九州王朝(倭国)一覧

第1557話 2017/12/23

古田先生との論争的対話「都城論」(9)

 前期難波宮に関する一元史観の通説「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」とわたしの九州王朝副都説の論理構造について解説しましたので、最後に古田先生が提唱された「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」説の論理構造について説明します。
 『日本書紀』には九州王朝(倭国)の事績が盗用(転用)されていることは、『盗まれた神話』などで古田先生が明らかにされてきたところですが、晩年、先生は更にそれを敷衍して、近畿から出土した金石文・木簡や『日本書紀』の記述中に北部九州の類似地名があれば、それは北部九州を舞台にした地名や事績の盗用とする方法論を多用されました。本件の「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」もその論理構造に基づかれたものです。
 通説では前期難波宮を難波長柄豊碕宮と理解するのですが、「長柄」や「豊碕」地名は、前期難波宮がある大阪市中央区の法円坂ではなく、北区にあることから、前期難波宮は孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮ではないとされました。この点はわたしも同意見で、そうであれば難波長柄豊碕宮は北区の「長柄」「豊崎」にあったのではないかとわたしは考えたのですが、古田先生は博多湾岸にも「名柄」「難波(なんば)」「豊浜」という類似地名があることから、大阪市北区ではなく博多湾岸説に立たれたのです。そして、その理解の延長線上に博多湾岸に「難波朝廷」もあり、その地の宮殿で「天下立評」したとまで仮説を展開されました。
 この論理構造は、大阪市と博多湾岸の両者に類似地名がある場合は、必要にして十分な論証や考古学的実証(7世紀中頃の宮殿遺構の出土)を経ることなく、九州王朝の中枢領域にあったとする理解を優先させるということが特徴的です。この方法を古田先生は晩年に多用されたため、その方法論上の有効性と適用範囲について、わたしと先生との間で様々な論議や論争が行われましたが、このことは別に詳述したいと思います。
 極論すれば、古田先生は近畿出土の金石文や『日本書紀』に見える「地名」を北部九州へと収斂させる方向で七世紀の九州王朝史復元を試みられました。他方、わたしは前期難波宮副都説や九州王朝近江遷都説のように、九州王朝の直轄支配領域を近畿へと拡大させることで七世紀の九州王朝史復元を試みました。すなわち、両者の仮説のベクトルが真反対だったのです。
 ですから、前期難波宮副都説を発表するとき、わたしはこの古田先生とのベクトルの「衝突」を明確に意識し、意見の対立は避け難いのではないかと懸念していました。そしてそれは現実のものとなり、先生との学問的意見対立は10年近くにも及んだのでした。この体験は「弟子」としてはかなりつらいものでしたが、2014年の八王子セミナーにて、それまで反対されてきた副都説に対して「検討しなければならない」と言っていただいたことが、わたしにとってどれだけ嬉しかったことか、ご想像いただけると思います。しかし、検討される間もなく、翌年10月に先生は亡くなられました。(了)


