九州王朝(倭国)一覧

第1368話 2017/04/11

『古田史学会報』139号のご案内

『古田史学会報』139号が発行されましたので、ご紹介します。本号には刮目すべき論文二編が収録されています。西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)の「倭国(九州)年号建元を考える」と山田春廣さんの「『東山道十五国』の比定 -西村論文『五畿七道の謎』の例証-」です。
西村さんの論稿は、『二中歴』年代歴のみに見える最初の九州年号「継躰」を、「善記」年号が建元された時、遡って「追号」されたものとする新仮説です。西村さんからこのアイデアを初めて聞いたとき、わたしは「変なことを言ってるなあ。西村さんらしくもない」と思い、年号の「追号」など聞いたこともないと反論し、論争となりました。しかし、そう考えざるを得ない『二中歴』「善記」細注記事の矛盾や、中国での「追号」例があることなどの説明を聞くうちに、これはすごい仮説かもしれないと思うようになったのです。引き続き、論争や検証が必要ですが、なぜ「継躰」年号が『二中歴』にしか現れず、他の九州年号史料が「善記」を年号の初めとする理由などが、西村説により説明可能となるのです。
山田稿は『日本書紀』景行紀に見える「東山道十五国都督」という記事について、大和朝廷にとっての東山道諸国は8国であり、この記事とは対応していないが、九州王朝の東山道(豊前・山陽道・東山道など)であれば、ちょうど15国になることを明らかにされました。従って景行紀の当該記事は九州王朝史料に基づくもので、記事中に見える「都督」も九州王朝の都督であるとされました。
わたしも、景行紀の「都督」を以前から不思議な記事だと思っていたのですが、わけがわからないまま放置してきました。それを今回山田さんが九州王朝の古代官道「東山道」として、見事な解説で解き明かされたのです。山田稿を受けて、西村さんは「編集後記」で、九州王朝の「東海道」を「豊後・南海道・東海道など」とする見解を示されました。これらの論稿を読み、九州王朝説に基づく多元的古代官道研究の幕開けを予感しました。
このように『古田史学会報』139号は九州王朝研究にとって画期をなすものとなりました。掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』139号の内容
○倭国(九州)年号建元を考える 高松市 西村秀己
○6月18日(日)井上信正氏講演会・「古田史学の会」会員総会のお知らせ
○太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼 京都市 古賀達也
○「東山道十五国」の比定 -西村論文「五畿七道の謎」の例証- 鴨川市 山田春廣
○「多利思北孤」について 京都市 岡下秀男
○書評 倭人とはなにか -漢字から読み解く日本人の源流- 木津市 竹村順弘
○金印と志賀海神社の占い 京都市 古賀達也
○ご紹介 『大知識人坂口安吾』大北恭宏(『飛行船』二〇一六年冬。第二〇号より抜粋) 事務局長 正木 裕
○文字伝来 八尾市 服部静尚
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○「壹」から始める古田史学Ⅹ 倭国通史私案⑤
九州王朝の九州平定-糸島から肥前平定譚
古田史学の会・事務局長 正木裕
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○二〇一七年度 会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己


第1367話 2017/04/09

太宰帥に任じたのは天智か薩夜麻か

 今年三月に発刊した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編・明石書店刊)の巻頭言で、本書中出色の論稿として正木裕さんの「『近江朝年号』の研究」を紹介しました。今日、改めて正木稿を読み、天智称制が六年間続いた後、天智七年になって天皇に即位した理由を九州王朝の天子薩夜麻の帰国との関係で論じられていることを興味深く思いました。
 その後、本書末尾に収録された九州年号史料の『海東諸国記』に次の記事があることに気づきました。

