝律令に内容的に近いのではないかと推定しています。というのも、王朝交代したばかりの近畿天皇家にとって、九州王朝律令は国内では唯一のお手本でもあり、おそらくは九州王朝の官僚群の一部は大和朝廷に徴用されたり、新王朝設立に参画したと思われますので、この推定はそれほど荒唐無稽ではないと考えています。
 その施行時期についても一つの試案があります。それは九州年号「常色」年間(647〜651)ではないかとするものです。九州年号研究の初期段階では、九州年号に仏教に関する文字が多いことから、この「常色」も仏教に関係する「用語」ではないかと考えていました。ところが正木裕さんの研究により、この常色年間に九州王朝(倭国)で様々な制度改革や政治的事績の痕跡が諸史料に見られることから、「常色」の「常」は「のり。典法」のことであり、法律や制度を意味するという説が有力となりました。
 評制(行政区画「国・評・里(五十戸)」制)が全国で開始(天下立評)されたのも、現在の研究では「常色」年間頃とされていますし、常色6年は改元されて白雉元年(652)となり、この年には国内初の朝堂院様式の巨大宮殿である前期難波宮が完成しています。こうした一連の国家的事業とともに常色年間に九州王朝(倭国)は新たな律令「常色律令」を施行したのではないかと考えています。これはまだ作業仮説(思いつき)の域を出ませんが、有力な視点ではないでしょうか。引き続き、研究を深めたいと思います。


第1562話 2017/12/28

「天武朝」に律令はあったのか(5)

 前期難波宮の規模や様式が、律令官制に基づく全国統治機能を持った宮殿・官衙であり、大蔵省下の漆部司などの考古学的痕跡が発見されていることなどを紹介してきましたが、前期難波宮に大蔵省があった史料根拠(痕跡)もあります。その史料とは他ならぬ『日本書紀』です。前期難波宮が失火により焼失した次の記事が天武紀に見えます。

 「乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉に焚(や)けぬ。或は曰く『阿斗連薬が家の失火、引(ほびこり)て宮室に及べり』といふ。唯し兵庫職のみは焚(や)けず。」『日本書紀』天武紀朱鳥元年(686)正月条

 岩波『日本書紀』の頭注では、この「大蔵省」や「兵庫職」を次のように解説し、『日本書紀』編纂時の追記などとしています。

〔大蔵省〕後の大蔵省に相当する官司の倉庫で、難波にあったもの。省は追記であろう。
〔兵庫職〕大宝・養老令制の左右兵庫・内兵庫に相当する官司。朝廷における武器の管理・出納のことにあたった。ここはおそらく兵庫職に所属する倉庫の意で、やはり難波にあったもの。

 このように一元史観の通説による解釈では、律令官制に基づく「大蔵省」「兵庫職」のことではなく、律令以前の難波にあった「役所」の「倉庫」のこととしています。
 しかし、前期難波宮に大蔵省配下の「漆部司」の存在をうかがわせる考古学的痕跡が出土していることから、朱鳥元年条に見える「大蔵省」「兵庫職」は九州王朝律令に基づく官司と理解することができます。もしこれらが『日本書紀』編纂時の追記・脚色であれば、この前期難波宮焼失記事中に突然このような律令官制に基づく「大蔵省」「兵庫職」という表記が現れる理由の説明が困難です。ところが前期難波宮九州王朝副都説に立ってみると、初めて考古学的出土事実と『日本書紀』の史料事実とが九州王朝律令によるものとする合理的理解が可能となるのです。(了)


第1561話 2017/12/27

「天武朝」に律令はあったのか(4)

 前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする考古学的痕跡について、更に説明を加えます。

 2017年1月に大阪府文化財センターの江浦洋さんの講演会を「古田史学の会」で開催したのですが、そこで前期難波宮の西方官衙の北側にある「谷2」(13層)から大量の漆容器が出土していたことを説明されました。その出土層位は「戊申年」(648年)木簡が出土した「谷1」(16層)に対応するもので、前期難波宮存続期間に相当する堆積地層です。この漆容器は各地から前期難波宮に納められたと思われ、その数は三千個にも及んでいます。