第1555話 2017/12/16

九州王朝系近江朝説のキーパーソン、倭姫王

 本日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。来年1月もドーンセンターです。2月は福島区民センターで、関西例会としては初めて使用する会場です。お間違えなきよう。
 今回も関西例会らしく優れた研究発表や厳しい討論が行われ、発表者も多いため時間ぎりぎりまで続きました。参加者も増えてきたため、定員40名の会場では足らなくなりそうです。
 今回の発表では、正木さんの九州王朝系近江朝研究の進展が衝撃的でした。『日本書紀』天智紀で、天智が称制から正式に天皇に即位した天智七年に皇后として登場した倭姫王こそ九州王朝(倭国)の姫であり、天智は倭姫王を皇后に迎えたことにより九州王朝(倭国)の権威を継承(不改常典の成立)したのではないかとされました。壬申の乱以後、倭姫王は『日本書紀』から消えますが、鹿児島県の『開聞古事縁起』によれば壬申の乱で都から逃げてきた大宮姫の伝承が記されており、その大宮姫こそ倭姫王ではないかとされました。これは『日本書紀』と地方伝承の対応という面白いテーマです。来年1月21日(日)の「古田史学の会」新春講演会ではもっと詳しく本テーマを講演していただきます。
 12月例会の発表は次の通りでした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔12月度関西例会の内容〕
①新唐書の目多利思比孤について(茨木市・満田正賢)
②隋書国伝「犬を跨ぐ」について(大山崎町・大原重雄)
③伊都国に常治したのは「一大率」ではない(姫路市・野田利郎)
④九州王朝説による(前期)難波宮造営の理由(八尾市・服部静尚)
⑤前期難波宮と「戊申年」木簡(神戸市・谷本茂)
⑥フィロロギーと古田史学【その7】(吹田市・茂山憲史)
⑦投馬国の里程について(川西市・正木裕)
⑧『日本書紀』天智紀の年次のずれについて(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 『古田史学会報』143号の紹介・会費入金状況・新会員の紹介・「古田史学の会」関西例会の会場、1月(ドーンセンター)、2月(福島区民センター)・1/21「古田史学の会」新春講演会(大阪府立大学i-siteなんば)・『古代に真実を求めて』21集の編集状況・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(12/28親睦会)・北朝鮮漁船漂着と出雲王朝の国引き神話・「難波京の実在性が現実に」大阪歴博、文化財研究所・「孝徳朝における難波の諸宮」市大樹氏論文紹介・1/19〜20東京古田会「難波宮跡と古市古墳群を訪ねる旅」・服部静尚さんが「多元の会」で発表・水野顧問の病状報告(竹村順弘事務局次長)・その他


第1550話 2017/12/08

九州王朝の都鳥

 昨日、東京からの帰りの新幹線グリーン車に備えてある雑誌『ひととき』(2017年12月)を読んでいると、「都鳥」という記事が目に留まりました。片柳草生さんによる文と鈴木一彦さんの写真からなるもので、興味深く拝読しました。
 同記事では隅田川を飛ぶユリカモメの写真などが掲載され、ユリカモメのことを都鳥というと紹介されていました。わたしはいつから都鳥をユリカモメのこととするようになったのだろうと不思議に思い調べてみると、古典(伊勢物語・万葉集)などに見える都鳥はユリカモメとするのが有力説であり、ミヤコドリ科のミヤコドリのこととする説は少数とのこと。そして、なぜ都鳥と呼ばれるようになったのかも不明とされているようなのです。
 今から30年ほど昔のことですが、わたしは「市民の古代研究会・九州」(当時)の灰塚照明さんらから、冬になるとシベリア方面から都鳥(ミヤコドリ科)が博多湾岸に飛来するということを教えていただいたことがあり、博多湾岸に九州王朝の都があったから都鳥と呼ばれるようになったのではないかと考えていました。このミヤコドリ科の都鳥はほとんどが博多湾など北部九州にしか飛来しないことから、九州王朝説に立たなければ都鳥という名称の説明がつきません。ですから、都鳥こそ九州王朝説の傍証ともいえる渡り鳥なのです。
 このようにわたしは理解していましたので、いつのまにかユリカモメが都鳥とされてしまい、おまけに東京都がユリカモメを「東京都の鳥」に指定したとのことで、話がややこしくなったようです。そこで提案ですが、ミヤコドリ科の本物の都鳥を福岡市か太宰府市の「市の鳥」に認定してはどうでしょうか。あるいは福岡県の鳥でもよいと思います。古田史学・九州王朝説を地元に広めるためにも、ユリカモメに負けることなく、「都鳥(ミヤコドリ科)=九州王朝の都の鳥」説を提唱したいと思います。