 「天智天皇(中略)元年壬戌〔用白鳳〕七年戊辰始任太宰帥(後略)」

 天智天皇の記事に「初めて太宰帥に任じた」とあるのですが、文脈からは天智天皇が七年(668)にはじめて太宰帥に任じたと読めます。『日本書紀』には見えない記事ですから、九州王朝系史書からの引用記事の可能性が高いのですが、正木説によればこの頃に筑紫君薩夜麻が唐より帰国したとされていますので、もしかすると太宰帥に任じたのは薩夜麻かもしれません。
 従来は『日本書紀』天智七年七月条に見える栗前王を「筑紫率」に任命した記事のことと漠然と理解していましたが、よく読むと官職名も対象者も異なり、別の記事ではないかと考えています。
 不思議な記事ですが、「九州王朝系近江朝廷」という正木説によりどのような理解が可能なのか、今後の研究の進展が期待されます。こうした新たな問題を発見できた『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』は、九州年号のみならず九州王朝史研究にも役立つ優れた一冊ではないでしょうか。多くの古代史ファンに読まれることを願っています。


第1362話 2017/04/02

太宰府条坊の設計「尺」の考察

 「洛中洛外日記」1356話の「九州王朝の大尺と小尺」で紹介した先月の「古田史学の会」関西例会での服部静尚さんが発表された古代の「高麗尺」はなかったとするテーマに触発され、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により北朝尺(30cm弱)を採用したと考えました。その根拠として太宰府条坊区画(約90m=300尺)をあげましたが、大宰府政庁や観世音寺などの北部エリアの新条坊区画が太宰府条坊都市の区画と「尺」単位が微妙に異なる点についてはその事情が不明で、引き続き検討するとしました。
 使用尺が1尺何センチなのかは当時のモノサシの実物が存在していればはっきりするのですが、それ以外では大規模な条坊や条里の距離から推測する方法があります。宮殿や寺院など建築物の場合は、規模が小さく計測誤差や何尺で建築したのかは設計図でもなければ判断できませんので、あまり有効ではありません。
 幸い九州王朝の場合、大規模な太宰府条坊都市から条坊設計に用いられた「尺」が推測できます。太宰府の条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られています。条坊都市成立後にその北側に新たに造営された大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の条坊区画はそれよりもやや短い1尺29.6〜29.7cmが採用されており、この数値は「唐尺」と一致します。
 こうした推定「尺」から、太宰府条坊都市の設計に使用された「尺」は7世紀初頭に北朝の隋からもたらされたものではないかと考えています(とりあえず「隋尺」と呼ぶことにします)。7世紀後半(670年頃か)に造営された政庁Ⅱ期や観世音寺には「唐尺」が用いられたとしてよいと思います。その頃には唐軍が筑紫に進駐していますから、「唐尺」が用いられても不思議ではありません。
 また、6世紀以前は約25cmの「南朝尺」が九州王朝で採用されていたと思うのですが、それを証明できるような文物が存在するか、これから研究します。
 なお、服部さんの報告によれば、仮称「隋尺」(29.9〜30.0cm)に相当する下記のモノサシが国内に現存しています。
○正倉院蔵モノサシ5点(29.6〜30.4cm)


第1360話 2017/03/26

井上信正さんの問題提起

 井上信正さんは太宰府条坊と大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の遺構中心軸がずれていることを発見され、従来は共に8世紀初頭に造営されたと考えられていた条坊都市とその北側に位置する大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は異なる「尺」単位で区画設計されており、条坊都市の方が先に成立したとされました。すなわち、条坊都市は藤原京と同時期の7世紀末、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は従来説通り8世紀初頭の成立とされたのです。
 その暦年との対比は同意できませんが、条坊都市が先に成立していたとする発見は画期的なものと、わたしは高く評価してきました。そしてその優れた洞察力は前畑土塁や水城などの太宰府防衛遺構についても発揮されています。「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録された井上さんの「前畑遺跡の版築土塁の検討と、城壁事例の紹介」は示唆に富んだ好論と紹介しましたが、その中でわたしが最も驚いたのが次の問題提起でした。

 「中国系都城での『羅城』は条坊(京城)を囲む城壁を指すが、7〜9世紀の東アジアには、条坊のさらに外側に全周巡らす版築土塁の構築例は無い。また仮に百済系都城に系譜をもつ『羅城』だったとしても、この中にもうける『居住空間』をこれほど広大な空間で構想した理由・必要性と、後の『居住空間』となる大宰府条坊はそれに比してあまりに狭く、大宰府の拡充に反して街域が縮小された理由も説明されなくてはならない。」(41頁)