 江浦さんが特に着目されたのが、その出土位置でした。前期難波宮の北西に位置する出土地(谷2)は前期難波宮の宮域に接しており、ゴミ捨て場として利用されたと推定されています。前期難波宮の周囲にはいくつもの谷筋が入り込んでいますが、宮域北西の谷に漆容器が大量廃棄されていることから、その付近に漆を取り扱う「役所」が存在していたと考えられます。
江浦洋さんの論文「難波宮出土の漆容器に関する予察」(『大阪城址Ⅲ』大阪府文化財センター、2006年3月)によれば、漆部司について次のように説明されています。

 「奈良時代には令制官司の一つとして『漆部司』の存在が知られている。漆部司は大蔵省の被官であり、漆塗り全般を担当している。」522頁
「今回の調査地から本町通を挟んだ南側の市立中央体育館の跡地では、(財)大阪市文化財協会による数次の発掘調査が行われている。この一連の調査では、前期難波宮段階に帰属する建物群が検出されている。建物群は塀によって区画されており、その中から整然と配置された総柱の堀立柱建物群が検出されている。

 この一画は内裏西方倉庫群、内裏西方官衙と仮称されており、すでに多くの研究者が注目し、呂大防の『長安城図』の対応する位置に『大倉』という記載とともに描かれた建物群との関連が注目され、『大蔵』に関連する施設である可能性が指摘されている。」524頁

「また、これも後の史料であるが、『陽明文庫』の平安京宮城図には宮城の北西隅に『漆室』と書かれた区画がある(図329)。これをそのまま対応させることには異論があろうが、今回の調査地が難波宮の北西隅近くに該当することは明らかであり、ここに漆を保管する『漆室』との記載がある点は看過しがたい事実であるといえる。」525頁

 このように前期難波宮宮域北西隅の谷から大量出土した漆容器と、律令官制の大蔵省下にある漆部司、そして唐の長安城図の「大倉」や平安京宮城図の「漆室」との位置の一致は、前期難波宮が律令官制による宮殿・官衙とする有力な考古学的事実・史料事実なのです。(つづく)


第1560話 2017/12/26

「天武朝」に律令はあったのか(3)

 近畿天皇家が「天武朝」のときには自前の律令を持っていなかったことを説明しましたが、前期難波宮が律令官制による統治機構を有していたとする論理性と考古学的痕跡について説明します。
 まず大枠の論理として、平城宮・藤原宮と前期難波宮の規模・様式の対応という視点があります。王朝交代後の平城宮や藤原宮が、大宝律令・養老律令により全国統治した大和朝廷の王宮・官衙遺構であることは論を待たないと思います。そうであれば、律令官制による全国統治に必要な規模と様式を備えていたのが平城宮と藤原宮であったと理解できます。このことにも反対意見は出ないでしょう。したがって、平城宮・藤原宮とほぼ同じ規模で同じ朝堂院様式を持つ前期難波宮も「律令官制による全国統治が可能」な宮殿・官衙遺構と見なしうるということになります。
 もしこの論理性に反対されるのであれば、その反対論は「律令も持たず、全国統治もしていなかった近畿天皇家が、必要もなくなぜか突然に列島内最大規模の王宮を造営した」ということになります。更に言えば、日本列島の代表王朝であった九州王朝(倭国)は自らの王宮(太宰府)よりも大規模な前期難波宮を近畿天皇家が造営することを咎めることもなく、また造営にあたり各地から「番匠」「工人」を徴用したことも許したということになります。このような歴史解釈は、古田先生の九州王朝説を是とするわたしには到底理解も賛成もできません。(つづく)


第1559話 2017/12/25

「天武朝」に律令はあったのか(2)