《追記》念のため調べたところ、福岡県の鳥は鴬。そしてなんと福岡市の鳥(海鳥部門)はゆりかもめとのこと。ゆりかもめ、恐るべし。


第1549話 2017/12/06

渤海国書の「日本」

 今朝は久しぶりの東京出張で、新幹線車中で書いています。天候も良く、冠雪した富士山を見たくて窓側のE席を何とか予約できました。

 「洛中洛外日記」1537話の「百済禰軍墓誌の『日本』再考(1)」でも書いたように、「日本」表記に関する先行研究論文を読んでいます。そして、それらにもよく引用されている、『続日本紀』掲載の渤海国王からの国書に見える「日本」について考察を深めています。この渤海国の国書には以前から興味を持っていたのですが、今回、改めて読んでみると面白いことに気づきました。当該国書の一部を引用します。

 「武藝、啓(もう)す。(中略)伏して惟(おもひ)みれば、大王天朝命を受けて、日本、基を開き、奕葉(えきよう)光を重ねて、本枝百世なり。(後略)」聖武天皇 神亀五年正月条(728年)

 渤海国王(このときは渤海郡王)の武藝から聖武天皇に出された国書ですが、「啓す」という、共に唐の冊封を受けている対等な国の間で使用される字を用いていることから、渤海国は日本国とは対等であるとの立場に立った国書とされています。

 この国書記事がある神亀五年(728年)は『日本書紀』成立(720年)以後ですが、『日本書紀』に記された「天皇」という称号ではなく、「大王」と表記していることから、この時点では渤海国は『日本書紀』を入手していなかったと思われます。あるいは、唐の天子(高宗)が「天皇」を称していたことがあるため、それと同じ称号使用を避けたのかもしれません。

 国書では、日本国の成立について大王の天朝が命を受けて、日本を開基したとあり、この「天朝」という表記も意味深です。天朝が日本を開基する前は、その天朝の国名は何だったと理解しているのでしょうか。また、誰からの命を受けたというのでしょうか。一つの試案(作業仮説)として、唐の命を受けた天朝が日本を開基したという理解はいかがでしょうか。唐の冊封を受けている国が日本という国を開基したのですから、唐の命以外に誰からの命を受けたとできるのでしょうか。

 次に注目されるのが「奕葉光を重ねて、本枝百世なり」という日本国の歴史に関する表現です。倭国(九州王朝)と戦った高句麗の後継でもある渤海国は、701年に日本国が倭国(九州王朝)に替わって日本列島の代表者になったことを知っていたと思われますから、その天朝が日本を開基してから「百世」を経ていないことも理解しているはずです。そのため「本枝百世」という表現にしたのではないでしょうか。すなわち、倭国(本)と日本国(枝)を併せて「百世」と認識していたのではないでしょうか。

 倭国と日本国の関係を「本枝」という表現に例えたのは、多元史観・九州王朝説からすれば見事な歴史認識表記と思われるのです。そうだとすれば、倭国から日本国への王朝交代は所謂「放伐」てはなく、遠戚関係にあった権力者間による交代と、渤海国は認識していたと言えるようです。

 以上のように、728年に日本国にもたらされた渤海国からの国書は多元史観・九州王朝説に整合すると思われるのです。引き続き、国書文面の精査と、日本を開基した大王とは誰か、その時期はいつかについて研究したいと思います。

 ここまで書いたところで、新横浜駅に着きました。東京まであと少しです。


第1538話 2017/11/14

邪馬壹国説博多湾岸説の論理構造

 今朝は名古屋に向かう新幹線車中で執筆しています。名古屋駅で長野行きの特急しなのに乗り換え、松本市に行きます。午後、松本市中央図書館で開催される講演会で正木裕さんと二人で講演します。主催は「古田史学の会」と「邪馬壹国研究会・まつもと」です。そこで、今回の「洛中洛外日記」は古田先生の邪馬壹国博多湾岸説に関連したテーマとしました。