 この井上さんの問題提起は次のようなことです。

1.水城や大野城・基肄城・前畑土塁などの版築土塁(羅城)で条坊の外側を囲まれた太宰府のような都城は、7〜9世紀の東アジアには構築例が無い。
2.これら版築土塁等よりも後に造営される太宰府条坊都市の規模よりもはるかに広範囲を囲む理由や必要性が従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
3.8世紀初頭、大宝律令下による地方組織である大宰府(政庁Ⅱ期)が造営されているのに、街域(条坊都市の規模)が縮小していることが従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
4.こうした問題を説明しなければならない。

 こうした井上さんの指摘と問題提起は重要です。すなわち、大和朝廷一元史観では太宰府条坊都市とそれを防衛する巨大施設(水城・大野城・基肄城・土塁)が東アジアに例を見ない様式と規模であることを説明できないとされています。考古学者として鋭く、かつ正直な問題提起です。
 ところがこれらの問題や疑問に答えられるのが九州王朝説なのです。倭国の都城として国内随一の規模を有すのは当然ですし、唐や新羅との戦いに備えて、太宰府都城を防衛する巨大施設が存在する理由も明白です。他方、701年の王朝交代以後は権力の移動により街域が縮小することも不思議ではありません。このように、井上さんの疑問や問題提起に九州王朝説であれば説明可能となるのです。


第1347話 2017/03/04

続・和歌山の神武(鎮西将軍)

 昨日から奈良大学生の日野さん(古田史学の会・会員)と筑前・筑後の史跡調査旅行を続けています。昨日は水城・大宰府政庁跡・観世音寺・大野城山城を見学しました。今日は高良大社・高良山神籠石・大善寺玉垂宮・岩戸山古墳・瀬高のこうやの宮を見学しました。
 わたしが運転するクルマでの会話で、「洛中洛外日記」で紹介した「和歌山の神武(鎮西将軍)」について日野さんから次のような疑問が出されました。鎮西将軍とは神武のことではなく、数次にわたる九州王朝からの東征軍の将軍の一人ではないかという疑問です。『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」の次の記事が神武とほ別の東征軍の将軍ではないかと指摘されたのです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 実はわたしも気になっている部分でした。『日本書紀』成立以後であれば「鎮西将軍」などという名前ではなく神武の伝承としてそのまま伝えればよいのに、何故「鎮西将軍」などという表記で伝承したのかが不明でした。通常、古代の伝承は権威付けのため大和の天皇と結びつけて修飾・改変されることが多いのですが、この和歌山での伝承は敢えて神武と結びつけることなく「鎮西将軍」という表現で伝承されており、そうした理由があるはずです。そのような問題意識を持っていたので、日野さんのご指摘にはうなづけるものがありました。
 この和歌山の「鎮西将軍」伝承については、日野さんのご意見も考慮して引き続き検討したいと思います。


第1346話 2017/03/02

和歌山の神武(鎮西将軍)