 701年以前の近畿天皇家には律令がなかったとする古田説ですが、その根拠の一つに次の金石文の存在があります。
 それは「金銅威奈大村骨蔵器」(国宝)です。江戸時代の明和年間(1764〜1772)に現在の奈良県香芝市から発見されたもので、甕を伏せた下からこの骨蔵器が出土したと伝えられています。球形の容器で、蓋と身が半球形に分かれる特殊な形です。同骨蔵器は蓋に319字におよぶ銘が刻まれています。これには、威奈大村が宣化天皇の子孫にあたり、「後清原聖朝(持統朝か)」のときに任官、「藤原聖朝(文武朝か)」で少納言、大宝律令制定とともに従五位に列せられ、慶雲2年(705)に越後守に任ぜられるが、同4年(707)に任地で歿し、大和の葛城下郡山君里、今の香芝市穴虫の地に葬ったことなどが記されています。
 このようにこの骨蔵器は九州王朝から大和朝廷への王朝交代直後に製造された同時代金石文で第一級史料です。その銘文に「以大宝元年律令初定」と、大宝元年(701)に成立した大宝律令が大和朝廷として初めて制定した律令である旨が記されています。大宝律令を制定した文武朝の高級官僚(少納言)だった威奈大村の骨蔵器に記されているのですから、大和朝廷としての最初の律令は大宝律令であり、それ以前の九州王朝の時代には自前の律令は持っていなかったことを意味します。すなわち九州王朝説に立てば、700年以前の九州王朝の時代には、近畿天皇家も含む九州王朝(倭国)支配領域内は「九州王朝(倭国)律令」に基づいて統治されていたということになるのです。
 したがって、「天武朝」は律令を持っていなかったこととなり、前期難波宮が仮に「天武朝」の宮殿であったとしても、律令制に対応した朝堂院様式の官庁や東西の官衙は、近畿天皇家以外の権力者(九州王朝)が制定した律令により官僚群が政務に就いていたと理解せざるを得ません。ですから前期難波宮を「九州王朝(倭国)律令」に基づいて全国統治していた官僚群がいた九州王朝の宮殿・官衙と理解する九州王朝副都説は有力な仮説なのです。
 7世紀中頃における九州王朝の勢力を過小に見積もり、近畿天皇家が九州王朝よりも優勢であったかのような論調が古田学派内でも見られますが、そうした方々は本稿で紹介したような史料根拠に基づく論理的な歴史理解の方法、すなわち論証をもっと重視されるべきです。「学問は実証よりも論証を重んずる(村岡典嗣先生)」「論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処へ至ろうとも(岡田甫先生)」「論証は学問の命(古田武彦先生)」という言葉を、古田学派の皆さんに繰り返しわたしは訴えたいと思います。(つづく)


第1558話 2017/12/24

「天武朝」に律令はあったのか(1)

 前期難波宮九州王朝副都説への反論が、これまでの論争を通して、ほぼ前期難波宮「天武朝」造営説に収斂してきたように感じています。前期難波宮のような巨大宮殿が白村江戦以前の九州王朝(倭国)の興隆期に、九州王朝の配下である近畿天皇家の孝徳の宮殿と見なすことへの不自然さのためか、前期難波宮造営を天武の時代と見なし、その頃であれば九州王朝よりも近畿天皇家の勢力が優勢と考え、前期難波宮を近畿天皇家(天武天皇)の宮殿と理解することができるという見解です。
 しかし、この「天武朝」造営説には避け難い難問があります。それは「天武朝」に律令があったとするのかという問題です。一元史観の論者であれば、ことは簡単で、「近江令」や「浄御原令」が近畿天皇家には存在したとする通説通りの理解でなんの問題もありません。ところが、わたしたち古田学派は、701年以前の「近江令」「浄御原令」の内実は九州王朝律令であり、近畿天皇家の律令は大宝律令に始まるとする古田説を支持しています。この古田説は前期難波宮「天武朝」造営説と両立できないのです。
 大和朝廷の巨大宮殿、平城宮や藤原宮は朝堂院様式の中央官庁群を有しており、大宝律令・養老律令に基づく数千人(服部静尚さんの計算によれば約八千人)の官僚がそこで政務に就いていたことは古田学派の論者も反対はできないでしょう。とすれば、平城宮・藤原宮と同規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮でも律令による官僚組織が機能していたと考えざるを得ません。
 したがって、古田学派の論者による前期難波宮を天武の宮殿とする理解では、先の古田説と矛盾してしまいます。ところが、わたしの九州王朝副都説では、九州王朝律令に基づいて前期難波宮で九州王朝の官僚群が政務に就いていたとしますので、古田説と矛盾がないのです。(つづく)