 学問研究において仮説の優劣は、発表者の地位や肩書きではなく、その論証により決まると古田先生から教わりましたが、その論証がよって立つ基礎・基盤とも言える論理構造というものがあります。ともすればその論理構造とは無縁の、あるいは反する「思いつき」を論証として発表されるケースも散見されますので、この論理構造というものについて、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を題材として説明したいと思います。なお、この「論理構造」という名称はわたしがとりあえず採用したもので、もっとふさわしい名称があることと思いますので、ご提案いただければ幸いです。
 古田古代史学衝撃のデビュー作『「邪馬台国」はなかった』では、その『三国志』中の「壹」と「臺」の全数調査という方法が注目されがちなのですが、そのテーマは文献(『三国志』)の史料批判に属します。他方、「邪馬台国」論争の花形テーマであるその所在地論争において、古田先生は邪馬壹国博多湾岸説を提唱され、その根拠や論証を圧倒的な説得力で詳述されました。同書の出現により、それまでの諸説は完全に論破され、「邪馬台国」論争を異次元の高みへと引き上げました。
 この博多湾岸説の基礎となり、その論証・仮説群の成立を支えた論理構造は「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合でした。すなわち、邪馬壹国への行程記事に見える「部分里程」の合計は「総里程=12000余里」にならなければならないという論理構造です。そして、苦心惨憺された結果、対海国と一大国の半周行程の和(1400里)を発見され、部分里程の総和が総里程(12000余里)となる読解に成功されたのです。博多湾岸説誕生の瞬間でした。
 こうして「部分里程」の合計が「総里程=12000余里」になるという古田説が成立し、そうならない他の説を圧倒する説得力を持ったのです。この論理構造、「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合こそ古田説が際だつ決定的論点だったのです。このように、優れた仮説にはその根幹に強固な論理構造が存在しています。このことを意識し、強固な論理構造(万人が了承する理屈)に依拠した学問研究は優れた仮説を生み出すことができます。
 なお付言すれば、古田先生は博多湾岸説に至るもう一つの仮説「短里説」を成立させています。先の論理構造と短里説が逢着して博多湾岸説は盤石な仮説となりました。短里説の成立だけでも邪馬壹国は北部九州にあったことがわかるのですが、里程記事の新解釈によって博多湾岸説を確固としたものにされたのです。
 また、古田先生と同様の論理構造に立たれて、古田説とはやや異なる有力説を発表されたのが野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)です。倭人伝に見える「倭地を参問するに、(中略)周旋五千余里」の新解釈として、狗邪韓国から侏儒国に至る陸地行程の合計が5000里となることを発見されました。詳細は『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房)の野田利郎「『倭地、周旋五千余里』の解明」をご参照ください。
 最後に、この論理構造を採用された背景には、古田先生の学問精神、すなわち深い思想性があるのですが、そのことは別の機会に論述したいと思います。


第1535話 2017/11/05

古田先生との論争的対話「都城論」(5)

 「難波長柄豊碕宮」についての古田説を説明してきましたが、わたしの副都説の本質は前期難波宮を九州王朝説ではどのように理解し、位置づけるのかにあります。すなわち、7世紀中頃の宮殿としてはけた違いに大規模で(7世紀末に近畿天皇家の藤原宮が完成するまでは日本最大)、日本初の中国風の朝堂院様式の前期難波宮を倭国(九州王朝)の天子の宮殿とするのか、その配下の近畿天皇家(孝徳天皇)の宮殿とするのかという問題です。この問題を明確にするために次の四つの問いを示し、それを最もよく説明できる答えを反対される方々に求めてきました。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 通説と古賀説の「解答例」を記し、難波朝廷博多湾岸説による「解答」も考察してみます。

〔解答例1・通説〕
1.孝徳天皇の難波長柄豊碕宮。
2,大和朝廷が全国を評制統治するための宮殿。
3,前期難波宮と周囲の官衙群、あるいは飛鳥宮。
4.諸説あるが未定。

〔解答例2・古賀説〕
1.九州王朝の天子の宮殿。
2.九州王朝が全国を評制統治するための宮殿(副都)。
3.前期難波宮と周囲の官衙群。前期難波宮焼失後は太宰府(首都)か。
4.前期難波宮。