 久しぶりの和歌山出張ということもあり、和歌山市の古代史で多元史観により考察すべきテーマがないか、ちょっとだけ調査してみました。すると、面白い伝承(史料)の存在に気づきましたのでご紹介します。
 『延喜式』神名帳にも記された当地の古い神社に「朝椋神社」(あさくらのじんじゃ)があるのですが、『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」に次のような記事があるとのことです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 ちなみに、和歌山県立図書館所蔵『紀州名勝志』写本には「朝椋神社伝」は記載されていませんでした。どの写本にあるのか調査中です。
 いつの頃かどこの人かは知らないが、上古に「鎮西将軍」という人物が攻めてきて最も武勲があったので、この神社を建造したという不思議な記録です。何らかの当地の伝承が記されたものと思われますが、「鎮西将軍」とは「九州の軍団の長」を意味しますから、この地にそのような人物が戦功をあげたというのであれば、その第一候補はやはり神武ではないでしょうか。というよりも、それ以外の人物や伝承をわたしは知りません。
 記紀によれば神武兄弟は河内湾に突入するものの敗北し、兄の五瀬命は戦死します。神武は兄を和歌山の竃山に埋葬し、紀伊半島南端から上陸し、紀伊半島を山越えして奈良に侵入したと記載されていますから、和歌山市付近まで来たことになります。その後の神武の記事は天孫降臨時のニニギ等の伝承が盗用されているとわたしは考えていますから、神武がどのルートを通って大和に進入したのかは不明です。しかし、兄の亡骸を竃山に埋葬できたのですから、和歌山市近辺は制圧していた可能性が高いように思われます。敵地に兄を埋葬し、その地を離れたとは考えにくいからです。
 そうすると神武こそ当地で戦功をあげた「鎮西将軍」として伝承されるにふさわしい人物だと思われるのですが、いかがでしょうか。もしこの理解が正しければ、神武が大和に侵入するルートとして紀ノ川沿いを遡行したと考えてみたいところです。いずれにしましても、現段階では調査を始めたばかりですので、間違っているかもしれませんが、興味深い伝承ですので、ご紹介することにしました。

《補筆》本稿に先行する出色の論文があります。義本満さんの「紀ノ川の神武」(『『市民の古代』』第3集、1981年)です。神武は和歌山で戦い、紀ノ川を遡行して大和に突入したとする先行説です。「古田史学の会」HPに掲載されていますので、是非、ご一読下さい。


第1341話 2017/02/23

続・太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼

 従来の「実証」に基づいて成立した飛鳥編年により太宰府の土器や遺構(政庁・条坊など)は編年されていました。例えば政庁Ⅱ期や条坊都市は8世紀初頭以降の造営とされてきました。大和朝廷の大宝律令下の地方組織「大宰府」に相当するとされてきたわけです。
 そられ旧「実証」に代えて、更に精密な調査に基づく新「実証」により太宰府編年の修正をもたらした画期的な研究が井上信正さん(太宰府市教育委員会)によりなされたことは、これまで繰り返し説明してきたところです。井上さんが発見された新「実証」とは、太宰府条坊都市の北側にある大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺と南側に広がる条坊とは異なる尺単位で設計されており、政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立の方が早いということを考古学的調査により明らかにされたことです。素晴らしい発見と言わざるを得ません。
 この発見により、井上さんは大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺の成立を従来通り8世紀初頭、条坊都市は藤原京と同時期がやや早い7世紀末頃とされました。その結果、太宰府は大和朝廷の都である藤原京と同時期に造営された日本最古の条坊都市となったのです。その後、前期難波宮の時代に条坊都市難波京造営の可能性が高まってきており、正確には太宰府は国内二番目の条坊都市となりますが、この点については別途詳述します。
 しかし、この井上さんによる新「実証」とそれに基づく修正太宰府編年も、実は田村さんの次の疑問に対して答えることができません。

 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁Ⅰ期の天智期:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」(田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和62年刊。)

 井上さんの新「実証」による修正太宰府編年によっても、太宰府条坊都市の成立が8世紀初頭から7世紀末頃になっただけであり、田村さんが疑問とされたように、やはり天智期(660〜670年頃)に水城や大野城で護るにふさわしい宮殿や都市は太宰府には存在しないことになるのです。しかも、昨年には筑紫野市から羅城跡と思われる大規模土塁が発見されたことにより、太宰府条坊都市の成立に対して、現地の考古学者は飛鳥編年による従来説ではますます説明困難となっているのです。
 やはり九州王朝説に基づく「論証」を優先させ、これまでの「実証」やそれに基づく太宰府編年を根底から見直す必要があるのです。まさに「論証」の出番です。これこそ「学問は実証よりも論証を重んじる」ということに他なりません。