 難波朝廷博多湾岸説の解答例は次のようになると考えられます。

〔解答例3・難波朝廷博多湾岸説〕
1.『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿。
2.不明。
3.博多湾岸の愛宕神社にあった難波朝廷(別宮)で評制樹立。「奥宮」は太宰府。
4.不明。(古田先生から直接お聞きしたご意見は別に詳述します)

 このような「解答」が難波朝廷博多湾岸説では想定できます。わたしから見ると、それぞれの説に一長一短があり、通説では4が、難波朝廷博多湾岸説では2と4の答えが導き出せないように思われます。わたしの副都説にも説明しにくい弱点があります。その理由は各説の持つ論理構造にあります。(つづく)

 


第1534話 2017/11/04

古田先生との論争的対話「都城論」(4)

 『日本書紀』に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」を、古田先生は博多湾岸にある類似地名(名柄川、豊浜)の存在を根拠に、福岡市西区の愛宕神社にあったとする仮説を発表されたのですが、その仮説はそれだけにとどまることなく、その地が九州王朝の「難波朝廷」であり、評制を施行した宮殿とされました。2008年1月の大阪講演会では次のように述べられています。

 「その中(『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』、古賀注)に『難波長柄豊碕宮』や『難波朝廷』が出てくる。(中略)これが実は博多の宮殿を指している。この『難波朝廷』は九州博多にある九州王朝の宮殿を指している。その時に『評』が造られた。このように考えます。」(『古代に真実を求めて』12集、2009年明石書店刊。50頁)

 『なかった』五号(ミネルヴァ書房、2008年6月)の古田武彦「大化改新批判」にも次のように記されています。

 「(補1)博多湾岸の『難波の長柄の豊碕』は、九州王朝の別宮であり、最高の軍事拠点である。ここにおいて『評制』も樹立された可能性がある。もちろん『九州王朝の評制』である。
 『近畿の(分王朝の)軍』を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この『九州王朝の別宮』に集結していた。その近傍において『入鹿刺殺』の惨劇が行われたこととなろう。」(33頁)

 このように、古田先生は博多湾岸の愛宕神社に「難波朝廷」があり、ここで九州王朝の評制を樹立したとする仮説を発表されたのです。この場合、九州王朝の「難波朝廷」がそこにあったとする史料根拠は『皇太神宮儀式帳』です。それ以外に「難波朝廷で天下立評した」と記した史料はありません。ちなみに『皇太神宮儀式帳』は『日本書紀』の影響を受けた後代史料だから歴史史料として使えないとする論者もあるようですが、史料批判の上で使用された古田先生の学問の方法と異なることは明らかです。わたしも古田先生と同意見で、史料批判により『皇太神宮儀式帳』は歴史史料として使用できると考えています。
 前期難波宮を孝徳の難波長柄豊碕宮とする一元史観の通説に対して、わたしは前期難波宮九州王朝副都説を発表していたのですが、新たに古田先生は「難波長柄豊碕宮=難波朝廷」博多湾岸説とそこでの評制樹立説を提起されたのです。こうして、三つの説が出そろって、わたしと古田先生の長期にわたる「論争」が本格的に始まったのでした。(つづく)


第1533話 2017/11/04

古田先生との論争的対話「都城論」(3)

 『日本書紀』孝徳紀に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」の場所を古田先生は博多湾岸の愛宕神社と講演で話されたのですが、この古田仮説にわたしは疑問をいだいていました。それは次のような理由からでした。

 ①「難波長柄豊碕宮」が造営された7世紀中頃は白村江戦(663)の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が宮殿(太宰府の別宮)を造営するとは考えられない。
 ②7世紀中頃の宮殿遺構が当地からは発見されていない。
 ③近畿天皇家の孝徳が「遷都」したとする摂津難波の宮殿名を、『日本書紀』編者がわざわざ九州王朝の天子の宮殿名に変更して記さなければならない理由がない。本来の名前を記せばよいだけなのだから。

 このようにわたしは考えていました。特に①の理由については、これまで古田先生と散々論じてきたテーマであり、先生が言われてきたこととも矛盾していました。
 わたしと古田先生は、5世紀の「倭の五王」の宮殿がどこにあったのかで論争を続けていました。古田先生は太宰府都府楼跡(大宰府政庁Ⅰ期)とするご意見でしたが、わたしは大宰府政庁Ⅰ期出土の土器編年はとても5世紀までは遡らないし、堀立柱の小規模な遺構であり、倭王の宮殿とは考えられないと反論してきました。そして次のような対話が続きました。

古田「それならどこに王都はあったと考えるのか」
古賀「わかりません」
古田「水城の外か内か、どちらと思うか」
古賀「5世紀段階で九州王朝が水城の外側に王都を造るとは思えません」
古田「だいたいでもよいから、どこにあったと考えるか」
古賀「筑後地方ではないでしょうか」
古田「筑後に王宮の遺跡はあるのか」
古賀「出土していません」
古田「だったらその意見はだめじゃないですか」
古賀「だいたいでもいいから言えと先生がおっしゃったから言ったまでで、まだわかりません」

 およそこのような「論争的」会話が続いたのですが、合意には達しませんでした。しかし「水城の内側(南側)」という点では意見の一致を見ていました。
 こうした論議の経緯がありましたので、古田先生が「難波長柄豊碕宮」を「水城の外側」博多湾岸の愛宕神社とする仮説を出されたことを不思議に思ったものです。しかし、事態は更に「発展」しました。(つづく)


第1532話 2017/11/03

古田先生との論争的対話「都城論」(2)

 10年続いた古田先生との前期難波宮論争でしたが、実はいくつかの重要な合意形成もしてきました。その一つに『日本書紀』孝徳紀に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」についての見解です。
 一元史観の通説では「難波長柄豊碕宮」を法円坂の巨大宮殿遺構前期難波宮としているのですが、古田先生もわたしも地名が異なっているので、そこではないと意見が一致していました。わたしは大阪市北区の長柄・豊崎が地名が一致しており、そこを有力候補とする試案を発表しました。古田先生は博多湾岸の愛宕神社近辺の類似地名「名柄川」「豊浜」などを根拠に当地にあったとする仮説を発表されました。それぞれに根拠(地名の一致、類似)があるため、7世紀中頃の宮殿遺構の有無が決め手になるとわたしは指摘してきました。
 なお、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の本質は、あの国内最大規模の前期難波宮を九州王朝説の立場からどのように理解し位置づけるのかにありますから、孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」の場所の問題は直接には前期難波宮副都説とは関係ありません。この点を誤解された批判や論稿が散見されますので、指摘しておきたいと思います。
 この「難波長柄豊碕宮」について、古田先生は博多湾岸の愛宕神社とされたのですが、2008年1月の大阪市での講演会では次のように話されていました。

 「九州王朝論の独創と孤立について」(古田武彦講演会、主催「古田史学の会」、2008年1月19日)

 福岡市西区に「名柄(ながら)川」「名柄(ながら)浜」「名柄団地」があり、今は地図にないが「名柄(ながら)町」があった。それで「ナガラ」という地名はありうる。(中略)
 それで、わたしがここではないかと考えていたのが、そこの豊浜の「愛宕山」。愛宕神社がある。平地の中にしてはたいへん小高いので、今まで敬遠して上ったことはなかった。(中略)それで上に登ると絶景で、博多湾が目の下に見えている。そして岩で出来ていて、目の下が豊浜。(中略)
 九州王朝の歴史書で書かれていた「難波長柄豊碕宮」はここではないか。(中略)もちろんこの「難波長柄豊碕宮」は、太宰府の紫宸殿とは別のところにあります。別宮のような性質です。以上が「難波長柄豊碕宮」に対する現在のわたしの理解です。
(『古代に真実を求めて』第12集所収。古田史学の会編・明石書店、2009年)

 九州王朝の都城の所在地の変遷について、古田先生と論議を続けていましたので、この古田仮説にわたしは疑問をいだいていました。(つづく)