第1340話 2017/02/22

太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の具体例として、太宰府編年における実証と論証というテーマで説明したいと思います。
 従来、大宰府政庁の編年はⅠ期の堀立柱の小規模建物が天智期、Ⅱ期の朝堂院様式の礎石造りの政庁と条坊都市が8世紀初頭の大宝律令下の「大宰府」とされてきました。その根拠は出土土器等の飛鳥編年に基づいたものです。飛鳥編年とは畿内の出土土器や遺構(考古学的出土事実:実証)を『日本書紀』の記事(史料根拠:実証)の暦年にリンクさせて成立した土器編年です。これは現代の考古学編年における「不動の通念」とされているものです。この「実証」に基づいた飛鳥編年に準拠して、太宰府出土土器等(考古学的事実:実証)が編年され、先の大宰府政庁編年が成立しているのです。これらの「実証」からは「太宰府は九州王朝の都」という古田説が成立不可能であることをご理解いただけるでしょう。
 このような「実証主義」に基づいた太宰府編年に根源的な疑問を呈した碩学がおられました。九州歴史学の重鎮、田村圓澄さん(1917-2013)です。田村さんは太宰府編年に対して率直に次のような根源的疑問を呈されていました。

 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁Ⅰ期の天智期:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」(田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和62年刊。)

 大宰府政庁Ⅰ期の小規模な堀立柱建物を防衛するために大規模な防衛施設である水城や大野城(『日本書紀』によれば天智期の造営:実証)が必要であったとは思えないという、きわめて理性的な疑問を呈されたのです。歴史学者の慧眼というべきでしょう。しかし、田村さんはこの疑問を解明すべく、新たな論証へは進まれなかったようです。大和朝廷一元史観の限界を田村さんでも越えられなかったのです。
 この疑問に対して、九州王朝説に立てば次のような論理展開が可能となります。

1.『日本書紀』の記述を「是」とすれば、天智期に水城や大野城など国内最大規模の防衛施設が造営されたこととなり、それにふさわしい防衛すべき宮殿や重要施設が既に当地にあったと考えざるを得ない。
2.それほどの宮殿には当地を代表する権力者がいたと考えざるを得ない。
3.『日本書紀』にはそうした筑紫の権力者の存在が記されていない。従って、大和朝廷側の権力者ではない。
4.そうした筑紫の権力者の存在は、古田武彦氏が提唱した九州王朝しかない。
5.従って、太宰府には日本列島最大規模の巨大防衛施設で守るべき九州王朝の王都があったこととなる。
6.その時期(7世紀後半頃)の宮殿遺構は通説の大宰府政庁編年では存在しない。
7.従って、通説の太宰府編年は間違っている可能性が高い。

 このように論理展開でき、この「論証」は従来の「実証」と対立するのですが、「学問は実証よりも論証を重んじる」という立場に立てば、この論証結果に従わざるを得ません。「論理の導くところへ行こう。たとえそれがいずこに至ろうとも。」です。こうして「太宰府は九州王朝の都」という仮説へと論証は進むのですが、もちろん「太宰府は九州王朝の都」などと記した「実証」などありません。わたしが古代史研究を進める上で、この論証と実証の関係性こそ古田史学を正しく理解し継承するためにどうしても避けて通れない課題でした。
 ちなみに、この太宰府九州王朝王都説の論証を試みたのが拙稿「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」です。「古田史学の会」HPに収録されていますのでご覧下さい。ただ、この論稿は2002年に発表したもので、現在の研究水準から見ると不十分かつ不正確です。しかし、初歩的ではありますが大宰府編年に対する疑問に真正面から挑戦したものであり、研究史的意義はあると思っています。
 なお付言しますと、わたしの前期難波宮九州王朝副都説も基本的に同様の論理構造と学問の方法からなっています。この点については別の機会に改めて詳述します。(つづく)


第1338話 2017/02/19

住吉神は「筑紫の神」「軍神」

 昨日の「古田史学の会」関西例会では新視点からの研究報告が続き、触発されました。
 服部さんの報告では、倭国(九州王朝)が中国南朝(梁)の冊封体制から離脱するときの国際情勢(百済や北魏との関係)などについて論議が深まりました。
 岡下さんからは、「多利思北孤」は自署名ではなく隋側が選んだ文字ではないかとされました。その理由として、「北孤」の字義が天子にふさわしいものではないとされ、論争が巻き起こりました。
 原さんからは、住吉大社の祭神は「筑紫の神」「軍神」とされていることから、九州王朝による「常備軍」としての性格を持った神社だったのではないかとする意表を突く仮説が報告されました。また、住吉神社の祭神を祖と伝える氏族がないという調査結果なども示され、とても興味深いものでした。
 正木さんからは天孫降臨説話において「空白」となっている筑前や肥前、糸島、唐津の説話が神武記紀に盗用されているとして、その詳細を展開されました。
 発表者へは『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 2月例会の発表は次の通りでした。

〔2月度関西例会の内容〕
①『別府の風土と人の歩み』紹介(奈良市・水野孝夫)
②倭国が冊封から離脱した理由(八尾市・服部静尚)
③魏志倭人伝の中の30カ国の考察(茨木市・満田正賢)
④原伝承上の、崇神帝・初国知らす(大阪市・西井健一郎)
⑤「金印」と志賀海神社の占い(京都市・古賀達也)
⑥「多利思北孤」について(京都市・岡下英男)
⑦住吉神社は常備軍で神領は駐屯地(2)・住吉大社での埴使の神事(2)(奈良市・原幸子)
⑧九州王朝の九州平定 筑紫糸島・肥前平定(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 1/22新春講演会の報告・『古田史学会報』投稿要請・下山昌孝氏(多元的古代研究会・元副会長)、荒金卓也氏(九州古代史の会・元代表)の訃報・文芸誌『飛行船』の大北恭宏氏「大知識人・坂口安吾」紹介・2/16 「大阪さくら会」の服部氏講演報告・2/25 久留米大学で正木氏、服部氏が講演・2/22NHKカルチャーセンターで谷本氏が講義・2/23「古代史セッション」(森ノ宮)の案内(大阪夏の陣はなぜおこったか、笠谷和比古氏)・6/18「古田史学の会」会員総会と講演会(エルおおさか)・「古田史学の会」関西例会会場確保の件・久留米市で「連玉(れんだま)」(弥生時代後期)が出土(犬塚幹夫氏からの情報)・その他


第1339話 2017/02/20

住吉大社「九州王朝常備軍」説と学問研究

 2月の「古田史学の会」関西例会において、原幸子さんから住吉大社は九州王朝の「常備軍」とする仮説が発表されました。わたしも意表を突かれた思いでお聞きしましたが、正確に言うならばまだ作業仮説(思いつき)の段階に留まっている研究です。しかし、わたしは学問研究において、こうしたアイデアや作業仮説が自由に発表され、また自由に論争できる環境こそ「古田史学の会」らしい真の学問研究の場だと確信しています。
 こうした作業仮説の発表に対して、「実証されていない」とか、「古田説と異なる」という「批判」が出されるかもしれませんが、それは学問的態度ではありません。古田先生ご自身も古墳に埋納された多量の武器や甲冑に対して、これを埋納ではなく、古墳を武器庫(軍事施設)としていたのではないかとする作業仮説を発表されたことがありました。この仮説について、わたしは賛成できませんでしたが(地下の石室中では腐食や腐敗が避けられないため)、学問研究ではこうした意見を自由に発表しあえることが重要であり、仮に間違っていたとしても、学問研究の進展に役立つことができることを古田先生から学びました。
 今回の原さんの仮説は『住吉大社神代記』などを根拠にされたもので、「住吉大社は軍事施設」だったと直接記された史料(実証)があるわけではありません。これは「太宰府は九州王朝の都」だと直接記された史料(実証)がないのと同様です。
 しかし、難波に古くから九州王朝の軍事組織があったとするアイデアは九州王朝説の立場からすれば必ずしも不当な考えではありません。また「難波吉士」という不思議な「職名」が古代史料に散見することも、原さんの仮説により説明しやすくなりそうです。この仮説の当否は今後の検討・論争に委ねなければなりませんが、学問研究にとって有益な新視点をもたらす仮説だとわたしは評価します。