第1531話 2017/11/02

古田先生との論争的対話「都城論」(1)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』を読んで、わたしのことに触れられた箇所がいくつかあるのですが、中でも次の部分は学問的にも貴重で懐かしく当時のことを思い出しました。古田先生の三回忌も過ぎましたので、ご紹介したいと思います。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。」(223頁)

 ここで書かれているように、古田先生とは様々なテーマで意見交換や学問的討議、ときに激しい「論争的」応答もしてきました。わたしも先生も負けず嫌いな性格でしたので、先生のご自宅や電話で長時間論争したこともありました。ただし、わたしは終始一貫して敬語で応答しました。それは「師弟」間の礼儀ですし、31歳のとき古田史学に入門以来、何よりもわたしは古田先生を尊敬してきたからです。その気持ちは今でもまったく変わりありません(師弟間〔坂本太郎さんと井上光貞さん〕の学問論争のあり方について、古田先生から興味深いお話と関係論文をいただいたことがあるのですが、そのことは別の機会にご紹介します)。
 その「論争的」対話の一つに九州王朝や大和朝廷の都城論がありました。中でも最も長期間の応答が続いたのが、前期難波宮九州王朝副都説についてでした。大阪市中央区法円坂で発見された7世紀中頃の巨大宮殿「前期難波宮」を通説通り近畿天皇家の孝徳の宮殿とすることに疑念を抱いたわたしは、それを九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)を古田先生に話したことがありました。論文発表よりもかなり前のことでした。
 もちろん、古田先生は賛成されませんでしたが、それ以後、古田先生の反対意見に答えるべく10年間にわたり論文を発表し続けました。古田先生以外から出された反対意見に対しても、これでもかこれでもかと執念の研究と発表を続けたのです。そして2014年の八王子セミナーの席上で、ついに古田先生から「検討しなければならない」の一言を得るに至ったのです。もちろん、古田先生がわたしの説に賛成されたわけではありませんが、それまでの「反対意見表明」ではなく、検討すべき仮説の一つとして認めていただいたもので、その日の夜、わたしはうれしくてなかなか眠れませんでした。(つづく)


第1529話 2017/11/01

11月13日改訂しました。

『古田武彦の古代史百問百答』百考(6)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」において、古田先生は白村江戦の敗北後に唐軍の筑紫進駐により、九州王朝(倭国)は太宰府の「紫宸殿」を離れ、伊豫の「紫宸殿」に遷都したとする新説を提起されました。この新説と従来の古田説とは相容れない重要な問題があります。このことについて説明します。
 『日本書紀』天智紀によれば、白村江戦(663)の敗戦後、本格的な唐の筑紫進駐は天智八年是年条(669)に見え、約2000人の唐軍が派遣されたと記されています。天智10年11月条(671)にも2000人の派遣が記されています。これらも含めて天智紀には計5回の唐人「来日」が記されています。従って古田新説に依るならば、九州王朝の天子「斉明」の伊豫遷都は669年以前のこととなります。こうした理解に立つと、従来の古田説と徹底的に矛盾することがあります。それは「庚午年籍」はどこの誰により造籍が命じられたのかという問題です。この点について、従来の古田説が『古田武彦の古代史百問百答』「39 『近江遷都論』について」で次のように記されています。

 「すなわち、問題の『庚午年籍』が、大量に集中出土しているのは、『近江諸国』ではなく、筑紫諸国なのです。
 いわゆる『近江令』なるものに対して、
 (甲)近江令を中心とし、そこで発令されたもの--『通説』
 (乙)筑紫を中心とし、そこから発令されたもの。--これは九州王朝の史実からの『移用(盗用)』である。これがわたしの立場です。」(233頁)