第1337話 2017/02/14

金印と志賀海神社の占い

 志賀島の金印「漢委奴国王」が本来は糸島の細石神社にあったものだったとする伝承の存在を古田先生が紹介されています。そのこととは直接関係はありませんが、志賀島の志賀海神社が金印を神寳にしようとしていたという記録の存在を知りました。
 本年1月、「九州古代史の会」主催の井上信正さんの講演を聴きに福岡市に行ったとき、早く会場についたので会場近くの図書館で時間待ちをしました。そのおり、福岡地方史研究会の『会報』第24号(昭和60年4月)に掲載されていた塩屋勝利さんの「『漢委奴国王』金印をめぐる諸問題(上)」が眼に留まりました。天明4年(1784)2月に志賀島村叶の崎から発見された金印の発見当時の史料紹介と考察ですが、今まで知らなかったことが記されており、興味深く拝読しました。
 中でも、志賀島の志賀海神社が、発見された金印を同社の神寳にしようと占ったが、良い結果が出なかったので断念し、黒田藩に提出したことが記されていました。志賀海神社宮司阿曇家本『筑前国続風土記附録』にみえる次の記事です。

「明神の境地より得たる故、神寳とせん事を占ひしに神鬮下らざる事再三也といふ。故に府呈に呈けしとなり」 *古賀注 「府呈」の「呈」は衍字か。

 わたしの持っている『筑前国続風土記附録』活字本にはこの記事が見つかりませんので、志賀海神社宮司阿曇家本にのみ付記された記事で、志賀海神社内の記録に基づいているのかもしれません。いずれにしても志賀海神社は金印が志賀島から出土したと認識していることがわかります。
 金印を発見したとされる志賀島村の百姓甚兵衛については記録がなく不審とされてきましたが、寛政二年(1790)の『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳』中冊に同名の「甚兵衛」が見えるとのこと。さらに『粕屋郡志』(粕屋郡役所編、1923年刊)には、「村の農坂本甚兵衛」と姓名が記されていることが紹介されています。
 そして、甚兵衛のその後の消息が不明になった理由として、地元の「甚兵衛火事」伝承と関係があるのではないかとされています。伝承では「甚兵衛火事」は1811年(文化8年)とされているが、藩の記録では見あたらず、1809年(文化6)の火災のことで、甚兵衛は火元の責任を取って志賀島を去ったと思われるとされています。少なくとも地元に「甚兵衛」と呼ばれる人物がいた証拠にはなりそうで、興味深い伝承です。
 金印は志賀島で発見されたのではないとする意見の根拠の一つとして、志賀島村叶の崎付近には弥生時代の遺跡が見つからないということが指摘されています。しかし、金印が弥生時代に埋納されたという根拠もなく、歴代の倭王に相続された可能性も考えられ、そうであれば弥生時代の遺跡の存在の有無は関係ありません。中国からもらった金印が倭王一代のみで埋納されるとするのも、やや違和感があります。金印について、引き続き調査検討したいと思います。

(追記)本稿執筆の夜、古田先生に本稿の内容を報告する夢を見ました。先生がうれしそうにメモを取られているところで眼が覚めました。


第1326話 2017/01/22

新春講演会でのご挨拶

 「古田史学の会」を代表し、新年のご挨拶を申し上げます。昨年、わたしたちは友好団体と共に、この大阪府立大学なんばサテライト(i-siteなんば)で古田先生の追悼講演会を執り行いました。その後、追悼論文集『古田武彦は死なず』(明石書店)、『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)を上梓しました。この出版記念講演会を東京家政学院大学千代田キャンパスや久留米大学福岡サテライトをお借りして開催しました。

 今年は九州年号の「継躰」が517年に建元されてから1500年に当たります。報道によれば今上陛下の御譲位に伴い、数年後には「平成」が改元されるとのことです。これからわが国では年号や改元が注目されることでしょう。
 「古田史学の会」は『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』を明石書店から今春発行します。『続日本紀』に記された大和朝廷にとって初めての年号「大寶建元」記事と『日本書紀』に記された九州年号の「大化・白雉・朱鳥の改元」記事などに焦点を当てた研究論文などが収録されています。「平成」の改元にあたりタイムリーな一冊となることでしょう。

 考古学の分野でも太宰府条坊都市の成立が「日本最古」とする井上信正説(太宰府市教育委員会)が注目されています。その太宰府を防衛する羅城と思われる巨大土塁遺跡も昨年末に筑紫野市で発見されました。国内最大規模の大野城山城や基肄城・水城など、太宰府は日本列島内最大の巨大防衛施設で守られており、九州王朝(倭国)の首都に相応しいことが一層明確となりました。
 他方、7世紀の同時代史料である『隋書』には倭国が北部九州にあることを示唆する記述があり、阿蘇山の噴火の様子まで記録しています。その次の『旧唐書』には倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)が別国(日本は倭の別種)として表記されており、その王朝交代が8世紀初頭に起こったことをうかがわせる記述があります。これは8世紀初頭における九州年号の終了と大和朝廷の年号開始(大寶建元、701年)や、出土木簡に記された地方行政単位の「評」から「郡」への全国一斉変化と時期的にピッタリと対応しています。
 このように古田先生の多元史観・九州王朝説は日本古代史における最有力説といわざるをえません。他方、わたしたち古田学派には文献史学の研究者が多いこともあり、考古学や自然科学の研究成果に対しての知見が十分とはいえません。わたしたちは、そうした学問分野に謙虚に学ぶ姿勢が必要です。
 そのため本日の講演会には大阪の考古学の第一人者であられる大阪府文化財センターの江浦先生と理化学的年代測定の新分野を切り開かれた総合地球環境学研究所(地球研、京都市)の中塚先生をお招きしました。お二方のご講演をとても楽しみにしています。

 本日は、古田史学の会・東海の竹内会長、古田史学の会・四国の合田事務局長にもお越しいただいています。関東からは「古田史学の会」関東地区窓口担当の冨川ケイ子さん、東京古田会の平松健さんもお見えになっています。遠くからお越しいただき、ありがとうございます。
 昨日開催した「古田史学の会」役員会では、古田史学に基づいた合田洋一さんの論文が愛媛県内最大の歴史研究会で注目されていることなどが報告されました。
 「古田史学の会・北海道」では古田先生の著書の図書館への寄贈や今井会長による古田説普及のセッションを千歳市で開催されています。このセッションは大阪で正木事務局長が続けられてきた「誰も知らなかった古代史」セッションが北の大地へ波及したものです。
 「古田史学の会・仙台」では東北という地の利を活かして和田家文書研究が続けられています。
 「古田史学の会・東海」では、名古屋市で毎年開催される愛知サマーセミナーに参画され、愛知県下の高校生への古田史学普及活動を続けられています。
 「古田史学の会・関西」では活発な例会活動・遺跡巡りが催され、そうした活動は「古田史学の会」ホームページ(新古代学の扉)やfacebookを通じて全国の古代史ファンから注目されているところです。

 昨年からは、福岡市を拠点に活動されている「九州古代史の会」とも友好団体として交流をスタートしました。また6〜7世紀の古代寺院(国分寺)の編年を再検討するため、多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げ、主に関東の研究者(肥沼孝治さんら)たちが全国の国分寺遺跡の調査研究を開始しています。その成果はインターネットで見ることができます。
 福岡県の久留米大学からは今年も正木事務局長や服部編集長、わたしへ公開講座での講義要請をいただいています。また江田船山古墳で有名な熊本県和水町では、当地から九州年号史料が発見されたことをご縁に、わたしや正木さんが毎年講演をさせていただいています。

 最後に、フランス・パリ在住の会員、奥中清二さんが昨年秋、一時帰国され、そのとき記念に絵画をいただきました。奥中さんはパリ市公認の画家でモンマルトルのアトリエで絵をかいておられます。長年の古田ファンで、邪馬壹国の「壹」の字をモチーフにした抽象画をいただきました。額に入れ、しかるべきところで保管展示したいと思います。

 「古田史学の会」は全国の古田学派の研究者、古田ファンの皆様と手を携えて今年も前進してまいります。会員の皆様の力強いご指導とご協力をお願い申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。