 このように庚午年籍は近江令により造籍されたのではなく、筑紫を中心としてそこから出された筑紫令により造籍されたことになると説明されています。このように従来の古田説では庚午年籍の造籍は九州王朝が筑紫で発令したとされていたのですが、古田新説では庚午年籍が造籍された庚午(670)の年は既に唐軍が筑紫進駐しています。そのとき九州王朝の天子「斉明」は伊豫の紫宸殿に逃げていたとされており、筑紫で造籍を発令することなどできないのです。
 古田先生が指摘されているように、実際は筑紫諸国の庚午年籍は造籍されており、そうすると古田新説によれば筑紫に進駐した唐軍の制圧下で筑紫諸国の庚午年籍が造籍されたという奇妙なことになってしまいます。それほど九州王朝の造籍に協力的で理解のある唐の進駐軍であれば、「斉明」は太宰府を捨てて伊豫に遷都する必要などないからです。
 なお、庚午年籍は全国的規模で造籍されたことが、後代史書の記述から明らかとなっています。造籍事業とは単に各国に造籍を命じるにとどまらず、完成した諸国の戸籍を中央官庁に集め管理保存する必要があります。従って、そうした官僚群を収容する官衙も必要で、「紫宸殿」だけあればよいというものでもありません。ちなみに、670年(庚午年)頃の造籍事業と全国戸籍の管理保存が可能と推定できる宮殿と官衙遺跡は、日本列島内では太宰府、前期難波宮、近江大津宮の存在が知られています。
 古田先生がこの新旧の自説が持つ「庚午年籍の矛盾」に気づかれていたか否かは、今となってはわかりませんが、少なくとも古田新説(白村江戦後の伊豫遷都説)にはこの矛盾の解決が求められるでしょう。
 なお、古田先生が主張された筑紫諸国の庚午年籍の大量「出土」という表記については、「洛中洛外日記」1377話『古田武彦の古代史百問百答』百考(2)で論及しましたので、ご参照ください。


第1528話 2017/10/31

『古田武彦の古代史百問百答』百考(5)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」での次の質問に対する古田先生の回答について今回は説明します。

 「質問 斉明天皇は九州王朝の天子だったといわれますが、『日本書紀』の編者はなぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」

 この質問は『日本書紀』に付記された漢風諡号への「誤解」に基づいているのですが、古田先生はこの「誤解」には触れられず次のように回答されています。

 「斉明は九州王朝の天子です。松山にはサイミョウという名前で地名が残っていると合田さんが言っておられますが、(中略)これをみても斉明は南朝と関係をもった九州王朝の天子だった証拠になります。
 もう一つ重要なことは、これも合田さんによって紹介されましたが、伊豫に紫宸殿という地名が、残っているということです。」
 「我々には紫宸殿は太宰府の場所にあったことは知られてます。しかし、あそこは唐の軍隊が入って来ました。入って来てなおかつ紫宸殿と呼ぶはずがない。白村江以後において太宰府の紫宸殿の地名は消滅したと見なければならない。」
 「飛躍して言うと白村江以前の紫宸殿が太宰府。白村江以後の紫宸殿が伊豫に移っている、ということになるのではないでしょうか。そういう意味でこれをはめ込まなければならなかったという理由があります。」

 この古田先生の回答は「なぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」という質問に直接答えたものではありません。なぜなら九州王朝の天子の紫宸殿の移動があったとしても、「斉明」という九州王朝の天子の名前を、淡海三船が漢風諡号として『日本書紀』斉明紀に付記しなければならない理由の説明にはなっていないからです。
 しかし、7世紀後半における九州王朝史研究の新たな仮説を提示されたもので、従来の古田説と異なっており、興味深いものです。このように従来の自説と異なる新仮説の発表こそ、古田先生らしい果敢に挑戦される学問的姿勢です。
 この古田新説は、白村江戦の敗北後に唐軍の筑紫進駐により、九州王朝(倭国)は太宰府の「紫宸殿」を捨てて伊豫の「紫宸殿」に遷都したとするもので、従来の九州王朝研究には無かった視点です。それではこの新説が従来の古田説とどのように相違し、どのような問題点が発生するのかについて見てみることにします。なお、伊予における字地名「さいみょう」についての考察を「洛中洛外日記」969話「みょう」地名の分布に記していますので、ご参照ください。(つづく)